他意はなかった

 ホークスが病室のドアを開くと、ミイラ男が脱皮の最中だった。
「……エンデヴァーさん、お怪我は?」
「治った」
 口元に巻かれていた包帯を強引に引っ張りながら応じた男に、あの重傷が一日で治るはずがないだろうと喚き出しそうになった口を手で覆って抑え、はたと病室のベッドの陰にほとんど隠れてしまっていた小柄な影に気づく。
「リカバリーガール!」
 雄英に所属する老女の、既に伝説の領域になった個性は治癒。先日の黒い脳無との戦いによるNo.1の重傷を知って、治療に駆けつけてくれたのだろう。
「お会いできて光栄です」
「ハイハイ、ホークスちゃん。会うのは初めてだったっけね、ペッツ食べなさい、ペッツ」
 偉大な先達に丁寧に頭を下げると、老女特有の勢いでオールマイトの頭部を象った容器から砂糖菓子が掌の上に数個振り出され、素直にまとめて口に含む。
 事件の処理に奔走して食事もろくに取れていないので、糖分が素直に有り難い。
 ミントの刺激で、少し目も覚めた。
「貴様、随分と俺の時と初対面の態度が違わんか?」
「ビルボードの時のことを言ってるなら、あれが初対面じゃないですよ。俺はデビューした年に、ちゃんと礼儀正しくご挨拶しました」
 む、と詰まったところを見るに、全く記憶していないのだろう。彼が新人のヒーローから受ける挨拶など数えきれないだろうから、五年近く前の出来事など覚えていなくて当然だ。
「それはさておき、リカバリーガールさんが治癒してくれたにしても、そんなすぐ包帯取っちゃって大丈夫なんですか?」
 治った、の一言は嘘ではないようだが、彼女の個性は万能の癒しではない。あくまでも患者自身の治癒能力を高めるだけのもので、命に関わる大怪我に関しては何度かに分けて体力の回復を待って治療を施すと聞いた。
 昨日の夕方に顔を出した時点で、緊急手術の直後だというのに、上体を起こして意識も明瞭だった男の様子を思い出し、その頑健さで一度での完全治癒を可能としたらしいことを悟る。
「本当に、大丈夫なんですか?」
「怪我は治った。体力は限界だから寝る。が、包帯が邪魔だ」
 口元を覆われたままでは寝苦しいという主張は分かるが、ギプスに固められて不自由な左手と元々の不器用さが祟ってか、一向に解ける気配がない。
「絡まってますから!」
 そのうち短気を起こして焼きちぎりかねない気配を察して、自分が外すとベッドに近寄る。
「ちょっと前失礼しますねー」
 事件の直後よりは増えた剛翼をちらりと肩越しに確認して、ふわりとベッドの上に身を浮かせて包帯を解いていく。右頬のガーゼを外し、左半面のガーゼにかけた指先が僅かに震えた。
 張り付いたガーゼを慎重に剥がし、露わになった真新しい傷痕に歯を食いしばる。
 剛翼にタオルを濡らして来させ、まだ生乾きの血の跡を丁寧に拭うと、それまで閉ざされていた左眼が開かれた。
 髪の生え際から顎先までまっすぐに刻まれた大きな傷の中で、蒼い瞳が瞬くのを見据え、左頬に手を添える。
「見え、ますか……?」
 恐れていたことを問う声が、みっともなく揺れた。
 彼が半面を引き裂かれ、脇腹を貫かれた、あの瞬間のことを思い出すだけで心臓が何かに握り込まれたような気分になる。
 敵の去った後に意識を失ったエンデヴァーの搬送に付き添うこともできず、事件の後処理に奔走し、手術の成功と一命を取り留めたと聞いて安堵した。その後、顔の傷の深さと、視力にどう影響したかは分からないと聞かされて再度慄いた。
 ここで、彼まで引退するような後遺症が残ったなら。もし、片目の視力を失った彼が、その力を大きく欠くことになったなら。
 その先を、ホークスは考えることができずにいた。
 そこで思考が至ると、エラーを起こして止まりかける思考回路を無理やり平常に戻して、事件の後処理に奔走していたが、いざこうして結果に直面すれば、なんの覚悟もできていなかった。
「見える」
 深く眉間に皺を刻んで、左右非対称になった顔が大きくしかめられ、ホークスをじろりと睨む。
「きちんとした検査は必要だろうが、特に問題はない」
