ハッピーバースデー

 年末、仕事納めの納会の後、改めて業務に戻っていた新人の職員を見て、鉄の女が眉をひそめた。
「他に残っている人は?」
「すみません、自分だけです! 自分もすぐ終わらせます」
 椅子から腰を浮かせて慌てて告げた目良に、他部署の課長は細い眉をひそめたまま問いかけてきた。
「あなた、甘いものは食べられる?」
「……はぁ、食べられますが」
「業務に支障がないなら、手伝ってもらえない?」
 年末である。この時間まで大掃除をしていて、男手が必要とかそういったことだろうか、と思うが、前提として甘いものが食べられるか問われた意味が分からない。
「あの、何をお手伝いすれば?」
 念のために先に確認すると、その冷厳さで鉄の女の異名が部署を越えて聞こえてくる課長は、苦い顔をした。
「誕生日なんですって」
「はい?」
 答えてもらっても、やはり意味は分からなかった。

 休憩スペースに用意されていたイチゴの乗った大きなホールケーキと、ぬいぐるみを抱えた幼児の組み合わせで、誰の誕生日なのかは知れた。少年の顔も知ってはいる。
 公安組織の事務局内で時折姿を見かけて、その幼さと背に生えた鮮やかな色の翼が印象的だったからだ。最初は、職員の誰かの子かと思っていたが、次世代のヒーロー育成のために選抜された子供なのだと、まことしやかに囁かれる噂話の方が真実だった。
 他部署の案件なので詳細は知らないし、ケーキを無感動に見つめている少年の名前も知らない。
「……三人、ですか」
「もう少し職員がいる時間に切るつもりだったのだけど」
 子供の誕生日に気づいて、バースデーケーキを用意したまま、忙しくしているうちに、他の職員は仕事を納めて帰ってしまったものらしい。直径25cmはあろうかというホールケーキは大人数のためのもので、つまり、目良が頼まれた手伝いとはこのケーキの始末である。
 三分の一を食べられるか、と包丁を手に問われ、脅迫を受けているような気分になりながらうなずきかけ、はたと気づく。
「あの、蝋燭は?」
 誕生日なのでは、と言うと、初めて気がついたようで、ケーキの箱の横に貼りつけられていた蝋燭を見つけ、また眉をひそめる。
「火を点けるものを持っている?」
「あー、ちょっと待っててください」
 自分の部署に引き返し、隣の席の喫煙者の机からライターを拝借してきて、数字の6の形をした蝋燭に火を点けてケーキに刺す。
「はい、吹き消して」
 火をじっと見つめている少年にうながすと、金色の目がぎょろりと見上げてくる。
 背に生えた翼のためか、猛禽類に睨まれたような印象がある。
「フーって、息を吹いて」
 言葉の意味を解しているのが不安になる無感動な目が一つ瞬き、ぐるりと首を巡らせて女を見上げる。
 うなずきを受けて理解したらしく、爪先立つが、小さな身体では届きそうにない。抱き上げてやろうとすると、その前に赤い翼がはためいてふわりと身が浮いた。慣れていないのか、何度か弱い息で炎を揺らめかしてから、ようやく吹き消した子供が、改めて目良を見上げてきた。
 これがどうかしたのか、と言わんばかりの目に、六歳になるはずの子供に違和感を覚える。
 この子供は、バースデーケーキを理解していない。
「はい、プレートが付いているのがあなたの。食べきれなくても気にしないで残しなさい」
 問答無用でホールを三分の一に切り分けた皿を渡された子供の目が、白いチョコプレートに向けられる。「おたんじょうびおめでとう」と記されたそれには、子供の名前は書かれていない。
「それ、食べられるよ」
 分かっていないだろうと思われたので、横から言ってやると、元々大きな目が更に大きく見開かれる。
「食べらるーと?」
 少し訛った問いに、チョコレートだと教えてやると、数字の形をした赤い蝋燭を指し示す。
「これも?」
「それは蝋燭、食べられない」
「ローソク」
「記念に持って帰る?」
 クリームの付いた軸をティッシュで拭ってやって、少し上部が溶けた蝋燭を渡すと、しばらく矯めつ眇めつしていたが、はたと気づいたように、ありがとうございます、と頭を下げる。
