ロストエイト - 1/10

01
 高校時代の部の後輩から、飲み会の誘いが来たのは夏の終わりの頃だった。
 卒業して十年、全国一の強豪である自転車競技部に所属していた皆も、それぞれの道に進んでいる。都合がつけばインターハイなど大きな大会に後輩を応援に行って、顔を合わせることもあるが、やはり選手に知る顔が無くなれば頻度も減る。
 同学年で仲の良かった者同士では今でも飲みに行ったり、一緒にレースに参加しているようだったが、東堂はそういった集まりに出ていなかったので、この誘いに久しぶりに参加を表明すると一学年下だった黒田がひどく喜んだ。
 そのまま、色々な学年に声をかけていって、結局かなりの大所帯になったらしい。
 十月の土曜日、仕事で少し遅れて指定された居酒屋に赴くと、既にメンバーはかなりできあがっていた。
 飲み会に遅れていくということはそんなものだ、苦笑しながら学校の一クラスくらいの人数がひしめく中に入っていく。彼らの母校である箱根学園は共学だったが、部は三学年合わせてこのくらいの規模の男所帯だったので、学生時代に戻ったと思えば馴染みの雰囲気だ。
 皆、四捨五入すれば三十歳のため、むさ苦しさは十年前より割り増されているが。
「東堂さん……!」
 空席を探して目を彷徨わせていると、幹事の一人である黒田が嬉しげに駆け寄ってきた。
「お疲れ様です!」
「盛況だな、この人数集めるの大変だっただろう」
 高校時代から東堂を尊敬して、犬のように懐いてくれる後輩は今でも可愛い。外観は大人らしくなって、背も少し抜かされたところはあまり可愛くないが。
「結局、学年もかなり幅できちゃったんで、東堂さん達の代だと下の連中分かんないんじゃないっすかね」
「オレは地元だったから、他の奴らよりは顔分かると思うが……」
 卒業後二年ほどは、迷惑にならない程度にOBとして卒業後も顔を出していた東堂である。他県に進学していった仲間達よりは分かるはずだ。ぐるりと参加者の顔を見回せば、自分達の一学年上から、東堂の卒業後の二学年下で構成されているようなので、知らない顔はほぼない。
 中には十年の月日で雰囲気が様変わりしたのか、首を捻るような相手も数名いるが。
「藤原……太ったな」
「開口一番それかよ、東堂……! ホンット変わんねーよな、お前は!」
「運動しろ、自転車乗れ、摂生しろ」
「明日レース出るわ!」
 せっかく集まるのだからと、明日茨城で開催されるレースに出場登録している者も多いらしいが、この酒量で明日ちゃんと起き出せるのか怪しいところである。
「あっ! 東堂さん!」
 入口付近でくだらないことで揉めていると、それに気づいた青年が声を上げて立ち上がり、吊された照明に強かに頭をぶつけた。
「……変わらんな、葦木場」
「東堂さんも全然変わらないです!」
 相変わらず注意力の散漫な長身の後輩に手を伸ばして、打ち付けた頭の上に手を置いてやる。
「そう言えば、もういい歳になった、うちの問題児はどうした?」
「…………あれも変わりません」
 黒田が同じクライマーだった後輩の話題に深々と嘆息し、東堂も察してうなずいた。
「連絡がつかなかったか」
「メアド生きてんすかね、あれ……」
 むしろ本人が生きているのだろうかと、遠い目をする黒田に、己の携帯電話を引っ張り出した東堂は、メール画面を呼びだした。
「一応、十日ほど前にこのアドレスで連絡が来たが」
「スゲエ! 真波と連絡つくんすか、東堂さん!」
「いや、こっちが何を連絡してもほぼ応答はないが、気が向くと写真を送ってくる」
 本文も一切無く、唐突に送られてくる山や海、空の写真はどこのものとも知れず、せめて地名を書けと叱ったところ、写真に位置情報が添付されるようにはなった。
 地図と連動するアプリに読み込めば、どう移動したのか、おおよその見当は付くが、何をしているのかはさっぱり分からない。
「あいつ、今何してるんすか……?」
「知らん」
 定職についているのかも怪しいところである。
