腕の中で何かが見動く気配に目が覚めた。
「なに、アキちゃん……寒いの?」
稀に暖を求めてベッドの中に入り込んでくる実家の犬の名を寝ぼけながら呼んで、腕を少し上げて手触りのいい長い毛並みを撫でた。大型犬のくせに甘えたがりな犬の鼻面に軽くキスを落とす。
「いーこだから、もうちょい、寝かせて……朝練、までに起きっカラ……」
朝練、という言葉を自分で口にして、はたと気づいた。
ここは、箱根学園の学生寮だ。実家の飼い犬がベッドに潜り込んでくるはずがない。
一気に眠気が吹き飛んで目を開くと、チームメイトの顔が目の前にあった。
「………………人の部屋で、何してやがる新開?」
「おはよう、靖友」
ベッドの横にしゃがみこんでこちらを覗き込んでいた新開が、飄々と朝の挨拶を投げかけてくる。
寮の各部屋にはもちろん鍵があるが、寮生の互いの信頼関係の問題から、在室中は鍵をかけないことが暗黙の了解になっている。同時に、勝手に人の部屋に入らないことも最低限のマナーである。寝起きの襲来など以ての外だ。
一気に不機嫌になった荒北の怒りに頓着せず、新開は楽しげに片目を閉じて荒北に指を向けてきた。
「ンだよ?」
その指先が微妙に荒北から外れていることに気づいて視線を落とし、東堂の頭を抱き込んでいたことに気づく。男にしては長めの黒髪で顔の半分は隠れていたが、その隙間から覗く耳が真っ赤だ。
「うっわ……!」
慌てて跳ね起きると、ころりと転がってベッドから落ちた東堂がもそもそと床を這って、新開の背に回った。
「いやあ、面白いもん見た。靖友が尽八ぎゅうぎゅうして寝てるし、尽八は起きてるのに完全に固まってて可愛いし、靖友が超寝ぼけて可愛いし。アキちゃんって誰、彼女?」
「るっせ! 実家の犬だよ!」
「……犬」
新開の背後に隠れていた東堂が、それを聞いてひょこりと頭を覗かせた。
「どう思う、尽八?」
「ベタだが荒北だからな」
「いや、でも結構あれで靖友、場数踏んでね?」
「まさか有り得ん」
「でも、まだツッパてた時に女の子連れてたの、見たことあるぜ?」
「なんだと……?」
ひそひそと目の前で相談しあう二人が鬱陶しい。
「何なの、お前ら?」
「「審議中」」
「朝から仲良しだな、てめぇら……!」
声を揃えた二人に拳を固めると、新開が頭を横に振った。
「一緒に寝てた、おめえさん達ほどじゃねーよ」
「ベッドも布団も一つしかねーんだから、しょーがねーダロ」
「尽八の部屋があんじゃん」
「一年に見られないよーにコイツを部屋から出すなつったの、お前だろーが」
「いや、だから靖友が尽八の部屋で寝れば良かったんじゃね?」
「「あ」」
指摘されて初めて気づいて、荒北と東堂が声を上げる。
「ほら、仲良し」
「仲良くねーよ!」
反射的に噛みつくと、東堂がきっぱりとうなずいた。
「仲は良くないな」
「…………」
もちろんその通りだが、そうもあっさり同意されるのも微妙な気分になる。荒北の渋い顔ににやりと笑った新開が、東堂の両手を取った。
「オレたちは仲良しだよな、尽八?」
「仲良しだと思うが?」
「オレのこと好き?」
「好きだ」
幼稚園児のように手を握りあって友情を確認した新開が、飄々とした笑顔のまま続けた。
「で、その仲良しのオレに言うことは何かある?」
「何もない」
ずばりと切り込んだ新開を、返す刀でばっさりと一刀両断にする。
ものすごい拒絶を目の当たりにして、ベッドの上で荒北は額を抑えた。
「…………なあ、靖友。こんなもんだよ」
「新開、お前スゴいな……」
ここまで友達甲斐のない対応をされ続けて、よくも我慢できるものである。昨日の揺らぎようを見ていなければ、友情の存在すら疑いたくなってくる。
「……泣かしたい」
男同士でどんな友情の発露かと最初は思ったが、これは完全に東堂が悪い。巻き込みたくないだとか、心配をさせたくないだとか、そんな健気さがここまで微塵も感じられないと、殺意まで湧いてきかねない。
「昨日ならなァ……」
昨夜は随分弱っていたので切り崩せたかもしれないが、いつの間にか随分と回復している。
「東堂」
顔色のよくなった顔に手を伸ばして、少し痩せた顎を捉えてこちらを向かせる。頑なな瞳がまっすぐにこちらを見上げてくるのを覗き込むが、そこに既に揺らぎはない。
