ロストエイト - 2/10

02
 土曜日の夕刻、東堂は文庫本を繰りながら電車の到着を待っていた。
 アナウンス通りに車両が滑り込んできて、降りる乗客を待って読みかけのページに指を挟んで開いた扉の中に足を踏み入れ、端に寄るとまた本を開く。紙面の外で、ベビーカーらしき車輪が入ってこようとしているのが目に入ったが、車内は十分空いていたので問題はない。場所を譲る必要もないだろうと判断し、中断していた文字を追おうとした瞬間、不穏な動きに視線を引き戻された。
 がくん、とベビーカーの車輪の一つが車両とホームの間の隙間に落ち込んで、母親らしき若い女が必死で引き抜こうとしていた。慌てて駆け寄って手を貸すが、その間に発車ベルが鳴り出した。
「っぶねェ!」
 閉まりかけたドアに焦ったところで、ホームの向こうから事態に気づいて駆けつけてきた男が強引に手を差し入れて無理矢理両扉を広げた。その隙にベビーカーを引き出し母親ごと電車内に引き込むが、勢い余って自分の体勢が崩れた。母子と入れ替わるようにホームに向かって転び出て、半身を挟まれかけたところを、ドアを支えていた男が東堂の腕を掴んで引き抜いた。
 東堂のすぐ後ろでぴしゃりとドアが閉まり、電車が動き出す。振り返ると、おろおろとしながら頭を下げる母親の姿がドア越しに見えた。
 ほっと一息吐き出して、体重のほとんどを他人に預けている体勢に気づいて慌てて身を起こす。
「すみませ……」
「東堂……?」
 名を呼ばれて、驚いて背後を降り仰ぐと、予想外の顔がそこにあった。
 この土曜に出勤だったのか、スーツ姿が先日と異なるが、それほど印象は変わらない。
「…………アラキタ」
 二週間前、高校時代の部活の同窓会で顔も姿も存在も忘れて果てた相手だったが、この短い期間では忘れなかったようだ。同じことを彼も思ったようで、苦笑いが向けられた。
「今度は覚えてたァ?」
 前回はひどく癇にさわった語尾を伸ばす口調は変わらなかったが、どこか寂しそうな表情のためか、反発はなかった。代わりに罪悪感に近い感情に身の置き所がなくなって、せめて身を離そうとするが、何故かその動きを押しとどめられた。
「東堂、靴は?」
「え?」
 言われて足下を見下ろすと、左足の靴がない。今の騒ぎの間に脱げてしまったようだが、周囲を見回しても革靴が転がっている様子はない。
「線路には落ちてねェな、電車の中か」
「とんだシンデレラだな。このオレの美貌に魅せられた誰かが靴を届けにくるのを待ってもいいが、先程の彼女が持ってきてくれた場合、おそらく人妻だな……」
「お前、ほんっと変わらねェな……」
 ロマンスを発展させるには障害が多いと嘯けば、げんなりとした口調で荒北がぼやきかけ、ふと表情を濁らせた。
 その曇った表情の理由は明白で、東堂の言動を昔と変わらないと知る男のことを、東堂は覚えていない。本当なら、今の台詞に東堂は軽口を返したはずだ。新開なら調子のよい合いの手に、更に助長した長広舌を振るったはずで、福富ならば生真面目で少しずれた反応を、丸め込むように言葉を重ねた。この男相手には、どんな言葉を返すのが常だったのだろうか。
 どうして、忘れたのだろう。
 二週間前の飲み会の後、酷い体調不良に翌日はろくに身動きもできなかった。
 友人や後輩達から心配のメールが届いて、前日の出来事が夢でなかったと実感した。自分は、薄情にも友達を一人、完全に忘れさったのだ。
 新開の説明を聞く限り、うっかり忘れられるような関係ではなかった。そもそも東堂は対人関係における記憶力には自信がある。同じ部で三年間一緒に過ごした人間の名を、存在を、きれいさっぱり忘れるはずがないのだ。
 思い返してみれば、高校最後の年のインターハイのメンバーの記憶は東堂を含めた五人分しかなく、今でも思い出せる当時のオーダーを反芻すれば、絶対に存在したはずのアシストを務めたオールラウンダーの記憶が欠けている。
