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衣擦れの音に目が覚めて、今の季節に有り得ない室温に一気に覚醒した。
暖房をつけたまま寝たこと、自室ではなく客間に布団を敷いたこと、またその理由を思い出して、部屋の中央に設えられた、蚊帳と布団でできた鳥の巣に目を向ける。
ほとほとと、蚊帳の内から叩かれて不規則に撓んでいるため、中の様子がよく分からない。
ただ、蚊帳を叩く手の大きさも、その力も大人のものではなかった。
一晩経っても戻らなかったか、と落胆したところで、蚊帳に体当たりしたらしい子供が撓んだ蚊帳と布団の間にできた隙間に落ち込んだ。
昨日は積み上げた布団の重量できつく張られた蚊帳に跳ね返されていたが、隙間に落下した子供はばたばたともがいて布団の下に敷きこまれた蚊帳を引き出し、出口を確保した。
緑色の布を捲り上げて這い出てきた子供が、エンデヴァーと目を合わせて硬直する。
「……ホークス?」
まず、目が変わった。
色は同じ、ヒーロー名の猛禽類を思わせる琥珀色で、名に相応しく鋭さが増していた。
髪の色はエンデヴァーが知る、ブロンドと言うには少しくすんだ色に変わった。
手足が伸びて、少し人らしい形に近づいた気がしたが、同時に緋色の翼も大きく成長していたので生まれたての雛鳥を脱しただけのことだ。
総合すると、少し成長していた。
年の頃は四、五歳だろう、どこもかしこも丸みを帯びていた昨日と異なり、痩せぎすの手足がシャツから伸びていた。
剥き出しの手足を目にして、昨夜、危うく凍死させかけたことを思い出し、寒いのではないかと思い至る。暖房は入っているが、轟家の人間の考える適温はこの子供には適用されない。
何か羽織るものを、と身動きかけたエンデヴァーに対し、子供がびくりと身をすくませた。
「あー、ホークス……」
ヒーローとして活動するための名で呼びかけても分からないのではないか、と途中で気づく。全く馴染みがない本名を思い出そうとして顰め面になったらしい、後ずさった子供の背が布団の山にぶつかって、柔らかな音を立てた。
昨日は警戒心というものがないのかと思うような懐きようだったが、ある程度の自我が確立すればこんなものである。小さな子供に泣かれやすいという点では、ヒーローとして適性の低いエンデヴァーは身動きを控えて、ホークスの次の行動を待った。
記憶がどうなっているのかが不明だが、昨日の態度や今の様子からして、大人の時の意識はないだろう。突然見知らぬ部屋で目が覚めて、同じ部屋に顔の半分に傷がある大男がいた、という状況に、すぐに泣きだされなかっただけでも僥倖だ。
泣きもせず、昨日のように笑いかけてくるわけでもなく、警戒心の滲む顔で部屋を見回していた子供は、やがてゆっくりと立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。
「おはようございます」
「…………おはよう」
礼儀正しいのか、豪胆なのかの判断がつかず、平坦な声で告げられた挨拶にひとまず応じる。大きく甲高い声で喋るものと思っていたので、ぼそりとした声に違和感があった。
朝の挨拶の後、しばらくお互いに無言のまま見つめ合い、やがて少し困った顔で子供が沈黙を破った。
「オレ、何ばすりゃよか?」
「……それは、どういう意味だ?」
強い訛りに一瞬意味が取れなかったが、何をすればよいのか、と言ったのだと理解して、エンデヴァーは渋面になった。
ここはどこなのか、目の前の男は誰なのか、どうして自分はここにいるのか、そういった、当たり前の質問を全て飛ばしてするべきことを問うのは、尋常ではない。
その表情は乏しく、喜怒哀楽のどれも示していなかったが、中途半端に開いた剛翼は警戒を解いていない。エンデヴァーを怪しんではいるが、それを表面に出さずに、いつでも攻撃に移れる体勢を取っていることに気付いて、これは何なのだと混乱する。
どんな環境で育ったらこんな子供になるのか、眉間に深く皺を刻んだエンデヴァーに、緋色の翼が僅かに膨らむ。
「お父さん、起きてる? 開けるよ?」
障子の向こうから娘の声がかかって、今はまずいと制する前に、障子戸が横に滑った。
「ホークスさんの様子……、やだ! 大きくなってる、可愛い……!」
父親と相対していた子供の姿を見て、冬美が声を高めた瞬間、びくりと肩を揺らした少年の背から赤い影が走った。
「冬美!」