 今も昔も変わらず問題ばかりの後輩に首を振りながら、こちらに気づいて手を振ってきた友人達の方へ向かう。
「福富、新開」
「尽八、久しぶり」
「東堂がこの手の集まりに顔を出すのは珍しいな」
「なかなか都合が合わなくてな」
 隙間を空けてくれた友人達の間に座り、回されてきたおしぼりを受け取り、運ばれてきたビールを手に、三人でグラスを合わせて再会の挨拶とする。
 福富が主将だった当時、東堂は副将でエースクライマー、新開は部内最速のスプリンターだった。言わば、当時のトップスリーが並んでいるわけで、周囲に次々と人が集まってくる。
 こういった時の常で、近況を訊ね合い、乾杯を重ねていく。
「しかし、誰か一人くらいおめでたい話とかないのか?」
 上がる空笑いの乾燥度からして、彼女すらいない、潤いのない生活を送っている者が多数のようである。
 もう、スポーツに打ち込むなどという言い訳はきかないのだぞ、と呆れてみせると、お前はどうなんだ、と横手から突っ込みが入った。
「オレが一人に決めてしまったら、多くのファンを哀しませてしまうからな!」
「相変わらずなんすね、東堂さん……」
「さすがに変わっとけヨ、そこは」
 軽口に対する黒田の呆れ声に被さった辛辣な口調に振り返って、東堂は内心首を傾げた。
 先程、お前はどうなんだと突っ込んできた男だ。
 二十代後半から三十代になったばかりと思われる年齢だが、この場に集まっているのは全員その枠内だ。口調からして、東堂の後輩ではない。同年代か、先輩か。それにしても、その顔が記憶にないことが不可解だ。
 幾人か顔が合致しない相手はいたが、それは知っていた当時より縦や横に体格が大きく変わったためで、少し会話をすれば顔も名前も思い出せた。
 そもそも、東堂は実家が旅館という稼業で、現職もそれに類する職に就いたため、人の顔や名前を覚えるのは得意だ。誕生日や記念日、家族構成、食事の好み諸々、発言やその挙動に注意を払い、覚えておくのが習い性になっている。
 数年前に一度利用しただけの客の顔とプロフィールを合致させることもできるというのに、それなりに関わったはずの部の関係者の顔に、全く見覚えがないのが解せない。
 いっそ、箱根学園とは関係はないが、ロードバイクの関連でこの場のメンバーと関わりが深く、顔見知りが多いからと呼ばれた部外者かとも思っていたが、誰も紹介してくれる様子がない。
 誰だろう、と探る目を向けると、彼はむっとしたように眉間に皺を寄せた。
 顔立ち自体は薄めなのだが、大きくしかめられると驚くほど険悪な顔に見える。今は座っているため判じがたいが、細い手足や薄い体つきのバランスからして、背は高そうに思えた。
 その細長い身体を猫背気味に丸め、こちらを睨んでくる男の印象ははっきり言って悪い。思わず釣られるようにして眉根を寄せると、一つ舌打ちして顔を背ける。
 態度の悪い男だ、と思うが、酒も入っていることだし突っかかっていっても何の得もない。これだけの人数の宴会なのだ、少し距離を取れば関わることもなく済むだろう。
 東堂も目を逸らすと、ちょうどその視線の先に新開の弟の姿を見つけ、絡みに行く。兄もにやにやと笑いながらついてきたので、新開悠人は非常に迷惑そうな顔をしたが、二人してからかっていると黒田がフォローに入ってきた。相変わらず自分から進んで苦労しにくる後輩もまとめて可愛がって、一息吐いたその時、横手にどっかりと座り込む気配があった。
「東堂、お前さァ、ナニ怒ってんの?」
 右を振り返ると例の痩せ気味の男が泡の消えかけたビールのグラスを傾けながら、じろりとこちらを睨んでいた。反射的に湧き上がった反発心をひとまず押さえ、東堂は仕方なく彼に向かい合った。
「怒っているわけでは……」
 人を睨み付けてくる態度に不快感は覚えているが、どうも生来目つきが悪い男のようなので、当人はこれで常態なのかもしれない。怒るほどのことではない。
 問題は、彼が何者なのかを未だに思い出せないことだ。
