ラムネ・レッスン - 1/7

Lesson 1

 汗をかいた身体で坂を一気に下ったせいか、冷涼感は一気に寒気に変わり、これはまずいと自転車を停め、前を開けていたジャージのファスナーを上げようとした指が震えていた。茹だるような残暑の中、つい先程まで滴るほどに汗をかいていたはずなのに、何故急にこんなに冷え込んだのかと不可解に思った瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。
 身体が沈み込む感覚と共に、がしゃん、と嫌な音が響いて自転車を倒したことに気付く。借り物の車体の傷が気になったが、確認する余裕などなく、荒北はその場に座り込んだ。
 ひどい眩暈と全身を襲う悪寒に身動きが効かない。
「な、ンだ……?」
 ローラーを回し続けていた間も何度か引っくり返ったが、その時の疲労困憊とはまた違う。全身が虚脱したような、異様な倦怠感に身動きもできない。
 熱中症を疑うが、症状が当てはまらない。
 まずは水分だけでも補給しようと倒れた車体に取り付けたボトルに手を伸ばすが、震える手が滑って落ちたボトルがアスファルトの上を転がる。拾いにいこうにもひどい眩暈で身体の自由がきかない。
「あれ、コレ、死ぬ?」
 今までに経験のない不調に、思わず埒もない弱気が心に去来する。
「……つーか、このままだと轢かれて死ぬダロ」
 今のところ車の来る気配はないが、公道でこのまま引っくり返っていれば、いずれ轢かれかねない。
 とにかく回復するまで休もう、とどうにか身を起こし、倒した車体を引きずるようにして道路の端に寄ってガードレールに自転車を立てかけると、荒北はくたりとその場にしゃがみこんだ。
「ックショ……」
 この自転車競技を始めてからというもの、何もかもがままならない。
 運動神経は良かったはずなのに、二年のブランクが響いているのか、すぐに身体の節々が悲鳴を上げ、今のようにバテて引っくり返る。
「あの鉄仮面……!」
 自分を自転車競技部などに引きずりこんだ元凶である福富の無表情を脳裏に浮かべて毒づくと、すぐ近くでタイヤが鳴った。車のものとは異なる、ロードレース用の細いタイヤの音だ。
「どうした、落車か!」
 予想したよりも随分高い声が響いて、薄く目を開けると白い車体が目に入った。
 最近やっと覚えたいくつかの自転車ブランドの名の一つを、その鋭角なフォルムに入ったロゴで読み取る。同時に、その乗り手の顔が脳裏に浮かんで、先の声と結びついた。
 東堂尽八、同じ自転車部所属の同学年、うるさくて騒がしくて喧しい。
 ほぼ同じ意味の形容が重なったのは、今頭がろくに動いていないせいもあるのだろうが、普段の状態でも同じ言葉になった気もする。
 それだけ、荒北にとって口うるさいという印象しかない相手で、徹頭徹尾気が合わない。
「……荒北か」
 まず自校のクラブジャージを目にして足を止めたらしい東堂も、顔を上げた荒北を見てはっきりと嫌そうな表情になったが、見捨てはせずに自転車を降りて近づいてきた。
「怪我か?」
「……ほっとけ」
「そういうわけにいくか」
 荒北が福富から借りているビアンキの横に己のリドレーを立てかけ、屈みこんできた東堂が荒北の肩に手を置いた。
「落車……転んだのか?」
 わざわざ言い直さなくても、その程度の用語は分かるというのに、この鼻持ちならないチームメイトの中で、荒北はどうしようもない素人でしかないらしい。
「……コケてねーよ」
「動けないのか?」
 不承不承うなずくと、額にグローブを外した手が伸びてきた。少し汗ばんだ手に、子供のような体温だと思うが、今までロードバイクを漕いできたのだから当たり前だろう。
「水分はちゃんと摂ったか?」
 転がっていたボトルを拾って差し出され、受け取る手が震えている。
「補給は?」
「ドリンクは、摂った」