伸ばした手から発した炎で娘に向かって撃ち出された剛翼を焼き尽くし、火炎を身に纏わせて子供と娘の間に割って入る。
「お前は下がっていろ……!」
立ちすくんだ娘に離れるように命じ、昨日よりも確実に個性の威力が増している子供を見据えるが、驚いたような顔をした子供は既に戦意を喪失していた。
「エンデヴァー?」
ヒーロー名で呼びかけられ、名乗ればよかったのだと初めて気づいた。ヒーローコスチュームでないため信用されないかと思っていたが、炎の個性を見てすぐにそれと察したらしい。
腕の炎を収め、代わりに顔にマスク代わりに炎を纏わせると、彼が知るテレビの中のヒーローと合致したようで、警戒を解いて近づいてくる。翼が完全に畳まれているのでそれと分かるが、表情はやはり乏しいままで、しゃがみこんで子供と目を合わせてやると、無言で顔に向かって指を突き付け、まっすぐに線を引くように指を下す。
「ああ、傷か? 少し前に怪我をしたんだ」
この傷がついたのは、彼と初めてチームアップをした事件の際なのだが、今のホークスには分からないことだ。
燃える顔に向かって手が伸びてきて、これは乳幼児の頃と変わらないらしい、と呆れながら左半面の火を止めて好きに触れさせる。
「いたか?」
問われた言葉の意味が一瞬理解できなかったが、彼の本拠地の九州の訛りで、痛いかと問われているのだと気づいた。
「いや、痛くない」
硬い表情が僅かに緩んで、安堵したらしいと知る。
大人の姿の時のよく囀る口と、わざとらしいほどにころころ変わる表情を知っているので、違和感が先立つが、注意深く見ていれば意志疎通はむしろ容易だ。
いかに普段の青年が難解極まりないか、改めて実感する。
「君は、いくつだ?」
問うと、開いた左手に、右手で一本人差し指が足される。
「六歳か。小学校は?」
ふるりと横に頭が振られる。
就学前の六歳ということだが、それよりも随分幼く見える。昨日、小児科医が空を飛べる幼児は身体の発達が遅いことが多いと言っていたが、それだろうか。代わりによく喋るとも聞いて、妙に納得したというのに、これはひどく無口だ。
こちらの言葉はきちんと理解して適切な返答をしているから、言語面での発達が遅れているわけではないようだが。
ひとまず、昨日の病院に連れて行って、かけられた個性の状態が変化したことを報告し、この子供に検査を受けさせ、個性をかけた少女の様子を確認した方が良いだろう。
言葉が通じるようになったし、おとなしい雰囲気なので、昨日のように自由気ままに個性を振り回すこともなさそうだ。
「ホー……、君は事件に巻き込まれて、一時的に俺が保護している。この後、病院に行って検査をしてもらう。いいな?」
子供向けに柔らかい口調を心掛けても、どうしても相手の元の姿を知っているために、ところどころで無理が出たが、子供は反発も怯えも見せずうなずいて、一つくしゃみをした。
「ごめんね、寒かったよね」
開け放していた障子を閉めた冬美が、蚊帳を捲って布団の山の上からショールを引っ張り出して、ホークスに巻き付ける。
「何かあたたかい服着ようね。まず、顔と手を洗って、朝ごはん食べようか?」
目線を合わせて笑いかけた冬美を、瞬きもせずに見つめたホークスが、一瞬エンデヴァーに目を向けてから、口を開いた。
「先生、さっきはごめんなさい」
「え? ああ、個性を使ったこと? 大丈夫、私が驚かせちゃったんだよね、ごめんね」
大きく首を振ってみせてから、冬美はその首を傾げた。
「どうして私のことを先生って呼ぶの?」
職業柄、つい疑問を覚えずに応じたようだが、初対面の幼児が彼女が学校教師と知るはずがない。
「……お医者さんかて思うた」
その回答に、一拍おいて冬美は笑顔で応じた。
「そうかー。あのね、私は小学校の先生なの」
「学校の先生?」
「そう。それから、エンデヴァーの娘で、冬美っていいます」
「っ!?」
ヒーローに家族がいると考えたことがなかったのかもしれない。これまでで一番驚いた顔をして振り返ってくるので、うなずいてみせると、納得はしていないが一応飲み込んだ顔でまた冬美に向き直る。
「ふゆみさん」
さん、の発音が舌足らずなのか訛りなのか、しゃん、に近く、少しくすぐったそうに娘が笑う。
「その方が呼びやすければ、先生でもいいです」
「ふゆみ先生」
こくり、とうなずいたホークスに、改めて手を差し伸べる。
「それじゃあ、顔洗ってご飯食べようか?」
少し迷った顔をしてから、その手を取ろうとした子供が、何かに気付いたように己の手を見つめた。
