ロストエイト - 5/10

05
 さて、と手にした携帯電話を見下ろして一つ嘆息する。
 先日、元チームメイトから衝撃の告白を受けて、何とも言いようのない空気になった後、ごく穏やかに帰れと告げられた。混乱した頭で、言われるままふらふらと帰宅したが、日が経っても珍しく気持ちが全く整理できず、これはもう、自分一人では解決できない、という結論に達した。
 荒北靖友という人物について相談できる相手、と考えて最初に浮かんだのは新開だったが、本気と冗談の区別がつきにくいので除外する。あまり心に余裕がないので、下手にからかわれると友情にひびが入りかねない。
「やはり、福富か」
 荒北が一番懐いている人物で、公正な男だ。少し頭が固くて朴念仁なところがあったが、高校を卒業して十年、大人になって変わっただろうか。
 あまり変わっていないような気もしながら、荒北について話したいことがある、とメールを送ると、すぐに電話が直接かかってきた。
『どうかしたのか?』
 挨拶もなしに単刀直入に問われて面食らうが、焦った声音に心配されたのだと気が付いた。
 元主将は元部員の二人のここしばらくの関係に、非常に気を揉んでいたものらしい。
「いや……特に問題は……」
 あるから相談しようとしたのだと思い出し、一瞬悩んでから言わなければしょうがない、と腹を据える。
「問題というほどではないが、一つ変なことを聞いてもいいか?」
『ああ』
「荒北って、オレのこと好きだったのか?」
 ずばり、と問うと電話の向こうが沈黙した。
 ものの数秒で後悔して、今の発言の中の「好き」を友情的な好意に置き換えて話を続けられるか思案していると、福富が小さく息を吐き出すのが聞こえた。
『ああ』
 高校時代から変わらない低音の声が短く応じたが、それがただの相槌なのか、肯定を意味するのか判断がつかない。鉄面皮で知られた彼だったが、面と向かっている時はその少し足りない言葉の意味を補足できていた。
 電話で話そうとしたのは間違いだっただろうか、と思ったところで、福富が足りなかった言葉を補足した。
『恋愛的な意味合いということで、いいんだろう? 特別な意味で、荒北はお前のことが好きだったはずだ』
 想像以上に直球に告げられ、思わず携帯を取り落としかける。
「……すまん、ちょっと、驚いた」
『いや……、オレもその、これ、オレが言ってはいけなかった気がしてきた』
 坦々とした声音で分からなかったが、福富も動揺して口走ったものらしい。
 少なくとも、福富は荒北が東堂に対して抱いていた感情について把握していたのは確認がとれた。
「ええと、荒北が相談したのか?」
 恋愛相談をする福富と荒北というのも非常にシュールな気がするのだが、朴念仁で定評のあった福富が、恋愛感情などという曖昧なものを、こう断言するということは確証あってのことだろう。
『いや、たぶん荒北本人は覚えていないと思う。オレ達が大学を卒業する間際に、仲間内で集まってレースに参加して、その夜に飲んだんだ。その時、黒田が飲みすぎて荒北に絡んだ』
「ああ、黒田は荒北のこと大好きだったな」
 入部して早々に鼻っ柱を折られた黒田が、よく荒北につっかかっていたのを思い出す。当人はいつか実力でへこませてやるのだと息巻いていたが、端から見れば彼が荒北に憧れと反発を綯い交ぜにして空回っているのは明白だった。上級生は皆からかい半分で見守っていたし、荒北自身も彼なりに後輩を可愛がっていた。
 確か、黒田は荒北を追う形で進学先を決めており、そこまで熱烈だったかと新開と笑いあった覚えがある。また引退間際になって、酒で少々箍が外れたのだろう。
『当時、荒北は古賀のアシストもやってたから、結局誰が一番なんだ、と黒田が絡んで。それに新開と金城が悪ノリして、誰が一番か選べと迫ったんだ』
「……フクは?」
『…………酔っていたんだ』
 福富は高校の三年間を荒北に尽くされてきたし、高校時代に一番親しかったのは新開だろう。大学の四年間一緒だった金城ともきっと上手くやっていた。なんだかんだと、一度気を許すと、どこまでも献身的で優しい。
「なんというか、むさ苦しい修羅場だな。というか、お前ら荒北大好きすぎだろう」
『否定はしない』
 きっぱりと言われて苦笑すると、何か考えこんだ気配があった。
『……友人としてだが』
 それはわざわざ付け加える必要があったか、と思うが、たぶん付け加える必要のある話をしていた。
『みんなで寄ってたかって荒北を酔い潰して、前後不覚にしてから聞き出そうとして』
「ああ、あいつ深酒すると、色々素直になるな」
 先日も福富への想いについて語っていたが、後日聞いてみたところ、そんなことは言っていないと喚いて譲らなかった。どうやら都合よく酒の上での言動を忘れる性質のようなので、福富が最初に言った、荒北は覚えていないはずだというのは、そういうことだろう。