「……本当に?」
「見えている」
「やせ我慢とか駄目ですからね!?」
「しつこい!」
 一喝されて、羽根がごっそりと減って制御が不安定な個性で浮遊状態を保てず、ぽとり、とベッドに落下する。咄嗟に男の身体の上に落ちないよう調整はしたが、安堵と共にどっと疲労を覚えて再度浮き上がることができない。
「よか……った」
 ベッドの端に両膝をついて、退かなければ、と立とうとした身体が逆に沈んだ。
「おい?」
 治ったと主張する怪我人の上にだけは倒れ込んではいけない、と身体を小さく折り畳むのが精一杯で、それを最後にぷつりとホークスの意識は途切れた。

 ぽすり、と気の抜けた音を立てて病院のベッドの端に小さく丸まった若手ヒーローの姿に、一瞬何が起きたのか理解できず、エンデヴァーは固まった。
「器用な寝方するねえ……、羽があるせいかね?」
 エンデヴァーの体格が良いため、ほとんどないベッドの隙間にすっぽりと収まって、まるで土下座でもしているような体勢にどうしたのかと思ったが、リカバリーガールのコメントからすると、謝っているわけではなく、突然寝落ちたものらしい。
「ホークス、起きろ!」
「記者会見やら事件の後処理やら、全部そのNo.2がやってたよ。昨日の戦闘から今まで、一睡どころか休憩すらしてないんじゃないかね、その子」
 叩き起こそうとして、老女のしれっとした一言に制される。
「……こいつは、怪我は?」
「どこからも治療を頼まれてはいないし、テレビで見た限りでも特に大きな怪我をしている様子はなかったね。睡眠と栄養で回復すると思うよ」
 左右不揃いになった紅い翼は痛々しく思えるが、個性の使い方を見る限り、痛覚はないのだろう。鼻梁に走った切り傷が目立ったが、これもただの掠り傷である。
「気になるんなら、治癒しておこうかね」
 唇を伸ばしてくる老女から青年を少しでも遠ざけて、じろりと睨めつける。
「貴女の個性は、疲労困憊している人間に施すものではないと思うが?」
「そうだったかねぇ」
 空とぼける老人に渋面になりながら、転がしても丸まったままのホークスの肩を掴んで揺する。
「ホークス、起きて点滴でも受けて、その間寝てろ」
 とりあえず一度起きろと叱咤すると、小さくなった翼がぱさりとはためいて、ゆっくりと青年が身を起こす。
 起きたはいいが、ろくに目が開いていない。朦朧とした顔を軽く叩いて、目を覚ませと声をかけても効果はなかった。
「ホークス、起きないとリカバリーガールに治癒されるぞ?」
 脅し文句に、僅かに反応があった。
 ふわりと身を浮かせた男がまた、左半面に手を伸ばしてくる。
「目……」
「見えとる!」
 しつこい、と寝ぼけた鷹を振り払おうとするが、引き攣れた感覚のある半面を指で辿った男が、またくしゃりと顔を歪めた。
「どげんしよ……」
 言葉の端々に僅かに訛りが覗くのは感じていたが、彼が明確に言葉を訛らせたのは初めてで、それに気を取られて対処が遅れた。
 甘い、清涼な匂いが鼻先を掠めて、瞼の上と唇の端に啄むようなキスが落とされた。
「なんで、俺、治せんのやろ……」
 ふ、と茫洋とした瞳に紗がかかって短い距離をその身体が落下してくる。
 治癒の副作用で、上半身を起こしているだけで精一杯だった身では支えきれず、そのまま後ろ向きに倒れこむことになった。ほとんど浮けてもいなかったし、大して重くもないので、さしたるダメージはないが。
 違うダメージを受けた気がする。
「人の治癒にいつも顰めっ面してるあんたにしては、珍しく警戒が足りなかったんじゃないかい?」
「他意がなかったもので」
 眠ったというよりは気絶に近い昏倒に陥った青年をどうしたものか悩みながら、おざなりに応じると、へえ、と低い位置から昔馴染みの声が響く。
「あたしに他意があるような言いぐさだねぇ」
「ないとでも?」
 今も昔も、癒しを与える代わりにある種のダメージを押しつけてくる彼女の振る舞いを、エンデヴァーは嫌がらせと解釈しているし、間違っていないと確信している。