空の両手を見下ろし、次にきょろきょろと室内を見回し、軽く羽ばたいて布団の山の上に戻る様を見れば、何かを探しているのは分かるが。
昨日、彼が身に着けていた私物はエンデヴァーが預かっている。個人情報の塊の携帯電話や、ヒーロースーツは管理しておく必要があったからだが、少し成長したとは言え、今の年齢の彼に返すわけにもいかない。
また、その中に、今のホークスが探しているものは含まれていないだろう。
「ホークス、ここに貴様の物は何もない。探すだけ無駄だ」
布団の隙間に潜りこもうとする少年を抱き取って制すると、横から娘がじろりと睨んで声に出さずに口を開閉させた。
言い方、と口の動きを読み取り、また悄然とうなだれた翼に気づいて、失敗を悟る。
「あー、何を探していた?」
決まり悪く問うと、少し困った顔で胸の前で両手で小さめの丸を作ったが、これまで特に支障なかったジェスチャーでの意思疎通に不具合が生じた。
この頃の彼が何を持っていたかなど知りようがないので、答えを類推することができない。
「……えんでばー」
「何だ?」
呼びかけに応じると、首が横に振られる。
「エンデヴァーじゃなか」
「……じゃあ、どういう意味だ?」
「えんでばーはエンデヴァーやなかって、知っとうばってん、オレのやもん」
発言内容が理解できなかったのは、訛りの強さと子供の論理の難解さが相乗効果をもたらしたためである。己の百倍は児童の心理に通じている娘に目を向けるが、冬美も今のは無理だ、と首を横に振る。
大人のやりとりを見上げて、どう理解したのか、翼を軽くはためかせてエンデヴァーの手から抜け出したホークスが、畳の上に足を着けた。
「だいじょうぶ」
「いいの? 大事なものじゃないの?」
冬美の問いに、大きく口角が下がったが、泣きはしなかった。
「……エンデヴァーが助けにきてくれたけん、もうだいじょうぶ」
それを聞いた瞬間、娘の笑顔が強張ったのを目にする。
「そう、良かったね。先にお洋服を持ってくるから、ちょっとここで待っててくれる? 寒かったらお布団に入っててね」
笑い直した娘が、目線で父親を呼ぶ。
その背に続いて部屋の外に出て、冷えた廊下を無言で進む。
「お父さん、あの子は……、何?」
「ホークスだ」
十分に距離を取ってから振り返った冬美に、端的に応じる。
「お父さんが、助けに来てくれたって、言った」
「聞いた」
「小さな子が、知らない場所で目が覚めて、ヒーローがいて、医者がいて、助けられたんだ、って当たり前に考えるって、どういうこと? 親のことも、家に帰れるかも、一言も聞かない」
「あれの第一声は、ヒーローとも認識していない俺に、丁寧な朝の挨拶だった。隙を見せたら、個性で叩きのめすつもりだったようだが」
「昨日は、あんなに笑う子だった」
「随分と様変わりしたな」
「お父さん!」
声を高めた娘に、一つ嘆息する。
何を言いたいかは分かるが、意味がない。
「あれは、ホークスだ。本当はお前と同じ歳の、ランキング二位のプロヒーローだ」
断じたエンデヴァーに、娘がたじろぐ。
「あれが、あの歳の頃にどんな環境にあったか、虐待されていたかは知らん。あれがそんなことを口にしたことは一度もない。その上で、あの子供はホークスというヒーローになった。それが現実だ」
あの子供は幻のようなもので、彼が本当に子供であったのは十五年以上も前のことだ。
「今、義憤に駆られて、あれを保護しようとしたところで、何にもならん。もう過去のことだ」
「何も、できないの?」
揺れた娘の声に、できないと断じることは躊躇われた。
幼い頃、彼女がヒーローになりたいと夢を語った際には、無理だと切り捨てた。素質がない、向いていない、と一刀両断して、その後彼女は二度とヒーローになりたいなどとは口にせず、大人になって教職の道を選んだ。
その選択について何も問うたことはないし、彼女も何も言わない。
「……せめて、今は優しくしてやれ」
子供を守りたがる子供は、泣きそうな顔で小さくうなずいた。
事務所に子供を抱いて入っていくと、挨拶に顔を上げた所員達が揃って顔をひきつらせた。
「エンデヴァーさん、あの、その子は……」
「迷子ですか?」
自分達の所長が迷子を保護するなどありえないという顔をしている部下達をじろりと睨めつけてから、エンデヴァーはコートの中に包みこんでいた子供を引っ張り出して、入口のカウンターの上に置いた。
「ホークスだ」
