04
「というわけで、実家から写真を送ってもらった」
持ち込んだ大量のアルバムと冊子を積み上げると、荒北は何故か非常に渋い顔をした。
実は、荒北は東堂のマンションから地下鉄で数駅の距離に住んでいた。最寄り駅の路線が違ったので、これまですれ違うこともなかったようだが、自転車ならばすぐ近所だ。
ホテル勤務の東堂は休日が安定しておらず、友人と休みが合わないことが多い。
ただ、荒北はここしばらく休日返上で働いていたプロジェクトの片が付いたところで、その分の代休を取らなければならないらしい。特にすることもなくて暇だ、と言うのを聞いて、訪ねていくことにした。
別に荒北を呼び出してもよかったのだが、彼の人となりを覗きたくて行ってもいいかとねだると、彼特有の言い回しで要約すると、面倒だが好きにしろと返事が返ってきた。
新開に評を求めてみたところ、掃除をしないといけないので面倒、生活態度について東堂から何か言われそうで面倒、でも東堂に会うこと自体は嬉しい、それを言葉にするのは恥ずかしい、といった諸々が総合されている、と細やかな答えが返ってきた。
朧気ながらも思い出してきた東堂の中の荒北靖友という男の像とも大体一致したので、本当に嫌がられてはいないと押し掛けてみたが、この表情は失敗だったかと一瞬怯む。
「……ナニコレ?」
「当時のファンクラブ会報」
何とも言い難い顔で冊子を摘み上げた荒北に真顔で返すと、ますます妙な顔をする。
「そんなモンまでやってたの、あのトンチキなグループ」
「トンチキとはどういう言い種だ。いや、最初の頃はアルバム作って皆で回したり、インクジェットでプリントしたものを製本して配っていたらしいんだが、会員増えてからは印刷所を使い出したらしい。ほら、卒業記念の特別誌なんか、こんな立派なハードカバーで全ページフルカラーの愛蔵版だ」
「トンチキ以外の何でもねェよ」
口の悪い男である。
「これが一番、お前が写ってたんだ」
ファンクラブに対するサービスはもちろんのこと、写真を撮られるのは嫌いではなかったので、東堂自身の高校時代の写真はかなりの数が残っていたのだが、荒北という男はどうやら写真が嫌いだったようで、集合写真くらいにしか写真が残っていない。
新開が送りつけてきたものが一番まともに写っていたくらいで、東堂の手持ちの大量の写真の中に、二人が一緒に写っていたものは皆無だった。ファンクラブ会報という、東堂だけにピックアップされた写真の後ろに、全く無関係に写り込んでいるケースは散見されたので持ってきたのだが。
「なあ、これこれ」
件の卒業記念の分厚い冊子を開き、荒北に突きつける。
三年間の軌跡と称された特集ページには、入学間もない頃の東堂が写っていたが、見せたいのはその背後である。
「これ、このリーゼント、お前だろ?」
「ッ! 燃やせッ!」
冊子を引ったくろうとうするのをひょいと避けて、そうだった、としみじみ思い出す。
「お前、最初の頃、素っ頓狂な頭してたよなあ」
「三年間アホみたいなカチューシャしてたヤツに言われたくねェよ!」
「オレはお前と違って、一度たりともあの頃の自分を振り返って、恥ずかしいと思ったことはない」
「お前はそーだろうよ」
部屋に上がってものの数分で疲れきった顔をした荒北に、ところで、とふんぞり返る。
「この家は、客に茶の一つも出さんのか?」
「客かなァ? この図々しい生き物、客かなァ?」
文句を言いつつも、コーヒーしかないからな、と言いおいてキッチンスペースに向かう辺り、昔から人は好い。
家主が湯を沸かしている間に、改めて室内を見回す。
ロードバイクを置く都合上、部屋の広さを優先させているのだろう。築年数は経過しているようだが、元々二部屋あったと思われる間取りをワンルームに改装したらしく、部屋は広々としている。思っていたより片づいていたが、これは東堂が来ると聞いて片づけたのだろう。家捜しが目的ではないので、荷物を詰め込まれていると思しき、物入れの戸を開けるのは勘弁しておこうと目を背け、基本的には暗色でまとめられた室内を眺める。
男の一人暮らしらしいモノトーンの部屋に差し色になっているのは、イタリアの自転車メーカーのブランドカラーだ。
玄関近くの壁に立てかけられた青緑色の車体とは別に、同色のフレームだけが壁にかけられているのと、他にも小物をブランドで揃えているので、華やかに見える。
