ツナ缶

 某月某日、荒北靖友が夏バテでひっくり返った。
 見るからに体脂肪の少ない痩せた身体に、大喰らいではあるものの偏食も多く、一人暮らしの貧乏大学生活が祟って栄養バランスの取れた食生活とは言い難い。季節の変わり目によく風邪をひきこんでいたが、夏にも弱かったか、と呆れつつ部のバンを借りてきてぐんにゃりとした荒北を回収した。
 聞けばチームメイトは、夏休み直前の研究室に缶詰になりつつ、隙間にバイトを詰め込み、ろくに寝る暇もない上に夏の暑さにバテて食欲が激減していたらしい。
 たまに似合わないスーツを着ているのも見かけたから、就職活動も合間にしていたのだろう。
 そんな状態で自転車の練習などしたら、ひっくり返るのも道理である。
「とりあえず食って寝ろ」
 アパートに送ってやって、足取りの怪しい荒北の首根っこを摘んで部屋の中に押し込む。こもった熱気に閉口しつつ、忙しさに足の踏み場が極端に減った部屋をどうにか横断して、ベッドに友人を転がすとエアコンのスイッチを入れる。
 食べ物、と考えて、勝手に冷蔵庫を開けてみるが、清々しい程に空っぽだ。
 一応常備されていた補給食のゼリーパックを手にして、ベッドに向かって放る。
「とりあえず飲んどけ。出前取るが、何なら食える?」
 何もいらない、と力なく返ってきた答えに金城は眉をひそめた。
 ぐだぐだな説明を聞くに、ここしばらくの食事は全てこのゼリー飲料で済ましていたものらしい。
 この典型的な肉好きの運動部の大学生が、出前に全く興味を示さないとは、相当に重症だ。とりあえず何か食べさせないといつまでも回復しないだろう。
「何なら食える?」
「いや、もォ、ほんと何もいらねェ……」
 そういうわけにはいかないが、ただでさえ好き嫌いの多い偏食気味の荒北が、食欲の減退した今、何を食べさせればよいのか困る。
「……東堂は、しばらく来ていないのか?」
 その名を口に出すと、ぐったりとしていた荒北の目が鋭くなった。
「東堂が、何?」
「いや、あいつが来ていれば、色々と栄養価を気にして作りそうだと思っただけだが」
「アー、アイツ超うるせェ。母親かっつー」
 野菜を食えだの、バランスがどうのとやかましい、と笑った荒北は自分がどんな表情をしているのか気づいていないようなので、金城は見なかったことにする。待宮辺りは、無駄に指摘して荒北と口論になるのだろうが。
「なんか忙しいみたいヨ」
 荒北の高校時代のチームメイトである東堂は、たまにこの部屋に押し掛けてきては、勝手に冷蔵庫を補充し、たっぷりの小言と共に手料理を振る舞うのを趣味としているらしく、たまに荒北が手の込んだ手作り弁当を大学構内でこそこそと食べている時は確実に東堂の襲来後だ。
 彼が通ってきていてくれれば、荒北が夏バテでダウンするようなこともなかったのだろうが、いないものは仕方ない。
「ゴーヤチャンプルー作ったら食えるか?」
「いらねェ」
「ゴーヤの卵とじか、ゴーヤカレーだったら?」
「いらねェし、何でそんなゴーヤ推し? 金城、沖縄出身だっけェ?」
「生まれも育ちも千葉だが、父方の田舎は沖縄だ。まあ、それとは関係なく、うちの大家さんがグリーンカーテンで大量生産して住人に配って回ってて、消費しないといけないんだ」
 気軽にできるエコロジーな暑さ対策とテレビなどで喧伝され、どうせなら食べられる植物を、とやってみた後に収穫物を持て余す、大変よくあるパターンである。
 ここしばらく、金城は先ほどあげた三つのレパートリーで消費していたが、昨日追加でお裾分けされて心が折れかけたところである。
 荒北が食べると言えば、一度アパートに戻って取ってきて押しつける心算だったが、この様子からして苦い野菜は嫌いそうだ。
 こんな手間のかかるものをせっせと構う辺り、東堂も物好きだ。
 ぐだぐだにベッドに懐く子供のような男から、どうにかそうめんか蕎麦なら食べると言質をとって、近所のコンビニで調達しようと外に出た瞬間、煮え立ちそうな真夏の午後の空気に辟易とする。
 数分の距離だが、歩いているうちに熱中症になりそうな日差しに、あっさり駐車場のある少し先のスーパーに目的地を切り替え、部のバンに乗る。
 すっかり灼熱地獄になっていた車内に、ひとまずエンジンをかけてクーラーを効かせる間に、金城に世話を押しつけた自転車部のメンバーともう一人に、荒北の状態をメールする。
 大型スーパーの駐車場に車を止めたところで、ちょうど携帯がメールの着信を知らせた。
