手は口ほどにものを言う

手は口ほどにものを言う

【弱虫ペダル 荒東】
2015/08/15発行
文庫p48/オフセ4C/300円/R-18

付き合ってる荒東。
大学合格して一人暮らしのために引っ越す荒北を手伝いにくる東堂。ひたすらイチャイチャしたあげくにお風呂でエッチ。

サンプル文

 

 志望校の合格通知が来たのは、二月も終わりのことだった。
 静岡にある大学に実家から通うのは不可能で、早急に引っ越し先を決める必要があった。大学に寮は無く、賃貸物件を探さなくてはならなかったが、卒業式と退寮日も迫っていた。諸々のことに忙殺されていた荒北は、親の大学の事務手続きと一緒に、一人暮らしできる物件を探してくれるという申し出に素直に甘えて、いくつかの条件だけ上げて、後は丸投げした。
 しばらくして、母親が見つけてきた学生向けの物件は、大学に程近く、近くにスーパーやコンビニもあり、ロードバイクを室内に持ち込むことを容認してくれるものだった。更に、築浅で比較的部屋も広く、母親が携帯で撮って送ってきた室内の画像はきれいだったし、見取り図を見ても問題はなさそうだったので、そのアパートでいいと即答した。
 高校の寮から日付を指定して衣類や生活用品を直接送り、寮では備品だったベッドと机はネットで買って引っ越し当日に届くように手配した。
 入居日当日は、横浜の実家を朝に出て、福富から引き続き借り受けることになったビアンキを輪行して新天地に向かった。想定外だったのは新横浜の駅の、自転車という大荷物を抱えての乗り継ぎには向かない朝の混雑ぶりで、予定の新幹線に乗れなかったことだ。
 一本遅れれば後の乗り換えも全てずれ込み、見知らぬ街を地図を頼りにどうにか新居のアパートに辿り着けば、仏頂面の東堂が大量の段ボールに囲まれ、しゃがみこんで待っていた。
 遅い、計画性がない、オレがいなければ宅配業者に迷惑がかかっていた云々の小言を聞き流し、受け取っていた鍵を取り出すと、東堂が不思議そうに首を捻る。
「もう鍵があるのか?」
「昨日、オフクロが部屋の引き渡し済ませてンだよ。もうガスも電気水道も使える。掃除も済んでるって」
「至れり尽くせりだな」
 一応、自分で手続きするつもりで調べていたのだが、母親がやっておくから、と全て昨日のうちに済ませてしまったので、今日荒北がすることは荷物を解いて配置するだけのことである。
「部屋選びも親に任せっきりだったんだろう?」
 少々咎める眼差しに肩をすくめる。
「高校三年寮暮らしでろくに帰らなかったんだから、構わせてやれってオヤジが」
 少々うっとうしいほどに世話を焼こうとする母親に、短気を起こしかけた荒北を父親が宥めて言った台詞である。
「そういう考え方もあるのか。うちは、やれることは自分で全部やれって家だからなあ」
「うちのは割と過保護だと思うけど、お前ンとこも相当特殊な方だからな?」
 老舗旅館の一人息子は、よく同級生達にお坊ちゃま扱いされていたが、甘やかされてきたわけではなかった。
 所々で垣間見える育ちの良さは厳しく躾られたことによるもので、東堂の家名や体面というものに対する考え方は、同世代と大きく異なっている。
 大事にはされているが、甘やかされてはいない育ちに加えて、見た目の良さと如才ないサービス精神を持て囃され、周囲にチヤホヤされてできたのが東堂尽八という男で、要するに理解不能だ。
 出会ってすぐには、そのあまりに異なるものの考え方にひどく反発しあって、何度もやりあったことを考えれば、今の距離に落ち着いたことは、何度振り返ってみても我ながら不可解である。
 ついしみじみとした目を向けていると、視線に気づいた東堂が、この美形に見惚れたかとふんぞり返る。
