来るな、と一言送られてきたメールを無視して、昨夜と同じ道筋を辿ってバイクを走らせる。
学園内の桜はもう散ったが、この辺りの春は遅いようだ。
ソメイヨシノよりも小さな花を咲かせた桜がまだ満開で、僅かに木の芽を覗かせた木々の萌黄がやわらかい。早朝のこの時間には対向車もなく、ドライブやサイクリングには気持ちがいいが、この道を毎日季節も天気も関係なく自転車で通学しろと言われたら、荒北ならば御免蒙る。
朝練のために早朝からこの山を下り、部活でみっちり練習した後疲労困憊と空腹を抱えて真っ暗な中を車に注意しながら登って帰るなど、考えるだけで嫌だ。季節のよい時期など一瞬で、冬には積雪や凍結もある。実際事故に巻き込まれたというのだから、寮に放り込んだ親の判断は正しかったのだろう。
だらだらと続く折り返しの坂道で、カーブミラーに近づいてくる対向車を確認してスピードを緩める。先に行かせようとした白いライトバンがカーブを曲がってきたかと思うと、クラクションを一つ鳴らして停止した。
礼にしては妙な挙動に不審に思い、車体の横に記された旅館名に気付いて荒北もバイクを止める。車体を返そうとする間に、運転席の窓が下りて、チームメイトによく似た顔が笑いかけてきた。
「荒北君」
「……オハヨーゴザイマス」
表情の無い硬質の顔はよく似ていると、昨日も思った。つまり造りが同じなのだから笑顔も似ていて当たり前なのだが、何故か一瞬動揺した。その理由が今一つ分からず、内心首を捻る。車を運転する都合だろう、今朝は和装ではなく洋服で、非常に女子マネージャー姿の息子に似ている。
「迎えに来てくれたの?」
「約束したんで」
一方的かつ、本人には拒絶されているが。
「助かるわ、尽八があなたは来ないって言い張るし、仕方ないから仕入のついでに送る途中だったんだけど、任せちゃっていいかしら?」
箱根学園に寄ると遠回りになるので困っていたというのだから、後部座席に息子が乗っているのだろうが、何の気配もない。
「尽八」
母親の有無を言わせない冷ややかな声は、彼を本気で怒らせたときとそっくりで、逆らいきれなかったのか、いかにも渋々といった様子で後部のドアがスライドして、仏頂面の東堂が降りてきた。
メールの拒絶を無視したのが気にくわなかったのか、不機嫌に睨みつけてくる顔自体はよく見るはずだが、どこか違和感があって荒北は首を捻った。
「……何?」
じろじろと見回したのが余計に癇に障ったのか、不愉快そうに問う声がひどく低い。
「や、なんか、カワイイ?」
口に出してみて印象の差異については納得したが、実際に何が違うのかが分からず、更に首を捻る。
既に見慣れてしまった女子制服姿だ。ここしばらく、ここぞとばかりにさすがに普段は着けない女物のカチューシャばかりしていたが、今日は地味な紺色の細いもので、特に目立つわけではない。
顔も化粧をしたようには見えず、今日は口にも何も塗っていない。
何が違うのだろう、とまじまじと眺めていると、身を引いた東堂が背を車にぶつけていた。
「ナニ?」
「……お前の頭の中はどうなっているんだ!」
東堂にだけは言われたくない台詞だし、東堂にだけはドン引きされる筋合いはない。
変人度合いでは群を抜いている東堂の言葉に口端を曲げると、やりとりを聞いていた母親が高らかに笑った。
「だから言ったでしょ、ミニスカートはそんなに男の子受けしないのよ」
指摘されて初めて気づいたが、昨日まで随分と短かったスカートが今日は膝下だ。皺だらけになっていた制服もきちんとアイロンがかけられて、妙におとなしやかに見える。
「化粧もしなくていいの」
「女の子達はあれが可愛いって言ってたんだがなあ」
「女の子の言う可愛いが男の子にモテると思ったら大間違いだって、男なのにどうして分からないの」
「いや、別にモテたいわけではないし、これでも十分ちやほやされたんだが」
母と息子の会話があまり一般的ではないが、どうやら今日の装いは母親の指導が入っているようである。
昨日までの短いスカートと、カールした睫毛でぱっちりとした目と艶々光る唇の代わりに、膝下のスカートと髪と同様にまっすぐな睫毛が黒々とした影を瞳に落とした楚々とした姿は、おとなしげな文学少女に見える。
中身はよく知っているので、何の夢も見ないが。
