年度末締めといっても、借金取り立ての用心棒という職種では、月が変わっても何が変わるわけでもなく。
ここしばらく殺気立っていた経理担当が諦め顔で、早めに回収して下さい、と二人を送り出した程度の違いでしかなかった。
五分咲きの桜の下をいつもよりゆっくりと歩く上司の後ろについて、いい天気だ、だとか、週末には満開だろう、だの、会社の花見の予定だの、入学式にちょうどいい、といった呟きにいちいち相槌を打つ。
平和だな、とのんびりとしたトムの口調に、静雄はうなずいた。
「ノミ蟲野郎がここしばらく来てないっすから」
言ってしまってから、自らこの春の平穏さを台無しにしたことに気づいて、静雄は苦々しい顔になった。あの男のことを考えるだけで虫唾が走るというのに、何故話題にしてしまったのかと苦く思うが、静雄の扱いを心得ている上司はなかったことにして話題を変えてくれることだろう。
「……ノミムシって?」
しかし、静雄が心から尊敬する上司は、何故かいつものようにさりげない方向転換をしてくれなかった。
「いや、だから、臨也の奴が……」
「イザヤ?」
苛立つよりも、静雄は奇妙な焦りを覚えた。
トムは折原臨也の名が最大の禁句だとよく弁えているし、静雄がこういった問答を嫌うことも熟知している。禁句である臨也の名前を使って、会話を引き伸ばすような真似をするはずがない。
「だから、折原臨也が最近顔を出さない、って……」
「日本人なのか、イザヤさん」
会話が、噛み合わない。
「……友達か?」
「ハ!?」
思わず声を高めた瞬間、トムがしまった、という顔をした。
「いや、スマン! 何かアレか、お前を倒して名を上げようって馬鹿の一人か」
「トム、さん?」
何を言っているのだ、と混乱しながら、上司の肩を掴む。
「臨也ですよ? 情報屋の、新宿の折原臨也」
見下ろした上司の顔は、少々ひきつっていたが、同時に不審そうだった。
「だから、誰?」
混乱のあまり、その場で凍りついた静雄に、トムは畳み掛けるように問うた。
「俺が知ってないとおかしい奴か? 情報屋とか言われても、別に俺、そんな情報売り買いする必要ある仕事してねえし。うちの名簿の管理とかは事務方がやってっからなあ。そもそも、何でお前がその情報屋なんかと関わってんだ?」
重ねられる問いに答える余裕はなく、どうにかトムの主張を理解する。
折原臨也という男など、知らない。
何の冗談だ、と考えて、はたと気がついた。
今日は、年度初めだ。
「トムさん、俺、エイプリルフールとか好きじゃねぇんですけど」
膨れ上がっていた混乱や不安が氷解して、どっと疲労を覚えながらぼやくと、トムが眼を瞬かせた。
「あ? エイプリルフール、の冗談か、今のは?」
面白くない上に意味が分からなかったぞ、と告げられてまた思考が停まる。
「あの、嘘、っすよね?」
「だから嘘なんだろ?」
噛み合わない。
「臨也、知ってますよね?」
「まだその名前引っ張んのかよ! って、待て。分かった、ちょっと待て」
よほど情けない顔をしたのか、トムが口調を変えて静雄の両腕を叩いた。
「まず、俺を信じろ。エイプリルフールだからって、お前を馬鹿にするほど俺は命知らずじゃない。で、俺は、嘘を吐いてない」
いいな、と念を押されて、静雄はこっくりとうなずいた。
「俺は、オリハライザヤとかいう奴を全く知らない」
誰だ、と問う声はしごく真面目だった。
「新宿の、情報屋で、前は池袋根城にしてて、俺と毎日ケンカして。今も何だかんだと池袋に来やがるから、来るたびにケンカして、二度と来んなって言っても、やっぱ来て、またケンカして。サイモンとか、門田に止められて、ええと……」
腐れた縁の情報屋のことを、いざ説明しろと言われると戸惑うしかない静雄の、要領を得ない説明に耳を傾けていたトムが首を傾げる。
「そのイザヤって奴は、あれか、サイモンみたいな大男かなんかか?」
「いや、ヒョロっとしてるっす」
「お前も見た目は細いけどな……、そいつもあれか、自販機片手で投げちゃえる人種か?」
