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ぱたた、と小さな羽ばたきの音に気付いて振り返ると、布団からはみ出した羽の先が燐光に包まれていた。
「っく……!」
「ホークス!」
微かな苦鳴を耳にして布団をはぐと、淡い光に包まれた翼が重しを取り除かれて目の前でぐんと伸びた。視界を全て占めた鮮やかな色の翼が光を失い、ゆっくりと畳まれて落ち着いた頃には、手足もすっかり伸びていた。
毎朝、こんな風に成長していたのか、と十代半ばの外見になった少年を見下ろし、服が身体を締め付けていないか確認する。
店員は身長十メートルくらいまでの伸長は問題ないと太鼓判を押していたので、二十センチ程度の成長でトラブルはないだろうが。一瞬苦しげだったのは、成長痛だろうか。
「ん……」
布団をはがれて寒いのか、小さく呻いて身を丸くし、大きくなった翼で背を覆う。
手が何かを探して枕元をまさぐっていたので、ぬいぐるみを渡してやると、手ごと抱え込まれたところを見るに、単純に寒いのだろう。ぬいぐるみはきちんと胸元に抱え込んで、手に懐く顔は成長したはずなのに妙に幼い。
はぎとった布団を掛け直そうと身を乗り出したところで、その下で不意に身がこわばった。
浅くなった息遣いで、目を覚ましたと悟るが、気にせず警戒に僅かに膨らんだ翼の上に布団を引き上げて、その上で軽く手を弾ませる。
「まだ早い、もう少し寝てろ」
ささやかな気遣いは、むしろ少年を恐慌に陥らせたようだった。
剛翼が大きく暴れて戻したばかりの布団を押しやり、室内に小規模な乱気流を引き起こす。跳ね起きかけて、中途半端な体勢で両手を畳に付けて翼を警戒に膨らませてこちらを見上げてくる目は、鷹というより野良猫に似ていた。
大型の猛禽類は、時折四足の獣に似た姿を見せることがあるが、それだろうか、と埒もないことを考えつつ、顔に炎を纏わせて見せると、先日に引き続き理解は早かった。
床に転がっていたぬいぐるみを拾って、親指で傷痕をたどり、自身が先程吹き飛ばした菓子のおまけの二枚のヒーローカードを手にする間に、頭の中を整理し終えたようで、顔を上げた時には薄っぺらい笑みが貼りついていた。
「おはようございます、エンデヴァーさん」
「……ああ」
「今日は俺、どうしましょう? 公安が何か言ってくるようなら、あっちに行きますけど」
「駄目だ、今日も俺の監督下に置く。公安に口出しはさせない」
気に食わないと唸れば、分かりましたとしたり顔でうなずく。
昨日は才走ったところを見せても愛嬌があったが、この歳だとただ生意気な印象が強い。
「いくつだ?」
「十四歳、中学二年です」
反抗期の最盛期といっても過言ではない年頃である。末の息子も中学に上がる頃から反発が激しくなりだした。
ちらり、と座卓の上の冊子に目を向けると、目敏い鷹が先の羽ばたきで捲れたパンフレットに気付く。
「へえ、こんなのあるんですね」
手のかかる有翼の乳幼児を預かってきた時から何度も読み返している、互助会のガイドブックである。簡易な一例が載せられているだけで、本当は個々に様々な事例があるのだろうが、全く馴染みのない個性の子供を世話するとなると、非常に頼りになった。
主に新生児から就学前までの身体と個性の発達に応じて発生するトラブルや悩みを取り扱っていて、就学後はほとんどページを割かれておらず、有翼の体質によって発生しがちな人間関係のトラブルに少し触れられている程度である。
「『思春期について。一般的な二次性徴に加えて、有翼児は翼に変化が出ることがあります。これまでになかった飾り羽が生えてきたり、これまでの翼と全く違う色に変わることもあります。目立つ変化のため、周囲にからかわれ、性的コンプレックスに繋がることもあるため、心配りが必要です』と。へー、飾り羽」
開かれていたページの一文を読み上げて、かなり大人の頃のサイズに近くなった翼を肩越しに見やる。
「俺、大人になったら何か生えてます?」
「いや、大きさしか変わっとらんな」
残念、と応じる声に違和感を覚えて、まじまじと少年を見つめる。
元々、声はさほど甲高くなく、声変わりの途中なのだろうが、そこまで変化はない。大人の彼も重低音というわけではないから、声の変化はあまりないはずだ。
「言葉……?」
昨日まではかなり訛って喋っていたはずだ。大人の彼は、いまどきの若者らしい雑な敬語の端々に僅かに地元の訛りを覗かせる程度だった。今の彼は、その微かな訛りすらない。
「ああ、方言恥ずかしいとかじゃないんですけど、言葉だけで馬鹿にしてくるのが多くて面倒なんで、トーキョー弁にしました。喧嘩ん時とかは使います」
「そうか」
あの最速最年少のウイングヒーローのことを、非常に生意気な小僧だと思っていたが、これはまた新鮮に思えてくる生意気さだ。
昨日、一昨日は実に素直だったのだと、尖った空気を纏わせた少年を見下ろして考える。あれでも頭の良さと強個性で厄介だったのだが、更に増したであろう能力に加えて、思春期が仕事をしているようだ。
ヒーロー事務所の資料を与えておけば、おとなしくしていた昨日までとは違い、扱いに困りそうな雰囲気がある。
今日、この少年をどう取り扱うか考えていると、その沈黙をどう受け取ったのか、へらりと笑いかけてくる。
「とりあえず、顔洗ってきますね」
「ああ、洗面所は……」
「知ってます、八年前と四年前にも来たんで」
現実には一昨日と昨日の話だ、と笑って客間を出ていく足取りに迷いはなく、この部屋数の多い日本家屋の間取りをきちんと覚えているらしい。
昨日の当人の説明では、四年前の遠い記憶のような、もしくは小さな頃の夢のような、ひどく曖昧な記憶だという様子だったが、今の様子では随分と記憶が明瞭そうだ。
すぐに戻ってきた少年に疑問をぶつけると、少し難しい顔で考え込む。
「ちょっと、説明が難しいです。記憶に、あるはずのない思い出が差し込まれた感じっていうか。すごくリアルな子供の頃の夢を見て、現実だったかどうか分からなくなる感じみたいな。記憶が古いのか新しいのかも曖昧で、結構忘れてることもあると思います。この家の間取りとか、台所の皿の配置は何でか分からないけど覚えてます」
夢のようなあやふやさ、というのが一番近いようだ。
ふ、と鷹の眼光が逸らされて、何事かと振り返ると、障子に娘の影が映っていた。
「冬美か?」
「開けても大丈夫?」