『それで、東堂が好きだと聞いた』
「……何でだ?」
 そういう話になるのは分かっていたが、まず疑問が先立つ。
 高校時代、仲間の中で一番反目し合っていた二人だ。喧嘩をするほど仲がいいと言えば聞こえはいいが、互いへの反感も衝突もその瞬間は本気だった。慣れあった末のじゃれあいなど、引退間際になってからの話だ。
 有体に言えば、好かれる要素がない。
『綺麗だったからだと』
「顔か」
 そこか、と思わず漏らすと、いや、違う、と生真面目な声が返ってきた。
『最初は嫌いだったと言っていた。正論と綺麗ごとを並べられるのは、挫折を経験していないからだと思ったと』
 そうだろうな、と耳を傾けながら苦笑する。確か、一年の頃に面と向かって似たようなことを言われた。東堂の言動は同世代にとって、どうにも上から目線の態度と取られるようで、何様のつもりだ、とは散々に言われた。
『折れても変わらなかったから、本当に綺麗なんだと思った。もう抵抗は諦めて好きだと認めて、何年経っても変わらないから、きっともうずっと一生一番好きだ。といった主旨の告白を引き出してしまって……東堂、大丈夫か?』
 なるべく平静に、公正に伝えようとしてくれているのは理解できるのだが、その坦々とした説明の破壊力が凄まじい。面と向かってなくて良かった、と心底思いながら、大丈夫だと心にもないことを応じる。
『これは酔わせて聞いていいことじゃなかったと、その場の全員で意見が一致して、口外無用を守ることになったんだが』
 さすがロードレースの選手達は紳士的である。今更知らされている身としては全く有難くないが。
 大学の卒業時というなら六年前、その後会った知人達はそのことを知った上で東堂に接していたことになる。
「……かなり、知り合いがいたんだよな?」
『黒田はほぼ酔い潰れてたから、覚えてないようだ。その場にいてこのことを知ってるのは、オレと新開、泉田。葦木場は寝てたな。銅橋は酔い潰れた鏑木の世話していて聞いてない。元箱学以外だと、洋南の金城と待宮と古賀。あと、田所と巻島か』
 知った名前がずらずらと並び、聞きながら額を抑えていた東堂だが、最後の名前に思考が停止した。
「……巻、ちゃん?」
 何故高校の卒業も待たずにイギリスに移住した男がその場にいる、と喚くこともできずに呆然としていると、たまたま日本に来ていてレースに参加していたのだと、福富が申し訳なさそうに補足する。
『東堂、大丈夫か?』
「……大丈夫じゃない」
 とうとう取り繕う気力もなくなって応じると、電話の向こうが一瞬黙り込んだ。
『嫌か?』
「え?」
『荒北のことが、迷惑か?』
 心配そうに問われていることの意味が今一つ理解できず、かなりの時間を置いてから得心する。
 同性に恋愛感情を向けられることに、嫌悪感がないのか、と問われているのだ。
「……迷っているし、困惑もしているから、迷惑と言えば迷惑だが。オレはあいつに一番嫌われてると思っていたから、フクが羨ましかったくらいだしな。好かれてるなんて、考えたこともなかった」
 荒北は素直じゃないからな、と笑った福富に全くだと笑う。
「ありがとう、参考になった」
 少し考えてみる、と電話を切ったところで限界だった。
「あの野郎……全方位にダダ漏れじゃねーか!」
 もう酒を飲むな、と手にしていた携帯電話をベッドに向かって投げつける。
 考えてみるなどと言ったが、もう何も考えたくない。ぐったりとして、東堂は先に携帯を投げ入れたベッドに向かって倒れこんだ。

 空気を震わせる低い振動音に目が覚めた。
 寝ぼけながら手さぐりで、いつまでも止まる気配のない携帯を掴む。部屋は真っ暗で、液晶画面が眩しすぎてよく見えない。明らかに深夜と思われる非常識な時間帯の電話だが、それ故に何か緊急の連絡かもしれないと思い至って、はっきりと目が覚めた。
 ベッドから身を起こして、改めて画面を見据えると、通常の着信ではなく通話アプリでの着信だった。
「……巻ちゃん?」
 彼から連絡してくるとは、珍しいこともある。
 高校時代はひたすら電話とメール攻勢をして、この筆無精で口下手で、対人関係の苦手なライバルと繋がりを保っていた東堂だが、今は互いに仕事もあれば、時差という大きな壁もあるので、連絡はメールやチャット機能が主だ。通話が必要な時は、先に互いの都合の良い時間を確認する。
 一体どうしたのだろう、と首を捻りながら電話に出る。
「巻ちゃん?」
 どうした、と続ける前に息の吸い込む音が聞こえた。
『東堂、お前……ッ! 何回かけたと思ってるショ! 何で出ねぇショ!』
 独特の口調で怒鳴りつけられ、きょとんとする。どちらかと言えばマイペース極まりない巻島が、こんなに焦った声を上げるのは珍しい。
「何でって、今こっちが何時だと思ってるんだ。普通に寝てたに決まってるだろう」
『オレは六時間前からかけてるショ!』
