偽マネージャーの存在が非常に不穏ではあったが、既存部員よりも数の多い新入部員の指導や己の練習に追われて瞬く間に数日が過ぎ、完全にオフだった日曜日の翌日、週明けの朝のことである。
朝練に出ていくと、このマネージャー業務を始めてからの定例通り、既に部室に来ていた東堂の様子がおかしかった。
「ナニ、ブサイクな顔してンの?」
明らかに機嫌の悪い東堂におたつく一年を退けて、荒北がずばりと告げると、無言で脛を蹴られた。
「ンだ、テメェ?」
掴み上げようと伸ばした手が、ばしりと振り払われて少し驚く。珍しく、本気で苛立っている。
「どしたの?」
「八つ当たり!」
清々しいほどに理不尽である。怒る気も失せて力を抜くと、それをいいことにばしばしと背を叩かれる。
「何、コイツ?」
「日曜のヒルクライムに出てた緑色の男が気持ち悪いって」
一足先に東堂を構っていた新開に説明を求めると、簡潔だが要領を得ない答えが返ってきたが、目配せで理解した。
日曜日に一般のヒルクライムレースに参加してきて、その男に負けたのだ。
確か、この春の初めにも緑色の髪の男に負けたと膨れていたから、同じ相手に二度負けたということだ。
「もーやだ、アイツ気持ち悪い! ホント気持ち悪い! 何で速いのか分かんなくて、すごく気持ち悪い!」
「知らねェよ! オレを叩くな!」
「ちょっと荒北が似てて腹立つの!」
「どこが!」
「細長いとこ! あと笑うの下手なとこ!」
作り声と女口調を放棄していないので、実はまだ余裕があるのだろうが、何の関わりもない荒北に絡んでくる辺り、かなり苛立っているらしい。
「あんなに無駄な動きばっかりなのに、何で速いの! もうヤダ、あのダンシング夢に出てきた!」
「知るかよ! オレに絡むな!」
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!」
「知らねェつってんだろが!」
前回はここまで不貞腐れていなかったのだが、二回続けて負けたのが相当悔しかったのか、随分と絡んでくる。
「バカみたいなことやってっからだろ。ンなに悔しいなら、アホみたいなカッコして遊んでねーでペダル回せ、バァカ」
いつも通りの憎まれ口のはずだったが、すとん、と抜け落ちた表情に驚いた。
わざとらしく作っていた表情がきれいさっぱり消え失せて、何かを深く抉りとってしまったような感覚に後味の悪い気分を覚える。
くるくると変わる表情と賑やかに騒ぎ立てる声が払拭されると、そこにあるのはひどく温度のない白い顔だ。
時々目にするこの顔を、荒北は白い石のようだと思っている。
冷たく硬く、色も味も匂いもない。
「東堂?」
覗きこもうとした目が伏せられて、踵を返した東堂が新開の腕に縋りついた。
「隼人、荒北が優しくない!」
「はいはい、オレが優しく慰めてやるから、おいでおいで」
改めて作り直された甘え声に拍子抜けし、次の瞬間無性に苛立った。
「新開、ソイツこっちに寄越せ、一度マジでシメっから」
掴みかかろうとする荒北と、新開を盾にする東堂の攻防は、三人まとめて主将に一喝されるまで続いた。
「おつかれさまぁ、蜂蜜レモン用意してあるよー!」
午後のハードな練習の後にそう声をかけてくるマネージャーが、本物の女子だったなら、と荒北でさえもが一瞬思ったのだから、二年、三年の被ったダメージは計り知れなかった。
一様にがっくりと肩を落とした上級生達の反応に、一年生達がきょとんとするのはもはや定例である。上級生が手を出さないのに、新入生が用意されたレモンに手を付けるわけにいかず戸惑っているのを見やって、荒北は舌打ちすると偽マネージャーからトレイを受け取って福富と新開に突きつけた。
「取って回して」
人数分ホイルに小分けにされたレモンに、二人が躊躇なく手を出したのを皮切りに、トレイは部員達の間を回って順調に消費されていく。
「……しょっぱい」
「味に影響でない程度に塩入れたつもりだったけど、しょっぱかったですか?」
味覚ではなく、精神的な感想を呟いた三年の顔を東堂が覗き込む。
「大丈夫、美味しいよっ!」
慌ててフォローをしてから相手の性別を思い出して一際落ち込んだ先輩に、アホか、と口に出さないだけの理性はあったが、そろそろダメージ受けるくらいならこの茶番を終わらせろと声に出して言うべきかもしれない。
「これを東堂先輩が作ってくれたんだったら……」