やや棘の多い印象の子供の雰囲気が、その声にぴりりと尖った気配を感じとりつつ、障子の外には大丈夫だと声をかける。
己の身長を僅かに越した少年の姿を見て冬美は笑顔を向けたが、ホークスの表情は曖昧だった。少し記憶が混乱しているのか、既知の人物を見る目ではない。
「娘の冬美だ」
「……ああ、フユミ先生。小学校のセンセー。子供の頃に見てたアニメはオールライトレジェンドより、ヴィジランテスター派」
思い出した、と笑うついでに父親が知らない情報が付与されて、問う顔を娘に向ける。
「昨日の朝、お皿洗いながらそういう話してたの。私とホークスさん、学年も一緒の同い年だから」
同世代同士で、子供の頃に流行っていたテレビ番組の話は盛り上がりやすい話題の一つであろうが、おそらく娘は昨日の十歳の男の子がどれだけ普通の生活を送っているか確かめる意図でその話題を振ったし、敏い子供はそれを察知していた。
公安の男は、ホークスのことをカウンセラー嫌いだと言ったが、少し成長してもそれは納まっていないようで、愛想の良い笑顔が表面上のものであることは言動から明白だった。
「お近づきの印にどうぞ」
昨日と同じように、羽を差し出そうとした少年の襟首を掴んで引き戻す。
「それは、駄目だ」
昨日も戻ってから盗聴器にもなるそれを回収させた辺りの記憶も、曖昧になっていたらしい。
じろりと睨むと、しまった、とばかりに片手で顔を覆う。
大仰なジェスチャーで顔を隠す様は、昨日もしばしば見かけたが、そのままじわじわと耳まで赤くなる現象は初めて見た。
「どうした?」
「あの、俺……、昨日……?」
「十歳だったな」
子供っぽい振りをした頭の良い子供で、実に子供だった。
午前中は頭の良さが祟って暴走し、泣いたことも含めてその醜態が恥ずかしかったのか、午後は高所に上って翼の中に閉じこもって降りて来なかった。
最終的にエンデヴァーが大喝して、ようやく身柄を確保したのが夕方のことで、昨日は彼が次々と見つけ出した事件の対応を含め、ひたすらホークスに事務所が振り回された一日だった。エンデヴァー自身は、この三日間ずっと振り回されているが。
「今日はおとなしくしろ。また何か大暴走するようなら、その羽灼くからな」
「……はい」
昨日の、彼にとっては四年前の出来事を克明に思い出したらしく、生意気さを潜めた殊勝な態度で少年がうなずいた。
事務所のスタッフが、報告するかどうかを迷ったような顔で声をかけてきた時点で、話題は予想がついた。
「ホークスか?」
はい、とうなずいたスタッフは、事務所の情報処理担当だ。
今朝、事務所に到着した後、インターネットができる端末を借りたいと言い出したホークスに、この担当者の意見も確認してパソコンを一台貸し与えた。妙なことをすれば、セキュリティに引っ掛かるはずなので、その具申に来たのだろう。
「何をした?」
「ごく普通のネットサーフィンです。ニュースサイトを見て回って、気になった事件は詳しく調べて、動画サイトやSNSも覗いています。書き込みはしていません」
最初はここ十年の、十四歳の彼が知らない未来の世界の年表を追っていたという報告に、特に不思議はないとうなずく。それが目的でパソコンを所望したのだろう。
「検索内容が最近の事件になって、ヒーロー殺しと神野の事件、敵連合についての話題に集中し始めたので、少し気になりまして」
「……社会情勢が変わった大きな事件だから、気にするのは当然だと思うが」
だから、報告するか迷ったのだろう。
「アングラサイトまでは手を出していませんが、敵寄りの過激な思想表明を中心に検索をしているんです」
「…………少し話をしてくる」
昨年の春以降、ヒーロー社会を揺るがす大事件が立て続けに起きた。
敵連合というものが初めて現れた雄英襲撃、ヒーロー殺しの逮捕、そして象徴であったオールマイトが力の減退を衆目に晒した神野の事件。
平和の象徴であったオールマイトが失われた神野の事件が、社会不安の直接的な最大要因だが、その前のヒーロー殺しの逮捕劇はその偏向したヒーロー原理主義の末の、一種の悪の美学を社会に浸透させた。そして、それら全てに関わる敵連合が周知され、犯罪者達の受け皿となりつつある。
本来の年齢のホークスが、事件の詳細や影響を調べていても何とも思わないが、十四歳という今の年齢が引っ掛かる。
ヒーロー殺しの一種のカリスマ性に傾倒する者は相当数に上り、敵指定されている者やその手前の犯罪者予備軍だけでなく、ごく一般家庭の十代の子供への影響に対する懸念をしばしば耳にする。
過激な原理主義と多感な思春期は結合しやすいもので、特にホークスのような特殊な環境下で育った子供が十代半ばであの思想に触れた場合の影響を考えると、どうにも不安になる。
聞く限り、今回の個性事故で若返っている間のことは、記憶は残るものの、夢のような曖昧なもののようだから、元に戻ったホークスの思想に影響することはほぼないだろうが。今朝の様子からして、下手な思想にかぶれて思春期の暴走を起こした場合、大人の彼がしばらく立ち直れない気がするので、今のうちに一度ストップをかけた方がよさそうだ。
所長室を出て、事務所の隅の机を借りてディスプレイに向かっているホークスに近づくと、ヘッドフォンを外して振り返ってきた。
「どうかしました?」
「何を見ている?」
「若者の主張ですね、最近の堕落したヒーローについて。批判対象は主にホークス。あと、肌露出して世間に媚売ってる女ども、みたいな。十代には人気あるって聞いてたけど、原理主義者には嫌われるんですね、俺」
史上最速最年少ヒーローの肩書に加え、派手な翼は見栄えがよく、少々毒舌なトークの巧さもあって、メディア露出の派手な男である。ステインにかぶれた子供には、攻撃対象として真っ先に目につくヒーローだろう。
「大丈夫ですよ、ヒーロー殺しとは趣味が全く合わないんで、何の影響も受けないです」
大人の懸念を理解していたようで、動画を閉じて笑いかけてくる。
「オールマイト以外は全部偽物とか、うるせえ黙れ案件ですよね」
同意を求められても反応に困る。
「俺、どっちかっていうとオールマイト嫌いですし」
二十二歳の彼は、ファンではないという言い回しをしたし、六歳の彼は好きではないと言ったが、十四歳は明け透けだった。
デスクの上にぬいぐるみと一緒に置いていたヒーローカードの一枚を取り上げ、裏面を読み上げる
