普段気にも留めていない学園内の植樹が、咲き出した途端に桜だったのだと気づく。
去年も同じ場所で咲いていただろうかと一年前を振り返り、当時はそんなことに目を留める余裕など全く無かったことを思い出す。
中学の半分を荒れて過ごし、進学するしないで散々揉めた後に家を離れられる寮があり、野球部のない高校というだけで、この箱根学園を選んだ。
逃げでしかなかった選択先にどんな期待も展望もなく、目に入ってくる全てに苛立った。当時の自分なら、桜が咲いているということにも苛立って、木を蹴りつけるくらいのことはした。
そんな態度で学園生活を送って、周囲に馴染めるはずもない。入学して一ヶ月程で退学を考えていた荒北が、一年経ってまだここにいて、野球とは全く関係のない運動部に所属して、まだ新学期も始まっていないというのに自主練をして、戻ってきた校門から並ぶ桜を素直に綺麗だと思っている。
巡り合わせというのは不思議なものだと、十七になったばかりの人生を振り返って苦笑する。
人生までもが変わったかは分からないが、少なくとも学園生活を一変させた切っ掛けになった、空色という名前の独特な緑色をした自転車に乗らず、押して歩きだしたのは満開の桜があまりに見事だったからだ。ビンディングシューズは少々歩きにくいが、自転車に乗って通り過ぎてしまうにはもったいなかった。
花が綺麗だからゆっくり歩いていこう、などという穏やかな気分になれるなど、一年前には想像もしていなかった。
面と向かって感謝を表明できるような性格ではないから、その類の言葉を自転車の世界に荒北を引きずり込んだ鉄面皮に向けたことはないが、今、心を満たしているのは明確な対象のない、ありがとうの五文字で、もしその角から金色に髪を染めたチームメイトが現れたら、思わず口から零れ落ちたかもしれなかった。
丁度その角の向こうから、急に華やいだ笑い声が近づいてきた。どうやら無愛想な鉄面皮ではなく、女子が数名はしゃぎながら歩いてきているようだ。普段ならばうるさいと顔をしかめるところだが、今日は穏やかな気分で道幅いっぱいに広がって後ろを振り返りながら笑い合う少女達をやり過ごした。
「東堂くん、ホント可愛いかったー」
「ねー」
荒北の存在になどまるで気づかずに、口々に囀る中に出てきた人名に、それまでの長閑な気分が吹き飛んだ。
同姓の生徒がもしかしたらいるのかもしれないが、荒北がこの学園内で知るのはチームメイトのただ一人で、誰かの口の端に上ったその名が彼を示していなかったことは今までない。
東堂尽八、同じ自転車競技部のチームメイトである。
イレギュラーな入部をして、周囲に馴染もうともせずにがむしゃらに己の我を通していた荒北に、真っ向から我を貫いてきた。まだ荒んだ気分のまま、すぐに手と口が出る荒北に及び腰の部員が多かった中、怯むことなく毎回立ち向かってきたのだから、随分と気骨があったのだと今なら分かる。
場を乱すな、秩序を守れ、物を大事に扱え、いずれも正論だったが、煩わしいとしか思わず、喧々囂々とやりあい続けた。部を辞めろと言わなくなったのはいつ頃だったか思い出せないが、その後も今日に至るまで、顔を合わせれば何かしら口論になるので、反りは徹底的に合わないのだろう。
何か勘違いしているとしか思えない自意識過剰な言動の数々が、荒北の癇に障る。
あんなものは断じて調子に乗せるべきでないのに、何故か周りの取り巻きがちやほやするので、一向に自信過剰な振る舞いが改まらない。おそらく、クラブ棟に向かう途中でまた何か馬鹿げたパフォーマンスをしているに違いない。遠回りしてでも避けるべきか、拳骨を落として回収していくべきかを悩む。
彼一人でも喧しいことこの上ないのに、取り巻きの女子がいるとなると姦しさは倍増する。本人の言っていることも理解できないが、取り巻きの主張は更に意味が分からない。
あのお調子者を指して、カッコいいだの美しいだの素敵だのと持て囃せる気持ちが全く理解できない。