 怒鳴りつけられて一度携帯を耳から話して画面を確認すると、深夜の三時近くだ。六時間前という巻島の発言が大袈裟でないとするなら、夜の九時前だから、確かに子供でもそんな時間に寝ない。
「……すまん、ちょっと疲れていて、本当に寝てた」
 意を決して福富に電話をして、想像していた以上に色々衝撃的なことを聞かされ、精神的に疲弊しきったのだろう。ベッドに倒れこんで、そのまま寝てしまっていたらしい。
 悪かった、と謝ると深々とした嘆息が聞こえた。
『ホントに寝てただけショ?』
「ああ。それにしても巻ちゃんは心配性だな、ちょっと電話に出なかったくらいでそんなに焦っ……」
『東堂……、お前、寝る前にオレに送ったメッセージ確認してみるショ』
 笑い飛ばそうとした東堂に、低まった声が脅しつけるように告げた。
 何かメッセージを送っただろうか、と首を捻りながら、通話をスピーカーに切り替えて画面を操作する。
 確か、福富から荒北の気持ちは大体皆知ってるいたと聞かされて、その中に巻島まで含まれていたことに打ちのめされて、少し泣き言を送ったような記憶はある。ベッドで寝ながら操作していたから、そのまま寝てしまって、今この事態なのだろうが。
《巻ちゃん、どうしよう》
《死にたい……》
「うわぁ!?」
 思っていた以上に剣呑なメッセージが履歴に残っていて、驚愕する。
『お前が驚いてんじゃねぇショ!』
「いや、あの、この後に詳しく、相談を書いてたんだ!」
 最初にこの二つのメッセージを送信した後、続けようとした相談は、長くなりすぎたり、情けない泣き言ばかりになって、書いては消しているうちに、うっかり寝落ちたものらしい。
「えーと、その、スマン」
『そのメッセージ見て、返信しても全く既読になんねーし、電話しても繋がらねーし……焦るに決まってるショ!』
「本当に悪かった……」
 東堂も逆の立場なら、心底焦る。
 ライバルの安否を確認しようと、片っ端から知り合いに連絡して、取るものもとりあえず現地に向かいかねない、とまで考えてから、はたと気づく。
「巻ちゃん、日本来なくていいぞ!?」
『今、席のキャンセル待ち解除したショ……』
「もう空港かよ!」
 大体のことに無精なくせに、時折異常なほど行動力を発揮する巻島に嘆息する。
「愛されてるな、オレ」
『切るぞ』
「待って巻ちゃん、オレも愛してる!」
『じゃあな』
 待ってくれ、と泣きつくと深い溜息が聞こえて、どこかに腰を落ち着けた気配があった。
『何があったショ?』
 聞くから話せ、と促す声が優しい。
 巻ちゃん、と呼びかける声がつい湿る。
「……箱学にいた、荒北って、覚えているか?」
 意を決して問うと、少し長い沈黙があった。
『……よくは知らねーけど、箱学で福富のアシストやってた奴ショ。大学では金城と組んでたって聞いたショ』
 揺れた声に、嘘の吐けない友人だと苦笑する。
「六年前にあいつの告白聞いたって?」
『あれは金城達がチョーシ乗って……、まぁ、その、悪かったショ』
「別に巻ちゃんが謝ることは何一つないと思うが」
『いや、なんか、オレが一番聞いちゃいけなかった話だったショ』
「まあ、さっき知ってショックではあったが……、ここまでオレ以外の全員が知ってたとなると、もはやどうでもいいというか……」
 空笑いしか出てこない東堂に、巻島が怪訝そうな声を上げた。
『東堂お前、知らなかったのか?』
「おお、つい先日、本人に冗談で言ったら、ずっと好きだったって肯定されてな。福富に確認したら、皆知ってるって言われて混乱してたところだ」
 軽い口調を作って窮状を訴えてみるが、電話の向こうで笑う気配は無かった。
「巻ちゃん?」
『だって、お前、だからアラキタを嫌ってたんショ?』
「……オレ、荒北を嫌ったことなんかないぞ?」
 正確に言えば、初期の頃はあまり好意的ではなかったし、チームメイトとして互いを認めてからも喧嘩や対立は非常に多かったのだが、他校のライバルだった巻島にそこから説明するのも面倒なので端折る。
 大まかに言えば、東堂は荒北に対して好意的だったはずだ。少なくとも、巻島に対し、荒北の悪口を吹き込んだりなどはしていない。
 何故、巻島がそんなことを考えたのかが分からずにいると、深々とした嘆息が聞こえた。
『その、告白っつーか自白事件の時ショ』
 おそらく、その言葉の方が場の状況を適切に表現しているのだろうが、何とも不穏な単語である。
『オレ、アラキタに嫌われて、かなり絡まれて……』
「荒北が巻ちゃんを?」
 ポジションが同じだったわけでもない、県外の学校の選手。巻島はクライムのみに特化していて、他のレースにはまず出ることはなかったから、一般のレースで顔を合わせることもなかったはずだ。加えて彼は高校三年の夏が終わると同時に渡英している。
 嫌ったりする程の接点はなかったはずだが。
「あいつの口調、怒ってるように思えるかもしれないが、別にあれで機嫌が悪いわけではなくてな……」