「『オールマイト。一つの時代を支え続けたヒーロー。神野事件を最後に引退したが、彼はその比類なき力と笑顔で人々を守り抜き、今もなお人々の心を支えている』だそうです。まあ、ザ・スーパーヒーローって人ですよね。笑ってみんなを助けて、全部背負って、平和の象徴、社会の柱。俺、あの人が倒れる時は、社会も道連れに潰れると思ってました。実際、崩壊寸前じゃないですか、今」
「…………」
「オールマイトがデビューした当時は象徴が必要だったんでしょうが、一極集中してこのザマでしょ。自分がいなけりゃ成り立たない平和を続けすぎです、俺ならもっと……」
うまくやる、と最後まで言わせずに、その胸倉を掴んで小賢しい口を黙らせる。
「……エンデヴァーさんって、相当オールマイト拗らせてますよね」
個性で身を浮かしているのだろう、胸倉を掴めば手応えなくそのまま引き寄せられた鳥の囀りは止まない。
「……否定はせんが、貴様も相当捻くれとるな?」
「生意気でスミマセン」
大人の彼も生意気極まりないと思っていたが、あれが可愛く見えてくる厄介さだ。
この反抗期の子供の処遇を一瞬悩んで、浮いた身体を引きずり上げ端末から引き剥がし、両翼を片手で鷲掴んで小脇に抱えて歩き出す。
「エンデヴァーさん!?」
何を、と泡食う少年に、トレーニングだ、と返す。
「貴様はもう何も考えるな、貴様に余計な情報を与えてもロクなことにならん。頭を空っぽにして身体を動かしてろ」
ばさばさと暴れようとする翼の抵抗をいなし、問答無用でトレーニングルームに放り込む。出動やパトロールがなく、待機中にトレーニングをしているサイドキック達に、任せると一言を告げて、エンデヴァーはドアを閉めて抗議の声を遮断した。
昨日と同じ時間帯に公安職員がやって来た頃には、ヒーロー候補の少年の体力は底を尽きていた。
「軟弱だな」
「おー、反抗期でちょっとヒネてた頃のチビスケくん、プロヒーローのトレーニングにはついていけなかったんですかー?」
ぐったりとしたホークスを見下ろし、エンデヴァーが一言告げた後に目良が追い打ちをかける。
「あんな、マッチョ集団に、ついてくような、訓練しても、無駄、なんで……!」
「訓練がんばった子には、ご褒美に親子ライス食べさせてあげようか?」
「子供扱いやめてほしいんですけどー!」
「……親子丼のことなのか?」
昨日も、同じ単語を口にしていた気がする。この食えない男が、わざわざ強調して繰り返しているところを見るに、幼少時の好物だったのだろう。
「いえ、この子オムライス過激派でして。中身がチキンライスじゃないオムライスは認めないんで、ちゃんと中身がチキンライスのオムライスを指して『親子ライス』と言います」
「小さい頃の話を延々と引っ張るのって、年寄りの証拠だと思うんですよねー!」
汗に重く湿った髪をかきまぜる目良の手を鬱陶しそうに払い、じとりと見上げる。
「で、今日は何のお役所仕事ですか?」
「一番手がつけられなかった年頃の君の心理分析をしたいそうです。このテストにあまり考えたりせず回答してください」
「ボールペン貸してください、三色のやつ」
冷たい床に懐いたまま、公安からペンを受け取り、薄い冊子になった診断テストにさらさらと丸を付けていく。特にごねもせず、その態度はしごく従順に思えるが。
「はい、赤が正義感の強いヒーロー的性格、少し自信過剰気味。青が善良な一般市民的気質、ちょっと八方美人っぽい。黒が敵堕ちしそうな犯罪者気質で回答しときましたー」
「はい、馬鹿にされて終わりました、と報告しときます」
昨日より高度かつ、無意味な悪ふざけをする二人である。
まともに聞いていると頭が痛くなるだけなので、呼吸が落ち着いてきたところを見計らって、汗を流してこいと告げる。
「転がっとらんで、さっさとシャワーを浴びてこい。貴様はすぐに冷えて動けなくなる」
「……はーい」
子供じゃない、というような顔はしたが、口には出さずにシャワー室に向かった背を見て、すごいと目良が呟く。
「さすが、エンデヴァーさんには逆らいませんねー」
「不満はありそうだが」
「いやいや、当時のあの子はあんな可愛いもんじゃなかったですよ。分かりやすく荒れたりグレたりなんかしない分、タチが悪くて」
「……公安はどういう教育をしたんだ?」
「いやー、それを言われると」
へらへらと笑ってごまかす男の手にした、三色に回答が色分けされたテストをじろりと睨む。
「それは、何か意味があるのか?」
「まあ、やればやるだけ、カウンセラー嫌いになるだけなんですけどね」
それは昨日から男が繰り返している言葉であるし、実際、六歳児の時点から妙に冬美に警戒心を抱く姿は目にしているので、子供を相手にし慣れた女性に苦手意識があるのは事実のようだが。
「単純にしつこくカウンセリングを受け続けて嫌いになっただけか?」
「いや、ハニートラップもどきを仕掛けたのがいて、大失敗したらしいですね」
「子供相手にか!」
「もどきです。母親的な立場で依存させようとしたみたいですよ。割と最初は懐いてたらしいですが、まあ、小さい頃から頭はいいわ、勘はいいわ、分かってないような顔して全部理解してるわってクソガキだったんで、カウンセラーってのは自分を支配、コントロールしようとするもの、って認識になってからは、完全に非協力的になりました。おかげさまで小さい頃から思春期の過程も心理把握ができず、今に至ります」
「……それの何が問題なんだ?」
「ホークスは何故ヒーローなのか、という理由付けができないからでしょうね」
散々当人にも馬鹿にされていたが、ほとほと呆れはてる組織である。
「貴様らがヒーローにしたんだろうが」
「何で従っているのか分からないと不安なんですよ。特に十代半ばのあの子は、犯罪者の資質をしばしば見せましたからね。本人的にはちょっとしたジョークでしょうが、公安はそこでやっと自分達が稀代の犯罪者にもなりうるものを育てていたことに気付いたんです。いつか裏切るための従順ではないか、というのがここ十年の公安の不安です」
「……阿呆の集団か、公安は?」
吐き捨てるよう唸ると、疲れきった顔をした男は苦々しく笑ってみせた。
「僕には、あの子がどうして僕らに本気で歯向かわないのか、理解できません。あの子にはその権利と力がある」
「必要がないからだろう。権利にも力にも、行使しない自由があるのを知らんのか」
エンデヴァー自身も、火炎の強個性を持って生まれて、過剰な畏怖や警戒を受けて育ったので、ある程度は分からないでもない。