 話しかけてくる態度からして、同学年の部員だったようなのだが、全くその顔に記憶がない。
 こんな態度の男を忘れるとは思えないので、現役の頃は全く性格が違ったのかもしれない。おとなしくて、まるで自己主張しないような、とさすがに記憶が薄れかけている元チームメイトの顔を想起するが、副主将を任じられていたこともあって、自分が所属していた当時の部員で思い出せない人物が存在しない。
 しかし、黒田の懐きようや福富との話しぶりからして、それなりにレギュラーメンバーとも親しかったようで、彼は確かに東堂と同じ世代で部に在籍していたはずなのだ。
 福富のことを、福ちゃん、と呼ぶ際の声音が妙に癇に障る。
 滅多にないことなので、相手の名前を思い出せない焦燥が相俟って、彼の言動の全てに神経がささくれる。
「オレ、お前に最後に会ったの、確か八年前だと思うんだけどォ」
「……そうだったか?」
 どうしても毎回都合が合わず、この手の集まりに顔を出したのは本当に久しぶりだ。
 彼の発言からすると、高校卒業後に一度は顔を合わせたことがあったようだが、そのことも記憶にない。
「まさかお前、あの時から怒ってて、それで飲み会も全然出てこなかったわけェ?」
「いや、いつもこっちが忙しい時期だっただけだ。別に怒ってないよ」
 にこりと笑ってみせると、彼はまた大きく顔をしかめた。怒ったというよりは、困惑したようだったが、酷い顔だ。おそらく、彼はその表情のまずさで、かなり人生を損している。
「おい、東堂ォ?」
 癖なのだろう、少し語尾を伸ばす口調が東堂の神経を逆撫でる。
 怒ってはいないとは言ったものの、とにかく彼の存在に苛立つのは事実だ。
「やっぱ怒ってんじゃねェか」
 何なんだよ、と毒づいて、頭を小突かれる。
 瞬間、自分でも驚くほどの激情が噴き上がって、東堂はその手を強く振り払った。
 こんな、顔も名前も思い出せないような男に、親しさと不作法の区別もつかないようなやり方で触れられたくなどない。
「触るな」
 冷え冷えとした声が喉の奥から零れた。
「テメェ、何いきなりキレてんだよ?」
 怒りよりは驚きの方が強かったようだが、低まった声と相俟って、その顔つきから受ける印象は最悪だ。
「どうした、尽八、靖友、また喧嘩か?」
 睨み合っていると、新開が横から不穏な気配に気づいて声をかけてくる。
 ヤストモ、というのは音からしてきっと名前だろう。新開は人懐こい男で、ある程度打ち解けると名前の呼び捨てをしはじめる。その程度には新開とも親しかったのだろうが、東堂の記憶にはない。
「今度は何して怒らせたんだよ?」
「何もしてねーよ! 来た時からオレのこと見もしねーんだぞ、コイツ!」
 指を指すな、と眉をひそめると、新開の表情から笑いが薄れた。
「尽八?」
「新開、こいつ、誰だ?」
 その腕を引き寄せ、周囲には聞こえないように声をひそめて友人に問うと、新開が目を丸くする。
「……名前を思い出せないのに、絡まれて困ってる」
 せめて名前を聞けば多少は思い出せるかもしれないと囁くと、がしりと肩を掴まれた。
「えっと、尽八、酔ってる?」
「少しは酔ってるせいかもしれないが、とにかくオレはこいつを覚えてないんだ」
 小声で状況を説明して、記憶にないほど印象の薄かった相手に酒の席で絡まれて困っている窮状を訴えるが、何故か新開の反応がひどく鈍い。
「なあ、尽八、何でそこまで怒ってんのか知らねーけどさ……」
「怒ってないぞ?」
「怒ってんだろーが、このバァカ!」
 横から突き刺さった声は怒気を孕んでいて、より険が増していた。
「さっきから何なんだよ、テメェは!」
 上がった怒声に、それぞれグループに分かれて盛り上がっていた宴席の喧噪が、ぴたりと止まった。
 せめて声をもう少し抑えられないのかと苛立って、その凶悪な顔を睨み据える。
「荒北、東堂、また喧嘩か、久しぶりに会ったというのに相変わらずだな」
 一触即発になった空気を割ったのは、苦笑まじりの福富の声音だった。