「ナニ?」
戻ってきた荒北が差し出してきたマグカップまでが、そのブランドのものだったので、その徹底ぶりに思わず笑う。
「いや、ビアンキ大好きなんだなと」
「つーか、みんながくれんだよ。こっちのカップはお前が寄越したんだけど、覚えてねェの?」
東堂に手渡した方は、会社の同僚にもらったのだと言う。荒北が手にしているカップは、確かにかなり年季が入っていてロゴマークも薄くなっている。
「オレが?」
「高三の時、誕生日プレゼントだって言って」
「あー、思い出した。お前の誕生日、四月二日。サプライズ仕掛けたら、照れ隠しにめちゃくちゃ怒鳴っただろ」
その頃には部員も全員、荒北の性格に慣れていたから、逆上する荒北を気にせず祝っていた。
マグカップを贈ったらしまい込まれたので、一週間程まとわりついて使わないのかとせっついたら、渋々と日常使いしはじめたことも思い出す。そのまま十年も使っていた辺り、律儀だ。
「そういえば、オレもビアンキのタオルは愛用してたな。留学先も持って行って、今もなんだかんだと使ってる」
「あー、それ、たぶんオレがお前にやったやつ」
「え、いつ?」
「……やっぱ三年の時の、お前の誕生日」
そんなことがあったか、と首を捻る。
大分、彼との学校生活については思い出した気がするのだが、誕生日に何かもらった記憶はない。しかし、東堂は初めてロードバイクに乗ってから一貫してリドレーに乗り続けているので、ビアンキブランドをプレゼントにもらうようなことは、まずない。その東堂の手元にタオルがあって、贈り主が荒北だと言うなら不思議はない。
十年も前の話なのだから当たり前といえば当たり前で、十八歳の誕生日に他に何をもらったかなど、ほとんど覚えていない。
強烈な記憶は、両親からの問答無用の現金で、車の教習所に通う最低金額のみをくれた。家業手伝いのための免許取得の厳命であって、あれを誕生日プレゼントと言っていいのかは分からない。
「お前んち、厳しいのか甘いのかよく分かンねェよな」
「何だかんだと、好きにさせてもらってはいるが」
「留学とかな」
マグカップを片手に胡座をかいた荒北が、少し恨みがましく目を据わらせた。
「何も言わねェでいきなり行きやがって、福ちゃんも新開もめちゃくちゃへこんでたぞ」
「いや、言う機会がなくて。最初は三ヶ月の短期の予定だったし、帰ってから土産持って行けばいいかと」
大学は国際学部に進んで、大学二年の九月にフランスに短期留学した。思ってた以上に水が合って、留学を延期してそのまま現地の大学に編入した。経験を積もうと、アルバイトでホテルの下働きに入って、そのまま正社員に登用されたこと自体は運が良かったが、完全に帰国する機を失した。二年前、系列の東京支社へ出向を命じられなければ、日本に戻ることはなかったかもしれない。
「フランスねェ……」
「……何だ?」
「全然似合わねェ」
「やかましい」
脛を蹴ってやると、学生時代のようにゲラゲラと笑った荒北が、ふと笑みを引っ込めた。
「留学って聞いた時、イギリスに行ったのかと思ったけどネ」
「そういえば、フランスだと言ってるのに、隼人が巻ちゃん追っかけて行ったならイギリスだろうと言い張って話が通じなかったな……」
どうして留学すると言うと、揃いも揃って高校時代のライバルを追いかけて行ったと思うのかと渋い顔をすると、荒北が日頃の言動だと突き放した。
「つーか、みんなそれ言ってたぞ」
みんなって誰だ、と睨めば、まず福富の名を上げるまでは予想内だったが、続いた金城の名に意表を突かれた。
「金城?」
「覚えてねェの? 総北の主将やってた」
「いや、忘れるはずないだろう」
ライバル校の主将で、巻島のチームメイト。箱根学園の、すなわち福富の作り上げた最強のチーム構成に、真向から全く異なる理論で立ち向かってきて、常勝の王者から総合優勝を奪っていった。その一年前の大会では、福富の手によって落車させられ、リタイアを余儀なくされた因縁を持つ。そうそう忘れられる名前ではない。
「でも、金城が洋南に進学して、オレとチーム組んでたのは忘れたァ?」
「えっ!?」
それは忘れたか、と荒北が苦笑うということは、冗談ではないのだろう。