妹が二人もいるので、何でもかんでも可愛いで済ませる女子の特性はよく知っているが、十六にもなった運動部の男を捕まえて何が可愛いだ、と憤然としながら、枝が伸びすぎて半ば通路を塞いだ桜の枝を回りこんだ瞬間、目に飛び込んできた光景に足が止まった。
「か…っわ……」
思わず零れかけた台詞を口元を押さえて飲みこむ。
きっとまた何か妙なことを思いついて、大騒ぎをしながら女子の前でパフォーマンスをしているのだと思い込んでいたのだが、実際には東堂は観客もなくひっそりと眠っていた。
通路の脇に設置されたベンチは、伸びすぎた桜の枝にすっかり覆われていて、満開の花に埋もれるようにしてチームメイトが横たわっていた。まだ春休みだが、制服を着こんで、右足にバンドを巻いているところを見るに、制服のまま自転車に乗ってきたのだろう。愛車のリドレーはベンチのすぐ横に置かれ、白い車体に桜の花弁を積もらせていた。
枕にしているバックパックは、実家に顔を出すと言って三月の末に寮を出た時に持って行ったものと同じだから、おそらく今日戻ってきて、寮に辿りつく前にここで寝落ちたのだろう。
ところ構わず寝入る癖のある東堂のこんな姿を目にするのは、さほど珍しいことではない。自ら目覚めるまで、何をしても起きない傍迷惑な昏睡ぶりに最初は振り回されたが、さすがに慣れた。
故に、今回の衝撃は東堂に起因しない。
断じて、同学年で同性のチームメイトを指して、可愛いなどと口走りかけたわけではない。
可愛いのは、ベンチに寝転んだ東堂の規則正しく上下する胸の上で丸くなった猫である。
箱根学園の広い敷地内には野良猫が随分と住みついていて、そこかしこで猫の姿を見る。こっそり餌をやる職員や生徒が多いので人懐こい猫が多いが、今、東堂をベッド代わりにくつろいでいるのは、全く人に懐かない猫だった。
光の具合で銀色にも見える、薄青い灰色の毛並みをした非常に優美な猫なのだが、人が近づく素振りを見せただけで瞬く間に姿が見えなくなる。なんだかんだと猫好きの荒北は、学園内の猫のほとんどを把握しているが、この銀色の猫は遠目に数度しか見かけたことがない。
これだけ近くで見るのは非常にレアだ。
そっと、靴底のクリートを鳴らさないように慎重に動いて自転車を隣の桜の木に立てかけると、ジャージの背のポケットに手を回し、携帯電話を取り出すと画面を開いてカメラを起動する。
カシャリ、と鳴るシャッター音を模した電子音は随分大きく響いたが、猫は目を覚ます様子はなく、東堂の上でくつろいでいる。アングルを変えて何枚か撮り、東堂の頭の方へ回り込んで携帯をそっと猫に近づける。ひらり、と舞い散った薄紅色の花弁が液晶画面を過ぎって、東堂の黒髪に貼りついたのが、いやに目についた。
半ば無意識のうちに髪に絡んだ花弁を摘まんで捨てると、今度は鼻の先に別の花弁が降ってきた。
その間抜けな絵面を後で本人に見せてやろうと、猫から東堂にターゲットを変えて一枚写真にその姿を収める。その花弁も摘まみ上げると、入れ替わるように五枚の花弁が揃った花がぽとりと落下してきて、狙いすましたように薄く開いていた口元に嵌りこむ。
それも写真に収めて、液晶に映し出された画像を眺めると奇妙な単語が口をついて転がり出た。
「ねむる、さかずき?」
言ってみて自分で首を捻る。どこから湧いてきたのか分からないが、あまり文学的な素養を持ち合わせていない自覚があるので、確実にオリジナルではない。どこかで覚えたフレーズが何となく浮かんだのだろうが、元ネタは何だっただろうかと悩みながら、何の気は無しに桜の花に手を伸ばしかけ、指が唇に触れる前に薄青い双眸に気付いて手が止まる。
思わず手を引っ込めると、いつの間にか目を開けていた猫は、荒北を胡散臭そうに見やりながら伸びをして立ち上がった。逃げてしまうかと思ったが、今のところそのつもりはないようで、ベッドにしていた東堂の上をゆっくりと歩いて、太平楽な寝顔に向かって顔を近づける。
唇の上の白い花を、口移しをするようにぱくりと食んで、餌でないことに気付いたのか、すぐに吐き捨てる。紛らわしい、とばかりにその唇を前肢で踏みつけた猫に、さすがに東堂が眉をひそめた。
「ん……、あら、きた?」