「だって、福ちゃん、こいつが……!」
 先生に言いつける子供のような態度に苛立ちつつ、東堂は福富が呼んだ彼の名前を反芻した。
「アラキタ、ヤストモ」
 福富と新開がそれぞれ呼んだ名を合わせれば、彼のフルネームはそうなる。
 やはり、全く記憶にない名だ。
 もういい、と東堂は一つ嘆息した。
 ここまで角が立ったなら、今更取り繕うだけ無駄だ。
「お前のことなんか、知らねえよ」
 どうにか名前を探って、その記憶を呼び起こそうとする努力を放棄して言い放つ。
「誰だよ? 少なくとも、オレはお前の顔も名前も覚えてない。何なんだはこっちの台詞だ。顔も覚えていないような相手に、絡まれても困るんだ」
 言い切った後、周囲が完全に静まり返った。
 さすがに言い過ぎた気はしたが、もう取り返しはつかない。酔いが回り出しているのか、妙に頭が痛んでこめかみを押さえる。
「…………何ソレ?」
 笑いを含んだ声に顔を上げると、笑い損ねたような泣きそうな顔があって、思わずたじろいだ。
「お前、オレのことなんか何一つ覚えちゃいねェって?」
「…………」
 傷ついた声に、さすがにそれ以上追い打ちをかけるのは躊躇われて黙り込むが、その沈黙が如実な回答になったようだった。
「お前、結構キツいの知ってっけどさァ……、オレ、そこまで言われるよーなこと、何かした?」
「……すまないが、お前が何をしたというより、本当に覚えていないんだ」
 確かに、直接同じ頃に接していない世代の学年の部員達のことは覚えているというのに、同学年らしい彼のことを全く覚えていないのは、我ながら酷だとは思う。しかし、そんな相手に覚えていて当然とばかりに、距離を詰められるのは困るのだと理解してもらいたい。
 そう思いながら、ふと東堂はいつまでも静まり返ったままの周囲に気がついた。
「…………フク?」
 酒の席でのちょっとした諍いに対するには異様な雰囲気に戸惑って、こういった時に一番頼りになる福富を呼ぶと、学生時代から変わらない無表情を崩して愕然としていた福富が、口内を湿らすように唾を飲み込んだ。
「東堂? お前、何を言っているんだ?」
「何と言われても、オレだって人の顔をど忘れすることくらい……」
「荒北だぞ!?」
 両腕をきつく掴まれて、東堂は目を瞬かせて福富を見上げた。その目を強く睨み返した福富が、噛んで含めるようにその名を言い聞かせた。
「荒北靖友を、お前は知らないと言うのか?」
「…………すまん、覚えてない」
 告げられた名前は、やはり記憶のどこにも無かった。
 ざわざわと騒ぎはじめた空気に、不安を覚える。どうにも、様子がおかしい。
 目の前の色を失った福富の顔、笑みを払拭した新開の表情、青ざめている黒田、不安げな表情をしている泉田が、狼狽えきって立ったり座ったりを繰り返す葦木場を押しとどめている。
 空気は読める。
 この異様な空気を作り出したのは己の言動で、つまり彼らは皆、東堂が荒北靖友という人物のことを記憶していないことを異常だと認識している。
 振り返った先で、途方にくれたような顔で立ち尽くしている男の顔を見る。剣呑な印象を与える左右非対称の表情は鳴りをひそめて、ただ困ったような、哀しげな目が東堂を見返した。
 知らない顔、記憶にない名前。
 ぽかりと記憶に空いた穴にふと気がついて、その穴の中に墜ちていくような錯覚を覚えて、東堂は身を傾がせた。
「東堂!?」
 意識が穴に吸い込まれる直前に、背を抱き留めた腕の感触だけは、覚えているような気がした。

 頭が痛い、気分が悪い。
 酷い頭痛に目を開けると、天井が歪んで見えた。
 畳の感触に一瞬、実家を思い出すが、すぐに居酒屋の一室だと知れた。宴席特有の少し調子の外れた笑声が壁の向こうから聞こえてくる。
「あ、東堂さん! 気がつきました!?」
「…………葦木場、もう少し、静かに……」
