Child on the Steps - 3/9

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ひとまず患者の個性暴走を抑制するための装置を少女に厳重に施したものの、ホークスの状態に変化はなかった。
外見だけでなく、中身も完全に幼児と化したようで、呼びかけに言葉が返ってくることはなく、意味を成さない歓声を上げてはエンデヴァーの炎に手を伸ばしてくるので、彼の上着をぐるぐるに巻きつけた上で、看護婦の一人に手渡した。
とにかく対策を練ろう、と院内に入って数歩も歩かないうちに悲鳴が上がった。
エントランスホールに設置されたアート作品に気を取られたらしいホークスが、おとなしいからと油断していた看護婦の手をすり抜け、ガラスの階段のオブジェをするすると這い上がった。
半ば身を浮かしているからできる早業なのだろう、大人達が振り返る前に階段を登りきって、きらきらと輝くオブジェに満悦していたホークスをどうにか確保したのが半時間ほど前のことである。
「……それで?」
炎の揺らめきが不機嫌を伝えるエンデヴァーに、小児科の医師が僅かに身を引いたが、エンデヴァー自身は口元に伸びてきた手を避けることに意識を割かされていた。
「危ないと、何度言ったら分かる……?」
凄んでもきゃらきゃらと笑うところは、幼児期から変わらないようである。
幼児化したこの生き物をどう扱えばよいか分からず、医師達に預けようとしたのだが、泣いて嫌がって覚束ない飛翔能力で飛んできてはしがみついて離れないので諦めた。
火が気になるのか、何度叱りつけても懲りずに手を伸ばしてくる。
柔らかな髪の毛の上から頭を押さえ込んでしっかりと固定すると、それで、と繰り返して話を続ける。
「個性の効果を解消する方法は?」
「彼女、川原鳩は現在三歳で、これまで、飛翔能力が個性だと思われていて、若返りの個性の発動はおそらく今日が初めてです。解消法については、現時点では何も言えません」
「親の個性は?」
「父親は不明、母親は翼があるだけで、飛翔能力はないそうです」
病院側にもあまり情報がないのだという。
犯罪に巻き込まれた被害者の保護のための入院で、家庭環境が良くなく生後の検診も定期的に受けていない。実の子を金で売ったと思しき母親は捜査の手を察して行方を晦ましているらしく、協力など得られる状況ではない。
個性の正確な効果や作用はこれから手探りで見極めるしかないと聞いて、エンデヴァーは嘆息した。
「このまま戻らん可能性もあるか……」
もしもNo.2がそんなことになったら、社会に与える影響は計り知れない。
「これは、今どういう状態なんだ?」
押さえ込んだ手を押しのけようとしているのか、はたまた遊んでいるつもりなのか、エンデヴァーの指を小さな手で掴んで押したり引いたりを繰り返している生き物を指し示す。
「おそらくは、一歳から三歳くらいの頃の肉体年齢に戻っている状態かと……」
「待て、この歳の二年は幅がありすぎるだろう」
数ヶ月の差で、立って歩き出し走れるようになる時期である。さすがにもう少し絞れるはずだと思ったが、個性差がありすぎて分からないのだ、と医師が首を振る。
「既に個性が出ているので、余計に難しいんです。浮遊、飛行能力を持つ子供は身体が小さく、本来運動で培う筋力を個性で補ってしまうために身体機能の発達が遅いことが多いです。代わりに言語の習得は早いことが多いはずですが、まだ喃語の段階です。乳歯は生えてきている。身体的な平均値で考えると、一歳前半頃の数値に近いです」
実年齢であるかは分からない、ということらしい。
「この個性社会において、担当外の子供を診断し適切な対応をすることは、不可能に近いです。ただでさえ、飛翔能力のある子どもは難しい。ご両親の協力をいただくのが一番です」
子供の成長、個性を一番把握しているのは親である、という理屈は分かるが、エンデヴァーはこの若者から家族の話を聞いたことはない。彼の年齢を考えると、エンデヴァーと同世代になるのではないかと気づいて、本当に親子ほどの世代差があることを改めて実感する。