「いいから食べなさい」
 子供用に牛乳と、大人にはコーヒーが用意されて、プラスチックのフォークを手にする。
 苦行の始まりだった。
 まず、他部署の課長と共通の話題などないし、彼女は世間話をして場を和ませるタイプの女性ではなく、子供も全く喋らない。かなり気まずい無言の空気の中、多すぎるケーキをひたすらコーヒーで流しこんでいく。
「……君、左利き? 無理しないで左手使ったら?」
 あまりの重い空気に耐えきれなくなり、不器用にフォークを使ってケーキを崩しているだけの子供に話しかけると、きょとんとした顔をした少年の横で、女が嘆息した。
「そうね、まだ左手の方がマシだわ。左手を使いなさい」
 フォークを持ち変えさせられ、やはりたどたどしい動作だったが、どうにかケーキのかけらを口に運んだ少年の顔が、ぱっと明るくなった。
「おいしい?」
 こくり、とうなずいて、またフォークを使おうとするが、柔らかめのクリームとスポンジが難敵なのか、ぼろぼろと崩れてしまう。
「いいわ、今日は特別。手を使わないで食べなさい」
 嘆息混じりに出された許可に、目良は内心怯んだ。フォークすらまともに操れない幼児が、手掴みでケーキを食べる図など見たくない、と考えてから、おや、と思う。
 彼女は今、手掴みで良いと言ったのではなく、手を使わないでよいと許可を出した。
 まさか犬食いか、と身構えたところで、赤い色が視界を過ぎった。
 プラスチックのフォークの柄に巻き付いたそれが、少年の翼を構成する羽の一つだと認識する前に、フォークが魔法のように宙に浮いて、ひょいひょいとケーキを切り分けては子供の口に運んでいく。
「……すごいですね」
 空が飛べる個性なのだろうと思っていたが、自由自在に操れる羽らしい。
「何がすごいものですか。個性に頼りすぎて、まともにフォークも使えない。個性を使わない練習もさせなかったのよ、この子の親は」
 苦々しい声に、なるほど、とうなずく。
 便利な個性を持って生まれると、それに頼って本来発達すべき身体機能が未発達になることがある。子供の健全な成長を考えるならば、個性を使わないやりかたも覚えさせるべきであるし、食器をまともに扱えないなど、しつけがなっていない。
 そもそも、一般市民として生きていくには個性を抑制する必要があるから、就学前には個性を使わない生活を覚えさせていかなければならない。子供に個性を好き放題使わせているというのは、教育を放棄しているのと同意義だ。
 あまり良い家庭環境ではないようだ、と察して、こんな時間に公安の事務局内に子供がいること自体が奇妙なのだと気づく。
「あの、この子、年末年始どうするんです?」
「……今回は私が面倒を見ます」
 問題の多そうな家庭に戻す選択肢はないらしいが、あまり子供の扱いの上手くなさそうな鉄の女と、この難しそうな有翼の少年の二人で大丈夫なのだろうかと不安を覚える。
 ちらりと子供の様子を見やると、フォークの扱いに困らなくなって、あの大きなホールの三分の一という、到底幼児に食べきれないと思われた量の半分が既に消えていた。
「……よく食べるね」
 声をかけると、宙を浮いていたフォークがぴたりと止まった。
「あ、いや食べるなって意味じゃないから。食べて。イチゴいる?」
 人の子というよりは、野生動物のような印象を受けるのは、背の翼とぎょろりとした金色の眼のためだろう。
 イチゴを子供の皿に載せてやると、戸惑ったようにその眼が見上げてくる。
 食べていいのだと理解させるのにかなりの労力を要したが、どうにかフォークの動きが再開されてほっとする。
「ぬいぐるみ、汚れるわよ」
 手を使わなくてよくなってから、またぬいぐるみを抱き込んでいた子供が、指摘に慌てて数枚の羽でぬいぐるみを浮かせた。
 デフォルメされたオレンジ色のぬいぐるみは少し珍しい。
「フレイムヒーロー好きなの?」
 No.2として定着した有能なヒーローだが、オールマイトと異なり、にこりともしないサービス精神の無さや苛烈な性格が祟って、人気は今一つである。子供受けはあまりしないヒーローだが、火炎の個性は強烈で、その強さに憧れる男の子はいないでもない。
