ラムネ・レッスン - 4/7

Lesson 4

「ナァ、週明けの練習メニュー、まだ出ねーの?」
 いつもならば、やたらと達筆な東堂の字で書かれた週間予定が渡されている時期なのに、どうしたのだ、と東堂の自室をノックもせずに開けて催促すると、返事の代わりに消しゴムが投げつけられた。
 机に向かって、何やら真面目に勉強していたらしい東堂が、目を据わらせて椅子を回転させて振り返った。
「昨日も今日も朝と夕のミーティングの時に言っていただろうが! 月曜からはテスト前週間で部活禁止だ」
「アー」
 そういえばそんな時期か、と思い出す。
「テスト終わったらすぐに文化祭の準備だし、色々忙しいぞ。部でもカフェやることになってるし、クラスの企画もあるだろう? もちろん練習はテスト前にできない分みっちりやるんだから、絶対に赤点取って追試など受けるなよ」
「アー」
 返事は先程と全く同じ音だったが、含まれた微妙なニュアンスの変化に鋭く気がついた東堂が、ぎろりと荒北を睨んだ。
「…………荒北、一つ、聞いていいか?」
「ナァニ?」
「お前、一学期の期末、追試あったのか?」
「ンー」
「あったんだな?」
 こうなると何とも言い難い迫力で怒りを滲ませてくるのが、この小柄なクライマーの厄介なところで、この件に関しては完全に分が悪いので、最初から荒北は及び腰である。
「しかも、その口振り、一つじゃないな?」
「アー、まぁ、ホラ……」
「お前、赤点二つ以上取ったら部の連帯責任になるんだぞ? 今なら文化祭の出展取りやめになるし、夏前は赤点取った部員の学年は強化合宿に連れて行ってもらえずに全員で補講になると、散々脅されただろうが」
「エ?」
 真顔の東堂に嘘を言っている様子はない。しかし、かなり酷い点数だった前学期のテスト結果は、個人的に追試や補講を受けさせられはしたものの、部活動にペナルティを科せられた記憶はない。
「…………お前、まさか連帯責任にすらカウントされてなかったのか」
「アー、そもそも強化合宿行ってねェや」
 期末試験後のテスト休み期間にあった合宿だが、赤点の山で期間中ずっと補講を受けていたし、福富が部室の鍵をくれて、きちんと戸締まりと片付けをすることを絶対条件に、練習メニューを山積みにしていったので、合宿に行かなかったごく少数の部員で自由に機材を使えて便利だった覚えがある。
 今の話を聞くに、どうやら荒北は部の一員としてカウントされず、連帯責任の対象外として、合宿期間は置き去りにされていたものらしい。
 なかなかに酷い扱いだが、少なくとも一学期の間は荒北は自転車部において完全なる異物で、顧問と主将に一度だけやる気を問われた後は、全て福富に一任している、との一言で一切干渉されなかった。
 ここ最近、他の部員と同じ練習に参加しはじめてからやっと、監督や主将からのアドバイスや指示が直接されるようになったのだ。明言されたことはないが、これまでは部員として扱われていなかったことを、荒北は知っている。
「…………フク、どれだけ頭を下げて認めてもらったんだ……」
 両手に顔を埋めて呻いた東堂に、返す言葉もない。
 学校側と部の間でどんなやりとりが交わされたかを、当人が全く知らないということは、きっと福富が何も言わずに各方面に頭を下げて回り、荒北には補講を真面目に受けることと個人練習メニューだけを告げたのだ。
「…………荒北」
「ハイッ」
 地の底を這うような低い声音に、荒北は珍しく姿勢を正した。
「今度は、絶対に、赤点を許さない」
「……ハイ」
 東堂の最優先事項が福富の負担を減らすことであるのを知っているので、荒北も逆らわずうなずいた。
「嫌とか恥ずかしいとか、一切聞かない。今すぐ一学期の中間と期末の答案を全部持ってこい」
「ハイ、ワカリマシタ」
 有無を言わさない迫力に、荒北はすぐさま踵を返した。

「………………」
 しわくちゃの答案を広げて、ただ無言になった東堂に、荒北は床に座ったまま居心地悪く身動いだ。正座をしろと命じられたわけではないが、空気に飲まれて姿勢を正して座り、既に足が痺れかけている。