今、膝の上に乗った姿だと、下手をすれば孫の世代である。
「……これの事務所に連絡して、実家を確認してみよう」
応接室のソファに幼児を置いて立ち上がろうとすると、指をしっかりと掴んで浮いてくるので、問答無用で引き剥がしてソファに転がし、携帯を手に廊下に出る。
通信機を使っても大丈夫か確認した上で、ホークスの事務所に連絡を入れると、対応したサイドキックがNo.1からの電話に仰天し、更に己の所長が個性でトラブルに陥ったと聞かされて、相当に電話の向こうが混乱したのが分かる。
「しばらく、ヒーローとしての活動はできない可能性が高い、事務所は大丈夫か?」
『だ……いじょうぶとは言えませんが、できる限りどうにかします。元々しばらく出張予定でしたんで、パトロールは他の事務所と連携してやっています』
今後の見通しの立たない状況に少し声は暗かったが、所長がいなければ成り立たない体制ではないらしい。状況が変わり次第報告を入れる、と伝え、家族との連絡が取れるかを問うと、電話の向こうでバタバタと資料を探す音が聞こえてくる。
『ご家族の話は聞いたことないですが、一応緊急連絡先が……あれ?』
「どうした?」
『いえ……、なんか、公安本部の番号になって、ます?』
どういうことだろう、と不思議そうな声を出されても、サイドキックに分からないことを、エンデヴァーが知るはずがない。
「どこの部署の番号だ?」
『代表番号です』
ヒーロー稼業を営んでいて、緊急連絡先をふざけて書くほど酔狂ではないと思うが、あの掴みどころのない若者の言動を思い出すと、何とも言い難い。
「一応、こちらからかけてみる」
エンデヴァーに手間をかけさせることをしきりに恐縮する電話を切って、やはりホークスの態度は一般的でないと再認識しながら、そのまま公安本部へ電話を入れる。
こちらもエンデヴァーからの電話に対応は丁重で非礼はなかったが、入れた連絡の特殊さに数部署をたらい回しにされた上で、担当者を探して向こうから連絡してくることになった。
合わせて、自身の事務所にも連絡を入れ、詳細は話さず不測の事態が起きて予定通りに事務所に戻れないことを伝え、事務所の状況を確認して指示を与え終わったところで、キャッチホンが入った。
事務所への伝達を終わらせ、通話を切り替えると、覇気のない声がつらつらと公安の担当だと名乗る。
『公安の目良です。いや、何で自分なんですかね、他にもいると思うんですけどね。何仕事増やしてくれちゃってるんですかね、ホークス。嫌がらせな気がしてきた、帰りたい』
「……エンデヴァーだ」
社会人の挨拶とは思えないほど、好き勝手に捲し立てた公安職員に不機嫌に名乗ると、電話の向こうの口調が僅かに改まった。
『えー、初めまして。トップの二人揃って何の事件の対応してたんですかね。で、うっかり個性事故定番ジョークみたいな事態になった、と。業務の都合がついたら是非、証拠写真を撮ってやりたいです。あ、エンデヴァーさん、よかったら撮って送ってください』
改まったのは一瞬で、後半はまたぐだぐだな発言になった。
「……随分と、あの小僧と親しい、ということでいいか?」
『え、まさか。いやいやいや、ないです、あんなクソガキ。単に一通りの事情が分かってる奴人選で対応する羽目に。えー、とりあえず問い合わせの回答から。ホークスに家族はいません。親がいないわけじゃないですが、幼少時の発達状況を熟知し、適切な世話をできるっていうご希望の人種じゃないんで、呼ぶだけ無駄です。いらんトラブルになるだけです。五歳頃からの検診カルテはあるんで、病院と共有しときますね。他に何か聞きたいことあります?」
べらべらと捲し立てられた内容に、眉間に深く皺を刻む。
「何故、公安がしゃしゃり出てくる?」
『あの子の事情です。今聞いた範囲で、なんか適当に察してください。聞きたければ、質問してもらえたら公開可能範囲内で答えます。ちなみに範囲はめっちゃ狭いです』
人を食った口調に、特にないと切り捨てる。
『じゃあそういうことで。すみません、写真お願いします』
あっさりと終わった通話に、しばらく携帯電話を睨みつけたが、かけ直してくる気配はない。