「牙があれば噛みつくに決まっとる、焼き殺せるなら焼くに違いない、裏切る能力があれば裏切るはずだ。そんな顔でビクビクされたら、多少はそういう振りもしてみせるがな。結局しなかったなら、しないんだ。そんなことも分からんのか」
「人間って、『自分なら』するから警戒するもんだと思いますがね。エンデヴァーさんがどうしてそんなに確信できるのか、たぶんうちの連中には絶対理解できないと思うんですが、参考までに理由をご教示いただけます?」
「あれはヒーローだからだ」
きっぱりと言い切ると、疲れた顔の男は唖然とした。
なるほど、彼らにはこの自明が理解できないらしい。
子供に比較的同情的で、あの警戒心の強い生き物にそれなりに懐かれていた男ですらこれなのだから、この環境下でもすくすくと太々しく育ったようで、何よりである。
昨日のあの歪な有り様を見れば、多少癇に障りはするが、図太く生意気に振る舞う姿はむしろ安心しないでもない。
鷹ではなくカラスかと言いたくなる早さでシャワー室から出てきて、タオル一枚腰に巻いた姿で水滴を滴らせながら歩く姿に、瞬時に沸騰する程度の安心だったが。
「服を着ろ!」
乾かせ、というのはもう面倒で、問答無用で熱風を叩きつけて水分を飛ばす。
「アツイアツイアツイ! 着てた服汗だくで、洗濯機放り込ませてもらったんで、洗い終わるまで着替えがないんですー」
「あ、着替えならここに」
言い訳をした少年に、目良が持ってきたキャリーケースとアタッシュケースを差し出した。
「ホークスがこちらに滞在中に取っていたホテルから、荷物を持ってきました。今の身長だとちょっと大きいでしょうが、まあ着れなくはないでしょ」
ちょうどよかった、とキャリーケースを開けて、未来の自分の所持品を少し不思議そうに検分するホークスを横目に捉えながら、エンデヴァーはアタッシュケースを持ち上げてみた。
「空ですよ」
「これは、ヒーロースーツ用の管理ケースだな?」
ヒーロー活動用にデザイン開発されたサポートアイテムは、有資格者だけに与えられた特権であり、その管理は厳重になされる必要がある。今、ケースが空なのは、今回の件でホークスが幼児化した際に着ていたそれを、エンデヴァーの事務所で預かっていたからである。
「公安の方で管理するか?」
「いや、ホークスの身柄は絶対渡さないって息巻いてるのに、コスは渡してくれるとか意味分からないんで、ケースごとお預けしますよ」
面倒くさい、と顔に正直に書いてある男を相手にすることこそ面倒になり、とりあえずホークスのコスチュームを本来の保管ケースに入れてしまおうとサイドキックに持ってこさせると、本来の所有者が反応した。
「それ、俺のですか?」
そうだ、とうなずくと、興味津々で手にとって矯めつ眇めつする。
「参考までに着てみても?」
何気ない口調で問われ、エンデヴァーは僅かに顔周りの炎を増やしただけに留まったが、目良とコスチュームを持ってきたサイドキックは不自然に咳込んだ。
着てみたいと、昨日の十歳の子供ならば素直に言えたのだろうが。持って回った言い回しになるのが、大変年頃らしい。
思わず口元が緩むのは大人の性だが、笑われていると知れば臍を曲げるであろうことも簡単に予想が付いて、エンデヴァーは纏った炎のために読みにくく、元々あまり緩まない表情を改めて引き締めた。
「好きにしろ、貴様のコスチュームだ」
背後の大人達は何ともぬるい顔をしていたが、暫定の監督者であるエンデヴァーの許可に集中していたホークスは、珍しく周囲の反応に目を配り忘れていた。
許可を得て着込んだそれは、本来の背丈より一回り小さい身体にはかなり余る。薄青いゴーグルも少し合っていないのか、俯くとずれるようだ。
「防風防寒メイン……? ヘッドフォンは耳の保護と防寒に通信機? 火力サポートは装備でしてないのか……。目良さん、この色のチョイスの理由聞いてる?」
指がやや余るグローブを開閉しながら、公安職員を振り返る。
「コスチュームは普通っぽく、みたいな話は聞きましたけど。羽が赤いから、黒だと下手打つと禍々しいイメージ持たれるとか、白は血で汚れたりするとイメージダウンに繋がるとか、なんか紛糾してたのをスルーして、君がさっさと決めたとかなんとか」
確かに、ヒーロースーツとしては非常に地味なコスチュームである。下手をすると、私服にすら見える。
翼の色が派手なので、コスチュームで主張する必要性がないとも言えるが。
着てみて満足したのか、子供の興味はサイドキックがコスチュームと一緒に持ってきた携帯端末と財布に向けられた。
「俺のですか?」
首肯すると、財布はポケットにしまい、スマートフォンを手に取った少年は電源を入れて、眉を寄せた。
「……パスワード」
十年後の機械に臆する様子はないのは若さだろうが、十年分のブランク自体は大きいらしく、いくつかの心当たりの数字を入れてみて、残り一回のミスで携帯が完全にロックされる手前で入力を止め、考え込む。
「彼女の誕生日は試したか?」
「え、俺に恋人いるんですか?」
横からからかったサイドキックに、逆に問い返してきたホークスに、周囲の男達が首を捻った。
「あれ、なんかのCMで共演したモデルの女の子と、って噂が週刊誌で……?」
「ミルコとはちょいちょい噂にはなるけど、マスコミ突撃食らったミルコが、ありえないってバッサリ言いきってたしな……」
その他、芸能人や女性ヒーローの名が数名挙げられたが、当人は全く知らない名のため反応が鈍く、サイドキック達もホークスのプライベートを噂以上に知るわけではない。
「よし、携帯ロック解除しろ、メッセージ履歴からホークスの私生活暴け!」
「だから、そのパスワードが分からないんでしょー!」
姦しいことこの上ないが、子供がこのパズルに集中しているようなら、その方が面倒がない。
下手に情報に触れさせると、この子供はろくなことを考えない。
「早く大きくなって、パスワード思い出せ」
「俺だって好きでこんな状態じゃないですー! この個性かけた敵締め上げて、どうにか早く元に戻れないですかね?」
おや、と周囲の目が少年に集中し、注目を受けたホークスがきょとんとした顔をする。
「あー、お前がそうなったのは敵の個性じゃなくて、一般人の個性。発現したての暴走に巻き込まれたから、効果が未知数ってことで、その場に居合わせた所長が身柄預かったんだよ」
「へえ……?」