 一部見つからなかったものもあった、ぐちゃぐちゃの荒北の答案の横に並んでいるのが、きちんとファイリングされていたと思しき東堂の答案なので、その保管の差が歴然としているが、問題は答案用紙の綺麗さではない。
 間違い箇所を見比べて、どこが苦手なのかを把握しようとしたらしいが、はっきりいってそれ以前の問題である。
「なあ、荒北」
「ハイ」
「お前、授業についていけてるのか?」
 いつものテンションの高い上からの物言いではなく、穏やかな声音の方が身に染みた。
「……チャリ部入ってからは、授業フケなくなったから、まぁ、前よりは、ちゃんと聞いてる。寝ちまってる時もあるけど」
「寝るな。しかし確かに、中間よりは期末の方が赤点の数が減っているな」
 ほとんど白紙で提出している中間考査は酷い結果で、一桁の点数の答案が当たり前のようにあるが、期末の答案は少なくとも回答欄を埋める努力はしている。
「お前、いつからその、ツッパリ? というか、授業に出なくなったんだ?」
「中二の、夏。いや……グレたのは冬頃、かな……」
 肘を壊して、手術をした。
 回復には半年必要と言われて、最初の数ヶ月はリハビリに専念した。周囲も最初は励まして、そして、裏切った。
 発端は人間関係の縺れからで、一度崩れれば、瞬く間に学校生活は破綻した。
 ふと視界が陰って、はたと目を上げると、ごく至近距離に淡い色の瞳があった。学習椅子に腰掛けたまま、身を乗り出すようにして荒北を覗き込む双眸は、ひどく異様だった。
 何を見ているのか分からない、不思議な風合いの瞳だと思っていたが、間近にすれば瞳孔と光彩の境目の色合いが曖昧だからだと知れる。ガラス玉のような目をしているくせに、そこには強固な意志があった。
「荒北」
 東堂の手が荒北の両耳を軽く塞いで、寮の生活音を遮断すると、まっすぐな声だけが届いた。
「お前がグレた理由なんぞ、どうでもいい。今、必要なのは、お前がどの時点で基礎学力が止まっているかの確認だけだ。いいか? 今大事なのは、来週のテストだ」
 単純明快な竹を割ったような理論で、清々しい。
 どろりと絡みついた過去をあっさりと吹き散らして、まっすぐな声が明確に目的を示す。
「中二の終わり頃から授業をちゃんと受けてないんだな? それまでの成績はどうだった?」
「フツー?」
「平均点は取れていた?」
「アー、国語と英語はちょい悪かった、かも」
「ああ、文系嫌いそうだな、お前」
 科目の好き嫌いが明確に分かる、典型的なタイプだった。
「……お前、数学と化学苦手じゃね?」
「うるさい!」
 図星だったのか、一瞬声を荒げた東堂が、自分の話はいいと棚上げして話を戻した。
「よし、分かった。オレ一人じゃどうにもならん」
「おい……」
「一人で全科目カバーできるか! フクと隼人も巻き込む!」
 言って、携帯を高々と掲げた東堂が、二人に召喚メールを送ったものらしい。
 別に掲げなくてもいいんじゃないかと思いつつ。今回は立場が弱いので突っ込まずにいると、すぐに一つ下の階の福富と新開がやってきて合流した。
 物が少ない東堂の部屋だが、元々が狭いので四人も入り込むといっぱいいっぱいだ。ベッドに二人が腰掛け、東堂は自分の椅子に座ったまま、荒北が一人で床に直に座っているので、晒し者になっている気がしてくるのは被害妄想だろうか。
 手短に事情を説明され、惨憺たる有様のテスト用紙を手にした新開が首を捻った。
「なあ、靖友、ちょっと聞いていいか?」
「……ナニ?」
「おめさん、何で箱学入れたんだ?」
 こちらも穏やかな顔で、きついことを言う。
「二次募集だったからじゃね? 試験も作文と面接だけだったし」
「作文……」
「面接?」
 新開と東堂が示し合わせたように言葉を分け合って、顔を見合わせた。
「ちゃんと真面目に書いた?」
「まさかあの頭で面接受けたのか!?」
 作文は志望理由だったので、一言「野球部がないから」と書き、髪は散々親と喧嘩した末に渋々下ろしていったものの、落ちたら落ちたで構わないと、面接の態度は最悪だった。
 思い返してみると、何故合格したのか自分でも謎である。
「…………定員割れ?」
「それもだろうが、最初の数ヶ月で退学するだろうと踏んで、入学金や学費、諸費用だけいただくつもりだったんじゃ……」