一つ舌打ちして、応接室のドアを開けた途端、幼児と真正面から目が合った。
普段、体格がかなり異なる青年とエンデヴァーの目線の高さが揃うことはなく、通常の三分の一ほどのサイズになった状態で目が合ったのは、この幼児が宙に浮いていたからである。
対処に困って見つめ合うこと十秒。
「エンデヴァーさん、捕まえてください!」
こちらの様子に気付いた小児科医の叫びに、特に逃げようとしているわけではなさそうだが、と医師に目を向けた瞬間、前触れもなくその身体が落下して、慌てて床に激突する寸前に手で支える。
「さすがヒーロー……」
とっさの反射神経と判断力がものいう世界のトップに称賛を送って、医師はしっかりと幼児を両手で掴んだ。
「怖いんです。物心つく前に飛ぶ子は、本当に怖いんです……。手の届かないところに上っちゃいますし、急に疲れて飛ぶのをやめたり……。どれだけ打撲や骨折で運び込まれる子が多いか……」
先に、ホークスが子供達から目を離す危険性を語っていたが、自身でそれを証明しているようである。
それで応援の家族は、と問われて首を横に振ると、医師はがっくりと肩を落とした。
「正直、うちではこれ以上受け入れられません……」
今入院させている三人も、事件の影響と元々の生活環境の問題か、情緒が不安定で目を離せないらしい。全員が厄介な飛翔能力を有しているため、パニックを起こして高所から落下しての怪我は入院してから増えたものもあるという。
「翼の会の方と、ホークスさんがこまめに来られてケアしてくださってたんです」
その当人が、意思疎通も不可能な年齢となってしまったのでは世話はない。
「翼の会というのは?」
「有翼の子供の個性で起こるトラブルを、有翼の大人や有翼の子を持つ親が相互援助するNPO法人です。個性ごとに必ずそういう団体があるんですよ。個性は個人差が大きいとは言え、ある程度特性ごとに起きるトラブルの定型はありますから。もう成人した同個性の持ち主や、その個性が持つ子供が成長して手を離れた親御さん達が、個性が原因で子育てに悩んでいる親にアドバイスしたり、手伝いに行ったり。小児科は必ず、各個性の互助団体と連携しています」
個性社会故の相互扶助団体だと言う。
自身と同じ個性の子供ならば対処できても、両親の個性が混じり合って新しい個性となった場合は、子育ての中で途方に暮れることも多いだろう。
エンデヴァー自身の子供達は、長男が炎、長女と次男が妻の凍結の個性を継ぎ、末の息子だけが両親の個性を均等に受け継いだ。己の知る炎熱の暴走や体温上昇による身体の不具合には対応できたが、凍結の個性から来るトラブルには難儀した覚えがある。
この時点で強個性の片鱗を見せ始めている幼児の面倒を見るのが、非常に難しいことを理解して、エンデヴァーは渋面になった。
「病院にいる間、個性を抑制して無個性の乳幼児として扱うのは無理か?」
「発現したばかりの個性暴走を抑制するためならば別ですが、発達段階の幼児期にそんな負荷をかけられませんし、人権侵害にもなります。それに、ホークスさんは個性効果でこの状態なので、どんな影響が出るかもわかりません」
きっぱりと断られて、少し考え込む。
「……これの親が面倒を見られない場合、その団体に協力を要請することはできるのか?」
「あくまでも民間の団体ですから、強制はできませんが、お願いしてみましょう……」
苦々しい顔でうなずいたエンデヴァーは、医師の両手にしっかりと押さえこまれた幼児をじろりと睨む。
大きな傷まである強面に睨み据えられても、嬉しげに笑い返してくる度胸は、この頃から持ち合わせていたらしいが、屈託に溢れた可愛げのない男の顔が既に懐かしかった。

「か……ッわいい子ですねえ……!」
病院側から有翼児の育成支援団体に連絡をつけて、まず一日ベビーシッターとして一人、病院に出向してもらうことになった。
病院に置いて個性効果の経過を見つつ、有翼児の面倒を団体のボランティアに見てもらうと決めて、そのボランティアの女性と、元々今回の事件の被害者の子供達の面会にきていたという会の代表の男と、幼児化したホークスを対面させた瞬間、息を呑んだのでどうしたのかと思えば、先の台詞が洩らされた。