 ところどころで油性ペンで乱暴に塗りつぶしたように、欠落した記憶があることを自覚するには、酷い頭痛と吐き気を伴った。
 これはいわゆる記憶喪失なのだと理解して、少し悩んで東堂は思考を放棄した。高校時代の同級生のことが思い出せないからといって、日常生活に何の支障もない。
 考えようとすれば吐き気がこみ上げてきて体調が悪化し、むしろ関わる方が日常に差し支えたので、最初の一日以降、この件については思考を停止していた。
 自転車部の集まりの時さえ気を付ければ、もう人生で関わることもないだろうという判断だったのだが、妙なところで出会ってしまった。
 今日は、この顔を見ていても吐き気はしないな、と眺めていると、男の顔が歪んだ。
 舌打ちが聞こえたかと思うと、唐突な浮遊感と共に靴を履いていた方の足も宙に浮いた。
「おい!?」
「そこのベンチまでだからァ」
 問いたかったのはどこに行くのかではなく、何をするのかだったのだが、成人男子の体重を担ぎ上げて面倒そうな顔で応じた荒北は、有無を言わさず大股にホームを過ぎって東堂をベンチの上に降ろした。
「あ、ありがとう……?」
「ァッテロ」
 耳慣れない言葉に戸惑うが、気にせず東堂をベンチに残して踵を返した荒北は、駅員に近づいて何か話している。こちらを指し示しているところを見るに、靴のことを言いに行ってくれたようだ。もしかして先程の謎の言語は「待ってろ」と言ったのかと、ようやく理解する。
「いやいやいやいや」
 おかしいだろう、と思わず独りごちる。
 子供ではあるまいし、そのくらい自分でできる。今の騒ぎで怪我をしたのだったら、その親切に甘えないでもないが、これは親切というより過保護というのではないかと思う。
「先の駅で車両確認して残ってたら、靴拾っといてくれるってェ」
 言いながら戻ってきた男を、思わずまじまじと見上げると、また大きく顔をしかめる。
「ナニ?」
「いや、有難いが、そのくらい自分でできるんだが」
「やってやんねェとお前、靴下が汚れるとか、俺が優しくないとかギャーギャー言うだろが」
「言うか!」
 どんな認識だ、と反駁しかけてはたと首を捻る。
 自分の記憶から欠けた高校の三年間、互いの関係がどんなものだったのかを、東堂は知らない。
「アラキタは、オレの下僕だったのか?」
「はったおすぞ、テメェ」
 疑問をそのまま口にすると、チンピラのように凄まれ、東堂は肩をすくめて見せた。
「ほら、泉田に銅橋が服従してただろ」
「アー、あれは……なァ」
 何とも言い難い表情をした荒北に、これは同じ記憶を共有していたと理解する。
 入学した当初は乱暴者の問題児だった銅橋を、次期部長候補だった泉田に任せたところ、すっかり懐いておとなしくなったのはよかったが、東堂達が卒業する頃には何とも言い難い雰囲気になっていた二人である。
「スプリンターは基本言語が筋肉で、よく分からんからなあ」
「いや、クライマーも不思議チャンしかいねェよ」
「ああ、確かに黒田は独特の感性の持ち主だったな」
「お前と真波の話だヨ! あと、俺らの代じゃねェけど、新開の弟。お前らと黒田を一緒にしてやンな、かわいそうだからァ!」
 なるほど、先週の酒の席で幹事役だった黒田が随分と懐いていると思ったが、先輩として随分可愛がっていたらしい。そういえば、黒田は最後の学年にはアシストとしてオールラウンダーに転向していた。
「お前、黒田の描いた絵を見たことないのか。文化祭の時にカフェボード書かせたら、毛を逆立てた牛のようなもの描いてただろ」
「アー、なんかみんなが面白がって、そのままメニューとかチラシにも載せたヤツ。あれ、細長い猫ダロ?」
「いや、本人曰く、狼だ」
 その表情で、後輩の感性が独特であるという主張に同意を得たものと判断し、重々しくうなずいてみせてから、東堂はふと首を捻った。
 喋りやすい。