「俺、ちゃんと両手使ってますけど」
片手で投げれないこともないが、バランスが悪い。
「そういうこと聞いてんじゃねえっての」
嘆息したトムに問われるまま、ぼそぼそと天敵について答え、しばらくしてトムは集めた情報を要約した。
「つまり折原臨也ってのは、新宿の情報屋で精神異常のレベルで性格が最悪、人を陥れて楽しむ悪党。来神時代からお前は何度もそいつにハメられて、犬猿の仲で顔を合わせれば殺し合いになる。見た目は細くて、武道の達人ってわけじゃないが、ケンカはそこそこ強い。ナイフを使うが、お前には刺さらない。逃げ足が早い。あと、顔だけはいい」
これで間違いないか、と問われて、最後の情報はいらなかった気がすると思いながらうなずくと、上司は困った顔で頭を掻いた。
「いや、いねぇよ、そんな奴」
「っ!」
「待て、落ち着け、落ち着いてよーく考えろ。お前の言ってる通りなら、そいつ、フツーの奴なんだろ? いや、性格じゃなくて、最悪なのは分かったから。強さって意味でだよ。そいつ、大概逃げ切るけど、たまにはボコボコにしたんだろ?」
無理だ、と告げられた否定の言葉に呆気に取られた。
「お前をハメて怒らせて、殺してやろうと本気で思った奴が生き残れるはずがねーだろ。少なくとも半殺しにされた後に、まだちょっかい出してくるとか、それを延々八年続けるとか、ありえねぇだろ」
ぽかんと、した。
「もしもそんな奴がお前の周囲にいたら、俺が知らねえのは確かにおかしいよ。で、何度でも言うが、俺はオリハライザヤなんて知らない」
分かるか、と問われるが、分からない。
ひどく鈍い反応を返す静雄に、トムは言い聞かせるように告げた。
「そんな人間、いるはずがない」
明るい春の陽射しの中で、何故か目の前が暗くなった。
「来神の時の、同級生? オリハラ?」
仕事が終わってすぐに、いつもたむろっている場所で、高校時代の知り合いを捕まえて矢継ぎ早に共通の同窓の知人であるはずの情報屋の名を出して問うと、門田京平は困惑の表情になった。
いたか、そんな奴、と首を捻った表情はごく自然だった。数年前の、特に親しくもなかったクラスの人間の名字を思い起こそうとする顔だ。
「いたような、いなかったような?」
そんな記憶の片隅に追いやれるような人物ではないだろう、と肩を揺さぶりたくなるが、本当に知らないのだ、と理解して言葉を失う。
「で、そいつが、どうかしたのか?」
話にならないと悟って、門田がいつもワゴンで行動を共にしている仲間達にも眼を向けるが、曖昧な笑顔で首を振られた。
殴られたような衝撃を受けたことにしばらく考え込んで、頬を伝う濡れた温い感触の理由も悩む。門田とその仲間達が引きつった顔をしているのを眺め、それから改めて頬に伝うものを指で拭って、指先についた朱色を見下ろし、ゆっくりと背後を振り返る。
「え、あ、へ?」
曲がった金属バットを手に、人を殴ったとは思えない感触に呆然としていた絵に描いたようなチンピラが、間の抜けた顔で池袋の自動喧嘩人形を見上げた。
何やら背中が隙だらけでぼんやりとしていた金髪のバーテンを見つけて、これが噂の平和島静雄かと、周囲が止めるのも聞かずに手にした凶器を振り下ろすことに何の躊躇いも覚えない種類の暴力的な若者だったが、更に理不尽な暴力というものを彼は理解していなかった。
血まみれのまま軽く首を傾げた男が、無造作に横に立っていた標識を引きちぎるのを、確かに目にしたが、その意味を理解する前に駐車禁止を示した鉄板に横っ面を殴り飛ばされて数メートルの距離を吹っ飛ぶ。
小学生が傘を引きずるように、からからと標識を引きずって静雄はチンピラの前に屈み込むと、丁度良かったと凶悪な笑みを浮かべた。
「お前よぉ、オリハライザヤってノミ蟲知ってっか?」
「…………は?」
「知ってんだろぉが!?」
片手で軽々と重量級の男の巨体を掴み上げ、揺さぶるその手の反対側に握られた標識の棒が手の形に握り潰されているのを見て、チンピラは自分が喧嘩を売ったものが、何故池袋最強と言われているのかを初めて理解した。