 一事が万事この調子の彼に呆れ果て、勘違いしきった馬鹿だと嫌っていたはずなのに、この顔や態度にすっかり慣れて、可愛いとさえ思うようになった自分に頭が痛い。
「人の顔を見て溜め息を吐くんじゃない!」
 失礼な、と脳天に手刀を落とされる。
「ハイハイ、見惚れてた見惚れてた」
 なおも何やら文句を言いそうな口元に軽いキスを落とすと、手近なダンボールを一つ持ち上げたところだった東堂が、ぼとりと箱を取り落とす。
 側面に荒北の癖のある字で「衣類」と書いてあるので、おそらく中身は無事だ。。
「お…まえはぁっ!」
「照れ隠しにキレんナ」
「照れとらん! 怒ってるんだ! こんな、外で……!」
 口に出したことで気がついたようで、慌てて周囲を見回すが、アパートの周囲に人気はない。荒北もそのくらいは確認してから仕掛けているが、恋人の信頼はないらしい。
 恋人。
 そう、何の因果か、荒北靖友と東堂尽八は恋人同士である。
 互いに第一印象は最悪で、虫の好かない相手と毛嫌いして、多少お互いの性格に慣れて距離が近くなれば、それだけ衝突は増えた。二人とも性格は真反対なのに、どちらも頑固で引かないものだから、日常のささやかな諍いから本気の喧嘩まで三年間延々とやりあって、いつの間にやらこんなことになった。
 捻くれ者の荒北が、自分の感情を認めるまでには時間がかかったし、清々しいほどに恋心を自己完結させていた東堂と、両思いであると合意に達したのは、高校三年間もほとんど終わりに近づいた頃のことだった。
 受験戦争まっただ中にあった荒北に、恋にうつつを抜かす暇などなく、どうにか合格通知を手にした時には、もう卒業式のカウントダウンが始まっていた。
 年の明けた頃からは、東堂も何やら忙しくしていて、二人きりの時間などろくに取れなかった。
 そもそも、どちらも学校の寮に入っていたから、団体生活の中で恋人らしい関係を維持するのも難しかった。壁は薄く、人前で堂々といちゃつくほど開き直ってもいない。
 つまり、お付き合いというものを始めてから、あまり恋人らしい時間を過ごせていない。
 そして、近すぎて手出ししにくかった寮生活から打って変わって、この春からは一人暮らしの生活が始まることになる。気兼ねするしりあいはいなくなったが、代わりに物理的な距離がある。どうにもままならない関係で、今、隣にいる時間を無駄にする余裕は荒北にはない。
 隙あらば触る、と心に決めている荒北に何を感じ取ったか、半歩横に避けた東堂が、いいから鍵を開けろと促した。
「俺が女子なら、この場で通報するような顔をしてないで、とっとと引っ越しを終わらせるぞ」
「どんな顔だ、ザケンナ」
 記念すべき一人暮らし開始の、初めてドアを開く瞬間はくだらない言い合いに終始して何の感慨もなかったが、却って良かったのかもしれない。
 ぴたり、と同時に口を噤んで、部屋の奥を見つめる。
 奥と言っても、学生向けのワンルームだ。大して遠い距離ではない。まだ何も置かれていない四角い部屋はがらんとして見えたが、家具を置けばいっぱいになるだろう。
 そんな部屋を、少しでも広く見せる工夫なのだろう、と頭では分かった。
 それが普通の壁だったなら、この小さな部屋は更に圧迫感が増し、狭く見える。建材に透明素材を用いたり、鏡を配置するのは少しでも広く見せるためだ。
 洒落たデザインと言えるのかもしれない。
 そういえば、母親が今風で綺麗な部屋だったとコメントしていたのを思い出す。ちなみに、彼女がその感想と共に携帯で送ってきた写真は、キッチンスペースの狭さを気にしたもので、自炊予定などまずない荒北にとっては的外れな心配だった。