「……かわいいか?」
その幼くなった顔を見ても、厄介なことになった、という感想しかないのだが。
普段の彼の髪は、金と言うには光沢のない赤みを帯びた黄色だったが、幼くなった今は髪質が細いため色が薄く、幼児特有の光沢も強く出て金髪に近い。元々大きな瞳は丸く、青年時の鋭さは面影もない。
柔らかな輪郭の、よく笑う顔は確かに可愛らしい。
この顔で、背には小さな赤い翼とくれば、当人が先に主張していた、天使のようだと持て囃されたという幼少時に嘘はなかったのだろう。
現在進行形でその評価が下されている。
「有翼の子はみんな天使みたいですけど、こんな可愛い子、ご家族も心配でしょうに」
エンデヴァーの手から幼児を受け取り、あやす女が顔を曇らせる。
諸々の影響を鑑みて、これがNo.2ヒーローだということは緘口令をしいた。一晩明けて、元に戻れば問題なし、長引くようならまた対策を講じる必要があるが、今、No.2がヒーローとして活動できない状態であることを広める必要はない。
そのため、エンデヴァーが対応した事件の中で保護された、身元不明の子供として説明してある。
「私達、翼を守る会は全国に支部がありますし、相談を受けた子の記録は残っていますから、探せばこの子の家族も見つかりますよ、ねえ、会長?」
「そうですね、一度でも相談があればデータベースに登録されているはずです。ただ、こんな特徴のある子は……?」
本来なら二十歳程上乗せされる子供なので、該当する年齢のリストに載っているはずがない。
「おそらく、外国から誘拐されてきた子供と思われる。今、国際機関にも照会中だ」
存在しない子供の家族を探すなどという無為に善意を浪費しないように、ささやかな嘘を添えて、子供の扱いを打ち合わせる。
何か不測の事態が生じた時は事務所に連絡を入れるように依頼して、ようやく席を立つ。緊急出動の連絡が入るようなことはなかったが、ここで随分と予定が狂ったので、早く事務所に戻りたい。
ぱたぱたと羽ばたきの音がついてきて、一つ嘆息してボランティアの手を振り切って飛んできた子供を片手で受け止める。
「おとなしくしていろ」
ついてくる気満々の顔をした幼児を女の手に押し戻して部屋を出ると、何やらドアの向こうで泣き声が響いたが、きっぱり無視して歩を進める。
エレベーターホールに向かって、泣き声が届かなくなったと思った瞬間、悲鳴とガラスの破砕音が響いて瞬間的に臨戦態勢に入って振り返り、高速で飛来するものを一瞬敵の攻撃と判断しかけて、その正体に気付いて慌てて炎を消した手の中に幼児が飛び込んでくる。
泣きじゃくる幼児を唖然と見下ろし、何が起きたのかと応接室に戻ると、ドアにはめ込まれていたガラスが大きく割れて廊下に赤い羽と共に飛散していた。室内の様子を窺うと、先に別れたばかりの三人が呻きながら床にしゃがみこんでいる。
何があった、と部屋に足を踏み入れようとした瞬間、子供を抱えた腕が強く掴まれて金切り声が上がった。同時に、視界を朱色が占める。
「ホークス!」
まさか、がやはりに切り替わり、感情のままに剛翼を振り回そうとする強個性の子供を怒鳴りつけると、驚いたように目を丸くしたホークスがくしゃりと顔を歪める。
わんわんと泣き出した子供にしがみつかれ、翼の生えた背を撫でてやると、威嚇するように宙に浮いていた剛翼がひらひらと舞い落ちて子供の背に戻っていった。

結局、幼児化したホークスを病院に預けることは断念した。
何故か、非常にエンデヴァーに執着しているらしい幼児が、ボランティアの人間も病院スタッフも一律、自分をエンデヴァーから引き離そうとする悪人と認識したため、エンデヴァーがいないと癇癪を起こして周囲を個性で攻撃するようになってしまったためだ。
幸い、一枚一枚の羽の力はまだ弱いようだが、数枚の剛翼を合わせればガラスを割ったり、大人を叩きのめすくらいはできることが判明している。
改めて、医師から手に負えないと宣言され、諦めた。
かけられた個性は時間経過が一番の回復手段であることが多いため、とりあえず一晩様子を見るくらいは、と自宅に連れ帰ることにした。
