Lesson 6
全体の挨拶の後、班に分かれて本日のメニューを再確認、ストレッチをして校外に練習に出ようとしたその時に、そこの自転車部、ちょっと手伝ってくれ、と通りすがりの教師に声をかけられれば断るわけにもいかなかった。言われるまま重い教材を持って広い学園敷地内を移動させ、駄賃代わりにジュースが奢られた。
適当に買ってこい、と使い走らされたのは一年の黒田で、まだ戻っていなかった数名の分は注文が聞けなかったので、適当に炭酸飲料を買う。抱えて戻った十本ほどの缶やペットボトルを配っているうちに、残りのメンバーも戻ってきた。
「東堂さん、コーラで良かったですか?」
「ああ、ありがとう」
礼を言って汗をかいた赤い缶を受け取った東堂だったが、携帯を弄るのに集中していて、そのまま背中のポケットに入れてしまう。
「邪魔じゃないっすか?」
自転車競技用のジャージのポケットは色々携帯できるように大きく深く作ってあるので、缶ジュースくらいは入るが、中身の入った三五〇mlの缶はさすがに重い。
「確かに、ちょっとみっともないな」
黒田の指摘とは違う伸びたジャージを気にして、ポケットから引っ張り出すが、相変わらずその意識は携帯に向いていて、コーラに口を付ける様子はない。とっとと飲み干して、班のリーダーである東堂が号令をかけてくれないと、本来とっくに出発しているはずだった練習に出られないのだが、分かっているのだろうか。
「ナニお前らサボってんのォ?」
ひょいと横手から赤い缶を取り上げたのは、同じ自転車部競技部の荒北だ。隣に立つのは主将の福富で、二人で揃っているということは、監督と打ち合わせでもしてきたのだろう。何か言い出す前に福富のジャージのポケットで携帯が鳴った。短く一度しか鳴らなかったので、おそらくはメールの通知だろう。
荒北の登場には反応せずに携帯を操作し続けていた東堂が、その音に振り返って福富を認め、手にしていた携帯を軽く振ってみせた。
「今メールしたが、ちょっと所用を手伝っていて、F班まだ出発していない。練習を少し巻くが、戻りが予定より二十分ほど遅れる見込みだ」
ポケットから引っ張り出した携帯を開いていた福富がこくりとうなずく。
「今届いた」
「返信はしなくていいぞ?」
口頭でやりとりをしたにも関わらず、律儀に返信しようとしていた主将を制する間合いはさすがだ。遊んでいるのかと思えば、ちゃんと班のリーダーとしての仕事をしていたらしい。
「ってか、いいもん飲んでんじゃナァイ」
「先生のおごりだ。ベプシじゃないぞ」
奪ったまま缶を返さない荒北に、携帯をしまいながら彼が愛飲している銘柄でないことを東堂が指摘するが、意に介さず勝手にプルタブを開ける。
「マァ我慢するから、一口チョーダイ?」
「もらう立場で我慢すると言ったか」
荒北の言い草に口角を下げた東堂の反応を気にせず、荒北は開封した缶を呷った。
「はい、ゴチソーサン」
「お前……! それは一口じゃない! 一気と言うんだ!」
空き缶を東堂の頭の上に載せてぬけぬけと言い放った荒北に、一口も飲まなかった東堂が肩を震わせる。
その後繰り広げられた馬鹿馬鹿しい口論を右から左に流しながら、クライマーチームが練習に出られるのはいつだろうと黒田は空を仰いだ。
「あー、それで靖友が尽八にプリン献上したのか」
部活が終わった後に、荒北の前に仁王立ちになって何か言いかけた東堂に、何も言わずに部の冷蔵庫から取り出したプリンのカップを荒北が突き付け、特に何もコメントせずに東堂がそれを受け入れるという、事情を知らない物には意味不明の一幕があり、新開に問われた黒田がおそらくコーラの一件に対する詫びと代替品だろうと説明したところである。
