ロストエイト - 9/10

番外:8月8日に恋をした<荒北靖友>
 ガシャンゴトン。
 擬音語で表せば、そんなところだろう。それが複数連続すれば、内臓が直接掻き毟られるような不快感をもたらした。
 集団落車、このロードレースというスポーツでは珍しいことではない。密集したまま猛スピードで走り続けるのだ。誰かが挙動を乱せば、周囲を巻き込んで酷い惨状になることもままある。
 頭では分かっていたが、青と白のサイクルジャージを纏った見知った顔が苦痛に顔を歪めて呻き、ひっくり返ってタイヤを空転させている色とりどりのロードレーサーが灰色の路上に点在する様は地獄絵図だった。
 集団から少し遅れていたために、巻き込まれずに済んだ荒北は、慌てて愛車をガードレールに立てかけると、起き上がれずにいるチームメイト達に駆け寄った。
 血の臭いが鼻に突く。
「おい、東堂!」
 手近にいた少年の名を呼んでその肩を掴んだ瞬間、苦鳴を上げた東堂に焦って手を離す。丸まった背をしばらく見守り、改めて恐る恐る手を伸ばして触れた背は、冷たい汗でびっしょりと濡れていた。
「……東堂?」
 のろり、と顔を上げた東堂の呆然とした目に、荒北は十六歳の少年の夏が終わったことを理解した。

 どうせ暇なのだろう、ついてこい、などという、相も変わらず何様のつもりなのかを問いただしたくなる態度に、文句を言いつつも朝早くから同行すれば、自分で言い出しておいて東堂は妙な顔をした。
 認めるのは業腹だが、指摘通り暇だったのだ。
 普段寮に入っている部員も多いため、実家に帰省できるよう、インターハイ後の休養日は連休となっていたが、そういった諸々の連絡を怠っていたら、無精な長男を見放した家族は愛犬まで連れて旅行に出てしまった。空っぽの家に帰っても意味はないので、そのまま寮に居残っていた。
 地元の東堂も実家から邪魔者扱いされたようで、寮で暇そうにしていたが、昨夜になって唐突にヒルクライムの大会に出るから来い、などと言い出した。
 また例のごとく東堂のファンが頭の悪そうな応援グッズを手にして待ち受けているのだと思っていたが、珍しくファンクラブに大会への参加を通達していなかったのか、誰もいなかった。
 サイクルジャージも箱根学園のものではなく、個人のものとなれば、部にも今回の参加は報告していないものらしい。
「……東堂、怪我は?」
「治った」
 全く信用ならない発言に、荒北は大きく顔をしかめた。
 東堂が練習中の落車で鎖骨を折ったのは二ヶ月前のことだ。
 インターハイ出場の候補として有力だった東堂は、それで脱落した。しばらくおとなしく治療に専念していたはずだが、最近は荒北が目を光らせていないと無茶な練習をしようとする。大会の参加も、まだ早い。
「……棄権しろ」
「嫌だ」
 駄々を捏ねる子供のような返事に思わず噛みつきかけて、意固地になった顔に諦めた。
「じゃあ乗ればァ?」
 荒北自身が思っていたよりも、突き放した口調に聞こえたのだろう。動揺を映して揺れた瞳に嘆息して、カチューシャで留めた頭に手を置いた。
「途中で無理だと思ったらすぐ棄権。分かったァ?」
 ギリギリと手に力を込めれば、痛い、と文句を言いながらもへにゃりと笑う。
 ゴール前で待っていろ、といつもの調子で人を指差す腕が、以前のようにきちんと上がっているのを見てとる。長くギプスで固定していた肩は、動作がしばらく不自然だったが、本人の主張通り確かに治ってきてはいるのだろう。
 治りたてに無理をするのが一番よくないと、経験上知っている荒北はやはり首根っこ掴んででも参加を止めさせるべきか一瞬悩む。
「出るぞ。無理は、絶対にしない」
 口に出す前にきっぱりと宣言されて、荒北は諦めた。
 それはもう、大言壮語と自信過剰と馬鹿の三重苦のようなチームメイトだが、言ったことは必ずやる。無理はしないと言ったのだから、それは守るだろう。
「……何で、俺なんだよ……?」
 配られたゼッケンを安全ピンで留めてやりながら、嘆息と一緒にぼやくと、肩越しに振り返った東堂が快活に笑った。
「暇そうだったからだ」
「ハイハイ、知ってますゥ」
 留めてやったゼッケンを叩いて背を押してやると、行ってくる、といつも通りに笑った東堂は白いリドレーを引いて出場選手の集合場所に向かった。

