Lesson 2
「尽八くん、がんばってねー!」
「応援してるからー!」
差し入れと称して何か可愛らしい紙袋を手渡した後、どうやら三年生らしい女生徒二人はそう声を上げて手を振った。
ぺこり、と頭を下げて戻ってきた東堂の顔に照れはなく、迎える部員達もからかったりなどしない。東堂のメンタリティは非常に特殊で、女子からの差し入れや応援を当然のものと考えているので、からかったところで何の恥じらいも見せない。下手につつけば平然と自慢してくるだけなので、構うだけ無駄だと皆早々に割り切っている。
どうにも、東堂は自分のことをアイドルか何かと勘違いしている節があり、ごく一部の取り巻きがそれを助長させるように彼を支持しているため、東堂の珍妙な性格は改善される見込みが今のところない。
「今日は何もらったんだ?」
「菓子だと思うが」
冷蔵が必要なものかを確認するために、中身を改めた東堂が、諸々全般を無視してストレッチをしていた荒北を振り返った。
「荒北!」
気軽に呼ばれて、一応顔を上げるが、手招きに応じる必要性を感じず、じろりと睨んで拒絶を示すが、東堂は少し考えこんで呼びかけを変えた。
「ラッキー! 来い来い!」
「誰がラッキーだ!」
人の名字を勝手に犬の名前のように改変し、膝を叩いて呼ばう東堂に思わず噛みつく。
「ほら」
小さなリボンの付いたセロハンの包みを渡され、荒北は不機嫌そうに口角を下げた。かなり凶悪な表情になったはずだが、東堂は頓着せずに近づいてくると、紙袋から引っ張り出した手を荒北の顔に押し当てる。
有無を言わさず口の中に放り込まれた硬い何かに、荒北は大きく顔をしかめる。
「ンだよ、これ?」
「ラムネ」
そう言って東堂が紙袋から摘み上げたセロハンの袋の中には、数字やハート、星など可愛らしい形に成形された色とりどりの砂糖菓子が詰まっていた。
「持ってろ」
「いらねーよ」
女子からもらったものを、そのままこちらに寄越してくる東堂に渋面で突き返すが、問答無用でジャージのポケットに突っ込まれた。
「またひっくり返られると困るからな」
先日ハンガーノックを起こして以来、どうやら東堂の中で荒北は顔を見たら、何か手持ちの菓子を口の中にいれなくてはならない相手と認識されたらしい。拒んで文句を言おうと口を開けた端から、金平糖やらラムネを放り込まれるので、渋々手で受け取るようになった荒北である。
一応、自分でも色々試してみて、いつまでも口の中に甘いものが残るのが嫌で、手がべたつくのも嫌だというわがままから、ゼリーパックとラムネの補給食になんとなく落ち着いた。
それ以来、練習中にエネルギー切れを起こしてはいないのだが、いちいち絡んでくる東堂が鬱陶しい。特にラムネは東堂も元々補給食に使っていたので、差し入れにされることも多く、もらうと荒北のことを思い出すのか、こうして寄越してくるついでに絡んでくる。
「とっとと練習に入れっつーの」
「ああ、その前にロッカーに置いてくる」
もらった紙袋を置きにいった東堂の背を半眼で見送り、戻ってきてまた騒ぎ出す前に今日の練習に入ってしまおうと思うが、生憎まだ福富が来ていない。彼の決めるトレーニングメニューに従っている荒北は、仕方なくストレッチに戻りかけて、周囲の空気にふと気がついた。
何やら生臭い雰囲気に、眉をひそめる。
「東堂ってさぁ、ちょっと調子乗りすぎじゃね?」
案の定、聞こえてきた陰口を、白々しい気持ちで聞き流しながらストレッチを続ける。
「あれ、別にロードの選手として応援されてるわけじゃねーだろ」
「顔がいいからっつーより、反応が面白いから構われてるだけなのにな」
どんな集団でも必ず生まれるやっかみで、対象となっている東堂が調子に乗っているのも、鬱陶しいのもただの事実である。陰口を言っている一年達に、東堂をこき下ろせるほどの人気や顔面を有した男がいるようにも思えないが。