「し、知りません、スイマセン!」
「嘘吐いてんじゃねぇよ! 俺に喧嘩売ってくる馬鹿は全員アイツの差し金なんだよ! いいか、全ての元凶はアイツだ! 何もかも臨也が悪い! 全部あのノミ蟲のせいだ、そうだろーが、なあ!?」
「はい、そうです、スミマセン!」
逆らわない方がいいと判断して、がくがくとうなずくが、目の前の人型をした暴力という名の理不尽は、納得しなかった。
「てめぇ、今テキトーにうなずいてんだろ?」
「そんなことないです、スイマセン!」
「じゃあ、臨也知ってんな!?」
「スイマセン、知りません、スイマセン! ホンットにスイマセンした!」
謝罪の言葉しか口にしなくなったチンピラに舌打ちし、静雄は無造作に相手を放り出すと、血で汚れた顔を手の甲で拭って、目を回したチンピラを見下ろして再度舌打ちした。
「アレだ、ノミ蟲に甘い門田とか、ノミ蟲に操られてる下っ端に聞いても丸め込まれてんに決まってんだよな」
絶対に嘘を吐かない人物は誰だろう、と考えて、結論はすぐに出た。
「サイモン!」
「オー、静雄! 何か慌てテルネー? 慌てるの良くないヨー。落ち着いて寿司食べるといいねー、お茶飲んで、お腹イッパイ食べる、これで万事OKヨ!」
「臨也知ってんな!?」
池袋の自動喧嘩人形に掴みかかられるようにして、詰問された露西亜寿司の客引きは、数度眼を瞬かせた。
「アイゼイヤ?」
「イザヤ!」
「イジャイア?」
「臨也っつってんだろ! 喧嘩すんなって、いっつもお前が庇ってるノミ蟲だよ!」
「虫は良くないネー、料理屋の敵ヨ。バルサン焚いたら、掃除大変ヨー」
静雄が臨也と池袋で殺し合いの喧嘩をして、静雄が優勢になると必ずと言っていいほど割って入って止めるのは彼だ。とぼけているようにしか見えないが。
「…………知らないのか?」
「何がネ?」
言葉が通じていないわけでも、とぼけているのでもなく。
この優しい巨漢が知る世界には、折原臨也はいないのだと、知った。
「静雄さーん!」
右腕に荷重がかかったかと思うと、僅かなタイムラグを置いて左腕にも同程度の重量が加わった。
左右を見下ろして、全く同じ面差しの、全く印象の異なる二人の少女の姿を認めて静雄は無言で両腕を上に上げた。軽々と宙に浮いた右側の眼鏡のセーラー服を纏った少女は楽しげな悲鳴を上げ、左側の体操着姿の少女は無言で静雄の腕に縋り直した。
「お前、ら……」
「今日、池袋で幽平さんのロケあるってホントですかー!?」
「……いや、知らねえけど」
俳優業を営む弟の熱狂的ファンを自称する少女ほど、静雄は弟のスケジュールを把握していない。
「お兄さんのくせにい!!」
不満げに口を尖らせる少女達の三つ編みと肩で切りそろえた髪をを掻き混ぜてやってから、静雄は双子を改めて見下ろした。
「お前らの、兄貴は?」
「…………兄?」
「無(いませんけど)……?」
予想していたリアクションだったが、静雄の知る男と血縁関係が明らかなよく似通った顔立ちの二人に否定されると、全ての気力が萎えた。
「あれ、静雄さん? どうしたの? え、あ、もしかしてー! アタシと幽平さんが結婚すれば、静雄さんが自動的にお義兄さんになるって話!? いい! それチョーいい! アタシとクル姉と静雄さんと幽平さん、みんなで兄妹!!!!」
甲高い声で捲し立てられる一方的な未来図に、一人欠けている。
「だから、臨也は?」
二対の眼が示し合わせたかのように、同じ速度で瞬いて、異口同音に問い返した。
「「誰?」」
数度のコール音の後に、今電話に出られない、と機械音声より人間味のない弟の声が淡々と再生された。
「幽、折原臨也って知ってるか? 知らなきゃそれでいい。時間ある時に折り返してくれ」
簡潔に用件を吹き込んで通話を切ると、三十秒後に携帯が鳴った。ディスプレイに弟の名が表示されるのも見ずに、電話に出る。
「幽?」
『知らない』
開口一番の簡潔極まりない一言に、静雄は瞠目する。
『誰なのか、聞いた方が良い?』
「いや、聞かれたら頭がおかしくなりそうだ」