 つい、昔のチームメイトの誤解されやすさをフォローしかけると、深々とした嘆息が遮った。
『東堂のせいショ』
「オレ?」
『だから! お前のことが好きだから、オレのことが気に食わなかったんショ! お前、箱学の頃、毎日毎日オレに電話して寮で騒いだりしてたショ!』
「毎日じゃない、ちゃんと間に一日は置いてた!」
『話が進まねぇから黙れショ!』
 反論するな、と地球の裏側から叱られて黙り込む。
『アイツは、お前がオレのこと好きだと思ってたショ。だから気に食わねぇって、面と向かって言われた。ただのヤキモチだって謝られたけどな』
「……オレ、巻ちゃんのこと好きだけど、別に押し倒したくも押し倒されたくもないぞ?」
『オレもショ』
 同意を得られたことで、長年の友情にひびが入らなかったことにほっとする。
『そん時もそういうんじゃねぇって散々言ったけど、全然納得してねぇみたいだったショ。そのくせに、拗らせててゴメンとか謝んショ、あの酔っぱらい』
「……ええと、なんだか色々スマン」
『で、イギリス帰って、日本でヒデェ目にあったって、ちょっと文句言ってやろうと思って、お前に連絡したんショ』
 覚えているか、と問われて眉をひそめる。そんな苦情を言われた記憶がない。
『荒北の名前出した瞬間、お前、そんな奴知らないって言ったショ』
 思わず息を呑む。
『スゲー冷たい声で、聞く耳持たねぇって感じで。だから、その、アラキタがお前のこと、スキみたいな、そういうの知ってて、気持ち悪くて、話題にもされたくない、って、そういうことだと思ったショ』
 それきり、巻島は二度と荒北の話題を振ることはなく、もちろん東堂の口からその名が出ることもなかったのだと言う。
「……覚えて、ない」
 そんな会話をした覚えはない。それ以前に。
「オレ、荒北のこと、覚えてなかったんだ」
 どういうことだ、と問う友人に、改めて先日の高校の頃の集まりから今日に至るまでの経緯を説明する。
『……お前、荒北のことだけ覚えてなかったって……』
 一瞬言葉に詰まった巻島が、盛大な溜息と共に続きを吐き出した。
『明らかに何かあったショ』
「……そんな気がするな」
 少なくとも、六年前に既に荒北に対する記憶障害が発生していたことが判明した。
「聞くと、八年前までは新開達と飲んだりしてたみたいなんだが。その頃か……?」
『あー、あんまし、考えたくねーけど、それこそ、押し倒されたとか……ねーよ、な?』
「荒北はそんなことしない」
 きっぱりと言い切るが、納得していない気配を感じたので、言葉を足す。
「オレが知っている荒北は、そういう真似をして平然と素知らぬ顔ができる奴じゃない」
『お前が覚えてるアラキタは、どんだけあるんショ?』
「それを言われると痛いが」
 記憶として抜け落ちているのか、単純に時間経過で忘れたのか判断し難いが、ところどころにまだ穴があるのは事実だ。
 根本的な問題として、何故、荒北靖友という男のことをきれいさっぱり忘れ果てたのかが分からない。
『告白されて、ショック受けた、とか?』
「荒北はオレに告白したことないはずだぞ。他の連中にはダダ漏れさせてくれたらしいが。大体、オレが男に告白された程度で、記憶喪失になるほどショックを受けると思うか?」
『いや、全然』
「断言するの早いな、巻ちゃん」
 巻島の中でどう評価されているのか、垣間見えたことにはショックを受けた。
 元々、東堂は性別を問わずによくモテた。女子は仲間内のアイドルのような東堂に対して気軽に熱を上げて騒ぎ、たまにその熱を恋の病に拗らせた。
 男子が向けてくる感情も、女子に人気のあるアイドルに対するものに近かったかもしれない。やっかみ半分、キャラクターを愛されて、少々拗らせた相手からは色々な感情を向けられた。素直に敵愾心を燃やしてくるような健全な感情だけでなく、中性的な外観を指して、貶めるように東堂なら抱ける、などと聞こえるように言ってくる輩にはそれ相応の態度で応じた。気分は良くなかったが、ショックを受けたことはない。一周回って、女子ファン以上の崇敬を向けて来る者もいたが、特にそこでトラブルになったこともない。
 渡仏してから同性愛者に誘いを受けたこともあるが、断ればそれ以上の無理強いはなかったので、別に何のしがらみもない。
「オレは昔から天に三物を与えられてるからな。老若男女問わず愛されるのは当たり前だから、誰に告白されてもそんなに驚かないぞ」
 きっぱりと言い切ると、地球の裏側で親友が嘆息した。
『じゃあ、六時間前にお前がやらかしたダイイングメッセージは何ショ?』
「死んでない! 巻ちゃん、オレ死んでない!」
 今にも自殺しそうなメッセージを残して、非常に心配をかけたので、この点は弱い。
「そういえば、何でオレ、こんなに動揺したんだ……?」
 何にショックを受けたのだろう、と首を捻る。