聞き流していた荒北だったが、次の言葉には耳を疑った。
「大体、自慢してる割には、大して登りのレベルだって高くねえっつーの」
「たまたま何回かヒルクライムで上位入賞しただけなのになぁ」
ロードバイクに乗り始めて数ヶ月の荒北でも知っている。レースとは、たまたま上位入賞できるようなものではない。
そもそも、あの東堂を指して、大したことがないと言い切れる意味が分からない。
思わず顔を上げた荒北が口を出す前に、東堂の友人が反論した。
「いや、あいつ昔っから登りはスゲーよ? ファンだって、中学ん時から応援してる子もいるし、そういう子達はちゃんと色んなレース追っかけて、もうレースのことだって詳しいし」
「別に凄くねーよ、フッツーだろ」
「アイツがスゲーのはファンサービスだけだって」
フォローを一蹴する部員達の言い様につい苛立つが、喧嘩をするなと福富に言い含められているし、そもそも荒北は東堂と仲が良くない。
庇うような言動は、お友達がすればいいことだろう。
そう考えながら、ふと目を部室の入り口に戻すと、戸口にいた東堂と目が合った。そういえば、もらった差し入れをロッカーに置きに行っただけなのだから、そんなに手間取るはずもない。
一連の悪口が聞こえていたか怪しいところで、聞いていた場合、子供じみた性格の東堂がどう騒ぎ立てるかを考えると面倒だ。
どうしたものかと一瞬悩む間に、東堂がさっさと行動に出た。
「あれ、みんな待っていてくれたのか?」
そう言いながら出てきた東堂に、気まずく一同は黙り込むが、その空気を読まずに東堂はにこりと笑った。
「一年は今日は筋トレとローラーだ。一年が使える機材の数は少ないんだから、上級生に占領される前に行って確保して皆でローテーション決めないと、一日自分の足で学校の外周を走ることになるぞ」
現実的な指摘に、慌ててトレーニングルームに移動を始める部員達を半眼で見やり、荒北は東堂を呼び止めた。
「どうした、ラッキー?」
「ラッキーじゃねえ!」
ふざけたあだ名を定着させようとするお調子者の、露わになった額を指で弾いて、痛い、と喚きかけた口にポケットから取り出した砂糖菓子を放り込んで黙らせる。
口の中の甘味に目を瞬かせ、東堂がきょとんとした顔で荒北を見上げた。
「甘い?」
ただの味覚の感想でしかなかったが、それで荒北の行動の理由を問うているつもりらしい。
「今までの仕返しだヨ」
散々、問答無用で人の口に駄菓子を押し込んでくれた報復と嘯けば、東堂はふにゃりと笑った。
「ラッキーセブンだな」
「アァ?」
元々言葉の通じない相手だとは思っていたが、今日は一際酷い。何が言いたいのだと柄悪く凄むと、東堂が舌を出してきた。
「にゃにゃにゃ」
舌を出したまま喋ろうとするから、音が意味を成していない。
しかし、その舌の上の少し色が溶け出しかけたラムネの形で、意味は知れた。
数字の七の形だ。
特に意味もなく、指に触れたものを摘まんで放り込んだだけなのだが、菓子の形一つで手軽に気分がよくなったらしい東堂は、嬉しげに笑った。
「ラッキーはあれだな、案外優しいな」
「その呼び方、マジでヤメネーなら殴んぞ」
しかし、人の話をさっぱり聞いていない東堂は、その恫喝を気にせず、視線を荒北の背後に向け、ようやく姿を見せたチームメイトに大きく手を振った。
「遅いぞ、トミー! ラッキーが健気にご主人様待ってるんだから、早く来てやれ」
「トミー? ラッキー? ご主人様……?」
東堂の突っ込みどころの多すぎる発言に対応できず、動作を停止した福富に、荒北は嘆息した。
「フクちゃん、ちゃんと拒否しとかねーと、そいつずっとその呼び方するぜ?」
「ではな、ラッキー。ラムネありがとう」
