ラムネ・レッスン - 5/7

Lesson 5

 文化祭も終わってしばらくして、自転車競技部に女子マネージャーが二人入った。どちらも一年生で、ロードバイクについては初心者である。レースを見て感動したからと入部理由を語り、これから色々と覚えていきたいと挨拶した二人を、男所帯の部を上げて大歓迎したが、最近になって少々風向きが変わってきた。
「ってか、辞めさせた方がいいンじゃねーの?」
 練習後、備品を片づけながら歯に衣を着せず放言した荒北に、焦った顔をしたのは他の部員達である。
「いや、でもせっかく入ってくれたんだし」
「マネジの仕事、ロクにしてねーだろ」
 仲良し二人で一緒に入部してきた時点で、荒北は最初から歓迎もしていなかったし、案の定普段は喋ってばかりで、ろくに働かない。
 元々、一年が雑用をするのが定着していたのもあって、重い物を運ぶのは引き続き一年が行い、知識が必要な作業も代わりに引き受けたりしたところ、彼女達はそれでいいのだと思いこんだようで、本当にささやかな雑務だけを少しこなしては、あとはお喋りに時間を費やしている。
「ちゃんと最初に仕事振り分けねーからだよ」
 きちんと仕事を教えられれる先輩マネージャーがいれば良かったのだが、荒北が聞いたところ、この自転車部に女子マネージャーがいたことはないらしい。全国トップクラスの強豪とはいえ、やはり高校の部活としてはマイナーなためだろう。
 自転車競技を知って興味を持ち、選手としてではなくとも関わりたいと本気で思って、途中入部の形で飛び込んできたのなら、その心意気は買う。知識がまだ不足している点では、荒北も大して先んじているわけではないので、ちょっとやそっとの失敗に目くじらを立てはしなかった。マネージャー業務の引継も試行錯誤しながら、一年の男子が引き受ける分と彼女たちに任せる分担を決めていけただろう。
 しかし、彼女達はどう好意的に解釈しても、自転車に興味を持ったようには思えなかった。
 二人の興味は、恋愛である。
「つーか、あいつら東堂の応援でキャーキャー言ってた連中だろ。そのノリ部内でやられるとウゼーだけなんだけど」
「言っちゃった……」
「荒北スゲえ……」
 他の部員が思ってはいても口を噤んでいたことを、気にせず言い放つ荒北に、周りがざわざわと揺れる。
「まあ、ちょっとならしょーがねーと思うんだけど、さすがにな……」
「あの子達、東堂とか新開とか、主将にはめちゃくちゃ愛想いいんだよなあ」
「顔面偏差値判定機能付マネージャーってキツイよな……」
 東堂を応援していたファンの二人だったので、まず東堂に対する態度があからさまに違う。練習の後に特定の人間にのみ、ちやほやとタオルやドリンクを手渡すのはマネージャー業務ではないと全く理解していないようである。
 他にも、いわゆるイケメンと分類される相手には声色が違う。また、エースと呼ばれている有望な選手達にも態度を変えているようなので、自転車知識はなくともその手の嗅覚は鋭いようだ。
 要するに、アイドルの追っかけが内部のアルバイトに入り込んで、仕事もせずに目当てのアイドルや周辺の芸能人に、浮かれて騒いでいるような状態である。
 モテない男達の僻みと言えばそれまでだが、おかげで、最近部内の空気が非常に悪い。
 シーズンオフで屋内練習が増えた分、人間関係が以前より密になったというのに、女子マネージャーの存在が軋轢を生んでいる。
 顧問やコーチの前では取り繕っているので、ちらほら上がっている新米マネージャー達への不満は、まだ慣れていないだけだろうという気楽な反応で流され、部員達の間に鬱憤が溜まり始めている。
「東堂から言ってもらうしかないんじゃないか?」
「そうだよ、アイツどーせ調子乗ってちやほやされてんだろ?」
 彼女達への不満がその入部のきっかけとなった東堂に向かうのを聞いて、荒北は顔をしかめた。
 荒北も普段の東堂の女子に対する振る舞いから、そうに違いないと思っていたのだが、実際には困り果てている姿を見た。
 特別扱いはその場で断っているし、そういった真似は困るともきっぱりと言っている。しかし、女子相手だからか、かなり手加減した口調だったのと、相手が二人組だったことであまり効果がなかった。