「入寮費とかな……」
「生々しいヒソヒソ話すんな!」
 そんな気がしてくるからヤメロ、と怒鳴れば新開と東堂は手を繋ぎ合ってわざとらしく身を縮ませ、代わりに福富が荒北の頭の上に宥めるように手を置いた。
「やめて、福ちゃん、優しさが染みるからやめて……」
「どうした、靖友? ハグしてやろうか?」
「お前は東堂とイチャついてろ!」
 両手を広げてくる暑苦しいチームメイトの腹を蹴り込むと、じゃれるな、と東堂に背を蹴られた。
「さて、とりあえず対策を考えよう。まず、当面の目標として赤点回避。勉強の仕方としてはどうかと思うが、とにかくテスト範囲を乗り切ることを考える。オレは歴史と政経、国語は面倒見る。フク、理数系頼む。新開、たぶん一番厳しいが、英語をどうにかしてやってくれ」
 各々の得意科目を元に勝手に采配していく東堂に、特に異議はないようで、二人ともあっさりとうなずく。
「ついでに皆でテスト勉強すればいいんじゃないか?」
「そうだな。後は、ちょっと上級生に掛け合って、過去問が手に入るか試してみる」
 そこは身近に上の学年がいる、寮生活の強みである。
「学習室は使えるか?」
「前のテスト期間も上の学年に占拠されてたからな。食堂が一番確実じゃないか?」
 他の寮生もテスト期間なので、普段のように騒がしいこともないだろう。
 諸々を取り決めて、怒涛のテスト期間が始まった。

「ッわったァー。なんかもう、一生で一番勉強した……」
 中間考査最終日、しばらく放課後の勉強机の代わりだった学食のテーブルに突っ伏して呻くと、横の席から伸びてきた左手が、荒北の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「大学受験の時はもっと大変だと思うぞ」
「や、もォ絶対しねーよ、進学とか」
 高校受験というものに真面目に取り組まなかったので、嘘偽りなくこれまでの人生の中で今回ほど勉強したことはない。
 もう無理、と泣き言を洩らせば、あと二年間あるぞ、と無情な答えが返ってくる。
 人の頭を撫で回しながら、右手で忙しく教科書とプリントを捲っていた東堂が、ようやくペンを置いた。
「よし、お前が答案に書き間違えてなければ、全教科赤点回避だ」
 自己採点を終えた東堂の満足げな宣言に、見守っていた福富と新開がほっと息を吐き出して荒北の肩や背を叩いた。
「がんばったな」
「おつかれ、食う?」
 差し出されたパワーバーを、珍しく拒否せずに口を開けて齧り付く。
「おー、疲れてるな」
「ひたすらローラー回すより、エネルギー消耗した……」
「糖分補給しとけ」
 例のごとくラムネを口の中に押し込まれて、逆らう気もなく噛み砕いた。
 いつでもパワーバーが出てくる新開もだが、東堂も大概何か菓子を持ち歩いている上に、自分で食べずに人に押しつけてくるのが難儀である。しかも、新開と違って断る間もなく口の中に放り込んでくる。
「そんなものを食べてないで、昼にしないか?」
 今日のテストは午前中で全て終了したので、昼食を終えれば部活の再開である。
 食事のために集まったのだが、東堂が採点を優先していたので、他のメンバーも注文をせずに、席だけ確保しておとなしく待っていたのだ。
「オレ達に感謝の気持ちを込めて昼を奢ってもいいんだぞ?」
「わーったよ、何がいい?」
 この試験の件では三人に非常に世話になったのは確かなので、恩着せがましい東堂の台詞に嘆息しながらも、承諾して立ち上がる。
「お、マジ? じゃあオレA定食特盛りで、あとプリン」
 気兼ねなく注文を告げたのは新開で、福富は、と目を向けると真剣な顔で壁のメニューを見据えている。
「……一人じゃ持てねーから、一緒行く?」
「分かった、それまでに決める」
「東堂はァ?」
「親子丼とサラダ。ところでお前、なんか異常に数学の点数良くないか?」
 こちらは早々に注文を決めていて、手元の問題用紙を再度見比べていた東堂が、複雑な顔をしている。
 とにかく付け焼き刃のテスト対策しかできなかったので、赤点すれすれのものから、おそらくは平均点だろうと思われる辺りの得点なのだが、数学だけが突出して良い。
「ああ、数学は飲み込み早かったから、中学の分まで全部カバーできている」
