ロストエイト - 6/10

06
 頭が痛い、気分が悪い。
 煌々と照った見知らぬ天井と照明を見上げ、東堂は一つ身動いで、襲ってきた頭痛と吐き気に低く呻いた。
「気が付いたァ?」
 顔を覗き込んできた男の顔をぼんやり見上げ、その名を呟く。
「あらきた……?」
 高校時代のチームメイトが何故そこにいるのかを考えていると、少し困ったような顔をして気分は、と問われる。
「…………きぶん」
 ふわふわと意識が妙に遠いが、身動こうとすると頭痛と吐き気が付随する。なのに、気持ちは浮ついていて、意味もなく楽しいが思考は渦巻いてまとまらない。
 これは気分がいいのだろうか、悪いのだろうか。
 答えに悩んでいると、駄目だこりゃ、と嘆息した荒北が東堂の頭の下に腕を差し入れてきた。
「起きて、水飲めるか?」
「みず……」
 言われて、ひどく喉が渇いていることに気が付いた。
「のむ」
 何故かぐにゃぐにゃと力の入らない身を、荒北の支えを借りてどうにか起こし、差し出されたペットボトルの水を口に含む。冷たい水で、少し頭がはっきりとして、改めて周囲を見回す。
「……ホテル?」
 広いベッドと壁に作りつけられたテレビだけが目立つ部屋だ。扉が二つ、一つは外に出るためのもので、もう一つはバスルームにつながっているのだろう。
 モダンな調度と色彩でまとめられた、それなりに洒落た部屋だが。
「…………ラブホ?」
「他に安いとこなかったンだよ! ビジネス利用もOKってあったし、受付でも何も言われなかったからいーだろ!」
 いかにもという部屋ではないのだが、やはりどこか普通のホテルとは異なる雰囲気に、ぽつりと呟くと荒北が声を荒げた。その声が頭に響いて顔をしかめると、焦ったように顔を覗き込まれた。
「気分は?」
 再度問われて、首を傾げると頭の中身が液状化でもしているのか、ぐにゃりと上半身ごと傾いて荒北に支えられる。
「悪かった、調子乗って飲ませすぎた」
「…………さけ」
 呟いて、ようやく思い出した。
 今日は、まだ今日なのかあやしいところだが、八月八日は東堂の二十歳の誕生日だ。
 先月、一足先に二十歳になった新開が、荒北と一晩中互いを飲み潰したと自慢してきたので、自分も、とねだったのだ。早生まれの福富が仲間外れかと少し拗ねたのを、三月には盛大にやろうと宥めすかして、三人で店に繰り出して飲み放題メニューで飲み始めた、までは記憶にある。
「……オレ、酔い潰れた?」
「悪ィ、やりすぎた」
 泥酔して歩くこともままならなくなった東堂を、ひとまずホテルで休ませることにしたらしい。
「隼人は?」
「飲んでる最中、お前らがふざけて抱きついたりしてる写真を送りつけられた新開のカノジョが超ご立腹で、お前が男だって言っても関係あるかってキレてるから、ホテル代半額置いて慌てて帰った」
「…………破局したらオレのせいなのか、それは?」
「調子に乗った新開が悪ィ」
 非常に苛立った荒北の様子に、どんな写真が撮られて送られたのか、聞かずにおこうと思う。曖昧模糊としているが、荒北がトイレに立った間に悪乗りをして、戻ってきた荒北に怒鳴られて新開から引きはがされた記憶が微かに残っている。
 成人したのは今日だが、そこまで厳密に法を守ってきたわけではないので、大学などで多少は経験を積んできたのだが、ここまで羽目を外して飲んだのは初めてだ。
「…………子供の頃、酔って醜態をさらす大人を見て、ああはなるまいと誓ったのにな……」
「大分いつも通りになってきたなァ。顔色も少しマシになったか」
 ほっとした顔で髪をかき混ぜてきた荒北の手が温かくて、擦りよるように体温に懐く。少し冷房の効きすぎた部屋は寒かった。
「……服」
 寒いはずで、上半身に何も着ていない。
 どこかに脱ぎ捨てたのだろうか、と探すがTシャツはどこにも見あたらない。
「あー、汚れたから、脱がして洗って干してる」
「……吐いたのか?」
 肯定され、地の底まで落ち込んでベッドに倒れ伏す。
「悪い、本当に俺達が悪かった」
