朝練のない水曜日、朝から重苦しい曇天が広がっていたが、校舎に向かおうと寮生達が寮を出る頃についに降り出した春先の雨はひどく冷たかった。
雨が降ると、どうにも右肘の奥が疼いて不快だ。
傘を取りに部屋に戻る者と、このくらいの霧雨ならと駆け出す者の動きが入り乱れ、寮の入り口が一時ごった返す。
最初から持って部屋から出てきた荒北がビニール傘を広げると、当たり前のように新開が傘に入り込んできた。じろりと睨むが、追い出すのも大人気ないので、何も言わず細かい霧雨の中を並んで歩き出す。
午後まで雨だろうか、その場合練習メニューをこの大所帯でどう振り分けるか、とだらだら話しながら歩いているうちに、次第に雨足が強くなってきた。
「尽八、大丈夫かな?」
ここしばらく自宅から自転車で通ってきている友人を心配して呟いた新開に、荒北は大きく顔をしかめた。
今、聞きたい名ではない。
「ご機嫌斜めだな、靖友?」
「るっせ」
「また尽八と喧嘩した?」
「してねーよ」
「じゃあマネジと喧嘩した?」
同一人物を指して、わざわざ言い直すなと睨み付けると、反省の色無く肩をすくめる。
「オレはアイツと喧嘩したことなんかねーよ」
吐き捨てると、おや、と目を丸くする。
「なら、いつものは喧嘩じゃねーの?」
「オレが勝手に怒って、一方的に噛みついてるだけじゃナァイ?」
投げやりにそう唸る。
あれだけ明け透けに見えるのに、何を考えているかさっぱり分からないと前々から思ってはいたが、何のことはない。何一つ曝け出したことなどないのだ。
「珍しいな、マジ喧嘩?」
「だから、喧嘩なんかさせてもらってねーよ」
対立できる位置になど立っていなかったと、今の今まで気付かなかったことに腹が立つ。
「んー、そりゃあ無理だろ」
あっさり言われて拍子抜けする。
「尽八、その辺結構臆病……ってのとは違うか、人傷つけるのすげー苦手っぽい? 空気読むっつーか、空気作っちゃうっつーか。本気の喧嘩になる前に、バカやって周りの雰囲気変えて回避しちゃうだろ」
「今回の女装とかァ?」
「もう三年、完全に毒気抜かれちまったよなあ」
あの女装姿を前にすると、毒気どころか全ての気力が萎えて何も言えない者が多いのは事実である。
どこまで計算尽くなのかを考え出すと、やはり苛立ちが募る。
「何なんだよ、アイツは?」
「尽八だろ?」
彼だからしょうがない、といった認識自体が、東堂の思う壺にはまっているようで気にくわない。
「ぶっちゃけさあ、尽八が何考えてるかとか、考えるだけ無駄だと思うんだよな」
真理である。
「考えてること言いたきゃ言うけど、言いたくなけりゃ何が何でも言わないし、聞いてもさっぱり理解できなかったりするし、人のことさっぱり信頼してねーし、すげー自分勝手だから、こっちも好きにするってのが一番じゃね?」
「新開?」
「なんか今回超しんどそーだし、絶対なんか抱えてんだけど。心配して寿一が向かっていっちゃ、女慣れしてねーの逆手に取られて毎度美少女スマイルであしらわれてるし。オレは何言っても冗談で逃げられるし。いい加減、マジで泣かすぞって思ってる」
「……新開?」
「何も言わずに好き勝手にすんなら、こっちだって好きにしていいと思うんだよな」
目を据わらせた新開が、ここしばらくの東堂の態度に既にキレていたと初めて知って、荒北は額を抑えた。
のんびり飄々としているように見えて、案外に直情型なのを忘れていた。
「とりあえず、オレはもうあいつ絶対泣かすって決めた。何があっても、隼人助けてって泣きついてくるまで知らね。絶対もう何も聞かねぇ」
だから、と続けて新開は荒北の肩を叩いて笑った。
「靖友もやりたいようにしていいと思うぜ?」
東堂尽八をどうしたいかと問われれば、今はとりあえず拭きたい。
「雨なのにチャリで来ンなよ」
日食の当番で先に行った新開と別れた直後に、ずぶ濡れの東堂と下駄箱の前で出くわして、その場で捕獲して鞄から引っ張り出したタオルをかぶせる。一応、髪や制服を自分で拭っていたが、薄いハンカチでは吸水能力が明らかに足りていない。
「レインウェアを持って帰るのを忘れていたのが敗因だったな。後でオレの部屋から取ってきてくれ」
「帰りもチャリ使う気かよ? 今日ずっと雨だぞ?」
