ブルーバード

 後になって大人達に散々にどうして、と責められたが、理由を問われれば空が青かったからとしか言いようがなかった。
 五月の空は底抜けに明るく、陽気は汗ばむほどだったが風は爽やかで、こんな日に室内にいるのが馬鹿らしかった。そう言うと、五月病という単語を繰り返されたが、鬱々とした気分などとは真逆だった。
 次の生物の授業は、実験をするから今日は生物室に移動だ、と隣の席の幼馴染が朝から姦しかったのはどうにか覚えていたので、チャイムの音に目を覚ました時に教室に誰もいなかったことには驚かなかった。休み時間中、一生懸命に真波を起こそうと努力していた幼馴染みがとうとう諦めて、もう知らない、と言い捨てて行ったのもなんとなく覚えている。
 既に授業は完全に遅刻で、どうしたものかと伸びをしながら窓の外を見て、あまりの天気の良さに授業に出る気が完全に失せた。
 こんなにいい天気なのだからロードバイクに乗ろう、と自由気儘に考えて、ふらりと校舎を出て駐輪場に向かう途中で、それができないことを思い出した。
 正にこういう事態を憂慮したしっかり者の幼馴染みの手によって、真波の愛車は朝登校した際に頑丈なチェーンで地球ロックされており、その鍵は授業が終わるまで渡してもらえないことになっていた。
 乗れないと知ると、途端に好天に浮かれていた気分が落ち込んだ。
 自転車競技部員の誰かのバイクを勝手に借りようかとも、ちらりと考えるが、春に入部したばかりの部活動に真波はあまり馴染んでおらず、無断拝借が発覚した際に笑って済ませられる人間関係を築いていなかった。
「めんどくさいなあ……」
 この高校を受験したのは、幼馴染みの強い薦めのためだった。
 真波の学力でも頑張ればどうにか合格できる圏内で、家から自転車で通える距離、箱根の山の中腹にある広い敷地、改築されたばかりの新しい校舎、近隣の学校の中では一番人気の制服のデザイン、何よりも自転車競技の強豪校。並べられたセールスポイントの中で真波の興味を引いたのは、やはり自転車競技部の存在だった。
 整った設備は魅力的だったし、強豪の名に引かれて集まる部員数にも興味があった。ロードレースが部として成立している学校は少ないし、人数もそれほど集まらないのが実情だ。これほど恵まれた環境は全国でも他にない。
 十五年の人生の中で一番勉強して、何か賞を獲れと、ロードレースとトライアスロンの区別もついていない幼馴染みの頓珍漢なアドバイスに従って大会に参加して獲ったいくつかのヒルクライムでの賞も後押しをして、どうにか合格したのだが。
「つまんないんだもんなあ」
 最大の魅力であった部活は、その部員数故に完全に体育会系の男社会が構築されており、新入部員とはそのヒエラルキーの最下層で雑用を働く駒にすぎなかった。部員の誰もがその道を通ってきたのだ、という論調は真波の肌に全く合わず、真波は既に部活に対する執着を失いつつあった。
 今から真面目に授業を受けに行く気にもなれず、ぶらぶらと校内を歩き出すが、あまり目立つところでうろうろしていると叱られる。
 人気がない場所を探して、あまりに空が青いので少しでも近いところに行こうと、校舎に外付けになっている非常階段を上る。
「あ、閉まってる」
 屋上に上がる手前のところで、南京錠のかかった鉄柵に阻まれた。
 階段は屋上まで続いていて、その向こうの青空まで見えているというのに、生徒の立ち入りを禁止すると掲げられたプレートが恨めしい。
「何でみんな、あれもこれもダメって言うのかなあ」
 鋼鉄製の柵を掴んでしばらく向こうの空を見上げ、ふと右手を見る。
 非常階段のコンクリートでできた手すりによって下辺を斜めに区切られた空色に、白い校舎の直線が浮かんでいる。一番近い直線の壁に走る雨樋を見やり、ごく近くに見える屋上のフェンスと縁を見上げる。
