07
頭が痛い、気分が悪い。
ぼんやりと見慣れた居間の天井を見上げ、ソファベッドに横たわっていることに気付く。身動げば、被せられていた自分のコートと、クリーニングに出しても取り返しのつかなさそうな油染み以外にも全体的に薄汚れたミリタリージャケットが滑り落ちた。
「あ、起きたんですか?」
床に座ってソファに寄りかかっていた真波が、落ちてきたコートに気づいて振り返り、へらりと笑ってそれまで話していた電話をあっさりと切る。
「……真波」
「なんか、東堂さん寝ちゃって」
酷い頭痛に額に手を当てると、携帯を手にしたままの手が労るように添えられた。
「忙しすぎなんじゃないですか? ご飯作ります?」
少しは大人になったものだ、と後輩の隠し事をごまかそうとしているのが丸分かりではあるが、こちらを気遣った振る舞いにしみじみとする。
「あのな、真波……ッ」
切り出そうとした瞬間、こめかみに触れていた真波の携帯が電子音と共に震えて、増幅された頭痛に顔をしかめる。
「あ、すみません」
先程途中でやめた電話の折り返しだったのだろうに、あっさりとそれも切って電源ごと落とすとテーブルの上に無造作に放り捨てる。
「携帯が壊れるし家具も傷つく!」
雑なことをするなと、しばらく見ないうちにまた伸びた髪が奔放に跳ねる頭をはたくと、怒られた、と悪びれずに笑う。
飄々とした顔を半眼で見据えるが、自分から白状する気はなさそうなので、まずここしばらくの教訓から、コートのポケットを探って自分の携帯を取り出す。
案の定、着信とメッセージが数件溜まっていた。
荒北からの着信とメッセージで占められる中、気になったのが後輩の黒田からのメールだった。一瞬悩んで、先に後輩のメールを開く。
『黒田です、おつかれさまです。さっき真波から荒北さんの連絡先聞かれたんですが、何かご存知ですか? あいつが人に連絡しようってのも妙だし、しかも荒北さんに用事ってのが気になって。これは気のせいかもしれないんですけど、なんか、ブチキレてた気がして。真波がキレんのって、東堂さん絡みくらいだし、この前の件もあったので。一応、真波の番号を荒北さんに伝えて、荒北さんの判断で連絡してもらうってことで引き下がらせてます。荒北さんにはメール済みです。全然関係なかったらすみません』
なるほど、確実に荒北の連絡先を知っている黒田に連絡を取ったか、と納得しつつ、荒北からのメールに切り替えようとしたところで、画面が件の人物からの着信に切り替わった。
一瞬動揺して通話に切り替えるのを躊躇った隙に、手から震える機体を取り上げられる。
「間違い電話ですね」
断りもせずに、人にかかってきた電話を切った後輩に頭痛が増した。
「お前な……」
「知らない番号だったでしょ?」
「きっちり名前表示されてただろうが!」
「え、知ってる名前でした?」
笑って問う後輩に、その頬を引っ張って笑みを崩す。
「いひゃいです」
「知った名前だ。荒北靖友、オレの同学年、お前にとっては先輩。お前が少し前に黒田に連絡先を問い詰めた男。さっきまで電話で話してたな?」
「……あれ、忘れてない?」
「あんなものが何度も有効なわけがないだろう……」
逆に全部思い出したと嘆息すると、想定外だったのか、子供じみた顔でふくれる。
「また忘れたと思ったのに」
「お前は全部知っていたんだな……」
八年前、誕生日の醜態の後に荒北に忘れろと言われ、数日くよくよと思い悩んで、自棄酒をしてみるという暴挙に出た。地元を少し離れた辺りが我ながら小心者だ。
小田原に出たからと後輩を呼び出して、ぐだぐだに絡んで醜態を晒して呆れはてた後輩に、だったら忘れてしまえと言われた。