「補給食だ。食べ物」
 また言い直されるのが苛立たしい。
「摂ってないんだな? ハンガーノックだ、この初心者」
 長時間運動を続けるランナーや自転車乗りが陥る、著しい低血糖によるノックダウン症状である。自転車競技において、レース中の補給食が認められているのは正にこれを防ぐためだ。
 そう説明はされたが、どうにも練習中にものを食べるという感覚に馴染まず、確かに怠っていた。手足が痺れて全く力の入らないこの状態がそれなのか、とようやく理解したが、症状が出てからでは遅い。
「手を出せ」
 反発する気力もなく手を広げると、背中のポケットからプラスチックの容器を引っ張り出した東堂が、掌の上にざらざらと錠剤を振り出した。
 薬のようだが、こんなに大量に摂取して大丈夫なのだろうか。
「……コレ、何?」
「ラムネ」
 馬鹿にされているのかと一瞬思ったが、東堂の顔は大真面目だった。
「今お前に必要なのは糖質の摂取だ。もう少し重篤だったら、有無を言わさず病院で点滴だぞ」
 温かな手が荒北の頭を支えて、言い聞かせるようにして東堂がにこりと笑んだ。
「騙されたと思って食べろ」
「……顔近ェよ」
「眼福だろう」
 どこまでも口の減らない男に諦め、駄菓子を一粒囓ると、ほろりと崩れたラムネが舌の上でシュワシュワと弾けた。
 一つ口にすれば、正体不明だった寒気と倦怠感が飢餓だと気づく。
 残りのラムネもすべて放り込んでまとめて噛み砕くと、動物かと笑われたが嫌みな口調ではなかった。
「手」
 言われてまた差し出した手に落ちてきたのは、今度は色とりどりの金平糖だった。
 糖質補給という目的を考えれば、理に適っているのだろうが、どうにも少女趣味な補給食だ。
「あとは、羊羹あるぞ?」
 個包装の四角い包みを二つほど引っ張り出してきた同い年の男に、先に抱いた感想を修正する。少女趣味と言うよりは、お婆ちゃんが孫に用意したおやつのようなラインナップである。
「フツー、ゼリー飲料とか、カロリーメイトみたいなの食うもんじゃねーの?」
「ベタベタしてて苦手なんだ、パワーバー」
「アー、あれマズい」
 新開が寄越してきたパワーバーが口に合わず、それもあって補給食を敬遠していたのだが、それが今回完全に裏目に出たらしい。
「自分に合った補給食を見つけて、自分の補給ペースを確立しておけ。そうしないと、何度も引っくり返るハメになる」
 相変わらず上からの物言いだが、噛みつくのも億劫で受け流すと、伸びてきた手が勝手に荒北のヘルメットを外してビアンキに引っ掛け、自分の愛車のホルダーからドリンクを取り上げた。
「……」
 居座るな、と文句を言いかけた口に、狙いすましたように金平糖が押し込まれた。
「いいから食べてろ」
 口の中に広がる砂糖の味に、飢餓感が再燃した。掌の上の金平糖の小山を頬張ってがりがりと噛み砕くと、何が面白いのか楽しげに包装を剥いた羊羹を口元に突き付けられた。
 睨みつけるが、いっかな恐れ入った様子のない東堂に諦めて口を開いて齧り付く。
「おお、一口だな」
 一口サイズなのだから当たり前だろうと思うが、感心した様子でもう一つの包みも差し出してくる顔は、完全に餌付けの態だ。
 はねつけてやろうか一瞬悩んで、ろくに身動きもできなかったので諦めてそれもたいらげる。先の砂糖菓子よりは腹にたまった感覚に、少し飢餓感が和らいだ気がして、立ち上がろうとするが眩暈に膝が崩れた。
「糖質が吸収されるまで三十分だ、少し休んでろ」
 傾いだ身体を支えた手が、荒北の頭をガードレールに押し付けた。
「もーいい、チョーシ良くなったら一人で戻る」
 素直に礼も言えず、もう構うなと頭を振ってその温い手を振り解くと、人の話を全く聞いていない男は荒北の横に腰を下ろしてヘルメットを脱いだ。
「……おい」
「回復しないようなら、学校に連絡して車を出してもらわんといけないからな」