 先日の相手の言葉を聞くだけで増した不快感は何だったのか、後輩をだしにした会話は気楽だった。
 こうやって、くだらない軽口を叩き合う仲だったのかもしれない。
 どうにも頼りない己の記憶に気を取られている間に、ベンチの前から離れて再度駅員と何やら話をしていた荒北が戻ってきた。
「……聞いてるゥ?」
「え?」
 聞いていなかったと知ると、いい加減お馴染みになってきたしかめっ面で嘆息する。
「ゥツ、ンエキサキデ、ズカッテクレルッテェ、ッテクルカラァッテロ」
 発声の最初を省略して語尾を伸ばす癖のあるらしい荒北の台詞は、非常に聞き取りづらい。仕事で外国人客を相手にすることの多い東堂の耳が、勝手に別の言語として聞き取ろうとするので、余計に混乱する。
『靴、三駅先で預かってくれてるって、取ってくるから待ってろ』
 頭の中で意味の通る音に置き換えて、その内容を理解するのに少々時間を要して、対応が遅れた。そんなことはしなくていい、と止める前に、閉まりかけた地下鉄のドアに細身が吸い込まれていた。
 不要だと伝えようにも、東堂は彼の携帯番号もメールアドレスも知らない。
「…………親切、なのか?」
 態度と表情に反して、心底善良でお人好しなのだろうか、と悩むが、やはりいくらなんでも度が過ぎている気がする。
 それとも、東堂が忘れただけで、これが普通だったのだろうか。
 抜け落ちた記憶を辿ることをあっさりと諦めた東堂は、携帯を取り出して高校時代の友人に一言問いかけた。
『荒北ってお人好しだったか?』
『どっちかっていうと、人は悪い方。でもイイ奴』
 レスポンスは大変早かったが、今一つ掴みどころのない返事が返ってくる。
 少し悩んでから、今の状況をかいつまんで説明して送ると、『通常営業』『いつも通り』『尽八限定』『箱学名物』『運び屋狼』『ツンデレ健在』『変わりないようで何より』とバラバラと単語が立て続けに送られてきて閉口する。
『身体、大丈夫か?』
 明らかに面白がっていた連投の後、先日の東堂の不調に思い至ったらしい。気遣う問いが送られてきて、今日は大丈夫だと返せば、少し丁寧な説明が返ってきた。
『靖友は誤解されやすいタイプだけど、慣れれば面倒見よくて優しかった。下級生には怖がられてたけど、なんだかんだと懐かれてた。だけど誰でも面倒見てたわけじゃないし、ワガママ言って聞いてもらえたのは、寿一と尽八とオレくらいかな。あと、真波』
「…………真波」
 同学年の仲の良かったらしい三人はともかく、二学年下で先輩相手にワガママを振り回していたとは、実に彼らしい。
 のほほんとしていた天然極まりない後輩が、ふわふわと無茶を言って、あの男に怒鳴られても気にせず、最終的に根負けした荒北が要望を聞いてやる図が容易に想像できる。
 実際に目にしていた情景なのかもしれない。
 福富の場合はきっとロードバイクのことで無茶なオーダーを言って、それに対して盛大に文句を言いながらも全て遂行した。新開に対しては、生活全般だろうか。マイペースに我が道を行く新開に甘えられ、悪態を吐きつつ突き放しはしない。
 ただの想像なのか、よく見知っていたのか、目に見えるような過去の情景の中で、自分のケースだけが思い浮かばない。
『もし、高校時代にオレが今みたいに靴を失くしたら、荒北は取りに行ったか?』
 投げかけてみた問いに、少し時間を置いて長い返事が返ってきた。
『一年の頃なら取りに行かない。靖友が馬鹿にして、尽八が怒ってケンカになって、誰かが止めないとずっと言い合ってた。二年の頃なら尽八が取ってこいってワガママ言って、靖友がフザケンナって怒って超ケンカして、最終的に負けたほうが靴取りに行った。三年の時ならケンカすんのも面倒って顔で、何も言わずに靖友が取りに行った。尽八は当たり前って顔して受け取って、その態度に靖友が怒ってケンカした』
「喧嘩ばっかりか!」
 思わず携帯片手に突っ込むが、喧嘩相手だったとは皆が証言していることである。