「だって、数学って公式覚えりゃ解けんダロ?」
 もう数学を教える必要はないと断言した福富と、当たり前の顔で言い切った荒北に、東堂が愕然とした顔をした。
「荒北……その顔で理数系だと……?」
「顔はカンケーねーだろ!」
 どんな偏見だ、と噛みつくが東堂の渋い顔の理由に気づいて、にやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「ところで東堂チャンは、数学の自己採点何点?」
「……荒北のくせに生意気だ!」
 どうやらかなりの得点差があったようで、子供じみた怒りをぶつけて指差してくる手を掴んで、にんまりと笑ってみせる。
「数学教えてやろうか、東堂チャン?」
「調子に乗るなよ! ロクに漢字書けないくせに!」
「いいんだよ、漢字なんて書けなくても、携帯で変換すりゃいいんだし」
「駄目な若者の典型か!」
 喚く東堂をいなしていると、不意に頭上で校内放送のチャイムが鳴った。
 このテーブルだけでなく、テスト終了の開放感でいつもの三割増で騒々しかった食堂内も、少し静まった。
『一年F組、荒北靖友、至急、職員室まで来なさい。繰り返す、一年F組、荒北靖友、至急、職員室まで来なさい』
 天井のスピーカーからまさかの自分の名が呼ばれて、荒北は目を瞬かせた。
「……靖友、なんかした?」
「いや……覚えねェけど」
 一学期の最初はこの手の呼び出しもよくあったし、それを頭から無視したりもしたが、ここ最近ではなかったことである。
「荒北、よく思い出せ。何か無意識に壊したりしてないか?」
「……してねーよ、たぶん」
 乱暴な扱いで部の備品を多数破壊した実績があるので、この件に関して東堂の心証が非常に悪く、信用がない。
 もっと丁寧に物を扱えだの、動作が力任せで品がないだのと常日頃から喧しいが、こうやって呼び出されるとなると、東堂に理がある。
「実家の方から何か連絡が入ったのかもしれない」
 福富の指摘に、はたとその可能性に気づく。
「あ、携帯、部屋置きっぱだ」
 試験中は携帯の扱いについて学校側がうるさいのと、滅多に連絡も入らないため、必要ないと充電器に差しっぱなしで置いてきた。
 携帯に連絡しても繋がらないと、家から学校の方に連絡が入った可能性も強くなってきた。こんな昼間に急ぎで連絡をしてくるなら、なにか緊急の事態だろう。一瞬のうちに悪い想像が駆け巡って、顔色を変えた荒北の肩を福富が叩いた。
「ここで考えていても意味がない。行ってこい」
「ン。メシ、先食ってて。待たなくていーから部室行ってろよ。主将に状況伝えといて。新開、部室掃除当番また忘れんなよ! あ、あと奢んのはまた今度な!」
 福富に促されて、数歩進みかけて思い出したように、振り返って色々と言うのを、さっさと行けと手を振って追い払う。
「靖友って、割と世話焼きタイプだよな」
「アレに言わなきゃ駄目だと判断されたことを恥じろ、隼人」
 これが当番が福富や東堂だったらわざわざ言わなかっただろうと指摘され、新開は肩をすくめて話題を変えた。
「まあ、彼、馴染んだね」
「一時期はどうなるかと思ったがな。フク、得意満面な顔しない」
「してたか?」
「しているとも」
 傍から見ていても表情の変化はほとんどないのだが、東堂は古馴染みの新開と同レベルで福富の表情を読む。
 とりあえずいい加減昼を食べようと、手分けしてランチを注文し、トレイを並べてテストの答え合わせや、再開される部活のことをだらだらと喋りながら箸を動かす。
 時折、誰かの目が食堂の入り口に向けられるが、荒北が戻ってくる気配はない。
 普段より皆ゆっくりと食べていたはずだが、一番食べるのが遅い東堂の皿も空になり、これは先に部室にいくしかないかと意見がまとまりかけた時に、隣のテーブルに遅れてやってきた一年生二人組が座った。
 上履きの色で同学年と知れたが、三人とは部もクラスも被っていないらしく、全く面識がない。挨拶を交わすこともなく座った二人と入れ替えに立ち上がりかけ、聞こえてきた会話に揃って動作を止めた。
「さっきさぁ、荒北呼び出されてたじゃん? 俺、さっきまで職員室いたんだけど、なんかアイツ、今回カンニングしてたらしくって」