 これが対個人だったなら、目的の東堂に窘められてなお、その問題の態度を貫く気概のある女子は少ないだろうが、友達同士で自己正当化をしあいながら東堂の苦言を奥ゆかしい、公平で偉ぶらないなどと変換してしまうのである。
 荒北に言わせれば、東堂は目立ちたがりで、人を人とも思わない上から目線の、何様かと思うような、ただの残念なお調子者なのだが。
 この件に関しては調子に乗るつもりはないようで、なるべく関わらないようにという配慮なのか、ここしばらくは自分で練習メニューを組んで外に走りに行き、部活動終了ぎりぎりまで戻ってこないようになった。
 それを一年のくせに勝手だ、と反感を買っている上に、問題のマネージャー達は東堂の姿がないことにやる気をなくして業務を放り出しているので、事態はむしろ悪化している。
 この状況について、福富と新開に意見を聞いたところ、福富は難しい顔をして唸っているだけだったし、新開はにやにやと笑って、東堂が心配なのかなどと、見当違いも甚だしいことを言ってきたので殴っておいた。
「あんましひでェなら、オレがどーにかすっけど」
 ぶつぶつと上がり続ける不平不満にも飽きて、そう一言告げると、ぴたりと男達のお喋りが止まった。
「落ち着け、荒北!」
「いくらムカついても、女の子を殴っちゃダメだ!」
「事件は困る!」
「お前ら、オレをなんだと思ってんダヨ! 女殴るわけねーだろ! どうせオレなら最初っから嫌われてっから、何言って嫌われても気にしねーって話だろーが!」
 最近、大分同学年の部員達とは普通に会話するようになってきたのだが、今の反応を見る限り、まだまだ誤解をうけやすい荒北である。
「ったく……」
 まあ、こうして男子にも何をするか分からない危ない奴、と認識されているのなら、女子ならば余計だろう。怖い顔をして鬱陶しいから部を辞めろと言い渡せば、案外あっさり済むのではないかと考え込む。
 黙り込んだ荒北を恐々と窺っていた部員達だったが、バスの時間が迫っていると気づいて急に慌ただしくなった。
 学園敷地内の寮に帰る荒北は急がないため、更衣室の利用を自宅組に譲り、もう少しローラーに乗っていくかを悩む。夕食時間さえ逃さなければ、かなり自由が利くのが寮生の便利なところである。
 部室の鍵を預かれるか聞こう、と部室のドアを開けると、主将達の姿はなく、件のマネージャー二人が暇そうに爪に何か塗っていた。
 独特の臭気が鼻につき、思わず顔をしかめる。
「あのさァ、ここ、ネイルサロンじゃないんだけどォ?」
 ふざけるな、とドアを大きく開け放ち、窓も全開にして回ると、冷たい風が吹き抜けて彼女達が悲鳴と抗議の中間の叫びを上げる。
 何するの、信じられない、といった言葉が聞こえたが、それは荒北の台詞である。
「帰ったらァ? もう暗いし、バスの時間だし、もう仕事もないみたいだしィ?」
 最後はただの嫌味だったが、それ以外は事実の指摘である。
 一本逃すと次のバスの時間まで寒い中を待つ必要がある。どうしよう、とばかりに顔を見合わせた二人に、何かあるのかと眉をひそめる。その表情が思っていたよりも凶悪だったようで、彼女達はたじろいだ。
「あと、お前らがそこで陣取ってると、みんなシャワー使えないって知ってるゥ?」
 自転車部に割り当てられたプレハブの部室は部員数とその実績のため、かなり広く設備も充実していたが、無計画に設備を建て増したせいだろう、動線はめちゃくちゃだ。
 更衣室は廊下の奥にあるのに、シャワー室は水回りの都合でメインの部室に直接繋がっている。
 前までは女子がいなかったこともあって、皆シャワーを浴びた後に下着やタオルを巻いただけの姿で気軽に更衣室に移動していたが、今はそういうわけにいかない。
 今日などは気温の都合もあり、シャワーを浴びずに帰ることを選択した部員が多かったようだが、今後もこうやって部室に意味もなく居座られるようでは支障がある。
 荒北の物言いに反発を覚えた顔をしていたが、少し前まで絵に描いたようなヤンキーだった荒北に面と向かって言い返す度胸はなかったようで、ただ不愉快そうな顔をして顔を背ける。
