暖炉とレースと子犬

 曲自体をきちんと聞いたことはないというのに、歌詞の一部だけは何故か知っている歌を思い出した。
 女の視点で語られる、暖炉のある家に住んで、子犬と好きな男がいる横で、レースを編むという夢想の歌だ。あまりに少女漫画のようなシチュエーションが縁遠すぎて、特にどんな感慨をもったこともなかったが、案外縁遠くなかったことに愕然とした。
 まず、荒北が新婚生活を営むこの借家には暖炉がある。
 郊外の煉瓦造りの小さな一軒家は築七十年と、日本のごく一般的な家庭で育ったと自認する荒北にとってはあり得ない経年数だったが、実家が一世紀を越える建造物で文化財指定も受けている東堂はあまり気にならなかったらしい。
 今も暖炉は現役で、隙間風の多いこの家では大活躍する。東堂は完全にこの暖炉が気に入って家を決めた節があるし、荒北も面倒だと不満を口にしつつ、家の中に火がある生活は気に入っている。
 好きな男というのは、まあ、同性婚をしたのだからどちらにも当てはまる。好きだから結婚したのだ。
 レースを編むというのは、さすがにどちらにもそんな趣味はないが。
 これがLでなくRのレースならば、東堂はレースを編み上げる能力を有している。
 昔から全体を見通す能力は高かったが、更に精度が上がった。戦略を組み、場をコントロールし、チームの勝利に貢献する。渡欧してすぐは苦労もあったようだが、移籍を数度重ねて落ち着いた今のチームでは、人間関係を丁寧に編み上げて、日本の学生時代の二つ名まで浸透して「ヤマガミ」と呼ばれて馴染んでいる。
 蜘蛛の単語は東堂が昔から執心しているライバルに冠されるものだが、東堂の方が似合うのではないかと思うことがある。
 学生の頃は、全て計算尽くのような行動に反発して衝突したりもしたものだが、一種の習性だと気づいてしまえば、自分で張って編み上げた巣に雁字搦めになっているような難儀な生き物を放っておけずに、気づけばこんなことになっていた。
 そういう意味では、これはレースのように人間関係を編み上げて、それにまみれている気がしないでもない。
「それで」
 現実逃避にどうでもいい方向に流れていた思考を戻し、荒北は一週間分の出張の荷が詰まったキャリーケースから手を離し、その手でまっすぐに、にこにこと笑う東堂を指し示した。
「それはナニ?」
 新婚ほやほやで長めの出張に駆り出され、ようやく戻ってきた荒北を満面の笑みで出迎えた東堂の顔は、その表情のまま、温度の低い声にも揺らがない。
「彼奴輩は犬である、名前はまだない」
「返してこい」
「おかえりなさい、ダーリン。私達のベイビーよ、と言った方が好みだったか?」
 そんな出迎えをされていたら、即座にドアを閉めていた自信がある。自称新妻の胸元にしっかりと抱き抱えられた白い子犬が、キャン、と一声鳴いた。