「卒業して、最初に集まった時に言ったぞ。お前、すげェ驚いて、その場で巻島にメールしてた。福ちゃんの方が驚いて、全然動かなくなってたけど」
ちなみに、呉南の待宮も同チームだったと言われて、その名は一瞬思い出すのに時間がかかった。広島のチームの主将だったと言われて、ようやくそんな学校もあったと思い出す。
「お前、ほんとオレのこと、すっぽり忘れてんネ」
「…………すまん」
高校時代のことはほとんど思い出したつもりでいたが、その後がまた綺麗に抜け落ちていたことに今更気づく。
「フクが、四人一緒に飲むのは初めてだと、この前言っていたから……」
卒業後は、会っていなかったのだと思い込んでいた。
「お前が向こう行くまでに、全員成人してなかったからネ。福ちゃん、不祥事は起こせないって絶対二十歳になるまで飲まなかったし、オレらも集まる時はそれに従ってたから、四人で飲んだのはこの前が初めて。新開が二十歳になった時にオレとあいつだけでお互い飲み潰して、その話聞いてお前もやりたいって言い出して、お前の誕生日の時には三人で飲んだ。福ちゃんの誕生日の時に四人揃って飲むって言ってたのに、お前は日本に帰って来なかったの」
「…………ごめん」
「忘れてた?」
諦め顔で苦笑った荒北が、手を伸ばしてきて東堂の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
高校時代、セットが崩れると怒る東堂に、嫌がらせとしてこうやって髪をかき混ぜてきた。途中から嫌がらせだったことを忘れたのか、すっかり間を保つための癖になっていたこの手の感触をやっと思い出したというのに、まだ、自分は色々なことを忘れているらしい。
「ンな顔すんな。ゆっくり思い出してくれりゃ、それでいいから」
泣いているわけでもないのに、乾いた頬を拭うように撫でる指に、一瞬涙腺が緩みかけて慌てて身を離す。
この前も思ったが、高校の頃からこんなに距離が近かっただろうか、と思い起こして、それなりに近かった気がした。
最初の頃は対立ばかりして、お互いに一歩も引かずに睨み合うことが多かったし、互いに慣れてからは、荒北は意外に雑なボディランゲージを使ってくる少年だった。首に腕をかけて引き寄せられたり、照れ隠しや怒りの表明に羽交い絞めにされる度に、今のように焦った覚えがある。
相変わらず、人の気も知らないで、と嘆息しかけて、その思考に違和感を覚える。
今、彼に対してどんな気持ちでいるかと言えば、非常に複雑だ。
忘れたことに対する罪悪感と、不安。思い出せば懐かしさと共に、互いに幼かった十代の頃の感情が面映ゆい。この歳で久しぶりに接する高校時代の友人とどんな距離を取ればいいのか分からなくて落ち着かない。こんな気持ちを、十年前に抱いていたはずがないのだが。
確かに今、自分は十年前と同じ溜息を吐いていた。
気持ちはひどくあやふやで、手繰ろうとすればたちまちに霧散した。
持ち込んだ写真はそれなりに思い出話のきっかけになり、一度思い出せば東堂は荒北より詳細に物事を覚えていた。
そのうち、共通の記憶ではない、留学後にツールを全行程追いかけた時の写真を見せると、十代の頃と同じような顔でデータの入ったスマートフォンをかぶりつきで見始めたので、代わりに何か寄越せと言うと、ノートパソコンを渡された。
昔から携帯で撮り溜めていた画像は全部放り込んであると言われて、フォルダを開いてみれば取り込んだそのまま、何の整理もされていない画像が並んでいる。
フォルダ名を分かりやすく付けるという概念がないようで、何の意味もないらしい英数字のフォルダを片っ端から開いていくと、ごく最近のものらしいレースの画像や、大学時代の写真などが出てきて、年代すら並んでいない。
そして、どのフォルダでも共通しているのは。
「お前は猫追尾機能でもついてるのか」
「っせ」
そういえば猫好きな男だった。荒北は隠れていたつもりらしいが、校舎裏の隅で野良猫に餌をやっている姿を、部員は全員知っていた。待ち受けは大概、実家の愛犬で、その名前をメアドにしていたものだから、アキちゃんとは何者か、部内で激論が交わされたことを当人だけが知らない。
猫だらけの画像に混ざるのは、手書きのメモやバスの時刻表、居酒屋のメニューやさまざまな看板で、最初は何かと思ったが、どうやら荒北にとって写真とはメモの代わりらしい。
