マネジ! - 3/12

 朝、携帯の目覚ましアラームを止めてどうにか起きだし、顔を洗って着替え、朝練のある寮生のために早朝から用意されている朝食を摂る。
 その間に同様に起き出してきたチームメイト達と何回か挨拶を交わし、寝坊していると思しき者の部屋のドアを蹴って起こし、新入生を含めて連れだって寮を出た時点で何かが足りない、とようやく動いてきた頭で考える。
「東堂……?」
「マネジならもう来てんじゃね?」
 いつも朝から元気な男がいない、と不審に思ったところに、新開からの一言で今の状況を思い出す。
 どっと疲れた顔をしたのは荒北だけでなく、他の二年、三年も同様で、変わらないのは飄々としている新開と鉄仮面の福富の二人だ。逆に、仮入部中の一年生達は明るい顔になった。
「マネジ、朝から来るんすか?」
「一年入って張り切ってたから来てると思うぜ」
 新開の答えに盛り上がる意味が分からない。
「マネジ、めっちゃ可愛いっすよね!」
 何を言っているのかさっぱり分からない。
「口説くなよ、痛い目見るから」
 正体を知った時にダメージを受けるからだが、思わせぶりな新開の口調に一年達が食いつく。
「マネジ、彼氏いるんすか?」
「さあ」
「新開先輩となんかいい感じじゃないっすか?」
「仲はいいよ」
 真実を伏せてはぐらかし続ける新開と食いつきのいい一年の会話の盛り上がりを背に、先に進む上級生達の気分は盛り下がり、もはや終始無言となった頃にクラブ棟に辿りつく。
「あ、寮組来た。おはよー!」
 華やいだ声の挨拶に、ああ、だの、うう、と呻くように応じた上級生達とは対照的に、一年生は明るく大きな声で、大荷物を抱えた東堂に挨拶を返した。
「東堂先輩、ドリンク運びますよ!」
「これ、ボトルに詰めていけばいいんすか?」
「他にお手伝いすることありますかっ?」
 強豪の運動部に入部したばかりの一年生として、雑用から入るのは当たり前の行動ではあるが、素早すぎる。あっという間に空になった手に一瞬きょとんとした東堂が、にこりと微笑む。
「ありがとー」
 何故か盛り上げる前方の空気と、どこまでも盛り下がる背後の空気の温度差が鬱陶しい。
「俺らだってさぁ、一年の頃にあんな女子マネいたら全力でちやほやしたよ……」
「藤原ぁ、その複数形にオレ入れないでくれるゥ?」
「なんだよ、荒北。お前だってあれが本物の女子マネだったら、デレデレすんだろ」
「絶対しねェ」
 中学時代に免疫はついているし、その中でもああいう甘ったれた声を出してクネクネ動くタイプは好きではなかった。加えて、あれは男である。
 一年に朝練開始までの準備について一通り説明をし終えたらしい偽マネージャーは、スカートを翻して動こうとしない上級生達を振り返った。
「ほら、みんなシャキっとする!」
 ぱん、と手を叩いた東堂に、精根尽きかけていた一同がのろのろと動き出す。
「こら荒北、お・き・ろ!」
 一際動作の遅かった荒北に矛先が向いて、背中を叩かれる。
 普段も、朝は不平たらたらで動作の鈍い荒北に対して、朝から元気な東堂が絡んでくることは多々あるが、漫画ならば語尾にハートマークか音符記号でも付くのだろうと思われる華やいだ声を浴びて、荒北の背筋にぞわりとしたものが走った。
 無言でその頭を鷲掴んで上向かせると、周囲がどよめいたがどうでもいい。
「痛い!」
「るっせ」
 昨日はきらきらとした石がたくさんついていたが、今日は細いリボンの赤いカチューシャだ。どちらにしても男が頭に載せるようなものではない。
 ついでに何やら口元もきらきらしている気がする。それに、昨日に引き続き目も普段より大きい気がする。
「お前、なんか化粧してる?」
「グロスだけ」
 もらったから、とあっけらかんとした答えが返ってくる。
「グロスってナニ?」
「液体のリップクリームみたいな? これは透明の」