事務所に連れていって、あの癇癪を起されたら大惨事になる。
自宅には、エンデヴァーが個性を開放しても支障のない鍛練場があるし、娘もいる。
小学校教諭である長女の冬美は、その教育課程で一通り、保育研修や児童心理学といった勉強もしていたはずである。一言手伝ってくれと連絡を入れて、子供を連れ帰る旨を伝えた。
その後は、予定が大きく狂ったため、事務所のサイドキック達と連絡を取りながら静岡の自宅まで戻ると、娘が非常に強張った顔で待っていた。
「……どうした?」
車の助手席に回り込み、泣き疲れたのか運転中はよく眠っていた子供を下ろしながら問うと、冬美は硬い表情で子供を覗き込み、不思議そうな顔をした。
「この子は……?」
「ホークスだ」
「え? ホークスさんって、ウイングヒーローの?」
「他人の個性暴走でこのざまだ」
うんざりとしながら応じると、背を平手で叩かれて驚く。
「……どういうこと?」
玄関口を冷え冷えとした空気が漂ったのは、今が真冬の季節だからというだけでなく、おそらくは娘の個性が怒気として発動しかけている。
「……個性が初めて発現した子供の暴走を止めようとして、これが巻き込まれた」
「そうじゃなくて、この子は、お父さんの隠し子というわけではないのね?」
「違う!」
そんな誤解が生じかけていたとは予想もしていなかった父親を、娘は眼鏡越しに冷ややかな目で見据えた。
「あのね、お父さん。『子供を連れて帰る、面倒をみてくれ』だけじゃ、何も分かりません! こっちから電話しても通じないし!」
連絡を一言入れた後は、事務所との連絡に終始していたので、プライベートの携帯には全く注意を払っていなかった。
「……すまん」
「夏雄と焦凍を呼んで、家族会議をしなくてもいいのね……?」
「しなくていい」
そう、とうなずいた娘の冷気がようやく収まる。
「お父さんは、言葉が足りなさすぎ!」
「すまん」
うちの男どもは、と怒れる娘にもう一度謝ったところで、抱えた子供が話し声に目を覚ましたらしく、むずがる声を上げた。
「あ、ホークスさん! はじめまし……、お父さん、ホークスさんは今どういう状態なの?」
「中身も子供だ、話は通じん。その状態で個性はかなり強いから気をつけろ。受けた個性が今日発現したばかりなので、全くどうなるか分からん。個性効果が切れるのを期待して、ひとまず様子見。明日、変化がなければ個性解除能力者を当たって対策を練る」
言葉が足りないと言われたばかりなので、仕事と同レベルで話してみたが、長女の顔はあまり芳しくない。
「一歳とちょっとくらい? 離乳食中くらいかな、歩けるの?」
「個性のせいか、歩かない。飛んで済まそうとするが、まだ下手で突然落ちたりするので、抑えておく必要がある。高いところに上る癖があるようだから、目を離すと危険だ」
差し出された娘の手に、この強個性の子供が彼女を敵視していないか様子を窺ってから手渡す。寝起きで機嫌が少し悪そうだが、今のところ剛翼を広げる気配はない。
代わりに、幼児を抱きとった娘が固まって、どうしたのかと思うと、先までの不機嫌を払拭した冬美が満面の笑顔で父親を振り仰いだ。
「ちっちゃいホークスさん可愛い……! すごい、天使みたい!」
なるほど、これの外見は非常に女性受けがよいものらしい。
「写真撮ってもいい?」
訊きながらスマートフォンを取り出していた娘に、駄目だ、と言いかけて考え込む。公安の男も何故か写真を所望したが、あれは嫌がらせ用途に聞こえた。
「構わないが、他人に見せたり、ネットで公開しないように。後で本人に見せて反省を促すので、俺にも送ってくれ」
「叱るためなんだ……」
スマートフォンを片手に、父親を振り返って苦笑した隙をついて、幼児がその手を逃れた。
「あ、ちょっ……! あぶない!」
油断すると飛んで逃げる雛鳥に舌打ちしながら伸ばした手を、遊んでもらっているとでも勘違いしたのか、笑いながらかいくぐる。飛び方自体は非常に不安定だというのに、こういうところだけ器用なところがあの若造らしい。