「どいて、チャリ取るから」
 頭上のバーにかけたバイクを指し示すと、嫌そうな顔で避けた二人を気にせず、福富から借り受けた水色のロードバイクを降ろす。
「オレ、これからローラー乗ンだけど、またウルサイとか言われんのメーワクだから帰んなら帰って?」
 四の五の言わずに帰れ、と険をこめれば、一瞬怯んだ彼女達は忌々しそうな顔で広げていたマニキュアをまとめてポーチに突っ込み、鞄を手にした。
 部室を出た後に盛大に悪口を言い合うのは目に見えていたが、そういった陰口を荒北は一切気にしない。
 半眼で二人の背中を見送り、とりあえず片づいた、と思ったのだが、少々早かった。
「あ、東堂君!」
「おかえりなさい、遅かったね!」
 急に華やいだ声に、どうやら東堂が戻ってきたと知って舌打ちする。
 どうやら、彼女達はあえて二人と行動時間をずらしていることを知らずに東堂の帰りを待っていたらしい。
「君達、まだいたのか。もう真っ暗だぞ、今バス組が帰る支度をしているから、一緒に行った方がいい」
 応じる東堂の声はいつも通りよく通ったが、そこに僅かに困惑の色が混じっているのを聞き取る。
 早く帰れ、という意味合いとしては先程の荒北の台詞と同種だったが、受ける印象と対象による態度の差は大きく、二人は気にせず学園のアイドルを歓迎した。
「お疲れさまぁ。汗すごいよ、すぐ拭かないと風邪ひいちゃう」
「ちょっと待っててね!」
 踵を返した一人が荒北をじろりと睨んでから、部の冷蔵庫に駆け寄って、中から缶飲料を取り出すと、タオルを手にして入口にとって返す。
「はい、タオルと飲み物」
 ぷしゅり、と響いた音は、プルタブを開けたのだろう。
 塗りたての爪を気にしない、その献身的な態度を一極集中せずに、公平に振りまいていれば今のような事態になっていなかったのだが。
「ありがとう。ええと、このジュースは誰かの差し入れか?」
 父兄やOBがジュースやスポーツドリンクを差し入れにくることはよくあるので、他の部員にも配られているものかと確認した東堂に、少女達は顔を見合わせてきゃらきゃらと笑った。
「私達からの差し入れー」
「…………前にも言ったが、部のマネージャーとして入部したのなら、こういう特別扱いは困ると……」
「でもー、もうみんな部活終わってるしー」
「部活後の時間にすることだから、関係ないよねー」
 何の正当性もない自分勝手な言い分に、東堂の表情から温度が失せた。
 ひやりとした空気を纏った東堂が口を開く前に、荒北が全開にしていた窓を力任せに閉ざした。
「なァ、オレさっき帰れって言わなかったァ?」
 いつまでグズグズしているのだ、と刺々しい声を投げかけると、振り返った二人は忌々しそうに荒北を睨んだ。その肩越しに、タオルとサイダーの缶を手にしていた東堂が、荒北の姿を認めて一瞬瞳を揺らした。
「荒北、いたのか……」
 ばつの悪そうな顔をした東堂に、荒北は指を向ける。
「東堂、いらねーならもらっていい?」
「え……?」
 言われた意味が分からなかったのか、きょとんとした東堂の手から冷えた缶を取り上げ、口を付ける。横から甲高い抗議の声が上がったが、気にせず一息に飲み干した。
「何すんの、信じらんない!」
「サイッテー!」
 浴びせられかけた非難は、ぐしゃりと片手で缶を握り潰すと同時に止まった。
「なァ、帰れっつってんだけど?」
「荒北」
 凄んだ荒北の態度を窘めるように呼んだ東堂は、マネージャー達に目を向けた。
「君達も、早く帰った方がいい。あまり遅くなるとバスの本数も減るから」
 ね、と微笑まれた二人は、それ以上逆らわなかった。
 顔を赤くして、それじゃあね、また明日、などと早口に告げて、ぱたぱたと走り去る。
 こうしてみると、顔の良さというのは実に有効である。
「お前さァ、オレん時とスゲー違いじゃない? あいつらにもオレん時みたいにさっさと辞めろ、部の迷惑だってはっきり言えよ」
 甘い顔をするからつけあがるのだろう、と突きつければ、ようやくメットを脱いだ東堂が深々と嘆息した。
「しかし、悪気はないのだし……」
「明らかにオレに対して悪気あんだろ。つーか、もしないとしたら、この場合悪気がない方が問題だろーが」