「他に足がないのでな」
タオルの下から泰然自若とした少年の声が返ってくるのに、着ているのは女子の制服である。更に、ハンカチだと思っていたものはどこかの旅館の手拭のようで、あまり今時の高校生が使うものとは思えない。
つくづく、奇妙な生き物である。
「バスは?」
「路線から外れている。一度湯本駅まで出てから、うちのバスに便乗させてもらうこともできるが、タイミングが合うとは限らんし」
「うちのバス?」
スポーツタオルから顔を出した東堂が、首を傾げる。
「お客様送迎用のマイクロバスだ。うちの実家が旅館だって、言ったことなかったか?」
「あー、何か聞いた」
昨日、顧問が何か色々言っていた気がする。
「子供の頃は学校行くにも他に手段がなかったから、仕方なく便乗させてもらってたが、お客様のための送迎車だから家の者もあまりいい顔はしないしなあ。基本、雨でも雪でも自力で自転車だな」
「この箱根で?」
こくり、とうなずく東堂の登坂能力がどうやって培われたのか、その片鱗が理解できた気がする。
「とりあえず見てて寒ィから、とっととジャージにでも着替え……」
言い終わる前に東堂が小さくくしゃみする。
「寒い……」
「冷てェよ!」
冷え切った指を首筋に当てて体温を奪いにきた東堂に、ふざけた真似をするなと唸るが、青白い顔に怒る気も失せた。
まだ水滴の滴る髪から水玉模様のカチューシャを抜き取り、タオルをもう一度被せて掻き混ぜる。
「乱暴にするな! 髪が傷む!」
「知るかよ!」
視界を塞がれてじたじたと振り回される冷たい手を掴んで、ぐっしょり濡れた上着を剥ぎ取ると、一瞬周囲の空気がざわりと揺れた気がした。何事だ、と目をやるが、誰も目線を合わせようとせず、靴を履きかえて足早にその場を離れていく。
一度荒れてから、しばしば起きる現象なので、もはや荒北はひとかけらも周りの目を気にかけず、剥ぎ取った上着の下の指定シャツに触れた。少し湿っているが、こちらはすぐ乾くだろう。
その湿ったシャツが、身に押し付けられて閉口する。
「ひっつくな、オレは新開じゃねェぞ」
「寒い」
妖怪のようにしがみついて人で暖をとる東堂を力づくで引きはがすか一瞬悩み、一向に血の気の戻らない顔を見下ろして嘆息する。ここ数日、ずっと顔色が悪いのだが、今日は特にひどい。
これを突き放すほど極悪人ではないが、新開のように両手を広げて迎え入れるようなメンタリティも持ち合わせていない荒北は、仕方なく己のジャケットを脱いで突きつけた。
「教室まで着てろ」
きょとんとした顔が荒北を見上げる。
「何だよ?」
「荒北が……優しいだと?」
「ブン殴っていいか?」
凄んでみせるが、出会ってこの方、一度たりとも荒北を恐れたことのない東堂は楽しげに笑って受け取った上着を羽織った。
「ありがとう、荒北!」
「ひっつくな!」
「こんな美少女に抱きつかれて何が不満だ?」
偽物なところである。
「テメェは寒いだけだろが」
付き合ってられるか、と歩幅を大きくして置き去りにしようと試みるが、いかんせん同じ教室に向かうので、上履きを履き替えた東堂にすぐさま追いつかれて絡まれる。
「だから冷てぇよ!」
引きはがしても引きはがしてもじゃれてくるのに苛ついていると、横手から更に荒北のの神経を逆撫でる声がかかった。
「荒北クーン、朝から何イチャイチャしてんのぉ?」
意味がよく理解できず、しばらく考え込んでから声のかかった方を向く。
基本的にのんびりした校風の中では珍しく崩れた雰囲気の少年が二人、階段に座り込んでいた。登校してきた生徒の邪魔になっているが、下手に関わって因縁を付けられるのも嫌なのだろう、生徒達は何も言わず、視線を逸らして彼らを避けて行く。
去年の今頃は、荒北もああやってまるで見えないもののようにして避けられていた。
そこまで考えて、絡んできた相手のことを思い出す。去年、一瞬だけつるんでいた面々だ。結局誰とも反りが合わず、向こうも荒北の誰彼構わない噛みつきように近づかなくなり、そのうちに荒北が自転車部に入ったことで完全に疎遠となった。
「いいねー、荒北クン。チャリ部でかっこ悪い半ズボン穿いて一生懸命汗かいて、彼女もできたのぉ? 青春してるねー」