電車やバスの時刻表、訪れた地名や駅名、入った店の名前やそのメニュー、そういったものを文字で控える代わりに丸ごと画像で記録するのだ。
無精な、と思うが、慣れてくると画像の日付と並びで、どこで何をしたのか見えてくるのでなかなか面白い。記念撮影という概念がないらしいので、人物がほとんど入っていないのだけが惜しい。
「ん?」
人物写真がないと思った端から、急に人の姿が増えた。華やかさも増したのは、その人物が纏った可愛らしい色合いの服装のためだ。肩に届く長さの髪の女の子を写した画像はどれも少し遠目で、彼女がカメラの方を見ていないために顔立ちはよく分からない。
明らかに被写体が気づいていない隠し撮りに、東堂は表情を変えずに考え込んだ。
お客様のどんなことを知っても顔に出してはならない、と子供の頃から教え込まれてきているので、ポーカーフェイスは得意だ。今の仕事でも、チェックインの度に連れている「奥様」の顔が違かろうが、チェックアウト後の部屋の惨状を報告されようが、変わらぬ笑顔でお客様を迎え入れることができる東堂である。
高校時代のチームメイトがストーカー事件を起こしていた場合の対処を思い巡らせつつ、特に表情には反映させずに次の画像を送っていく。
特徴的なエメラルドグリーンの車体の一部が写りこんでいるために、荒北のアパートだと知れる部屋で料理を作る後ろ姿に、どうやら彼女らしいと確信してほっとする。その後振り返って笑った顔も続いたので、無許可の盗撮というわけでもなかったようだ。しかし、やはり正面から声をかけて撮らないようで、その後もほとんど横顔や、姿勢のいい後ろ姿を写しとった画像ばかりが並んで、唐突に絶えた。
写真の日付は七年前の夏から冬にかけて。先に見ていたその後の時期のフォルダに彼女が登場しないこと、今現在この部屋に女性の気配がなく、荒北の手に指輪がないことを考え合わせれば、この時期にのみ付き合って別れたと考えるのが妥当だろう。
からかってやろうと、東堂の携帯を手に選手の画像や撮っておいた動画を眺めている荒北を振り返って、何故か言葉に詰まった。
元彼女の画像の存在をすっかり失念して、自由に閲覧させた荒北に一声かければ、泡を食って狼狽してみせるだろうと分かっているのに、何故かその声が出ない。
「東堂、どーかした……って、おまっ! 何見てやがる!」
声を上げる前に気配に敏い荒北が顔を上げ、液晶に表示された画像を一目見て、予想通りに逆上した。この反応を見たかったはずなのに、面白がる間もなく、東堂のスマホを放り出してノートパソコンに飛びついた荒北が、躊躇うことなくフォルダごと証拠を削除する。
「あっ! 普通全部消すか!?」
「消し忘れてたんだよ!」
「せっかくいい写真だったのに!」
「何もよくねェ!」
どうにか画像を復旧できないかとマウスに手を伸ばす東堂と、させじと抱え込む荒北の攻防は、ほぼ十年前のやりあいと変わらない。
「犬猫写真以外は味も素っ気もないお前の写真の中で、唯一好きっぽさがだだ洩れてて良かったのに」
荒北の写真は必要な情報が含まれていればいいという、実用一点張りの撮り方なので、犬や猫のように可愛いから撮るという感情が見えたのが、一連の彼女の写真だけだったのだ。
「別に好きじゃねェよ」
「こら、荒北」
羽交い絞めにされているので頭突きを仕掛けると、どこに当たったのか、それなりにいい音がした。
「振られたのが辛いのは分かるが、情けない物言いをするな」
女性に失礼だろう、と叱ると、背後で深々と溜息を吐かれた。
「好きじゃなかったのがバレて振られたの」
「嘘吐け、好きじゃなくてあんな写真になるか」
「……背中が好きだったんだよ、好きな奴にちょっと似てて」
そういえば、後ろ姿を撮った写真ばかりだった。
「お前、本命の女と似てるって理由で付き合ったのか!? それは振られて当然だろう!」
「振られたよォ、振り向いたらガッカリすんの、フザケンナってぶん殴られて」
完全に自業自得で、同情の余地はないが。
高校時代、恋愛話をするような間柄ではなかったので、荒北の本命なる相手が非常に気になった。