『そりゃ、友達からそういう目で見られてたことショ』
「荒北は最初から友達じゃない」
『じゃあ何ショ?』
 面倒くさい、とまた嘆息されて、考え込む。
 荒北靖友は友達か、と聞かれると反射的に否定するのは、半ばお約束のようなものだ。
 当初は本気で互いのことを嫌っていて、友達だなどと誰も思ってはいなかった。お互いのことをそれなりに認めるようになってからも、毎日のように何かしらやりあって、それを他人が仲がいいと茶化すと、荒北が心底嫌そうに仲など良くない、友達なんかじゃないと噛みついた。だから、東堂もその言葉の通りに受け止めた。
 荒北靖友は、友達ではない。
 友達なんかじゃないと言われて、その通りだと納得していた。最初は言葉通りの意味しかなかったが、おそらく途中からは別の意味にすり替わっていた。
「だって、友達だったらそんな……?」
 荒北が自分に抱いているのは友情でないと知っていたから、友達でないと納得していたのかと考えるが、どこか齟齬がある。
 知らなかったから、ショックを受けた。本人と、福富と巻島からそれぞれ聞かされて、足元から地面が崩れるような衝撃に打ちのめされた。
 このひどく不安定な精神状態は、何に由来するのだろうと考え込む。
 本来、東堂は友達とも思っていない相手がどんな感情をぶつけてこようが、歯牙にもかけない。巻島が言う通り、友達からそういった告白を受ければ、多少は動揺する。
 しかし、荒北は友達ではない。
 この頑なな気持ちは何だ、とあやふやな感情をかき分けるように己の心を探る。
「…………なあ、巻ちゃん。荒北が、必ずオレの右に来るんだ」
『は?』
「高二の頃から」
 だからなんだと問いたげな相槌に、当時右肩を故障していたのだと説明する。
「最初、なんで怪我をしている側に陣取るんだと思ってたんだが、人がぶつかってきたり、不用意に触られないようにしてたって途中で気が付いて」
 機嫌の悪そうな顔で隣に居座られて何なのかと思っていたが、あれで心底心配しているのだと気が付いてしまった。
「優しいのに不器用で。好きだなあって」
『……それは、友達としてか? それとも恋愛対象として?』
「だから、荒北は友達じゃない」
 その点だけははっきりとしていて、しかし、そこで友情としての好意を否定すると、恋情が残る。
「なぁ、巻ちゃん、オレ、荒北のこと好きなのか?」
『知らねぇショ!』
 何故そこで人に聞く、と叱りつけられるが、ここ最近、自分の記憶も感情も全くあてにならないからである。
『過去はさておき、今はどうなんショ?』
「過去が定まらないと、今の気持ちがはっきりしない」
 それはそうかもしれないが、と歯切れ悪く応じる巻島は、基本的にこういった他人の恋愛事情などに関わるのが苦手だ。ここまで付き合ってくれただけでも、彼としては破格の扱いだろう。
 礼を言って、後は自分で考えてみると話を切り上げるべきだろうと、巻島に呼びかけようとした瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
 夜中の三時過ぎである。電話ならまだしも、人の家を訪ねる時間ではない。
 まさか完全に時間感覚を失くして、今は昼の三時なのではないかとカーテンの外を窺うが、外はまだ真っ暗だ。
 では幻聴か、と思いかけたところに、今度は立て続けにチャイムが鳴らされ、ドアが直接叩かれる音まで響いてきた。
『どうしたショ?』
「なんか、人が来たみたいなんだが……、巻ちゃん!?」
 不穏なメッセージを残した後に音信不通になったために、焦って何度も電話をかけてきた友人に、はたと気づく。
 連絡のつかない間、想像は悪い方へ悪い方へと向かったはずだ。近場にいれば、直接出向くだろうが、彼は今イギリスにいる。
「オレのことで、日本の誰かに連絡したか!?」
『あ。っと、金城と田所に……、悪ぃ、連絡ついたって、まだ連絡してないショ』
 巻島は元箱根学園のメンバーと連絡先を交換などしていないだろうから、人選は妥当なところだ。その二人と東堂は直接的な関わりはないから、金城から福富か荒北、田所から新開へ連絡が行くだろうか。
 つまり、とスピーカー通話にしていた携帯を操作しながら、チャイムの乱打に急き立てられるように慌てて廊下に出る。
「あああ……」
 先程、アプリで自分のメッセージ履歴しか確認しなかったのがまずかった。
 気づいていなかったが、メールと着信履歴が大量に入っていて、全て東堂の安否を確認するものだ。福富や新開はもちろん、後輩の名前まで含まれていることに悲鳴を上げたい気分になりながら、直接家まで様子を見に来た人物を最優先して、ドアに飛びついて鍵を開ける。
「……荒北!」
 このマンションを知っている人物は限られている上に、一番近場に住んでいるのは彼だから、予想はしていたが、それでもその顔を見た瞬間、ひどく狼狽えた。