そんなことであっさり人一人を忘れ去るものなのか、自分でも不思議だが、それ以降、東堂の記憶から荒北靖友という人物に纏わる全てが消去されていたのは事実だ。
「東堂さん、海外行って、お正月くらいしか帰ってこなくて、オレ以外の誰とも会わないから」
年末年始だけ箱根に帰ると、都合を合わせて会えるのは昔からの地元の友人と、小田原に実家のある真波くらいだった。ただ、積極的に高校時代の友人達に会おうと努力しなかったのは、無意識に荒北に会う機会を避けていたのだろうか。
「一回、荒北さん達に会わなくていいんですか、って聞いたら、そんな奴知らないって言うから、本当に忘れちゃったんだなーと思って」
それで、と続けた真波はあっけらかんとしていた。
「そのままにしときました」
「……先輩がそんなことになってたら、普通、病院に診せようとか、誰かに相談しようとか思わないか?」
この後輩に、普通という言葉が適用できるとは思っていないが。
「別に」
きょとんとした顔で首を傾げて、予想通りの台詞を返した真波に嘆息する。
「だって東堂さん、荒北さんのこと覚えてた時の方が、病院行った方がいい感じだったし」
「どういう意味だ?」
「ジョーチョフアンテイでした」
きっぱりと言われて、正論に二の句が継げない。
「それでまた、なんかオレが知らない間に自殺騒ぎとか起きてるし、荒北さんが出張ってるみたいだし、また何かジョーチョ乱れてるんだろうなーって」
「……いや、まあ」
自殺騒ぎは伝言ゲーム的な誤解の連鎖にしろ、情緒不安定だったのは全くもってその通りである。
「だから、これはもう一回忘れてもらって、荒北さんを二度と近づけさせなければいいかなーって」
「……とりあえず、お前、荒北に何言った?」
後輩が問いに答える前に、当人から再度電話がかかってきた。
「真波、返せ」
電話を寄越せ、と手を差し出すが、要求に応じず、マナーモードで震える東堂のスマホをしばらく見下ろしていた真波は、今度は切らずに勝手に出た。
「東堂さんは、出ません」
『真波、何でテメェが東堂の電話に出やがンだ!?』
「別に、荒北さんに関係ないじゃないですか」
『いいから東堂を出せ!』
「ストーカーみたいだから、やめてください」
いい加減、怒り心頭に発しているらしい荒北の怒鳴り声は、離れていてもよく聞こえたし、どうやらこう見えて心底怒り狂っていたらしい真波の台詞には毒と棘しかない。
頭痛に加えて胃まで痛んできて、ぐらぐらと目眩を感じながら真波の手からスマホを取り返そうとするが、ひょいひょいと避けられた。
「真波、いい加減に……」
その腕を押さえこもうと立ち上がりかけた瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。
「東堂さん!?」
床に正面から突っ込みかけて、危ういところで真波に抱き支えられた。
『おい、東堂!? そこいンのか!?』
状況が分からないまでも、何かあったと勘付いたらしい荒北が更に声を張り上げる。何か苛立ち紛れに殴りつけたのか、ガツンと鈍い音が聞こえ、同時に玄関の向こうでも何やら音が響いた気がした。
「……まさか、表にいるのか?」
「ストーカーがいますって警察呼びます?」
「やめんか……」
胃に穴が開きそうな気分になりながら、壁の時計を確認する。夜の十一時、先日の三時の騒ぎよりはマシだが、十分深夜帯である。
「ご近所からそろそろ文句が出るな……」
頭も胃も痛い。
「……真波、玄関開けて来い」
「やです」
「じゃあ、自分で行くからいい」
ふらふらと立ち上がって玄関に向かおうとするが、大して広くもない部屋のドアまでの距離がひどく遠い。ようやく廊下に出るドアに取りすがったところで、嘆息した真波に追い抜かれた。
