ロストエイト - 8/10

08
 気分がいい、ふわふわする。
 温かい背に縋って、何度も落とされるキスを享受する。鼻の奥が痛くて、勝手に涙が溢れるのを、泣くなと拭われて口づけられる。
「お前、毎回泣いてんな……」
「泣き癖がついたんだ」
 お前のせいだ、と睨むと、ゴメンネ、と高校時代のように口先だけで謝られた。誠意がないと背中に爪を立ててやると、痛いと文句を言いながら黙らせるつもりなのか、深いキスに切り替えてくる。
「っん……」
 酸欠になりかけても離れるのが嫌で、ふわふわとした心地のまま、与えられる感覚を追っていると、必死、と耳元で笑われてぞくりと身が震える。その背を撫でる手の動きが不穏だったが、とにかく口が自由になったうちに、ともつれかけた舌で荒北の名を呼ぶ。
「まだ、どうしても思い出せないことがあるんだ」
 ぴたりと手が止まって、僅かに身を起こした荒北が、東堂の次の言葉に身構えたようだった。
「八年前、最後までしたか?」
「……あー」
 途中から記憶がないのだと訴えると、何とも言えない顔で目を逸らす。
「答えろ!」
「オレもあんましよく覚えてねェけど、たぶん、酔いすぎててどっちも勃たなかったっぽい?」
 確かに、互いにひどく泥酔していたので、不思議はない。
「で、お前がやめないでって泣くし、仕方ねーから宥めンのにキスしてハグして、気持ちいいってとこ触って撫でて舐めて……」
「お前、今話盛っただろ!?」
 よく覚えていないはずだろうと噛みつくと、今思い出したとぬけぬけと言う。
「脇弱ェんだよな、お前」
「ひゃっ!?」
 シャツの下から潜り込んできた手にくすぐられて、思わず声を上げると、人の悪い笑みを浮かべるのに腹が立つ。
「いきなり触られたら誰だって……んっ!」
 腰骨に軽く歯をたてられ、妙に甘ったるい声が出て焦る。
「あ、荒北っ!」
「……やめとく?」
 そうやって人をいじって楽しいか、と睨み上げた先に、本気で心配そうな顔があった。頬に添えられた手が優しい。
 自分の顔色は分からないが、心配性すぎるほどに大事にされていることは分かってしまって、顔が熱くなる。
「……もうこれ以上は、嫌だ」
 言ってしまってから、決定的に言葉が足りていなかったことに気づく。
 口数は多いくらいのはずなのに、どうにも荒北相手には伝え方を間違える。
 少し寂しそうに身を退きかけた肩にしがみついて引き戻し、口づけを仕掛けると、バランスを崩した荒北の体重がずしりとかかってくる。
「東堂ォ、お前な……」
 キスというよりは打ち付けたようになった口が痛んだが、荒北も同様らしい。痛そうに口元を抑えて身を起こしかけた荒北の肩を再度掴んで押しとどめる。
「八年、無駄にしたんだ。これ以上待てない」
 伝え損ねた言葉を早口に言い足すと、ぽかんとした顔をする。
「もう間違えるのもすれ違うのも待つのも嫌だ。オレはお前のものになりたいし、お前をオレのものにしたい。だから……」
「……待て、ちょっと待て!」
 更に言い募ろうとした口を掌でふさがれ、強制的に黙らされる。
 むっとして見上げると、荒北は自分の口元を抑えていた手を額に移していた。
「あー、オレ、そういえば、お前のそういう超カッコいいとこ好きだったわ」
 思い出した、と呻いて荒北は、じろりと睨み下ろしてきた。
「オレはお前のカッコ悪いとこが好きだったな」
 全然スマートではないし、妙な意地を張って素直になれず、散々遠回りするくせに、最後には一番優しかった。
 口を押さえられたままそう告げると、黙れ、と凄まれる。
「お前だけ言うな。オレにも言わせろ」
 何を言うつもりだろう、と目を瞬かせて待つと、そのまま十数秒が過ぎた。
「……オレ、お前のそういう、大事な場面で語彙が少なくてカッコつかないとこ、可愛いと思うぞ?」
「っせぇ! いいから聞け!」
 怒鳴りつけたくせに、次の言葉がなかなか出てこない辺り、昔から変わらない。
 唸り声を上げて髪をかきむしると、一つ息を吸い込む。
「オレの全部やるから、お前の全部チョーダイ?」
「…………かわいい」
「笑うな!」
 照れ隠しに怒る荒北の頭を引き寄せて、今度はぶつけないようにゆっくりと口づける。
「全部やる。だから、お前を全部寄越せ」