 要するに、彼は高校生の頃の感覚の延長で二十代も後半の男を抱き運び、失くした靴を取りに行ったらしい。
 どう考えても、一般的な男子高校生の友人関係ではない気がする。
『もしかして、荒北はオレの信者だったのか?』
 妙に甲斐甲斐しい態度を、先程は下僕と称して荒北を怒らせたが、もう一つ考えられるとすれば、山神の異名を持っていた東堂の信奉者であった場合である。
 基本的には女子の間でご当地アイドル的な人気を博していた東堂だが、異名が奇妙な作用をしたのか、高校の最後の頃には学年性別を問わず、どこか狂信的な態度のファンもいたのは事実だ。
 それを鑑みての質問だったが、新開から返ってきたのは爆笑を意味するwの小文字の連なる返信で、どうやら全くの的外れだったようだ。
 今どこにいるのか知らないが、笑い転げていたと思しき新開が一息ついたのか、また立て続けに長文を写真と一緒に送ってくる。
 本当に覚えていないのだから仕方ないだろうと思いながら、友人が次々と送ってくる文と画像を確認していくにつれ、東堂の顔が渋くなった。
「ナニ、ブサイクな顔してんのォ?」
 いつの間にか目の前に立っていた荒北が手にしていた革靴を放り出し、東堂は彼が行って帰ってくるまでの時間で随分とメールの履歴の溜まったスマートフォンを片手に、じろりと荒北を見上げた。
「ナニ?」
 やはり、目の前にすると、下僕だの信者だのといった言葉が全く当てはまらないのがよく分かる態度の悪さで、友人の主張する「ツンデレ」なる属性が当てはまるのかも疑わしい。
「お前、オレの何だったんだ?」
 まっすぐに問うと、一瞬その表情が寂しげに揺れた。
「お前は忘れたみたいだし、どーでもいいけど。ただの元チームメイト」
 先週と違って少し予備知識があるので、これが強がりなのも、言葉と表情の選び方が拙いだけなのも分かるようになったが。
 深々と嘆息して、東堂は半眼を相手に向けた。
「そうか、お前は十年も前のただのチームメイト相手が落とした靴を、電車乗ってまで取りに行ってやるのか。オレだったら、付き合いたての彼女にならするかもな」
「…………」
 指摘されて、初めて己の行動に違和感を覚えたものらしい。
「いや、ちょっと、待て、違う、違うからァ」
 焦って否定した後に、改めて己の行動を説明しようとして、荒北は片手で額を抑えた。
「…………いや、もういいや」
「諦めるな! 頑張って言い訳しろ!」
 明らかに途中で面倒になったと分かる投げ出し方に、思わず声を高めると、荒北は渋い顔をした。
「でも、お前覚えてねェんだろ? なら、どーでもいいだろ」
「よくない。というか、思い出さないと不安なんだ」
 付け足した一言に、投げやりだった荒北の表情が変化する。
 常に不機嫌で怠そうな態度の印象がマイナスに作用しているが、気遣うような柔らかい表情をすると、少し印象が変わる。
 表面上の態度の悪さに最初は怖がられるが、根は優しい。面倒見は良いが、その相手は選ぶ。そう言った新開の人物評は正しいのだろう。
 そして、東堂は優しくされる立場だったのだ。
「一応、お前からの話を聞いておきたいんだ」
「……ナニ?」
 尖った響きの取れた声で問われ、東堂はもう一度嘆息した。
「お前、高校時代にオレを風呂に入れて、自分の手で飯食わせて、四六時中ついて回って他の男が近づいたら歯を剥いて蹴散らしてたって本当か?」
「ハァッ!?」
 穏やかさをかなぐり捨てて、跳ね上がった声音と共に、表情がたちまち苦々しいものに塗り替わる。
「ッザケンナ! ナニ、適当なこと……!」
「オレにはそんな記憶が一切ないんだが」
「オレにだってねェよ!」
「写真がなければ、オレも新開の悪趣味な冗談だと思うんだがな」
 面白おかしく法螺を吹いているとしか思えないエピソードだったが、証拠として送られてきた写真を荒北に突きつけると、スマートフォンをひったくるように奪った荒北が目を剥いた。