「階段はだめー! 違う、そっちはもっとだめー!」
ろくに這いもしないくせに、階段を見つけて登るのだけは無駄に早い。冬美の制止の声を聞かず、二階に素早く上がった幼児は、突き当たった壁伝いにふらふらと浮遊し、天井から吊るされた照明に掴まってブランコのように揺らしはじめた。
いつ吊紐がちぎれるともしれない状況に、娘が悲鳴を上げるのを肩を掴んで退くように示し、階段を半ばまで登って、宙をゆらゆらと揺れる幼児を見上げる。
籐に和紙を貼った和風の照明はさほど強度があるものではないから、ホークスは今体重をかけていないのだろう。疲れて浮くのをやめた瞬間に、照明ごと落下してくる可能性が高い。
「ホークス」
両手を差し伸べて呼びかけると、じっと鳥の眼が見下ろしてくる。
「降りてこい」
昼間と同様の状況だと気づいて、嘆息交じりに呼びかける。
元々、この子供とは成人時にも意思疎通できると思ったことがない。薄っぺらい言葉は意味不明なことが多く、倍も異なる年齢から来る意識の差も大きい。本心を悟られるのを嫌うのだろう、大仰な仕草の中で、しばしば口元や顔を隠す癖がある。
胡散臭いことこの上ないくせに、時折ひどく子供じみた顔を向けてくるから、扱いに困る。接し方に悩んだまま今日に至って、更に取り扱いに困る事態になった。
この幼さだと隠し事はないようだが、輪をかけて意志疎通ができない。
「来い」
呼びかけに応じたのか、単純に照明の上に飽きたのかは判然としなかったが、ころりと頼りない足場から転げ落ちたホークスを両手に納めて、一つ息を吐き出す。
「縄でも付けておくか……?」
元より糸の切れた風船のように浮ついた男だったが、更に無軌道になって始末に負えない。
「飛ぶ個性の子には、幼児用ハーネス必須とは聞いていたけど……、何か、本当に対策考えないと……」
今の一幕が相当心臓に悪かったらしく、青い顔をした娘に、持ち帰った紙袋を示す。
「有翼の子供の育成を支援する団体というのがあってな、パンフレットをもらった。電話相談も受け付けているそうだ」
読み込む暇がなかったが、イラスト付きで有翼の個性にまつわるトラブル事例や子育てアドバイスが一通り書かれているのは確認している。
小学校教諭として、個性ごとの育児互助会については慣れているのだろう、病院と互助会から育児マニュアル以外にも当面必要になりそうな用品が詰め込まれた紙袋を胸に抱え込み、使命感に燃えた顔で居間に向かった娘の後を、雛鳥を確保したままついていく。
「ええと、まず、ハーネスは外出時は必須。家では首に絡まる事故も起きているので、紐などを使うのは厳禁。落下事故防止にはまず、床にクッションを敷き詰めるか、ベビーベッドやベビーサークルの上にネットを張るのが一番有効。……うち、ベビーベッド残ってたっけ?」
「倉に……、いや、焦凍が燃やしたんじゃなかったか?」
耐火仕様にはしていたのだが、末の息子が今のホークスと同じくらいの歳の頃に、何か癇癪を起こして個性を発動させて駄目にした記憶がある。
「何か代用できるもの……、シーツをテントみたいにしてみる……?」
「それなら、蚊帳でいいんじゃないか?」
季節外れなので、押入にしまい込まれているはずだが、エンデヴァーや末っ子の強個性に合わせてあるので、丈夫で耐火性もある。今のホークスの能力ならば、破られることもないだろう。
「じゃあ、蚊帳を吊せる客間使えばいいとして……、お父さん、お布団と座布団ありったけ出すの手伝って!」
意気込んだ娘の勢いに逆らう選択肢はなかった。

客用布団を二つ並べ、更に何組か積み上げた上に蚊帳を広げ、隙間という隙間に座布団を詰め込んだ奇妙なオブジェが客間に出来上がって、何か既視感を覚えた。
子供用のレジャー施設のトランポリンなどがこんな感じだっただろうか、と考えたが、羽の生えた子供を入れてみたところ、鳥の檻にしか見えなくなった。
「大丈夫そう、かな……?」
ぱたぱたと翼をはためかせ浮かび上がるが、上方の網に引っかかったホークスがぽたり、と布団の上に落ちる。今度は正面の網に向かっていって、積み上げた布団の下にしっかりと敷き込んだ網に跳ね返される。
「冬美、離れろ」