「……いつまでヘコんでんのォ?」
「カッコ悪い……、今日は女子に見られなくて良かった……」
「言っとくけど、お前いつでもカッコ悪ィからァ!」
 時間制限の足切り寸前で、どうにかゴールした東堂が直後に倒れこんだのに焦って抱き支えてやったが、怪我を悪化させたわけではなく、単純にスタミナが切れただけらしい。
もう自力で立てるだろうに、道端の木陰に座り込んだ荒北に全体重を預けたまま、最下位記録に落ち込んだ東堂が動こうとしない。
 山の上ではあるが、八月の陽気は生易しいものではなく、正直暑苦しい。
「しばらく練習もできてねェんだから、こんなモンだろ」
 足切りを食らわなかっただけでも上出来だと言ってやるが、まだしばらく立ち直りそうにない。
「……申し込んだ時は、こんなことになると思ってなかった」
 怪我をする前に申し込んだのだろう。きっと、上位に食い込めるつもりでいたのだ。
「優勝して、女子に騒がれて、フクと隼人に祝福されて、最高の一日になる目算だったんだがなあ」
「お前、ホント図々しいよネ」
「オレ史上初の最低ランク……そして目撃者がよりによって荒北か……」
 連れ出しておいてどういう言い草だと怒っても良かったが、次の一言に気が削がれた。
「オレ、今日誕生日なんだ」
 なるほど、本調子の東堂ならば、この大会でも入賞を狙えたはずだ。友人とファン達に祝福される一日を夢見て出場を申し込んだのだろうに、現実には当人は負傷。新開は原因不明の失調からの休部、福富に至ってはインターハイ最中の取り返しのつかない過ちに未だ茫然自失としたままだ。
 荒北に声をかけた理由を、暇そうだったからと言ったが、他に声をかけられる人間がいなかったのだ。
 かける言葉を思いつかずにいると、東堂がようやく体勢を変えた。ころりと半回転したはいいが、膝の上に居座ったまま荒北を見上げて手を差し伸べてくる。
「……ナニ?」
「お誕生日様を慰めろ」
 要求は分かりやすかったが、荒北と東堂の友人とも呼べないような関係で、何を期待しているのかさっぱり分からない。
「どんな風にィ?」
「じゃあ、恋人みたいに」
 実は全く落ち込んでなどいなかったように思える言動に一瞬拳を固めるが、これは実に分かりにくく落ち込んでいるのだと気付いてしまって、荒北は深々と嘆息する。
「何だその態度は……って、荒き……っ!?」
 放っておけば姦しい口を顔全体、掌で覆って黙らせ、右腕で抱きすくめるようにして動きを封じれば、驚いたようにじたばたと暴れる。
「オーダー通りだろォ?」
「暑苦しいわ!」
 それは今の今まで、全体重をかけられていた荒北が言いたいことだったので、聞く耳を持たずしばらくそのまま締め上げる。
「何か、言いたいことあンなら聞くけどォ?」
 おとなしくなったところで声をかけると、目元を覆ったままだった掌が僅かに湿った。
「休みが終わったら、フクと隼人を取り戻す。二人が泣こうが喚こうが引きずり戻す。オレも完全復帰する。みんなで、来年のインハイに出る」
 真っ直ぐな宣言に、これは曲がらないのだと実感した。
 怪我をして、大きな舞台をふいにした東堂が、かつての自分のように歪んで壊れていくのを危惧していたが、いらない心配だったらしい。
「荒北も、出るんだ」
「お前って本当にさァ……」
「出ろ」
 傲岸な台詞なのに、縋るような声音に苦笑する。
 薄々気づいてはいたが、いい加減、観念するしかないらしい。
「分かったよ、お誕生日様」
 希望通り恋人のように、顔を覆った掌越しに口づけて約束する。

 八月八日に恋をした。