「まだ続けンの?」
「何をだ?」
硬質の声が、いつでも荒北も両断する鋭さを有して身構えているのを察しながら、肩をすくめてみせる。
「偽マネジ」
ハンガーにかかった女子制服を示すと、一瞬虚を突かれたような顔をする。
「…………続ける」
「あっそ。じゃ、朝練始まっから急いだらァ? シャワー使うなら部員来ないうちにネ。メシはどーする?」
「あとで売店で調達する」
荒北の指を振り払うように首を振って立ち上がった東堂が、ハンガーに手を伸ばした。
「隼人も荒北も着替えて準備しろ。遅刻するなよ」
「へいへい。新開、お前も着替えてこい」
いい加減顔を洗ってこようと、タオルを引っ張り出し、出て行けといつまでも人の部屋の床と仲良くへこんでいる新開の背を膝で蹴る。
「スカート穿いて出てくなら、人に見られねえようにしろヨ」
「分かってる」
こちらに背を向けて着替えはじめた東堂の声は、ひどく素っ気ない。
なるほど、そういう態度か、と内心舌打ちして戸口に手をかけて振り返る。
「東堂、オレも聞いてイイ?」
「何だ?」
「オレとお前、仲良しじゃないよな?」
「…………ああ」
「オレのことキライ?」
「………………きらいだ」
よく磨いた鏡のように、向けた通りの感情を返してくる東堂に、荒北はオレもだと笑ってみせた。
放課後の練習が終わった後、寮にバイクを取りに行った荒北は車体を押して部室に戻った。
「あれ、靖友何そのバイク? いつもの原チャリは?」
「借りてきた」
中型二輪のバイクを見て、口笛を吹いて問う新開に簡潔に応じる。
「寮の駐輪場に置いてあるやつだよな、誰の?」
「バレー部の三年のセンパイ」
「仲いいの?」
「たまにバイクの話してる」
オートバイ雑誌を持っていたことから話しかけられて始まって、なんとなく付き合いの続いている緩い関係である。小遣いに限りのある高校生としては、雑誌の購入を分担できるだけでも有難いし、足は自前の足か自転車で良いと考えている体育会系体力馬鹿の寮生ばかりの中、バイク話ができる相手も貴重だ。
日々のちょっとした買い出しには荒北の原付を貸しているので、時々代わりに彼のバイクに乗せてもらっているのだが、毎回転んで車体を傷つけたらただでは済まさないと殺意を表明されているので、信頼はあまりされていない。
「靖友、乗れんの?」
「最初ッカラ、免許は中型で取ってンだよ」
免許自体は普通二輪で取ったのだが、親がこれだけは譲らず、排気量の小さな原付バイクしか買い与えてくれなかったのである。実際、その後の乗り方を考えれば、もっと速度の出せるバイクだったなら、あっという間に取り返しのつかない事故を起こしていた可能性も高い。
バイトでも何でもしていつか乗り換えようと腐っていたが、その排気量だったからこそ、福富と出会った際のレースが成立したとも言えるので、何が人生を変えるかは分からないものである。
「エンジン付きのバイクかー。気になるけど、公道で走る程度の速度ならロードで出せるしなあ」
スプリンターらしい思考である。
自転車乗りもエンジン有はエンジン有で気になるのか、新開だけでなく、他の部員も出てきて部室の横に停めたバイクを囲む。投げかけられる質問の比較対象が、全てロードバイクなのはご愛嬌である。
「で、何でデカいバイクなんか借りてきたんだ?」
買い出しなら自分のスクーターでいいはずだろう、と問われ、暇なので質疑応答の相手をしていた荒北は、当初の目的を思い出して腰を上げると部室の中に顔を突っ込んだ。
「東堂」
「何? バイクなら見たよ」
昨日広げていたファイルの整理の続きをしている東堂は、こちらに背を向けたまま、耳障りな作り声で応じてくる。朝の一幕を引きずっているのかいないのか、さっぱり分からない反応を今更気にするのも面倒なので、用件だけを口にした。
「帰り送ってくから、それ終わったら言え」
周囲にいた部員達がざわりと騒いだが、それも気にせず、自転車は今日も置いて行け、と続ける。
「……何で?」
さすがに振り返った東堂の顔が、ひどく驚いていた。
「しょーがねーだろ、送ってくって約束したんだから」