 師走に入ったばかりの、一日で一番冷え込む時間帯に、汗だくで肩で息をしていた荒北が、東堂の顔を見た瞬間、大きく顔を歪めた。
「テメェ…なァッ」
「さ、騒がせてすまな……っ」
 謝罪する前に、抱きすくめられて息が詰まる。
「金城から、東堂の様子がおかしいって、巻島から連絡入ったって、連絡きて。福ちゃんから、電話、あって。オレのこと、聞かれた、って。それで、お前が、巻島の電話出ねェとか、ただごとじゃねェし。オレのせいかって……」
 よかった、と安堵の溜息が耳元に落とされて、ぞくりと身が震える。汗ばんだ腕に抱きこまれて息もできない。切れ切れに告げられる掠れた声に含まれた、紛れもない己に対する執着に絡め取られそうになる。
「荒北、痛い……」
「…………悪い」
 苦しいと訴えると、すぐさま腕から力が抜けて身を離された。遠ざかった体温を一瞬寂しく思って、流されていることを自覚する。浮かんだ苦笑をどう解釈したのか、もう一歩下がった荒北が深々と息を吐き出した。
「……何あったの?」
「いや……、ちょっと巻ちゃんに泣き言メッセージを送ってる途中で、うっかり寝落ちて、メッセージが自殺でもしそうなところで止まってたせいで、巻ちゃんが焦って皆に確認したみたいで……。巻ちゃんとは連絡ついて、今喋ってたところだった」
「…………それだけ?」
 こくり、とうなずくと、噛みつきそうな顔で大きく口を開いた荒北だったが、その口からは結局怒声は飛びださなかった。まず時間帯を気にしたからだったのだろうが、一瞬膨れ上がった怒気は見る間に萎んだ。
「オレの、せいだよな?」
 心底落ち込んだ声音に狼狽えて、思わず首を横に振りかけるが、この状況でそんな嘘を吐いたところで何にもならない。それに昔から、荒北は嘘を嗅ぎ分けるのが得意だった。
 中途半端な角度でうなずいた東堂に、荒北が苦笑う。
「忘れていいっって、言ってんだろ」
 もういい、と告げられて、目を瞬かせる。
「オレのことなんか、忘れていーから」
 手が痛いと思ってから、玄関の壁を殴りつけたことに気が付いて、目が熱いと思ってから泣いていることに気が付いた。
「…………勝手な、ことを、言うな」
「東堂……?」
 滲んだ視界で、おろおろと相手の手が宙を泳いでいるのが分かる。
「もう、嫌だ」
 ぼろぼろと涙が零れて、子供のような泣き方に自分で情けなくなった。顔が熱い。
「おまえの、こと…なんか、思い出さなきゃ、よかったッ」
 喚き散らした言葉に、荒北がひどく傷ついた顔をした。
「お前になんか、出会わなかったことにしたのに! 忘れたくて、全部忘れたのに! 今更出てきて、好きだったとか、言って、なのに、忘れろ、とかッ!」
 ふざけるなと泣き喚いて、不意に玄関先の姿見に映った醜態に気がついた。
 子供のように泣きじゃくって、みっともないと思うのに、頭の中はめちゃくちゃで、泣き止むこともできない。
「東堂」
 抱き寄せられて、逆らう気力もなくその肩に顔を埋める。嗚咽に揺れる背を撫でられて、ごめんと謝る声を聞く。
「忘れていい、なんて、もう一度、言って、みろッ。忘れてやる。きれいさっぱり、全部、お前さえ、いなきゃ……ッ」
 支離滅裂に泣きじゃくる東堂に、謝罪の言葉が降ってくる。
「ごめん、忘れられると、キツい」
 苦い声に顔を上げると、傷ついたような苦笑いがそこにあった。
「お前に、知らないって言われんの、辛い」
 泣き濡れた頬を筋張った手で拭われて、顔が近いと思えば唇が重なっていた。塩辛いキスに呆然としていると、悪い、と一つ詫びた荒北が身を離そうとした。するりと解かれた腕が離れないように、コートの背を掴む。
「おい、東堂?」
「もう一回」
「……もう一回って、お前……」
「もう一回」
 重ねてねだると、一つ舌打ちした荒北がもう一度、今度はゆっくりと唇を押しつけてきた。
「満足したァ?」
 首を横に振って、もう一回、とねだる。
 角度を変えたキスの後、次はねだる必要はなかった。抱きすくめられて、深く口づけられる。
 本当だ、と息継ぎにも困る長いキスに酸欠になりかけた頭で、ぼんやりと思う。
 この男は、自分が好きだ。
 どこか突き放すように告げられた告白と、他人から聞かされた話ではどうにも納得できなかったが、間違いなく彼は自分に恋着している。それが、泣きそうなほどに嬉しい。
 どこか遠く、あやふやだった己の感情もはっきり理解する。
 好きだから、こんなにも嬉しい。
 自分に向くことはないと諦めていたものが、ずっと前から自分のものだったと、初めて実感して歓喜に震える。背中に触れた冷たく固い感触に、いつの間にか押し倒されていたことに気付く。
 シャツの裾から忍び込んできた手が脇腹を撫で上げて、ぞくりと身を震わせ。
 唐突に鳴り響いた電子音に心臓が跳ねた。
 荒北も驚いたように跳ね起きて、わたわたといくつかのポケットを漁ってから、ようやく鳴り続けるスマホを取り出し、慌てたように電話に出る。