当時はとにかく生活の全てが部活を中心に回っていたので、彼女を作る暇などなかったし、部を引退した後は受験勉強に精一杯で、怒涛の日々が過ぎたらもう卒業だった。東堂はファンクラブができるほど女子人気があったが、東堂以外のメンバーも有望な選手は皆それぞれモテていた。
荒北も、荒れていた頃の姿を皆が知っていたのと、乱暴な態度と口調で当初は女子に嫌われていたが、二年の途中、実力が認められて部内でも学校でも雰囲気が落ち着いてきた頃から、ひそかにモテていた。
前述の理由で女子と付き合う時間などなく、全て断っていたことまでは知っているが、荒北自身の恋愛事情は全く知らない。
「……で、その、本命とは?」
「別に何も」
意を決して触れてみたというのに、荒北の回答はあまりにも素っ気なかった。
「告白とかアプローチとか……」
「友達でもなかったけど、そこそこ話したり遊んだりはしてた。けど、オレには一言もなく留学。たぶん、昔から好きだった男のこと追いかけて行った。オレのことなんか忘れてんじゃなァい?」
写真の彼女とはその後吹っ切るつもりで付き合ってみて、結局駄目だったという声音はあっさりとしていたが、どこか無理に作っているのが分かってしまって、それだけまだ生々しい傷なのだと知る。
「人のことはいーから、お前は高校の写真でも見てろ」
勝手に関係ないフォルダを見るなと言われて、むっとする。
「どれが高校の時のフォルダだか分からないから、最初から見てるんだろう!」
「ア? っと……、コレだよ」
東堂の肩越しに荒北がマウスを操作し、カーソルが少し迷った後に開いたフォルダは確かに高校時代のものだった。
「名前で憶えてるのか?」
取り込んだ際に自動生成されたと思しき、英数字の羅列でできたフォルダ名をどう判別しているのか分からず問うと、ファイルの重さで分かると返事が返ってきたので、相互理解を諦める。そういえば昔からお互いの言っていることがさっぱり理解できず、よく喧嘩になった。
ここで何か言っても同じことになるだろうと諦めて、写真を眺めることに専念しようとするが、何を警戒しているのか、荒北がマウスの主導権を寄越そうとしない。
「ヤバいのがあったら消す」
「先に整理しとけ!」
雑なことをするからだ、と一悶着あるが、なんとなくそのまま並んで写真を眺める流れになった。荒北が勝手に写真を送り、東堂が早いとか戻れと文句を言うと悪態が返ってくる。
「お前、黒板そのまま写メるの、よく先生に怒られなかったな」
「怒られねー授業でだけやってたの」
メモ代わりの写真は相変わらずだったが、見知った風景のため、何をしていたのかがよく分かる。部室のホワイトボードに書かれた練習メニューが懐かしい。猫を追うカメラもこの頃から健在だ。新開が飼っていたうさぎもしばしば混ざっていて、どうやら時々一緒に世話をしていたものらしい。たまに新開の姿も一緒に写りこんでいた。ほとんど見切れている辺り、動物にしか興味がないのが明白だ。
「あ、今の、戻れ!」
舌打ちが聞こえたが、要望は通って送られかけていた画像が前に戻る。
これも、猫写真の一つなのだろう。日当たりのいい場所で丸くなって眠っている猫は、エースクライマーの膝を布団代わりにしており、動くに動けずに困っている東堂の顔が面白かったのか、珍しくしっかりと人物が写されていた。
カメラを向けられれば決め顔で応じるのが東堂の常だったが、状況と相手が荒北だったからだろう。作っていない表情は珍しかった。
「オレの手元には、荒北の写真全然なかったのに、ズルい!」
「撮ンなかったんだろ」
「撮ろうとすると、お前が逃げたり威嚇したり実力行使で削除したんだ!」
それでも新開は写真嫌いだった荒北の姿をかなりの枚数、記録に残しているので、執念の差かもしれない。
「あ、また!」
しばらく猫とメモ写真が続いた後に、また東堂の姿があった。今度は猫を抱いてはいない。
少し遠景で取った写真は、全身が写されていて表情はあまりよく分からない。ただ、その己の姿にどこか違和感を覚えた。
「アー、これ、お前が怪我してた頃の写真」
「鎖骨やった時か」
先日、新開から二人の写った画像を送られて物議を醸し出したのと同時期のものだ。
「ちょっと、姿勢がおかしいか?」
「肩動かせなかったかンな」
違和感は、怪我で少し歪んだ己の姿勢だったと気付く。
「ほら、こっちもちょっと斜めってる」