 急性アルコール中毒一歩手前まで追い込んだことに、少し酔いが醒めてきて気が付いたのだろう。いつものようにバツの悪さを隠すのに声を荒げたりせず、ただひたすらに謝ってくる姿が珍しくて、つい笑うと、酔っぱらいと小突かれた。
 その手の熱にじゃれるように懐くと、寒がっていることに気づいたらしい。逆らわずに両手を提供されたので、遠慮せずその腕の中に収まった。
「おい、東堂ォ」
 困った声に笑って、背に手を回して暖をとる。
「オレは新開じゃねェぞ」
「あらきた」
 ちゃんと分かっていると示すために名を呼ぶと、ち、と舌打ちの音が聞こえた。
 寒いならベッドに入れ、とベッドカバーを引きはがしてその下に放り込もうとする気配を察して、その動きを邪魔するようにしがみつく。
「何なんだよ、テメェは」
 舌打ちと共に響いた声音に、本気の険がこもって、東堂はびくりと手を引きかけた。
「あ……、や、怒って、ねェけど」
 怖がらせたと思ったか、少しうろたえた様子の荒北が珍しい。
 酔っぱらい相手にどう対処していいのか分からないのか、いつもなら遠慮なく怒鳴りつけて引きはがす間合いなのに、抱きつくままにさせて、困惑した顔をしている。
 なだめるつもりなのか、背を撫でる手がくすぐったい。
「あらきた」
 もっと触れ、と抱きつくと、強く背を抱き込まれて一瞬息が詰まる。
 呼吸が止まって、心臓が跳ね上がる。ペダルも回していないのに倍速になった心拍に、この密着度では気づかれる、と身動ぐと、するりと腕を外されて身を遠ざけられた。
「……悪ィ」
 謝ってばかりの荒北と距離が開いて、冷房の人工的な冷気に心も冷えた。
「おい?」
 ベッドからふらふらと立ち上がった東堂を怪訝そうに見る荒北に、シャワー、と平坦な声で告げる。
「なんか、ベタベタする」
 酔い潰れている間に酒でも被ったのか、髪から顔にかけてシロップのようなべたつきがあった。
「大丈夫か?」
 ふらつく足下を心配されるが、心配するなと手を振り解けば引き下がる。これで酔っているのが、福富や新開だったならまた対応も違うのだろうが。
 酒のせいだろう、自制が効かず涙腺が緩む気配に、慌てて顔を逸らしてバスルームに向かう。
 逃げ込むようにドアの中に入って、妙に広い空間にアルコールに半分麻痺した頭でも違和感を覚えた。
「……ラブホ」
 ベッドのある部屋は一般的なシティホテルのようだったが、バスルームの広さにやはり目的がはっきりと違うのだと認識する。
 これはやはり、浴槽の中や洗い場での行為も想定しているのだろう、と妙に冷静になりながら服を脱いで、おぼつかない平衡感覚でジーンズに足を引っかけた。傾いだ背がバスルームの扉にぶつかって、派手な音を立てる。
「おい、東堂ォ!?」
 焦った声が扉の向こうから聞こえて、慌てて大丈夫だと叫び返す。
「ちょっとコケた」
「ビビらせんな」
 ち、と舌打ちが扉越しに突き刺さって、またじわりと視界が滲んだ。
 酔って転べば、心配はしてくれる。酔い潰れて前後不覚になったら、休めるところまで運んで、横についていてくれて面倒を見てくれる。
 その程度には、優しくしてもらえる立場にいる。それでも。
「やっぱ、オレ、嫌われてんなあ……」
 基本的に荒北は面倒見のいい男だ。一度仲間としてカウントすれば、口では文句を言いながらも、せっせと世話を焼く。
 東堂は仲間として認識されるのも一番遅かったし、それ以降も同学年の中では一番距離がある。入部した当初、荒れていた彼は誰からも距離を取っていたが、落ち着いてくると実はパーソナルスペースは狭かった。誰とでもじゃれてふざけるくせに、ふと相手が東堂だと気づくと、さりげなく離れられるのに気づいたのは、いつからだっただろう。
 それが気のせいではないと確信した頃には、自分にだけ舌打ちの回数が多いことにも気づいて、その度に音が心に刺さった。東堂と目が合った瞬間にしかめられる顔に傷ついた。
 いちいち傷つく理由が分からず、反発して苛立っていた時期もあったが、好きだからだと気づいてしまった。
 他の誰に対するものとも違う感情が恋愛感情だと理解して、だから嫌われているのだと理解した。