「荒北君はこういう方がいいわよね?」
同意を求めるな、と車の窓から身を乗り出して息子の肩に手を置いた母親に噛みつくわけにも行かず、歯切れ悪くうなずく。
「まあ、前に比べれば……」
ほら見なさい、と勝ち誇った母親が、息子を突きだしてきた。
「ところで荒北君、大体これと同じ顔のちゃんとした女の子もうちにいるんだけど、どうかしら?」
「ハ……?」
「母さん!」
どうと言われても意味が分からず、ぽかんとした荒北の前で、東堂が苦々しい顔をした。
「それは、絶対に、ない!」
「うちの子が連れてきた中では一番まともで見込みあるじゃない、荒北君。ちゃんと挨拶するし、お茶出しても逃げずに今日も迎えに来てくれるし。前に来た子なんて、逃げ出すだけならまだしも、自分が悪者になりたくないからって、嫁入り前の人の娘のことを浮気しただの何だのと言いふらしてアンタに殴られた屑と、自惚れがすぎて調子に乗ってうちやアンタのこと、あることないこと言って回って学校中から総スカン食らって泣いて逃げ出した勘違いも甚だしい子でしょうが」
なるほど、姉にまつわる不名誉な中傷を仕掛けていた男子生徒と、東堂が原因でイジメにあったという女子生徒の問題も、母親からの視点で語られると随分と印象が変わるものである。
「そもそも、素人の学生を茶室なんかに通すから、話がこじれるんだ!」
「どう取り繕ったところでうちは面倒な家なんだから、最初から見せておいた方が後腐れないでしょう」
正論めいた暴論は、さすが東堂の親である。
昨夜、荒北が受けた茶室での接待が、子供が連れてきた馬の骨に対する定例の洗礼ならば、相当の覚悟がないと付き合い続けるのは難しいだろう。しかし、中高生の男女交際に求める覚悟としては、随分と容赦がない。
普段ちゃらちゃらとした東堂が、取り巻きに一切手を出している様子がないのは、この家の存在が大きいのだろう。
大変だ、と余所の家の事情を眺めやり、もしかしてその事情に巻き込まれかけているのではないかと不意に気づく。
何か、先程とんでもない打診をされなかっただろうか。
顔を引きつらせて東堂を見ると、苦々しい顔で腕を引かれた。
「行くぞ、荒北。朝練に遅れる」
この場を離れるべきだ、という本能的な確信が互いに一致して、ヘルメットを東堂が被る間にバイクの向きを変える。
「母さん、コレはオレの友達だからな!」
そこを取り違えるな、と本来言う必要もないことを宣言した東堂がスカートを翻してバイクの後部に収まる。荒北は余計なことは言わず、ぺこりと頭を一つ下げて発進した。
レースで出す速度を下回るスピードで下り坂を流しながら、荒北は背後に呼びかけた。
「なァ、東堂」
「黙れ」
ぴしゃりと撥ねつけられたが、気にせず続ける。
「オレ、お前ともお前の姉貴ともオツキアイを申し込んだ覚えはねーんだけど?」
「オレもそんな覚えはないし、お前のことを義兄と呼ぶ気もない。姉が前に付き合った男がどうしようもないロクデナシだったからな、母親として心配なんだろう。さすがに息子が連れてきたオトモダチに対して、本気で婿に入れなどと言っているわけじゃないから忘れろ」
荒北もあの何とも言えない迫力に圧されはしたものの、その戯言を本気にしたわけではないので、気になったのは別の部分だ。
「なあ、東堂。オレとお前って、オトモダチ?」
「いや? ただの方便だ」
エンジン音に負けないきっぱりとした返事に、荒北はフルフェイスのヘルメットの中に嘆息を充満させる。
普段人懐こいくせに、容赦なく線を引く。
中学時代に人間関係では荒北も痛い目を見たので、安易に同じ部やクラスだからといって友達認定などしないが、東堂のそれも荒北と違った方向で徹底している。
内と外を明確に線を引いて、壁を作ってはねつける。
出会ってすぐの互いの印象の悪さに、東堂があっさりと荒北の存在を今後関わることのないものとして線の一番外側に追いやったことを、荒北は身をもって知っている。おそらく、入部したての頃に荒北が本当に問題を起こしていれば、東堂は本気で荒北を排除しにかかっただろう。
小さな軋轢を生じさせながらも、荒北がどうにか部に納まって周囲と馴染みだしたことで、一年かけてそれなりに互いに馴れ合ったつもりではいたが、ここにきてまた拒絶反応を示されているのは、荒北がその壁をつついて回っているからだ。