「言うな……!」
三年が東堂に先輩と付けるはずがないので、姉の方の話題だろう。
ここのところ、二年、三年の間で溜息と共に聞く単語である。弟ではなく姉本人だったら、という嘆きは二言目には東堂先輩は美しかった、というしみじみとした慨嘆となるので、その信者のような反応が気色悪い。
「靖友食べないの?」
「酸っぱいのキライだしィ」
作成者の性別は特に問題ではないが、元々酸味のつよい果物が嫌いな荒北は最初からレモンに手を出していない。
「言うと思った!」
ガツンと後頭部に衝撃が走って、じろりと偽マネージャーを睨むと、荒北用のボトルを突きつけられた。
「ナニ?」
「蜂蜜梅ドリンク。クエン酸と糖分と塩分摂る!」
膨れた顔で押し付けられたボトルを口端を下げつつ受け取って、矯めつ眇めつしてから一口含んでみる。
「あ、飲める」
甘酸っぱい梅の風味のドリンクは爽やかで、飲みやすい。炭酸が入っていればより好みだっただろう。
「荒北は好き嫌い多過ぎ! だからすぐに風邪ひくの!」
「るっせ! テメェだって炭酸飲めねーし、ジャンクフード大体ダメだろ!」
「それが駄目で何か健康に支障があるかーッ!」
「うっせうっせうっせ」
声はまだ高く保っていたが、口調が普段のものに戻りかけたのを、掌で口を塞いで黙らせる。
その触れた顔がやけに冷たく感じられて、荒北は眉をひそめた。
「おい……」
「トミー助けて! 荒北が好き嫌いばっか言って栄養偏っていつも怒ってる!」
言いかけるより早く、するりと身を返した東堂が、いつもと趣向を変えて福富を盾にした。新開とは異なり、わざとらしく手を広げて抱きつかせるようなことはない福富は、代わりに固い表情筋を僅かに動かして、背中にしがみついた東堂と歯をむく荒北を見比べた。
「荒北は栄養バランスをもう少し考慮すべきだ。カルシウム摂れ」
「福ちゃん!」
「東堂も、顔色が悪いが大丈夫か?」
まさか自分にも振られるとは思っていなかったのだろう、少し驚いた顔で東堂が福富を見上げた。その顔が少しやつれて見えたのは、やはり荒北の錯覚ではなかったらしい。
「無理していないか?」
「……大、丈夫」
にこりと笑ってみせたチームメイトを無表情で見下ろした福富が、その肩に手を置いた。
「無理してるなら、今すぐ、本当に、やめろ」
鉄面皮には珍しく、その声に本気の苦渋が滲んだ懇願は、新入生を除く全ての部員のもう勘弁してくれという心の底からの願いと同一だった。
部活終了の挨拶が終わっても、この大所帯だとなかなかすぐには人がはけない。
バスに乗って帰る部員を優先して着替えさせ、寮組は少しばらけて時間を待つ。そのだらけた隙を突かれた。
「荒北さんって、マネジと付き合ってんすか?」
単刀直入な問いに、荒北は噎せ返る。ドリンクを気管に入れて非常に苦しい。
咳き込みながら見やった先に立つのは、一年の黒田だ。
身体能力の高い身体に頼った慢心が覗いていたので、通過儀礼的に軽くへし折ってみたところ、委縮もせずに突っかかってくるようになったので、なかなか見どころはある。
しかし、こういう突っかかり方はやめてほしい。
「ネーヨ」
ようやく咳が収まって嗄れた声で唸るが、本人の意図よりも凶悪に受け取られやすい荒北の態度に、後輩は怯まなかった。
「わざわざ特製ドリンクまで用意してくれてるのに?」
「こりゃ、朝の八つ当たりの詫び」
自分に非があった、と認めた時の東堂の常で、いつもは荒北の好むメーカーの炭酸飲料が供えられるが、今回のもその一種だ。
「本気でそう思ってんすか?」
「本気も何も、そんだけだっつーの」
「だって、いつも一緒にいますよね?」
「クラスおんなじなんだよ」
見当違いの誤解を向けられるのにも苛つくし、横で新開が声にも出せずに爆笑しているのが、余計腹立たしい。
「そーいうのは新開だろ」
元々、新開と東堂はスキンシップが多い方だったし、二人揃うと馬鹿なことばかりしているが、今の女装姿でも何ら普段と変わりないので、一見付き合っているとしか思えないのは新開の方だろう。
他にも仲良く馬鹿をやっている同学年はいたが、彼らはこの偽マネージャー計画が発動してから必要以上に東堂に近づかないようになったので、新開の構いようが悪目立ちしている。
これを指して言うなら分からないでもない、と巻き込んでやると、耐えかねたように声を上げて笑い転げる新開を、新入生はしばらく眺めてから荒北を振り返った。