「アー、新開? そう、今東堂のマンション。何でもなかった。や、寝てただけだって。なんか、巻島に愚痴ってる途中で寝落ちて、今まで寝てたって。オレが来た時は巻島と電話してた」
 そういえば、安否を確認にきた荒北も、他の誰にもまだ連絡していなかった。
 様子を見に行ったきり連絡のない荒北に、新開が心配して電話してきたと知って、しまったと冷や汗をかく。
「……そう、いつものいきなり寝落ちるアレ。あー、代わる?」
 電話に出れるかと目で問われ、うなずいてスマホを受け取る。
「隼人?」
 呼びかけると、深々とした嘆息が応じた。
『よかったぁ。マジで連絡通じねーし、今度は何があったかと……』
「心配かけてすまない……」
 福富同様、荒北と東堂の件で心底気を揉んでいたらしい新開に謝ると、騒ぎすぎたと謝り返される。その間に立ち上がった荒北が、勝手に廊下の奥に向かうのに戸惑っていると、すぐにタオルを手にして戻ってくる。
 年季が入って色の褪せた青いタオルにきょとんとすると、手から携帯を取り上げた荒北が代わりに濡れたタオルを顔に押しつけてきた。
 熱を持っていた顔に冷たいタオルを当てられて、心地よいと思ってから、ぶわりと顔に血が上って更に熱が上がった。
 感情のまま泣き喚いて、なだめた相手にキスをねだって、夢中になって溺れた。どれだけ情けない顔を晒していたのかと、今更気付いて、顔から火が出そうな気分に、冷たいタオルに顔を伏す。
「ああ、他の連中にも連絡しといてもらっていい? 悪ィ、頼む。それから、ちょっと話あっから、後でお前に連絡する」
 通話を切った荒北が、しゃがみ込んでタオルと仲良くなっている東堂を振り返った気配があったが、顔が上げられないでいると、くしゃりと髪をかき混ぜられた。
「とりあえずオレ、帰るから」
 え、と顔を上げると、何故か嘆息された。
 更に、新開に助けを求めるようなぼやきが聞こえたが、意味は分からない。
「こんな時間に、大丈夫か?」
「……チャリだし。つーか、これ以上ここにいる方が大丈夫じゃねーの」
 戸惑うと、顔を両手で挟み込まれて心拍が上がる。
「食うぞ?」
 それは高校時代の口癖の一つだったな、と考えてから、今は性的な意味だったことに気がついて頭に血が上る。
「…………っていうことで! 帰っから!」
 何かあれば誰でもいいから連絡しろ、といっぱいいっぱいの頭に言い聞かされて、こくこくとうなずくと、何故か蹌踉とした足取りで荒北は玄関を出て行った。
「うあああああ……!」
 ドアが閉まると同時に、悲鳴じみた呻き声をあげて、もう一度濡れたタオルに顔を落とす。
 混乱しきって、頭が全く働かない。短時間で感情が乱高下しすぎて、思考が一切まとまらない。泣きたいのか笑いたいのかも分からない。あんなに泣き喚いたことに、今更ながら顔から火が出そうだ。
『なぁ、東堂』
 誰もいないはずの廊下で、突然背後から声をかけられて心臓が跳ねる。
「……巻ちゃん!?」
 くぐもった声は確かに友人のもので、慌てて周囲を見回し、尻ポケットに無意識のうちに突っ込んでいた携帯を見つける。
 そういえば、スピーカーをオンにしたまま、通話も切っていなかった。
 海の向こうで友人は、こちらの状況が落ち着くまで無言で待っていてくれたものらしい。
『お前が、どういうパートナー選ぼうが、好きにすればいいショ』
 ただ、と続いた声は冷え冷えとしていた。
『今後、ラブシーンに入る前に電話は切れショ』
 これまで状況を心配して通話を繋げたままでいたらしい友人は、そう告げて無情に通信を切った。

『東京』
 件名すらなく、そう本文に一言記載されたメールが後輩から携帯に届いたのは、十二月も半ばを過ぎて、クリスマスが目前に迫った頃のことだった。
 本文が入っているだけ、いつもより丁寧だ。
 添付された画像は遠くに陸地らしきものが霞んで見える紺色の海で、東京というより東京湾だろうと苦笑する。
 どうやら放蕩息子が帰ってきたらしいと知る。しかし、どこまでも自由な後輩が暦を把握しているか怪しいが、東堂はこれから繁忙期である。宿を当てにされるのは構わないが、帰宅時間の予想は全くつかないので、食事は勝手にしろ、むしろ家主のために作れ、といった内容の文面を小言を交えて返信する。
 すると、珍しく電話がかかってきて驚いた。
 真波山岳という男は、メールで簡単に済まない話があれば、電話をしようと考えるよりは連絡そのものを放棄するのが常だ。
「どうした?」
『あ、東堂さん生きてる』
 あっけらかんとした声で言われて、何を言い出したのかと嘆息する。
『なんか、電波入ったと思ったら、箱学の人達からすごいたくさんメッセージ来て』
「…………」