内側にあるものを守ろうとして、東堂が排除しようとしているのは荒北ではないはずだが、これ以上つついて邪魔すると一緒に排除される可能性もある。
「……やってみろ、バーカ」
友達ではないと言い切ったのは東堂だ。
新開や福富は確実に東堂の内側にカウントされているが、荒北はその範囲外だ。遠慮することは何もない。
勝手にすればいいのだ、東堂も、荒北自身も。
朝練開始にはまだ少し間があるために人気のない部室のプレハブ前でバイクを停めると、少しもたついた動作で東堂がシートから滑り降りた。その動きの鈍さに不自然を感じ、もたもたとヘルメットを脱ごうとしている手を掴むと、ぞっとするほどその手が冷たい。
「……寒いって言えよ、バァカ」
天気は良かったが、早朝の山中をスカートでバイクに乗って走れば、体温も奪われる。舌打ちをして脱いだジャケットを投げつけると、ヘルメット越しにはっきりと東堂の眉間にしわが寄るのが分かった。
エンジンを切り、スタンドを立ててロードバイクの十倍以上の重量のあるオートバイから手を離すと、かじかんだ手で苦労しているヘルメットを強引に引き抜いた。その際にどこかに引っ掛けたのか、外れたカチューシャが地面に転がって、青白い顔に黒髪がばらりと乱れ散る。
長い前髪の隙間から見据えてくる鋭い目を睨み返し、その肩に引っかかっていたジャケットを掴んでまだ動作の鈍いうちに強引に着せかけた。
「……ちゃんと、メシ食ってんの?」
血の気のない顔は寒さだけが原因ではないだろうと決めつけると、目つきがますますきつくなる。
「お前に関係ない」
カッとなって胸倉を掴み上げて、引きずり寄せた身体があっさりと傾いだことに気が失せた。
倒れこんできた身体を支えて、冷えた顔の目元から額まで手を滑らせて髪を掻き上げると、露わにした双眸を覗き込む。
「お前さァ……」
呼びかけてから告げることを考えて、結局うまい言い方は思いつかなかった。
「……オレに、なんかしてほしいことある?」
「何も」
回答は端的で、早すぎた。
最初から何一つ聞き入れるつもりのない、冷ややかな拒絶に短気の虫がぞろりと騒いだが、ここで怒りに任せては何も進まない。
「……してほしいこと頼んどかねェと、好き勝手に邪魔するけど、それでイイ?」
煽り文句に対する反応は激発ではなく、予想外の柔らかな微笑だった。
思わず呆けた隙に一歩下がって荒北の手から逃れた東堂が、小さく首を傾げると乱されていた黒髪がすとんと落ちた。
「じゃあ、一つだけ。頑張ってって言って?」
甘えたような口調でのお願い事が、変わらない拒絶だと理解するのに数秒を要した。
「それだけは絶対ヤダ」
理解と同時に突っぱねると、今度は東堂が呆れた顔をする。
「キライなんだよネ、ガンバレって言葉」
その作り笑顔で何か言いかける前に、荒北は投げやりな声で告げた。
「よくさァ、スポ根漫画で応援の声が力になるとあんじゃん? まあ、それでガンバレちゃう奴もいっぱいいるから、そりゃもう気楽にガンバレガンバレ言ってくれちゃうんだけど。本当に限界の奴にガンバレって言ったら壊れんだよネ。で、壊れても責任とるどころか、『あんなに応援したのに』って何もしてねーくせに、ワケ分かんねーこと言うんだよなァ」
人をそんなものにさせるな、と凄んで、荒北は白い石のような顔に向かって手を伸ばした。
「お前、もう端から見てても限界でボロボロなんだよ。何やってンの、一人で?」
冷たい肌に触れる前に、その手は叩き落とされると同時に視界が暗くなった。
「お前に何か頼むとしたら、これだけだ。触るな。近づくな、邪魔をするな、掻き回すな」
頭から被った布を剥ぎ取って、それが先程相手に巻きつけたジャケットだと気付く。
東堂は、と見ればスカートの裾をさばいて転がっていたカチューシャを拾い上げたところで、にこりと微笑んでくる顔は可愛らしいが。
「いつまでもそんなアホな格好で、コソコソなんか企まれてるとムカつくんだよ」
「今週中に全部片づけるよ、荒北」
「ヘェ?」
柔らかな作り笑顔にはもう動じず睨み据えると、ゆっくりと笑みがその白い顔から剥がれ落ちた。
「オレは、お前が嫌いだ」
ようやく鸚鵡返しのような感情ではない、素の嫌悪が向けられて、荒北は薄く笑ってみせた。