「元々テメーのだろうがっつーか、呼ぶなって言ってンだよ!」
抗議を気にした様子もなく、高笑いして去っていく東堂の背中を睨んで、荒北はもう一度嘆息した。
訳の分からない男だ。
優しい、と言った。
元々自分がもらった菓子を寄越されて、そんなことを言うのも奇妙な話で、呼び止めて様子を窺った荒北の行動そのものをそう称したのなら、東堂は先程のチームメイト達の陰口を聞いている。
しかし、すぐに感情を露わに大声で騒ぎ立てる東堂が、あんな風に何もなかったように装えるのかと言えば疑問で、やはり聞こえていなかったのではないかとも思える。
「……フクトミだからトミーで、アラキタだからラッキーか!」
「オレは呼ばれる気ねーからな」
隣でようやく理解したらしい福富に、釘を刺してから本日何回めかの溜め息を吐き出す。
「福ちゃん、あいつ、何なの?」
「何とは?」
「東堂」
「ああいう奴だとしか」
きっぱりと返ってきた答えは全くその通りで、聞くだけ無駄だった。
「性格はともかく、あいつ、登りスゲーよ、な?」
東堂のクライムを普通だと言い切った先の陰口がどうにも引っかかって訊ねてみると、一瞬ぽかんとした福富が、不意に破顔した。
「凄いだろう」
出会って早々に、鉄仮面と皮肉ったほど無表情の福富が、硬い表情筋をここまで緩めるのは珍しい。
「この前はかなりセーブして走っていたが、そうか、分かったか」
福富寿一という男は、要するに自転車馬鹿だ。
何よりも自転車が最優先で、その価値観も自転車が基準となる。その彼が、手放しで喜んで褒めるほど、東堂の実力を認めているのだ。
「東堂は少し喋りすぎるが、言うだけのことはやり遂げる男だ。丁寧で洗練された美しい走りをする。もう少しスタミナがつくといいんだが、これから身体も大きくなるだろう。反りが合わないと思うかも知れないが、あれでよく周りのことを見ているし、同じ一年の初心者に対する指導も的確だ。だから、その、つまり……」
「アイツに登り教えてもらえって?」
いつにない饒舌が鈍った辺りで言いたいことを察して、代わりに言葉にしてやる。
「……イヤか?」
「アイツが嫌がると思うケドォ?」
少し前に、上から目線で登りを教えてやろうと言い出した際には荒北が一蹴し、それ以降、東堂は完全に荒北を切り捨てた。何かあればすぐに口うるさく言ってくるが、時折見せる冷淡な眼差しで、彼が荒北を全く認めていないことは知っていた。
ここ数日、少し態度が変わったような気がしたが、呼びかけも餌付けも、明らかに人間扱いではない。
「東堂が断らなければいいんだな?」
痛いほどに肩を掴み、問う福富の顔は真剣だ。
「だから、東堂が嫌がるって……」
「話をつけてくる」
荒北の答えを最後まで聞かず、制服から着替えもせずに踵を返して駆け出した福富の足取りが、随分と軽い。
「っとに東堂のこと好きだな、福ちゃん……」
それだけ、その能力に惚れこんでいるのだろう。
「寿一が随分浮かれてたけど、何を言ったんだ、靖友?」
入れ替わるようにやってきたチームメイトが指で作った銃口を突きつけてきて、また面倒な奴が来たと嘆息する。
新開隼人、福富と中学からの付き合いで、言葉の足りないきらいのある福富のフォロー役で、荒北にも当たり前のように接してくる。出来た人柄というよりは面白がられているようにしか思えないのは、そのにやけた表情と飄々とした態度のせいだろう。
東堂とも馬が合うようで、よく一緒に行動している。あのマシンガントークもあまり気にならないらしく、話半分に聞き流している。
荒北に対しても、どれだけ噛みついても頓着せず、笑いながら自由気儘に接してくるのが厄介だ。
「何も言ってねェよ」
「そうかい?」
威嚇してみても、一筋も動じない。