福富ならば、懇々とレースパンツについて説明を始めるのだろうな、とどうでもいい方向に思考がいったのは、煽るような台詞の一部が今ひとつ理解できなかったからである。
「カノジョ?」
「オレのことだろうな!」
考えないようにしたのに、当人がきっぱりと言い切るのが非常に鬱陶しい。
あまり想像したくないのだが、ずぶ濡れのチームメイトに会ったのでタオルと上着貸してやっただけのことが、その同性のチームメイトが女子制服を着ているというだけで、端から見た印象が随分と変わるようである。
同時に、唐突に絡まれた理由も理解できた。一時期、同じところにいた嫌われ者が、いつのまにか運動部の活動に打ち込み、更に朝から女といちゃついているように見えたのが癇に障ったのだろう。
一つ嘆息して、東堂の肩を掴んで前に突き出す。
「コレのどこが女に見えんの?」
「アァ? 何寝言言ってくれてんの、荒北クーン?」
顔がよく見えるようにしてやったつもりだったが、あまりこの親切心は伝わらなかったようだ。
「仕方あるまい、このオレが美しすぎるのが悪いのだ」
乱れていた濡れ髪をかきあげて首を振る東堂にげんなりとするが、そのいつも通りの態度でようやく正体に気づいたものらしい。
「東堂!?」
「姉貴じゃなくてッ?」
東堂の女装は、同学年には広く知られているものと思っていたが、やはり集団からはみ出した者は情報が遅い。
余程驚いたのか、荒北に対する反感を忘れたように立ち上がった二人は、今度は東堂に絡み出した。
「東堂ちゃん、可愛いカッコして何やってんのぉ?」
「何で濡れてんのー? エローイ」
「パンツ何穿いてんの?」
「レーパンだから、捲ってもつまらんと思うが」
柄の悪い連中に絡まれスカートを捲られても全く動じないあたり、どこまでも東堂は東堂である。余計なことを言って、相手を激昂させる可能性もなくはないが、下手に荒北が口出しするよりこじれにくいだろう。
新開が言っていた通り、東堂はムードメーカーだ。自由自在にその場の空気を調整し、作り上げる。いつもの通り、東堂だから仕方ない、という空気を作って状況を有耶無耶にするに違いない。
そう、安易に考えた矢先に、目の前で東堂が相手を殴り倒した。
「ちょっ……東堂ォ!?」
全く想定していなかった突然の暴力沙汰に、仰天して東堂を引きずり戻して、真っ白な石のような顔を見る。
何がどうなった、と焦りながら周囲を見回し、幸いなことに現場を目撃した者が自分達以外にいないことを確認し、改めて絡んできた相手に目を戻す。顎を掠めた拳で軽い脳震盪を起こしたのか、へなへなと崩れ落ちた仲間を支えて、ようやく我に返った不良が東堂を睨みつけた。
「てめっ、何しやが……」
「オレ自身は別に何を言われても気にしないが、姉に対する根も葉もない誹謗中傷を許したことはない。その、誰にでも股を開く淫売と言っているみんなとやらが誰なのか、教えてもらおうか?」
食ってかかりかけた不良に対する、冷え冷えとした無彩色の声と表情に、背筋に寒気が走る。
確かに、聞くに堪えないからかいの中に一言、確かに彼によく似ているという姉に対する侮辱が含まれていた。ビッチと吐き捨てた台詞を聞いた瞬間、相手を殴り倒していた東堂の逆鱗を初めて知る。
そういえば、去年の乱闘騒ぎとやらも、姉に対する中傷が元だったと聞いた。
「どんだけシスコン……!」
呻いてももう遅い。殴りつけた事実は変わらない。
「東堂、テメェこんなことしてタダで済むと思ってんのか! 大事なチャリ部、活動停止になっちゃうかもなあ? うち、優勝常連校なんだろぉ?」
運動部員に対する分かりやすい脅迫に、東堂が冷ややかな目を向けた。
「関係ない。オレが退部すればいいだけの話だし、必要なら退学する。その前に、誰が未だにそんなくだらん讒言を流しているのか、聞かせてもらおうか?」
言って、足を踏み出しかけた東堂の腕を掴んで再度引き戻すと、荒北は目を回した仲間を支えて中途半端な体勢の少年の足を払って階段の踊り場に引き倒し、その肩を踏みつけた。
「荒北!」
背後から上がった東堂の咎める声は無視して、かつての不良仲間の引きつった顔を見下ろす。
「荒北、テメェもこんなことしてタダで……!」