「やだねぇ、五十年も前のことをネチネチと」
「二十五年前です!」
 声を荒げて反論し、その頃、この生意気な若者が生まれていなかったことに気づいて、なんとなく驚いた。
 若いのは承知していたが、本当に、エンデヴァーの子供と同じ世代なのだ。
「昔はあんなに堅物だったあんたが、今じゃ若い金髪のかわいこちゃんを引っかける悪い男になっちまって……」
 時間の流れは残酷だなどと嘯くリカバリーガールを、じろりと睨む。
「引っかけた覚えはない」
「じゃあ、何があったら、自分の個性のほとんどを注ぎ込んであんたを勝たせて、後始末全部引き受けて、あんたの無事を確信した時点でぶっ倒れるような子ができるのさ?」
「…………語弊が」
「あるかい?」
 あると思うのだが、彼女に口で勝てる気がせず黙り込む。
 突然近づいてきた次世代のヒーローを、ただ胡散臭く見ていた。無礼極まりない要請に応じて九州まで来たのも、何かの罠かと半分疑っていたし、改人が急襲してきた時には、一瞬、やはりと思った。
 ただ、その後が、どうにもおかしい。
 あの規模の破壊と混乱の中で死傷者ゼロは確実に彼の功績で、事件の後処理対応もメディア露出を狙ったと思えば、売名に利用されたと判断してもよいのだが。
 そういう計算高い人間は、あんな顔をしない。
「昔助けた鷹が恩返しにきたとかないかい?」
「……ない」
 ビルボードの一件が初対面でないと言われて思い出したが、あの派手な赤い翼は微かに記憶にあった。
 何かの宴席にどうしても断りきれずに出た際に、挨拶と酌に来た。人に酒を勧めておいて、自分は似合わないジュースなど飲んでいるので、飲めないのかと問い、未成年なのだと笑ったやりとりは朧気に覚えている。
 若さと目立つ翼の印象が強かったので、少しだけ記憶に残っていたが、その程度の邂逅だ。毎年大量にデビューする新人の顔など、基本的に覚えていない。
「あんた、昔っから自覚なしに恨まれやすいくせに、やたらと好かれたりもするからねえ。まーたどっかでコマしてきたんだろ」
「……人聞きの悪い」
「ま、小さい頃に助けでもしたんじゃないかい?」
 幼い頃にヒーローに助けられた少年が、同じようにヒーローを目指すという志望動機は珍しくなく、エンデヴァーの事務所にも、当人が覚えてもいなかった事件で助けられたと目を輝かせて入ってきた所員が数名いる。
「そうはとても思えない態度なんだが」
 何なのだと額を押さえて、指先に覚えた異質な感触に、傷痕の存在に改めて気づく。皮膚が引き攣る感覚から、大きな傷が残ったのは把握していたが、触れて分かる範囲は随分と広い。包帯を外した直後の青年の顔を思い出し、どれだけ酷い面相になったのかを考えていると、察した老女がコンパクトを差し出してきた。
 小さな鏡に映った顔は、想定した最悪の状態ほど酷くはなかった。元々怖がられる顔の造りに、更に要素が増えただけである。
 元より個性の火炎をマスク代わりにしているから、ヒーロー活動には支障ないはずだ。最初から威圧目的のマスクに、それを助長するアイコンが一つ増えた、それだけのことだ。
 下から縦に切り裂かれた痕跡は上に行くほど広がっていて、左目の周囲は大きく痕になっている。自然に末の子の火傷痕を連想して、浮かぶのは因果応報の四字だ。
「……なるほど」
 末の息子を筆頭に、子供達がこの傷にどんな反応をするかを考えてみるが、全く予想もつかない。何かしらのトラウマを与えるようなら、傷の除去を検討しよう、と考える。ついでに、子供と同年代のこの羽の生えた若者に、顔を突き合わす度にあんな顔をされるのも困る。
 疲労感にぐったりとしながら鏡を返すと、その希少な個性故に多忙な老女はコンパクトを鞄にしまいながら、もう行かなければならないと言い出した。枕元に元No.1の頭部をしたキャンディの容器を残し、その足は既に病室の外に向かっている。
「待て、先にこの小僧をどうにか……」
「それじゃ、あんたも大掛かりな治癒でろくに動けやしないんだから、早く寝るんだよ」
「この状態で寝られるわけがないだろう!」