「目は?」
 問うと、至近距離で瞬いた目がぱしぱしと微かな音を立てた。
「あ、ツケマしてる? 睫毛がいつもより多い気がする」
 横から覗きこんできた新開が、流行歌で聞きかじった用語を口にすると、ふるふると首を横に振る。
「やってみようとしたら止められた。ツケマするならアイメイクをがっつりしないといけないし、そうすると全体も派手にしなくちゃいけないけど、ギャル化粧似合わないって。透明マスカラくらいがいいって言われたけど、なんか目が重い感じがするし、汗かいて目に入るのヤだからしてない。ビューラーだけ」
 姉か取り巻きの女子に色々と指南されているようである。
「びゅーらー」
「睫毛をカールさせる道具。炙って使うとカールが長持ちするんだって」
「あー、だから女子って煙草吸ってるわけでもないのに、いつもライター持ってんのか」
「目が大きく見えるよ、隼人もやってあげようか?」
「え、マジ? やってやって」
「やんな!」
 どこまで馬鹿二人だ、と等分に拳骨を落とし、静かになったところをすかさず東堂の首根っこを引き掴んで黙々とアップをはじめていた福富に向かって突き出す。
「福ちゃん、これ邪魔だから何か仕事させて引込めて。気が散る」
「荒北ひどぉい!」
「ッセェ!」

「荒北がいじわる、荒北がひどい、荒北がやさしくない」
「るっせ!」
 朝練で追い払ったことに対する恨み言を延々と隣で愚痴る東堂に唸るが、いつも通り効果はない。
「もう少し協力してくれたっていいのに!」
「何を! どう! 協力すんだヨ!」
 むしろこの馬鹿馬鹿しい企画を全てぶち壊したい。
 言い争いながら廊下を足早に進むが、二年に上がって同じクラスになった東堂も向かう教室は一緒である。寮も部も同じなので、朝っぱらから些細なことで衝突して、くだらないことを口論しながら二人が歩く姿は一年の頃から馴染みのもののはずだが、今日は妙に視線が集まる。
「荒北のバカーッ!」
「テメェに言われたくねーよ、このバァカ!」
 これまたいつも通りの結論に落ち着いて、教室の前後の扉に別れて入る。
 単純に机の位置の都合なので、子供のような喧嘩別れをしているわけではないのだが、周りがどう見ているかなど、二人とも知ったことではない。
 昼になれば何事もなかったのかのように連れだって食堂に行くだろうし、午後になれば部室に向かう。タイミングが合わなければバラバラに行動するが、別にこの口論を引きずっているわけでもない。
 見慣れた情景のはずだったが、出席番号の都合で廊下側の一番前の席に鞄を投げ出した荒北を見るクラスメイト達の目がいつもと違った。
「ァんだよ?」
 じろり、と周囲を睨めつけると、後ろの席の男子が意を決したように口を開いた。
「荒北…くん、彼女、誰?」
 呼び捨てにし損ねる辺り、気が弱い。
「彼女って?」
 何の話だ、と眉をひそめると、よほどそれが凶悪に見えたのかクラスメイトは慄きつつ、扉までの距離の分少し遅れて入ってきた東堂を指し示した。
 まだ席替えをしていないので、出席番号順で決められた東堂の机は教室の中ほどの一番後ろの席だ。いつも通りの道順で机に向かう東堂だが、その姿に教室中の視線が集まっている。
「一緒に来た子、誰? 転校生?」
「東堂だろ?」
 確かに少々とち狂った姿ではあるが、この学園にもう一年も在籍しているなら、あの素っ頓狂な生き物の馬鹿げた行動には免疫が付いているべきだろう。何を言っているのだ、とばかりに応じた荒北の台詞の効果は劇的だった。
 ざわりと揺れた空気と共に、一瞬凄まじい勢いでクラス中の視線が荒北に突き刺さり、次に自分の席に向かう東堂に移った。荒北が晒されたのは一瞬だったというのに、思わずたじろぐほどの物理的な圧力を感じる視線を集中して浴びても、東堂はまるで気にした様子はなく男子の列の自席に鞄を置く。