何を言ってもどこ吹く風なので、ただの暢気な馬鹿かとも思ったが、一緒に走ってみれば、中身は相当に過激で負けず嫌いのエゴの塊だと知れた。
どうにも、福富の周囲には癖のある人物が揃っている。
「で、何言ったの?」
「……つーか、東堂に登り教えてもらえって話」
ここで黙っていても、どうせ後で福富か東堂に聞くだろう。福富はともかく、東堂の説明だと荒北が東堂を伏し拝んで教えを請うたことになりかねないので、渋々説明すると、新開は首を捻った。
「前に尽八が教えてやるって言った時、靖友が断ってただろ。あれで寿一、ダメかもって落ち込んでたけど、何か状況変わった?」
「ハァ?」
あの鉄仮面が落ち込んでいたとはどういうことだと、思わず声を上げるが、福富との付き合いの長い新開は真顔だ。どこか面白がっている気配がしなくもないが。
「だって、寿一、スゲー尽八のこと好きだし」
「そりゃ分かっケド」
「いやぁ、靖友にも見せたかったね、寿一と尽八の初対面。ひたっすら喋る尽八と口挟む暇なくて超困ってる寿一」
目に見えるので、居合わせなくて良かったとしみじみと思う。
「仮入部の間は基礎練とローラーばっかで、そういうのやらせると尽八って目立たないから、まあ割と上手い経験者いるなーってくらいだったんだけど。一年だけのレースやった時に寿一とオレでトップ争いしてたら、山で二人して尽八にぶっちぎられてさ。いや、アレはまじでビビった」
あの一人で別の場所を走っているかのような、音の無い走りに後ろから抜かれる衝撃を思えば空恐ろしい。
「あれ以来、寿一は尽八にメロメロだから。尽八も、寿一大好きだし、あそこ超相思相愛」
少々語弊があるが、結局は東堂も自転車馬鹿ということである。突出した能力の二人が、互いを認め合っただけのことだ。
「で、念願の理想のクライマー見つけて、オレがスプリンターで、まあとりあえずこれでいいかな、って感じだったんだけど、寿一がいきなり靖友拾ってきてさ」
何故、この自転車部のメンバー達は、人のことを犬か何かのように扱うのだろうか。
「でも、靖友が尽八をちゃんと評価できねーなら、チーム作れねーじゃん?」
「…………ハ?」
当たり前のような顔をしているが、荒北には全く新開の言っていることの意味が理解できない。
「寿一、夢見がちだから。寿一とオレ、尽八、それから靖友でドリームチーム作りたいんだと。でも、靖友が頭っから尽八のことバカにしてたら、そもそも無理じゃん?」
「意味分かんねーんだけど」
「オレも分かんねーけど、寿一は思い込んだらそのまま突き進むからなあ。靖友が尽八のこと認めたなら、そりゃ小躍りの一つもするだろ」
「…………別に、認めたっつーか、フツーにスゲーだろ、あいつ」
「スゲーよ。でも、分かんない奴の方が多い。普通にちょっと上手いだけに見えるんだとさ。『オレだってできる』ってみんな言うけど、オレはできねーし、寿一もできるなんて簡単に言えねぇ。おめさんは?」
「できるワケねーだろ、あんな一人でワケ分かんないとこ走ってるよーなモン」
それだ、と胸元に銃口を模した指先が突きつけられる。
「ってことが分かって、尽八スゲーって靖友が思ったことが超嬉しいんだよ、寿一は」
新開が示唆していることは、何となく分かる。
福富寿一は骨の髄まで自転車馬鹿で、理想をひたすらに追求して自分のチームを構成する選手を欲している。
それは分かるが、理解はできない。
「……何で、オレ?」
「さあ? 本人に聞いてみれば?」
あっさり突き放した新開は、そんなことより、とにやりと笑った。
「オレとしては、靖友が急に尽八認めたのと、ここしばらく尽八が急に靖友を構うようになった理由の方が気になるんだけどな?」
「っせ。とっとと着替えて練習行け、このニヤケ野郎!」
向こう臑を蹴り込むと、痛いと笑いながら新開は更衣室に向かった。