「してない」
「お前のオフクロさんと」
言うと、昨夜の電話でのやりとりをようやく思い出したらしい。
「…………いや、あれは言葉の綾じゃ……?」
「約束は約束ダロ」
「何でお前はそう、無駄なところで律儀な……! いや、でも今日は晴れてるし! 自転車置いて行ったら明日学校来るのに困るし!」
「明日も迎えに行きゃいいンだろ?」
溜息混じりに応じると、いつもは口の減らない東堂がぱくぱくと口を開閉させるが、意味のある言葉は発せられない。
「何?」
「何って……、ええと、いつものスクーターは?」
「あれ、五〇CCだカラ」
「?」
排気量を告げても理解できなかったらしい、エンジンのないバイクにしか関心のない東堂に仕方なく説明する。
「オレの原チャリは二人乗り禁止なの。捕まったら一発で停学と部活禁止食らうンだよ」
「中型も何年か経験ないと、タンデム駄目だったと思うが?」
「オレ、もう十七。免許取って一年経ってッカラ、平気」
おぼろげな知識があったらしい福富の確認に、法的には問題ないと応じる。
普通二輪免許を持っていても、二人乗りが許可されるのは経験年数一年が必要だが、四月初めの生まれの荒北はぎりぎりその規定をクリアしている。
二人乗りの経験は、荒れていた頃に一通りやってみているので問題はない。過去の所業自体は問題だが。
「そうか、では転ばないように気を付けろ」
怪我だけはするな、と言って福富が引きさがったことに、真面目一徹の福富が反対するだろうと楽観していたらしい東堂が慌てた顔をした。
「メットも借りてきたから。あと、寒いからコレ着てろ。カバンは自分で担げ。何か他にある?」
畳み掛けるように、フルフェイスのヘルメットとジャケットをその手に押し付けて、目を白黒させている東堂に問う。
「他にって……隼人、笑いすぎ!」
何故か追い詰められていく状況に形勢不利と見たか、息も絶え絶えに笑い転げている友人に矛先を変えて、東堂が噛みつく。
「昨日から荒北が何か変なの、隼人が何か言った!?」
「ああ、うん、好きにしていいよって」
「なっ!?」
笑いながらあっさりと突き放した新開に、荒北が台詞を被せた。
「どーせお前、俺らが何言ったって好きにすんだろ? こっちも好きにするワ」
その後、どこまでも突っぱねようとする東堂と喧々囂々の口論となり、最終的にその姦しさに辟易とした福富が荒北を味方したことで決着がついた。福富のオーダーという形になれば、荒北は必ずそれを完遂することを熟知している東堂がついに諦めて、不本意そうに荒北の後ろに乗った。
不承不承の東堂のナビゲーションに従って箱根の山道を走り、この坂を上がれば家だ、と告げられた私道らしい急な坂道を登っていると、あ、と背後で声が上がった。
「ナニ?」
「今のところを曲がった方が良かったんだが……」
「早く言えよ!」
暗くて脇道があったなど気づかなかった。ブレーキをかけようとすると、そのままでいい、と告げられる。
「下のは業務用なんだが、こっちでもうちにはつく」
目立たないようにしてある狭い道なので見落としたようだ。今進んでいるのは宿泊客が旅館の正面口に向かうための道らしい。
「……お前んち、結構デカい?」
「歴史はそこそこあるが、規模は何と比較して聞いているんだ?」
そう言われると、一般的な男子高校生の発想力では比較対象も咄嗟には思いつかない。悩んでいるうちに視界が開けて、旅館の正面玄関に辿り着いた。
老舗旅館と聞いて想像していた、こぢんまりとした旅館よりもかなり大きい。手前の和風の建物の奥には更に近代風の建物が続いているようで、和洋折衷になった正面口を見上げて、少し手前でバイクを停める。
「へー」
「どういう感想か分からん」
「いや、なんか、こういうとこが実家だと、お前みたいなのができんのかっていう」
「どういう意味だ?」
なんとなく納得しただけなので、詳しく問われると困るが、東堂の軽薄なくせに妙な落ち着きを感じさせる理由の一端が理解できた気がしただけである。
「ここ、あれあンだろ、日本庭園」
「……あるが」
「池に鯉がいる」
「いたら何か悪いか! 何だその馬鹿笑い! 新開か!」