 荒北の正論に、珍しく黙り込んだ東堂がふらふらとした足取りで部室に入り込んでくると、ベンチの上に倒れ込んだ。
「疲れてンの?」
「ちょっとな……」
 個人練習で相当走り込んできたのか、それとも彼女達とのやりとりでどっと疲れたのか、珍しくへたばったまま動こうとしない。
 放っておこうと背を向けかけた瞬間、くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえる。
「シャワー浴びて着替えろ、バァカ!」
 汗をかいたままこの初冬の気温の中転がっていれば、あっという間に身体が冷えるに決まっているだろうと叱りつけるが、疲労困憊している東堂が動く気配はない。
 換気のために開け放っていた窓とドアを閉めて回り、戸口のすぐ横に立てかけてあった東堂の愛車に目を向ける。
「リドレーこのままでいいのかよ?」
「……点検して片づける」
 ようやく身を起こした東堂が、そのまま外に出て行こうとするのを捕まえて、渡されたそのまま手にしていたタオルを奪って頭の上から被せる。
「やっとくからシャワー浴びてこい」
 不機嫌に唸ると、タオルの隙間から覗いた目が、ひたりと荒北を見据えた。
「どうした、腹でも減ったか? それともまた風邪ひいたか?」
「何でだよ! ってか、ほっとくと風邪ひきそうなのはお前の方なんだよ!」
 人が少し優しくすれば何かの異常だと思うな、という抗議は口の中に問答無用で砂糖菓子を放り込まれて封じられた。
 この扱いももはや慣れたもので、ばりぼりとラムネを噛み砕いて飲み込むと、改めてタオルの上からその頭を鷲掴む。
「痛い!」
 乱暴者、と騒ぐ声が、くしゃみに寸断される。
「いーから着替えてこい!」
 一喝すると、タオルを被ったまま、ふらふらとした足取りで一度部室の外に出て更衣室に向かう背中を睨み据え、ちゃんと着替えを持ってシャワー室に入るのを確認してから、せっかく降ろしたビアンキをもう一度バーの上に上げ、ウェスを掴んでリドレーに向かう。
 日常のメンテナンスを東堂がどこまでやっていたか、よく見ていなかったので知らないが、車体を拭いて注油までしておけば十分だろう。足りなければ、本人が明日にでも自分でやればいいのだ。
 口うるさい男が戻ってくる前に手早く車体をチェックして、全体を拭いてオイルを差す。バーの上に上げる前に、再度電灯の下で確認したが、新しい傷などは見当たらなかった。
「コケたわけじゃねーのか……」
 東堂の動作に少し違和感があったのだが、怪我をしているわけではないようだ。疲れているだけなのだろうが、あまり人前でだらしなく潰れるようなことがないので、少々解せない。
 東堂は荒北を犬のように扱う悪癖があるので、人前と思っていない可能性もあるが。
「……つーか遅ェ!」
 個人練習は諦めて、寮に戻ってから風呂に入ればいいとシャワーは浴びずに制服に着替え、荷物をまとめてもまだ出てこないチームメイトに、焦れて唸る。
 長風呂の東堂も、さすがに部のシャワーはすぐに切り上げて出てくるのが常だったが、今日は他に部員がいないと思ってか、いつまで経っても出てこない。
 更衣室で主将と福富達が話し込んでいたので、まだ鍵を閉めるのは後になりそうだが、さすがに他の部員は出て行かないと怒られる。
「おい、東堂」
 倒れている可能性も頭を過ぎって、一つ舌打ちすると荒北はシャワー室のドアを拳で叩いた。
「いい加減出て……」
 言い終わるより前に、あっさりとドアが開いて、もう一度叩こうとした拳が溢れ出した湯気を空振った。
 少々換気の悪いシャワー室は蒸気が籠もる。先程窓や戸口を開けはなったため、冷えた空気に触れた水蒸気が部室内を白く濁らせた。煙った空気の中を滑り出てきた東堂が、髪の先からぽたぽたと落ちる水滴をタオルに吸い取らせながら、ベンチに向かってぱたりと倒れ伏した。
 シャワー室内で着込んだ制服は半分濡れていて、指定シャツが腕に張り付いていた。
「寝ンなよ」
「んー」
 既に手遅れそうな声音に嘆息する。
「だから、風邪ひくっつてんだろ」
 汗がシャワーに変わっただけで、すぐに湯冷めするのが目に見えている。