「うっわ、バカじゃねーの。アイツなら停学どころか、退学食らうんじゃね?」
「アイツ、ほんと迷惑だったもんな……」
 同級生なのか、ごく最近まで荒れていてあまり心証がよくないらしい荒北の悪口を肴に、ランチに手を付けようとした二人は、横で椅子を蹴倒して立ち上がった新開に仰天した。
 顔色を変えて振り向いた形相にも驚いたが、横の派手な金髪の男が問答無用でその頭に拳骨を振り下ろし、向かいの席の学園の有名人がほぼ同時にその頬を平手打ちを食らわせたのにも驚いた。
「何するんだよ!」
 同時に友人達から殴られて声を荒げた新開に、福富と東堂が落ち着け、と目を据わらせる。
「相手はそこの二人じゃない。カッとなって暴れるな、バカ隼人」
 ぴしゃりと新開を黙らせるのを東堂に任せ、福富は手早く荷物をまとめると東堂に手を伸ばした。
「オレは職員室に行く。東堂、荒北の問題用紙を寄越せ」
「オレも一緒に……」
「いや、寮に戻ってノートを取ってこい。おまえなら寮監に頼んで荒北の部屋も入れるだろう。その間にオレが状況把握する」
「分かった、すぐ行く」
 福富の言葉少なな指示の意図を把握し、先程まで答え合わせをしていたプリントを福富に渡すと、東堂も荷物をまとめて立ち上がった。
「新開は部室に行って、コーチや先輩達に話通していてくれ」
「隼人、後を頼む」
 有無を言わせず畳み掛けて踵を返した二人に置き去りにされた新開が、一瞬唖然としてから友人達が自分が職員室で暴れかねないと判断して遠ざけたことに気がついた。
「くっそ……!」
 腹立ち紛れにテーブルに両手を叩きつけると、置き去りのトレイと隣で怖々と様子を窺っていた生徒達が小さく跳び上がった。

 そういえば、自分は頑張るのが嫌いだったと荒北は思い出していた。
 どうにも態度が悪いのか、努力が認められにくいことが多かった。もっと頑張れ、もっと頑張れと平然と周囲は要求してきて、応えているのに認められない。頑張りすぎて身体を損ねても、無理をさせた方はその責任を取りはしないのだと、気づいた時には取り返しが付かなかった。
 今回は、頑張ってみて、成果を出したら信用されなかった、というところだろうか。
 最初、迂遠な物言いをする担任が何を言いたいのか分からず、顔をしかめていたのが態度が悪いと判断されたらしい。学年主任が横から決めつけるように口を出してきて、初めてカンニングを疑われていたのだと理解した。暴れ出すのを危惧されたのだろう、回りを体育会系の教師が固めていることに気がついて、全てがどうでもよくなった。
 どうせ何を言っても無駄だと黙り込んで、ただ目の前の机の上に並べられた答案用紙を見やる。大体、あの口喧しいクライマーが採点した通りの点数で、今までの成績を考えれば確かに自分でも信じられないような得点だ。
 荒北を信用していない教師達が、それを不当な手段によるものだと判断したのは、それほど不思議な話でもなかった。
 頭では理解できるし、腹も立たなかった。ただ、何もかもがどうでもよくなった。
 その投げやりな態度で、教師達は疑惑を確信に変えたのだろう。
「そういう態度なら仕方ない。荒北、親御さんも呼んで話をするしかなくなるが……」
 職員室のドアがノックされたのはその時だった。
「失礼します!」
 ノックと言うよりは、金属製のスライドドアがレールから外れそうな勢いで撓んで、ドアの向こうから上がった声も、ただの入室の挨拶というよりは、実際にこれから非礼をはたらくことの宣言のようだった。
 ずかずかと職員室に踏み込んできた福富は、まっすぐ荒北に向かってくると目の前に仁王立ち、机の上に並べられた答案を一瞥した。
「荒北、どういうことだ?」
「……別に」
 信用されないのは慣れているが、福富の淡々とした問いは少し痛かった。顔を背けると、一つ嘆息した福富は教師陣に向き直った。
「荒北は何か弁明を?」
 突然乱入してきた生徒に、教師達ははっきりと嫌そうな顔をした。
 福富の生活態度に接している教師ならば、彼が生真面目な生徒だと理解しているが、派手な金髪と生硬な表情の印象はあまり良いものではない。
 不良の仲間が乗り込んできた、と判断されたことに気づいて、荒北は大きく顔をしかめた。