上司の発言が一瞬理解できなかったようで、その場に居合わせた部下達は、おとなしくカウンターの上に座っている幼児と、ぶかぶかのパーカーの背から生えるその特徴的な深紅の翼をまじまじと見つめた。
「ウイングヒーローの?」
「他にホークスがいるのか?」
幼児の顔立ちと翼から事実だと察しつつも、納得しかねた部下達の悪足掻きを一刀両断し、個性を受けたのだと告げる。
「敵ですか?」
「いや、発現したての子供の暴走に巻き込まれた。おかげで、いつ戻るかが全く分からん。昨日は赤ん坊だったから、少しずつ戻る可能性が高くなった」
朝一番で昨日の病院に連れて行ったが、エンデヴァーが経験上から予測したものと、診断結果に差違はなかった。数年分ずつ元の年齢に戻り、そのタイミングはまだ不明。今日と同様ならば一日に四、五歳ずつの加齢で、元の年齢に戻るには今日も含めて五日間かかる計算になる。
なるべく、予想が外れて今日中にでも元のサイズに戻ってほしいものだが。
「ホークスさんは、自分の状況を把握されてるんですか?」
「いや、中身も子供になっている。本人には事件に巻き込まれて俺が保護したと説明してある。とりあえず、これがこの状態になっていることはなるべく隠しておきたい。敵に狙われると困る」
ヒーロー稼業を営む以上、犯罪者達からは恨みを買っている。
何らかの個性影響を受けて弱体化した際、それが知られると敵に狙われることも少なくない。そういった事情はスタッフ達も承知している。揃ってうなずいて、彼が元に戻るまでの事務所での保護を受け入れる。
「何か、注意点は?」
「昨日は目を離すと危険だったが……、今は聞き分けがいいしおとなしい。あまり喋らんが話しかければ答える。個性はこの時点で相当強力だから、敵意を持たれないように気をつけろ。ただ、警戒心が強い」
「所長、それは人見知りが強いって言いません?」
「そんな普通の子供のような反応なら、わざわざ言わん。敵性認識した時点で襲ってくる野良鷹だと思え」
せめて野生と言ってほしい、という部下達の目は無視して、それから、と続ける。
「少し、寒さに弱い。店が開いたら何か着る物を買ってきてくれ。急に元のサイズに戻っても問題のないものを」
今はひとまず、Tシャツの上に次男の服を着せている。
エンデヴァーの服では、肩からそのまま抜け落ちるほど大きすぎ、おそらく末の息子とほぼ同じくらいなのだが、少し余裕があった方が良いだろうと、娘が留守がちな次男の服を選んで、翼を通すためにあっさりと鋏を入れた。
勝手にそんなことをしては、また次男を怒らせるのでは、と思ったが、着替えだけを取りに帰ってきては、汚れた洗濯物を置いてすぐに出て行く大学生の弟に対する姉の怒りの方が強いようだったので、余計な口出しはしないことにした。
とりあえず、この子供専用の服があれば、たぶん家庭内にこれ以上の波風は立たないはずだ。
「それじゃ、奥に行こうか?」
「ああ、靴履いてないのか、だっこしていい?」
大人達に話しかけられ、少し戸惑った顔でエンデヴァーの顔を振り仰いだが、うなずいてみせると、おとなしく周囲の大人に身を預けた。
「うわ、軽っ!?」
「浮いてる? 個性は使わなくていいよ?」
抱き上げても抵抗はしないが、体重を預けない癖があるらしい子供は、風船にでも触れたような印象を与える。頼りない重量感に、力をこめていいものか、おっかなびっくり子供を連れていくサイドキック達を見送って、一つ嘆息するとエンデヴァーは昨日対応できなかった業務に対応するため、自室に向かった。
市街地で暴れる敵の鎮圧要請を受けて出動し、道路やビル外壁を抉りとっては丸めて大砲の弾のように撃ち出す敵を捕縛した。取り押さえるまでにはさほど時間を要しなかったが、ヒーロー達の現場到着までにかなり派手に暴れ回ったようで、周辺の建物や一般市民への被害はかなり大きかった。
「あのビルの土台、大丈夫か?」
「今、応急の補修対応できるヒーローに応援要請しているそうです。ビル内の避難は完了したとのことです」
「対応が間に合わず、崩壊しそうならその前に爆砕する」
救助や補修はエンデヴァーの得意な分野ではない。せいぜい、倒壊を避けられないビルが更に周囲を巻き込まないよう粉砕する程度の役にしか立たない。
そういった状況で、砕き方が荒いだの、料理をしたことがないだろうなどと宣った生意気なヒーローがいた。
あれがこの場に居合わせれば、敵の捕縛も避難誘導も救護者の探索ももっと速く、被害も少なくできたはずだが。
「ホークスが助けてくれたの!」