 東堂が向ける感情を正しく把握しているかまでは分からないが、勘のいい男だ。本能的に東堂を遠ざけようとしているのだろう。
 アルコールで感情の起伏が激しくなっているのだろうか。視界を歪める塩辛い水を拳で拭って、ふらつく足でシャワーに向かう。
 コックを捻ると降り注いだ湯を含んで髪が重くなった。その重量に引きずられるようにずるずるとシャワーの下に膝をつく。頭の上から注ぐ湯に不快なべたつきが流れていくついでに、このこびりついてはなれない気持ちも紛れて流れてしまえばいいのにと濡れるにつれ、重さの増す頭を垂れる。
「おい、東堂!」
 どれくらいの時間、ただ湯を浴びていたのか突然肩を掴まれ、はたと我に返る。
「大丈夫か、気分悪ィのか?」
 泥酔したままシャワーを浴びに行って、戻らない東堂を心配したのだろう。
 こういうところが無駄に優しいのだ、とぼんやりとその顔を見上げていると、荒北が舌打ちしてシャワーを止めた。
「立てっか?」
 顔を背けながら、東堂の濡れた腕を掴んで引き起こそうとした手を振り払う。
「大丈夫だ、放っておけ」
「そういうワケにいくかよ」
「嫌々面倒を見なくてもいい」
 再度伸ばされた手を払いのけると、荒北の顔に険が増した。
「どーいう意味だ、ソレ?」
「お前、オレのこと見るのも嫌なくらい嫌いなら、最初から構うな」
「っの酔っ払い……!」
 何を言っているのだ、と苛立った顔で引き起こされて頭を振ると、水滴が散った。
「いーから、風呂出て寝ろ!」
「嫌なくせに触るな」
「別に、嫌なわけじゃねェよ」
 嘘吐き、と思った瞬間、堪えきれずに涙が零れる。髪から伝う水滴に紛れてくれないかと願ったが、ぎょっとした荒北の顔を見る限り、ごまかされてはくれなかったらしい。
「東堂」
 筋張った手が濡れた頬を拭って、顔を上げるとごく至近距離に相手の顔があった。
 唇に触れた感触に、呆然とすぐに遠ざかった荒北の顔を見上げる。
「嫌いじゃ、ねェよ」
「……今」
「だから、嫌いじゃねェよ。じゃなきゃ、こんなことできっか」
 そっぽを向いて毒づくように告げた荒北の濡れた白いシャツを掴んで引く。
「……何で、キス?」
「だから、嫌いじゃねェって……」
「もっと」
「ア?」
「もっと、触れ」
 身を引きかけた荒北の首に腕を絡めて、引き留める。
「おい、東堂。お前酔いすぎ……」
「嫌いじゃないなら、抱け」
 そう縋った時に、どんな無様な顔をしていたのだろう。見下ろす荒北の顔が大きく歪んで、強く抱きすくめられた。痛いくらいに抱きしめられれば、ほっとした。
「……酔ってんだろ、お前?」
「うん」
「どーなっても、知らねえかンな……!」
 歯ぎしりと共に、背に回された腕に更に力がこもった。

 頭が痛い、気分が悪い。
 その二つしか考えられない状態で見知らぬ天井を見上げ、ゆっくりと頭を巡らせると、すぐ横で眠っていた荒北の姿が目に入った。白い綿シャツを羽織って横向きに眠る姿をしばらく見守って、慎重に手を伸ばす。
 まだ少し湿ったシャツの感触に、昨晩、その袖に縋った記憶がフラッシュバックして、ぶわりと全身に熱が灯った。
「あ……」
 泥酔して泣いて困らせて、なだめようとする荒北も酔っているのをいいことに、触れと無茶を言った。濡れて重くなった髪を指で梳きながら繰り返し落とされるキスに夢中になって、もっととねだった。
 涙腺が完全に壊れていて涙が止まらず、何度もやめるかと問う荒北に、やめないでと懇願して続きを求めて、肌に触れる手に更に泣けた。
 その後の記憶がない。
「え……?」
 がばり、と身を起こすと、ぐにゃりと視界が揺れた。依然として頭の中身が液状化したような感覚で、どろりと揺らいだが、それ以外の違和感はない。
 最後までしたのだろうかと、まだ残った酒の影響でぐずぐずの脳味噌を振り絞るが、全く思い出せない。続きを、とねだったのは確かだ。自分は男同士の性行為の最後までを想定してねだっていた。
 肝心な部分の記憶がないことに煩悶していると、横の鬱陶しい気配に目が覚めたらしい荒北が、東堂の姿を見て跳ね起きた。