 横に控えていた後輩の叫びに、目眩まで覚えて懇願するが、十年経ってもあまり落ち着きが増していなかった葦木場は気にせず、どたどたと足音を立てて走り去って行った。
「……頭痛ぇ……」
 くそ、とぼやいて身を起こす。
 周囲を見回せば、和室の小さな部屋で、先程の宴会場とは別の個室に誰かが運んでくれたものらしい。横にある机には水の入ったコップがあって、少し悩んでから、遠慮しないことにして一息に呷る。
 冷たい水を干すと少し頭痛が和らいで、どうにか一息吐いた。
「尽八、気分は?」
「良くはないな……」
 葦木場が呼んできたのだろう、声をかけてきた新開に顔を上げると、その背後に心配そうな顔をした元チームメイト達が顔を覗かせていた。
「オレが尽八見てるよ。寿一も黒田も葦木場も、そんな雁首揃えてたら尽八も落ち着かねえって」
 笑って友人と後輩達を追い出した新開が、福富とアイコンタクトを交わしたのに気づいて、こめかみを押さえるついでに東堂はそっと嘆息を吐き出した。
「水は?」
「飲む」
 おかわりを注いでくれた新開に礼を言って、受け取ったコップを両手で持つ。
「オレ、ひっくり返ったのか?」
「十五分くらい前にな。部屋空いてるからって、店の人がここ使わせてくれた」
「そんなに酔ってたか?」
「遅れてきて、何も食べずに乾杯ばっかしてたからな。そりゃ回るだろ」
「酒で失敗なんて、もうする歳じゃないと思ってたんだがなあ……」
 そう苦笑して、東堂はタイミングを見計らっている新開をひたりと見据えた。
「あの男の話だろう?」
「…………うん」
「酒のせいじゃない。オレは、あいつを覚えてない」
 きっぱりと告げると、友人の顔がくしゃりと歪んだ。
「ごめん」
「謝るなら、靖友にだろ……。何があったか知らねーけど、そんな怒ってんなら何で今日顔出したりしたんだよ……」
「…………あのな、新開。何があったも何も、本当に、オレはあいつのことを全然覚えてないんだ」
「お前、いい加減に……っ!」
 胸倉を掴まれ引きずり上げられて、友人の憤怒の表情を間近に見る。
 その顔で、理解した。
「たぶん、おかしいのはオレだと思う」
「尽八?」
「あいつはお前の友達で、福富とも親しい。黒田が懐いていた。泉田も、葦木場もだ。オレ達の世代で部の中心だったメンバーが、あれだけあの男に馴染んでいるのに、オレが知らないなんてことが有り得るか?」
「……なぁ、お前、何言ってんの?」
「覚えてない。嘘じゃない。オレは、あの男のことだけ、何一つ覚えてない」
「荒北靖友。あの男とか、言うな」
 哀しそうに言われて、友人の明るい色の柔らかい髪をくしゃりと撫でて、高校時代のようにその名を呼んだ。
「隼人、オレは、あいつを何て呼んでいた?」
「名字で、荒北」
「……荒北」
 舌の上に転がした名前にはやはり馴染みがない。
「本当に、分からないんだ。教えてくれ、荒北は、部でどういう立場だった?」
「俺らと同学年で、寮生。確か、二年の時は尽八とクラスも一緒だった。一年の時、寿一が部に誘って途中入部してきた。最初は初心者だったのに、猛練習して三年の時にはインハイメンバーに選ばれた」
「……インハイメンバー?」
 自転車部の活動の中で最大の大会だ。強豪として名高く、選手層の厚い部の中で六人しか選ばれないメンバーの一人に選ばれたと聞いて、東堂は眉をひそめた。三年のインターハイと言えば、東堂もクライマーとして選出されている。盛夏の三日間、全力を振り絞り、惜しくも総合優勝を逃したあの八月を、忘れるはずがない。
 忘れるはずがないというのに。
「待て、あの時のメンバーは……! フクと、お前と、オレと、泉田に真波……それから……?」
 もう一人のメンバーの名が記憶から抜け落ちていることに気づいて、ぞわりと背に寒気が走った。
「……黒田、は違う、あいつは、真波とポジションを争って、結局フクの言った通り、一年の真波が異例の抜擢になったんだ……。葦木場……は、少し前のレースで大ミスをして謹慎扱いだった……」
「何で、そこまで覚えてんのに、靖友のこと覚えてねぇとか言うんだよ……!」