 行けそうだと思うのと、行動はほぼ同時だった。
 ためらいなく五階の高さの非常階段の手すりに上り、手を伸ばして少し足りない位置にあった雨樋に無造作に飛びつく。プラスチック製の雨樋は少々頼りなかったが、気にせず掴んで外壁を数歩上って屋上の縁に手をかけ、フェンスを掴んで身体を引き上げる。
「わあ、いい眺め」
 フェンスを背にすれば下方に海と小田原の市街がよく見えた。外周をぐるりと廻れば、箱根の山と富士山も見えるだろう。
 これは気持ちのいい所を見つけた、と機嫌をよくして、真波はフェンスの外側の屋上の縁、三十センチほどの幅を歩き出す。
 山を吹き下りてくる初夏の風は爽やかで、強い陽射しがもたらす暑気を鮮やかに払っていく。
 落ちたら死ぬだろうか、と爽快な気分のまま考えて下を覗き込む。少し先の花壇に落ちれば助かるかもしれないが、その縁の煉瓦に頭をぶつければ命はなさそうだ。
 そんな考えが妙に楽しくて、気分が高揚してくる。
 狭い足場でスキップをを踏んで、校舎の角を折れて曲がる。コの字型にへこんだ校舎の対角上にある教室がよく見えて、真波は興味深く他クラスの授業を覗き込んだ。
 上級生の教室だ。五階の教室ならば三年生のクラスだと思われるが、行く用もなかったので何組か、誰がいるのかも知らないし興味はない。そもそも、真波は駐輪場と自分の教室と食堂、部室、体育館、それ以外はいくつかの専用教室をどうにか移動できる程度にしかこの学校の内部を知らない。よくよく考えてみると、授業をさぼろうとしなくとも、生物室に一人で行けたか非常に怪しい。
 気の向かないことにはとことん興味を示さない真波が、対岸の教室をしげしげと覗き込んだのは、それがまるで他人事のようだったからだ。
 同じ向きに並んだ机、同じ制服の同じ歳の男女、同じ教科書を開いて、同じようにノートに板書を書き写す。
 本来、真波も同じように別の教室で班ごとに分かれて、皆と同じように生物の実験をしていなければならない立場なのだが、まるで別世界の出来事のように思えた。
 あの同じような姿をして同じようなことをしている不思議な人達は、一体ここで何をしているのだろう、と悩みながら屋上の縁に腰をかけて膝に頬杖を突く。
 ぶらぶらと足を動かし、一年生であることを示す色をした上履きの踵で校舎の壁を蹴りながら異世界の営みを眺めていると、窓際の席に座っていた女子生徒と不意に目が合った。
 やはり異次元のものを見たかのように目を丸くした上級生の少女に、にこりと笑って手を振ると、ようやく屋上の縁に腰掛けた少年が幻でないことに気づいたのだろう。調子の外れた短い悲鳴が遠くに聞こえて、急に対岸が騒がしくなるのを真波は興味深く見守った。
 窓に鈴なりになる人の頭、突き出された手が、いくつもこちらを指す。
 まるで柵の中の猿のようだと思っていると、意味を為さない鳴き声に等しい喧噪を割って、鋭い声が響いた。
「真波ィ! テメッ、何してんだ!?」
「あ、荒北さんだ」
 自転車部の三年の先輩だ。
「ざけんな、降りて来い!」
 口と態度が悪く、常に周囲を威嚇するようなところが新入生に怖がられている男だ。匂いを嗅いでやると称して、一年生を並べて好き勝手に相手の性格を決めつけて威圧していたが、言われた当人がそれぞれ青ざめていたところを見ると、指摘は的外れではなかったのかもしれない。
 真波には、少し不思議そうな顔をして、地に足がついていない、と告げたのが印象的だった。それじゃやってけねえぞ、と続いたので、周りはすぐに部を辞めると捉えたようだったが、もう少し広義の意味だったような気もした。
 今、この騒々しい混乱が自分の行動によって生じているのは理解できているが、彼らが一体何を問題として騒いでいるのかが今一つ分からないところを、適応できないと評されたのだろう。
