グッドボーイ、グッドバイ

 ローラー台での練習は、あまり好きではない。
 タイヤとローラーが擦れ合う際に発する独特のゴム臭と、自分も含めた部員達の発する汗の臭いが入り混じる。前方に設置した扇風機で風を浴びることはできるが、外を走って感じる風とは雲泥の差だ。
 柔らかなカーテンのようだったり、物理的な壁のように立ち塞がる空気の塊を感じることもない。風が背を包み込むように押し上げて、もっと進めとばかりに抗い難い力を身に受ける瞬間を好む真波にとって、単調なローラー練習はただ退屈だった。
 どこに行くこともできないローラーの上でペダルを回しながら、本当に寝ようとしたわけではないが、意識が散漫になって目を閉じる。
 ここは山、などと自己暗示を試してみるが、せめてローラーに傾斜を付けないと無理そうだ。何か面白いことを考えよう、と目を閉じたまま考えて。
 横から後輪をすくわれたような感覚に、はっと目を開くが間に合わない。車体が大きく傾いて、ローラーから転落する。
「真波!」
「大丈夫か、お前ぼーっと漕いでんじゃねーよ!」
 派手に転んだ真波に近くにいた部員達が大丈夫か、と口々に声をかけてくるのに、目を瞬かせながらひょこりと身を起こす。
「怪我は!」
 黒田に怒鳴られて、少し悩んで己の感覚に意識を向けた後に、頭を横に振る。肘と頬を打ち付けて多少痛むが、特に大きな怪我はない。
 ぼんやりしてるからだ、とまず最初に叱りつけたのも黒田で、心配というよりは怒っているようだったが、怪我がないと聞いて大きく息を吐き出す。
「っとに、真面目に練習しろよ、お前は」
「スミマセーン」
 へらりと笑えば、今度は三年の先輩に軽く頭を小突かれる。
「ぼんやりしてて、怪我したらどうすんだ。お前、インハイメンバーなんだぞ」
「チャリ壊れてねーだろーな?」
 気を付けろよ、と口々に言われて、真波はふにゃふにゃと笑いながら頭をかいて、その場をごまかした。
 遅刻魔で勝手な行動の多い真波に対して、上級生も同学年もまず小言が先立つし、小突かれるくらいはスキンシップの範囲内だろう。どちらかと言えば、和気藹々とした雰囲気と言えるのだろうが。
 この中の誰かに、後輪を蹴られた。
 一年で大会メンバーとして異例の抜擢をされながら、不真面目な態度の目立つ真波に白い目を向ける部員が多いのは知っている。面と向かって、気に食わないと言ってくる先輩もいた。
 それは仕方ないが、人をローラーから故意に蹴落としておいて、口先だけで心配してみせる人間がいるという事実が、少し気持ち悪い。
「どうした、コケたのか?」
 よく通る声が、もやもやとした頭を突き抜けた。
 顔を上げると、自転車部の副主将の東堂が目の前で仁王立ちになっていて、相変わらず不思議な人だと思う。見るたびに違和感を覚える理由に最近ようやく気づいたのだが、この三年の先輩は他の部員と立ち姿からしてまず違う。
 背筋の伸ばし方、頭の持ち上げ方、目線の送り方、そういった諸々が異彩を放っている。そもそも、世間一般の男子高校生はあまり仁王立ちにはならない。
 その立ち姿に加えて、動作もいちいち大きい。声も大きくてよく通る。目にも耳にもうるさい人物だ。
 入部当初はなんだかうるさい人がいる、と遠巻きに避けていたが、同じクライマーという括りと、諸々の出来事を経て、いつの間にかすっかり東堂が問題行動の多い真波の監督をすることになっている。
 東堂の行動を見ている限り、これはこれで問題があるのではないかと思うのだが、最上級生で副主将ということもあってか、まず誰も逆らわないので、諸々がまかり通っている。
 色々な意味で、強烈な人物である。
 今も東堂が口を出してきたことで、周りの空気が少し変わった。
「こいつ、ローラー回してて居眠りしてたんすよ!」