不在を惜しんだ端から、興奮しきった声がその名を叫んで、何事かと目を向けると、事件現場で携帯端末を手に画面に向かって喋っている若い女の姿があった。
一瞬、事件現場に入り込んで自撮り動画を撮る類の迷惑行為かと考えるが、瓦礫の隙間に敷かれたシートの上に座り、腕には優先順位の低い要治療者のタグが巻かれているので、事件に巻き込まれた被害者のようだ。
テレビ電話で家族に無事を報告しているようだが、その手にしっかりと握りしめられた見覚えのある赤い羽を看過できなかった。
「失礼、お嬢さん」
声をかけると、振り仰いできた女の顔が強張った。
女子供に怖がられやすい事実を自覚しているエンデヴァーは、威圧感を最小限にするために顔の炎を収め、片膝をついて怪我人と視線を合わせた。
「少しお話をお聞かせ願えるだろうか?」
丁寧な口調を心掛けるが、こくこくとうなずく表情を見る限り、既に怯えられている。
「ホークスが貴女を助けたと?」
「ひ、避難中に転んで足を挫いてしまって、周りに誰もいなくて、もう駄目かと思ったら、羽が……! これ、ホークスの剛翼ですよね!?」
数枚の羽に身を浮かされて、ビルの外に連れ出されたのだと言う。引き戻される羽の一枚だけを掴めたのだと掲げられた紅い羽が、風もないのにその手から宙にさらわれる。
ホークスのファンなのだろう、無理に羽を追おうとして、体勢を崩した怪我人を片手で支えつつ、灰色の冬空に紛れる小さな羽の行方を目で追う。
「ありがとう、参考になった」
サイドキックを呼んで、怪我人をもう少し安全な場所に運ぶように指示し、通信機を手にする。
事務所に繋いで、簡潔に一言問う。
「ホークスは?」
『え、おとなしくしていますよ、ずっと動画を見てます』
ヒーロー事務所に興奮して駆け回るようなことはないが、落ち着かない様子の子供を所員達があれこれと構う中で、事務所で保管しているエンデヴァーのヒーロー活動の動画記録に対する反応が一番良かったらしい。
動画再生の操作をすぐに覚えて、画面にかぶりつくように集中している姿は、出動前にエンデヴァーも確認している。
「今も居るか?」
重ねて問うた上司をよく知る部下は、四の五の言わずに様子を見に端末から一度離れ、すぐに慌てて戻ってきた。
『申し訳ありません、いつのまにか姿が……! 今、手分けしてビル内を探します!』
「いや、おそらくここにいる。捕まえて連れて帰る」
先程、小さな赤い羽が消えた先にあるビルを睨みながら通話を切り、ビルの外壁を這う非常階段の柵の向こうに赤い色彩が動いて隠れたのを見て取る。
「エンデヴァーさん?」
「何か!?」
エンデヴァーが動き出すと、それだけで何か緊急事態かと周囲のヒーロー達が身構えるのを、片手を振って制する。
「迷子だ」
フレイムヒーローが何を言ったのか分からないという顔で固まった他事務所のヒーロー達に現場の残りの対応を任せ、見当を付けたオフィスビルに向かう。通りを一つ挟んで他より一つ頭の高いビルは、事件の被害もなく、現場の様子を俯瞰するには都合がいい。
非常階段は防犯上と安全性のためだろう、全体が鉄柵で覆われていて、外からは扉が開かないようになっていた。ビルの管理室に顔を出し、No.1ヒーローに驚く警備員達に鍵を開けさせ、登っていく。
子供が入り込んだと聞かされ、どこから、と訝しむ警備員達が追ってくるのを軽々と置き去りにして十二階まで登ったところで、羽ばたきが聞こえた。
「ホークス! 逃げるな!」
敵相手にも効果を発するエンデヴァーの一喝に、羽ばたきの音が絶える。
三歩ずつで階段を駆け上がり、更に二階分登ったところが最上階だった。行き止まりの鉄柵に掴まった子供はその背に生えた翼のために、鳥籠に入った鳥に見える。
追いつめられた顔をした子供が、身の回りに浮く羽を増やす様に一瞬身構えかけるが、その羽が全て柵を擦り抜けていくのに気づく。
「……そうやって入ったのか」
少し嵩張る翼を外してしまえば、子供の痩せた小さな身体は易々と柵の間を通り抜けられるものらしい。おそらく、エンデヴァーの腕は途中でつかえるであろう幅である。
「降りてこい」
逃げられると厄介だと、手を差し出すと半分柵の向こうに身を通しかけていた子供が戸惑った顔で振り返った。
「ホークス」
呼びかけると、中空に足を踏み出しかけていた子供が踊り場の半ばまで戻ってきて、内心安堵する。昨日のように浮いている最中に集中を切らせて落下するようなことはなさそうだが、一度外した剛翼を空中で戻す器用な真似が、どこまで安定してできるのかは分からない。