「地に足……」
 宙に投げ出している足を揺らして、こういうことだろうかと考えてみるが、答えは分からない。
 その足の真下の教室も真波に気付いたのか、大声で騒ぎ出して姦しい。こんな騒々しいところに、どうやって足を付ければいいのか分からない。
「そこで何をしているんだ、真波?」
 意味を為さない、または意味を聞き取れない混ざり合った叫び声の中で、唐突にその声だけがはっきりと耳に届いた。
 一瞬きょとんとして、周囲を見回してから足元を見下ろすと、真下の窓から身を乗り出して上を振り仰ぐ男子生徒と目が合った。
「…………ええと、先輩」
 長めの髪をカチューシャで留めている顔に見覚えはあったが、名前は記憶にない。自転車部でいつも何か騒いでいたが、興味がなかったので近寄ったことがない。この階の教室にいるということは三年生なのだろう。
 軽薄でいい加減で、こんな騒ぎの中では一番大騒ぎしそうなタイプだと思っていた上級生の、ひどく静かな目に意表を突かれる。
 何か、おかしい。
「昼寝を、しに」
「そこだと寝にくくないか?」
「オレ、どこでも寝れるんで」
「そうか、オレも比較的どこでも眠れる方だが、そこで落ち着いて眠る気にはならんな」
 少し時代がかったような言い回しも奇妙だし、この状況で会話が成立していることが珍妙だ。
「この体勢は首が疲れるんだが、そっちに行ってもいいか?」
 こっちに来るとはどういう意味だろう、と首を傾げる。
 こっちに来た人など、いない。
 幼馴染みだって、こっちまでは来なかった。いつも地上から、もしくはフェンスの向こうから戻りなさいと叱られた。
「駄目か?」
「……ダメ、じゃないですけど」
 口ごもりながら言うと、そうか、とうなずいた先輩の顔が窓から引っ込む。
 屋上に上がってくるつもりか、と、フェンスの向こうの出入り口を振り返る。あちらも鍵がかかっているはずなので、ここに来るまでは時間がかかるだろう。
 と、階下から新しく悲鳴が上がった。
 今度は何だろうと足元に目を戻すと、先ほどの窓とは別の窓から彼が身を乗り出していた。
「バッ! 東堂てめッ! やめろこのボケナスッ!」
 向かいの校舎から荒北の怒声が聞こえてきて、そういえばそんな名前の先輩だった、と思い出す。
 その間に窓枠の上に立った東堂が、気負いなく五階の教室から壁の雨樋に飛びついて、するすると配管を伝って登ってきた。階下の悲鳴が更に凄まじくなったが、何か、声援に似た声が混じっていたのが不可解だ。
 呆気にとられているうちに、細身の身体を屋上の縁に引き上げた三年生は、フェンスに掴まって一息吐くと、少しずれたカチューシャを外して髪をかきあげ、改めて髪を留め直してから真波に向き直った。
「違うとは分かっているが、一応言質を取っておくぞ。飛び降りたいのか?」
 一瞬きょとんとしてから、ふるふると首を横に振る。
「ならばよし」
 一つうなずいて、東堂が真波の横に腰を下ろした。
 もたれかかったフェンスが、かしゃりと鳴る。
「ああ、ここは確かに気持ちいいな」
 吹き抜ける風に学園指定シャツを靡かせて、楽しそうに笑う上級生の横顔をしげしげと見つめる。
「どうした?」
 この先輩は、こんな顔をしていただろうか。
 思い出すのは、髪型とカチューシャの組み合わせばかりで、後はひたすら女の子の話をしていた印象しかない。一つ一つの動作が大きくて、声も大きい。近づかなくても聞こえてくる話の内容に、全く興味がなかったので、傍に寄ろうと思わなかったから、顔をろくに知らなかったのだ。
「先輩、目おっきいですね」
「お前に言われてもなあ」
 不思議な風合いの瞳の印象の強さに、思ったことをそのまま告げると、鳥や爬虫類にも似た冷たさを感じる眼が、苦笑気味に細められた。
 伸びてきた手が、くしゃくしゃと真波の髪をかきまぜる。