薄く開いた瞳が茫洋と荒北の顔を見上げてくるのを、額を指で押さえこんで頭を動かさないようにする。
「黙ってろ」
しー、と小さな子供がやるように唇に人差し指を当てて騒ぐなと示すと、きょとんと見開かれた瞳が荒北とその手にした携帯電話を逆さまに映した。
頭を押さえこまれたままの不自由な体勢で、荒北が構えた携帯のレンズの向く先を確認した東堂が、なるほど、と納得の声を上げる。
「猫か」
納得すると同時に東堂の身体から力が抜けて、再度目を閉ざす。
珍しくおとなしい東堂の頭の下からバックパックを抜き取って地面に下ろし、空いた空間に腰かけて姿勢を安定させると、改めてごろごろと喉を鳴らしている猫の姿を激写する。
「満足したか?」
「ン」
目を瞑ってはいたものの、今度は寝ていなかったようで、しばらくしてから呆れた声で問われる。携帯を閉じてしまいながら、抑え込んでいた頭から手を外すと、目を開けた東堂が頭だけを持ち上げて胸元でくつろぐ猫に目を向けた。
「あ、そいつ触れねェぞ……」
無造作に手を伸ばす東堂に言いかけるが、人間嫌いのはずの猫は、ごろごろと喉を鳴らしてその手に擦り寄った。
「随分と人懐こいな」
「なんでだよ!」
思わず声を高めると、猫と東堂がうるさそうな眼差しを向けてくる。よく似た表情に、猫が東堂を仲間だと勘違いしているのではないかという疑惑が湧く。
「そうやってすぐに大声を出して乱暴な素振りを見せるから、小動物に逃げられるんだろう」
「っせ!」
「そういうところだ」
全く、と慨嘆しながら、東堂は両手で猫を抱き上げると、自分の顔の前にまで引き上げた。
「すまんが、ちょっと我慢してやってくれ。この荒北はガサツで品が無くて短慮で騒々しくて乱暴ですぐに噛みついてくる、まるでいい所のないダメ男だが、これで犬猫大好きという可愛らしい一面もあってな。今日が誕生日なんだ、祝いと思って辛抱してくれないだろうか?」
やはり目を覚ますと鬱陶しい生き物だ、と猫とじゃれる姿を見下ろしていると、寝転んだまま東堂が猫を差し出してきた。
「…………ナニ?」
「撫でてもいいぞ」
話はつけた、と宣う東堂をまじまじと見下ろしてから、その小さな頭を鷲掴んで力をこめる。
「オレじゃない! そしてそれは撫でると言わん!」
痛い、と唸って荒北の手を引っ叩いた東堂が、じろりと荒北を睨みあげた。
「だからお前は小動物にモテないんだ」
「っせ」
改めて猫に向かって屈みこんで慎重に手を伸ばすと、身を低くした猫が逃げ出しそうな素振りを見せたが、引っ掻かれることも逃げることもなく、渋々と荒北の手を受け入れた。
滑らかな手触りの柔らかい毛並みに思わず顔を緩めると、猫の台座がくつくつと笑う。
「満足か?」
「ンー」
意味をなさない応答をしながら、灰色の毛並みを撫でていると、下から伸びてきた手が荒北の頭を軽く撫で、髪に付いていたらしい花弁を摘んでいった。
人のことを構えた状態か、と荒北よりよほど桜にまみれた髪を、空いていた手でかきまぜて散らしてやると、いつもなら髪が乱れるだの痛むだのと喚くところだが、今日は機嫌がいいのか、笑って身をずらすと荒北の足の上に頭を預けた。
グルーミングをしろ、とでも言わんばかりの態度だが、きっぱりと無視して猫に両手を使う。
ようやく警戒を薄れさせた猫が、ごろごろ喉を鳴らすのを無心に撫で回していると、呆れた目が見上げてくる。
「お前、一度雨の中で子猫でも拾ってみたら、誰か恋に落ちてくれるんじゃないか?」
「っせ」
少しは黙っていられないのかと、戯言ばかり言う東堂の鼻を指で弾くと、痛いと悲鳴が上がる。
「猫への優しさの半分くらいオレに注いでも、バチは当たらんと思うぞ」
「ムリ」
「即答か!」
考える振りくらいしろと憤慨した東堂は、人の足を枕にしたまま長々と嘆息した。
「待ち受けは犬のくせに、何でそんなに猫が好きなんだ」
「オレ猫派、待ち受けは飼い犬。ウチのコはかわいい」
ほとんど何も考えずに答えてから、少し引っかかった。
携帯の待ち受け画面など、見せたことがあっただろうか。