 起きろ、とベンチを蹴りつけると、備品は大事に扱え、といつも通りの苦言が返ってきたが、身を起こそうとはしない。
「起きろ」
「ん」
 上がった腕を無言で見据える。
 何だ、これは、と凝視した先で手がひらひらと揺れる。どうやら、起こせと要求しているらしい。
「っぜ」
 無視すれば、いつまでもひらひらとグローブの形に日焼けした手が揺れ続けることを理解して、手首を掴んで引き起こす。
「帰って飯食って寝ろ!」
「その距離が面倒くさい」
 共感しないでもない台詞だが、今までそういった無意味な不平を漏らして部活終了後にぐずぐずと居残っていたのは荒北や新開で、元気の有り余っている東堂は、叱咤する役割だったはずだ。
「ナニ甘ったれてんだよ?」
「なんとなく」
 タオルを被った頭を支えるのも面倒なのか、ベンチの上に身を起こしはしたものの、またすぐに身を傾けさせて、今度はその頭を荒北の脇腹に預けてきた。
「つめてーよ!」
 湿気ったタオルが指定シャツに水分を伝達してきて、ふざけるなとその頭を鷲掴むと、今度はその手に頭を預けてくる。
「拭け」
「何様だ! つーか、何か今日面倒くせーぞ、お前!」
「んー」
 タオルの下から返ってくるのは生返事で、いつもの打てば響くような鬱陶しさとは別の方向で面倒くさい。
 大きく嘆息して、両手をタオルの上に置くと、力任せに掻き混ぜる。
「痛い! 髪が痛む! もっと優しく!」
「っせーよ!」
 途端に上がった悲鳴と文句は、いつもの調子に近かった。
 片膝をベンチに預けて、タオルごと少し長めの黒髪を掻き回していると、不意に奥のドアが開いた。
「あれ、お邪魔だった?」
「ナニがだよ」
 状況を見た瞬間、訳の分からない一言を投げかけてきたのは新開だ。
「邪魔したのか?」
「……新開の言うこと、相手にしなくていーよ、福ちゃん」
 東堂の髪をもう一掻き回しすると、荒北は手を離した。
 今度はちゃんと自分で座る努力をしたようで、その身体が倒れ込むことはなかった。
「尽八、どーかした?」
 友人の様子がいつもと違うことに気がついたのか、声をかけた新開に、東堂が何と答えるのか気にしつつ、荒北は自分の鞄に手を伸ばした。
「いや、荒北が甘やかしたがってたから」
 鞄を掴みそこねて体勢を崩した荒北の頭上を、新開の口笛の音が通り過ぎる。
「ハァ!?」
「まあ、正確に言うと、何か部員の間でいつもの悪態を吐いたら、思いもよらない方向に話が転がって、オレの立場を悪くしてしまったんだろう。始末に困った顔で構ってくるから、つい可愛くて」
「だっ……!」
 ようやくハキハキと喋ったと思えば、二の句が継げないようなことを言う東堂に愕然としていると、肩に新開の手が置かれた。
「尽八って、その気になれば気味悪いくらい空気読むから」
 空気を読んだというより、心を読んだと言った方が正しいレベルの状況把握だったが、横でうなずいている福富の表情を見る限り、あまり珍しいことでもないようだ。
 つくづく、度し難い男である。
 気を遣っただけ馬鹿を見たというか、気を遣ったことまで看破されて弄られていたらしいと知って、深々と嘆息する。
「ところで、マネジ達、帰った?」
「さっきね」
 どうやら新開も東堂と同じく、なるべく彼女らを避けて通っているらしい。顔が良いと良いなりに気苦労もあるようである。
「主将、マネジ達帰ったそーです」
 奥に向かって新開が呼びかけると、呆れたことに安全が確認されるまで潜んでいたらしい主将と副将が連れだって出てくる。
 更衣室でミーティングというわけでもないのに福富や新開達となにやら無駄話をしていると思っていたら、彼女達を避けてのことだったらしい。
「……そんなにあいつら問題なら、辞めさせてほしーんすけど」
「俺らから言うと角が立つからなあ」
 頼りがいのない先輩達である。
 実際問題、この件に関わるとひたすら面倒なのは分かるが。
「ここは荒北、お前の出番だ」
「ちょっとあの子ら、どーにかできねえ? 暴力は無しの方向で」
「荒北怖いからヤダーみたいな感じで一つ」
「何でオレが汚れ役なんすか」