 そして、新婚家庭は今、初めての危機を迎えていた。
「飼えまセン」
「飼う」
 留守の間に勝手に増えていた家族を議題に、出張の荷物を横にやって緊急家庭内争議に入ったが、主張は最初から平行線だった。
 現実的に考えて、自分たちの生活環境で動物は飼えないという荒北に対し、どんなに反対されようが飼うと決意した東堂は、このままだと子犬を抱えて家出しかねない空気を醸し出している。
 河原を歩く程度ならいいが、東堂の場合、電車を乗り継いで行ける島国のライバルのところまで押し掛けて、巻島から迷惑そうな引き取り要請の電話がかかってくる情景がまざまざと浮かぶ。
 というより、喧嘩をしては駆け込み寺にした前例が何度かあるので、結婚後にもやらかしたら絶対に死刑と巻島から二人揃って通達されている。
「シーズンオフの今はいーかもしれねーけど、レースの時はどうすンだよ? 二人で日本戻る場合は?」
 動物を飼ったことのない人間が甘い考えでペットに手を出すなと厳しい声を出すが、暖炉の前に胡座をかいて、足の上に子犬を乗せた東堂はびくともしなかった。
「まず、これを新婚祝いと称して持ってきたのはチームのみんなだ」
「……あの野郎ども……」
「ちなみに、あの野郎どもはお前がいない隙にと大挙して押し寄せてきて、バスルームのサプライズ改装していったぞ。おかげで最新の湯沸かし器が設置された」
「それはスゲー有り難ェけど、サプライズじゃねェの?」
 築七十年、歴代の住人によって手を入れられている建物だが、バスルームに関してはいつの年代のものともしれない瀕死のボイラーが稼働していたので、そろそろどうにかしようと話していたものだ。
「新婚だからいいだろうというよく分からん理屈で、名状しがたい形状のバスタブも勝手に運びこんできたから、先に忠告しとかんと、お前怒るだろ」
「…………何しやがった?」
「風呂に入るという目的には問題ないと思うが、二人で入ってる写真をSNSに上げろという要求は丁重にお断りしておいた」
 不安しかないが、もう設置されてしまったものは仕方ない。問題は生き物の方である。
「風呂の方に文句言われないように、こっちを用意された気もするんだが」
 これ、と指差された子犬が突きつけられた指を舐めて、相好を崩した東堂がその頭を撫でる。
「お前がさっき言ったことは、オレが先に抗議したんだが、これは監督の愛犬の子でな。レースの時も連れてきていいし、里帰りもチームで全力でバックアップするから、安心してベイビーとして迎えろと」
「移籍したらどーすんの?」
「さすがにそれは突っ込めなかった」
 子犬を撫でながら、プロレーサーが遠い目をする。
「まあ、生き物はさすがに困ると、ちゃんと言ったんだが、二人の家なんだから、オレ一人で決めることじゃないと言われてな。お前と相談しろと預けられて」
 荒北が出張から戻ってくるまで、お試しで飼ってみればいいだろうと言いくるめられ、数日の世話の間に完全に情が移ったということらしい。
「チョロい!」
 叱りつけられた東堂がむっとした顔になる。
「荒北の分からず屋」
「ちっちゃくて可愛いのなんて、今だけだからな。こいつ絶対でかくなンぞ。飼えるわけねーだろ。交渉決裂したって返しに行くぞ」
「…………」
「ンな顔してもダメなもんはダメ」
「実家に……」
「巻チャンちはお前の実家じゃねェ」
 処されたいのか、と先回りして制すると、東堂は深く息を吐き出すと、子犬を膝から下ろした。
「じゃあ、夕飯にしようか」
「あ、ああ?」
 急に話題を変えた東堂に一瞬戸惑う。
「犬を返すのは明日でいいだろ。どうせ、こうなると思って名前も付けてない」
 先程までの駄々を捏ねる子供のような顔から一転して、物分かりのよいことを口にして、諦めた顔で立ち上がる。
「荷物を解いて、洗濯物を出してくれ。新しい風呂は心して入るといい。文句はオレに言われても困る。あと、料理の間は危ないから犬が来ないように見ててくれると助かる。暖炉の火にも気をつけてくれ」
 淡々とした声にも表情にも怒りはない。ただ、諦めただけだ。
 あんな風に、諦めた顔をさせたくなくて、側にいることを選んだはずなのに、と考えかけて、騙されるなと頭を振る。
 あの顔は計算尽くだ。
 蜘蛛のように罠を張って、何だかんだと東堂に甘い荒北を陥れる気だ。
 高校時代に、荒北の携帯の写真フォルダに入った実家の犬を見て、飼ってみたかったと寂しげに笑った顔など思い返したら負けだ。
 正式に籍を入れて一ヶ月、ここで折れたら、ずっとあの男にいいように転がされる。
 片手でぐしゃりと、髪をかき混ぜて、荒北は深々と嘆息した。
「……まぁ、今更なんだけどな……」

 最終的に、犬の名前はユキちゃんとなり、何故か日本の後輩から抗議がきた。