「お前に好かれるより、よっぽどマシだね」
また喧嘩をしたのかとからかう新開も相手にせず、その後徹底的に荒北の存在を無視した東堂の姿が消えたのは、放課後の活動も終わった後のことだった。
クラブ棟のどこにもいないが、自転車はそのままで、校内にはいるはずなのだが、どこにもその姿が見当たらない。
新開をはじめとして部員にも見かけなかったかと訪ねてみても、目撃情報がない。
なんとなく嫌な予感がしたのは、朝に今週中に終わると言い切った東堂の台詞が頭に残っていたからだ。今週とは今日金曜日を指すのか、土日を含めているのかが分からない。何を、どう片付けるつもりか知らないが、ロクなことになるはずがない。
携帯に連絡を入れてみるが、メールに返信はなく、電話をかけてみると電源が入っていないか電波が届かない場所にいると無機質なアナウンスが返ってきて、本格的に嫌な予感が膨れ上がってきた。
クソ、と一つ毒づいて、夜になると冷え込む学園内を巡り、校舎に入る。もうほとんどの照明は落とされていたが、文化部の活動で遅くなった生徒達が帰るために、まだ入り口は開いている。一応教室まで上がってみるが空振りで、次はどこを探すか悩みながら出口に向かう途中で、言い争う声に気がついた。
「…………コーチ?」
自転車部の監督の声だ、と気づいて足を速める。
「お前はそんなふざけた格好で、馬鹿にしてんのか……!」
「やめなさい!」
会議室の中で打擲の音と制止する声が錯綜するのを聞いて、ノックもせずに戸を引き開ける。
室内にいた五人のうち一人を除いた全員の目が荒北に集中したが、全て睨み返して会議室に踏み込むと、大人達の中で一際細く小さく見える女子制服の腕を掴んでいた監督の腕を払って、その前に立つ。
「東堂が、何か?」
「荒北、お前も知ってたのか!?」
語気荒く噛みついてきた監督に、眉間に皺を寄せ、背後に追いやった東堂を振り返る。血の気のない顔の中、打たれた頬だけが赤い。
「別に、何も」
「嘘を吐け! こんなふざけた、人を陥れるような真似を……! お前ら何を考えているんだ!」
「落ち着きなさい! 荒北! 東堂連れてちょっと外に出てろ! すぐに呼ぶ」
顧問の頭ごなしの指示に荒北は口角を下げたが、ちらりと東堂の顔に目をやって、逆らわずにその腕を引いて戸口に向かった。
「……荒北」
東堂の呼びかけを無視して後ろ手で閉めたドアの向こうで、更に揉める気配があったが、聞かずにそのまま掴んだ腕を引いて暗い廊下を進み、ホールのベンチに向かってその身体を突き飛ばすと、水飲み場でタオルを濡らしてその腫れかけた顔に叩きつけた。
「何やってんの、お前?」
「どうして、ここが分かった?」
問いに答えず、質問で返すやり口が気にくわない。
「勘」
「動物か」
「テメェが、なんかロクでもねーことしてんのが匂うンだよ」
低く唸ると、野獣、とくつくつと笑う。
「ウゼえんだよ」
「なら関わるな」
笑みを拭い去った冷ややかな拒絶が返ってきて、無性に苛立った。
険悪な沈黙がわだかまり、どちらも何も言わないまま一触即発の空気が臨界点に達しかけたその時、会議室の方からスリッパの足音が近づいてきた。
顧問教諭が渋い顔で東堂と荒北を等分に眺めやってから、口を開いた。
「東堂、コーチも落ち着かれた。もう少し話を聞かせてくれ。荒北、お前は寮組だな、帰ってなさい」
「…………待ってます」
「帰れ」
先程から、東堂の一言一言が癇に障る。
「テメェの命令を聞く筋合いはねェよ」
「お前は福富の言うことしか聞かないからな」
殊更に怒らせようとする物言いに拳を固めるが、どうにか飲み込んでベンチにどっかりと座り込む。
「好きにしろよ、オレも好きにすっカラ」
「……お前なんか……ッ!」
「お前に好かれたくなんかねーよ」
二人の険悪なやりとりに、顧問が深々と息を吐き出す。
「そっちも喧嘩してんのか」
「オレ、そいつと仲良かったことなんかないんで」
荒れた空気に顧問が困った顔をしたが、生徒間の諍いよりも重要事があったようで、東堂を促して会議室に戻っていく。
「くそっ」
腹立ち紛れに殴りつけた作り付けのベンチは小揺るぎもせず、手を痛めただけで、より苛立ちながら荒北はベンチに寝転がった。
「全然うまくやれてねーよ、バァカ」