「器用だな」
 言いつけた黒田に東堂は明後日の方向にまず感想を述べて、粗相をした子犬でも構うように真波の頭を撫でてきた。慰めてくれたのかと思えば、そのまま五指に力が込められて、痛いと悲鳴を上げる。
「うむ、三蔵法師と孫悟空のようだな」
 東堂は一人で悦に入っているが、三蔵法師は物理的にアイアンクローを仕掛けたりしなかったと思う。
 ずきずきと痛む頭を押さえて、次の行動の予測のつかない先輩に備えていると、比較的予測しやすい方の先輩クライマーが東堂に身を近づけた。
「東堂さん、後でお話したいことが」
 耳打ちする低い声が聞こえたのは、東堂当人と、その東堂に接近されていた真波だけだったのだろう。ちらりと真波を見やって、気位の高い猫のような仕草で踵を返してトレーニングに戻る黒田の背を眺めやる。
 後で、何を伝えるのだろう。
 二年の黒田雪成は、実力のある選手だ。インターハイ最後の選手枠を真波と争った。今ここで真波が怪我でもしていれば、繰り上げで出場になるだろう。
 いやだな、と思う。
 気に食わないなら気に食わないと、面と向かって言ってくれればいいのに、誰だか分からないからこんな疑惑を抱かなくてはならない。
「真波」
 また湧き上がってきた黒い靄のような感情を穿つように、東堂が名を呼ぶ。それに顔を上げた瞬間、容赦なく鼻の頭を弾かれた。
「った!?」
「生意気なことを考えるな」
 びしり、と鼻先に指を突きつけられ、痛む顔面とその至近距離すぎてピントの合わない指先に目を白黒とさせる。
「黒田はそんなにプライドのない男じゃない、見下すな」
「オレ……」
 反論しかけるが、萎んだ気持ちに連動して声も萎んだ。
 東堂の指摘通り、無意識のうちに黒田を見下していたのだろうか、と考えるとひどく気持ちが落ち込んだ。項垂れた真波の頭の上にグローブを外した東堂の手が乗る。
「よし、いい子だ」
 犬の頭でも撫でるように真波の髪の毛をかき回すのが東堂の癖で、基本的にこの山神は二学年下の真波のことを人間だとも思っていない。よく動く口とは裏腹に、底知れない瞳に深い静謐を湛えて、笑って頭を撫でる。
 その扱いが不満というほどではないが、納得はいかない。
 釈然としない、と語彙を引っ張り出しながら東堂を見上げると、その顔を見下ろした東堂が素っ頓狂な声を上げた。
「真波お前、怪我してるじゃないか!」
「え?」
 有無を言わさず前髪をかきあげられて、眉の上を東堂の親指が滑ると、ぴり、と痛みが走る。
 触れられるまで気づきもしなかったのだから、大した傷ではない。しかし、常日頃から美形を自称する東堂にとって、顔の傷というのは重大事であるらしい。
「お前の唯一の取り柄が……!」
「唯一……?」
 人の顔を両手で挟み込んで嘆かれる内容に、異義を唱えたい。
 何か、もう少し、他にあるのではないだろうか。
 しかし、常日頃から己の外見に絶対の自信を誇り、ファンクラブなる女性集団を有してその声援を受けてポーズまで決める精神構造の人間に、何を言っても無駄な気がした。
 東堂は、これまで真波の走りについて、褒めたことも助言をしたこともないが、外見についてはしばしば言及するので、もうそういうものなのだと諦めるしかない。
 真波は東堂の走りにしか興味がないので、お互い様でもある。
「痕に残らないといいが……」
 真剣な顔で言われても反応に困る。
 両手でがっちりと顔をホールドされて困惑していると、周りの部員が巻き込まれないように遠巻きにしつつ、苦笑しているのが目に入った。
 山神とまで呼ばれる副将にこうして構われていることで、やっかみを買った時期もあったが、大概こういう構われ方なので、最近はどちらかというと周囲の目も同情的になってきた。