ランニングに出てしまった東堂を捕まえられなかったと、少々気落ちしながら福富が戻ってきたのはその少し後のことだった。
「どうして荒北のことをお前が頼むんだ?」
よく通る声がドア越しに聞こえてきて、荒北はノックもせずに回しかけたドアノブを握ったまま動きを止めた。
夕食後、借りた教本を福富の自室まで返しにきたのだが、福富が東堂のことを依頼しているところにタイミング悪く行き会ってしまったらしい。
「やる気があるなら、本人がオレに言いに来るべきだろう」
地声が大きく、少し高めの東堂の声はドアの隙間からよく聞こえるが、低い声の福富の答えは聞き取りにくい。東堂の台詞だけが聞こえてきて、その口調はあまり好意的ではない。
「お前が全部お膳立てしてやってどうする? 本人に向上の意志がないなら、やるだけ無駄じゃないのか?」
やはり、東堂は荒北の存在を疎んじている。
分かってはいたものの、こう突きつけられれば、ただ痛い。
立ち聞きしていても仕方ない、ひとまずこの場を離れよう、とノブから手を離すが、次に聞こえてきた言葉に足が動かなくなった。
「フク、お前、荒北にかまけて自分の成績が落ちているのは、ちゃんと分かっているのか?」
言葉に殴られたような感覚に、頭がぐらぐらした。
「あいつのためにメニューを組んで、つきっきりで指導して、自分の練習時間をちゃんと確保できているのか? あれが問題を起こせば起こすほど、お前の立場も悪くなるんだぞ。自分のこともやりきれていないくせに、一人であれを抱えてやっていけると思っているのか?」
手厳しい弾劾は福富に向けられたものだったが、同時にそれはそのまま荒北に突き刺さった。
「そもそも、どうしてあれにそんなにこだわるんだ?」
福富の低い声が応える気配があったが、内容までは聞き取れない。
それに対して東堂が再度口を開くより前に、いたたまれず荒北はその場から離れていた。
自室に戻ればよかったのだろうが、今一人で閉じこもるとろくなことにならないのは、春のただひたすら一人で倦んでいた時期で知り尽くしていた。だからといって、人のいる所に近づきたい気分でもない。
何やらテレビを前に皆で騒いでいる談話室の横を通り過ぎ、ふらりと自販機スペースに入り込む。
何か買って飲んで、ひとまず落ち着こうと頭の片隅で考えるが、複数の自販機の稼働するモーター音に頭がぼんやりとしてくる。ちりちりと瞬く自販機の明かりを前に、並んだドリンクの見本をただ眺めていると、背後から指が伸びてきてボタンを勝手に押した。
まだ硬貨を入れていなかったので、自販機は反応しない。
「お前がベプシ以外のものを飲んでいるのを見たことがないんだが、今日は違うものを飲みたい気分なのか? 悩むのは構わんが、後が詰まってるぞ」
言われて振り返ってみるが、自販機スペースに他に人影はない。代わりに、ちらちらとこちらを窺いながら、寮の廊下をうろついている一年生が数名いた。
どうやら、荒北が自販機の前に陣取っていたため、近づいてトラブルになるのは避けたい寮生達が、火種が去るのを遠巻きに見守っていたらしい。
一つ舌打ちして踵を返すと、買わなくていいのか、と呑気な声がついて来る。
「っせ、ついてくんな」
「どこに行くんだ、すぐに門限だぞ」
「駐車場の自販機。ベプシそこしかねーンだよ」
そうか、と応じて自室に戻るのかと思ったが、ぱたぱたとスリッパの軽い足音がいつまでもついて来る。
「ンだよ?」
渋々、視界に入れたくなかった東堂の姿を視界に収めると、能天気な顔をしたチームメイトは楽しげに笑った。
「オレも行く」
大概の箱学生ならば、逃げ腰になる凶悪な顔で睨みつけるが、そもそも荒北を恐れたことのない東堂は、気にせず玄関で靴を履き替え、寮監の控えている窓口に顔を突っ込んだ。