「東堂、何で……ッ」
 ホテルの部屋を見回して、余計に焦った顔をした荒北が、ようやく昨夜のことを思い出したのか、両手に顔を埋めて嘆息した。
「あー、この部屋だから……ンな夢……」
 夢見でも悪かったのか、疲弊しきった顔で嘆息した荒北が、のろのろと顔を上げた。
「昨日、飲み過ぎて潰れたの、覚えてるゥ?」
 こくり、とうなずくと、また嘆息される。
「お前、酔い潰れて全然起きなくて、しょーがねーから一番安いホテル探して運んだの。ここまでは新開と運んで、新開はカノジョに呼び出されて帰った」
「…………え?」
 戸惑った東堂に、苦笑った荒北が手を伸ばしてきて、くしゃりと癖の付いた髪をかきまぜる。
 この手に触れられたくて、昨晩泣いて縋った。
 泣くな、と頬を拭った手に挟み込まれて、何度も塩辛いキスをした。
「東堂、聞いてるゥ?」
「え?」
 昨晩のフラッシュバックに気を取られている間に、何か言われていたらしい。聞き返すと、また舌打ちが刺さった。
「だからァ、忘れちまえって」
 一瞬、目の前が真っ暗になった。

「東堂さーん」
 間延びした呼びかけは後輩の常だが、今回は珍しく困惑が滲んでいた。
 小田原の居酒屋に呼び出した真波の背中には、来て早々に東堂が書いて貼り付けた、「飲酒厳禁! ※インターハイで好成績を収めた将来有望な選手です。大学推薦もあるため、決して飲ませないでください。」と記された紙ナプキンがひらひらと揺れている。
 先日、高校最後のインターハイを終えたばかりの真波は、これから進学を控えている。この後輩が部の引退を機に受験勉強に本腰を入れるとは到底思えないので、推薦入学を踏まえて不祥事を起こさせるわけにはいかないという親心だと言うのに、その張り紙を見た酔客達に通りすがりに何度も絡まれた後輩は不満そうである。
「何で自分はグダグダになってるくせに、人のことには頭が回るんですか。っていうか、そこで気を回すなら、最初から飲み屋に呼ばないでくださいよ」
「オレのどこがグダグダだ!」
「全部です」
 生意気を言うようになった後輩の頬を摘まんで引っ張ると、やめてくださいと手を振り払われる。
 ぱしり、と叩かれた手を見下ろして、後輩にも拒絶されたと考えた瞬間、涙腺が決壊した。
「東堂さん、泣き上戸!?」
 初めて目にした先輩の泣き顔にぎょっとしたらしい真波が、珍しくおたおたと狼狽える様がおかしくて笑うと、酔っ払い、と呻かれる。
 隣のテーブルから勝手に未使用のおしぼりを拝借して、雑に東堂の顔を拭った真波が深々と嘆息する。
「それで、荒北さんがどうかしたんですか?」
「オレは荒北のことなんか言ってない」
「東堂さんがこんなグダグダでグチャグチャになるのは、あの人の時だけです」
 一年間しか一緒に過ごしていない、人間関係全般に興味の薄い後輩にまで把握されていたことに愕然とする。
「巻島さんにもガタガタだけど、あれは登りのことだからいいんです。荒北さんの場合、全部グチャグチャになるから面倒なんですよ」
 うつむくと、これまでに飲んだ水分がほたほたと目から零れた。
「あーもう、何なんですか。二十歳になったんでしょ、お酒飲めるんでしょ、大人じゃないんですか、何で子供みたいになってるんですか」
「お前、ちょっと黒田に似てきたか?」
 畳み掛けるような物言いを指摘すると、ひどく衝撃を受けた顔をした。
 その隙に、それまで手を伸ばすのを阻害されていたグラスを掴んで一気に煽る。
「あっ、もう飲むなって言ってるのに!」
 あの問題児が常識的なことを言うようになったものだと、しみじみしながら新しくグラスを頼むと、勝手にキャンセルして水を注文された。
「……飲み足りない」
「飲み過ぎです!」
「足りない」
「駄目です」
「……真波がオレに優しくない」
 後輩の指摘通り、水分を摂り過ぎなのだろう。少し顔を傾けただけで涙が溢れ出てくる。
「あー、もう……! これ飲んで!」
 それ以外は飲むな、と後輩に与えていたウーロン茶のグラスを唇に押し付けられ、強引に口の中に注ぎこまれる。飲みきれずに零れた茶と、泣き濡れた顔をまとめて雑に拭われて、冷たい手が東堂の手首を掴んだ。