慌てて追うが、すたすたと数歩で短い廊下を通り過ぎた真波は、東堂が追いつく前に鍵とチェーンを開けてしまう。
途端に凄まじい勢いでドアが開かれて、夜半の騒音にきりりと胃が痛んだ。
「東堂!? 真波どけ!」
頭痛と吐き気に廊下の壁に取りすがってずるずるとへたり込んだ東堂の姿に気付いたらしい荒北が、框で立ち塞がる真波と一悶着しているのを見て、真波の名を呼ぶ。
「……でも」
「近所迷惑だから、やめろ」
命じると、渋々と真波が身を退いて、その横を乱暴な足取りで通り過ぎた荒北が東堂の前に屈み込んだ。
「東堂?」
「……荒北」
名を呼ぶと、心底ほっとしたような顔をした荒北が、そのまま東堂を担ぎ上げた。
「おいっ?」
「顔、真っ青なんだよ! いいから部屋入ンぞ!」
抗う体力もなく室内に担ぎこまれて、暖房の入った空気に確かに少し身体が楽になる。ソファに横たわらせて、落ちていたコートを被せた荒北が東堂を覗き込んで困惑の表情になった。
「何がどうなって……」
「どーも荒北さん、お久しぶりです。運び屋健在で何よりです。それじゃ、東堂さん気分悪いみたいなんで、お引き取りください」
最後まで言わせずに割り込んだ真波を、荒北が睨めつける。
「テメェ、真波。東堂に何しやがった!」
「それはこっちの台詞なんですけどねえ!」
たちまち勃発した争いに思わず呻くと、ぴたりと二人が口を噤んだ。
「……真波」
「はぁい」
意に添わない命令を下されると察したのだろう、渋々と応じた真波が屈み込んでくる。
「この時間に悪いが、今日、他に泊まれるか?」
「アキラのとこなら、いつでも勝手に入れますけど」
「……行く前に連絡はしろよ?」
「連絡してもしなくても行ったら怒るんだし、どうせ結局泊めるんだから、別に言わなくてもいいと思うんですけど」
「今、この場で伺いを立てろ!」
叱りつけると、電源を切りっぱなしだった携帯を立ち上げ直して、何やら送ったメッセージにすぐ返信があったようだった。
「何だって?」
「キモッ、だそうです」
「……断られてるんじゃないのか、それは?」
「だから聞くだけ無駄だって言ったのに。本当に事情があってダメなら、ちゃんと理由も言うんで、これはOKのキモッです」
「……そうか」
後輩の交友関係は今ひとつ理解し難いが、当人達なりに仲良くしているようなので、口は出さないことにする。
「でも、オレ、残ってた方がいいと思うんですけど?」
じろりと荒北を睨んだ真波に、それまで黙って様子を窺っていた荒北も怒気を膨れ上がらせる。
「そこで修羅場らない」
「でも……」
「荒北とは、オレが、これから、修羅場るから、お前は引っ込んでろ」
きっぱりと言い渡すと、荒北が絶句した横で真波が考え込む。
「……やっぱりオレ、いた方がよくないですか?」
「ダメだ」
「じゃあ、隣の部屋待機とか」
「ダメだ」
「玄関の外」
「お前はオレの保護者か」
勘違いするな、と睨む。
「お前の飼い主は、オレだ」
「…………何でオレ、この八年の間に、この人食っておかなかったんだろ?」
深々と嘆息した真波に、必要なかったからだろうと応じる。
「お前、別にそういう意味のオレが欲しいわけじゃないだろう」
「……まあ、そうですけど」
真波は東堂に執着はしているが、恋着しているわけではない。
そう指摘すると、自覚はあるのか、渋々と認めた後輩の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
「お前の欲しいオレは、ちゃんと残しておいてやる」
告げると、嘆息と共に強く抱きすくめられた。
「……まあ、荒北さんのこと忘れてる東堂さん、落ち着いてたけど、やっぱ何か違ったかなぁ……。こっちの方がいいのかなー、でも荒北さん、ヘタレでムカつくんだよなー」