 東堂がそれらを計算ずくで行動しているのか、思うがままに自由に振る舞っているだけなのかはいまだによく分からない。
 真波を自由人と称する先輩は、自由気儘によし、とうなずいた。
「痕に残らないように、この山神がおまじないをしてやろう」
 何なんだろうな、この人、というのが真波の正直な気持ちである。
 真波の頬を挟み込んでいた温かな手がするりと滑って、両眼を塞いだ。
「いいこ、いいこ、とんでいけ」
 柔らかな声が身を包む。
 風みたいだ、とぼんやりと考えていると、不意に視界が開けた。
「よし、これで痛くないだろう!」
 手を退けた東堂が、自信満々に笑う姿を見た途端、感傷的な気分は立ち消えた。
 どうしてこの人は視界に入れると残念なのだろう、と心の底から思う。ちなみに目で見て格好良いときは、大概口を開くと残念だ。
「……あの、そもそも別に痛くないんですけど」
 それに、普通この手のおまじないなら、「いたいの、いたいの、とんでいけ」だろうと思うが、この先輩に普通という言葉を当て嵌める無駄に気づいて、真波はそれ以上異を唱えるのを諦めた。

 東堂尽八という男について、当人が誇る美貌というものに全く何の感慨も持っていない真波だが、走る姿は素直に美しいと思う。
 同学年の部員が、案外普通などと称していたが、こんなものの一体何が普通なのか分からない。
 静かで、自然で、当たり前のように前へ、上へ進んでいく。
 このレースに向かう前に主将の福富から受けたオーダーはただ一つ、黙って東堂に張り付いて走れというもので、よくよく考えてみればエースクライマーの体力を温存するために一年の真波が前を引いて走るべきではないかと思ったが、当人がついてこいと言うのだから、従うよりない。
 そもそも不満もない。
 普段なら坂と見ればそれを登ることに夢中になる真波だが、東堂が同じ道を走るなら話は別だ。その背中を、動作を眺めているだけで十分だ。
 レース中だというのに、どこか余裕を残した様子で、沿道の応援に手を振ってファンサービスをして回る上に、それを真波にまで強制してくるのには閉口しているが。
「さて、真波。今のレースの状況が分かるか?」
「……えーと」
 真波にスタート位置どりを任せるなどと、開始直前に言い出すものだから、かなり後方からのスタートになった。更に東堂がスタート地点に陣取ったファンクラブの女子にたっぷりと口上を聞かせてポーズまでとっていたので、出だしは大分遅れた。
 その後、がむしゃらに遅れを取り戻すでもなく、すいすいと平地でも走るように曲がりくねる山道を登っていって、集団を抜き去り、その前に固まっていた小規模な集団も挑発なのか素なのか判別し難い言動で絡んだ後にちぎっていった。
 今、レースの中でどの位置にいるのかといえば、何だかんだとトップに近い位置にいるはずだが、先頭ではない。
 もう少し大きなレースならば部員を要所要所に配置し、連絡を取り合ってレース状況を把握するのだが、今回はその人員もいない。
「たぶん、前に二人……?」
 ほぼ勘で言ってみると、したりと東堂がうなずいた。
「そうだ。そして、今から全力で漕いで、三つコーナーを曲がれば、トップ二人の背中が見える」
 本当だろうか、とあまりに自信満々に言い切る先輩に首を捻るが、疑問を口にする暇は与えてもらえなかった。
「というわけで、フクからのオーダーだ。追いつけ、勝て」
「……東堂さんが?」
「お前がだ!」
「えー」
 思わず漏れた辟易とした声に、覇気が足りない、と背を叩かれた。
「ここまで何のために、お前を後ろにつけたと思ってるんだ。ほら、穫ってこい!」
 犬にボールを投げて言うような台詞である。
「箱学一年、真波山岳の名前を知らしめてこい!」
「……はぁい」
 叱咤激励に気の抜けた返事をしてから、真波は山頂に目を向けた。