「チャリ部? 関係ねーなァ。いいんじゃね? 速い奴らなんてほんの一握りのくせに、自分まで速い気になって二言目にゃ伝統伝統ってボケナスばっかだしィ? オレがァ、そいつら庇って平和主義貫くタイプに見えるゥ?」
殊更に嘲るように言い放ち、踏みつけた肩を抉るように踏みにじる。
「なァ、どー思うかって聞いてんだけどォ?」
顔を引き攣らせてぶんぶんと首を横に振るかつての仲間に、なるべく凶悪に見える笑顔を向ける。
「で? 何だっけ? 東堂の姉ちゃんが誰とでもヤるってのは、何の話ィ?」
「きょ、去年のウワサです! スイマセン!」
「今それ言ってる奴、他にいんの?」
「い、いません! 去年、ウワサになった時、東堂君がウワサ流してた奴ぶん殴って退学に追い込んでからは誰も!」
荒北を制そうとシャツの背中を掴んでいた冷たい手が、その瞬間びくりと震えたのをあえて黙殺する。
「あっそ。で? そんなクソみたいなウワサ持ち出して、女装してる弟に絡んでぶん殴られて目回してェ? カッコワル」
吐き捨て、踏みつけていた足を退ける。
「ウゼェから二度とオレらに近づくな。分かったァ?」
理解したら行け、と凄んで、這う這うの体で立ち去る二人の背中が階上に消えるのと前後して、背後から登校してきた生徒達の賑やかな話し声が聞こえてくる。
「東堂、来い」
そのまま階段を上がると今の連中に追いついてしまうが、登校中の生徒の流れに逆流するのも目立つ。仕方なく東堂の手を掴んで、二階の廊下を引っ張っていく。
実験室などが並ぶ特殊教室の階には、朝のこの時間は人気が無い。
それでも廊下の角を曲がるまで奥に進んで、突き当りの美術室の前でようやく足を止める。
「東堂」
呼びかけに、少し肩の余ったジャケットがびくりと震えるのを見る。
「手、見せろ」
握りしめたままの右手を掴むと、血の気のない顔が驚いたように荒北を見上げてくる。
「お前、ホントにケンカ弱いだろ。親指握りこんで殴るバカがいるか。下手したら指捻挫すっぞ。ハンドル握れなくなったらどーすんだよ、このボケナス」
爪痕のついた掌を開かせて、また握ってみろと指示すると、子供のように素直に手を開閉する。
「痛みは?」
ふるふると首を横に振るが、信用せず親指の付け根を軽く握りこむと、身体が強張ったのが分かるが、真っ白な表情は変わらなかった。
「あとで湿布しとけ、バーカ」
言って手を離すと、東堂が一歩後退さった分開いた二人の距離の間に、気まずい沈黙が落ちた。
何を言うべきか、しばらく考えあぐね、不意に面倒になった。
怪我の有無を聞いても嘘を吐く、隠し事だらけで何を考えているかも言わない。関わるだけ無駄だ。
「……勝手にしろ」
あの新開が怒るわけだ、と身に染みて理解して、一言吐き捨てると踵を返す。
「荒北」
関わるまいと決めた端から、低い呼びかけがそれを無にした。
「馬鹿な真似を、するな」
「あぁ?」
振り返って睨みつけると、荒北とは違う種類の凄味のある瞳に睨み返された。
「喧嘩沙汰を起こしてどうする? いい加減、少しは部とお前自身のことを考えて行動しろ」
「ハァ!?」
あまりの言い様に怒髪天を突いて、頭に血を昇らせたまま身を返して広げた距離をゼロにする。貸してやった己の上着を掴んで更に引き寄せ、至近距離で凄まじい色をした瞳を覗き込んだ。
「何言ってんだ、テメェは?」
誰が一番最初に殴りかかったのか忘れたとしか思えない言い草だが、覗きこんだ瞳は揺るがなかった。
「お前はもう、自転車が大事だろう。簡単に投げ出すな」
だから何を言っているのだ、と苛立って、不意に違和感を覚えた。
東堂という男は、それこそ自分を大事にするタイプの選手だ。己のコンディションをきちんと整えて、自身を研鑽することに力を注ぐ。同時に、そのための場を整えることも怠らず、ムードメーカーに徹している。荒北が入部当初、東堂にひどく煙たがられたのは、荒北の存在が部の規律や空気を乱したのが原因だ。
ここしばらくの行動は、あまりにらしくない。
どうして、自分を除外したような物言いをするのだ、と考えて、先程耳にした一言が甦る。
「おい、ガッコやめるって、何だ?」
「…………」
「何? 転校するから好き勝手にやらかしてんの、お前?」