「オレは、さっきからその不思議ちゃんにケンカ売られてんのかなァ?」
いい加減、我慢がきれかけた荒北を制しつつ、真波の肩を押す。
「頼むから、今は外してくれ」
「…………終わったら、オレ、こいつぶん殴っていいですか?」
ついに最後の敬意も消えた真波に、どうしたものかと悩みつつ、もう一度肩を押すと何故か後輩は逆に距離を詰めた。
わざわざ口端にキスを仕掛けてから身を離したのは、完全に荒北に対する嫌がらせだろう。これ以上ごねると東堂が怒るのは分かっていたようで、壁から下ろしたロードバイクを担いで渋々と出ていく。
ぱたり、と玄関のドアが閉まると同時に、剣呑な空気を醸しながらその後を付いていった荒北が鍵とチェーンをかけて真波を閉め出した。
「あの不思議ちゃん、いきなり黒田通して連絡してきたと思ったら、東堂はまたオレのこと忘れたから二度と近づくなとか、訳分かンねーこと抜かしやがって、何の茶番……!」
戻って来るなり沸騰しかけた荒北が、東堂の顔を見て唐突にトーンダウンした。
「東堂、平気か?」
どれだけ顔色が悪いのか、気遣う声音に苦笑して手招く。
寄ってきて屈み込んだ荒北に、ぐらぐらと揺れる頭を押さえながら起き上がり、そのまま拳で殴りつけた。
あいにく、ろくに力の入らなかったへろへろの拳では大してダメージは与えられなかったようだが、驚かせることはできたようだ。
「とうど……!?」
「じゃあ、二人きりになれたことだし、思う存分修羅場ろうか?」
訳が分からないらしい荒北が目を白黒させるのに、にっこりと微笑んで告げる。
「全部、思い出した。どうしてお前のことを忘れたのかも、全部」
「っ!」
「まあ、かいつまんで言うと、オレはお前のことが恋愛感情で好きだった。それで……」
「ハァッ!?」
前提をあっさりと済ませようとしたのに、まず一言目から素っ頓狂な声が上がる。
「何……それ、いつから……ッ!?」
「自覚したのは高校三年の頃かな。その前からたぶん好きだったと思うが」
「ンなの知ら……」
「オレも、お前の気持ちをさっぱり知らなかったが?」
きっぱり言い切ると、ぐっと詰まる。
「お互い、馬鹿みたいにすれ違ってたらしいな」
深々と嘆息して、唖然とする荒北を、先日の告白からの自分の混乱を思い知れと睨む。
「ちなみにオレは、お前にずっと嫌われてると思ってた。だから、絶対適わない恋なんだと諦めていた」
「何で、そんな……」
「そうだな、お前はオレを見ると舌打ちして、顔を背けて、他の部員の誰よりも距離を取った。オレに触っていることに気が付くと、すぐ手を引っ込めた」
「……たぶん、それ、意識しまくってたんじゃねーか……?」
荒北が当時から東堂に恋愛感情を抱いていたのなら、そうだったのだろう。
照れ屋で意地っ張りの捻くれた男だと分かってはいたが、好意など微塵も感じられなかったのだ。ただ、自分にだけ距離を取り、冷たいことだけが明らかで、それが辛かった。
性別も大きな障害だったが、それ以前に徹底的に嫌われているのだと信じ込んでいた。
「で、無理だから諦めようと無駄に足掻いたりしてるうちに卒業して、段々忘れられるのかと思ったんだが。何だかんだと会っては、好きだと実感してはのたうち回って。それで、二十歳の誕生日の時だな」
覚えているか、と問うと、曖昧な顔でうなずかれた。
「新開と、三人で飲んだやつだろ?」
「その後、酔い潰れたオレを、ラブホテルに連れ込んだな?」
「あれは!」
あえて人聞きの悪い物言いをした東堂に、荒北が渋い顔をする。
「休ませただけで、何もしてねェよ」
そこだ。
今、ここまで事態が捻れた齟齬はそこにある。