 この先に、まだ二人。東堂の言う通りに追いついたとしたら、ゴールまで一キロを切った地点。そこからは熾烈な先頭争いになるだろう。
 うず、と真波の身が揺れたのを察した東堂が、目を細めて笑う。
「いいこだ」
 これまでにも繰り返されたやりとりだ、続きの言葉は知っている。
 先に叩かれたそのまま、触れられていた背に当たる手の面積が増える。ぐ、と背を押される感覚は、追い風を受けた時のそれに似ていた。
「とんでいけ」

「それ、なんなんですか?」
 ようやく聞いたのは、秋も深まった頃、初めてそのおまじないじみた文句を聞いてから半年近くが経った頃のことだった。
「どれのことだ?」
 既に部を引退した先輩が不思議そうな顔をする。
 引退後は受験に専念して全く顔を出さなくなった三年も多いが、東堂は比較的よく顔を出しにくる。いつもの調子で下級生に女子にモテる秘訣などを語っているのが大半だったが、副主将を引き継いだ黒田と話し合っていることも多い。そのまま二人で走りに行くことに気づいて、ずるいと拗ねていたら根負けした東堂が山に珍しく付き合ってくれた。
 それに少々はしゃぎすぎて、何でもないところで立ちゴケした。
 弛みすぎだ、と説教されながら、すりむいた膝に手を当てて唱えられたいつものおまじないに、初めて問うた。
「普通、いたいのいたいのとんでいけ、じゃないですか?」
「ああ……」
 今更聞くか、と笑われる。
「いや、今まで別に興味なくて」
 少し嘘だ。
 聞いて、このおまじないを言わなくなったら嫌だな、と思っていた。
 だが、聞かずにいれば、そのまま三年の先輩はもういなくなってしまうのだと、気がついてしまった。
「オレの姉の口癖でなぁ」
「お姉さん……?」
「小さい頃は単に言い間違えたんだろうが、大きくなっても頑なにオレにそう言い続けるんだ」
 二つだけ年上の先輩は、そう言って大人のような顔で笑う。
「願われているんだとは分かっていたが、少々納得もいかなかったな。姉だって、自由にしていいんだ。とらわれることはない。オレだってあの家の長男なんだからな」
 東堂が、この箱根の老舗旅館の一人息子なのだとは知っている。
 当人がよく自慢するし、他の部員や同級生のファンクラブ会員の女子にも聞かされたことがある。
 いまひとつ真波には理解できなかったが、その生まれ育ちはなにやらスゴいステータスらしい。
 実家が昔からある高級旅館だからといって、当人と何の関係があるのかと思っていたし、むしろ小田原の家から通う真波より近いというのに、何故寮に入っているのだろうとしか思っていなかったが。
 最近ようやく、そんな単純なことではないのだと、ぼんやりと理解した。
 箱根学園自転車競技部の伝統や歴史というものに対して、部内で一番敏感なのは東堂で、それは彼の生い立ちに密接に関わり合っている。
 そして実家の伝統や歴史は、高校の部活のように、一学年下の後輩に引き継いで済ませられるようなものではない。
 長男だという東堂が、家督を継ぐという約束になっているのかは知らない。
 そんなもの、テレビや本の中だけの話だと思っていたが、東堂は自身の選択に常に家の存在を意識していた。
 まるで、大人のように高校の三年間というものを限りある時間として語る口調を、年寄りじみて感じていたが、いつだったか、東堂はこの三年間を自転車につぎ込むことを許してもらったのだと語った。
 地元だというのに寮に入っているのも、ただひたすらペダルを回すことだけに費やすためだと。
 この人が、一体誰に何を許してもらわなくてはならないのか、どうにも真波には理解が難しかったが、そうやって時間を限ってただひたすらに自転車に向かい合って、山神と呼ばれるに至ったのだとは分かった。
 では、その三年が過ぎた後、この人はどうなるのだろうという不安を、最近抱くようになった。