 自転車に乗る際の応急処置用に常備しているワセリンを、身体の奥に塗り込められる感触は違和感しかなかった。
「んっ」
 異物感に眉をひそめると、奥を探る指を止めて顔を覗きこんでくる。
「痛ェ?」
「痛くは、ないが……変な感じがする」
 互いへの愛を確かめ合った二人が、そのまま深く口づけあいながらベッドになだれこんで暗転、というわけにはいかなかった。
 今回は最後までセックスする、という意志は二人とも合致していたが、具体的にどうすればいいのか、という知識に欠けていた。
 男同士はアナルセックスをするらしい、という猥談レベルの知識しかない東堂と、荒北も大差ないようで、八年前は不発に終わったそれが、どうにかなっていたらどうするつもりだったのか、過去の自分を捕まえて問いただしたい。
 なんとなく受け身のつもりだった東堂が、抱きたいと思っていた荒北とうまく合致したのは幸いだった。
 双方、後日仕切り直した方がいいのではないかと薄々思いはしていたはずだが、どうしてもとゴネたのは東堂で、荒北もこの機会を逃すのが嫌だったのだろう。セックスをしたいというより、八年前の失敗を二度と繰り返したくないという気持ちの方が互いに強かったのは確かだ。
 交互にシャワーを浴びている間にスマホで検索してみたところ、非常にえげつないサイトが多数ヒットするという、不安要素しかない準備時間を経て、無理はしない、我慢もしない、ダメだと思ったらすぐ申告、と約束させられて今に至る。
 恋人同士の初めての愛の営みというよりは、過酷なスポーツに挑戦するような勢いで、ムードも何もあったものではない。
 それでも、体中にキスされて手で愛撫されるのは気持ちがよかった。多幸感に満たされて、甘ったれた声で名を呼んでしがみつけば、甘やかすように口づけられた。
 ただ、潤滑剤としてワセリンを塗り込められる段階になると、違和感が先立って、これまでの経緯を無駄に思い起こしてしまうくらいに頭が冷えた。
「これ……、絶対しなきゃ、ダメか?」
「ダメに決まってんだろ」
 本来受け入れる場所ではないのだからというのは、頭では分かっているのだが、自分でも触れたことのないような場所を他人の指に暴かれているという事実に、羞恥心が先立つ。暗いと傷つけてしまうかもしれない、という荒北の主張が通って、煌々と照った寝室の照明もそれを助長した。
 快楽に溶かされるようなこともなく、ただひたすらに恥ずかしい。体温で溶けてべたつくワセリンが、濡れた音を出すようになってきたのも羞恥心を煽った。
「もう、いいんじゃないか?」
「いいわけねーだろ。まだ指一本しか入ってねェっての」
 三本は入れて慣らさなくちゃダメだ、と付け焼き刃の知識を晒す荒北の、半勃ちのそれをちらりと見やって、必要だろうかと悩むと、勘の良い荒北に睨まれた。
「東堂ォ、なんか余裕みたいだから指増やそっか?」
 宣告通りに圧迫感が二倍になって、小さく呻くと、また顔を覗きこまれる。
 この反応を窺われている感じがいたたまれないというのに、その気遣いはできないらしい。多少苦しがっていようが、痛がろうが、気にせず進めてほしい。
「気に、しなくて、いいっ、から!」
「いや、気にすんだろ」
 人の言うことを相変わらず聞かない男が、指で内部をぐりぐりとかき混ぜながら、何やら思いついたように東堂の身体に屈み込んでくる。
「……胸なら見ての通り、ないぞ?」
 空いた左手で乳首を摘まれたところで、違和感が先立つだけである。皮膚が薄いところではあるので、刺激されているうちに立ち上がってはきたが、くすぐったいだけだ。
「男でも慣れると感じるらしいンだけどな」
「それもネット情報か?」
「便利な世の中だネ」
 悪びれもせず、指で弄っていない方の乳首に舌を這わせてくる。濡れた感触がむず痒い。快楽にはほど遠い、何とも言い難い感覚に戸惑っていると、そんな顔をしない、と唇にキスを落とされる。
「やっぱやめとく?」
「嫌だ!」
 この期に及んで、と思わず身を起こすと、身体の内部に収まった荒北の指が妙なところを刺激して、あ、と声が漏れた。
「ここ?」
「あ、ちょっと、待て。そこ、なんか、おかしい……」