「と、東堂?」
「何だ?」
 教室に入ればあの妙な作り声を出すのはやめたようで、いつも通りの声でクラスメイトの呼びかけに応じる。
「……その格好、何?」
「可愛いだろう!」
 質問にまともに答えていないが、その答えで教室内の空気が諦めと許容に塗り替わった。
 あえて言語化するならば「あ、東堂だ。じゃあしょうがない」というところである。
 その空気を成立させるキャラクターが東堂の東堂たる所以だが、この空気で助長させた結果がこれだとも言える。
「えー、東堂くん、すっごくカワイー!」
「どうしたの、罰ゲーム?」
「何でもいいよ、キレーだもん!」
「それ昨日だけじゃなかったのかよ、うわ、近くで見ても女の子にしか見えねーな、お前」
 諦観と許容を土台に、更にこうやって一部男女問わずにちやほやとする輩がいるのが害悪だ。こうして調子に乗った結果が、今の東堂尽八である。
 一部、昨日の部活動紹介の様子を知っていた者もいるようだが、ほとんどが初めて目にしたようで、教室中が蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
「ッセーな……」
 彼と同じクラスになってしまった時点である程度は諦めたが、今日の騒ぎは許容範囲外だ。同級生の男が女子の制服を着て馬鹿をやっているからと言って、ここまで騒ぐこともないだろうと思う。
「こら、何の騒ぎだ、席着け、席!」
 あまりの騒がしさに、早めに教室に入ってきた担任教師が、騒ぎの中心に目をやって一瞬不可解そうな顔をした。
「東堂、お前、卒業しただろ?」
「それは姉です」
 明快な解答だったが、理解するのに時間を要したようで、担任は教卓に向かいかけた中途半端な位置で立ち止まってしげしげと女子生徒にしか見えない相手を見やった。
「…………弟の方か」
 ようやくその事実を受け入れたか、まだ受け入れたくないのか、首を横に振りながら嘆息する。
「それで、その格好は何だ?」
「自転車部の新入生歓迎企画です。服装許可はちゃんとここに」
 ぺらりと取り出した書面に何が書かれているのか不明だが、昨夜自信満々に宣っていた学校側の許可状らしい。一読した担任が額を押さえたところを見るに、本物のようだ。
「あー、東堂以外の自転車部」
 嫌々ながらも荒北が手を上げると、どろりとした目が向けられた。
「後で、ちょっと来てくれ……」
 本人との対話を早々に諦めた担任の要請に、荒北は苦々しい顔でうなずくしかなかった。

「つまり仮入部期間、東堂が女装してマネージャーの振りをして新入生を誑し込んで囲い込むのか」
 言い方に語弊があるような気がするが、概ねその通りである。
「自転車部は部員数に困ってないだろうに。他の部に譲ってやれないのか?」
「あー、なんか、東堂が初心者入れんのにこだわってんすよ」
 何を考えているかさっぱり分からないチームメイトの説明をさせられるという理不尽な状況に、荒北は髪をぐしゃぐしゃとかきまぜた。
 生徒指導室の机を挟んで並ぶのは、難しい顔をした担任と学年主任だ。去年の今頃はよく呼び出された場所と役職の組み合わせだが、議題は大分違う。
「オレとしては本人を指導してほしーんスけど」
 何故、同じ部の同級生というだけで、荒北が呼び出されなければならないのかが謎だ。
「あと、アイツ、学校側の許可取ったって言い張ってましたけどォ?」
 無言で突き出された書状は、先程東堂が担任に見せていたものである。読み取るのに少し眉が寄ったのは、それが少々崩した筆字による、持って回った言い回しの文だったためだ。
 とりあえず、東堂の名と仮入部期間のみ女子制服着用を許可する、とあるのは読み取れて、そのふざけた許可を出した相手の名を確認する。
「……学園長」
 肩書きと署名の後の朱印も確かにそうある。