「ああ、右側庇ってるな」
写真を繰っていくと、怪我をしていた期間の東堂の写真がぽろぽろと出てくる。鎖骨の骨折は見た目ではあまりよく分からないのだが、姿勢一つで回復が目に見える。秋口には完全に回復して、右腕を高々と上げてカメラ目線で笑っていた。
「……経過観察記録?」
「お前、痛いとか辛いとか、何も自己申告しねェんだもん、普段どーでもいーことはウッセェくせに」
「心配してたのか?」
「ッセ、誰が」
十代の頃のように毒づいた荒北に軽く笑う。口で何と言おうが写真に心配が滲んでいる。東堂に気付かれないようにこっそり撮ったのだろう、ほとんどカメラの方を向いていない後ろ姿ばかりの写真だが、たまにカメラを向いた表情はお決まりの顔をしておらず、余裕がない。大事なシーズンを怪我で不意にして焦っていたのだろう。
確か、この時期は新開も突然休部を宣言してひどく塞ぎ込んでいて、学年で一人インターハイ出場メンバーに選ばれた福富も、どこか余裕無くがむしゃらに練習に打ち込んでいた。
皆、自分のことで手一杯だったあの時期、荒北はどんな気持ちで仲間のことを見ていたのだろう、と今更考える間に、また猫とうさぎとメモ写真に戻った画像が荒北の手で勝手に繰られていく。
少しだけ変わったのは、東堂の写真が混ざるようになったことだろうか。
もう怪我は完全に直った時期だろうに、東堂を記録しておく癖でもついたのだろうか。被写体に断って撮るという発想がない荒北特有の距離感で向けられたレンズに、自分は全く気付いておらず、横顔や後ろ姿がほとんどだ。
「ああ、さっきの彼女の写真に似てるのか」
既視感の理由に気付いてそのまま口に出すと、一定の速度で送られていた画像が止まった。ちょうど、どこかの山頂で佇んでいた後ろ姿の写真で止まって、その真っ直ぐに伸びた背や肩に付く程度の長さの黒髪がその印象を強めた。
どこかの山頂の展望台、抜けるような青い夏の空、白いリドレーを片手で支えて立つ姿を、荒北はこんな風に見ていたのだと、初めて知った。
まるで、その時間を大事に切り取られたような。
「お前、さてはオレのこと好きだったな?」
笑ってみせると、ち、と舌打ちした荒北がマウスを操作し、その画像を削除しようとして、一瞬躊躇した。
削除の意志を確認するウィンドウの上をカーソルが右に動いてキャンセルし、次の画像に切り替える。
「…………えっと」
つい先程、元彼女の写真をフォルダごと削除した男が、一枚の画像を惜しんだように思えて、東堂は戸惑った。
福富や新開の画像も含まれた、高校時代の思い出の時期のフォルダごと消せないというなら納得はいく。しかし、東堂の知る荒北なら、ろくに顔も写っていない東堂の後ろ姿など、何の躊躇もなく消すはずだった。
本命に、後ろ姿が似ていたと言った彼女の写真と重なる画像。友達でもないのに、話したり遊んだりしていた相手は、荒北に一言も告げずに留学した。
「お前の本命って、オレだったのか?」
この妙に符合する連想を笑い飛ばしてしまおうと、茶化すように明るい声を上げると、右隣に座っていた荒北が深々と嘆息してパソコンを終了させ、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと訂正しとく。オレがずっと好きだった奴は、仲間の誰にも何も言わずにライバル追っかけて留学して、そのままずっと帰ってこなかった。外国でオレのことなんかすっかり忘れてるどころか、最近帰ってきて久し振りに会って、オレのことだけ何一つ覚えてなかったよ」
笑い損ねた表情は、先の再会時に、お前のことなど知らないと切って捨てた時と同じ顔だ。
だから。
あんなに傷ついた顔をしていたのか、とろくに動いていない頭が、妙なところで納得した。
立ち上がった荒北は、東堂から逃げるように半歩退いた。
「あらき……」
「イイヨ」
呼びかけを遮って、何を許可されたかが分からず、東堂は呆然と荒北を見上げた。
「忘れて、イイヨ」
告げられた言葉に、ぐらりと視界が揺れた。こみあげてきた吐き気に嘔吐きかけて、口元を押さえて肩を上下させると、焦ったように差し出された荒北の手を咄嗟に振り払う。
その手を叩き落とした瞬間、こみあげてきたのは吐き気ではなく、激怒だったことに気づいた。
この男はまた、そんなことを言う。