 東堂の身が跳ねたのを察して、反応を見せた部分を探すように弄りはじめた指から逃れようと身を捻るが、やめるかと聞いた舌の根も乾かないうちに、押さえ込まれて重点的に責め立てられる。
「や……、なんか、そこ、やだ……」
 腹の内側、陰茎の付け根の辺りだろうか、男の指の腹がその部位を擦る度に、勝手に身が跳ねて、疼くような感覚が腰にたまる。
「奥っていうから探してたのに、すげー手前じゃねェか……」
「な…に……っ?」
「前立腺」
 噂には聞いたことのある、男の感じる性的ポイントである。特に己の人生で関わりになることはないと思っていたそれを、十年越しの恋を拗らせた相手の手に弄られることになるとは、人生とは実に不可解だ。
 思わずそんな現実逃避をしていると、強くそこを抉られて妙な声が勝手に上がる。
「きもちい?」
「分かんな……っ、なんか、変っ」
 快感と言うよりは、今までに体感したことのない違和感だ。勝手に身体が揺れて、体温が上がり、その熱のせいなのかそれとも冷や汗なのか、よく分からない汗が滲む。
「それ、気持ちいいンだろ」
「違っ、やだ、なんか、変だからやだっ」
 ぞわぞわと悪寒に似た感覚から逃げようと身を捻ると、抱き込むように抑えこまれ、前に回された手が東堂のペニスを撫で上げた。
「ほら、ドロドロ」
「嘘、だっ、やっ、だから、駄目だ……!」
「ダメじゃなくて、イイって言ってみ?」
「荒北……?」
 その方が辛くないから、と言い含められて、身体の内の性感なのかどうなのか判然としない部位と、性感として明白な性器を同時に責め立てられ、思考が四散した。
「ほら、キモチイイ」
「……ち、いい……」
 耳に吹き込まれるままに呟けば、イイコと褒めるように告げられる。
「荒北、気持ちいい……」
 譫言のように口にすれば、身体も言葉通りに受け止めたようだった。これは快楽なのだ、と与えられる感覚全てを熱に変化させて、気持ちいい、と呟く合間に甘い嬌声が勝手に上がる。
 訳が分からないまま、一際高く悲鳴を上げて達し、ぐったりを身をベッドに預ける。
 真っ白になっていた頭に、次第に色彩と輪郭が思考と共に戻ってきて、言葉にならない声を上げて顔を覆う。
「酒でも飲んだ方がよかったかァ?」
 すぐに我に返るな、と背後から溜息がかかって、まだ身の内にあった指がぐるりと腸壁を刺激して、また奇妙な悪寒が疼いた。その感覚をどうにかやり過ごし、身を捻って荒北を見上げて訴える。
「ものすごく恥ずかしいんだぞ、コレ!」
「恥ずかしいことしてるからねェ」
 しれっと言う荒北に、余裕か、と蹴りつけると、じろりと睨み下ろされた。
「あるわけねェだろが」
 言葉通り、余裕のない表情と完勃ちになったそれを見やって、つい感動した。
「……ちゃんと、オレに挿れたいんだな、お前」
 本当にこの男が自分を抱けるのか、最後まで不安があったのだが、当たり前だと叱られる。
「お前以外、ヤダっつーの」
 言ってから、何か違うと思ったのか、軽く首を傾げる。
「お前じゃなきゃヤダ」
 言い直された言葉が、泣きそうなほど嬉しい。
「オレも、お前じゃなきゃ嫌だ」
 早く、とせがめば、切羽詰まった顔で指を引き抜かれ、その感触に戦く間もなく押し倒され、両膝の裏を掴んで広げられた。羞恥心に体温が急上昇するが、告げた言葉は拒絶ではなく懇願だった。
「きっつ……」
 あてがわれた熱量が押し入ってくる圧迫感は、指の比ではなかった。
 押し殺した声に苦痛の色しかないのを察した荒北が、挿入の途中で動きを止めた。
「東堂……」
「やめ、るな……!」
 言われる前に拒否して、首に縋って引き寄せると、彼自身も辛いだろうに苦笑してゆっくりと身を推し進めてくる。
 身が裂けるような痛みと圧迫感を浅く息を継いで耐えて、深いところで相手の熱を感じる。
「東堂、大…丈夫か?」
「……ぃい」
「いや、ヨくはねーだろ、無理すんな」
 違う、と首を振るだけで、奥の熱が脈打つのを感じる。
「うれしい」
 伝えると、感情が溢れてぼろりと涙が溢れた。
「だから、泣くなって……」
 頬を拭われ、口づけられる。それだけで、失った八年分が満たされた気がした。

「へー、それで、デキちゃったんですかー」
「真波、語弊がある」
「八年も忘れてて、全然問題なかったのに、今更くっつくんですかー」
「真波……」