既におかしくなっている気がする、と金色に染めた髪を掻き混ぜながら唸る。
『分かった、聞かない』
淡々と応じて、また後で、と忙しい合間を縫って連絡をしてきた弟が電話を切る。
今日がエイプリルフールなのは分かっているが、幽は兄に対してそういった真似をしない。
弟がその存在を否定するなら、この世界に折原臨也などいない。
「……そりゃ、平和な世界だな……」
独りごちてサングラスをかけ直す。
夜の街に移行する段階から、更に一段階暗くなった世界は、いつも通りの人でごった返した池袋の情景だったが。
「そうか、いねぇのか、アイツ」
それは、きっと平穏な世界だ。
『大丈夫か?』
不意に目の前に差し出されたPDAを、静雄は黙然と眺めやってから、引き戻されたPDAに更に打ち込む黒いライダースーツの人物に目を向けた。
『顔色が悪い』
「セルティ」
池袋の都市伝説が、様子のおかしい友人を心配して声をかけてきたものらしい。
「…………情報屋の折原臨也って知ってるか?」
黄色のフルフェイスのヘルメットが不思議そうに傾き、次いで横に振られた。
「だろうな」
予想通りの答えにもはや驚きもせず、手にしたままだった携帯から、目の前の首無し妖精の同居人の番号を呼び出した。
「新羅、くだらねえ話は聞かねぇ。訳の分かんねえ嘘も吐くな。嘘だって分かった時点で踏み殺しに行く」
出だしから物騒な切り出しに、隣のセルティが焦ったようだったが、電話の向こうの腐れ縁は気にした様子はなかった。
『どうかした?』
「折原臨也って知ってるか?」
『察するに人名、僕が知ってないとおかしいって口ぶり、不機嫌そうだけど、むしろどっちかって言うと焦ってるようだね。総合すると、その人物について、エイプリルフールで何か騙されてないかい、静雄?』
どちらかと言えば、件の人物と同じ属性に近いものを持つ闇医者が、つらつらと見解を述べてから、回線の向こうの静雄の苛立ちに則して、簡潔明解に答えた。
『知らない』
先輩と弟がその存在を否定した時点で諦めていたので、動揺はしない。
ただ、念のために一応問うた。
「俺が嫌いで嫌いで嫌いで、本気で殺してやろうと思って、高校三年間毎日殺し合いの喧嘩をして、今も週に一度は殺す気で車や自販機投げてんのにまだ生きてる馬鹿っていると思うか?」
『…………また、凄いめちゃくちゃな前提すぎて、コメントに困るよ、静雄』
返答代わりの苦笑を黙って聞く。
『あれ、もしかして、本気で言ってる? まあ、静雄と同じ特異体質の人がいれば、有り得るんじゃないかな? あとはサイモンレベルの戦闘能力あればできるかもしれないけど、サイモンと静雄が今まで共倒れになってないのって、静雄が一瞬キレた時にぶつかる程度で基本的に仲が良くて積極的に喧嘩しないからだし。殺し合い、ってレベルで生き残るとなると、伝説の古代武術の後継者とか、妖怪変化じゃないと』
「普通の、逃げ足が速いだけの人間」
『無理無理無理無理。僕が静雄キレさせて逃げ切るより無理。人類には限界ってもんがあるんだよ、静雄。今まで君に吹っ飛ばされた人間で、リベンジしてきた回数って最高で何回? まず、十回以上チャレンジしようなんて馬鹿いないからね。自殺願望があっても、もう少し確実でまっとうな方法で死に方選ぶよ』
昼に上司が言った通りの内容を、更にぺらぺらと理路整然と述べる台詞を半ば聞き流しながら、暗くなった夜空を仰ぐ。
静雄の沈黙をどう捉えたのか、闇医者はカウンセラーのような、落ち着いた優しげな声で問うた。
『夢でも、見た?』
「………………かもな」
認めた瞬間、目の前が白々と明るくなった。
都心のネオンの光で薄赤い夜空から一転して、白い雲の浮かんだ明るい青空を呆然と見上げ、サングラスの下で眼を瞬かせる。五分咲きの桜の薄紅色が春の陽射しに映える。
意味が分からない。
「どうした、静雄?」
変な顔をしている、と上司に指摘され、静雄は額を押さえて頭を振った。
「……今日って、何日でしたっけ」
「四月一日」
明解な回答に、静雄はしばらく考え込む。