「どーやって……?」
 思わず漏れた呟きに、教師達が揃って沈痛な面持ちで首を横に振る。
 学園長のイメージなど、入学式などで長々とした挨拶をする男、というイメージしかない。自転車部は強豪なので、インターハイ前には直々の激励をもらうとは聞いているが、今のところ荒北には全く関係ない。
 私学における学園長なるものがどれほどの権力を有しているのかも知らないが、教師達の反応を見るに、この許可証をどう扱えばいいのか困惑する程度の権威のようだ。無視はし難いが、認めていいものかどうかも微妙、というところだろうか。
 私学の教師の立場なども荒北の知ったところではない。
「どうして止めなかったんだ?」
「オレは! この数日! 朝昼晩! 馬鹿やんなって言い続けたんですけどォ!? つーか、オレに言うな、東堂に言え!」
 無責任な発言に最低限の敬語も消えた荒北に、教師が気まり悪げに身動いだ。
 教師ならば怒鳴りつけてでもやめさせろと思うが、去年の己の行状をろくに注意もできなかった面々を思い起こすに、期待するだけ無駄である。
 しかし、自棄になって誰にでも彼にでも噛みついていた当時の荒北と違って、あの東堂を相手に及び腰になる理由が分からない。
「東堂の弟の方か……」
「姉は優等生でしたけどねえ」
「いや、姉は姉でなあ……。でも、弟だけなら、もうあんなことにはならないんじゃないか?」
「いえ、弟の方ももう親衛隊がいまして……」
 ぼそぼそと言い合う教師達が何を話しているのか分からず、苛つく荒北の前で学年主任は深々と嘆息した。
「こんなことで、また去年の乱闘事件の二の舞になってもなあ……」

「このガッコ、駄目じゃねェの!?」
 定食のトレイを苛立ち任せにテーブルに叩きつけると、味噌汁が大きく跳ねて椀の中身が半分減ったことにも腹が立つ。
「担任、結局ナアナアで済ませやがっし、他の科目の教師も見なかったことにしやがるし、英語のワタナベなんか、あら、ソーキュートじゃねェっての! 古典のスガセンは完全に姉貴と勘違いしてっし! 生徒の見分けもつかねーくらいボケてんなら、もう学校やめろっつーの!」
 午前の授業で溜まりに溜まった鬱憤を一気に吐き出すと、正面に座った福富が表情を変えずに落ち着け、と応じた。
 昼休みの食堂は混み合っていたが、怒気を振りまいている荒北の周囲に少し空白ができている。その空隙をちゃっかり確保した新開が隣から袖を引いてきて、憤然と荒北はスツールに腰を下ろした。
 問題の東堂は、家から弁当を持ってきており、女子達に囲まれてどこかに消えた。
 何か調子に乗ってやらかすかもしれないが、荒北の知ったことではない。
「でも、今の尽八、本当に姉ちゃんそっくりだからなあ」
「その東堂の姉貴って何者なの、イマドキ裏番でも張ってたワケ?」
「今時ヤンキーやってた靖友が言うなよ」
「ッセェ!」
 隣の新開に噛みついていると、正面の福富が首を傾げた。
「東堂のお姉さんと言えば、生徒会役員を務めていた品行方正な先輩だったが?」
 どうにも、その姉の人物像がよく分からない。
「美人書記って有名だっただろ、学校行事の時は大体司会アナウンスやってたぜ?」
「全然知らネ」
 おそらく、学校行事のほとんどを投げ出していた頃のことだ。
 自転車部に入って、学校生活の全般に対する態度も改めた頃には生徒会選挙も終わって、代替わりしていたような覚えがある。
「美人だから学校の顔みたいな感じで色々やってて、学校案内のパンフレットの表紙になってるけど見たことない?」
「ナイ」
 学園紹介ムービーもメインで司会をしているとも言われたが、どちらも知らない。
 荒北がこの箱根学園を進学先に選んだのは、家を出られる寮があったことと、野球部が存在しないという二つの理由で、それ以外の情報を一切調べようとも思わなかった。