部の冷蔵庫は私用厳禁のはずだが、既に三年は引退した今、荒北のすることに異を唱えられる者は数少ないし、それによって東堂のマシンガントークが回避されたとあっては、立派に部のためであるとも言える。そもそも、勝手に人のものを全部飲むのが悪いのだが。
そんな軽口を叩くと、そうじゃないと新開が笑った。
「尽八、炭酸苦手なんだよ」
「え?」
「時間かければ飲めるみたいだけど、ペットボトルじゃなくて缶のコーラで、練習時間押してたんだろ? 靖友は代わりに飲んでやった、ってのが正解」
「ええっ?」
「尽八、子供っぽいとか散々からかわれたせいで、人からもらう時に、炭酸飲めないって言わないんだよな。持て余してたら、大体オレか靖友が残り飲んだり、炭酸ないやつと交換してる」
今回はその交換の変形だと、ベンチでプリンを食べている東堂と、その横に座って仏頂面でいつもの青缶のコーラを呷っている荒北に、新開が指で作った銃口を向ける。
「……それ、いつもなんすか?」
「俺が気付く前に、大体靖友が飲んでやってるな」
「じゃあ、何で喧嘩すんですか!」
互いに承知してのことなら、どうして勝手に飲んだ飲まないと喧嘩になるのだ、と巻き込まれた黒田が思わず声を高めると、新開が飄々と笑った。
「あいつらの喧嘩は、趣味」
「何すか、その犬も食わない感じ!」
傍迷惑な、と上級生に対する遠慮も忘れて突っ込むと、新開がにやにや笑いを更に深めた。
「ちなみに、喧嘩しないバージョンもスゲー面白いから、今度見ててみ?」
「……あ」
新開からそんなことを聞かされていたので、東堂の手に炭酸飲料があると、つい目に留まるようになった。
ファンの女子生徒から応援の言葉と共に差し入れられたのはレモン果汁の炭酸飲料で、愛想良く受け取った東堂がどうするのかと、なんとはなしに黒田が眺めていると、ごく当たり前に蓋を開けて口を付けていた。
「……飲んでんじゃん」
その後も同学年のチームメイト達と雑誌を囲んでふざけ合いながら時々ペットボトルを呷っていたが、よく見るとあまり中身が減っていないことに気がついて、なるほど、炭酸が苦手らしいと改めて納得する。
そのうち見かねた新開か荒北が、その手からボトルを奪って中身を飲み干すのだろう。
そう思ったところで、タイミングよく荒北が部室に戻ってきた。またこの前のように勝手に奪って喧嘩になるのだろうと察して、さりげなく噴火直前の二人から距離を取ろうとするが、荒北が自販機で買ってきたらしいペットボトルを手にしているのに気づく。
さすがに自分の飲み物もあるのに、人の分まで飲んだりはしないだろう。
避難しなくても大丈夫だろうか、と様子を窺いながら、ふと違和感を覚える。
緑色のペットボトルはおそらく緑茶だろうが、黒田は荒北がベプシ以外の飲み物を買っているのを初めて見た気がする。
珍しい、とその背中を見送って、荒北が細身の身体を部員達の輪の中に滑り込ませるのを見る。騒いでいる東堂をずらして強引に空けた空間に腰を下ろした荒北に、邪魔扱いされた東堂が文句を付けていたが、すぐに話題が自転車雑誌の記事に移ったようで、頭を突き合わせて何やら言い合っている。これもまた、どちらかが口を滑らせるとたちまち口論に発展するのだろう。
二人の喧嘩は趣味だと言い切った新開の台詞が思い起こされて、思わず嘆息する。関わるだけ無駄だ。
とりあえず自分も同学年の仲間とミーティングまで時間を潰そう、とこちらはこちらで不思議な会話をしている泉田と葦木場の方へ足を向け、なんとはなしに背後を振り返ったのは、同じく面白いから見ろと言った新開の言葉が頭に残っていたためだろう。
「あれ?」
東堂が手にしている緑色のペットボトルに違和感を覚える。先程まで、東堂は差し入れの黄色をベースにした配色のボトルを持っていた。
まさか、と隣に座る荒北に目を向けると、最初からそれを飲んでいたかのように炭酸のレモンジュースを傾けている。