ここしばらくのやりたい放題はそれが理由か、と一瞬合点しかけたが、そこにも違和感があった。
先程、東堂は必要ならば退部も退学も辞さないと言ったのだ。
前提として辞めることがあるのではなく、結果としてそうなるならば仕方ないと覚悟を決めたのは分かる。その原因が、分からない。
「お前さあ、ホント何やってんの?」
一体何を抱えているのだ、と溜め息交じりに問うが、黙りこくった東堂は口を引き結んで何も答えない。
「ダンマリかよ」
付き合いきれるか、と舌打ちして手を離すと、僅かにふらついた東堂の背が美術部の入部勧誘ポスターにぶつかった。
初心者大歓迎、と謳った募集文句が無性に癇に障った。
「オレはお前が何企んでっかなんて、どーでもいいけどォ! 新開、すげー怒ってっカラ」
どうせ、何を言おうと石のように黙りこくるだけだろうと、最後に当てこすって立ち去ろうと投げつけた言葉に、ぼろぼろと涙が決壊したことに思考が止まった。
「……おい?」
先程まで覗きこんでいた凄絶な色の瞳は、泣き出しそうなのを堪えていたのだと今更気づいて大いに焦る。
「おまっ、何……っ、泣くくらいなら、最初っから! だからッ!」
意味を為さない台詞を吐き散らして、離れかけた距離をまた詰めて、東堂の肩にかけたままだったタオルを掴んで泣き濡れた顔に押し付ける。
タオル越しに小さな嗚咽が聞こえて、タオルに顔を伏したままずるずると壁に沿って身を低くした東堂がその場にしゃがみ込んだ。合わせて身を屈めたものの、どこまで付き合うべきか迷って、荒北は中途半端な体勢で小さく震える肩を見下ろす。
押し殺し損ねた嗚咽が時折背を揺らす以外は、ひどく静かな涙だった。
もし東堂が泣くのなら、姦しく、小さな子供のように盛大に泣き喚くのだと思っていた。
こんな泣き方は、反則だ。
そもそも見た目が悪い。顔を隠されてしまえば、女子を泣かせたようにしか見えない。
「助けろ、新開……ッ」
泣かせたいと言い放った新開とは違い、荒北は東堂を泣かせても何も楽しくない。
もっと清々するかと思っていたが、むしろこれは居心地が悪い。
「あー、っと、な? 新開怒ってっけど。お前のこと心配してっから、だし」
「…………ヤダ」
たどたどしいフォローにあっさり否定が返ってきて、何だそれはと反発しかけるが、濡れた瞳から更に溢れ出した涙にぎょっとする。
「新開は、ダメ、だ」
「……何で?」
「去年、もッ、巻きこん、だ……のにッ。隼人、優しいから、絶対今回は、ダメだ」
「……あー」
嗚咽交じりに切れ切れに訴えられた内容は分かりにくかったが、去年の乱闘騒ぎに加わって一緒に停学処分になったことを言っているのだろう。
「新開は頼られてーんじゃね?」
「絶対、ダメだ!」
「あー、そー、お前ら仲いーネ」
巻き込むまいとする東堂と、相談されたい新開の、相思相愛な友情のすれ違いだったと知って、何とも頭が痛い。
「なら、福ちゃんには相談できないわけ?」
ふるふると首が横に振られる。
「ブチョーとか、コーチとか顧問とか、親とか、その姉ちゃんとか?」
首が縦に振られることはなく、ただ一人で抱える決意だけが浮き彫りになる。
「…………オレには?」
濡れた瞳が荒北を見上げた。
「ダメ」
ここで突然東堂が心を開いて、抱えた秘密を打ち明けてくるなどとは欠片も思っていなかったが、真っ向から拒絶されるのはやはり苛立つ。
荒北の曲がった機嫌を察した東堂が、涙目で少し笑う。
「荒北も優しいから、ダメだ」
「別に優しくねーし」
「口が悪いわ見た目も悪いわ、人を威嚇しまくるわ、協調性のない問題児のくせに、案外面倒見良くて人放っておけなくて、ちょっと泣かれたくらいでおろおろする程度に優しいから、荒北はダメなんだ」
「蹴倒すぞテメェ」
少しいつもの調子に戻った東堂が、笑って目元を拭うとぽつりと呟き落とした。
「どうして、もっとうまくやれないんだろうな」
「…………どーいうのが、お前にとってうまくやれてるわけ?」
明確な言葉による応えはなく、ただ薄く微笑んだ東堂にやんわりと距離を置かれたことを知って、小さく舌打ちする。
もし、彼がうまくやっていたら、誰も何も知らないまま何かが終わって、おそらくその時には、東堂尽八はこの学園からいなくなっていた。