 彼が自分に甘いのをいいことに、わがままを言って拗ねてみせて、少しでも構ってもらおうとするのも、その不安のあらわれだ。
 その程度のこと、山神はお見通しなのだろうが。
「……お姉さんが、いるなら、それでいいじゃないですか」
「まあ、昔から自分が継ぐと宣言していたし、そのために自分で進路も何もかも自分で決めてきたんだから、邪魔をするつもりはないが」
 その口振りからして、大変よく似た姉弟なのだろうと思う。
「家を出ていきたくなることだってあるだろう。好きな男ができて、その男についていきたいとか」
 なあ、と同意を求められても、一人っ子の真波にはぴんとこない。
 恋愛に家が関わってくるなどという感覚もほど遠く、曖昧にうなずくと、苦笑した東堂にくしゃくしゃに髪をかきまぜられた。
 しばらく切らずに放っておいた前髪が視界を遮る。
「そういう時のスペアにくらい、いつでもなってやると言っているのに、あの馬鹿は聞く耳持たずに、人にはどこまでも自由に飛んで行けなどと、軽々しく願うものだから、どちらかというと腹立たしい言葉なんだが」
「ええっ?」
 そんな言葉をおまじないのように人に向かってかけていたのかと、予想外の台詞に思わず声を上げる。真波の反応にくつくつと笑って、東堂が既にぐしゃぐしゃになった髪を更に一混ぜして、そのままヘルメットを押しつけた。
 髪が長めだと、よく弄られることに気付いて放ってあるが、最近、山神がカチューシャを継承しようと目論んでいる気配があるのが困る。
「何がいい子で、何が飛んで行けだと思っていたが……、お前を見ていると、言いたい気持ちも分かってしまったなぁ」
 少し困ったように笑う顔に、心臓が跳ねた。
 最近、東堂を前にしていると、自転車に乗っているわけでもないのに全身が心臓に支配されるような感覚に襲われる。
 それが何なのかを考えていると、いい子だ、と東堂は笑って髪をかき混ぜるのだ。

 キスをしてくれますか、と訊くと、二人の間をまだ冷たい風が吹き抜けた。
 いいこだ、と彼が笑った時点で、続く言葉は知っていた。
 それが最後の言葉になるのだとも理解して目を閉じて、とんでいけ、と祝福のような口づけを受けた。
 卒業式の日のことだった。
 特に人目を憚るという概念のない二人である。キスをねだった真波と、拒みもせずに応じた東堂はあっさりとしたものだったが、周囲はそうはいかなかった。
 東堂のファンを筆頭に、阿鼻叫喚の騒乱に包まれて驚いていると、同学年の銅橋にラリアットのようなものを食らって、目を回している間にそのまま、ものすごい勢いで引きずられてその場から連れ出された。
 どうやら、主将の泉田の命を忠実に果たしただけだったようで、気がつくと校舎の裏手で地面に直に座り込んだ銅橋が横で頭を抱えていた。
「オレには! 何一つ! クライマーが理解できねえッ!」
「しなくていいと思うけど」
「うるせぇ、黙れ! オレは泉田さんに、とにかくお前を確保して目離すなって言われてんだ!」
 生憎、真波にも全くスプリンターという人種が理解できないし、銅橋が泉田に向ける心酔と忠誠が、どれほど真波のそれと差違があるのか分からない。
「頼めば、泉田さんも銅橋にキスしてくれるんじゃないかなー?」
「泉田さん馬鹿にすんなぁッ! お前らのその訳の分からんノリに巻き込むなッ! つーか、今、そういう、文脈だったか!?」
 悲鳴じみた声を上げて頭を抱えてのたうつ銅橋に、分かっていないと嘆息する。
 あれだけ愛されて、願われているのに。
「真波、オレは、てめぇが何考えてるか、さっぱり分かんねーし、分かりたくもねーけどな! これだけは言うぞ! 違うからなッ!」
 絶対に、と吼えるチームメイトに首をすくめてやりすごすと、説明を試みてみる。