「いらねーヨ」
 反射的に突っぱねると、こちらを向いた目が思わずたじろぐほど冷えた。
「そういう台詞は、一人で自分の面倒が見れるようになってから言え。お前が部員である以上、ここでお前が取り返しのつかないことになったら、部や学校の責任問題になるんだ。構われたくないなら、今すぐ退学しろ」
 いつものキンキンと喚く子供じみた声音とは一線を画した、ひややかな通告に虚を突かれた。
 東堂という男は、とにかく口の減らない子供という印象しか無かった。上から目線で、何か勘違いしているとしか思えない自画自賛をふんだんに取り混ぜながら、大袈裟な仕草と共に余計なことばかり言う。
 性格は人懐こく、かなりイレギュラーな形で自転車部に入部した荒北にも最初は愛想よく近づいてきたのだ。
 その友好的な態度を突っぱねた後はひどく嫌われて、顔を合わせれば小学生のような態度で噛みついてくるようになった。荒北も言われっ放しではいないので、二人の口論は日課のようになっている。
 いつも明るいお調子者の子供という印象と、今、荒北を見据える冷厳な眼差しが合致しない。
 歯に衣を着せない尊大な物言いで、散々にけなされてきたが、ここまで厳しく切り捨てられたのは初めてで、衝撃を受けている自分自身に荒北は驚いた。
 人間関係では中学時代に散々辛酸を嘗めたというのに、何を今更この程度のことで動じたのだと、呆然としながらその冷たい顔を見つめると、はたと気づいたように東堂が口元を押さえて俯いた。
 カチューシャで留められていない長めの前髪が目元を隠して、不思議なことにいつも露わな輪郭と表情が隠れて初めて、その横顔が際立って整っていることに気がついた。
 激しい美形主張を右から左へ聞き流していたが、確かに端正な顔立ちはくるくると変わる表情が乗っていないと、ひどく無機質で冷たく見えた。
 こんな顔をしていたのだと、初めて知った。
 その冷徹な顔をしばらく手で覆っていた東堂が、深く息を吐き出した後、その手で髪を掻きあげて前を見据えた。光線の具合で一瞬透き通ったように見えた瞳が、一度閉ざされてから荒北に向く。
「ごめん、体調悪いのに言い過ぎた」
 どこか芝居がかった物言いでなく、年相応の口調で紡がれた謝罪の言葉に驚いた。荒北だったら、言い過ぎたと思っても絶対に謝らない。
 そもそも、東堂の言葉は正論だ。
 周りに馴染むことなく、福富の言うことしか聞かない荒北は今でも部の厄介者でしかない。体力が底を尽きて潰れては迷惑をかけて、詫びの一言も言わない。
 嫌われて当然で、東堂の反発はごく正当な評価だ。
 誰にでも噛みついて回る荒北に尻込みして、面と向かっては何も言わない者が多い中、怯むことなく正面からものを言いにきたくせに、ちょっと動けないくらいで気を遣われるのも気持ち悪い。
「……ベツに」
 お前は間違っていないだとか、謝ることはないだとか、そんな言葉を一通り脳裏に浮かべて、結局口にしたのは素っ気ない一言のみだった。
 普段の東堂ならば、その愛想のない発言の揚げ足も取って喚くはずだったが、本当に言い過ぎたと思っているらしいお人好しは悄然としている。
 残暑の厳しい晴天の下、気まずい沈黙が落ちて、荒北は舌打ちした。
 今すぐこの場を離れたいのに、立ち上がることすらままならない。
「クソ、何でこんなに動けねーんだヨ……」
 エネルギーが切れたというのは分かっている。
 しかし、荒北は体力には自信があった。
 野球をやめてからも、身体を動かすことで何か困ったようなことはない。
 力でもスタミナでも、大抵の同年代に負けた覚えがない。
 本気でスポーツに打ち込んでいる運動部員には敵わなくなっていただろうが、そんなものはすぐに取り戻せると思っていたのに、この体たらくだ。
 どうして、と歯がみすると、東堂が邪魔な前髪をかきあげて、ビー玉のような独特な風合いの瞳を晒して荒北を見つめた。