「一番べたべたしてるけど、全然本気に見えないんで」
「まァね」
本気でも困る。
「で、本当のとこ、どうなんですか?」
「つーかさァ? 一年坊主がそんなこと気にして、どーすんの?」
「彼氏いなくて年下オッケーなら、俺らにも可能性あるじゃないっすか」
しつこく絡んでくる黒田に、適当に逃げを打つと、直球で返ってきた。
入部したばかりの一年にしては剛毅なものだが、きっとその運動神経の良さで中学時代にはかなりモテたのだろう。二人のやり取りをひやひやとした顔で窺っている、他の一年ではこうはいかない。ただ、その実績に基づいた少々高慢な態度も、一つ年上の美人マネージャーの正体が本物の女子でないというだけで全てが台無しである。
あまりの茶番に、もう全部暴露してしまおうか、一瞬本気で悩む。
いい加減、二年三年の精神も疲弊しきっているようだし、一年のマネージャーに対する痛々しい幻想も日々膨らんでいて、誰も得をしないこの状況を打破してしまうのが一番ではないかと思うのだが、東堂が本気でやり通すつもりなので、下手に手を出すと面倒だ。
東堂自身も面倒だが、自転車部に直接関係ない取り巻き達が、ちやほやとこの女装を支持しているのもあるので、昨年は全校を巻き込んだというそのファン心理のヒステリーに晒されるのは御免蒙る。
その当人も、やや疲労の色が覗いてきているのだから馬鹿馬鹿しい。先の福富の台詞の通り、とっととネタばらしをして、この茶番を終わらせればいいのだ。
皆が帰る支度に入ってもなお、ぱたぱたと用具を片づけて回っている偽マネージャーの背を半眼でしばらく追ってから、荒北の反応を待ち構えている黒田に目を戻す。
「なら、本人に聞けばァ?」
そんなに身構えられても困る、とやる気なく応じると、後輩の中で何かがぷつりと切れたようだった。
くるり、と踵を返して洗濯物を回収していた東堂の手から籠を取り上げ、運びます、と快活な声で告げる。
僅かに目を瞠って、一つ年下であるにも関わらず、少し目線が上になる少年を見上げ、床を叩いて笑い転げている新開と、ぶすっとした荒北に一瞬視線を走らせてから、にっこりと微笑む。
「ありがとう、黒田くん。でも一年はもう着替えて帰って。これから上級生だけでミーティングあるから」
普段全く空気を読まないような振る舞いが多いくせに、この女装を始めてから少し様子が違う。やたらと察しがいいし、対応に卒がない。下級生には親身に指導しているが、付け入る隙を与えない立ち振る舞いは意図的なものだろう。
その様子を見ていると、普段の言動もどれだけ狙ってやっているのか怪しくなってくる。
「分かりました、一年すぐに引き上げます。あ、そうだ、一つ質問なんすけど」
するりとかわされた黒田も、空気を読んであっさりと引き下がったように見えたが、そのままズバリと切り込んだ。
「マネジって、年下有りですか?」
衆目の中、展開次第では酷い恥をかくことになるというのに、なかなかの胆力である。
そもそも、相手の性別を誤認している時点で、結末は恥しかないのだが。
生意気だが、このまま放置するとかわいそうなことになりそうなので、どう止めるかを悩む。下手に荒北が割って入れば、一年の間で妙な噂が立ちそうである。
どうしたものか迷った隙に、東堂がくしゃりと笑って応じた。
「もう、こりごりかな」
何を考えているか分からないチームメイトが、その一言だけ本音を洩らしたような気がした。
「お前、ほんッと分かんねえ」
「何がだ?」
部室の隅に置かれた事務机に向かったまま、振り返りもしない後ろ姿は女子生徒そのものだが、応じる声は普段の東堂のものだ。
ミーティングを終え、もう部室には東堂、荒北、新開、福富の四人しかいないので、女子マネージャーの演技は完全に放棄している。ミーティング中はまだ女言葉を使っていたので、一年がいないところではやめてくれとチームメイトが懇願する場面と、それに応じて口調を元に戻した時点で部室の空気がどん底まで落ち込む一幕があったが、今この場に残っている者は、東堂の外観と中身に夢も希望も持ち合わせていないので、誰も気にしていない。
「何だよ、ソレ?」
荒北が気にしているのは、東堂がパチパチと指で弾いているものである。
「今の子は知らないのか? これは算盤というんだ」
「知ってンに決まってんだろ! 現実で使ってる奴を初めて見たって言ってんの!」