「かわいい子には旅をさせよって言うでしょ?」
「……ああ?」
「そういう感じ」
「分かるかーッ!」
 東堂は満遍なく騒がしかったし、荒北は突然噛みつくように吠えることがあったが、銅橋のそれは咆哮のレベルで、もう少し距離を取りたいが、現主将の命令に忠実な彼は、真波の襟首をがっしりと掴んで離さない。
「かわいがってるから手放すんだよ。自由に飛べって」
 そう願いを向ける側は、自由ではないのだ。しがらみに雁字搦めになっているからこそ、そこから愛し子を断ち切るように背を押す。
 自由に、と願いをこめて。
 それを向けられることに苛立ったと自分で言ったくせに、その願いと言葉を当たり前のように真波に注いだ。
「愛してくれてるんだけど、手放せるんだよなあ」
「……なあ、オレ、話しかけられてんのか?」
 何かコメントを求められているのかと、何とも言い難い顔をしているチームメイトの緑色に染めた髪に手を伸ばす。
 東堂がよく同じように手を伸ばしては、ライバルと色と長さと身長と体格が違う、と理不尽にかき回していた髪は、強い薬剤に負けてぼろぼろで、あまり触り心地はよくなかった。
「銅橋は東堂さんに構われてたよね」
「構われてたっつーか、オモチャにされてたっつーか、下僕っつーか、もう逆らえなかったんだよ!」
 入部してからしばらく、上級生達の嫌がらせにひどく反発して暴れては退部と再入部を繰り返すという不可解な行動をしていた銅橋が、その一連の騒ぎにある日東堂を巻き込んで怪我をさせ、以来、すっかり頭が上がらなくなったのは見ていた。
 東堂も気を付けて目を配っていて、部員が何かくだらない嫌がらせを仕掛ける前に、更に理不尽な無体を銅橋に強いて、部内の毒気を抜いていたのも知っている。
「銅橋って、分かってないよなあ」
「なあ、オレ、そろそろ怒っていいところか?」
「そうか、銅橋は悪い子だから構われてたのかー」
「怒っていいよな?」
 掴まれていた襟首を強く引かれて首が締まる。逆らわず、コンクリートの上に寝転がると、春の陽射しに温まった地面の熱が背中に伝わってきた。
 見上げた空は青く、明るい。
 自由に飛んでいけと、何度も願われて、温かい手で背を押された。
「悪い子なら、手放されなかったのかなあ」
「一応突っ込んどくけど、お前がいい子だったことなんか一度たりともねーからな?」
 問題児が、とよく暴れて問題を起こしていたチームメイトに言われて、おや、と真波は首を捻る。
 言われてみれば確かに、真波は暴れはしなかったものの、遅刻、サボり、命令無視の常習犯だった。
 東堂には散々説教されたし、適当に聞き流していると十回に一度、非常に痛い目に合わされた。
 東堂は基本的に真波にかなり甘かったが、線引きは徹底していたので、超えてはいけないラインと言うものが明確にあって、そこを守っていればいい子だと頭を撫でられた。
「……あれ、オレなんか騙されてた?」
 正しくは騙していたわけではないのだろうが、実は意図的に操作されていた気がする。
 しつけられた犬のように、超えてはいけない線を守らされていた。
 いい子だ、と繰り返された言葉に嘘があったわけではないのは知っている。特別に可愛がってくれていた。
 自由に、と込められた願いも本物だ。
 彼の姉が彼に願ったように、愛して願ってくれた。しかし、東堂は真波の姉でも母親でもない。
 たかだか二つの年の差を、やたらと大人のように振る舞って、いい子だと強調して真波を子供のように扱った。真波も子供じみた言動を見せた方が可愛がられると分かっていたから、それに甘んじていたのだが。
 騙すとまではいかなくとも、子供扱いでごまかされていたことに、はたと気づいて身を起こす。
「…………オレ、逃げられた?」