「ンだよコレ!?」
「オレが説明してほしい」
 風呂場にはさすがにカメラを持ち込めなかったというが、寮の食堂で少し遠くから撮ったらしい写真には、どちらも何となく不機嫌そうな顔で食事を食べさせている姿がしっかりと納められていた。もう一枚の写真は、東堂の顔が画面の大半を占めていて全体の状況は分かりにくいが、どうやら男子がもう一人の男子を怒って締め上げているように見えた。顔のほとんどが見切れているが、体格的に荒北だと思われる少年の背に庇われるようにして、涙目でその腕に縋っているのが自分となると、記憶がないことが幸運のような気もしたが、不安はいや増す。
 東堂と違って記憶があるはずの荒北も、ものすごい形相で写真を睨みつけているので、異論があるのなら是非聞きたい。
「荒北」
「違う、覚えてない、知らねェ!」
 まず喚き散らした荒北が、ふと考えこむ顔になった。
 やっぱりこれが日常だったと言われたら、どうしたものかと一瞬身構えるが、何か思い当ったのかたちまち怒りに染め上げられる顔を黙って眺める。表情の振り幅の大きな男だ、と知られたらまた怒り出しそうなことを考えつつ、説明を待っていると、怒鳴り散らす寸前で東堂の側の記憶の不備に思い至ったようで、発せられた声音は柔らかかった。
「東堂さァ、二年の時、怪我したの覚えてるか?」
「……夏前に落車した時のことか?」
 怪我と言われてすぐ思い当たるのは、高校二年の負傷だ。練習中に落車に巻き込まれて鎖骨を折った。回復するまでに三か月近くを要し、シーズン中の大事な時期を逃し、インターハイ出場の夢も潰えた苦い記憶だ。
「お前、しばらく利き手使えなくて、すぐ左手で何でもするようになったけど。その前にもたもた飯食ってた時の写真。つーか、食わせてたの新開。オレはこの時たまたま、一瞬、ほんのちょっとだけ手伝っただけだからァ」
 念入りに主張する荒北からスマートフォンを取り返して、改めて眺めやる。
 確かに、その頃の写真のように思えるし、二人して微妙な表情をしているのも納得は行く。
「……新開が食べさせてくれた記憶はあるな」
 荒北が言うように、大概のことはすぐ左手でこなすようになったから、本当に最初の頃、食事に難儀していたら食べさせてやると新開が言い出して、特に何も考えずにその好意と冗談を受け入れた記憶はある。
 それを見ていた福富が真顔で自分もやると言い出し、困惑しつつも食べさせてもらったことも思い出して、馬鹿ばかりやっていた時代だったと遠い目をする。荒北のそれも悪ノリの一環とすれば特に不思議はない。
「こっちの写真は?」
「同じ頃っぽいな……、あー」
 何やら思い出したらしい荒北が、何とも言い難い表情になる。続けろ、と目で促すと渋々と口を開く。
「この時の怪我、見た目であんまし分かンねェから、お前結構人にぶつかられたりしてたんだよ。で、こいつは怪我してんの知ってたくせに、冗談のつもりだか知らねェけどタックル仕掛けてきて、オレがキレた」
 そんなこともあった、と思い出す。
 手術はしなかったので、ただ固定して安静に生活するしかなかったのだが、服を着てしまうと怪我の有無が分からないため、怪我のことを知らない他者に不用意に肩を叩かれたりぶつかられては悶絶していた。確か、寮生の一人が妙にはしゃいでぶつかってきて、隣にいた人物が本気で怒ったことが、ある。
「……お前か」
 庇ってくれた人物の顔も名前も思い出せないということは、つまり彼だったのだろう。
 怪しげな写真の二枚に説明がついたところで、気になるのは写真の存在しないもう一つのエピソードである。
「で、その怪我してた間に、オレのこと風呂に入れたりしてないだろうな?」
「しねェよ」
 否定してから、あ、と上がった声が非常に不安だ。
「……したのか?」
「や……、違う、アレは違う。怪我の時なら、お前が頭洗いたいってスッゲェうるさくて、髪なら洗った」