「福ちゃん、いーカラ」
「何がいいんだ?」
 真顔で問い返した福富に舌打ちする。
「カンケーねーだろ」
「そうだ、部外者は出て行きなさい。まだ職員室の立ち入り禁止期間だ」
 荒北の台詞に被せるように叱責した教師を、福富はじろりと睨みやった。本人にそのつもりはないのだろうが、福富もまた表情でマイナスのイメージを与えやすいという意味では荒北と同様である。
「部外者じゃありません」
 一年生にしては迫力のある雰囲気と、運動部の体格の良さに警戒の色を強めた大人達にこれはまずい、と表情を変え、一歩踏み出しかけるが、その動作すら逆効果だった。彼が暴れ出すことを前提に身構えた教師達に、このままだと福富まで巻き込むと、気づくのが少し遅かった。
「福ちゃん、いいから、頼むから放っとけって……」
「何も良くないし、オレは絶対にお前を放っておかない」
 融通の利かない頑なな声に、元より短気な上に、この状況に焦れていた荒北の怒りが振り切れた。
「っのなァ……!」
「やめなさい!」
 思わず福富の胸倉を掴み上げた荒北を制そうと、体育教師が割り込んできて、一瞬揉み合いになりかけた空気を断ち切ったのは、勢いよく開いたドアの音と、それに被せられた入室の挨拶だった。
「失礼します!」
 高らかに響いた声音は、うんざりするほど聞き知ったもので、先の福富のものよりよく通って、その場の全員を振り返らせた。
 普段は全くドアの開け閉めに音を立てないのだから、あえて音高く入室したのだろう。注目を浴びて当然のような顔をしている姿もよく見知っている。
「東堂、お前まで……」
 目立つのが大好きな東堂は、教師陣にも顔を知られているのか、福富の時とは反応が少し異なった。困ったような、呆れたような顔をしているが、荒北や福富に向けていた警戒の色は全くない。
 おそらく、荒北も彼らと同じような顔をしている。
 何をしにきたのだと睨みやると、まっすぐに荒北を見返した東堂がつかつかと歩み寄ってきて、荒北の手を見据えた。
 その手が福富のシャツを掴んだままだと気づいて、慌ててその手を外すと、東堂は深々と嘆息して今度は福富の手に視線を転じた。その手は入ってきた時からクリアファイルを握りしめたままだった。
「……福富、荒北、何をしている?」
 珍しく福富のことまで呼び捨てた声は、いつもより音程も温度も低かった。 
「何故か話が少しこじれた」
「少しか?」
 福富の淡々とした回答に、東堂が眉をひそめる。
「ちゃんと、荒北はテストに真剣に取り組んで、不正など絶対にしていないと主張したか? あと、荒北にそれが通じているか?」
「そのつもりだが……」
「……いや、言ってねーよ、福ちゃん……?」
 先程のやりとりの中の、どこにもそんな要素はなかったはずだが、当人はその主張をしていたつもりだったらしい。
「来た時点で雰囲気がおかしかったから、荒北に状況を聞いて、答えなかったので先生方にも確認して、双方から関係ないと言われたから、荒北は自転車部だから関係あるので放置できないと言ったら、荒北が怒り出した」
「福ちゃん……」
 彼が職員室に入ってきてからの言動を、今の主張の通りに解釈できた者は誰一人としていない。
 思わず手で顔を覆って呻いた荒北に、大体のところを察したらしい東堂が、びしりと福富を指で示した。
「……フクは、言葉が決定的に足りない!」
 この時ばかりは全面的に賛成したい東堂の指摘だったが、その矛先は荒北にも向いた。
「それで荒北は、きちんと疑惑を否定したのか?」
 していないのだろう、と決めつける口調だが、実際にその通りなので反論もできない。
「したならしたと言え。してないことは否定しろ。諦めるな、面倒くさがるな、不貞腐れて悪ぶるな、このバカ! 誤解を誤解のままにして解決することなど何一つない! 大体お前は見た目も態度も悪いんだ、せめて誠実に言葉を尽くさなければ、余計に物事がこじれるに決まっているだろう! いつもの大口はどうした! はっきり言え、お前はカンニングをしたのか?」
「してねーよ!」
 怒濤の勢いでこき下ろされ、思わず怒鳴り返すと、東堂は得たりと笑って、教師陣に向き直った。