これまで、事件に巻き込まれたとだけ説明していたので、漠然と敵との戦闘時に受けた個性だと思っていたらしいホークスがエンデヴァーに目を向けてきたので、黙ってうなずくと、今度は馴染みの公安職員に視線を転じ、次にサイズの合わないグローブをはめた両手を見下ろす。
「なんか、病院でした?」
六歳の頃の記憶を引っ張り出しているのか、それとも乳幼児の記憶まで辿っているのか、眉をひそめたホークスが、ガラスの階段、と呟いた。
件の病院のエントランスに設えられたオブジェである。赤ん坊になった時に這い上って一騒ぎ起こしたし、六歳の彼を診断に連れて行った際にも気を取られていた。
きらきらしたものに惹かれる習性があるのかもしれない。
手にしたスマートフォンのロック画面を再度見やり、財布を収めたポケットにそれも放り込む。
そして、緋色の翼が広げられた瞬間、赫色がその輪郭を舐めた。
「どこに行くつもりだ?」
浮き上がった途端に、その個性の大半を焼き尽くされた少年は、身を支えきれずに短い距離を落下して尻もちをつく。
その胸倉を掴んで引きずり上げると、これまでと異なり体重を支える羽が激減したことで、ほぼ実体重がかかってきた。
「脱げ」
凄むと、何故か当人より周囲が焦った。
上司の突然の乱心に狼狽える部下達と、今一つ本心の読みにくい公安職員の驚き顔を見下ろし、ひとまずサイズの合っていないヒーロースーツの上着を剥いで放り捨てる。
「これは、ヒーローホークスのコスチュームだ。子供がちょっと袖を通すくらいは笑って見守ってやるが、それを着て騒動を起こそうと言うなら見逃せん。分かっているな?」
「えー、何のこ、と……ッ!」
空とぼけようとした子供を引き寄せて、ぶかぶかのベルトを掴んで靴ごとズボンも引き落とすと、さすがに顔色が変わった。
「どこに行くつもりだった? その格好で、何をするつもりだった?」
じろりと見下ろすと、少年の目が泳ぐ。
「大体貴様のパターンは読めてきた。いらんところで目敏く、小賢しい。小賢しさに自信があるんだろうが、まだ視野が狭い。大人に不信感が強く、周囲に頼らない。だから無駄な暴走をする」
朝の宣言通り、不審な行動には実力行使で応じ、個性を剥いだ少年の重量を吊すのは大した負荷ではなかったが、首が絞まってるようだったので、ここ数日と同様に軽い子供の身体を引き上げて、左腕に座らせて目線を合わせる。
「言ってみろ、何をするつもりだった?」
「いや、その……」
「子供の救出か、大人の貴様が担当していた事件に手を出そうとしたか、どっちだか知らんが、子供の出る幕じゃない、おとなしくしていろ」
きっぱりと断じると、腕の上で焦って暴れていた子供の動きがぴたりと止まる。
「……救出が必要な子供がいると、認識を?」
至近距離で猛禽類の瞳がぎらりと光って、そちらか、と嘆息する。
「貴様がそう考えるだろうというだけの話だ」
「特殊な若返りの個性を持った、発現したての幼児。公安が放っとくと思います?」
つくづく、所属する組織を一切信頼していない子供である。
エンデヴァーも全く信用していないので、彼の引き渡しを拒否しているのだが。
「その子がどこにいるのか、分かっとるのか?」
「六歳の時に、検査に連れていかれた病院で、厳重に個性抑制された女の子がいた。あの子ですね?」
その記憶と、己の年齢を巻き戻した個性の持ち主が発現したばかりの幼児だったという事実、公安組織に対する不信が合わさって、即行動に移る行動原理は把握した。
病院の場所が分かるのかという疑問はあったが、彼は六歳の時点で事務所を抜け出して、現場に出動したエンデヴァーに追いついてきた実績がある。
ガラスのオブジェのある病院、と特定していたから、出ていけばどうとでもしただろう。
思考に飛躍はあるが、方向性と押さえる点は間違っていないし、とにかくこれは目敏い。違和感を覚えれば迅速に行動に移してトラブルの芽を摘む。多少の空振りを惜しまず、子供が被害に遭っている可能性に思い至れば躊躇がない。
未熟さがなくなれば良いヒーローになるだろうし、実際なったからこそ、あの年齢でのNo.2である。
「今の貴様は知らんだろうが、似たような強個性を持つ女児が雄英で保護されている。情報を共有して、個性の類似性や抑制の仕方を確認しているし、イレイザーヘッド……個性の解除能力のあるヒーローの協力も要請している。暫定で俺の名前で彼女の身柄を保護しているし、子供達の護衛にはサイドキックを常時置いとる。貴様が飛んでいっても特に意味はない」
「……暫定」
「羽仲間だろう。元に戻ったら貴様が面倒見ろ」
鋭く尖った眼光が僅かに和らいで、強ばっていた身体から少し緊張が解けた。
大人や組織など信じない、という子供じみた反発は、彼の実経験に基づいたものだ。一応、現No.1の言葉には信頼を寄せた少年を安心させるように、小さくなった翼を軽く撫でてやって、膨らんでいた羽毛を落ち着かせる。
「きちんと、保護されている?」
「エンデヴァー名義の保護監督と、雄英のバックアップを完全無視して、特殊な強個性の子供を強引に持っていくことは難しいんじゃないか?」
「……なんで、こっち見ますかね?」
もちろん、少女の個性の悪用を企む犯罪者達に狙われることが最大の懸念であるが、組織の都合で人生を振り回された有翼の強個性の被害者の前例がここにいるので、公安職員を見る目も冷たくなる。
「まあ、元々ヒーロー業界に大きな影響力あるエンデヴァーさんが、他と協力なんて技覚えたら、誰もそうそう手は出せないんで。君が助けに飛んでいく必要ないから、暴走はやめなさい。もう暴走もできないだろうけど」
指摘に、子供が肩越しに小さくなった翼を恨めしげに見やる。
暴走する気配を感じとった時点で問答無用で剛翼の大半を焼き払ったので、安定した飛行はできないはずだ。攻撃に使える羽もほとんどない。
「おとなしくしていろと言ったはずだ。次はハーネスを買ってきて繋ぐぞ」
外に放したら最後、手に負えない鳥に改めて宣言すると、当人は数度瞬きをしただけに留まったが、何故か周囲が動じた。
上司が有言実行であることが骨身にしみているサイドキックの一人が、さすがにそれは、とやんわりも諫言してきたが、理解できずに眉を顰める。
「有翼個性の子供は、飛び出し防止にハーネスが必須では?」
「……それは、言うことを聞かない幼児期のものかと」
「これは、現時点で言うことを聞かないだろう」」