当たり前のように交換されたボトルと、それがあまりにさりげなく為されたことに思わず愕然とする。
「ナニソレ!?」
「え! ユキちゃんどうしたの!?」
思わず声を上げた黒田に、葦木場が大仰なほどに跳び上がった。
「荒北さん!」
購買の前でその背中を見つけて声をかけると、振り返った荒北が舌打ちしたその口の片端だけを吊り上げて笑った。
「黒田、しょうがねェな、飲み物かアイス奢ってやる」
別にたかるために声をかけたわけではないのだが、後輩の誰にでもそんなことを言うタイプの先輩ではないので、素直に喜んで甘える。
缶コーヒーを奢ってもらって、クラブ棟に一緒に向かう。荒北が買ったのは、いつものベプシと瓶のラムネだった。
「ラムネなんか売ってたんすね、うちの購買」
「夏期だけ入れンだよ。これが最後の一本」
今日のようにぶり返したように暑い日もあるが、秋も深まってきた季節である。夏の名残のような緑色のガラス瓶を、どうしても買い逃したくなかったらしい。
「荒北さん、ラムネも好きなんすね。そういえば、補給食もラムネですもんね」
パワーバーがあまり好きでないらしい荒北が、ラムネを好んで補給食にしているので、実はこっそりと真似している。
言うと、荒北が不思議な表情で笑った。
「や、これは東堂用」
不思議だと思ったのは、いつも左右非対称で少し皮肉っぽい表情を作ることの多い荒北が、シンメトリーな柔らかい笑みを浮かべたからだった。
一瞬惚けて、意味の無い相槌を打ってしまうが、はたと気づく。
「え、あ、でも、東堂さん炭酸飲めないんじゃ……」
「あー、ラムネは好きなんだよネ、アイツ。しかも瓶のみ、缶はダメ。メンドくせェ」
面倒と言いながら、その相手のために最後の一本をわざわざ買い求めたらしい。顔を合わせればいつも何かしら喧嘩になるくせに、仲の良いことである。
複雑怪奇な関係を構築している一つ年上の先輩達について悩みながら部室の前に辿り着くと、ちょうどその相手がジャージに着替えて出てきたところだった。
「東堂」
名を呼んで、ガラス瓶を差し出しただけだったが、意図は通じたらしく、当たり前のようにラムネを受け取った東堂が独特の形状のガラス瓶を日に透かした。
「まだ売ってるんだな」
「ラスイチだった」
そうか、とうなずいて、手を宙に彷徨わせた東堂は、ジャージに着替えたばかりなことに気づいたらしい。
「財布、ロッカーだから後でいいか?」
「イーヨ、やる」
「ん」
ありがとう、と笑う顔は穏やかで、珍しく言い合いの一つもせずに話が済んだ。
アーレンキーを使ってビー玉の栓を押し込んだ東堂が、すぐさま炭酸を口にするのも珍しい。黒田が最近目にした限り、炭酸飲料を渡されるとすぐに開封せず、しばらく持ち歩いていた。
なるほど、ラムネだけは好きらしいと思いながら更衣室に向かい、急いで着替えて戻ると、瓶を空にした東堂が蓋をねじって中のビー玉を取り出しているところだった。
「早っ」
ペットボトルの飲料の半分以下の容量なので、別に驚くほど早くはないのだが、これまで数センチ分飲むのに十分以上かけている姿を見ているので、珍しいという思いが先立つ。
「ホンット、ラムネ好きなんすね」
「いや……瓶のラムネなら飲めると言っただけで、別に好物だと言った覚えはないんだが、何を勘違いしたのか、荒北の頭の中ではオレがラムネ大好きだということになっているらしくてな。せっせと買ってくるものだから」
その言い草に、思わずかちんときた。
「好きでもないのに飲んでるんすか?」
「いや……」
ビー玉をジャージのポケットに滑り込ませた東堂が、もう空の瓶に口を付けた。
「好きになった」
目を伏せて、照れたように笑う顔を見て、黒田は荒北が何故ことあるごとに彼にラムネを買い与えるのかを理解した。