「トムさん、折原臨也って誰だか分かります?」
しばらくの沈思の末の問いの答えは、その倍の沈黙だった。
「…………それは、あれか、エイプリルフールの冗談か何かか?」
ざわり、と心が波立った。
もう一度この尊敬する先輩に、そんな人間は存在しない、と告げられたら、己の正気を疑って仕事を早退して病院でも行こう、と心に決めてトムの言葉の続きを身構えて待つ。が、その続きは聞けなかった。
「あ」
こちらを見たまま小さく声を上げたトムが、静雄ではなくその背後を見ていることに気づいた瞬間、右腰の辺りにちくりとした感覚を覚えると共に、背後から右腕を強く掴まれた。
「っていう夢を見たんだ」
坦々とした耳触りの良い男の声が、背中に染みた。
右腕を掴む手は相変わらず冷たかったが、肩にかかってくる重みは少しだけ温い。腰骨辺りに突きつけられている冷たい金属の感触は、いつものナイフだろうか。
「振り返るな」
命令するな、と思うが、確かに振り向きたくもなかったので、正面の上司に意識を戻す。
踵を浮かせ、やや引きつった顔をしたトムは、その場から遁走するか、場を収める努力をするか決めかねているような、ごく見慣れた表情をしていた。
「夢かよ」
「夢だよ」
ハクチューム、と嘆息を多分に含んだ音が背に染みる。
同時に背中がちくちくと痛む。
「刺すな、服が破けんだろが」
「普通は死ぬんだよ、常識的に考えて。専門用語でいうところのJK。少しは空気読んで死ねよ、JK」
ざくざくと盛大に人の服を切り刻んでくれている人間に、常識のなんたるかを説かれたくはない。
「ホントに刺さんないし。何この身体、化け物にも程があんだろ。有り得ないっての。こんなデタラメな人間、いるわけないよね。ナイフは刺さらない、撃たれても死なない、改造スタンガンも効かない。キレるとその辺のもの投げつけてくる、ポストとかバイクとか自販機とか。俺の顔見ると、その辺の標識ねじ切って追っかけまわしてくる。超人気美形アイドルが実の弟、そんなバーテン姿の暴力お兄さんは実在しますか、って言ったらみんなに頭大丈夫かって心配されて、本気で自分の正気を疑ったうららかな春の日の白昼夢。シズちゃんの存在が俺の悪夢です。死ねばいいのに」
普段ならもう怒りで振り切れている頃合だが、爽やかな声でつらつらとよくもこう、次から次へと捲くし立てるものだと、怒るよりも感心した。呪詛に似た台詞と声音が全く合致していないが、どんな顔をしているのかと肩越しに振り返ろうとし。
「振り返んな」
「っせえよ」
「振り返るな!」
拒絶を無視して振り返ろうとした瞬間、悲鳴のような声が上がって、静雄は動きを止めた。八秒考えて、右手だけを肩越しに回して春先だというのにファーで縁取られたフードを掴むと、そのまま力づくで同年代の平均体重をかなり下回る男の身体を宙に浮かすと、己の前方に持ってきて手を離した。
ぼとり、と落下した黒服の青年は、ナイフを握ったままコンクリートの地面に手をついて、背に怒気を揺らめかせた。
「…………こっの、馬鹿力!」
「振り返ってねぇぞ」
「俺が同じことしてそれ言ったら、三秒でキレるよね、君?」
わなわなと震えながら顔を伏していた相手が、正論を吐くと同時に息を吸って呼吸を整えた。ゆっくりと身を起こす青年の動作から、つい眼を逸らしたのは、情けないことに、一瞬怯えたからだった。
振り仰いでくるその顔に、もし見覚えがなかったら、どうすればいいのか分からなかった。
「シズちゃん」
聞き覚えた声に呼ばれて眼をやると、見知った端正な造作の顔がひどく近くにあった。
秀麗な顔に浮かんでいるのは、見たことのない表情で、胸がざわめいた。それは、これまでのお互いの関係の中で必要のなかったもので。
作ったような笑顔はよく向けられた。何か腹に一物のある、厭らしい笑みは数えられないほど見た。可愛らしさを装ったものも、嘲笑も、歪んだユーモアに溢れた笑いも向けられてきたが。
安堵の微笑みなど、知らない。