「出ますよ!」
 勝手に財布を引っ張り出して勘定を済ませた後輩に、有無を言わさず店外に連れ出される。
「あったかい……」
「あの店、冷房効き過ぎでしたし」
 冷風の直撃を浴びていたらしい真波が、鳥肌の立った腕をさする。気づかないうちに東堂も冷え切っていたらしく、八月半ばの生温い夜風が有難い。
 待っているように、と子供に言い聞かすように東堂に告げて、成長したものだと感慨深く思っている間に、コンビニに入ってすぐに出てきた真波はペットボトルを手にしていた。
「……凍ってる」
「少し落ち着いた頃には飲み頃でしょ。歩きますよ」
 冷えた指に手首を掴まれて、ふらふらと夏の夜道を歩き出す。
「で、何があったんですか?」
「……真波、大人になったなあ」
「そうですね、二十歳になってそれなら、オレも相当大人ですよね」
 あの浮世離れしていた真波が皮肉まで言うようになった、と通りすがりの電柱に愚痴るとこの酔っ払い、と引っ張られる。
「お前、先輩に対する敬意が足りなくないか?」
「さっき底を尽きました」
「でも好意はあるだろう?」
「そっちも、そろそろ残量がないです」
 可愛くないことを言うが、背中に貼った紙ナプキンの存在をすっかり忘れているようで、ぴらぴらと夜風に揺れるそれを眺めながら、二年前より大きくなった背中についていく。
「それ、好意がゼロになったら、気持ちを終われるものか?」
「……そーいうわけにも、いかないんでしょうねえ」
「やめられるくらいなら、とっくに好きなんかやめてる」
「でしょーね」
 分かっているのかいないのか、そもそも支離滅裂な酔っ払いの言葉に適当に相槌を打っているだけなのか、間延びした声で応じながら真波は暗い方へと歩いていく。
「どこに行くんだ?」
「海かなあ。街中に置いておくと、誰にでも絡みそうだし」
「人気のないところに連れて行って、オレに何をする気だ?」
「何もしません。あと、この時期の海なんて、夜でも誰かいます」
 飲んでさえいなければ、自転車に乗せて山に向かえば済むのに、と坂馬鹿が嘆息する。
 後輩にまで呆れられてばかりだ、と思えば、またじわりと涙が滲んだ。
 海に抜けるため、バイパスの下を潜る通路は、夏にはしゃいだ誰かが照明を全て壊しでもしたのか真っ暗で、ライト代わりに後輩が携帯を開いて掲げていたが、その光も頼りない。
「また泣いてるし!」
 暗くてよかった、と思った端から、こういうときばかり勘の鋭い後輩が目敏く気付いて振り返る。
「だから、何があったんですか?」
 ふっと携帯画面のバックライトが暗くなって、周囲を暗闇が包んだ。
 少し先の出口がぼんやりと明るく、そちらから吹いてくる生温い潮風は後輩の身体で遮られた。
「荒北さんに何言われたんですか?」
「……忘れろと」
 珍しく真波の口から舌打ちの音が響いて、思わずびくりと身を揺らすと、その気配にも気付いたらしい。
「東堂さんに怒ってんじゃないです。で、言われたから素直にお酒飲んで忘れようとしてたんですか?」
「……あと、どのくらい飲んだら忘れられると思……?」
 黙れ、とばかりに口に押しつけられた手は凍ったペットボトルを握っていたためにひどく冷たかった。
 かろうじて後輩の輪郭だけが見えていたが、それも涙で歪んだ。
「オレの神様をこんなにメチャクチャにしやがって……」
 目の前の後輩の怒気が膨れ上がるのだけが分かって、なだめるように毎日の練習で日に灼けて少し傷んだ髪に手を伸ばす。あれだけ髪をきちんと手入れしろと言っているのに、何一つ聞いていないらしい奔放に跳ねた髪を撫でてやると、少し怒気が小さくなる。
 動物のようなところのある後輩が、毛繕いのお返しとばかりにもう片方の手も伸ばして東堂の濡れた頬を拭い、その手で片耳を塞がれた。
「じゃあ、お望み通り、忘れてやればいいじゃないですか」
 塞がれていない方の耳に注がれた言葉にを瞬かせると、その拍子に涙が散った。
 真波がもう一度、東堂の耳元で口を開く。
「忘れちゃえば、いいじゃないですか」