『東堂さんが遺書? 残して失踪したとか、連絡つかないとか、出なくても連絡取り続けろとか、マンションの管理人に連絡して鍵空けてもらえとか、オレがなんか知らないかとか、東堂さん来てないかとか、知ってることあるなら連絡しろとか、なんか、アビキョーカン?』
「あー、真波、それは……」
 二週間ほど前に中途半端に不穏なメッセージを海外の友人に向けて送った後、寝落ちした為に、焦った友人がまず高校時代の友人に助けを求め、その二人は直接東堂とは交流がなかったため、知りうる限りの箱根学園関係者に連絡を取ってくれたものだから、同学年だけでなく先輩後輩にまで広がって、真夜中に大騒ぎになったらしい。
 最終的に、新開がうまく話をまとめてくれたようで、誤解が重なった上に、間に何人かを通したために伝言ゲームのように話が大きくなっただけ、ということで事態は片付いた。
 実家にまで連絡が行かなかったのが、不幸中の幸いと思うしかない。
 おそらく、泉田や黒田が、同じクライマー同士という括りで真波が何か知らないか連絡を取ろうとしたのだろうが、当人は電波圏内に戻ってきたのが今日である。
 大量に受信したメッセージの不穏さに、さすがの真波も驚いて東堂に何があったのか電話をしてきたものらしい。
「……色々あってな」
『っていう名前の猫いましたよね』
「それは、イッパイアッテナ」
 それそれ、と笑う脳天気な声に脱力する。
『ところで、東堂さんって箱学の人達のこと、避けてたんじゃなかったんですか?』
 脳天気な声のまま、告げられた言葉に東堂は意表を突かれた。
「仕事の都合が合わなかっただけだし、この前の箱学の集まりには顔出したぞ?」
 そこで荒北の記憶だけがないことが発覚して騒ぎになったりもしたのだが、このいまだに浮世離れした後輩に話しても興味を持たないだろうと省略する。
『だって、覚えてないのに』
 と、省略した端から、いまだに子供じみた口調の直らない後輩がぼやいて、それが妙に引っかかった。
 一年の半分は行方も知れない男だ、連絡も滅多に通じない。今だって、初めて先日の騒ぎを知って連絡してきたくらいだ。そんな彼が、参加していない秋の飲み会で東堂が荒北のことを忘れ去っていた件について、どうして把握しているのか不可解だ。
「真波、それを誰に聞いた?」
『それ?』
「オレが荒北のことを覚えてなかったと、誰に聞いた?」
『…………別に、どうでもいいじゃないですかー』
 へにゃり、と笑う顔が目に浮かぶ声に、ごまかされるかと嘆息する。
「真波、お前、何か知っているのか?」
『何をですかー?』
 今も昔も浮世離れした後輩だが、なんだかんだとしたたかだと知っている。こちらの聞きたいことに答えるまで、長丁場になりそうだと嘆息して時計に目を走らせる。どうせ泊りにくるのだから、夜に改めて吐かせた方がいいかもしれない。
『……ねえ、東堂さん。この、自殺騒ぎみたいなのも、荒北さんのせいなんですか?』
「いや、それは色々と誤解が重なって……」
 へらへらと笑ってごまかし続けるのかと思った後輩の声音が不意に変質して、ひやりとしたものを感じる。
『またですか……』
 電話越しの嘆息に、怒気がこもっているのは感じとれたが、それ以上は読み取れない。
「お前、何を言って……」
『……着いたらすぐ、そっちに行きます』
 東堂の言葉を途中で遮って、きっぱりと告げた真波がそのまま電話を切った。
 その後、かけ直しても通話中で繋がらず、仕方なく、仕事で遅くなるので、食事は自分でとるように、また泊まり込むつもりなら勝手に部屋に入っているように、とメールを送っておいたが、返信はなかった。
 その後はひたすら業務に追われたが、。どうにも様子がおかしかった後輩の様子が気になって、できるだけ早く仕事を切り上げて帰宅したのは、九時過ぎのことだった。
 マンションのドアを開けた瞬間、暗い廊下にうずくまっていた後輩ががばりと跳ね起きて、主人を待っていた犬かと呆れる。
「真波……風邪ひくぞ。というか、お前ずっとそこにいたのか。風呂は? 飯は? 荷解きはちゃんとしたのか、洗うものがあるなら、先に洗濯機を回して……」
 後輩を見るとつい増える小言を遮るように、日に灼けた手が伸びてきて東堂の顔を包みこんだ。
「真…波……?」
 ゆっくりと背後でマンションの鋼鉄製のドアが閉まり、外廊下の灯火が遮断されると、その場は闇に沈んだ。
「真波、何の真似だ。明かりを……」
 冷えた手が口元を覆って黙らされる。
 暗がりの中、ごく至近距離に寄せられた顔だけがぼんやりと判別できて、ひどく真剣な目をした後輩に心拍が乱れた。
 以前にも、こうして冷たい手に覆われた。もう言うなと口を塞がれ、片耳も塞がれて。残った耳に以前と同じように後輩の口元が寄せられた。
「忘れちゃえば、いいじゃないですか」
「ッ!」
 こみあげてきた吐き気に身体を折ると、驚いた真波が東堂の名を呼んで抱き支えた。
 頭が痛い、気分が悪い。
 それから、全部、思い出した。