「すみません、ちょっと外の自販機行ってきます」
「暗いから気を付けてね」
荒北が出て行こうとするとしつこく行き先を訊ねて、学園内だと言っても届けを書かせようとする寮監が、今日はその一言で素通りできた。
「……何でだよ?」
「日頃の人徳と信用と、俺が可愛いからだ」
この臆面のなさのどこに可愛げがあるのか判りかねるが、確かに寮の職員には可愛いがられている東堂である。
明るく人懐こい性格のためか、寮監にも食堂のおばちゃんにもよく声をかけられている。というより、寮生のほとんどから構われている姿をよく目にする。一年の間ではいつも目立って騒いでいるし、他の運動部の上級生グループにもからかい半分で構われている姿を見かけた。
寮内だけでなく、学園全体でそうである。
この目立つのが大好きなお調子者は、学年問わずその存在を知られているようで、通りすがりに指差されていることがよくある。それに対して恥ずかしげもなく指を向け返して応援有り難う、と笑ってみせるので、周りが面白がって持て囃す。
昼間の陰口の東堂の人気問題について、反応が面白いから構われているというのは事実だが、ただ、そのまま本当にファンと化している女子が着実に増えているところが空恐ろしい。
暗いだの何かに躓いたと一人でうるさい東堂に、一言も返事を返さずにいれば東堂もやがて黙った。
夜になると冷え込むようになってきた空気に、秋の気配を感じながら無言で進めば、グラウンドの砂が吹き溜まっているのか、コンクリートの道はざりざりと靴底が鳴る。その足音がいつのまにか一つしかないことに気づいて、怒って立ち去ったかと思うが、後ろを振り返る気にもなれなかった。
とりあえず宣言通りに自販機のところまで行って、いつもの炭酸飲料を買って帰ろうとやや足を速める。
「どうした?」
「うわっ!?」
急に足を速めたことを不審がる声がすぐ後ろで聞こえて、つい声を上げて振り返ると、そんな荒北の反応に驚いたようで、東堂が目を丸くしていた。
「いたのォ!?」
「ずっといただろう」
何を言っているのだ、と言われればその通りなのだが、気配が全くなかったのだ。
「……お前、何で足音しねーの?」
「ん? ああ、スマン。させる」
返事が妙だった気がしたが、再度歩き出した東堂の動きには確かに足音が追加されていた。少々、わざとらしい気がしないでもない。
「……させねー方が歩きやすいなら、それでいーけど」
「家では、動く時に音を立てるなと言われていてな。そういう動き方が身についているんだが、どうもあまり普通じゃないようで、気配がなかったとかそこにいると思わなかったと人に驚かれるから、普段はなるべく音を立てるようにしてるんだが」
もしかして、普段から一人でも騒いでいるのは、なるべく音を立てるように努力した結果なのだろうかという疑問が湧く。
「忍者修行でもしてんのか、お前の家は」
させなくても良いと言った瞬間から足音は消えたが、隣の東堂は荒北と同じ速度でついてきている。呆れて問うと、東堂は肩をすくめてみせた。
「ばたばた音を立てながら動くなど、美しくないだろう」
当然のような口振りは、そう言われて育ったのだろうと思われたし、軸のぶれない歩き方は先日目にした彼のクライムを彷彿とさせた。要するに、この姦しいことこの上ない男は、自分の動作の一つ一つに神経を行き渡らせコントロールし、それを自然にこなしている。
どんな育ち方をすればそうなるのか、さっぱり分からないが。
しみじみ妙な生き物だと思っているうちに、目的地についてしまう。
この時間では来客用の駐車場に車があるはずもなく、がらんとした空間に、ぽつんと置かれた自販機の照明だけが煌々と灯っていた。
「そういえば、ここの自販機だけ何故かくじ付きなんだよな」