全くおとなしくしないし、考えるなと言っても勝手に情報を拾って大暴走する、実に面倒な生き物である。まだ未熟なので先回りできるが、明日辺り、プロデビューした頃の年齢になるのだとすると、もはや監禁措置でも講じておいた方がよい気がしてくる。
「首輪でも鎖でも、これが余計なことをしなければなんでもいい」
「すみません、おたくの所長さん、実は天然の人ですか?」
「ノーコメントです!」
こちらまで届く程度の声で、横のサイドキックに耳打ちしていた目良が、はい、と手を上げた。
「とりあえず、もう今日は悪さできないと思いますし、鎖とか持ち出さなくても現時点で相当いかがわしいことになってるので、うちの秘蔵っ子、放してやってもらえます?」
「いかがわしい?」
「服を強引に脱がせた時点で、割と通報レベルでしたが」
「無資格者がヒーローコスチュームを着たまま外に出ていたら、その方が大問題だろうが」
本人のコスチュームではあるが、同時に今の彼が身に着けて行動していいものではない。
先の飛び出そうとした瞬間を止められていなければ、あの姿のまま病院に殴り込みにいきかねなかった。確保と同時に服を剥ぎ取ったのは、必要措置である。
たとえば、これが女子だったなら、さすがに色々と問題があるとは分かるが、この場には同性しかいないし、先程まで彼がタオル一枚でうろうろしていたのを叱り飛ばしたくらいである。
ベルトで留めていても緩かったズボンは、靴ごと簡単に引き落とせたので、今は黒いアンダースーツのみの姿だが、今回の件で幼児化してから、間に合わせでTシャツなどを着せていた時と大差ない。
「何か問題が?」
「……ええと、とりあえず本人の顔を見てやってもらえますかね?」
顔と言われても、いつの間にか頭を抱え込んで丸くなっていた生き物の表情は窺い知れない。
「どうした?」
「…………」
ぴたりと背に貼りついた翼は、本来の大きさならば身を隠せるのだろうが、先程焼き捨てたので何の目隠しにもなっていない。
腕で隠しきれていない耳が真っ赤になっているのは確認できたが、理由はさっぱり理解できない。
「当人はいかがわしさに気が付いたみたいなんで、放してやってくれます?」
「いかがわしい?」
ヒーローが子供を抱きかかえていかがわしいなどと風評を立てられることがないとは言わないが、それは例えばミッドナイトのような、セクシャルな一面をヒーロー特性に打ち出している場合であって、エンデヴァーはこれまでの活動の中で、そういったトラブルを抱えたことがない。
とすると、ホークスの側に問題があるということになるが、これはただの十四歳の子供である。本来なら体格にぴったりと合わせて作られるアンダースーツはぶかぶかで、その体格の未熟さを浮き彫りにしていたし、その裾から伸びる剥きだしの細い足がじわじわと朱に染まっていようが、背の翼が無体を強いられたように痛々しく不揃いに乱れていようが、羞恥に潤んだ目が許しを請うように見上げてこようが。
「……なるほど」
想定していたよりいかがわしかったことに、遅ればせながら気づく。
十四歳の男子というのは、こういうものだっただろうか、と首を捻りながら、涙目の訴えに従って下してやると、裸足でぺたぺたと短い距離を走って、公安職員に飛びつくようにして盾にする様子は、十歳の頃と大差ない。
顔立ちは整っている方だと思うが、性別を見誤るようなものではない。
背中に生えた翼などという個性を持ってしても、さほど中性的なイメージはなく、幼い頃でも男の子にしか見えなかった。やや痩せ気味ではあるが、プロヒーロー達のトレーニングに多少のハンデでついて行く程度の筋肉もきちんとついている。
外見の問題ではないのだと思う。
「……どういう教育を?」
「あー、こちらの責任を問いますか」
夜、少し迷った末に、静岡の自宅には戻らず、繁忙期に泊まり込む用の都内のマンションに子供を連れ帰った。
長距離を往復するのが面倒になったのが理由の一つだが、昼の一件以降、頑なさを増した雰囲気に、少々危機感を覚えたのもある。扱いにくくなってきている上に、明日には更に手に負えなくなる可能性が高く、正直、本宅に置いておくのは不安要素が大きい。
敵襲撃等を考慮してセキュリティを強化してあるが、古く広い本宅は目が行き届かない部分も多い。内部から翼のある者が逃亡を計れば、食い止めるのは難しい。
最新のセキュリティが講じられた、出入り口の少ない高級マンションの方が、監視は容易い。
「この部屋を使え」
ベッドと机、クローゼットが一通り揃った空の部屋を示すと、訝し気な顔をする。
「誰の部屋です?」
使った痕跡のない真新しい家具の、他の部屋の重厚な雰囲気の調度と少し毛色の異なるデザインに違和感を覚えたものらしい。
「息子用に用意したが、使う機会がなかっただけだ」
末の息子がヒーロー科に進学した時点で用意していたが、職業訓練でやってきた際には保須に出張したため使う機会がなく、雄英が寮制に変わってからは、門限をしっかり守って静岡に帰寮するため、結局使われていない。
「ベッドは慣れないらしいので、そのうち和室に改築する。誰も使ってないから気にせず使え」
「なんかめちゃくちゃセレブ発言聞いたけど、まあ、トップヒーローそんなもんか……」
一つぼやいて、スーツケースを部屋の隅に置き、ぬいぐるみを枕元に置く。
六歳の頃に与えられたおもちゃなど、持って回る必要はないと思うのだが、ところどころで妙に律儀な反抗期である。
「夕飯は好きなものを頼め、俺はもう少し仕事をしている」
おとなしくしていろ、と言い含めると、肩をすくめて口先だけで諾と応じる。
昼にほとんど灼き尽くしたものの、既に少し生え揃いだしている翼に目を向け、改めて灰にしておくか悩むと、その目に気付いたようで、警戒気味に背を庇う。
「燃やされたくなかったら、おとなしくしていろ」
「はぁい」
口先だけの返事に苛立って、じろりと睨みやるが、幼児ならば泣かせ、大の大人も怯むフレイムヒーローの眼光を、乳幼児の頃から笑っていなした子供は、十四歳になっても肩をすくめて受け流した。
「うるさい」
「静かにしてます」
「目にうるさい」
酷い言いがかりに聞こえるが、あえて視界に入る位置で、ぬいぐるみを抱えてごろごろとリビングを転がる生き物が非常に煩わしい。
「構ってくださいなんて、一言も言ってませんー」
ロックを解除できない携帯電話を手に、口を尖らせる子供が姦しい。