隠しているわけでもないので、近くにいるときにたまたま見たのかもしれないが、細かいことを覚えているものである。荒北は東堂がよく振り回している携帯電話の待ち受け画像が何かなど覚えていない。
そんなことよりも。
「オレ、お前に誕生日教えたことあったっけ?」
先程、猫に向かって勿体ぶった口調で連ねていた中に、荒北の誕生日への言及があった。
「今日だろう? おめでとう。日付変わった時にメールするのは嫌がると思って控えただけで、別に忘れていたわけではないぞ?」
「ヤ……つーか、教えてねーよな?」
まっすぐに祝いの言葉を告げられ、思わず動揺した。
四月二日に生まれた荒北は、進学や進級の都合上、同級生と知り合う前の春休み中に誕生日を迎えることになるため、他人から誕生日を祝われる経験に乏しい。
「先月のフクの誕生日の時に、丸々十一ヶ月違うと言っていただろう。一日違えば学年も違ったと」
「アー、よく覚えてんネ、そんなの」
言われてみればそんな会話をしたような記憶はあるが、それは福富と荒北のやりとりで、東堂は新開と一緒にケーキを用意してばたばたと走り回っていたような気がする。
「人の誕生日や記念日は、一度聞いたら忘れないのがオレの特技だ!」
「あっそ」
これ以上耳を傾けてもいつもの自画自賛になりそうなので、話半分に聞き流す。
「それで、フクと隼人も今日帰寮するんだが、ケーキ買ってくると言ってたから早めに食べられるものをリクエストした方がいいと思うぞ。隼人に選ばせると、クリームたっぷりのチョコレートケーキになるが、お前そこまで甘いの好きじゃないだろう」
本当はサプライズなのだが、本人が食べられないものを買ってきても仕方ないからな、と嘯くチームメイトに意表を突かれた。
「それに、お前は下手にサプライズなど仕掛けると、逆上して照れ隠しに思ってもいないことを口走る可能性があるからな。迷惑でないなら、二人の気持ちを受け取ってやれ」
今、確実に年長者なのは荒北の方だと言うのに、妙に老成したようなことを言う。
妙に上から目線の話しぶりは気に食わないが、実際、何も知らずにチームメイトに誕生日を祝われたりしたら、捻くれ者の自分がどんな反応をしたかを考えると、確かに少々怪しい。
「お前、割と色々見てんネ」
誕生日だの猫が好きだの、甘い物が苦手だの、わざわざ公言などしていないことを、細かく気付いて気を配る。
つくづくと妙な奴だと考えている間に手元が疎かになっていて、手の間から猫が擦り抜けた。
一声鳴いて何か訴えた猫に、東堂が手を差し出すとその手に懐くように頭を擦り付ける。荒北が触れている時とは随分な態度の差である。
「荒北、もういいか?」
「ン」
十分に堪能した、とうなずくと、東堂が軽く手を振った。
「ご苦労」
東堂の労いに一声応じ、ベンチから飛び降りた猫が長い尻尾を立てて茂みの中に消えていった。
「……お前、猫と会話できンの?」
どうにも、東堂の言葉に従っているようにしか見えない猫の姿に、思わず問うと、寝転がったまま器用にふんぞり返る。
「そんなわけないだろう。何でチンピラのくせに、頭の中身がメルヘンなんだ……痛い痛いっ!」
イラッとしたのでアイアンクローを仕掛けると、足をばたつかせて痛みを訴える。その勢いで足元に伸びていた枝を蹴りあげたものだから、桜の枝から大量の花弁が振り落とされてきて閉口する。
「暴れンな!」
ベンチから転げ落ちそうになった東堂の襟首を掴んで引きずり上げ、叱りつける。
「あーもう、テメェのせいで花まみれじゃねーか」
頭を振って積もった花弁を振り落とそうとするが、あまり取れなかったようで呆れ顔の東堂が下から両手を伸べてきた。
「犬か、お前は」
指で短い髪を梳くようにして花弁を取り除いていくのを好きにさせながら、最初の頃の険悪さに比べればずいぶんと懐いたものだと思う。
「懐いたなあ、お前」
一瞬思っていたことが口から洩れたかと思ったが、己の声ではなかった。
「俺がかよ!」
「フクにしか懐いてなかった奴が何を言う。去年の夏前だったら、こんな風に触らせたりしなかっただろうに」
言われて、思わず目を瞬かせる。
確かに、懐くも何も、東堂は元来人懐こい性格だ。