「荒北は、前に、何か本格的にスポーツをしてたんじゃないか? 全身を使って走ったり跳んだりするような」
「…………」
 答えず、ただ目に険を増すと、返答を期待していなかったらしい東堂が僅かに苦笑して続けた。
「別に何をしていたかは、もういいんだが。お前、そのスポーツで毎日くたくたになるまで練習をするのに慣れてただろう?」
 そう、毎日練習に打ち込んで、肘の違和感を推して投げ続けて悪化させた。
 嫌なところに触れてくる相手に大きく顔を歪めるが、このチームメイトはこれまで周りにいた誰とも異なり、荒北の不機嫌に一切頓着しなかった。癖なのか、掻き上げた前髪を弄りながら少し言葉を探し、話を続ける。
「その練習の時の疲労度の計り方で、今も練習していないか?」
「…………?」
「ロードレースは身体を自転車が支えるから、全身運動のスポーツよりも筋肉や関節に対する負荷が少ない。でも、エネルギーは消費されていく。他のスポーツの疲労度で判断すると、まだやれると思う段階で体力が切れるんだ。お前がよくひっくり返ってるのは、それが原因だと思う」
「……オレの体力が落ちてたんじゃねーのか?」
「それもないとは言わないが、そのブランクを埋めようとして、余計無茶をしてるんじゃないか? 出来ていた頃のイメージがあって、それに近づけようとしてないか?」
 全くその通りで、何も言い返せない。
 二年前はもっと動けた、もっと体力があった、こんなすぐに力尽きたりしなかった、その一心でここしばらくひたすらペダルを回していた。
「前のスポーツを辞めたのがいつだかは知らないが、体格はその頃より良くなっているだろうし、身長からすると随分細いが、筋肉は綺麗についている。昔より体力がないということはないだろう。問題は、荒北がまだ、自転車のペースを正しく掴んでいないからだと思う」
 淡々とした指摘に、黙って耳を傾ける。
 いつもの人の神経を逆撫でする甲高い声より幾分低い声音は、柔らかかった。
「感覚が違って戸惑うんだろうが、自分の補給ペースを確立しろ。飴でもチョコでも何でもいいから、こまめに口に入れて走ってみるといい」
「…………東堂ってさァ」
 こんな穏やかにまともなことを喋れたのかだとか、案外人を見ているのかだとか、実は馬鹿じゃないのかだとか、何で髪をかきあげないと話ができないのだとか、髪は下ろしていたほうが可愛いんじゃないかだとか、埒もないことばかり浮かんで、何が言いたかったのか分からなくなり、呼びかけに続ける言葉に詰まる。
「変」
「変とは何だ、変とは!」
 いきり立った東堂の、いつも通りに戻った印象に思わず笑うと、珍妙な顔をされた。
「……ナニ?」
「いや、初めて笑ったな」
 屈託なく指摘されてやや怯むが、妙に嬉しげに膝を抱えた東堂が、揃えた膝頭に一度額を押し当ててから、荒北を見上げてきた。
「名前を呼ばれたのも初めてだ」
 少しはにかんだように笑った顔に、後頭部に衝撃が走った。
「随分いい音がしたが、大丈夫か?」
「…………ダイジョーブじゃない」
 唐突にガードレールに頭を打ち付けた荒北に驚いた東堂が、返事を聞いて真顔になって身を起こした。
「眩暈か?」
 温かい手が頭の両側に添えられ、真剣な目で問われる。
「なんか、モヤモヤする?」
「さっき食べた分がそろそろ効くはずだが……、やはり回収してもらって病院行くか?」
 案じる声に頭を振って、その手を振り解く。
「や、たぶん、ハンガーノック関係ねェし」
「低血糖だと、覿面に思考力低下するぞ」
「あ、やっぱソレだ」
 同い年の男を見て、グラビアの雑誌で見たことのあるポーズだと思っただとか、キラキラして見えただとか、お前だって初めてそんな顔で笑っただろうといった諸々の思考の暴走は、低血糖によるものだと無理やりに納得する。
「顔色は大分良くなってきてるし、口調もしっかりしてきたんだが」