良かった、と深く息を吐き出しながら、今度は正面から肩に額を押し付けてきた男が、真実、彼の知る折原臨也か確信できず、手を中途半端に浮かせたまま立ち尽くす。
「良かった……、この状況でシズちゃんの顔見て、うっかり愛が芽生えたりとかしたらどうしようと思ったけど、まったくもって杞憂だった。昨日も今日も明日も、俺にとってシズちゃんは死ねばいい、良かった良かった」
こちらこそ、全く無駄な心配だったと思い知って、静雄は宙に浮かせていた手を拳に固めた。
いつまでしがみついているかと、引き剥がしかけて、なんとなく面倒になった。
「何だ、泣くほど怖かったのかよ?」
返答次第では頭蓋骨ごと握り潰す、と指先に込めた力で示しながら、肩に預けられた頭に浮いていた手を置く。
「や、泣いてないし。むしろその辺全然顔取り繕えてないの、シズちゃんの方だし。何? まずそこのトム先輩に俺なんて知らないって、言われて? 新羅とドタチン、あとサイモンにも否定されたのかな。新羅の場合、長々と懇切丁寧に俺の不在証明をしてくれたかなぁ? 止めにセルティにまっすぐ否定されたりなんかしちゃって。後はうちの双子と、君の弟。うちの妹達ならエイプリルフールじゃなくても、兄なんていないとか言い出しかねないけど、幽くんが大好きなお兄ちゃんに嘘なんか吐くはずないし。だけど、超大掛かりな俺のエイプリルフールネタっていうオチにしがみついてみたりなんかしちゃったりして、通りすがりのチンピラとっ捕まえてみて、やっぱり知らないとか言われちゃったりなんかしちゃったりして?」
見てきたかのように、静雄の行動を暴き立てる声は、依然肩に額を押し付けたまま発されたので、いつもより少しくぐもっていた。
「お前は?」
「何が?」
問い返す声の調子はいつも通りだったが、とぼけるには今更すぎるだろうと嘆息する。
臨也が突然やってきて、一方的に意味の通らない戯言を撒き散らして、ナイフを振るってみせるのは、いつものことだ。大概、静雄は最初の数言も喋らせず、その虚言に耳を傾けるような愚も犯すことなく、手近なものを投げつけて黙らせる。
今日も静雄が、つい先程まで「折原臨也の存在しない日常」を体験していなければ、すぐ脇の放置自転車でも投げつけていたことだろうが、今、この天敵が捲くし立てたのは空言に見せかけた本音だったので、とりあえず黙って相手を見下ろした。
臨也も、静雄が反射的な攻撃行動に移らなかった時点で、お互いに同じ体験をしたことに気づいている。
「…………何だったんだ?」
「知るかよ」
静雄が率直な疑問を口にすると、苦々しい声が応じた。
「シズちゃんは単純だから、エイプリルフールに騙されたんでしょ」
「誰にだよ?」
「池袋に」
「意味分かんねぇよ」
「馬鹿だからだよ」
いつもならそろそろ殴っている頃合いだが、どこか拗ねた声音が面倒で放置する。
「っていう夢を見たんだ、って、最初っから言ってんじゃん」
「夢かよ?」
「夢じゃない?」
「むしろテメェがここにいることが悪夢だろ」
「シズちゃん、それさっき俺が言ったから。ただのパクリだから」
「臨也死ね、消えろ、池袋来んな」
口癖になっている罵言を吐きながら、いつでも握り潰す心積もりで、天敵の頭に載せたままだった手を軽く浮かせて、また戻す。それを三回繰り返すと、人の肩に懐いていた情報屋がようやく顔を上げた。
「消えたら泣くくせに」
「ざけんな、死ね」
大体いつも通りの殺伐としたやりとりを交わしながら、殺し合いの喧嘩には至らない。
「なぁ、静雄よぉ?」
「何すか、トムさん」
逃亡のタイミングを完全に逸していた先輩の呼びかけに、静雄は当たり前の口調で返す。
上司は、天敵の存在にキレない後輩と、それに妙にべったりとくっついた情報屋を恐々と見やった。
「俺は、アレか? エイプリルフールで盛大に担がれてんのか?」
まったくもって、この状況は何かに騙されているような気がしてならないが。
ざくざくと気軽にナイフを振るい始めた天敵の身体を抱きすくめて攻撃を封じながら、静雄は深く嘆息した。
「俺は、悪い夢だと思うことにしました」