「というわけで、荒北君はカンニングを否定しています。僕達は彼が実力で頑張ったと信じています。そして、彼が今回の試験勉強に使ったノートと問題集がこちら。これは自己採点した問題用紙。まずこれを見て、彼が不正をしたかどうかご判断ください。また、僕らは寮の食堂で試験勉強をしていましたので、それは他の寮生も知っています。必要ならば、寮長が証言してくれると約束してくれましたが、呼びましょうか?」
 持ってきたノートや福富が握りしめていた問題用紙を広げられていた答案の上に置いて、ぺらぺらとまくし立てる。
「リョーチョー?」
「話を聞いて怒ってたぞ。寮長、勉強見てくれてたらしいな?」
「アー、そこまだ習ってねーってとこまで」
 テスト範囲のところでいいというのを聞かずに、あれもこれもと詰め込んでくれた眼鏡の先輩の顔を思い出す。体育会系のノリの寮生が多い中で、寮長の任を押しつけられたのが目に見える気弱そうな文化系で、入寮当初非常に荒れていた荒北に、役職上仕方なくビクビクしながら関わってきた。そのくせ、案外に図太いところがあるようで、今でもまだ寮で少し浮いている荒北に対し、及び腰ながらも思うがままに勉強法を押しつけてくる変わった人物である。
 東堂が寮長と親しくしている姿を見たことはないが、物怖じしない性格の東堂が職員室に入ってからの一連の行動のように、口八丁手八丁で相手を巻き込んだ様が目に見える。
 快刀乱麻、今回の現国のテストの設問にあって、漢字を間違えて減点された四字熟語をふと思い出す。
 何でも叩き切ればいいわけではないだろうが、単純明快に物事を両断していく様はただただ鮮やかだ。
 どうせ拗れるだけだと荒北が放り出した全てを叩き切ってみせて、東堂はびしりと荒北を指し示した。
「いいか、今回のことはお前の顔と態度が悪いから招いたことだ!」
「顔カンケねーだろ!」
「あるわ! お前の顔はどう見ても真面目に試験勉強しているように見えん! 第一印象が悪いのに態度まで悪ければ、疑いをかけられても仕方がないだろう! 更に誤解を解く努力も諦めて捨て鉢になる! 改めろ!」
「何様だ、テメエは!?」
 上から目線にも程がある台詞に思わず噛みついて、はたと気づいて周囲に目を走らせるが、教師陣はこの口調は荒いが素っ頓狂なやりとりを喧嘩とは捉えなかったようで、どちらかというと呆れ顔だった。
 ぽん、と肩に置かれた手は福富のもので、表情に乏しい彼の心情は謎だったが、手の温かさが妙に身に染みた。
「…………何なの、お前ら?」
「何とはご挨拶だな、チームメイトだ!」
 単純明快とばかりに高らかに宣言した東堂に、きっぱりと福富がうなずいて同意を示したことに、思わず頭を抱える。
「荒北、お前、いい友達できたなあ……」
「……友達じゃ、ねェし」
 しみじみとした教師の述懐に、頭を抱えて否定した荒北の腕の隙間から覗く耳は真っ赤だった。

「……で、新開がすげー面倒くせェんだけどォ?」
「隼人にも困ったものだな」
「全くだ」
「お前らのせいだよなァ?」
 まるで他人事のようにうなずきあう東堂と福富を半眼で睨むが、いっかな恐れ入った様子はない。
 少し前まで、荒北が不機嫌そうに睨めば、大体の生徒はびくついた顔で引き下がったものだが、どうにも最近威力が半減している上に、元々彼らは荒北に怯えた試しがない。
「お前らがハブにすっからだろーが」
 職員室に乗り込んできた面子の中に新開の顔がなかったのを疑問に思ったのは、少し後になって冷静になってからだった。三人の間でどんなやりとりがあったかは不明だが、どうやら一人だけこの件から除外されたものらしい。
 あの後、採点結果については再考の上でまた連絡する、とカンニングの不正疑惑は晴れた雰囲気になって、安堵しつつ大幅に遅刻して三人が部に合流した時には、完全に新開は拗ねていた。
 寮に戻った後、特に示し合わせもせず荒北の部屋に全員集まってきたが、ふて腐れた新開の滲ませる怒気で空気が悪い。
「しかし、フクと隼人を先に行かせていたら、たぶんオレは間に合わなかったぞ? フクは言葉が足りないし、隼人は我慢が足らない」