 銅橋には異論がありそうだが、東堂も真波も基本的にごく一般的な感性を持ち合わせている、普通の日本の男子高校生だ。
 家族とだって挨拶代わりにキスはしないし、男同士でいちゃつく趣味もない。
 キスをねだったのは、一線を越えられるのかと突きつけたのだと、己の行動原理に今更に気づく。
 それなのに、拒みもせず、動じた素振りも見せず、家族のような情愛の振りをして、いい子だから大丈夫だと手放された。
「やられた……!」
 真波にとって、東堂は得体の知れない人だった。
 うるさくて騒がしくて、全く関わることのない人種だと思っていたのに、ひどく似通った空気を感じてそろそろと近づいたら、とっ捕まえられて散々に振り回された。
 神様みたいな走りは好きだ。頭の中身は理解できない。
 言ってることも分からない。
 自分で自分を縛りつけるような考え方も、理解の範疇外だ。
 結局のところ、何一つ似てはいなかったのに、何でもお見通しとばかりに掌の上を転がされた気がする。
 その掌の上で可愛がって、慈しんで、あっさりと手離された。
 惹かれたり反発したり見惚れたりと、あまりこれまで他人に関心を向けてこなかった真波には、目が回るような感情の乱高下に振り回されて、ろくに考える暇もなく今日まで来たが。
 たぶん、東堂は真波本人よりずっとよく、その熱に浮かされたような感情がなにかを理解していた。
「……好きだったのに」
 ぽろりと言葉にして零せば腑に落ちた。
 好きだった。
 恋焦がれて訳が分からなくなって空回っていたのに、いい子だと子供の枠に落とし込まれて、家族のような情愛なのだとごまかされて手放された。
 自由に、と言いながら、やわらかに突き放されたのだと、ようやく気づく。
「……東堂さん、ひどいや」
 熱くなった目頭を抱え込んだ膝に押し当てると、うずくまった真波の背後で狼狽えた気配があった。
「おい、真波?」
 散々迷った挙句に、分厚い大きな手が恐る恐る丸めた背に当てられる。
 温かくずしりと重い掌は、追い風のように背を押す東堂の手とは異なった。
「あー、まあ、お前、なんだかんだ言って東堂さんのこと、スゲー好きで、尊敬してたもんな?」
 言葉に迷いながら慰めるように言うチームメイトは、短気ですぐに暴れる悪い子だったが、大変にお人好しだ。
 要するに、彼も年上の先輩達から見れば「いい子」なのだろうと考えて、額を膝に押し当てたまま、真波は深々と嘆息した。
 たかだか一年や二年の差が、随分と大きい。
「だから、真波、早まるんじゃねーぞ?」
 何を心配しているのかよく分からない一言に、首を横に振りながらゆっくりと顔を上げて前を見据える。
「別にまだ何もしないよ。今のままじゃ意味がない」
「……まだ?」
 いつか何かしでかすつもりか、と及び腰に問われて、考え込む。
 少なくとも何も考えずに子供のように突っ込んでいけば、また簡単にあしらわれるのが目に見えている。
 大人のような顔をして笑って、頭を撫でて、いい子だと告げられるだけだ。
「いい子だからさようなら、とか、ふざけんな……」
 喉の奥で低く唸る。
 人を子犬のように扱って、頭を撫でて可愛がってみせるくせに、しばしば東堂は真波を獰猛だと笑った。
 要するに、東堂は真波が愛玩動物などではないと百も承知だったのだ。そうしていれば可愛がられるからと、真波があえて子供じみた振る舞いをしていたことだって、分かっていただろう。
 「いい子」の範疇に納まっては変わらず手放されるのだろうし、それは「悪い子」でも同じことだ。彼の掌で丸め込まれて「いい子」として扱われる。
 子供では駄目だ、と理解して一つうなずく。
「よし、悪い男になろう」
 きっぱりとした宣言に、背に当てられていた手はそのまま、背後の銅橋ががっくりとうなだれた。
「……お前、怖ぇよ」