「オレはその時、酔っての過ちでいいから、頼むから一晩だけでも抱いてくれとせがんだんだが?」
「……は?」
唖然とした顔に、嘘はなかった。
「お前、あの晩のこと、酔ってて忘れただろ?」
「ハァ!? ンなまさか……アレ、夢だろ!?」
そう来たか、と嘆息する。
「風呂場で倒れてるんじゃないかと、心配したお前が入ってきて、例のごとく嫌そうに顔を背けた。いつもなら笑って我慢したんだが、酔ってて感情が抑制できなくてキレて絡んで泣いて。泣かれて焦ったお前が何をとち狂ったか、キスなんかしてくるもんだから、酔ってるな、と思った。それで、そのまま既成事実作ろうとでも思ったんだったかな、抱いてくれとせがんだはずだ」
触ってくれと泣いて懇願した記憶は思い出したばかりで、若気の至りで済ますには生々しい。言葉に感情を乗せれば、ひどい醜態を晒しそうだったので、あえて無感動に坦々と告げる。
「翌朝起きたら、お前はオレに、忘れろと言った。一晩の過ちをなかったことにしろと言う意味だろうとは思ったが、気持ちそのものが否定された気がした。じゃあ、忘れようと思って、どうやったら恋愛感情なんてものを忘れられるのかと考えて、自棄酒飲んで、酔って散々真波に絡んで迷惑かけて、とうとう怒られた。中途半端に忘れようとするからだ、全部忘れてしまえと。それで、忘れた」
「な……んだよ、それ?」
「簡単に言うと、お前が忘れろと言った。オレは忘れたいと思った。酔って前後不覚になった状態で、更に真波が忘れてしまえととどめを刺した。オレは自分の記憶を改竄してお前の存在ごと恋愛感情を忘却して、それからずっと穏やかに暮らしてきた。そんなところかな?」
「オレはお前に忘れろなんて、言ってねェよ!」
同性、しかも嫌いな相手に酔った弾みで手を出してしまって、後悔して忘れろと言われたのだとばかり思っていたのだが。
実は当時、両思いだったという冗談のような事実が明らかになった今、そこが解せない。
「あの時お前、酔ってた間のことほとんど忘れて、断片的に覚えてた部分を夢だと思いこんだだろ?」
ここしばらく、酒を通した付き合いを重ねて知った彼の酔った際の特性を指摘すると、頭を抱えて低く唸る。
「好きな奴が酔い潰れてラブホ連れ込みなんてベタなシチュエーションで、そいつがオレに嫌われてるって泣いて、嫌ってないなら抱いてくれとかボロボロ泣いて、やめないで、もっととか泣きながら縋ってくるとか、性欲暴走した超痛い夢見たと思うに決まってんだろが!」
案外しっかりと覚えていた荒北に、淡泊に済ませようとした過去を事細かに思い起こさせられて、頭が沸騰する。
荒北にとっても衝撃の事実だったようで、頭を抱えて呻きながら項垂れる。何とも言い難い空気が流れた後、のろのろと荒北が顔を上げた。
「……オレ、忘れろって、言ったか?」
「言った、のは確かだ」
その一言があって、全て拒絶されたのだと思い込んだ。
ただ、荒北が夜のことを全て自分の脳内の妄想だと思い込んでいたのだとしたら、それを東堂に忘れろなどと言うはずがない。
「……あの時、起きたら、お前めちゃくちゃへこんでて」
自分の醜態と痴態と、途中から記憶がないことに、のたうちまわりたいほど苦悩していたわけだが。
「酔って潰れて起きたら男とラブホでごろ寝って状況に落ち込んでんなら、まあいいからンなもん忘れちまえ、みたいなことは、言ったかも……?」
「…………は?」
八年前、自分を徹底的に打ちのめした言葉の正体に唖然とする。
文脈は、確かに通じる。
荒北はあの時、東堂はずっと酔い潰れて寝ていたと説明した。夜の出来事をなかったことされたと衝撃を受けたが、荒北はそれを自分だけが見た夢だと思っていた。