 放置していくな、と声を上げるが、リカバリーガールは病室の入り口で一度振り返って、スマホのシャッター音だけを残して去っていった。 
 その写真をどうするつもりだと歯噛みするが、起き上がって追いかけていくどころか、意識のない青年の身体を退かすこともできない程、体力が底を尽きている。
「ホークス、一度起きろ」
 胸の上にある頭を軽く叩くが、もはや身を起こす気配もない。
 諦めてナースコールに手を伸ばすが、大して重量のない重石が邪魔で手が届かない。体調さえ万全ならば、こんな子供の一人や二人、片手で放り捨てられるのだが。
 四苦八苦して身体の上から青年を転がして退け、どうにかナースコールを押した。
 この迷惑な子供を空いているベッドに放り込んで、栄養を点滴で取らせるよう、すぐに駆けつけてくるであろう看護師に指示するために、ほとんど意地で身を起こす。
 激痛で辛うじて意識を保って立っていた昨日よりは、よほど容易い。
 あれだけぼろぼろになった姿を晒して、No.1の威厳など地に墜ちたかもしれないが、それでも意識があるのに伏したままでいるなど、矜持が許さない。
 これにも、少しは取り繕っておきたい体面があるのだろうか、と脇に転がしたホークスに目を落とす。
 ビルボードの会場では、随分と派手なパフォーマンスをしてみせた。華やかな緋色の翼を見せびらかすかのように広げる姿は、鷹ではなく孔雀の間違いでないかと思ったが、地元では親しみやすいヒーローの顔をしていた。非常時には有能で、余計な言葉は一切必要なくこちらの意図を察して、的確にサポートに徹した。事件が終われば、途方に暮れた子供のような顔をしてくる。
 この男の保ちたい体面どころか、どの顔が素なのかも分からない。
 ややこしい生き物のことを考えるのは、体力が回復してからにしようと思考を放棄し、せめて身体の下敷きになって、折れた跡が付いてしまいそうな羽根だけは整えてやることにする。
 ビルボードの会場で存在感を存分にアピールした長大な翼は羽根の数を大幅に減じていて、翼で嵩増しされていた印象より随分とこの青年の身体を小さく見せていた。
 彼のことを子供としか思えなくなってきたのは、意外と小柄だったことも大きいのだろう。まだ高校に上がったばかりの末の息子と、おそらく身長が変わらない気がする。
 不揃いな羽を撫でつけてやると、薄荷の香りが鼻を掠めた。
 先程、完全に寝ぼけた鳥に突かれた際にも、同じ匂いがした。
 あれに、他意がなかったのは分かっているので、それはどうでもいい。リカバリーガールの治癒より余程純粋だった。
 問題は、この匂いだ。
 薄荷の香りの、清涼なのにどこか甘ったるい。
「菓子か!」
 治癒の後のエネルギー補給を兼ねているのだろう、リカバリーガールが撒いて回る砂糖菓子の匂いだと気づいて、先程、二人の挨拶の際にお約束のように菓子を押し付けられていたことを思い出す。
 老女の勢いに逆らわず、素直に口に入れていたのは目にした。
「貴様は……!」
 飴を口に含んだまま寝落ちた男に、喉に詰まらせたらどうする、と胸倉を掴んで引き起こす。
 まだかなり形状を保っていたミントキャンディが、特有の刺激を舌に与えて、少し思考が明瞭になった。
 歯を立てれば、脆く崩れた菓子が更に強く香る。
「エンデヴァーさん、どうされました?」
 ようやく顔を見せた看護師にすぐに応じられず、エンデヴァーは額を押さえた。
「いや……」
 言い訳をするならば。
 ナースコールを押してから看護師がなかなか来なかったため、時間を持て余して余計な世話を焼くはめになった。
 リカバリーガールの個性を受けて体力が底を尽き、思考力がかなり低下していた。
 昨日、大事件を解決したヒーローの死因が、菓子を喉に詰まらせたなど、笑い話にもならないので回避しようと考えた。
 この羽の生えたよく分からない生き物を、人類と認識できなくなっていた。
 一通り並べてみても、成人男性の口から食べかけの飴を口移しで奪い取った理由としてはどうかと思うが、あえて言うならば。

 他意はなかった。