 振り払ったのに、また額に手が押し当てられて閉口する。
「だから近ェよ、お前」
 覗き込んでくる東堂の頭を鷲掴んで退けると、役得だろうなどと訳の分からないことを言う。
 役得どころか、どうにも調子が狂ってしょうがない。
「お前、やっぱスゲー変」
「どこがだ!」
 全部だと半眼を向けると、ますますいきり立つ。
「この美形を捕まえて、どこが変だと言うのだ!」
 見ろとばかりに髪をかきあげて、近づけてくるところである。
「中身だ、中身」
「つまり、外見は認めるんだな?」
 そういう臆面もないところを、つくづく奇妙だと言っているのだが。
 いつもならバカだのアホだのと毒づいて、それに噛みついてくる東堂と口論になるのだが、今はそんな気力もない。
「はい、カワイーカワイー」
 髪をぐしゃぐしゃにかき回しておざなりに告げると、ぴたりと東堂の動作が止まった。乱した髪がするすると重力に従って元に戻っていくのを眺め、やはり妙な生き物だと思う。
「東堂?」
 呼びかけると、ぱちりと瞬いた不思議な風合いの瞳が荒北を映した。
「お前も、相当に変だぞ?」
 しみじみとした声で言うな、と渋い顔をしてそっぼを向けば、東堂も隣で黙って抱えた膝を更に引き寄せて小さくなった。
 吹き抜ける風は爽やかだったが、どうにも居心地の悪い沈黙を破ったのはロードバイクのブレーキ音とタイヤがアスファルトに擦れる音だった。
「どうした、落車か!?」
「福ちゃん」
「フク!」
 揃った声のどちらが安堵に満ちていたかは分からないが、呼びかけられた福富が一瞬その鉄面皮を揺るがせた程度には、双方切羽詰まった顔をしていたらしい。
「何があった!」
 非常に深刻な顔で問われて、思わず荒北は東堂と顔を見合わせる。
「いや、ただのガス欠だ」
 荒北を示しての東堂の端的な説明に、福富がバイクをガードレールに立てかけて、荒北の前に屈み込んだ。
「補給は?」
「オレが持っていた分は全部摂らせた。もうすぐ三十分経過する。顔色はさっきに比べて大分良くなった」
 無駄口ばかり叩く印象があるが、こういった時の説明は的確だ。うなずいた福富が荒北の肩に手を置く。
「立てそうか?」
「アー、うん、大丈夫そー」
 気づけば、先程までの手足の先が痺れるような倦怠感は薄れていた。
 立ち上がって手を開閉してうなずくと、ほんの僅かに表情を緩めた福富が、ジャージのポケットから携帯を取り出した。
「回収してもらうか?」
「イラネ」
 先程、隣の東堂に手厳しく叱られたというのに、性懲りもなく同じように突っぱねたことに気づいて、一瞬ひやりとするが、東堂は何も言わなかった。福富も荒北の反応を予測していたのか、それ以上回収を勧めず、代わりにまだ膝を抱えていた東堂に目を向けた。
「東堂」
「仕方ないな!」
 呼びかけに張り切った顔で立ち上がった東堂に、ろくでもない予感しかしない。
「引いてくれ、オレは後ろについてサポートする」
「福ちゃん!?」
 何でコイツなんかに、と噛みつきかけて、岩のような顔に諦めた。この男と行動を共にするようになって三ヶ月程度だが、この頑なな顔になったら噛みつくだけ無駄だと既に理解している。
「東堂に合わせて走れ」
「……わーったヨ」
 逆らっても無駄だと諦めてうなずくが、正直、この貧弱な体格のチームメイトにあまり期待はしていない。体重が軽そうな分、登りには有利なのかもしれないが。
 うきうきとした顔で白い車体に跨がった東堂が、荒北の準備が整うのを待って、行くぞ、と笑う。
「は……?」
 追って漕ぎ出そうとして、既にその頼りない小さな背が見えないことに唖然とした。
 一瞬、後ろの福富を振り返って、前に目を戻した間に消えた東堂に、まさか、と思いながら漕ぎ出し、カーブを曲がると、坂の途中で東堂が待っていた。
「遊ぶな、東堂」