 とりあえず、東堂に足りないのは配慮ではないかと思われたが、福富と東堂の態度からして、新開があの場に乱入していたら暴れていたに違いないというのが共通見解のようである。
 新開の飄々としているようで、案外に直情型の性格について、異論はないので、付き合いの長い福富や、仲の良い東堂がそう言うのならば、事態があれ以上こじれるのを避けた判断に間違いはなかったのだろう。
 今、この場で人間関係がこじれているような気がするのだが。
「おい、新開」
 福富と東堂から均等に距離を取った結果、荒北の背後で膝を抱えて拗ねる新開を押し潰すように体重をかけてやると、重いと唸ってようやくこちらを向いた。
「ケンカすんな」
「してない」
「じゃあスネんな」
「スネてない」
 どうにかしろ、と福富と東堂を睨みやるが、どちらも素知らぬ顔である。
 こいつら、と歯がみするが、取り合う気がないようなので頼るのは諦め、更に背に体重をかけると、あまり身体の柔らかくない新開は痛いと悲鳴を上げる。
「新開、何が食いたい?」
「……なにそれ?」
「昼、奢るって言ったけできなかったからァ。リクエストあんなら受け付けるって言ってンの」
「お、食べ物で懐柔を試みたか」
「妥当だな」
「お前ら、ケンカすんなら、お前らだけやってくんないかなァ!?」
 横から茶々をいれる東堂と福富の態度がこの状況を招いたのだろうと睨み付けるが、何故か彼らは荒北を挟んでじゃれている節がある。
「優しいの、靖友だけだ……!」
「抱きつくな!」
 新開も拗ねた振りをしているだけではないかという疑惑が拭えず、背中に覆い被さってきた新開を引きはがしてその頭を張り倒す。そのまま床に転がった新開が、仰向けになって荒北の手を掴んだ。
「じゃあメシはいーから、今度俺とTT出て?」
「機材持ってねーよ」
「部のがある」
「つーか、TTの乗り方知らねーぞ、オレ」
「教える。っていうか、寿一と尽八ばっか靖友に教えててズルい!」
「……まあ、イーケド」
 どうにもハメられたような気がひしひしとするのだが、抵抗するだけ無駄だと諦めた。言質を取った新開がガッツポーズをする横で、そわりと福富が身動いだ。
「…………福ちゃんは?」
「……次のレースで、アシストやってみないか?」
「イーヨ」
 自転車馬鹿達の要求はある意味分かりやすい。まだ未熟な荒北と走ることが、どれだけ彼らにとって意義があるのかは不明だが、嬉しそうなのでそれでいいのだろう。
 最後にウキウキとした顔で身を乗り出してきた東堂に、荒北は冷たい目を向けた。
「クライムレースなら出ねーぞ」
「どうしてだ!」
 要望を先に封じられ、坂馬鹿がむくれた。
「疲れるからヤダ」
 完全に置いて行かれることが目に見えているので、最初からやる気も起きないと投げやりに拒否すると、今度は東堂が拗ねる顔になった。
 面倒くさい連中だと嘆息しながら、荒北は机の下に置いていたビニール袋を引っ張り出した。
「お前はコレな」
 むっとした顔の前に突き出すと、目を大きく瞬かせる。
「何だ?」
「ラムネ。瓶のやつ」
「それは前から約束してた分だろう! というか、忘れたと思ってたぞ!」
「やっと見つけたから買っといてやったんだろ」
 この時期、瓶のラムネなどどこにも見かけず、少し前に小田原に買い出しに出た際に、物産展でようやく見つけた代物である。試験期間のゴタゴタですっかり渡しそびれていたのだが。
「学校の購買で普通に売ってるぞ?」
「マジで!?」
 置いているはずがないと思い込んでいたので、完全に盲点になっていた。
「外で探してたのか、お前」
 購買で売っているので、気楽にワガママを言っていたらしいと今更知って、早くその情報を伝えろと溜息を吐く。
「そうか、探してたのか」
「っせ」
 黙れ、とカチューシャごと髪をかき混ぜると、痛いと悲鳴を上げるが、すぐにへにゃりと笑み崩れた。
「ンだよ、その顔は?」
「綺麗な瓶だ」
「……ヨカッタネ」
 物産展にわざわざ並んでいたのだから、通常のものとは少し違う仕様の瓶なのだろう。薄青いレトロな形状のガラス瓶を照明に透かして、中の気泡を嬉しそうに眺める姿に、それ以上何を言う気も失せて、代わりに今のやりとりを、にやにやと笑って見ていた新開の腹に黙って拳を突き込んだ。