大人の時にも、羽の数が減じるとかなり飛翔能力の安定性を欠いていた。
「こっちに来い」
一つ下の踊り場から動かず、伸べた手だけで招く。
ほとんど野生動物を相手にする気分で、こちらから近寄らずに相手の反応を待っていると、少し覚束ない足取りでゆっくりと近寄ってくる。背に翼がないとバランスが取れないのだろうか、と考えた端から、足をもつれさせた子供が階段の上から転げた。
真っ逆様に落ちてくる身体を捉えて、その背を追って奔流となった赤い色彩が翼の形を瞬く間に形成する様を目にする。
「馬鹿者が」
素早い再形成ではあったが、エンデヴァーが捕まえていなければ、確実に鋼鉄の階段に酷く身を打ち付けていたところだったので、叱りつけると抱え込んだ身が小さく震える。
「凍えとるのか!」
震えが全く止まらないことと、青白い顔に気づいて、身を取り巻く炎を増やして声を高める。素足のままの薄着で、こんな吹きさらしの場所にいれば当然である。あのまま空中に飛び出していたら、ろくに飛べずに墜落していた可能性もある。
「どうして外に出た?」
階段を下りながら問うと、背に翼が戻ってからもかかっていた荷重が失せた。体重を預けてこない身体が浮いて逃げないよう、しっかりと子供を抱え直しつつ、焦がさないように気を付けて炎を調整する。
「俺を追ってきたのか?」
こくり、とうなずかれる。昨日とは雰囲気が異なるので問題ないかと思っていたが、やはり妙に懐かれている。
「その歳なら、ヒーローでない限り、外で個性を使ってはいけないと知っているな?」
びく、と震えたのは今度は寒さのためではないだろう。
「うちのビルから抜け出したのも、ここまで来るのにも、個性を使ったな?」
犯罪だ、と告げれば重量のない身体が固くなる。
「今、浮いているのも駄目だ」
とす、と重量が腕にかかったが、これが全体重だというのなら軽すぎる。有翼の子供は体質的に平均値よりかなり軽量になると互助会の資料にあったので、それであると思いたい。
「保護責任って、分かるか?」
さすがに、六歳児に理解できる言葉ではない。ふるふると首が横に振られる。
「子供は大人が守るという決まりだ。普通は親がその決まりを守るが、今は一時的に俺が貴様の保護責任者だ。貴様を守る義務がある。同時に、貴様の行動に対する監督義務……、悪いことをさせてはいけないという責任がある」
これくらいの子供に理解できる言葉選びの怪しい台詞になったが、子供は真面目に聞いていた。
「つまり、貴様が個性を自分勝手に使うような悪いことをすると、俺が警察に罰せられる」
「ッ!?」
焦った顔で振り仰いでくる顔に大分血色が戻ったのを確認しつつ、柔らかい髪をかき混ぜる。
「もうしないか?」
「……ごめんなさい」
十数年後の食わせ者の姿からは信じられない程、素直な謝罪を引き出し、更に髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「怪我をした女の人の避難を助けたな、あれは、よくやった」
「あれはよかと?」
「本当は良くない。ヒーロー以外の人間が勝手に個性を使うのはいかん。訓練されていない者が余計な手出しをすると現場が混乱して、ヒーローの活動を邪魔することになる」
原則手出しは不要、と言い聞かせる。
「それでも、人を助けた行為は褒められてしかるべきだろう」
「ほめられてしかる……?」
六歳児の脳内で言語が複雑怪奇に乱舞する様が目に見えて、易しい物言いを悩む。
「……あの女の人を助けたのはえらかった。いい子だ」
実の子にも向けたことのないやさしい言葉を投げつけると、ぽかんとエンデヴァーを見上げた顔にじわじわと朱が昇る。
熱くしすぎたか、と一瞬考えて、照れたのだと気が付いた。
大人の姿の際は、悪びれもせずに己の有用性と評価を押し出してくる不遜さが目立つので、実に新鮮だ。
無表情も大分緩んできていて、もう少しで笑顔と呼んで差支えなさそうだ。
「エンデヴァーさん!」
「うわ、本当に子供いた!」
下の階の方で置いてきた警備員がようやく登ってきたのに鉢合わせ、大声に驚いた子供が翼をばたつかせて浮きあがるのを抑え込むと、また頑なな無表情に戻っていて、エンデヴァーは深々と嘆息した。
現場に戻って、一度子供をサイドキックに手渡そうとしたが、子供の薄着と吹き荒ぶ寒風に、フレイムヒーローが抱えたままでいるのが一番だと判断した。