「当たったことねーけどな」
「オレもないな」
どうでもいい会話を交わした後、それで、と荒北は続けた。
「何の用?」
白々とした蛍光灯の光を背に、東堂が振り返った。その輪郭は青みを帯びた光に照らし出されたが、その表情は暗く判然としない。
「お前がオレに用があるんじゃないのか?」
相変わらずの上からの物言いだ。
「何か、オレに訊きたいことがあるんじゃないか?」
「………………オレの」
言いかけて、一瞬言葉が喉に詰まったが、強く拳を握りしめて続ける。
「オレのせいで、福ちゃんの成績落ちてるのか?」
「…………あれ?」
絞り出すようにして真剣に問うた荒北に対し、青白く縁取られたシルエットが首を捻った。
「どうしてそうなった?」
「ざけんな! お前が言ったんだろうが……!」
「ああ、もしかして、さっきの聞いてたのか」
参ったな、などと言いながら頭を振って、一つ息を吐くと、す、とその背が伸びた。
「まあ、聞いていたなら話は早い。フクは才能に恵まれているが、まだ十五歳の発展途上中の選手だ。お前にかまけて練習量が減れば、それだけマイナスになる。最初から言っているんだが、自分の練習もちゃんとやると言い張って聞かない。結局できていないから今のざまなわけだが。そういうわけで……って、お前、何へこんでるんだ!?」
情け容赦なく切り捨てておいて、項垂れた荒北に妙に焦った声を上げる。
「オレが辞めりゃいーワケ?」
「今更辞めるのか?」
問う声に棘があって、カッとなった。
「散々辞めろって言ったのは、テメェだろうがよ!」
「今でも思っていないわけじゃないが、ここまで散々フクに手間を取らせておいて、ここで逃げ出されるのも腹が立つ」
胸倉を掴まれても一切動じない、澄ました顔に腑が煮えくりかえった。
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
「簡単だ、お前が他の誰からも文句のつけようのない選手になって、フクを支えればいい」
単純明快に、凄まじい無理難題を言われた。
「で…きるワケねーだろが!」
「やれ」
頭半分は確実に荒北より小さい少年は、小揺るぎもせずに言い切った。
「はっきり言って、オレはお前の才能など全く認めていないが、フクがお前じゃなきゃ嫌だと言うんだ、しょうがない。しかし、今のままではお前が使えるようになるまで、フクの負担が大きすぎる。オレが面倒見るしかないだろう」
「そんなに認めたくねーなら、要らねェ……」
余計なお世話だ、と噛みつきかけた荒北を、まっすぐな眼差しが見据えた。
「今、お前が自転車部にいられるのは、トレーニングの内容も、お前がしでかす問題も、全てフクが責任を取ると言って頭下げているからだと知っているか?」
「ッ!?」
「だから、とっとと辞めろと言ってたんだ」
どれだけ福富に負担をかけていたと思っている、と睨まれて言葉を失う。
「…………」
「こら、素直に落ち込むな!」
深く俯いた荒北に、焦った声を上げた東堂が手を伸ばしてきて、その頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「お前、まだ部には馴染まんが、フクには相当懐いたからなあ……」
「触んな」
「まあ、オレには懐かないから可愛くもなんともないわけだが」
そんなことを言いながらも、腕の中に抱えこんだ頭を離さず、犬にでもするように背を軽く叩いてくる。振り解くか悩むが、今、顔を上げるのが嫌でそのまま東堂の薄い肩に頭を預ける。
「……何で、フクちゃんそこまで……」
「さあ、オレにはさっぱり理解できないが。ただ、フクはお前のこと、前から知ってたらしいぞ」
「ハ?」
「お前、ちょっと前までバイクか何かで坂攻めてたそうだな?」