「分からない!」
 自分でも驚くほど悲鳴じみた声が上がって、己の声につんざかれるように頭がまた酷く痛んだ。胸がむかついて、口元を押さえてこみ上げてきた吐き気をやり過ごす。
「尽八、大丈夫か?」
 丸めた背を撫でてくれる手が温かい。
 鼻の奥がひどく痛んで、情緒不安定だと自嘲する。
「…………隼人、オレは、荒北と仲が良かったのか?」
「毎日、喧嘩してたよ。何でそんなに喧嘩するネタがあるんだって、オレと寿一が呆れるくらい。喧嘩するほど仲がいいって、お前らみたいなのを言うんだと思ってた」
 先程、彼と揉めていた際も、かけられる声はまた喧嘩かとからかう声ばかりだったことを思い出す。
 きっと、彼もそのつもりで声をかけてきた。数年ぶりの再会でも、以前と同様に喧嘩友達として小突き合いながら酒を飲み交わせると、そう思っていたはずだ。
「……三年間、同じ部で同じ寮で生活して、クラスも一緒で、最後のインハイをチームで戦って、毎日毎日飽きもせず喧嘩をして?」
 荒北当人と、周囲の戸惑いは当然だ。
 そんな相手を忘れるはずがない。
「当時の、写真はあるか?」
 問うと、少し首を傾げた新開がスマートフォンを取り出して手渡してきた。
 この宴席で懐かしむために、当時の写真データをわざわざ取り込んできたのだろう。「箱学」と名の付けられたフォルダを開くと、懐かしい青と白のサイクルジャージの色が画像の大半を占めていた。
「……みんな、子供だな」
「十年前だからなあ」
 皆、さほど変わっていないと思っていたが、画面の中の顔はどれも幼い。
 たくさんの写真の中に、カメラ目線の自身の姿が多いのは、当時カメラを向けられたら必ず収まりに行っていた記憶はあったので、特に不思議はない。福富も新開自身の写真も多かったが、あの目つきの悪い男が写ったものはなかなか無かった。
「あー、そういえば靖友、写真嫌いだったなあ。カメラ向けると、すっげー嫌そうな顔すんの。野生動物みたいで楽しいって、一時期俺と尽八で写メ攻撃してたらめっちゃ怒らせて二人とも携帯粉砕されかけただろ?」
 やはり暴力的な男だと思うが、全く記憶にないエピソードだ。
 それを口にはせずに、無言で写真を繰っていると集合写真を見つけた。顔ぶれからして東堂達が三年の頃、おそらくは三年引退の走行会時の写真だ。
 中央に福富とその愛車、その後ろに主将を引き継いだ泉田。その隣には新開が並ぶ。自身は両手を大きく広げて数名の顔を遮っており、確かこの後周りの部員達からブーイングを食らい、強引に座らされてもう一枚撮った。
 フリックすると、その二枚目の集合写真に画面が切り替わる。
「…………」
 その画像の中で、東堂の腕を掴み頭を押さえつけるようにして座らせていたのは、隣にいた目つきの悪い男だった。何やら言い争っていたのか、東堂と彼だけがカメラを見ずに互いに向かい合い、いがみ合っている。
 周りの苦笑気味の笑顔が、こんなやりとりが日常だったのだと如実に示していた。
「…………知らない」
 そんなもの、何一つ覚えていない。
「なあ、尽八、お前どうしちまったんだよ?」
「分からない……!」
 手にしたコップの水が細波だっていた。
 かたかたと震える手からコップを取り上げた新開が、東堂の頭を抱き寄せた。逆らわず、友人の胸に頭を預けると、じわりと目に涙が滲む。
「……本当、なんだな?」
「ああ……」
 背を撫でる手は相変わらず優しい。高校時代も、些細なことで気分を害した振りをして抱きつけば、この優しい友人は苦笑しながらこうして背を撫でてくれた。
「いつもみたいに、喧嘩しててくれた方が良かったな……。で、尽八がオレに抱きついてさ、靖友がヒドいって喚いてんのを、靖友が怒って引きはがすの」
 そうだ、新開はいつも嫌がりもせずに東堂を抱き込んで、にやにやと笑いながら東堂の頭越しに話をしていた。
「な、靖友?」
「っせ」