 が、話を振ってみた子供はまた首を傾げて、鳥の眼によく似た眼差しを向けてきた。
「ふれ……?」
「フレイムヒーロー、エンデヴァー」
「えんでばー」
 こくり、とうなずいて浮かせたぬいぐるみを指す。
 妙な間があって、どうにも通じていない気配に内心たじろぐと、女の嘆息が間を埋めた。
「その子、ヒーローのことをほとんど知らないの」
「……何でぬいぐるみ持ってるんですか?」
 そもそも、この時代、子供がヒーローを知らずに育つことなどありえるのかと、眉をひそめる。
 普通、個性の発現する四歳くらいまでに、お気に入りのヒーローがいて、自分がどんな個性に目覚めるのか楽しみにするもので、個性が目覚めればそれがどんな風に強くなってどんなヒーローになれるかを夢見るのが、今の時代の子供だ。
「だって、この子、大惨事になりかけた交通事故をヒーロー的行動で死傷者ゼロに抑えたんでしょう?」
 憧れのヒーローを真似てのことではないのかと、思わず口に出すと、じろりと睨まれた。
「噂で聞いたにしては詳しすぎるわね?」
「あー、ちょっとよく見える目でして」
 失言、と口を押さえてみせると、不問にすると嘆息混じりに告げられる。
「テレビも見ない、家の外にもほとんど出ない、同世代の子供とも遊んだことがない、そういう状態で育ったみたいなのよ。ヒーローが人を助けるものというのはなんとなく知っている。そのぬいぐるみがエンデヴァーという名前でヒーローなのも知っている。でも、実際のエンデヴァーのことは何も知らない。写真を見せても分かっていなかったわ」
 改めて、このヒーローとして育成されるはずの子供は大丈夫なのか、という不安が湧く。ある意味、白紙の状態とも言えるわけだが、同年代と比べてあまりに色々なものが欠如している。
 ちらりと目を向けると、鳥の眼がじっと見ていた。
「その子は、目も耳もいいのよ。あと、今あなたが考えているより頭もいいわ」
「……もう少しイチゴ食べる?」
 既に持て余しているケーキから赤い果実を子供の皿に放り込むと、慣れたのか一つ頭を下げてイチゴを啄む様子は雛鳥のようである。
「あー、ヒーローチャンネルとか見てみる?」
 間が持たない、と返事をしないであろう子供の反応を待たず、リモコンを取り上げ休憩室のテレビの電源を入れると、常時何かしらヒーロー関連の番組を流しているチャンネルに切り替える。
 あいにくニュースの時間だったので、子供向けの内容ではなく、今日解決された事件と担当したヒーローの映像やインタビューが流れるのを、無感動な目がただ写す。
「あ、エンデヴァーだね」
 アナウンサーが、強盗団を捕縛したフレイムヒーローの事件を読み上げたので、そう言ってやると、またぬいぐるみを抱え込んだ子供が、目良とテレビ画面とぬいぐるみを等分に見る。
「次の映像で出てくるよ」
 指し示すと、素直に画面に向かった金色の眼に赤みがかかった。
 画面を赤く染め上げたのはヒーローの個性で、渦巻く火炎が全てを灼きつくして、画面中央の男の輪郭に戻る。
 言葉少なにインタビューに応じるヒーローの、マスク代わりの顔を取り巻く炎の下にある蒼い瞳は鋭く冷たく、そういえばこの顔でよく子供が泣くのだった、と思い出して、子供の横顔を慌てて見やる。
 画面を注視していた鳥の眼が、不意にぬいぐるみに向き、画面とデフォルメされたヒーロー像を見比べる。
「えんでばー?」
 ぬいぐるみを掲げて問われ、そうだ、とうなずくと、今度は画面を示す。
「エンデヴァー?」
 もう一度うなずくと、子供の頭の中でその二つがイコールで結ばれたようだった。
 熊のぬいぐるみをこよなく愛する幼い妹を喜ばせようと動物園に連れて行って、本物の熊を見せたところ、心を閉ざされた大学時代の友人のエピソードを不意に思い出し、一瞬焦るが、子供の反応は予想を外れた。
 画面が炎に包まれていた時と同じような目の色を見て、案外大丈夫そうだ、と考えながら、イチゴを全て子供の皿に載せてやり、そういえば言っていなかった祝いの言葉を今更ながらに贈る。
「誕生日おめでとう」