「小さい頃に婆ちゃんに仕込まれたからな、電卓よりこっちの方が早い」
言うだけあって、机に広げたレシートや領収書を見ながら珠を弾く手は淀みない。
「つか、さっきから何やってんの?」
「会計」
「ンなことまでやんの?」
「オレは元々会計なんだが」
言われて、そんな役職もやっていたことを思い出す。
それまでデスクに広げられたレシートをぺらぺらと捲っていた福富が、東堂が算盤を弾いては書き込んでいるノートを見下ろし、僅かに眉をひそめた。
「全体の経理は、OBがやってくれているだろう?」
「うちは寄付金などの管理があるからな。しかし、社会人の方にあまり負担をかけるわけにもいかんし、小さな備品や消耗品の支出管理くらいはきちんと部員で回すのが筋だろう。ボランティアでOBがやってくれているからって、これまでがグダグダすぎたんだ」
会計担当は三年にもいるはずだが、東堂の口ぶりからしてグダグダ代表その一なのだろう。あえて上級生を排除した上で、改めて収支計算をしているらしい。
「備品の整理をして回っているのも、そのためか?」
この一週間、常に走り回っていると思っていたが、いつのまにか非常に雑然としていた部室が随分とすっきりした。
「前の代もきちんとしているとは言い難かったが、今の三年の代になってとにかくゴミが増えたし、物の置き場もいい加減で備品管理がメチャクチャになっていたからな。このまま新入生にこれでいいと思われても困る。この機会に全部片づけておこうと思ってな」
「マネジをやると言いだしたのは、それが目的か?」
福富の問いに、算盤を弾く手が一瞬止まった。
「せっかくのシーズン開始だ、旧弊は廃しておきたい」
高校二年生の男子にしては一風変わった言い回しで、婉曲に福富の問いを肯定する。
「一つ、聞いていいか?」
「答えるかどうかはさておき、何だ?」
「それは、お前が、今、どうしても、やらなくてはいけないことだったか?」
この大切な時期に、自分の練習時間を潰してまでしなければならなかったのかと、一言ごとに区切った問いに、東堂が完全に手を止め、福富をひたりと見据えた。
ひやりとした硬質の表情は、まるで女になど見えない。
「オレでなくてもよかったかもしれないが、誰かが、今、必ず、やらなくてはならないことだ」
問いを一つずつなぞるようにきっぱりと応じた東堂に、福富は嘆息した。
「もう一つ聞いていいか?」
「何だ?」
「その格好でやる必要はあったのか?」
こちらの問いの方が、より切実に響いたような気がしたが、女子制服で既に一週間過ごしている東堂は何故か胸を反らした。
「二週間マネジ業に専念したいなどと言ったら不審がられるかもしれんが、新入生サプライズで女装すると言えば、ノリで行けるからな。この格好は便利だぞ、あれ取って、これ運んで、片づけて、掃除してとお願いすれば一年が全部やってくれるからな。おかげで大分部室が綺麗になった」
上級生の命令として男の姿で指示しても、もちろん体育会系の部であるから下級生が服従しないはずがないのだが、美人マネージャーの頼みごととあれば熱心さが違う、と笑う姿に頭が痛い。
「イチネンがカワイソーだろ……」
あいにく、荒北にはどうしても目の前の生き物が東堂以外の存在には見えないので、何故、これを女と信じてちやほやできるのか理解できないのだが、信じているものは仕方ない。
「この美人マネージャーの手足となって働くことに喜びを得ている一年達の、一体何が哀れだというのだ?」
「その中身と性別を知った時を考えっとなァ……」
年寄じみた口調のせいか、老獪なものさえ感じさせる東堂は既に忘れているのかもしれないが、普通の高校一年生の男の子の心は多感で傷つきやすいものである。
ちなみに高二、高三の男の子も十分に繊細なので、あまりこちらの精神も削られたくない。
「この美人マネージャーがいるからこそ、頑張って厳しい自転車部の練習についてきている者も多いというのに、分からん奴だな」
「全然分かンねーよ!」
「いや……確かに今年は仮入部途中の辞退者が少ない」
意味不明に自信たっぷりな東堂に噛みついた荒北の否定を、福富が真面目な顔で台無しにした。
「去年は今頃入部希望者半分になってたよな」
「毎年、日曜の休みを挟んだ後に半減するはずだが」
今のところ、サイクリング部と勘違いしていたらしい者が数名抜けたくらいで、過去最多の新入生数の減る気配はない。