 先程まで検討していた手段だが、いけしゃあしゃあと上級生から要求されると、なかなかに腹立たしい。絶対にこれ以上この問題には関わらないと天の邪鬼な性格で心に決める。
「荒北が口出すと余計こじれます、あの子達にはオレからちょっと話しておきますよ」
 東堂が横から口を挟み、とにかくこの問題に関わりたくないらしい主将達は頼んだぞ、と丸投げすると鍵を閉めるから出て行け、と後輩達を追い出しにかかった。
 部室から寮への道を、だらだらと歩いていると、前を歩く福富と新開の二人と少々距離が開いた。荒北の少し後ろを歩く東堂は、相変わらず足音を立てない。いつもなら、そんなことに気づかないほど、ぺらぺらとよく喋るのだが、今日は珍しくおとなしい。
「荒北」
 そっと、憚るような呼びかけがらしくない。
「……さっき、炭酸飲んでくれて助かった」
 ぽつり、と背に向けて発された礼も、らしくなかった。
「別にィ、喉乾いてただけだったし、どーせ飲めねーんだろ?」
「飲める」
「何でそこは意地張んの、お前?」
 おそらく荒北自身を含め、周囲が馬鹿にしすぎたのだろうが、炭酸に関して妙に東堂は意固地になる。
「ラムネは飲んでるだろう!」
「……飲んでるネ」
 ここで時間をかけすぎだなどと言うとまたうるさいのが目に見えているので、逆らわないでおく。
 そうすると、また東堂が口を噤み、沈黙が落ちた。
 喋れば喋ったで姦しいし、黙ればまた鬱陶しい。
「で、どーすんの、あのマネジ達」
 問うと嘆息が返ってきた。
「話して、分かってもらうしかない」
「分かってくれねーから今の状況なんじゃないのォ?」
「…………」
「お前、よく和を乱すなっつーけどさァ、あいつら、もういるだけで迷惑なんだよ。取り繕うだけ無駄じゃね? 何言ったって、すぐに誰かとトラブんだろ」
 歯に衣を着せずにばっさりと言い切れば、東堂は深くうつむいて黙り込んだ。
 らしくない。
「…………東堂ォ」
「なんだ?」
「後でラムネ飲む?」
 自分でも下手な物言いだと思ったが、この子供じみているのか大人びているのかよく分からないチームメイトの機嫌を取る方法を、荒北は他に思いつかない。
「もう購買にも売ってないだろう」
「売り切れる前にストック買っといた」
 主に、自分が飲むためではなく、対東堂用なところが情けないが。
「…………飲む」
 大概、こうしてへにゃりと笑み崩れるので、今のところ大変有用な炭酸飲料である。

 マネージャー達と部員間のトラブル勃発は、案外に早かった。
「やめてください!」
「私達、そういうのじゃないんで!」
 珍しく、その主張は彼女達に理があった。
 二年の部員が、しつこく彼女達にちょっかいをかけ、強引に肩を抱いた手を振り払っての厳しい声音である。
 これが、きちんとマネージャー業務に勤しむ姿を普段から見せていれば、悪いのは男子部員の方で、他の部員達は迷わずマネージャーの味方をしただろうが、これまでの態度が態度である。
 じゃあ、どういうのだよ、と周囲の目の温度が下がったのも彼女達の自業自得である。
 ちょっかいを出してきた部員の顔が平均以上か、または能力のある選手だったなら、少々過剰なボディタッチも身をくねらせて受け入れたのではないか、と容易に想像がつくため、まず反感が先立つ。
 周囲の白い目に気づいて、何よ、と口を尖らせる二人に、拒絶された二年が吐き捨てるように皆の共通認識を吐露した。
「これが東堂だったら、きゃーきゃー言うんだろ?」
「東堂君はそんな痴漢みたいなことしません!」
「一緒にしないでください!」
 それ自体は、事実だろう。
 東堂は女子に騒がれるのは大好きで、モテることを平然と自慢するが、彼女達を摘み食いしている様子はなく、一定の距離を保っている。その距離を飛び越えてきた二人を、持て余しているくらいである。
 ただ、ここで引き合いに出すべきではなかった。
「っざけんな……!」
 一年と比べられた上で、徹底的にこきおろされた男子部員が拳を振り上げた。止めに入ろうと一歩踏み出すが、荒北がその腕を掴む前に、さすがに女子を殴りつけることに自制が働いたのか、机を殴りつけるにとどまった。
「っとにいい加減にしろよ、馬鹿女ども!」