暖房の効果が消えて、じわじわと冷気の滲みてくるホールに転がって、小一時間ほどして、ようやく会議室のドアが開く音がした。
「殴って悪かった、大丈夫か?」
「大丈夫です。コーチもOBだと失念していました、すみません」
監督と会話を交わしながらやってきた東堂が、暗いホールの中で荒北の姿を認めて苦々しい顔をした。
「……お節介」
「テメェがこそこそしてるからだよ」
同様に不機嫌な顔で応じてから、監督に目を向ける。
「終わったんすか?」
「ああ、後はこちらで話し合う。東堂、親御さんに迎えにきてもらうか?」
「いえっ、大丈夫です」
僅かに焦りをみせて固辞する東堂に舌打ちする。
どうやらこの馬鹿は、家族にも知られるつもりはないらしい。
「連れてきます」
「離っ!」
「おい、喧嘩は……!」
「こんな顔したバカ、殴るわけないでしょーが」
揉み合う二人に、先程彼に手を上げたはずの監督が割って入りかけるのを、言えた義理かと睨み据える。
「監督、コイツから預かってるもんあります?」
「……何のことだ?」
困惑した顔をしばらく見据え、また白い石のような顔をしている東堂に目を移す。
「なら、いーです」
言い捨てて強く腕を引くと、監督はそれ以上引き留めず、東堂も抵抗しなかったので、荒北はそのまま校舎の外に向かった。
満月の手前の中途半端に丸く歪んだ月の下を、黙々と歩く。
寮に向かう道を進んでいたが、半分程進んだところでようやく口を開いた。
「で、うまくデキたの?」
こくり、とうなずいた顔は真っ白で、震える唇を噛みしめているために声もない。
「終わったワケ?」
「オレにできることは」
「何したの?」
「荒北に関係ない」
とりつく島もない。
口で問うだけ無駄だと、実力行使に出ることにして、掴んだままだった腕を強く引いてバランスを崩した東堂の上着の合わせから手を突っ込んで、探った内ポケットの中から二通の封筒を引っ張り出す。
「お前、ホント勝手な?」
「返せ」
色のない声を無視して、整った字で書かれた白い封筒を見下ろす。終わったというのに退部届と退学届がまだその手元にあるということは、これを使う必要はなくなったのだろう。中身は確認せず、封筒ごと引き破いて白い顔に向かって叩きつけるが、その無体にも石のような顔は変わらなかった。
散らばった紙片を拾い上げる手は震えていたが、紙片を握り潰してポケットに納めた後に向けてきた声に揺らぎはなかった。
「気が済んだか?」
「お前なあ!」
「関わるなと言ってるだろう」
「お前、自分が今どんな顔してんのか分かってんのか!」
「知るか!」
一向に血の気の戻らない顔と、ガタガタと震える身体に自分で気づいていないはずもないだろうに、あくまでも撥ねつける態度に腹が立つ。
「人一人刺してきたみたいな顔だよ」
言ってやった瞬間、かくりと膝の力が抜けて傾いだ東堂の身体を抱き留めて、深く嘆息した。
ようやく、崩れた。
「何やってんの、お前?」
「……関係、ないだろぉ……」
声がようやく湿って、改めて体温を移すように冷え切った身体を抱き込む。
「触るなぁ……っ」
「聞かねぇよ、バァカ」
「荒北、なんか、嫌いっ、だ! 人のこと、引っ掻き回し、て!」
「テメエ、オレのこと引っ掻き回してないつもりかよ」
お互い様だろうと言い放ち、拘束から抜け出そうと力なく抗う手を冷たい指に指を絡めて封じ、戦慄く唇にキスを落として。
何か、致命的な間違いを犯した気がして、荒北は動作を止めた。
「…………荒北」
「……間違えたんだよ」
「間違えるようなものか?」
「いや、流れ的につーか、シチュエーション的に」
暗がりの中で震えて泣く身体を抱きしめて、更にその相手がスカートを穿いているのだから、ちょっとうっかりしただけである。
「あの……え? お前、荒北、か?」
「忘れろ、事故だ!」
ある意味ショック療法にはなったのか、震えの止まった手首を掴んでずんずんと歩き出す。
「どこ、に行くんだ……?」
「寮」
「えっと……」
「お前はオレの部屋で寝ろ、オレはお前の部屋行って寝る。メシ持ってくから、食ったら寝ろ! 明日一年とレースだろ、体調整えてとっとと寝ろ、いいな!?」
「……はい」
一方的に捲し立てると、思考が停まっているらしい東堂が、妙に素直にうなずいた。