「オレの人徳だな!」
「人徳者は女装して年下の男を手玉に取ったりしねーンだよ」
度し難い、と嘆息する。
「つーか、その女装が目的じゃないっつーなら、もう止めたらァ?」
「女装が目的だったらオレが変態だろう?」
ミニスカート姿で何の羞恥も覚えずにいられる時点で変態と何が違うのか、荒北には分からないが、東堂の感覚は常人とはかけ離れたところにあるので、ここで押し問答したところで無駄である。
「変態趣味で女装してんじゃないっつーなら、もうやめろヨ」
荒北の台詞に大きくうなずいた福富は、表情が変わらないので分かりにくいが、それなりに他の部員と同じく心が削られているらしい。
「いーじゃん、あと一週間もないんだし」
新開の無責任な言葉を無視して、東堂に半眼を向けると、何故かもじもじと身体をくねらせる。
「ここまでやったんだしぃ、アタシ、土曜日までがんばって、新入生レースに出てぇ、あの子達全員ぶち抜きたいなって」
あざとく作った女声で、とてもえげつないことを言う。
仮入部期間の終わる今週末の土曜日に新入生にレースをさせ、週明けまでに本入部するか決断させるのが定例らしいが、それに東堂扮する偽マネージャーを投入しよう、というのはこの企画がまだ悪ノリに悪ノリを重ねて立てられていた時の案である。
誰が言いだしたかは忘れたが、ファンライドのつもりで、女子マネージャーと信じていた相手に圧倒的な差を付けられて負け、更にそれが男だと知った一年の反応はさぞかし面白いだろうという悪趣味な仕込みである。
現時点でもう一度採決を取れば、さすがに誰も賛成しないと思うのだが、当人はやる気満々のようである。
「鬼か」
「山神だ」
冷徹極まりない顔を見せたかと思えば、女装姿で悪ふざけをし、クライム最速の称号を傲然と振りかざす。よくもこんな難儀な性格が一つの身体に納まっているものだと、ほとほと感心する。
「ところでお前ら、そろそろ食堂行かんと、夕飯食いっぱぐれるぞ。こっちで戸締りして帰るから、駄弁ってないで帰れ」
「東堂は?」
「この領収書のチェックを終わらせたら帰る」
「もう暗いぞ、気を付けて帰れ」
「分かってる」
福富の台詞に短く応じて、再び東堂が領収書の山に取り組み始める。特に手伝えることもなさそうなので、いるだけ邪魔なようだ。指摘通り、あまりここでもたもたしていると、夕食を食べそこねる。
東堂を置いて部室を出て、三人で他愛もないことを話しながらぶらぶらと寮に向かう途中で、荒北は部室に携帯を忘れてきたことに気が付いた。
いつもなら明日の朝で良いと放置するところだが、英語の宿題範囲の板書をノートに書き写すのを面倒がって、撮影したデータが入っている。同じクラスの寮生は東堂しかいないので、クラスメイトに聞くにも写真を確認するにも部室に戻るしかない。
仕方なく二人と別れて、元来た道を戻る。
最上級生でない限り、部室に入る際は直立不動で入室を告げるのが自転車部のしきたりだが、今、室内にいるのは東堂だけである。挨拶を省略していきなりドアを開けると、ぎょっとした顔で振り返った東堂が机の上のファイルを崩し、そこから紙束が雪崩た。
「ンだよ?」
そこまで驚かなくてもいいだろう、と思いながら足元にまで滑ってきたコピー用紙を見下ろして眉をひそめる。
オークションサイトのページをプリントアウトしたものだ。自転車部品の中古出品である。
「何コレ?」
拾い上げる前に、東堂の手が散らばった用紙を掻き集めてしまう。
「何かパーツ欲しいの?」
「ああ、ちょっと検討中だが高くてな、オークションの中古を見ているが、状態を確認するのが難しいし、悩みどころだな」
「盗品の可能性もあるしネ」
「その見極めも難しいな」
高価なロードバイクを盗んでオークションで売り捌くというのは、よく聞く話である。
乱れた用紙を整え、ファイルに挟み直した東堂が改めて振り返る。
「ところで、何の用だ?」
「携帯忘れた」
言ってロッカールームに向かいながら、荒北はちらりと窓に映る青白い顔に目をやった。
東堂尽八という人物を荒北が理解し難いのは、その複雑怪奇な性格を未だ把握しきれないからで、人に対する評価を野性的な勘に頼っている荒北を非常に戸惑わせるのは、その匂いの希薄さだ。これだけ強烈な個性を持っているのに、人間味が妙に薄い。
ただ、今はいつもに比べて随分と分かりやすい匂いがしていた。
嘘吐きの、匂いだ。