 返信は部の方ではなく、もう一人の人物からで、電話をしてもよいかとだけ問うものだったので、そのままこちらから発信した。
『東堂だ、荒北が迷惑をかけてすまなかったな、金城』
 電話が繋がると同時に明朗快活な声がそう告げて、なるほど、母親のようだと苦笑する。
「忙しいと聞いたが、大丈夫なのか?」
『ああ、今ちょっと海外だ』
 一瞬、この通話料金は大丈夫か、と内心焦るが、すっとぼけた声が四国だと告げる。海を越えたら海外の認識のようだが、さりげなくからかわれた気もする。
『それで、何でそんなことに?』
「研究室に詰めてて、合間に家に帰って寝ないで、ひたすらバイト入れていたらしい」
『何をしているんだ、あの馬鹿は』
「オレも聞いたが、要領を得なくてな。夏休みに入る前にとにかく稼ぎたかったらしい。去年は予算がなくてろくに祝えなかったとかなんとか」
 こちらもすっとぼけて聞き出したことを告げると、一瞬電話の向こうが沈黙した。
『……巻ちゃんが昔、金城のことを言っていたんだが』
「ああ?」
 高校時代の一風変わったチームメイトの名を持ち出されて、少し身構える。東堂は巻島を生涯のライバルと認定していて、語り出すと止まらないことがある。
『金城は切ってバラして叩いて刻んで、一度油で炒めてから丸一日煮込んでトムヤムクンスープに突っ込んで、パクチーなどの香草、香辛料をたっぷり入れれば食えるけど、普通そこまですれば革靴でも食えると評していたな』
 煮ても焼いても食えないと素直に言われた方が、まだマシな評である。
「参考までに、田所のことは何か言っていたか?」
『ハーブバターと蜂蜜でこんがり焼いたら美味そう』
「あいつはオレ達を食う気だったのか」
『ちなみに、オレは荒北を食いたいとは思わんが、煮込めばガラスープができそうだとは思う』
 たまに荒北がぼやいているが、クライマーという人種とは分かり合うのが難しい。
 一瞬落ちた沈黙を互いに咳払いでごまかして、話を切り替える。
『ところで、荒北は大丈夫なのか?』
「ああ、食わせて寝かせれば直るだろう。とりあえずそうめんなら食べると言うから、買い出し中だ」
『そうめんならアパートの台所の棚に結構置いておいたはずだが、一応買ってやってくれ。あと、ツナ缶も同じところにストックしてある。荒北の食べれそうなもので、簡単なレシピ送るから、作ってやってくれるか?』
 言ってから、やや不安そうに包丁は握れるかと問われる。
 荒北よりはマシだ、と返すと、安心したように笑って電話が切れた。
 数分後、レシピがメールされてきた。

 そうめんを茹でていると、古いクーラーのなけなしの恩恵は効かず、汗だくになった。
 茹でたそうめんを氷水で冷やす間に、東堂の言う通り大量にストックされていたツナ缶を開けて油を切る。
 後はトマトやキュウリなどを切るだけだが、一つ失敗したのが東堂からの買い物指示にあった粘りけのある野菜である。山芋かオクラと指定されていたので安いオクラにしたが、これは切る前に軽く湯でる必要があった。
 次の機会があれば、火を使わなくてよい食材にしようと心に固く決めて、そうめんの上に切った野菜とツナ、ネギとミョウガを乗せて、めんつゆをそのままかければ出来上がりだ。
 大学生男子の料理の腕を一切信じていない、茹でて切って乗せるだけの大変簡易なレシピである。
 足りていない睡眠の補給をしていた荒北を足でつついて起こす。両手にしていた二人分作った野菜盛りそうめんをミニテーブルに置くと、目を擦りながら身を起こした荒北が、東堂と呟いてキッチンに目をやった。
「来てない」
「…………分かってンよ」
 レシピをもらった、と告げれば、ああ、とうなずくので、夏に定番で出されるメニューなのかもしれない。
「あ、コレ食べやすいな」
 そうめん単品を茹でるくらいのことは金城もするが、それだけでは栄養が偏るのも分かっているので、こうして具がたくさんのっているのはいい。自分の家でも作ろう、と考えて、ついでに大量のゴーヤの消費方法も聞いておこうかと思っていると、荒北の携帯がピロリ、と鳴った。
「メールか?」
「あー、東堂から説教と、簡単に作れるレシピ一式」
 これとか、と箸で今食べているそうめんを指す。
「ツナ缶は積んであるから、何にでもぶちこんで野菜も摂れとか、そうめん茹でんの面倒なら、コンビニの買ってくればいいから、とにかく食えって」
「…………お前、本当に甘やかされてるな」