 人に触られるのはあまり好きではないが、何故かこの手はあまり気にならなかった。
「学校が窮屈か?」
 こくん、とうなずいた頭の上を、グローブの形に日焼けした手が弾む。
「部活がつまらないか?」
 続けてうなずくと、涼やかな声が告げた。
「ならば辞めろ」
 てっきり諭してくるのだとばかり思っていた先輩の、冷厳な一言に意表を突かれる。
「馴染みはしないが、特に和を乱すわけでもなかったから放っておいたが、お前は集団に向いてない。無理に合わせることもない、辞めて構わん」
 自由にしろ、とあっさり突き放した先輩を目を丸くして見つめていると、また苦笑と共に頭をかきまわされた。
「不自由は庇護の代償だ。自由という言葉はやたらと持て囃されて素晴らしいもののように言われるが、俺にはさほど良いものとは思えんがな」
 好きにすればいい、と素っ気ないほどに平坦な声音を黙って聞いた。
「何か言いたいことがあれば聞くぞ?」
「……先輩って、山、好きですか?」
 他に問いは持たなかった。
 ただ、この唐突に目の前に現れた先輩が、何を得意とするのか、初めて興味が湧いた。
 二学年上なのだから、真波よりも体格はいいが、身長はさほど変わらない。細身の体型は、クライマーに向いていそうに思えた。
「好きとか、嫌いとか、そんな風に考えたことはないな」
 向けた好奇心をあっさりと手折るような答えに、浮かれかけた気持ちが沈む。
「オレみたいなものは、登るしかないんだ」
「…………登るしか、ない」
 すとん、とその言葉が身の内に落ちてきて、どこかに納まった。
 それしかないのだと彼は言い、その通りだと真波の中で応じるものがあった。
「他にない」
 こくん、と小さくうなずくと、先輩はくしゃくしゃとまた髪をかき混ぜた。
「それで……」
「山岳!」
 続く言葉は悲鳴じみた少女の声に遮られた。
 振り返れば、校舎内から屋上に続く出入り口が開き、教師達がこちらに近づいてくるところだった。
 その中に混じって駆けてくる、眼鏡の少女の顔にしまった、と首をすくめる。
「あの子は?」
「ええと……委員長です、クラスメイト」
 前に人に幼馴染みだと紹介したら、顔を真っ赤にした彼女に怒られたので、無難に言い換える。
「そうか」
 相槌は短く何気なかったが、妙にその声音が耳に引っかかって、真波は東堂を振り返った。
 その反応に、東堂の口元が笑う。
「……なるほど」
「どーいう意味ですか?」
「いや、ただのクラスメイトなのだろう?」
 含みのある物言いにかちんときて、その己の反応に少し驚いた。
 真波の世話を焼くことを生き甲斐にしている幼馴染みとの関係性を、からかわれることは昔からよくあって、その度に真っ赤な顔で否定して回る彼女と違って、真波はいつも笑って聞き流していた。聞き咎めたことなど、今までない。
 この、少しちゃらついた印象の先輩が、幼馴染みに言及したからだ。
 女の子の話ばかりしていて、実際によく黄色い声援を浴びているのを知っている。
 こういう人を、自分ではしっかりしているつもりで案外に世間知らずな幼馴染みに近づけさせるのは、なんとなく危険な気がした。
「東堂さんは……」
「山岳! 戻ってきて!」
 言いかけた言葉は、幼馴染みの涙声にかき消された。
 しまった、これは泣かせた。
 焦って振り返ると、顔をくしゃくしゃにした幼馴染みが泣き崩れたところだった。怒らせてもそんなに問題はないが、
泣かせるのはまずい。
 狼狽えた真波の反応を察したようで、笑みを含んだ東堂の顔に苛立ちを覚えて、じろりと睨むと、したり顔をした先輩が何やら口を開きかけた。
「東堂ォ、っのアホクライマー! 高いとこ上りたがんのは山だけにしとけ、お調子モンッ!」