あまりのステレオタイプがツボに入った荒北がハンドルに寄りかかって笑っていると、シートの後ろから滑り降りた東堂が憤然としながらヘルメットを外し、少し丈の余る荒北のジャケットも脱いで荒北に向かって叩きつけた。
「持ってろ、明日も迎えにくるから」
荷物になるので持ち帰りたくない、と押し戻すと、押し返された。
「必要ない」
「メット必要だろ」
「来る必要がないと言ってるんだ!」
「どうやって学校来んの?」
「どうとでもする」
頑なになった顔に、荒北はエンジンを切るとヘルメットを脱いだ。
「あのさァ、東堂。オレ、好きにするって言ったよな?」
「迷惑だ」
「お前、オレに迷惑かけてないつもりなワケ?」
「荒北……!」
「あの、どうかなさいましたか?」
入り口の前で騒いでいる、旅館の客層とは明らかに異なる高校生二人に、仲居が不審げに出てきたのを見て、一瞬激しかけた東堂の表情が平静に塗り替わる。
「ああ、すまない、すぐ裏に引っ込む。荒北、送ってくれてありがとう。今から帰って
寮の……」
「あれ、お嬢さん? どうされたんです?」
仲居の不思議そうな声に、まるで友達に話しかけるような声を作って、何か荒北に言いかけていた東堂が、ぎくりと顔を強張らせた。
「女将さん、そこにいらっしゃるんで呼んできますね」
「待っ……」
制止するより前に玄関の中に入っていってしまった仲居に、東堂が狼狽える。
「どしたの?」
「着替えてない!」
言われて、そういえばと思い出す。
ミニスカート姿にうっかり慣れてしまっていたが、彼は今、特異な格好をしているのだった。
「フツーにお嬢さんって呼ばれてたな」
姉と間違えられたのだろうが、従業員までそれとは、この姉弟はどれだけ似ているのだろうか。進退窮まった様子でおろおろとしている東堂を眺めていると、格子戸の向こうから人影が近づいてくるのが見えた。
「……あの子は東京でしょ、何で高校の制服を着て……」
「でも確かにお嬢さんが男の子と一緒に……」
からり、と戸が引き開けられ、出てきた着物姿の女がそのままの姿勢で動作を止めた。
一目で血の繋がりを感じさせる同じ造りの顔が、こそこそと荒北とバイクの後ろに隠れた息子に向けられる。必然的に荒北がその視線に晒されることになり、その迫力に荒北も顔が引きつった。
息子のそれも、瞳の不思議な風合いの光彩と相俟って独特の凄みがあるのだが、性別と年齢の違いのためか、格が違う。和装というのもまた、迫力を増している要因だろう。
「……アラキタ君?」
「はいッ」
思わず背筋が伸びた。
「では、それはうちの愚息かしら?」
「え、坊ちゃん!?」
「あー、母さん、これには、その、訳が……」
しどろもどろに何か言いかける息子を、鋭い目線が黙らせる。
「無断外泊して男の子に送られてくるような、ふしだらな娘だか息子だか分からない子供を育てた覚えはありません」
「無断ではないと思……」
「黙んなさい! お前は本当にいつもいつも馬鹿なことばかりしでかして! 何考えてんだか分かりやしない!」
そうか、これは母親にも理解できないのか、と一瞬しみじみとするが、放ってもおけず軽く手を挙げて発言の許可を求める。
「あの、えーと、これは自転車部の新入生歓迎企画で。東堂クンにはこの企画のために女装してもらってまして……」
一番この企画に反対していた自分がフォローに回る理不尽に、内心首を捻りながら荒北が言いかけると、また息子とよく似た双眸に見据えられて肝が冷える。
「そう、自転車部の」
す、と細められた目が荒北越しに息子を見やる。
「寮の部屋が使えないというのも嘘、と」
「一年にも寮に入ったのがいるので、鉢合わせさせられなくて、その、スミマセン……」
何故、自分が頭を下げなくてはならないのか納得がいかないが、迫力に負けて謝罪する。当人はと言えば、荒北の背後で小さくなって、スカートの裾を気にするように引っ張っている。さすがに親に見られるのは恥ずかしいのだろうか。
「尽八」
冷厳な母親の声に、しおしおと荒北の影から出てきた息子の姿を上から下まで見据えて、深々と嘆息する。
「だらしのない」
俯いてスカートの裾を引っ張る東堂に、思わず手が出た。
らしくもなく項垂れた頭を抱え寄せて、その頭越しに冷たい眼差しに向かい合う。