 びくりと大きく震えた身体は、新開が支えてくれた。宥めるように背を撫でられ、またこみ上げてきた吐き気をどうにかやり過ごす。
「相変わらずベタベタしてんネ、お前ら」
「羨ましい?」
「わけねェだろ」
 低い不機嫌な声を背に受けて、頭が痺れるように痛んだ。
 何一つ覚えていないのに、その一方でこの状況に慣れていると感じることが気持ち悪い。
「尽八、寝てていいよ」
 違和感がそのまま吐き気に変わり、嘔吐きかけた東堂に、新開がそう告げる。
「顔色、めちゃくちゃ悪い。寝ちまいな?」
 そう言われたからといって、この状況で図太く眠れるはずがない。
 そう訴えかけた東堂の頬を、温かな手が包み込んだ。じんわりと伝わってくる熱に目を閉じると、すとんと意識が暗闇に落ちていった。

 傍目からも分かるほど強張っていた白いシャツに包まれた背中から不意に力が抜けたのが分かった。しばらく抱き込んだ旧友の様子を窺っていた新開が、ゆっくりと体勢を変えて東堂の身体を畳の上に下ろす。
「ほら、靖友。オレらのスリーピングビューティ」
「アホか」
 学生の頃のようにくだらないことを言う新開に毒づいてから、荒北は昏々と眠るかつてのチームメイトの横に片膝を突いた。
 蒼白な顔に手を近づけかけて、指先が肌に触れる前にその手を握り込む。
「……で、こいつ、何を怒ってんだって?」
 十年前とあまり姿形の変わらない東堂から、視線を引きはがすようにして振り返って問うた荒北に、新開が苦く顔を歪めた。
「……靖友のこと、本当に覚えてないって」
 しばらくの逡巡の後に、絞り出すような声音で告げた新開に、荒北は握り込んだ拳に更に力を込める。
「どーいう、意味?」
「嘘言ってる顔じゃなかった。オレのことも、寿一のことも分かる。高校の時のことは、たぶんオレらよりよっぽど詳しく覚えてる。なのに、靖友のことだけ、記憶喪失になってるみたいだった」
「何だよそれ……!?」
「分かんねーよ! お前らがまたくだんねーことで喧嘩して、口も聞きたくないとか、傍迷惑にスネてくれてた方がよっぽどマシだよ!」
 思わず声を高めた荒北に、新開が激発した。
「あんな顔した尽八、見たことねーよ……」
 明るく、よく笑う少年だった。どこか芝居がかった口調とオーバーアクションで、自信満々に大言壮語を吐く、それが東堂尽八だった。その強烈なキャラクターは、意図的にそう振る舞っていた部分もあったのだろうが、どこまでも揺るがない確固たる自己を持っていたのを知っている。
 その根幹が崩れたような顔で、写真の中の荒北の姿を見つめていた。
 あんな顔は、知らない。
「……ふーん」
 どこか他人事じみた相槌に、一瞬頭に血が上る。
 何を悠長なことを、と掴みかかりかけて、握り込んだ筋張った手の白さに気が殺がれた。ああ、そうだ、と思い出したのは、不器用で誤解されやすい友人の態度だった。
 十年前の東堂尽八が過剰な自信家ならば、荒北靖友は面倒くさがり屋だった。二言目にはダルい、面倒などと愚痴って本気を出さない。その態度の悪さに、よく東堂が噛みついていた。それに反発した荒北も噛みつき返して、最初の頃は、本当に険悪な仲だったのだ。
 荒北の素直でない性格に東堂が慣れて、荒北も東堂のことを口だけではないと認めて、気がつけばいつの間にか悪くない関係に落ち着いていた。
 口喧嘩の頻度は変わらなかったが、周りが呆れながらも笑って見ていられるくらいには、二人は馴れ合っていた。お互いの能力を認め合って、そこに確かな信頼があったのを、新開は知っている。
 そして、その関係にずっと淡い感情が絡んでいたのも、知っていた。
 下手に突けば霧散してしまいそうな、その秘めやかな空気を台無しにしてしまうのが忍びなく、ただ、黙って見守っていた。
「あのさ……、靖友って尽八のこと……」
 好きだったよな、とは続けさせてもらえなかった。
 首を横に振った荒北は、東堂の蒼白な肌にようやく指先を伸ばし、覆い隠すようにその目元に掌を押し当てると、薄い唇を片方だけ吊り上げて笑んだ。
「……忘れた」