現場の処理は恙なく進んでいて、荒事専門と言ってよいエンデヴァー事務所の人員は不要そうだったので、引き上げを伝える。
「これの服を調達してから戻る。何かあれば連絡を」
とりあえず、子供に着替えを用意しないとまた凍え死にしかける、と事件現場からほど近いデパートの子供服売り場に向かう。
コスチューム姿のNo.1ヒーローに僅かに驚きを見せつつ、ヒーローが連れた有り合わせの服を着せられた子供という事情のありそうな状況に、店員は余計な詮索をせず、体型が大きく変わる個性の子供向けの伸縮性の高い服を数日分用意した。背の翼用に調整する待ち時間の間に、食事をさせようと再度子供を抱えてフロアを移動する途中で、腕に添えられていた小さな手に一瞬力が籠った。
「どうした?」
はっとこちらを見上げて、胸の前で両手で小さな丸を作ったホークスは、すぐに手を下して頭を振る。
朝、同じジェスチャーをしたのを見た。何かを必死に探していて、詳しく問えば諦めたと首を横に振った。
よく囀り、やりたい放題に振る舞う大人の彼と異なり、無口でひたすら我慢を重ねる印象の強い子供の、大丈夫だという主張を無視して、子供向けの用品を集めたフロアを見回す。
「おもちゃか」
鷹の目が向いていたものに辺りをつけて、ヒーローもののおもちゃや子供サイズのコスチューム衣装が売っているコーナーに足を踏み入れる。
「何が欲しいんだ?」
慌てたように首を振るおもちゃと同じ動きをする子供を、床に下して放す。
「四の五の言わんで持ってこい」
また見るからにしょんぼりされても、こちらが落ち着かないので、屈みこんで半ば脅しつけていると、店員の男性が声をかけてきた。
「あれー、ボク、気合の入ったホークスファンだね。その剛翼よくできてる」
本物みたいだ、と笑いながら、ぬいぐるみを差し出す。
「これは、ちゃんとコス買わないとね。お父さんはエンデヴァーやってくれてるんだ、No.1とNo.2でお買い物ってすごいね……」
子供に向けた笑顔をそのまま保護者にスライドさせかけ、そこにいる大男がコスプレでないことを認識した店員の表情が引きつった。
「それが欲しいのか?」
販売員から手渡された、ウイングヒーローのぬいぐるみをじっと見つめている子供に声をかけると、中途半端な角度に首を傾げて、ぬいぐるみとエンデヴァーを交互に指し示した。
「え? ああ、エンデヴァーの……、エンデヴァーさんのぬいぐるみもあるよ」
子供の対応に慣れているのだろう、無口な生き物のジェスチャーに即座に対応して、棚から同じサイズのぬいぐるみを出してきた店員に、今日一番に子供の表情が動いた。
喜色を見せて一瞬浮いてぬいぐるみを受け取ると、不思議そうな顔をしてエンデヴァーを振り返る。
「なんだ?」
指を真っすぐ下す仕草も、朝に見た。
「ああ、もう傷があるのか」
顔に大きく傷が刻まれてから数か月、もう子供向けの商品の己の顔には傷の入ったものが出回っているらしい。コスチュームも最新のものである。
よくできているものだ、と矯めつ眇めつしてから元の棚に戻すと、また子供が見たことのない顔をしていた。
「……なんだ?」
「あの、その子、エンデヴァーさんのぬいぐるみが欲しかったんだと思います」
ここにきて急に表情が豊かになったが、逆にそのショックを受けたような顔の意味が理解できずに戸惑ったエンデヴァーに、店員がそっと子供の気持ちを代弁してきて、また理解が及ばなかった。
「何故だ?」
子供というものは、エンデヴァーの人形など欲しがったりしない。
「あの、ここ最近はエンデヴァーさんのコスチュームやフィギュアを欲しがる小さな子も多いですよ?」
フォローが入ったが、それはごく最近の話であって、この鷹の雛は随分昔の子供である。
「子供は、ウォッシュとか好きだろう?」
洗濯ヒーローがデビューしてテレビによく顔出しして、子供に人気が出始めたのはいつだったかが曖昧ながら、差し出してみるが、訝しげに首を捻られたので、当時はまだ無名だったのかもしれない。
「シンリンカムイは最近か……、ヨロイムシャは?」
己より更に前の世代のヒーローの名を出してみても反応は鈍い。
「……オールマイトは?」
売り場の占有率が随分少なくなった元No.1のぬいぐるみを手に取って差し出すと、今度ははっきりと首を横に振る。
「好きやなか」
要するに、これはかなり珍しい種類の子供なのだ、と渋々ながら理解して、棚に戻した己のぬいぐるみをその手に戻してやる。
「それでいいのか?」