「東堂は、ちゃんと、やってます。だらしなくなんかねェ、です」
語尾の怪しくなった荒北の台詞を聞いて、弾かれたように顔を上げた東堂が、ひどく驚いたような顔をしていた。
「その、ぼさぼさの頭と皺だらけの制服のどこがちゃんとしているの?」
「…………ええと」
「スカートの長さ、前後で合ってないわよ、尽八」
冷ややかな指摘に、慌ててまた裾をいじる東堂が、どうやら先程からクラスの女子がしているようにウエストの部分で折って短くしていたスカートを、どうにか伸ばそうとしていたのだと知る。
「スカート穿くならちゃんとしなさい、みっともない」
「……女装はいいのか」
「昔っから姉のお下がりを平気で着せる親だったからなあ。オレがドレスを着ていようが、メイド服だろうが、似合ってれば気にしないと思うぞ」
思わずぼやいた荒北に、東堂が妙に達観した顔で応じる。
「だって尽八のことだから、部と学校の許可はもらってやっているんでしょう?」
「部の総意と学長の許可は得た」
こくりとうなずく息子と、ならば問題ないとする母親の精神構造が特異な方向で似通っているのは把握した。
皺だらけの制服と短すぎるスカート、乱れた髪を咎めはしても、女装そのものについては部の企画ということで納得しているらしい。
その件でフォローする必要はないようなので、抱え寄せていた東堂の頭から手を離すついでに、ヘルメットで癖の付いた髪を撫でつけてやると、一瞬妙な顔をする。
「ンだよ?」
「どちらかというと、それはこっちの台詞なんだが……」
頭の上に置かれた荒北の手を外してぼやいた東堂が、ふと何かに気付いたように一瞬背後に視線をやり、掴んでいた荒北の手を放り出した。
「荒北、帰れ」
「あ?」
唐突な台詞に呆気に取られる。
一体何なのだ、というのは、それこそ荒北の台詞である。
「いいから帰れ! 頼むから!」
どういう言い草だと一瞬苛立つが、懇願するような顔は真剣だった。
「早く帰れ!」
「尽八、送ってきてくれたお友達に何て失礼な口をきくの。アラキタ君、お茶でも飲んでいって」
口を挟んだ母親の一言に東堂が打ちのめされたのは分かったが、理由がさっぱり分からず戸惑っていると、東堂がそんな荒北を庇うように母親の前に進み出た。
「母さん! こいつは、オレの! 友達だぞ!?」
「分かってます」
「分かってない! 息子の! 男友達だぞ!」
「外泊してスカート穿いて帰ってくる馬鹿を息子とは認めません。服装に準じて扱います。それから尽八、これ以上お客様の目に止まる所で騒ぐなら、吊すわよ?」
本気の滲む母親の恫喝に息子が凍り付き、同様に動けずにいた荒北に口元だけが笑っている目が向けられた。
「アラキタ君、どうぞ?」
「なァ、お前ん家って『お茶でもどうぞ』って言った場合、こうなんのがフツーなの?」
「…………時々」
互いに顔をひきつらせてのやりとりである。
明るい日の下で見ればさぞや立派なのだろうと思われる日本庭園を通って、案内されたのは数寄屋造りの離れだった。低い入り口に嫌な予感がしたが、狭い正方形の畳敷きの部屋に用意された茶道具の一式に確信に変わる。
これは、一般的に茶席と言う。
「作法とか何も知らねェぞ、オレ!」
「分かってる。気にしなくていい、普通の男子高校生なら当たり前だ。それに茶を出す方がおかしい」
「ってゆーか、何でオレ、唐突にイビられてんの?」
「…………荒北がワケ分からんからだ!」
「どういう意味だ!」
「それは……」
何でも明快に断じる東堂が珍しく口ごもったかと思うと、やおら声を荒げた。
「だから帰れと言ったのに!」
「尽八」
茶を点てていた母親に一言名を呼ばれた東堂が、口を引き結んで背筋を伸ばした。途端にその端座した姿がぴんと張り詰めて、なるほど、彼はこういった場で育てられたのだと納得する。釣られて荒北も姿勢を正すが、既に正座が辛い。
「荒北君はお作法など気にせず、どうぞ」
そう言い添えてはくれたが、明らかに作法に則って勧められた茶碗をどう扱っていいか分からず困り果てる。先に出された干菓子は、横で東堂が食べていいと指示してくれたが、先の呼びかけで口が封じられたようだ。
