Root420

 毛嫌いしているものというのは、とかく目につくものだ。
 夜中も外さないサングラスの端を目障りな羽虫のように過ぎった人影を、静雄は剣呑な眼差しで追った。
 ひらひらと黒いコートの裾がはためくのが目障りだ。ノミ蟲、と静雄が呼ぶ通りに、ぴこぴことビルの間を跳ねる天敵が、何やら追われている様子なのを見て取って、静雄は更に苛立った。
 新宿を根城にするはずの情報屋が、まるで自分の庭のように池袋を自在に跳ね回っているのも気に食わないし、明らかにろくでもないトラブルを抱え込んで追われているのも不愉快だ。
 余所でやれ、と看板や配水管、非常階段、ビルのフェンスの外側を器用に足がかり、手がかりにして、ビルからビルへと移り渡る猿のような影を睨み据える。
 釣り看板に飛びついて、小学生のする逆上がりの要領で細身の身体を引き上げ、雑居ビルの汚れた壁に取り付けられた室外機を足場に飛び跳ねていく。まるでアスレチックで鬼ごっこでもして遊んでいる子供のようだが、一度でも足を滑らせれば十数メートル下のアスファルトに叩きつけられることになるし、追っているのも無邪気の対極にある物騒な空気を纏った男達だ。
 非友好的な大声を上げながら、バタバタと追い掛け回す男達の様子があまりに無様で、天敵相手とは言え、それに混じって臨也を追う気になれず、静雄は咥え煙草でその逃走劇を見守った。
 その空間にある全てを利用して道として駆け抜ける、パルクールという移動技術だというが、狡猾な逃亡者のトリッキーな動きを追える者は少ない。かろうじて人海戦術で追い回している状態だ。
 静雄もあの天敵を追走するのに、それなりの技術は身に着けたが、人外レベルの膂力とスピードを誇る静雄が追っても、瞬時に逃走可能なルートを弾き出せる臨也を捕らえられることは稀だ。動きを完全にトレースしても、静雄の体重には耐えきれない足場だの、二度目の衝撃で砕ける手がかりだのといった、姑息な罠を仕掛けていくのが腹立たしい。
 だんだんと数を減らしていく追跡者達が過去の己の姿に重なって、苛立ちも最高潮に達した静雄は、得意げにビルの間を跳ね回るノミ蟲を叩き潰す道具を求めて首を巡らせた。
 と、それまで踊るような優雅さでビルの間を跳ね回っていた動きが、不意に乱れるのが視界の端に映って、あの馬鹿、と低く呟きながら静雄は雑居ビルを振り仰いだ。
 ビルの屋上の縁、フェンスの外側をじりじり後ずさる姿に、待ち伏せに遭ったのだと知れる。
「調子に乗るからだ、あのアホ」
 更に追い詰められている方向が悪い。逆側ならば、いくらでも逃げる手段があっただろうに、十二階建のビルの壁面にとっかかりは無く、飛び移れる距離には何も無い。
 露西亜寿司の客引きか、静雄なら飛び降りてみる、といった常識外れの方法がないこともないが、臨也が試せば確実に死ぬ。
 進退窮まった姿は痛快なはずだったが、妙に苛立ちを覚えた。
 剣呑な眼差しで天敵の窮地を見据えていると、細い身体が不意に傾いだ。銃声は聞こえなかったが、何か傷を負ったらしく、身を屈めてよろめいた先に、もう足場は無かった。フェンスを掴もうとした手が空を掴む。
「っの、馬鹿!」
 罵り声を上げると、静雄は煙草を吐き捨てると同時に地面を蹴った。落下地点に滑りこんだところで大して衝撃に差は無い。脳漿をぶちまけるのが、汚れた路地裏のアスファルトになるか、静雄の腕になるかの違いだけだ。
 どうしてもあの不愉快な男の死因になりたいと願うのなら、それでもいいのだが、そこまで考えることなく、脚力だけでビル三階まで壁を駆け上がると、壁を蹴って方向修正、更に二階分の高さを稼いだところで落下する情報屋の腕を掴んだ。
 痩せた身体を力任せに抱え込んで、宙で身を捻ると向かいの壁に激突する前に足を突き出す。今度は靴底を押し付けるようにして、落下速度を殺しながら垂直の壁を滑り降り、最後に壁を蹴って路地裏に転がった。
「あっち……!」
 摩擦熱と靴底のゴムの焦げる異臭に顔をしかめて、今の一瞬で靴底が極端に磨り減った革靴を脱ぎ捨てた静雄は、壁に黒く垂直に残った靴跡を見上げ、その更に上に唖然とした男達の顔を認め、腕の中の荷物を思い出した。
「おい、臨也」
 生きていようがいまいがどうでもいい、と放り捨てようとした男の重量が不意に失せた。
 手の中の奇妙な喪失感に呆気にとられながら、頭上を過ぎった黒い影を振り返った静雄は、路地の闇に相手の黒髪と黒服が溶け込み、子供の頃に観たアニメのピンクと紫の縞猫に似た笑みだけが残るのを見た。
「あはは、アリガト。おかげで助かったよ」
 場違いな程に明るい声が、朗らかに嘲弄した。
「ほんっと、シズちゃんってチョロ…やっさしいよねぇ」
「臨也、てめぇ……」
「おっと、シズちゃんからかって遊んでる場合じゃなかったんだった。シズちゃんの相手はまた今度ね! それじゃっ」
 ひらりと闇の中で白い手が振られ、青年が身を返して走り出した。その動きに、屋上で負ったはずの怪我を思わせるものはない。
 しばらく呆然とその背中を見送って、静雄はゆっくりと事態を把握した。
 パルクールとは、本来道具を一切用いずに街を縦横無尽に効率的に移動することを目的とした移動技術体系だ。現在その名を確立しつつあるパルクールはスポーツ、娯楽と言っても過言ではないが、臨也の用いるそれはあくまでも実用のためのものだ。
 道具でも何でも使う。
 目的は逃亡であって、正々堂々と走り抜けることではない。瞬時に逃亡ルートを組み立て、最短で最大の効果を導き出す。
 つまり、静雄は十二階からの降下最短ルートとして利用されたのだ。
 そこまで理解した時点で、静雄の思考は沸騰した。
「臨也あああああっ! てめええええええっ!」
 激昂した静雄は、ようやく雑居ビルから飛び出してきた情報屋の追っ手の面々を邪魔だと片腕ではね飛ばし、天敵の後ろ姿を追って駆けだした。
 へらへらと挑発するように笑って跳ね回る臨也を日付が変わっても追いかけ回した挙げ句、その姿を見失った静雄は、その後池袋の自動喧嘩人形の二つ名に見合う暴れっぷりを見せたが、天敵がその激昂すら追っ手を排除するためのルートとして、徹底的に利用したことには遂に気づかなかった。