しっかりとぬいぐるみを抱え込んで、む、と口端を曲げた感情もエンデヴァーには読み取れなかったが、販売員はプロだった。
「これが、いいんだよね?」
こくりとうなずいた子供に根負けする。
「……それを一つ」
店員にカードを渡して清算を依頼して、周囲を見回すといつの間にやら集まっていたギャラリーがエンデヴァーの目を避けるように散っていく。No.1ヒーローが幼児に根負けしている図が珍しかったのだろう。
トップヒーロー相手に勝利を収めた未来のNo.2は、持ったままでよいと店員に許可をもらったオレンジ色のぬいぐるみをしっかりと抱えたまま、もう一つのぬいぐるみをじっと見つめていた。
「それも欲しいのか?」
全体的に薄茶色のぬいぐるみの背にある翼だけが鮮やかな朱色で、その姿をこの子供がどう捉えてるのか分からず問うと、首は横に振られた。
特徴をデフォルメされた人形は、ウイングヒーローのよく変わる表情の一つの側面を捉えて、半眼気味の大きな目と口角を曲げた表情をしていて、顔のパーツを大きく配置しているため、モデルとなっている本来の姿より、今の彼によく似ていた。
「これ、ホークス?」
「……そうだ」
先に店員が口にした名を繰り返しただけなのか、そうでないのかを悩みながらうなずくと、その答えを子供はあっさりと口にした。
「オレが、ホークス?」
「どうしてそう思った?」
ぬいぐるみによく似た顔が、ゆっくりと目を瞬かせてエンデヴァーを見上げた。
「エンデヴァーもふゆみ先生も、オレのことホークスって呼んだ。エンデヴァーのサイドキックも、オレの呼び方迷ってた。あと、事務所で見た動画、知らないのがたくさんあった」
言いながら、エンデヴァーのぬいぐるみの顔に線を引くように傷痕をなぞる。
「こん傷、付いた動画も見た。俺と同じ個性の『ホークス』がおった。あげんヒーロー、いたら教えられとー。ここんヒーローも、全然知らん」
売り場を埋め尽くすトップヒーロー達のおもちゃを指し示す。
「ここは、オレん知らん未来や」
平坦な声が淡々と結論を告げる。
「病院でも事務所でも、みんな『この頃のホークス』の話をしてた。だから、周りが変わったんじゃなくて、オレだけが違うんだと思った。本当は大人のオレが、個性で小さくなった。だから、オレがホークス。違う?」
熱のない声で、理路整然と結論に至るまでの思考過程が語られて、甘く見ていたと額を押さえる。
見た目が実年齢よりかなり幼く見える上に、言葉の少なさと柔らかく聞こえる訛りが相俟って、その頭の中身を幼く見積もりすぎていた。何も分からないものと思い込んで、ろくに説明しなかったが、当人は黙って朝から周囲を観察して情報を集め、己の置かれた状況の把握に徹していたらしい。
ここまで賢いならば、最初からきちんと説明しておけば、聞き分けよく事務所でおとなしくしていただろう。
「ウイングヒーロー、ホークス。それが本来の貴様だ。個性を受けて、六歳になっているが、時間が経てば元に戻る」
こくり、とうなずく。
「オレ、何ばすりゃよか?」
朝にも同じ発言を聞いたが、少し意味合いが異なった。
本来ならば成人したヒーローとして、今、この姿で何をすればいいかという問いに、エンデヴァーは明確に答えた。
「昼飯を食って、きちんと服を着て暖かくして、事務所に戻ったら昼寝をして早く大きくなれ」
「……それで、早う元に戻る?」
「たぶんな」
疑わしげな眼差しを黙殺する。
「オレ、本当は大人や」
ぬいぐるみを抱えて言われても、何の説得力もない。
「今の貴様には、大人のホークスが持つプロヒーローとして必要な知識も経験もない。おとなしく子供をやっていろ」
「そげなん、知らん」
訛りの強い、端的な否定は意味が取りづらいが、今の言葉は、子供らしさなど知らない、という意味に聞こえた。
小さな子供だ。
個性は強いが、それに頼っているのか身体能力はやや覚束ない。実年齢より二つは年下に見える細い身体はすぐに凍える。外見とは逆に、頭の中身は数歳分加算してよさそうだが、それでもたった六年分の人生しか詰まっていない、ただの子供だ。
こんなただの子供が、当たり前のように無惨なことを言う。
何もできないのか、と声を震わせた娘の顔を思い出す。
この六歳の男の子は幻に過ぎず、手を伸ばしたところで救うことも守ることもできない。せめて今は優しく、などとおためごかしを口にしたが、それで救われるのはこちらの感傷にすぎない。
ヒーローが聞いて呆れる。
No.1になったところで、ぬいぐるみを抱きしめたかつての子供一人、救えない。