「エンデヴァーさんって、パソコンで仕事するんですね」
「ヒーローの仕事は、ほとんどが書類仕事だ」
見るな、と先に告げてあるので、画面を覗きこんできたりはしない辺り、一線は弁えているようだが、おとなしくしているという選択肢はないらしい。
あまり静かにされても、また何かしでかしていないかと不安になるので、視界に入っていた方がいいのかもしれないが、目に入ると縮んだ赤い翼がぱたぱたとはためくのがうるさい。
「眠いなら寝ろ」
「子供じゃないんだから、こんな早くに寝ませんー」
その言動が子供である。
午後もトレーニングに放り込んで絞らせておいたので、体力は底を尽きているはずだ。早めにベッドに放り込んでしまおう、という目算は、子供の妙な意地に阻まれている。
「書類仕事って、事務スタッフとかサイドキックがやるもんなのかと思ってました」
「一から作る仕事はほとんどないが、確認して承認するのが俺の仕事だな」
サイドキックもサポートスタッフもかなりの人数を抱えた、大規模なヒーロー事務所である。事件解決件数最多を誇るには、それだけの後処理を必要とするし、その最終責任はエンデヴァーにある。
日々片づけていかないと、決裁書類は山積みになっていく。
「貴様も、元に戻ったら大変なことになってるぞ」
多数抱えたサイドキック達による事件対応数も多いエンデヴァー事務所と違って、ホークスの事務所の事件解決数は、所長本人の出動によるため、彼が活動できていないこの数日、対応した事件の後処理などは激減しているだろうが、それでも日々の雑務は積み重なっていることだろう。
「……今のうちに俺がやっておけることってあります?」
「ない。無資格者が手を出すな」
本人なのに、と不満顔だが、経験のない子供が触れていい業務ではない。
「貴様のところのサイドキックは、貴様のフォローに徹底しとる。それなりに上手く処理しているだろう」
「……俺の、サイドキック」
ヒーローになるため育てられていた子供は、自分が数年後にプロヒーローになっているという事実については当然の顔をしていたが、部下を持っているという当たり前の状況については今一つ実感がなかったものらしい。
少し妙な顔をして考え込む。
「俺って、高校卒業してすぐ事務所立ち上げたんですよね?」
「らしいな」
「サイドキック時代はなし?」
「ないだろうな」
「インターンはどこ行ってたんですかね?」
「知らん」
ホークスというヒーローは、事務所立ち上げと同時に派手に脚光を浴びたが、それまでの経歴はあまり触れられたことがない。雄英出身者のように在校中から注目されることのない、どこかの高校のヒーロー科の課程を終えて、プロ資格を得てデビューしたはずだ。
そうなると、全国から声がかけられる雄英生と異なり、学校がコネクションを持つ地元のヒーロー事務所などに受け入れられてインターンに入るのが一般的だが、公安の思惑で動かされてきたであろうこの子供が、どういった経歴を持つか気になった。
報告書のファイルを一度閉じて、インターネットで「ホークス、経歴」と検索をかけると、ファンがまとめたらしい真偽が少々怪しいページがヒットする。
「……節操がない」
数か月ごとに所属を変えているらしく、ありえない数の事務所を転々としている
「九州中心に、西日本にある事務所ばっかりですね。色んな系統のところ行って、とにかく色々見てこい系のセレクトかなー」
画面を見せると、想定内とばかりのあっさりとした反応だったが、僅かに落胆した気配があった。
「どうした?」
「いや、俺、どっちかっていうとサポート向きの個性なんで、どこかできちんとサイドキックやってたかなって思ってただけです。サイドキックやってないどころか、インターン時代めちゃくちゃ手抜いてますね」
評価の数字を見る限り、手の内を見せるなとでも指示されていたのか、どの事務所でも際立った功績は上げていない。
「どこか行きたい事務所でもあったのか?」
「……別にー、そういうわけじゃないですけどー」
何気ない問いに、たちまち気配が尖ったので、むしろ真実を穿ったことを悟るが、つついても棘が増えるだけで面倒だ。
「眠いなら寝ろ」
「だから眠くないですー」
あいにくと、エンデヴァーには眠くてぐずっている幼児と大差ない生き物にしか見えないので、目が半分閉じている子供をソファに向かって転がすと、業務を再開する。
ソファの上でぬいぐるみを抱えて転がる度に、背の赤い色彩が視界の端でちらつくのも、エンデヴァーの一挙一動をじっと観察している金色の眼も、実にうるさい。
存在がうるさい生き物を無視して事務処理に集中し、ふと気が付くと周囲が静かになっていた。ようやく寝落ちたらしい、と一つ嘆息して席を立つ。
ぬいぐるみを抱き込んで丸くなって眠る顔は稚く、どこが子供でないのだとぼやきながら、このまま放置すると風邪をひくであろう少年を抱え上げる。
「ん…ぁ、……ッ!?」
少しミスをしたとすれば、眠りの深かった乳幼児の頃と混同しすぎたのが原因だろう。
警戒心の強い生き物は、抱き上げた途端にぼんやりと目を開け、間近にあったエンデヴァーの顔を認識した瞬間に沸騰して暴れ出した。
「なっ……!? 離……ッ」
「やかましい、寝てろ」
思春期は面倒くさい、と暴れる細い身体をがしりと拘束して、問答無用でリビングを横断しようとするが、抵抗が激しくままならない。
「ホークス」
いい加減にしろ、と唸ると、びくりと身を震わせて抵抗が止んだ。
半ばずり落ちかけていた手足をもう一度抱え直して、翼の下を軽く叩いてあやすとうつむく顔が赤い。子供が何を恥ずかしがるかと嘆息しかけ、はたとそれに気づくが、今更降ろすのも面倒で、抱えたまま子供部屋のベッドまで運んで転がす。
「おとなしく寝ろ」
うずくまって睨みあげてくる目に、本日何度目かの嘆息をする。
「ただの生理現象だ、気にしないでとっとと処理して寝ろ」
思春期とはそういう時期だった、と今更ながらに思い出して、きっかけなどなくとも反応する身体なのだから気にするな、と告げて向けた背に柔らかいものがぶつかった。床を転がったぬいぐるみを拾い上げ振り返ると、逆上した目に睨まれて、反抗期を相手にするだけ無駄だと諦める。
何も言わずに部屋を出て、手にしたままだったぬいぐるみをソファに置いて、これを六歳の頃に与えた際の不器用な喜びようが懐かしいと額を押さえる。