それ以外の憂さの晴らし方を知らなかった頃のことだ。毎日下手をすれば大怪我に繋がるような無茶な運転を繰り返し、それでも吐き出せない鬱憤を、たまたま目に付いたという理由だけで福富に絡んでいって、気がついたら今こんなことになっていた。
「コーナリングを見ていて、自転車に乗せたらどうなるかとずっと考えていたらしい。経緯はよく知らんが、荒北が歯向かってきた時に天の配剤だと思ったそうだ。何でそこまで惚れ込んだのかは知らんが、もうこうなったらフクはお前のことを絶対諦めないだろうからな。オレが諦めることにした」
苦々しい顔で東堂が嘆息する。
「お前の練習メニューはオレも見る。お前がやる気あるなら登りも教える。それから、部の練習にも一部合流しろ。そろそろ、大方の自称経験者には負けないだろう。とにかく、フクの負担を減らすことを最優先に考えつつ、早急に使えるレベルになれ」
東堂の要求も目的も明快だ。
荒北自身のことは評価しないが、福富の意志を尊重して、その負担を減らすために仕方なく協力する。
東堂が第一に考えているのは福富のことで、それは荒北の希望にも合致していた。
「…………どうすりゃいい?」
珍しく素直だな、と笑った声が柔らかくなった。
「練習中にはオレの言うことも、フクの言葉と同レベルで聞け。コーチの言うこともだ。先輩の言うことにもその場では逆らうな。同じ一年が何か言ってきてもいちいち構うな。一度置いておいて、オレかフクに確認しろ。聞く価値があるかどうかはオレ達が決める」
「…………前からちょっと気になってたけど、お前、割と酷いだろ?」
「尊敬できる先輩は多いが、そうでない人も中にはいるし、現状、お前に親身になってアドバイスをしようという部員は少ないからな。お前を怒らせて問題起こさせて部を追い出したいだけのことが多い。構わなくていいから逆らうな」
ふと昼間の陰口の後にいつも通りの態度で出てきたときの様子を思い出して、なるほど、と思う。
和を乱すなとはよく喚かれたが、そういう東堂もその場の空気を悪くしないだけで、何を言われても基本的に自分を一切変えない。
それでいいのか、と思えば少し気楽になった。
「分かった」
うなずくと、よし、とまた髪の毛をかき混ぜてくる。
完全に人のことを犬か何かと勘違いしているような態度に、そういう扱いまで許容した覚えはないと、その手を払いのけ、ご満悦な笑顔から顔を背けて自販機に向き直る。
愛飲の炭酸飲料のボタンを乱暴に押すと、ガコン、と取り出し口に青い缶が落ちてくる。同時に、自販機前面のパネルが光り出して電子音を鳴らしてくじの抽選を始めたが、当たった試しはないので結果を見届けず、冷えた缶を取り出してチームメイトの頬に押しつけた。
「冷たっ!」
「やる」
何か文句を喚き出す前に、そう告げると、大きな目が不思議そうに瞬き、押しつけられた炭酸飲料を手にすると、次にひどく嬉しげに笑った。
「荒北、オレに言わなくちゃいけないことがあるんじゃないか?」
こうなれば、最初に東堂が荒北に言わせるつもりだった言葉は明白だったが、非常に抵抗がある。
思わず口角を大きく下げてみせた荒北に、東堂がにんまりと笑った。
「荒北?」
「…………ノボリヲオシエテクダサイ」
「棒読みだが、良しとしよう」
偉そうに東堂がうなずいた瞬間、少々間の抜けたファンファーレが鳴った。
何の効果音のつもりだ、と苛立つが、東堂の少し驚いた顔を見るに、彼が携帯を操作して鳴らしたわけではないらしい。
オオアタリ~、とどこか間延びした電子音が告げ、荒北と東堂は同時に自販機を振り返った。パネルの中で7が三つ揃って、ピカピカと点滅していた。
「あ、当たった」
「さすがラッキー、ラッキーだな」
「その呼び方、ヤメロ」
ぽかり、とその脳天気な頭に拳骨を落とすと、暴力反対と東堂が騒いだ。