剛翼を広げる気配があったので、見通しの悪い蚊帳の中の様子を覗き込んでいた娘を背後に追いやって、弾き出された羽が網を切り裂かないか用心するが、そこまでの威力はなかったようで、蚊帳は撓んだだけで無傷だった。
突然よく分からない空間閉じ込められ、ぺたぺたと網に触れたホークスが、息を吸い込む気配があって、泣く、と気づく。
「ここにいる!」
網越しに小さな手に手を合わせて呼びかけると、張り上げかけられた声が中途で収まった。
「……どうしてホークスさん、こんなにお父さんに懐いてるの?」
「分からん」
姿が見えなくなると泣いてパニックを起こすほど執着されているのだけは分かっているが、理由は不明だ。
「個性で小さくなって、初めて見た人を親だと思ってるとか?」
「……ああ、なるほど」
昼間、ホークスが幼くなった際に真っ先に状況を確認して顔を合わせたのが自分だったと思い出し、今の状況に納得する。
基本的に小さな子供に好かれることはないので、随分と妙な子供だと思っていた。
「じゃあ、お父さんが見えるところにいた方がいいか。今日は夕飯ここで食べましょ。ホークスさんのご飯も用意して……、アレルギーとか分かる?」
「こいつの身体データや既往症のカルテの写しはもらってきた」
公安から送られてきたデータも持ち帰った荷物の中に入っていると示すと、先に有翼児育成マニュアルと合わせて読み込む、と宣言される。
この幼児化の状態がいつまで続くか分からないが、その間に起こりうるリスクはなるべく回避しておくべきである。
蚊帳の中で浮いては落ちるのを繰り返す羽ばたきの音を聞きながら、一通り資料に目を通していくが、感想としては他人の子は厄介極まりないの一言に尽きる。自身と全く異なる上に、本人が理解も制御もできていない個性や体質を把握して面倒を見るなど、非常に困難だ。
分かっていたつもりだったが、改めて昼に小児科医が頭を抱えていた理由が理解できた。
「冬美、お前、小学校でこんなのをまとめて面倒見ているのか?」
「小学生にもなれば、ある程度自分の個性や体質は自分で理解してコントロールもできるから、幼児期ほど目が離せないわけじゃないけど。生徒一人一人の個性と体質の把握は、教師として絶対条件」
この強個性の鳥の安全確保と世話の仕方の把握にまず全力で注力したのは、職業柄だったらしい。
いつの間にか羽ばたきの音が聞こえなくなったことに気付いて、眠ってしまったのかと、布団の上に俯せに丸くなった子供の様子を窺う。小さな翼で背を覆って、身を縮めている様子は巣の中の鳥のようだ。
「毛布を、掛けた方がいいかな……? 寒いよね……お父さん!」
隣で蚊帳の中を覗き込んで、起こさないように低められていた声が不意に跳ね上がった。
「忘れてた! うち! 寒いの!」
そんな大声を出しては、ようやくおとなしくなった子供が泣きだすのでは、とまず気を取られ、改めて叫ばれた内容を反芻しても意味が理解できない。
「私も夏雄も焦凍も寒いの平気だし、お父さんも大丈夫だから、冬場はちょっと厚着するだけで、暖房全然使ってないの! 前に友達が遊びに来たとき、凍死するって文句言われたの忘れてた……。うち、古い家だから隙間風入るし、外と変わらないって」
そこまで聞いて、蚊帳を跳ね上げて小さく丸まった子供の背に手をかけると、小刻みに震えていた。
「やっぱり凍えてたー! なんでこんなTシャツ一枚なの! 天使みたいで可愛いけど!」
「……突然、元のサイズに戻る可能性があったからだ」
下手に子供サイズの服を着せて、急に効果が切れた際に服が破ける程度の笑い話で済めばいいが、首が絞まってしまうようなこともありえる。病院の売店で大人用のTシャツを買って、背に翼が通るように鋏だけ入れたものを着せていた。
羽織っていたショールをぐるぐると幼児に巻き付け、おろおろと娘が周囲を見回す。
「とにかく、お父さん温めといて! 私、ストーブ出してくる!」
ばたばたと部屋を出て行く娘を見送って、エンデヴァーは火を出さない程度に、また子供の肌が火傷しない熱さに手の温度を上げて、羽の生えた背を抱え込むと、深々と嘆息した。