茶碗を回すだの、茶碗を裏返して見るだのと、どこで仕入れてきたのかも覚えていない正しいのかも知らない中途半端な知識が頭の中を回るが、無駄だと割り切れば腹は据わった。
「いただきます!」
一気に飲み干した茶は苦く、泡だったどろりとした液体をまるで美味しいとは思わなかったが、畳の上に茶碗を戻すと膝に手を置いて頭を下げる。
「ごちそうさまでした!」
「運動部の子は元気のいいこと」
あまり褒められたようには聞こえなかったが、柔和さを装った笑顔はチームメイトによく似ていた。
その息子に対しても続けて茶を点て、今度は作法に則ったやりとりが交わされるのを横目に眺める。先にこれを手本に見せてもらえていれば、もう少しやりようがあったと思うのだが、もう遅い。
どちらも表情を消し去ったやりとりは、どこか人形芝居めいていて、現実感が薄い。息子の方が女子制服を着ているのも、その一因ではある。
「荒北君」
「ハイッ!」
ぼんやりしかけていたところを呼ばれて、慌てて背筋を伸ばす。
「寮に入っているそうだけど、ご実家は?」
「あ、横浜っす」
「それは通えないわね、箱根学園には自転車部のために?」
「イエ、なんとなく……」
嘘も吐きにくく、言葉を濁した荒北に、女将は話題を変えた。
「荒北君はご兄弟は?」
「妹が二人います」
「ご長男?」
「あ、はい、そうっすね」
荒北の家は一般家庭なので、長男だからどうのという自覚をしたことはないが、こういう家だとまた感覚も違うものなのだろう、と長男のはずのチームメイトをちらりと見てからうなずく。
「お父様のお仕事は……」
「母さん……!」
別に助けを求めて目を向けたわけではなかったのだが、東堂が強い口調で母親の質問を遮った。
「……もう遅いので、荒北を帰らせてもいいだろうか?」
「そうね、お構いもしませんで」
「……イエッ」
むしろこれ以上構われたらどうなるのか、考えるだに恐ろしい。
這々の体で茶室から逃げ出して、庭の夜気に大きく吐き出した息が白い。
「……お前の母ちゃん怖ェよ!」
「スマン……本当に、この件についてはスマン……」
がっくりと項垂れた東堂もひどく消耗している。
「何アレ、大事な跡継ぎ息子を外泊させたり、バイクで連れ回したから怒られたの?」
「いや、うちを継ぐのは姉なので、オレは好き勝手にさせてもらってるし、普段は何しててもあまり問題ないんだが。今回はこの格好なので、娘として対処された」
つまり、娘を外泊させ、バイクで送ってきた馬の骨として、母親にいびられたのだと理解して肩を落とす。
「お前の姉ちゃん、大変そうネ」
「……そうだな」
本物の娘はこの比ではないのだろうと叩いた軽口に対する微妙な反応に、荒北は眉をひそめた。
「そういや、姉ちゃんはどこいんの?」
「東京の大学に進学したから、向こうで寮に入ってる。何だ、うちに来たがったのは姉に会いたかったのか?」
「ま、そうかもネ」
嘯けば、たちまち東堂の表情が硬化した。分かりやすい反応に深々と息を吐き出して、手を伸ばし、頑なになったチームメイトの頭をぐしゃぐしゃにかき乱す。
「落ち着け、シスコン」
「誰がだ?」
自覚がないのかと嘆息すると、頭の上に置いていた手を払い落された。
「母のあれもどうかとは思うが、この家の伝統と大事な跡取り娘を守るためだ。オレはオレで、これだけ好きにさせてもらっている以上、家と姉を守る義務がある。ただの好奇心でお前のような奴にちょっかいを出されるのは、迷惑極まりない」
なるほど、この件に関しては分かりやすい。
この立派な家と家族を守るためならば、相手を殴りつけることも、社会的に陥れることも辞さない。
入部したての頃、東堂は荒北を徹底的に異物として排除しようとしたし、荒北が場の空気を乱すことをひどく疎んだ。あの時と、同じ匂いがする。
彼はこの箱根の狭い世界に生きていて、その箱庭を乱す者を許さない。
東堂尽八は、何かを排除しようとしている。
それだけは確信して、荒北はまっすぐに東堂を見据えた。
この何を考えているのかさっぱり分からない男が、そこまでするのは、何か大事なものを守るためだ。そして彼が優先しているものはと言えば、家と家族と自分自身、友人と、部活だ。