酒の失敗に落ち込む高校時代のチームメイトに、ごく当たり前に忘れてしまえと声をかけた。それだけのことだ。
「……泣きたい」
「オレもだよ……」
突き合わせてみれば、馬鹿みたいな誤解だったことを今更ながら知って、三十に近い男二人揃って涙目になっているなど、馬鹿らしすぎて泣いていいのか笑っていいのかも分からない。
「……何だよそれ」
互いにまともに向き合わずに、勝手に思い込んだ結果がこれか、と思えば全ての気力が根こそぎ奪われて、ぐらりと身を傾がせると、差し出された腕の中に収まった。
「とりあえず、お前、めちゃくちゃ顔色悪いから寝てろ」
その温かい腕を拒む気力はなかったし、拒む理由もなかったので、そのまま体重を預けて相手の心音を聞く。背を撫でられれば、それまでかたかたと小刻みに震えていた身の緊張が解ける。
「なあ、東堂」
「うん……」
「お前、オレのこと好きだったのか?」
「そう、言っただろ」
今更そこを確認するのか、と目だけを上げると、ひどく困った、情けなさそうな顔があった。
「……今は?」
「…………」
好きだと自覚したのは高校時代。散々迷っている間に卒業してしまって、距離が離れた。毎日顔を合わせることがなくなれば冷めるのではないかと考えていたのに、たまに会う度に、消息を聞く度に心臓が言うことを聞かずに、仕方なく、諦めた。
この厄介極まりない恋情を、諦めるのを諦めた。
そして二十歳になった翌日に、勘違いの失恋をして、失ったはずなのに身にまとわりつく恋情にあがいて、もがいて、全部忘れた。
八年間、思い人の存在ごと恋情を忘却して、忘れたまま再会した相手に覚えたのは、出会った当初のような反発と不快感。封じていた記憶がどう作用したのか、ひどい悪酔いのような状態になって倒れこんだ。
もう関わるまいと思った端から遭遇して、嫌いではないのだと気が付いた。
高校三年間の積み重ねを、たった数週間で再度体感したようなものだと、今更気づく。
「好きだったよ」
深々と嘆息しながら応じると、過去形に荒北が目に見えてしょんぼりとして、思わず手で顔を覆う。
どうしてこんなに分かりやすいものに気づかなかったのか、十年前の自分の胸倉を掴みあげたい。どれだけ互いに盲目だったのか、頭が痛い。
「全部忘れたいくらい好きだった。結局忘れきれないくらい好きだった。どうしたって、お前のことが気になって気になって、忘れられやしないんだ」
苦々しく告げる声音に、ますます落ち込んだ相手に鈍い、と嘆息する。
今なら手に取るように分かる。これは、昔の自分と同じだ。好かれている自信など欠片もなくて、否定的な部分ばかり受け止めて、悪い方にばかり考える。
「だから、今も昔もずっと好きだって言ってんだよ、馬鹿野郎」
胸倉を掴んで唸るように告げると、呆けた顔に、どうしてこんなものに惚れたのかとしみじみと嘆息する。
何で分からないんだ、とぼやけば、分かるか、と呻かれた。
「今も昔も、お前がオレのことを好きな要素がどこにあったよ……?」
「同じことを、この前お前に告白された時に思った」
「最初の印象最悪すぎて、ずっと嫌われてンだと思ってたし」
「オレもそう思ってた」
「大体、お前いつも巻チャン巻チャンって……!」
「お前、それ『福ちゃん』に置き換えてみろ」
淡々と言い返すと、荒北が言葉に詰まった。
しばらくの空白の後、がっくりと項垂れた荒北が東堂の肩に懐いた。
「……この八年間、何だったんだよ?」
「それは今、オレも思ってた」
短い髪をかき混ぜてやりながら同意する。呻きとも唸りともつかない声を喉の奥で慣らしながら、東堂の手を掴んで止めた荒北が顔を上げる。
「…………好きだ」
情けない顔で告げられて、東堂はくしゃりと笑った。
「オレは、さっき言った」