途中入部してきた荒北にも懐こく声をかけてきて、差し出してきた手に噛みついたのは荒北の方だ。以来、顔を合わせればキャンキャンと吠えかかってくるので、唸り返しているうちに互いの衝突は定例化した。
今では、部でも学校でも二人が喧々諤々とやりあっていれば、またか、という目が向けられる。
「懐いたっつーか、慣れたんダロ」
荒北自身も、東堂も、周囲も。
なげやりに言うと、東堂が妙に嬉しげに笑った。
「そうか、慣れたか」
何が嬉しいのだ、と口端を曲げてみせるが、捻くれた反応など気にせず、ぐしゃぐしゃと荒北の髪をかき混ぜて残っていた花弁を振り落とした東堂が、あまりに楽しそうなので諦めた。
一つ嘆息して、花をとってやるというよりは長い髪に満遍なく混ぜ込むようにしてかき混ぜると、上機嫌のまま先程の猫のように手に懐いてくる。
やはり懐いているのは東堂の方だろうと、内心毒づきながら、後で鏡を見たときにキャンキャンと喚くのが目に見えているので、目に付く花弁を払っていく。
犬のようなのか、猫のようなのか、やはりよく分からない生き物だ。
荒北は当初、この口うるさいチームメイトをよく吠える小型犬に似ていると思っていたが、福富は大型の人懐こい猫に似ていると言うし、新開は九官鳥ではないかと真面目くさった顔で宣った。人によって印象が随分と異なっているような、それでいて東堂を示していることはどの喩えでもよく分かるところが不可解だ。
「おい、寝ンなよ」
「んー」
春の陽気にうつらうつらしている東堂に声をかけるが、既に手遅れそうな間延びした声しか返ってこない。
眠っている時はまた印象が変わって、動物どころか植物めいた雰囲気すらある。起きて動いている時の騒々しさから一転して、生き物の気配すら薄れて、無機物でできた人形ではないかと一瞬疑うことすらあるのは、どこか作り物めいて整った硬質の造形のせいだろう。
どうにも無機的な印象は、一言喋り出した瞬間に瓦解するのだが、こうして黙って目を閉じていると石や陶器でできているような気がする。
そんなことを考えて、先程眠っている東堂を見た時に浮かんできたイメージを理解した。
白い陶磁の酒杯。
イメージは明確だったが、全くその連想に至った理由が分からない。
「ねむるさかずき?」
連動した言葉の意味も分からず、首を捻るといつの間にか東堂が目を開けてこちらを見上げていた。
「お前、見かけによらず文学少年だったりするのか?」
「ああ?」
「向田邦子だろう?」
「ダレ?」
素で問うと、深々と嘆息された。
「中学の国語で習わなかったか? 字の無いはがきの話」
「あー」
国語はあまり熱心に授業を受けていなかったが、それでもなんとなく記憶にあった。
「まだ字が書けない女の子が、マルバツ付けたはがき送ってくるヤツ?」
「その話を含めた短編エッセイをまとめた本の名前が『眠る盃』だ。タイトルは作者の父親が酔った時に歌う荒城の月の歌詞を、巡る盃の部分を眠る盃だと間違えて覚えていたというエピソードからきている。と、国語の教師が話したんじゃないか?」
「あ」
言われて思い出す。授業の中の余談だったが、確かに聞いた覚えがある。
「って、何でお前が知ってんだよ?」
「教科書が一緒だったんだろう」
同じエピソードを聞かされたのだと、あっさりと言う。
「学校が違っても、似たような話をされるというだけのことだ。一度間違えて覚えるとなかなか修正できないという話だが、聞いたならちゃんと覚えておけ」
間違えて覚える以前の問題だ、と偉そうに言う東堂の鼻を何も言わずに指で弾くと、痛いと喚く。
こうして賑やかにしていると、全く無機的な印象は無いが。
本の題名である眠る陶器のイメージが、陶製の人形のように眠る東堂と桜が相俟って中途半端な記憶から引きずり出されたのだと理解して、荒北は額を押さえた。
「あー」
なるほど記憶は厄介だ、一度覚えてしまうと忘れるのは難しい。
「うっぜ」
たぶん、おそらく、きっと。
眠る盃という少し不思議な言葉と共に、今年の誕生日と桜とその下で眠っていたチームメイトの姿を、荒北は一生忘れられない。