「大体、美人つったって、東堂とおんなじ顔なんだろォ?」
 女子の制服を着た弟を姉と見間違える教師の反応を見るに、外見はそっくりなのだと思われる。
「だから美人なんだろ?」
「はァ?」
「…………なあ、靖友。今の尽八、可愛いよな?」
「スカートはいてよーが化粧してよーが、東堂は東堂ダロ」
 中身を知っている以上、外見がどうあろうが関係ない。そう言い切ると、何故か新開が額を押さえた。
「ああ、うん、靖友スゴイ。スゴイけど、ちょっと客観的になろうぜ。尽八、今、超美少女だよな?」
「…………新開、お前、目大丈夫?」
「俺は靖友の視力が心配になってきたぞ!?」
 大袈裟すぎる反応に肩をすくめると、がしりと両手で顔を挟まれて無理やり捻じられた。
「痛ェよ!」
「靖友、あちら中庭の女子集団をご覧クダサイ」
 片言の台詞と共に無理やり顔を向けられた、一面ガラス張りの壁の向こうの中庭で、弁当を広げている女子生徒達が見える。
 否、一人女子でない者が紛れ込んでいる。
 本物の女子に混ざればさすがに無理があるかと思われたが、残念なことに期間限定の自転車部偽マネージャーはものの見事に馴染んでいる。
 あともう少し背が伸びて体格が変われば、違和感も出てくるのだろうが、今のところあれが男子生徒だと言われて信じる者はいないだろう。
「あの中で一番可愛いの、誰?」
「新開、お前……」
「誰?」
 なかなかに酷いことを言う新開に、有無を言わせない口調で問いを重ねられ、渋々と答えを言わされる。
「…………東堂」
「よし」
「良くねーよ」
 先程このチームメイトは荒北の視力を心配したが、むしろ荒北としては新開の頭の中身が心配である。
「あれがもうちょっと大人っぽくなって、髪長いのが尽八のお姉ちゃん。オーケー?」
「へいへいへい、美人、東堂の姉貴は美人」
 それを認めないといつまでも進みそうにない話題に、仕方なく受け入れると満足げにうなずく。
「ほんと別嬪さんでさあ、ヤマトナデシコってゆーの? オレ、リアルで高笑いする女の人、高校に入って初めて見たんだよなあ」
「大和撫子は高笑いしねェよ! なんか言ってやってよ、福ちゃん!」
 新開と話をしていると、その人物像がますます謎になっていくので、福富に助けを求める。
「東堂のお姉さんは、顔がよく東堂に似ていて、中身が……東堂に似ていた」
「どう考えても駄目だろ、ソレ?」
 東堂尽八の中身と言えば、やたらと己の能力と美貌を自慢し、放っておくといつまでも喋り続け、唐突に女装してマネージャー業に勤しんで、罪もない新入生を誑かしたりする生き物である。
「何故なら私が美しいから、ってのが決め台詞で」
「ドコの海賊女帝だよ! ってか、フツーの女子高生、決め台詞なんかないからァ!」
 聞けば聞くだけ、関わり合いになりたくない。
「姉弟合わせて超有名だったけど、本当に知らないんだな、靖友」
「ネーヨ」
 確かに、一度でも会っていたたら忘れることはなさそうな人物像なので、ここまで記憶にないということは幸運なことに、一度もすれ違う機会さえなかったのだろう。
「春頃は自転車部にもよく様子を見に来ていたが、荒北が入ったのはその後か」
「ナァニ、お姉ちゃんが弟心配して毎日見に来てたワケ?」
 どんな過保護な姉だ、と笑い飛ばそうとして、福富と新開の真顔の肯定にたじろぐ。
「そりゃ、心配だろ」
「乱闘事件もあったし、その後に交通事故に遭っているからな」
「事故ってから寮入れられたんだよなあ、尽八」
「……何の話?」
 乱闘だの、事故だのと不穏な言葉が続いたが、それに纏わる人物が納得いかない。
 どういうことだと眉をひそめた荒北を横に、テーブル越しに中学から一緒の二人が一度互いに顔を合わせてから、ほぼ同時に荒北を見据えた。
「まさか、あの騒動を知らないのか?」