「ちょっとした冗談だ、そこのヤンキー、人のことをまるで過小評価しているからな」
 目の前からの消失は、一瞬目を離した隙に全力でペダルを回して坂を駆け上がっていったということなのだろうが。
 すぐ隣でそんな真似をされて、気づかなかった理由が分からない。
「荒北を引けと言ったんだ、ちぎれと言った覚えはない」
「この前、そのうち坂でちぎれと言ってただろう」
「今じゃない」
「フクはワガママだな」
「……そういうことになるのか?」
「なんねーヨ」
 福富が東堂の適当な物言いを額面通りに受け取るのを、横から否定する。
 生真面目なチームメイトをからかうな、と睨み付けると、悪びれもせずに肩をすくめた東堂は、ハンドルを握り直した。
「今度は余所見するなよ」
 そう言って、滑り出すように走り出した東堂を追ってペダルを踏んで、再度唖然とした。
 今度はその背を見失うことはなかったが、代わりに平衡感覚を失った。
 坂道錯視という、ボールが坂道をひとりでに登っていくように見える錯覚現象があるが、それによく似ていた。あれは、実際には角度の違う二つの下り坂と、周りの風景を誤認識するために起こる現象だが、今回の場合、坂は確かに上り坂で、錯覚を起こすような風景でもなかった。
 おかしいのは、東堂の存在だ。
 まるで平坦な道を走っているかのような走り方で、ぶれがない。重力の存在を疑いたくなるほど、あまりにも軽く回るペダルの意味が理解できない。荒北が感じるペダルの重さと全くはたらいている重力が異なるのではないかとすら思う。
 始めたばかりの自転車で、坂が一番苦手な荒北にリズムで登れと福富がアドバイスをくれたことがあるが、今のところ力任せにペダルを回すことで対処していた。
 では、東堂がリズム感でペダルを回しているのかというと、そうとも思えない。
 動きからリズムが取れない。ペダルの回転は一定ではなく、コーナーごと、坂の斜度ごとに細かくギアが変わる。その変換はあまりにスムーズで、注意していないと気づかない。
 そもそも音がしない。
 もちろん、ペダルとギア、チェーンの機構が噛み合って動いているのだから、全くの無音のはずはないのだが、自分のペダルを回す音にかき消されてしまっている。
 先程、ほんの一瞬目を離した隙に完全に置いていかれたのは、予備動作もないこの静かな動きがあまりに想定外だったからだ。この数ヶ月で、自転車とはこういう動作と音を伴うものだと覚えた常識が通用しない。
「ちょっと待て、フクちゃん、こいつに合わせろって……!」
 こんな気配のないものにどうやって合わせろというのだ、と焦って背後の福富を振り返ると、相変わらずの鉄面皮がそこにある。
 四の五の言うだけ無駄だと理解して、正面に向き直り小柄な同学年の背を睨み据える。音やリズムを追えないなら、ひたすら見て合わせるしかない。
 シフトを上げた、少しケイデンスを落として、コーナーからの立ち上がり、一連の流れるような動作を必死でトレースしていると、横に並ぶ気配があった。
「もう少し東堂に寄れ」
 福富の指示に、一瞬渋い顔をするが逆らわず、東堂との距離を更に詰めた。
 引いてもらうには良いが、下手すればタイヤが接触して転倒しかねない距離で、互いの技術と信頼関係を必要とする。どちらも足りていないと思うのだが、気配を察知してちらりと背後に一瞥をくれた東堂の顔がふと笑った。
 そんなことをしても一切ぶれないペダリングが、初心者の荒北を引かせても大丈夫だと判断した福富の根拠だろう。
 何か余計なことを言うのかと思ったが、何も言わずに視線を前に戻した東堂はそのまままっすぐにペダルを回し続けた。その動作の一つ一つを追いながら、ひたすらペダルを回して、気づけば校門を抜けていた。
 身体は全く本調子でないというのに、おそらく、普段荒北が一人で登るよりもタイムは良かった。