 その馬鹿女にちょっかいを出していた事実は都合良く忘れたようで、胴間声を上げると、びくりとマネージャー達が身をすくめる。
「どうした?」
 更に、その場に現れた東堂のタイミングも悪かった。引っ込んでおけ、と手で制すが、間に合わない。
「東堂君!」
「東堂、てめえ!」
 助けに来てくれた、とばかりに喜色を露わにした二人に、殊更に苛立った二年が東堂の胸倉を掴みあげる。
「調子に乗ってんじゃねえよ!」
 さすがに状況も把握できないまま、渦中に巻き込まれた東堂が引きずり倒され、マネージャー達が金切り声を上げ、他の部員も慌てて止めようと駆け寄る。混乱の中で誰が何をどう触ったのか、気づけば彼女達の真上のバーからロードバイクが滑り落ちかけていた。
 嫌な、音がした。
 当事者だったため、その音は鈍い感触として荒北は認識したが、他の部員達も一様に黙り込んで荒北を振り返ったところを見ると、それなりに生々しい音が響いたようだった。
「っぶね」
 咄嗟に掴んだのは落下してきたバイクのタイヤの部分で、スポークがざくりと親指の付け根に食い込んでいた。
「……って」
 肉に食い込んだ針金を慎重に抜き取って、バイクを脇に避けると、ぽたぽたと音を立てて血が滴る。結構深いかもしれない、と思いながら、傷口を押さえながら患部を心臓より上に上げれば、その動作に滴る血が腕に複雑な跡を残した。
「おい、荒北……大丈夫か?」
「大丈夫に見えるゥ?」
 恐る恐る問いかけてきた部員に面倒そうに応じながら、とりあえず止血するものを探す。
「タオル、取って」
 真っ青になっていたマネージャーに声をかけると、びくりと震える。
「ご、ごめんなさ……」
「いーから別に。タオルくれる?」
「私、そんなつもりじゃ……! 荒北……手……!」
 東堂の言う通り、そこまで悪い子ではないのだ。少々、考えと想像力が足りないだけのことである。
 今で言えば、謝罪より止血のためのタオルが欲しい。
「いーよ、別に。もう使わねーし」
 三年前なら、咄嗟のことでも右手は使わなかっただろうと思いながら、おざなりに答えると、その横っ面に平手を食らった。
 全くの不意打ちに一瞬唖然とし、何をするのだと怒鳴りつけようとして、怒り狂った東堂の顔に言葉を失った。
 腕を掴まれ、タオルを手にぐるぐると巻き付けられたかと思うと、そのまま引きずられるようにして部室の外に連れ出される。
「おい……!?」
「保健室。必要なら病院」
 簡易な治療キットは部室にも常備してあるのだが、今の東堂には有無を言わせない迫力があった。何故殴られたのかも分からないまま、引かれるままついて行きかけたところで東堂が足を止めた。
「君達は、うちの部に向いていないと思う」
 ぴしゃりと突きつけられて、顔色を失っていた少女達が身をすくませる。上級生に対しては何も言わず、ただ冷たい目で一薙ぎして東堂は踵を返した。

 保健室は開いていたが、養護教諭の姿はなかった。
 探しに行く手間を惜しんだ東堂が、勝手に棚や引き出しを漁って、ワセリンや包帯を引っ張り出してくると、慎重に血に染まったタオルを外した。
「……縫わなくても大丈夫そうだな」
 最初の出血は派手だったが、もう血は止まりかけていた。
 まず傷口を洗って、傷の深さを確認し、ワセリンを塗った後にラップを巻き、その上に手早く包帯を巻く。
 手早く処置を済ませた後、その手を掴んだまま深くうつむいた東堂に困り果てる。
「東堂……」
「うるせえ、黙れ」
 珍しい口調で返ってきた応答に、更に困惑する。
「…………何、怒ってんの?」
 東堂が激怒しているのは、目の前からひしひしと伝わる怒気で分かるのだが、理由が今一つ理解できない。
 トラブルを起こしたのは二年の部員とマネージャー達で、荒北はたまたまその場に居合わせただけで一切関わっていない。自転車の落下についても、あのまま彼女の頭上に激突していた場合、どんな大事になっていたか知れない。落下自体は事故だったが、それに至る経緯が取り沙汰されれば、部全体の不祥事になった可能性もある。
 荒北が少々切り傷を作る程度のことで済んだのだから、いつもの東堂ならば、よくやった、とでも誉めそうなものだ。
