サイン

 轟炎司の自宅をすっかり東京近郊の巣の一つと認識した鷹が、何やら彼の宛名で段ボールを数箱送りつけてきた。
 今は炎司だけが暮らす広い家の置き場に困るわけではなく、いつまで経っても自分のものを増やそうとしない男なので、私物を送ってきたのなら、むしろ歓迎するのだが、送付元は何かのイベントの運営事務局名義だったので、仕事関係の荷でしかないらしい。
 その日は珍しく夕方に末の息子が、季節外の荷物を蔵に置かせてくれとやってきたので、この若手ヒーロー達は、この家を倉庫とでも認識しているのかもしれない。
 頭数が増えた夕食を当たり前の顔で用意したホークスが、かつての長女のようなバランス感覚で父子の会話をコントロールしたため、食卓の場はそれなりに和やかな空気のまま終了した。
「ちょっと作業があるんで、部屋一つ使わせてもらいますね」
 皿の片づけは家主に任せて、そう言ったホークスに、作業、と焦凍が首を傾げた。
「決して覗いてはなりません……」
「機織り?」
「焦凍、それの言うことを真に受けるな」
 ちらりと左右で色の異なる目を向けてきた焦凍は、父の言葉の方を無視することに決めたようで、ホークスにきちんと向き直る。
「見たらいけない仕事なんですか?」
「あ、動画撮るんだった、ショート君、手伝って」
 見てはいけないどころか、世界に向けて配信する予定のものだったらしい。相変わらずいい加減な言動をする鷹に反発せずにうなずいた息子に一瞬不安を覚えるが、食卓をそのまま放置もできず、とりあえず片づけはじめた父親を、息子は少し妙なものを見る目を向けてから出て行った。
 皿を洗い終わってから様子を見に行くと、ちょうど準備が終わったところらしく、段ボールから出した色紙の山を畳に積んだ前に片膝をついたホークスを、部屋の端に寄った焦凍がスマホを構えて合図する。
 ウイングヒーローの意のままに動く剛翼が、するすると解けるように宙を舞い、色紙を数枚持ち上げて浮かせた。
 縦横に三枚ずつの色紙の壁を作ると、別の羽がペンを決め本握って同時に動く。崩しきったそれは文字として認識できないが、最後に羽の絵を付けるそれが、彼のサインだとは知っている。
 一糸乱れぬ動きで同時に九枚のサインを書き終えると、また同様に九枚の色紙を浮かせて、九本のペンが同じ動きをする。これを十一回繰り返して、最後に一枚だけ残った色紙をホークスが手に取る。
 一般的な金枠の白い色紙だった他の九十九枚と異なり、深紅のそれだけは特別扱いのようで、白インクのペンを手にしてさらさらと手書きでサインを書いて、小さめの剛翼を添えて封筒に納め、カメラを構えた焦凍に向かって片目を閉じてみせる。
 ファンサービスの大盤振る舞いはそれで終了のようで、焦凍からスマホを受け取って内容を確認してから、コメントを付けてすぐにSNSに上げるまでを見守る。
「サインのプレゼントか?」
「自分で書いてる証拠動画撮れ、っていうオマケ付きです」
 世知辛い。
「百枚をあっという間に書けるの、すごいですね」
 愛想を振りまくタイプではないが、父親の百倍は人気の高い若手ヒーローの焦凍も大量のサインを要求されることがあるようで、器用な個性を羨んだ。
「ショート君も個性使ってみたら? 焦がし書きみたいな」
「やめておけ、色紙は燃える」
 検討する顔になった息子に炎熱個性のベテランとして告げると、若造達の反応が、やって失敗したのか、というしたり顔と、自分ならできるという反発に分かれる。
 大してファンサービスに重きを置いていなかったエンデヴァーでも、うんざりするほどサインは書かされてきたので、その面倒さは分かる。器用な剛翼ほどでなくとも、簡易な方法が確立できるなら試してみればいいだろう。
 イベントの事務局に送り返さないといけないサイン済みの色紙をまとめて箱に詰めるのを手伝ってやりながら、ふとそのうちの一枚を見下ろした。
「どうかしました?」
「いや……、サインをすることはあっても、求めたことはないな、と」
「まあ、ヒーローやってると、普通はそうでしょうね」
 炎司の数十倍サインを求められることの多い男が同意し、そのまま首を捻る。
「というか、エンデヴァーさんが誰かのサインを欲しいと思ったことあるんです?」
「……おまえのが欲しいんだが」
「え……、あ、ハイ、えっ?」
 意味を飲み込めなかったらしい男が、急に警戒した様子で身構えた。
「なんか、書いた瞬間に燃やされるとかそういうプレイですか?」
「……どういうプレイだ」
 全く通じていない様子に、もういい、と苦々しく告げると、困惑した顔をする。
「え、あの、本当に、サインいる、とかないですよね?」
 一枚いりますか、などと梱包しかけた段ボールから取り出そうとするのを止め、忘れろ、と嘆息する。
 困ったような顔のまま、封をした箱を玄関先に運んでいく紅い翼の生えた背を、無言で見送った息子が振り返って母親によく似た右目で父親を一瞥した。
「あんた、何一つ通じてなくないか?」
「…………他人にサインを求めたことがないんだ」
「そういうレベルの問題じゃねぇだろ」

 少し前に手に入れた役所への届出書類の空欄に、ウイングヒーローの本名が記されるのは、当分先の話になる。