「靖友……、一年の春、本気で何してたんだよ?」
 毎日腐って、寮の部屋の天井を見上げ、飽きれば授業に出てみて、それも嫌になって学校を抜け出し、だからといってどこに行く気にもなれず、原付バイクで周囲を走り回っていた。
 寮では厄介者扱いで、学内でも敬遠されていた。多少つるむ相手はいたが、はみ出した者が固まっていただけで、誰も友達でもなんでもなかった。当時、学校でどんな大事件が起きていても、それを知る伝手をほとんど荒北は有していなかった。
 我ながら、思い返すに痛々しい記憶である。
 黙りこくった荒北の定食のトレイに、そっと新開がパワーバーの包みを置くのがより鬱陶しい。
「去年の春先にさ、一年と三年の間で乱闘騒ぎがあったのは覚えてる?」
「あー、何か、女絡みで揉めたとかいう?」
 箱根学園の偏差値は平均よりやや低め、同じ偏差値の公立校だと柄が悪いという理由で選ばれるような高校だ。自転車部をはじめとしていくつか強い運動部があり、それを目的として受験するのでなければ、基本的にはのんびりとした生徒の多い箱根学園で、暴力沙汰が起きるようなことは滅多にない。
 そんな中で、春先に一年生が三年の教室に殴り込みをかけたというセンセーショナルな事件は、さすがに荒北にも聞いた覚えがあった。
「それ、尽八」
「…………は?」
「東堂がその乱闘騒ぎの主犯だ。ちなみに止めに入った新開の方が、最終的には暴れていた」
「そんなことねーだろ」
「いや、お前は昔から血の気が多い」
「そりゃ、寿一が分からずやだからだ」
「隼人が人の話を聞かないんだ」
「いつも一言もこっちの意見聞かないのは寿一だよなあ!」
「そこでケンカすんな!」
 付き合いが長い分、些細なことで喧嘩になる福富と新開を一喝して、荒北は深々と息を吐いた。
「で? 何? あの東堂が、女絡みで上級生とケンカしたの?」
 生徒指導室でも聞いているのだが、どうにもあの東堂と乱闘という単語が結びつかず、違和感が拭えない。
 とにもかくにも目立つ男だし、やっかみを買いやすいところはある。しかし、大体のことは愛嬌を振りまいてやり過ごしているので、暴力沙汰を起こすイメージはない。いつもファンの声援がどうのと騒ぐし、実際に応援している女子もいるが、その中の誰かと付き合っている様子もないので、女性問題で揉めている姿も想像がつかない。
「女絡みっつーか、お姉ちゃんな」
「東堂のお姉さんが、当時、ひどい中傷を受けていたそうだ。その中傷していた男を殴りにいったらしい」
「あー」
 そう繋がるのか、と納得する。
「勝ったの?」
「最初の一発は綺麗に入ったけどなあ……、一年と三年の体格差じゃ勝負になんねーよ。尽八かなりちっちゃい方だったし。で、ボコられてんのお姉ちゃんが泣きながら止めに入るし、女子はひたすら悲鳴あげてるし、なんかもう阿鼻叫喚って感じだった」
「お前、それ止めに入ったんじゃねーの?」
 感慨深げな顔をしているが、一番暴れていたと先程福富が証言している。
「同じ部の同級生がすっげえ思いつめた顔で、退部届出しといてくれって寄越して出て行ったら、そりゃ追いかけて止めるだろ」
 そこで結局止めずに一緒に暴れたと思しき新開は、のほほんとした顔でデザート代わりのパワーバーを齧っている。
「まァ、それなら、らしいっちゃらしいか」
 部には迷惑をかけないように退部届を用意した辺りはきちんとしているし、家族が絡んだならそういうこともあるだろう。荒北も妹と仲が良いとは言い難いが、理不尽にいじめられていると聞いたら間違いなく相手を殴りに行く。
「あの時の尽八、超カッコ良かったぜ? 三年の教室ずかずか入っていって、そのまま綺麗に右ストレート。で、流れるような啖呵切ってさあ」
「でも負けたんでショ」
「完全に伸される前に教師来て終わったけどな」
 校内でやらかしたのなら、そんなものだろう。