 何か言うよりも早く、フェンス越しに浴びせかけられた罵声に、東堂がぎくりと肩をすくめた。戻れ、とフェンスを鷲掴んで大きく鳴らしたのは、三年の荒北だ。東堂が外壁を登り出した時点では反対側の校舎にいたはずだが、走ってきたのだろう。荒い呼吸を吐きながらフェンス越しに睨みつけてくる顔が凶悪だ。
「……真波、お互い、戻って怒られるとするか?」
 仕方ない、と笑って差し出された手を、真波はきょとんと眺めた。
 戻ってこいと差し出されることはあっても、一緒に戻ろうと言われたのは初めてだ。泰然とした顔で、当たり前のように手を伸べてくる二学年年上の相手に覚えた感情を、真波は説明できない。
 あえて言うなら、どんな顔をするかと思ったのだと思う。
 サイクルグローブの日焼け痕がくっきりと残る手を掴んで、引いた。
 思わぬ方向へかけられた力に、東堂の身体がぐらりと傾ぐ。手にかかった荷重に、真波自身も落ちることに気がついた。離すか、掴むか、諸共に落ちるか、究極の三択が軽々しくそこにあって、選ぶ前に凄まじい力で引きずり倒された。
「真波テメェッ!」
「荒北ッ!」
 背中が温かいな、と思って、その後に日差しに温まったコンクリートに叩きつけられた痛みを覚えた。拳が目の前で止まっていて、その節の目立つ拳が先程掴んだ東堂のものでないことに気がついた。東堂の手はその筋張った腕の付け根、肩を掴んで怒り狂った獣のような顔をしている荒北を留めていた。
「ここで暴れるな!」
 青い顔で制した東堂とフェンス越しの教師陣の叫び声に、舌打ちした荒北が鋭い目のまま真波の胸倉を掴んでいた手を離す。
「死ぬならテメェ一人で飛び降りろ」
「荒北!」
 唸り声に等しい声音に、東堂が声を高める。
 番犬みたいだな、と考えて、ようやく唐突に目前に出現した荒北が、咄嗟にフェンスを飛び越えてバランスを崩しかけていた二人を力任せに引き戻したのだと気がついた。今にも噛みついてきそうな荒北の肩を抑えた東堂が、小さく嘆息すると、荒北の背中越しに真波を見据えた。
「真波、戻れ」
 命令口調だ、と思うが腹は立たなかった。
 こくり、とうなずいて立ち上がると、制服に付いた砂を払い、真波は屋上の縁から無造作に飛び降りた。
「まっ……!」
 待てと言ったのか、名を呼ぼうとしたのか、東堂の焦った声は動物園の檻から響くような調子外れの複数の悲鳴にかき消された。
 うるさいな、と思いながら、飛びついた雨樋に捕まり、するすると地上に降り立つ。
 見上げると、屋上から身を乗り出していた東堂と目が合った。一瞬確かに交錯した視線は、ふいと逸らされたかと思うと、建物の影にその姿が消える。
 視線が合ったのは分かるが、表情が判別できる距離ではないのが惜しかった。
 他人がどんな顔をしているのか、気になったのは初めてだった。

 特に怪我もなくのほほんと地上に立ってこちらを見上げていた真波が、駆けつけた教師に連行されていくのを見守ってから、東堂がさすがに焦った、と深々と息を吐き出した。
 目の前で後輩に飛び降りられたのは衝撃的だったようだが、先に同じルートで屋上に登ったのは東堂である。
 お前が言うな、と拳骨を落とすとカチューシャが刺さったのか、痛いと大仰に喚く。いつも通りにその姦しい声を聞き流してから、荒北はフェンスの金網に背を預けて脱力した。
「アイツ、ヤベェぞ」
「ああ」
「お前、マジで死ぬとこだったンだぞ」
「困ったものだな」
 真剣味のない東堂の口調に荒北が大きく顔を歪めて、東堂の手を強く掴んだ。
「いや……、他人の害意には鈍くないつもりなんだが、あいつは悪意がなくてなあ……」
 虚を突かれた、と苦笑しながら、先程真波に掴まれたところと同じ部位を強く握る手を振り解く。口の両端を大きく下げながらも、渋々と手を離した荒北がフェンスに頭も預けた。
「で、どうすンだよ、あの問題児?」
 副将、と呼びかけられ、東堂は再度深々と嘆息した。