 唖然としながらクラブ棟の前まで辿り着いて、サドルからもたもたと降りると、東堂と福富に寄ってたかってロードバイクを取り上げられ、メットをはぎ取られ、部室のベンチで転がされたかと思うと、シューズとグローブも引き抜かれて、代わりにタオルを被せられてボトルを持たされた。
「どうする、病院送りにするか?」
「いや、後ろから走りを見ていた限り、大丈夫だ。しばらく転がしておいて、メシ食わせて一晩寝れば問題ないだろう」
 当人の意見を全く聞かずに勝手に取り決める二人の後ろから、また荒北が倒れたのかと笑う二年の声も聞こえるが、タオルを退けて睨む気力もない。
「一応、先生達に報告してくる。東堂は様子見ていてくれ」
「……イラネ」
 タオルの下からの主張はどちらの耳にも届かなかったのか、クリートを付けたシューズの音が遠ざかっていく気配があった。
 やりとりからすると、隣に残ったのは東堂だろうが、彼は福富ほど荒北について責任感を抱いていないので、付きそう必要性を感じなかったのだろう。すぐに隣から離れる気配があった。
「…………クソ」
 情けないと舌打ちすると、行儀が悪いと拳骨が落ちてきた。
「……あんだよ?」
 タオルを退けると、立ち去ったはずの東堂が、何やらマグカップを手に仁王立ちになっていた。水色のマグカップから、出汁のいい匂いが鼻先をくすぐった。
「飲め」
「……ナニ?」
「味噌汁」
「…………何で?」
 どうにもこの同級生が何を考えているのか分からないのは、荒北の対人能力が低いためではないと思う。
「インスタントで悪いが」
「いや、そこじゃなく」
 どこから出てきたのだ、と問うと、常備していると当然のように答える。その堂々とした態度に、もしかして自転車乗りの常識なのだろうかという疑問が湧くが、周囲の苦笑ぶりから見るに、東堂が異端だ。
 普段の荒北ならば、そんなものはいらないと突っぱねていたところだが、今はその気力すらなかった。
 自信満々に押しつけられたカップを身を起こして受け取って、おとなしく口を付ける。
「…………なんだコレ、スゲェしみる」
 まだ残暑が厳しい気温だというのに、どうにも寒気が去らない身体に、温かい味噌汁が身の内から染み渡った。
「だろう? 塩分とミネラルとアミノ酸摂れて、熱中症対策にもなるし、具が入っていれば腹持ちもするし万能なんだが、部活が終わった後に皆が飲めるように用意しておけばいいんじゃないかと提案したら、何故かすごい馬鹿にされてなあ……」
 おそらく、本人は大真面目に提案したのだろうが、周囲はいつもの奇矯な言動として相手にしなかったのだろう。
 何故だ、と首を捻る東堂に、そういったことを指摘してやるのも面倒で、黙ってマグカップの中身を啜る。
 やはり、頭が良いのか悪いのか、さっぱり分からない奇妙な生き物だ。
「何だ? まだ腹減ってるのか?」
 荒北の目線を空腹と勝手に解釈した東堂が、また奥のロッカールームに向かってすぐに戻ってきたかと思うと、荒北の頭の上から駄菓子の雨を降らせた。
「食え!」
「お前なあ……」
「ほら」
 短い髪に引っかかっていた小さめの煎餅の包みを剥いて口元に押しつけられ、渋々齧り付く。ばりぼりと噛み砕いていると、面白そうに次々と口の中に駄菓子を放り込まれる。
「遊ぶな、このバァカ」
 口の中いっぱいの煎餅を、音高く噛み砕きながら唸るが、恐れ入った様子はなく、むしろ楽しげだ。
「フクの気持ちが少し分かるな」
「ア?」
「野良の餌付けが成功した気分というか、このちょっと懐いた感がだな」
「してねーよ」
 懐いてもいない、と頭を撫でる手を振り払うが、気にした様子はなく東堂はキャンディ包みのラムネのセロハンを剥いた。
「ほら、あーん」
 指ごと噛みついてやろうかと、ギロリと睨みやるが、あまりに嬉しそうな笑顔に気が抜ける。
 諦めて開けた口に押し込まれたラムネが、舌の上でほろりと崩れた。