 完全にふてくされた後輩の頭に手を置いて困り果てる。一晩蚊帳の外に置かれて、随分気を揉んでいた、と御堂筋から一言メールが入っていたので、心配をかけたかと思えば怒るに怒れない。
「ずっと忘れてたんだし、また忘れちゃうかもしれないじゃないですか。アイツはやめときましょうよ、東堂さん。もう、別に巻島さんでもいいですからー」
「巻ちゃんはそういうのじゃない」
「じゃあ、石垣さんとかー、いっそアキラでもいいしー」
「そんなこと言われても二人とも困るだろう」
「分かりました。正清あげます」
「銅橋はお前の所有物なのか?」
 苦渋に満ちた表情で告げられたが、スプリンターをもらっても困る。
「じゃあ、悠人いります?」
「悠人は可愛いが、隼人に恨まれるからいらん」
 そもそも、勝手にこんなことに名を出されるのも迷惑だろう。
 普段、こういった拗ね方をする後輩ではないのだが。
「真波、いい子だから……」
「アイツはヤですー」
 子供が駄々をこねるように、背に腕を回した真波が東堂の腹に顔を押しつけて頭を振る。
「……なあ、東堂、そろそろオレ、キレていいか?」
 それまで、ソファから少し離れた床で、苦々しい顔をしてあぐらをかいていた荒北が声を低めて唸った。
 今日は休みだった東堂と違って、平日は仕事の荒北が朝に慌てて出て行って、しばらくして真波が様子を窺いにやってきた。そして盛大に拗ねて、今に至る。
 昼間のうちはまだ機嫌を損ねているのが分かる程度だったが、荒北が顔を出した瞬間から東堂にくっついて離れなくなった。東堂が目で牽制していたので、ここまで黙っていた荒北だが、そろそろ限界のようだ。
「荒北、大人なんだから、少し我慢しろ」
「それは! 今何歳だ!?」
 もっともな指摘だが、考えると後輩の人生に口を出したくなるので、あえて目を逸らしている現実である。
「後輩はいくつになっても年下だからなあ……」
 もう、出会った時の十五歳の少年でないのは重々承知だが。
「お前、割と荒北に懐いてただろうに」
 荒北に「不思議ちゃん」と呼ばれて、遅刻やサボりをよく叱り飛ばされていたが、案外あれで当時の真波が荒北に懐いていたのを知っているだけに、どうしてここまで敵愾心を見せるようになったのかが分からない。
「だって、東堂さんが泣くのって、絶対荒北さん絡みじゃないですか」
 東堂が思っていたより、後輩の愛が深かったのは嬉しいが。
「いや、それを言うならオレ、巻ちゃんにも散々泣かされてるぞ?」
 先ほど、荒北に比べればマシな相手の筆頭で出てきたようだが、人の調子を狂わせる点では巻島も大差ない。
 出会ってすぐは、あの独特すぎる走りに負けたことが納得できずに悔し涙を飲まされたし、決着を約束した高校最後のインターハイでも泣いた。その後、何の前触れもなく留学を告げられた時も泣かされた。
 そう言ってみると、返ってきた視線が珍しく冷ややかだった。
「それ、本当に荒北さん絡んでません?」
「…………あ」
 巻島に出会った当初、焦って全体的に調子を崩していた東堂に、荒北がちょっかいをかけてきて、売り言葉に買い言葉でやり合う内に感情が高ぶって泣かされた。鬱憤を晴らさせようとしたのだとは、後で気がついた。
 インターハイの際は、約束が反故にされかけたことが理解できずに焦って空回りかけた東堂に、容赦なく現実を突きつけて諦めさせたのも荒北だ。
 留学を告げられた時も、悲しいだとか寂しいと思う以前に混乱して呆然としていたのを、無駄に鋭く察して人気のないところに連れ出して何があったかを聞かれて、説明しているうちに頭の中が整理されて、ライバルとの別離を実感して泣かされた。
「……荒北、お前、好きな子は泣かせたい小学生男子のような性癖でもあるのか?」
「テメェが大概、一人で勝手に思い詰めてんだよ! ほっとけるか、あんなもん!」
 怒鳴りつけられ、おや、と首を傾げる。
「お前、本当にオレのことが好きだったんだな」
「ンだと思ってたんだよ?」
「嫌われてるとばっかり」
 一番情けない気分の時にばかり、深く踏み込まれて、不機嫌そうな顔で構われるものだから、よほど自分の態度が目に余ったのだと思っていた。
 そう告げると、低く呻いて荒北が頭を抱えた。
 なるほど、こうやってすれ違ってきたのか、と改めて納得する。