 おそらくは情状酌量で数日の停学謹慎処置、結局部も辞めずに済んだのなら、かなり甘く裁量してもらったのだろう。
「で、事故ってのはその後?」
 話は終わった、と次の話題に移ろうとして、また顔を見合わせた二人を不審に思う。
「ああ、事故自体は大きな怪我もしなかったんだが、部活帰りの遅い時間帯の事故で朝まで発見されなくてな。もうこんなことがないように、とご家族が心配して、その後入寮したんだ」
 昨日、色々事情があるのだ、と嘯いていたのはそれか、と納得するが、その荒北をじっと見つめるチームメイト達の反応が不可解だ。
「ナニ?」
「靖友、お前、本っ当に何も知らないのな?」
「だからナニ?」
「乱闘事件は、その後が凄まじかったんだ」
 珍しくしみじみとした福富の慨嘆に目を瞬かせる。
「報復喧嘩になったとか?」
「いや、最初、尽八も相手もオレもいっしょくたに停学食らったんだけどさ、お姉ちゃんがすごい一生懸命嘆願して回ってくれて。で、お姉ちゃんのされてた嫌がらせってのが、かなりえげつなかったみたいで、事情知ったファンクラブの連中はマジギレするし、全学年の女子信者も味方して、東堂お姉様の弟くんを助けよう運動が凄い勢いで広まって、学園の機能が停止したんだと」
「……ちょっと待て」
 色々と突っ込みたいところが多すぎる。
「学園の機能ってどーやったら停止すんの?」
 さあ、と寮で謹慎していた当人が首を捻り、福富に目を向ける。
「生徒の半数が授業をボイコットして職員室前に座り込んだり、署名集めに校外に出て行ったりして、通常の授業が出来る状態じゃなくなってな。関係ない生徒達も授業にならないから勝手なことを始めて、最終的に昔の学生運動と学級崩壊が混ざり合ったような騒動になっていた」
 全校生徒九百人の反乱と考えれば、想像するだに恐ろしい地獄絵図である。
「警察に通報する一歩手前の状況にまでなって、学校側が折れて東堂と新開の謹慎が解かれて収束した」
「…………いつの話?」
 さすがにそこまでの騒ぎを、今まで知らずにいた自分自身も謎である。
「五月の頭だったか……?」
「本入部した後だったから、ゴールデンウィーク明けてすぐくらい?」
「あー、連休で実家帰って、しばらくガッコ戻んなかった頃かなァ」
 一度帰省してしまうと、学校生活に戻るのも面倒で無為に家で過ごし、結局自宅にいるのも嫌になって、連休から一週間も後に仕方なく学校に戻った。その間の事件だったらしい。
「まあ、大体分かったけど、フツー、そこまでの騒ぎになるか?」
 学校などというものは、基本的にクラス内で完結するものだ。暴力沙汰になったなら、確かにセンセーショナルな噂にはなっただろうが、その当事者達のためにクラスや学年を超えて生徒が団結するなど、普通はありえない。
「あれは、大半の生徒は周りの空気に乗せられただけだったと思うが、東堂ファンクラブの行動が大きかったんだろうな」
 先程も気になった単語である。
「……その頃からあの取り巻きいたの、アイツ?」
「いや、尽八のファンクラブはその後にできたんだよ。あの時の中心はお姉ちゃんの方のファンクラブ。学年、男女関係なくファン多かったから、ああいう騒ぎになったんだろうなあ」
 姉の方にもあったのか、とげっそりするが、そういえば生徒指導室でもそんなようなことを聞いた。
 生徒指導室での教師陣の沈痛な面持ちの意味が、ようやく理解できてきた。
 過去にそんな事例があるのだ、また同じようなことが弟によって起こされてはたまらないということだろう。
 実際、東堂を持て囃す一部の取り巻きに、妙に狂信的な匂いを感じることは多々ある。
 今回のようなただの悪ノリした企画程度ならば、妙なことにはならないだろうが。
「…………頭痛ェ」
 あの馬鹿は何を考えているのだ、と唸って荒北は頭を抱えた。