 思い出した、と言うが、そう後出しのように思い出すくらいなら、ずっと忘れていてくれないものかと額を押さえる。
 深く息を吐き出した後、東堂は放り出されていた靴を履いて立ち上がり、少し上背のある同窓生の顔をまっすぐに見つめた。
「オレ、本当にお前のことが思い出せないんだ。嘘みたいな話だが、記憶喪失なんだと、思う」
「……フクちゃんと新開から聞いた。嘘じゃねェから、怒るなって」
 諦めた顔でうなずかれれば、ずきりと胸が痛んだ。
 きっと東堂の記憶の欠落について、福富と新開が一生懸命フォローしてくれたのだろう。今日の荒北は最初から、東堂に覚えられていないことを前提に話をしていてくれていた。
 なるほど、優しい。
「オレ、お前のことを思い出したい」
 新開とやりとりしながら考えていたことを伝えると、くしゃり、と荒北の顔が歪んだ。
 その顔にどれだけ彼を傷つけたのか、今更ながらに思い知る。
 学生時代のチームメイトなど、関係が途切れたところで大したことではないだろうと、安易に考えたのが間違いだった。反りが合わずに喧嘩ばかりしていたというから、代表メンバー同士とは言え、あまり仲が良くなかったのだと思っていたが、そんなことはない。
 福富や新開と同じくらい、大事な仲間だった。
「だから、時間があるときに色々聞かせてくれると嬉しいんだが」
「それは構わねェけど」
「なんせ、新開に聞くと、どうにも事実が歪曲されている気がしてな」
「…………ちょっと、もっかい携帯見せろ」
 新開が面白おかしく吹聴してくれた高校時代のエピソードの画面を開いて渡すと、また唸り出しそうな形相になる。画面から顔を上げた荒北は、携帯を差し出しながら低めた声で問うてきた。
「東堂ォ、今日、これから暇か?」
「ああ、もう家に帰るだけだったから」
 明日は仕事も休みで、酒が入っても大丈夫だと言質をとると、荒北はおもむろに自分の携帯を取り出した。
 店でも予約するのかと思ったが、呼び出し先は違った。
「新開テメェ、今すぐ出てこい」
 相手の都合も聞かずに呼び出す辺り、非常に怒っている。
「ッセェ! 言っていい冗談と悪い冗談があンだろォが! アァ? いいわけねェだろうが! テメェは東堂の友達ダロ! ちげェよ! 面白がって嘘抜かしてんじゃねェって言ってんだよ! いや嘘八百だろォが! ねェよ! やってねェ! ……覚えてねェよ!」
 実に柄の悪いチンピラのようだと眺める。新開の昔と変わらない飄々とした言動に翻弄されているのか、埒があかないと見て取って、東堂はメールのやりとりを終えた携帯をしまうと荒北の手から通話中の携帯を取り上げる。
「隼人」
『ああ、尽八。また靖友と仲良くなるんだな』
「そのつもりだが、旧交を温めるついでにお前も来い。フクはすぐ来るそうだ。まあ、嫌ならいいが」
 一方的に言いたいことを告げて通話を切り、荒北に返す。
「新開と真面目にやりあうと煙に巻かれるに決まってるだろう。あいつは誰の味方というより、面白い方につくぞ」
「マジで、福ちゃん呼んだの?」
「新開はどうせ、からかってただけで来る気だったろうし、それなら福富も呼ばないと拗ねるだろう。前にも……」
 言いかけて、一瞬視界が暗くなった。
「東堂?」
 暗い穴に落ち込むような感覚に、言葉を途切れさせた東堂を不審げに荒北が見つめてくるのに首を振って、纏わりつく目眩を振り払う。
「いや、それにほら、新開は面白がって勝手なことを言うし、お前の記憶力もどうも怪しい気がするからな。正確なジャッジをする人間が必要だ」
 少し前後の繋がりが怪しい台詞になったが、荒北がそれに言及する前に電話が鳴った。今から家を出るという新開からの電話に続いて、もう家を出たはいいもののどこに向かえばいいのかという福富からのメールが東堂の携帯に入る。
 それぞれの応対に追われる間に、違和感は霧散していた。