「二人とも十年前から両思いのくせに、ずーっとトラブって散々泣いてたんだから、これからだってたぶんそうじゃないですかー。八年忘れてられたんだから、別に荒北さんなんて、いなくたっていいじゃないですかー」
「まあ、そうかもしれんが」
「おいっ!?」
 後輩の言い分にうなずくと、恋人が焦った声を上げる。
「でもな、どれだけ忘れようとしても結局思い出すわ、その度にのたうちまわる上に、どうせ何したってどう足掻いたって、好きなんだと思い知らされるだけだからなあ。既に八年無駄にしてるので、これ以上のロスは嫌だな」
 そう告げると、少しむくれた顔で両手を伸ばして来るので、好きに頭や頬に触れさせていると、ついに手が出た荒北が後輩の首根っこを掴んで引き剥がした。
「だから、大人げない」
「今、こいつ、絶対どうにか忘れさせられねーかって思ってたぞ!」
 そうなのか、と目を向けると、そっぽを向いたということは、荒北の指摘通りらしい。
「さすがにもう、あれはないぞ?」
 むしろ、何故あれが有効だったのかすら謎だ。
「でも……」
「真波、聞き分け」
 子供に言い聞かせるように告げて頭を撫でてやると、分かりやすく拗ねた顔を作っていた後輩が表情を消した。
「…………サカミチ」
 ぼそり、と呟いた後輩が、ゆらりと立ち上がると壁にかけていた白いロードバイクを外して、振り返りもせずに出て行った。
「……小野田君、スマン」
 今日は千葉の友人のところに押しかけにいくことにしたらしい後輩に、先回りしてライバルの後輩でもある小野田にメールを送ると、快く歓迎する旨の返信が入って安堵する。
 一つ息を吐いて、荒北に向き直ると非常に渋い顔がそこにあった。
「どうした、不細工な顔をして?」
「いい加減、オレが拗ねンぞ」
「何でそんなに手間がかかるんだ、お前らは?」
 あっちにもこっちにも拗ねられても困る。
「のなあ……!」
「真波はしょうがないだろう。あいつ、八年黙ってオレの番犬やってたんだぞ。今回のことがなかったら一生、オレがお前のこと忘れてること隠し通すつもりだったろうし」
「その何を、オレが、仕方ないと思わなきゃなんねェんだよ!?」
 忘れられた張本人としては、正当な怒りである。
「あいつの言うことは、感覚的で筋道が立ってなくて分かりにくいんだがな」
 昼間、側を離れなくなった後輩がぽつぽつと漏らしたところによると、東堂自身には全く自覚がなかったのだが、記憶が欠けた状態の東堂は、箱学に関わる行事に触れようとすると、決まって体調を崩していたらしい。
 インターハイの応援やOB会に顔を出そうと計画を立てると、必ず高熱を出していたというので、荒北に遭遇するリスクを無意識に避けていたようだ。そういえば、今回の発端になった飲み会の当日も、風邪気味だと思っていたがそうではなかったようだ。
「真波はその辺り見ている内に、どうもオレが記憶戻ったら精神が壊れるくらいに思ってたみたいで」
「…………」
「実際、お前に再会してから、頭痛吐き気目眩と微熱は常態で、かなり情緒も不安定だったからなあ」
 それを知っていたら、更に真波の態度が激化していたのは間違いない。
「そう思うと、昨日、散々ゴネてたのも、今日拗ねてるのもしょうがないだろう」
「…………オレにどーしろと」
「アレはうちの子なので、お前も可愛がれ」
「ペットか!」
 似たようなものである。
 本人も勝手に番犬気分のようなので、そのつもりで東堂も面倒を見ている。
「……今度、話は付けとく」
「喧嘩するなよ?」
「…………」
「だから何でそんなに大人げないんだ!」
「オレに大人になれって言うなら、アレもいい大人になった人間の男として扱え!」
「無茶を言うな」
 社会人として成立しているとは言い難い生き物を、大人の男として扱えるかと言い放つと、何故か荒北が額を押さえて唸った。
「……こんなアホなことで、お前と喧嘩したくねェんだけど」
「同感だな。散々時間を無駄にしたんだ。さっさとすることをしよう」
「することってナニ?」
 溜息まじりに問われ、東堂は手を軽く広げてみせた。
「ハグしてキスして、これからの話だ」
 八年分のロスを取り戻さないとならないのだと告げると、恋人はそうだな、と笑ってまず最初の要望に応じた。