 今回の件の発端となってしまったことに対して、自責と怒りを覚えているというのなら分からないでもないが、しかし、向けられている怒気は完全に荒北に対してのものだった。
 平手打ちを食らった意味も分からない。
「……使うだろうが」
「あ?」
 ぼそり、と低く呟かれた台詞が聞こえづらく、聞き返すと同時に顔を上げた東堂が爛々とした目で荒北を睨めつけた。
「シフトチェンジ、ブレーキ、ハンドル操作! 使うだろうが、この馬鹿!」
「は?」
 何の話だと目を瞬かせると、椅子を蹴って立ち上がった東堂に胸倉を掴まれた。
「使わないから、怪我をしたっていい……? ふざけるな! じゃあオレに寄越せ!」
 右手の話か、とつい先程、怪我に動揺する女子の対応が面倒で、もう使わないなどと口走ったことをようやく思い出す。
 別に本気で使わないなどと思っていたわけではないが、優先順位が数年前と大きく変わっていたことも事実である。むしろ、そう思えるようになっていたことに不思議な感慨を覚えたいところだが、生憎とそんな暇はなかった。
「お前が自分の手を大事にしないなら、オレに寄越せっ!」
「ちょっと待て、お前、怒りポイントそこじゃねーだろ!」
 どうしてそこに一極集中したのかが全く理解できないが、東堂が怒り狂っているのは、荒北が自身の身体をぞんざいに扱った一点に尽きるらしい。
「っせえ! ざけんな!」
 こいつ口悪くなったな、などという感慨にも耽る暇はなかった。
「もういい! お前の身体全部寄越せ! オレが使う!」
「使えるか! お前言ってることメチャクチャだって分かってるか!?」
 支離滅裂な発言に思わず声を高めると同時に、保健室のドアが開いた。
 おそらく、この言い争いは外にも響いていたのだろう、通りすがったらしい女性教師の顔が覗いて、荒北とまともに目が合った。
 まずい、と内心舌打ちしたのは、これまでの経験上である。悪印象の強い荒北と東堂が言い争っていれば、まず確実に荒北が悪者になる。
 何をしているの、と悲鳴じみた制止の声が上がって、血塗れの荒北の腕を見て再度の悲鳴、駆けつけてきた教師に取り押さえられて、そこでこの怒り狂った東堂が取りなしてくれるかが分かれ目になるだろう。
 今度はどんな処分を食らうだろうか、と両手で引っ張った荒北のTシャツに向かって顔を伏した東堂の背を撫でて宥めながら、後ろ向きに考えるが、いつまで経っても悲鳴は聞こえてこなかった。
 不審に思って顔を上げると、教師は静かにドアを閉めているところだった。
「…………いや、ちょっと待て」
 ドアが閉まる直前、向けられた生温い笑顔は何だ、と思わず声を上げる。
 見守られた。
 明らかに微笑ましく見守られた。
 音声を付けるなら、青春っていいわね、とでも言わんばかりの笑顔だった。
 違う。断じて違う。
 こんな訳の分からない生き物に、訳の分からない理屈でぶち切れられるようなものは、断じて青春として認めない。せめてもう少し、分かりやすく、レギュラーの座を争うだとか、好きな女の子を取り合うといった、一般的な青春模様をそれとしてほしい。
「寄越せ」
「何を要求されてんだ、オレは?」
「身体」
 聞きようによっては、多大に誤解を招きそうな一言だ。
「オレの身体どーすんの?」
「大事にする」
「…………それ、フツー、『もっと自分の身体を大事にしろ』って言えば済まね?」
「しないだろ」
 だから寄越せ、という要求が非常に不可解である。
「やれるか。つーか、お前相当テンパってるから、ちょっと落ち着け」
 結局のところは、それに尽きるのだとようやく理解して、荒北は大きく息を吐き出しながら、クライマーの細身を抱き込んだ。
「な?」
 改めてその背を撫でて宥めていると、少し落ち着いたらしい東堂がおとなしくなってきた。代わりに、その耳に血の色が集まってきたのは、己の言動を思い返す程度に冷静になったからだろう。
 荒北の肩口に頭を預けて、動かなくなった東堂の様子を窺いながら、荒北は恐る恐る声をかけた。
「…………東堂、ラムネ飲む?」
「……お前、ラムネ渡せばオレの機嫌取れると思ってるだろう?」
 他に取り方を知らないだけである。
「飲む?」
「……飲む」