実の子の思春期にすら向き合っていないのに、他人の、本来なら成人した同業者の二次性徴も含めた思春期など手に負えない。
「あっ、やっ、そんなトコ……ッ」
手に負えないというのに、背後から響いた嬌声に額を押さえたまま苦々しい顔になる。
ずっと手にしていたスマートフォンのロックを解除して、大音量でアダルト動画でも流しているらしい。
生来の短気で頭に血が上って、踵を返して戸口に立って、その場で後悔した。
サイズがやや合わないスウェットの緩いウエストの隙間から手を差し入れて蠢かせ、Tシャツの裾をたくしあげ、肌に手を這わせて身悶えしてみせる姿は、昼間よりいかがわしかったが、当人が考えているほど色気がないのは、目つきが鋭すぎるからだ。
「いやぁん、エンデヴァーさん、見ないでぇ」
声だけはわざとらしく甘ったるかったが、目つきは挑戦的に鋭い。
「……何をしとる?」
「処理をしろと」
子供の挑発に、ぶつりと堪忍袋の緒が切れた。
「分かった」
足音荒く室内を横断し、学習机の椅子を引き出し、どかりと座ってベッドの上で痴態もどきを晒している子供に相対する。
「続けろ」
「え……?」
戸惑った少年に、再度続けろと告げる。
「処理をするんだろう、続けろ」
やってみろ、と睨みつければ、さっとその顔が青ざめた。
さすがに怒らせたことを悟って、手を引っ込めようとした子供をその目で制する。
「なんだ、散々大人を挑発しておいて、そのザマか」
安い挑発に同レベルで応じてみせれば、睨みあげてくる両眼がぎらりと光る。
「んっ、エンデヴァーさん、って、こういうの、好き、なんです?」
一睨みしてその口を閉じさせるが、口元の笑みは消えない。
「あっ、いや……、見ないでぇ」
わざとらしい喘ぎ声をあげて、身をくねらせるが、無言で見据える冷たい目の色に、次第にその声が小さくなって、じわじわと顔に朱が上る。
「どうした?」
手が動いていない、と淡々と告げると、一瞬息を呑んでじわりとその眼が潤む。
「……ッ!」
詰まった息に、これまでのわざとらしい嬌声とは異なった艶が滲んだ。羞恥に上気した顔が許しを請うようにエンデヴァーを見上げた時点で、不意に状況の異常さに気がついた。
たくしあげていたTシャツは、いつのまにか伸びきりそうなほど裾を強く引っ張って身を隠し、その下でぎこちなく這う手が、くちくちと小さな水音を響かせる。その音の卑猥さに、ますます泣きそうな顔がうつむいて、立てた膝に隠れた。
これはまずい、と気づいて慌てて立ち上がると、その気配に身をすくませて濡れた眼がエンデヴァーを見上げた。
「……もういい」
悪かった、と背に手を伸ばした瞬間、びくりとその肩が跳ねた。
「あ……」
表面張力が決壊して、ぼろぼろと涙を零しながら立てた膝にその顔を埋めた少年の周囲を、特有の青臭い匂いが取り巻いて、額を押さえて深く息を吐き出す。
「立て」
腕を掴んで引き起こし、足下の覚束ない子供を引きずってバスルームに押し込む。
「少し頭を冷やせ」
呆然と泣き濡れた顔を扉を閉めて視界から閉め出し、改めて両手で頭を抱えた。
これは、もしかしなくとも、年端も行かない子供相手に性的虐待を行ったといわないだろうか。
まず、子供の挑発を相手にしてはならなかったし、そもそも、多感な年齢だと分かっているのだから、性的な兆候に気づかない振りをするのが正解だったのだ。意地を張るのは目に見えていたのに、先に無用な挑発をしたのはエンデヴァーの方だ。
挙げ句、自慰を強要して辱めたなど。
長年、プロヒーローとして活動してきて、こんな事態に陥るなど想定しておらず、半ば呆然としていて、はたと時計に目をやる。
いつ、バスルームに押し込んだか、正確な時間は定かではないが、まだ出てくる気配がないのはおかしい。
「ホークス、大丈夫か?」
脱衣所に入って声をかけるが、浴室から応えはなく、ただ水音だけが聞こえるが、磨り硝子の向こうに赤い翼の影が見える。少し落ち着いて自分から出てくるまで待った方がいい気はしたが、また一人で考えすぎている気がしてならなかったので、開けるぞ、と声をかけてガラス戸を引き開ける。
びくりと身を震わせると同時に、小さくなった翼が一瞬広がって、水滴を跳ね散らかした。
飛沫が冷たい、と認識すると同時に浴室に踏み込んで少年の腕を掴めば、冷え切っている。
字義通り、頭を冷水のシャワーで冷やしていたと知って、瞬間的に沸騰しかけた頭が跳ねる水飛沫に冷やされた。
「お前は……、俺をどうしたいんだ……」
慨嘆に力はなく、冷え切った子供の身体を抱き込んで呻けば、ごめんなさい、と蚊の鳴くような声で謝罪して啜り泣く。
「いいから出ろ」
バスタオルで翼ごと少年の身体をくるんで抱き上げ、温めながらリビングのソファに移動して手の体温を上げたところで乾かない両頬を挟み込む。
「すまん、俺が悪かった」
濡れた金の眼が戸惑ったように揺れる。
「お前の気が済むようにする。処分は何でも」
「……エンデヴァーさん?」
よく回る頭が今は全く働いていないようで、意味が分からないという顔をしている子供の濡れた髪を指で梳いて乾かしていく。
「未成年者に淫行を強いたら、法的にも社会的にも処分が下るのは当然だろう」
「ちがっ……」
ばさりと翼が広がって、その拍子にバスタオルが落ちて、今の状態もまずいと気づく。着替えを取りにいこうと、タオルを巻き付け直してソファに子供を置いて立とうとした腕に縋られる。
「だ、駄目、です……! ごめっ、ごめんなさいっ! 俺、そんなつもりじゃ、なく、って、ごめんなさいっ」
「落ち着け!」
恐慌状態でぼろぼろ泣きながら縋ってくる子供に、ソファに座り直して冷たい肩を抱いて落ち着けと言い聞かせる。
「ごめんな、さ……っ! 駄目や、エンデヴァーさん、行かんで! エンデヴァーの名前汚せん!」
手を離すと、エンデヴァーが警察に出頭でもしかねないと思っているらしいこの生き物を、どうすればいいのか全く分からない。
謝罪しながら泣きじゃくる子供に、分かった、と根負けする。
「お前が嫌がることはせん。明日、明後日以降のお前の判断に任せる」
嫌ならばこの件は公にしたりしないと確約して、なんとか落ち着かせると、今度は羞恥がぶり返してきたようで、ほろほろと泣き続ける子供に深々と嘆息する。
一つだけ、分かったことがある。
今日一日、十四歳の彼を必要以上に子供扱いして反発を招いてきたが、これを、子供だと思いこまないことには、エンデヴァーはこの生き物をどうしていいか分からない。