 過去に戻れるのなら、キッチンなどでなく、もう少し角度を変えて部屋全体を写せと注文を付けたい。平面図と母親から送信された写真、家賃と大学への距離で決めたが、こんな話は聞いていない。
 唖然と立ち尽くした荒北の横で、東堂が動いた。
 ジャケットのポケットに手を差し入れ、ストラップを摘んで携帯電話を引っ張り出し、開くと同時にシャッターを切り、手早くキーに指を滑らせて送信ボタンを押すまでものの数秒である。
 意図に気づいて、その手から携帯を奪い取った時にはもう手遅れだった。
 そういえば、女子なみにメールを打つのが早かったと思い出しつつ、カチューシャの上からその頭を力一杯押さえ込む。
「痛い痛い痛い! 何をする!?」
「何をするじゃねーよ! お前こそ今何をした!」
 東堂が口を開く前に、奪った携帯電話が震えた。
「…………」
「あっ、勝手に人の携帯を見るなど、一番やってはならんことだぞ! メールの履歴チェックとか、彼氏の有り得ない行動ナンバーワンだと知らんのか!」
「てめェの行動の方が有り得ねェよ!」
 問答無用でメール着信を確認すれば、新開からだ。
 笑いを意味する小文字のwだけが並んだメールで、何やら大笑いしているらしいことは知れる。もちろん、直前に東堂が送信したメールに対する反応に間違いないので、送信メールを確認する。
『【速報】荒北新生活』
 端的なメール本文と添付写真。写真はこの部屋をそのまま写したものだ。フローリングの床に白い壁紙、一角が浴室用に区切られて床はタイルに代わり、小さな浴槽と壁にシャワーが作り付けられている。学生向けの物件としては、何の変哲もない作りだ。ただ、どうして壁の向こうの浴室が写っているかと言えば、浴室の壁が透明だからである。
 要するに浴室がガラス張りなのだ。
 デザインなのだろうし、狭い部屋の圧迫感を軽減するのも目的だろう。そう頭では分かっても、それを見た一ヶ月前まで高校生だった男子達の胸に去来するのは、ただ一つの思いである。
 ピロリ、と手の中の携帯が震えて、また新開の名前が表示される。
『ラブホ?』
 三文字と疑問符一つで、部屋に入った瞬間の荒北と東堂の心情を明確に代弁したメールである。
 ぱたん、と携帯を畳むと、おもむろに壁に向かって投げつけようとした元ピッチャーの腕に、慌てて持ち主が取りすがる。
 くだらないもみ合いをしていると、また手の中で携帯が短く鳴った。今度は何を送ってきたのかと、閉じたままの携帯の小さな液晶に表示された名前を見れば、今度は新開の名前ではない。
「あ、フクちゃん」
「何の躊躇もなく、人の携帯に来たメール見やがるか、この野郎」
「お口悪ィんじゃない、東堂ちゃん。つーか、新開だけじゃなく、福ちゃんにまでさっきのメール送りやがったな?」
 片手で東堂の頭を締め上げつつ、奪った携帯を開いて元主将からのメールを確認する。
『新生活おめでとうと荒北に伝えてくれ』
 新開に比べて、実に心温まるコメントである。
 自身の携帯を引っ張り出し、「アリガト」の語尾の半端な四文字を送信している間に、東堂に携帯を取り返された。
 乱暴者、などという非難の言葉が聞こえたが、東堂がしていたことも十分に精神的な暴力である。
「まあ、部屋が連れ込み宿のようでも、一人で暮らす分には支障はあるまい。今更気に食わないからと言って部屋を変える暇も金もないだろう。契約期間の二年は住むしかないんじゃないか? 住めば都と言うし、まあ慣れるだろ」
 正論という名の言葉の暴力を存分に振りかざして、とりあえず引っ越しの荷物を片付けようと段ボールの山を指し示す。
 諦めて、まず一番大きな荷物である組み立て式のベッドから取りかかろうとしたが、東堂が箱を一つ示してこれを開けろとせっついてきた。
「何?」
「オレからの誕生日プレゼントを兼ねた引越祝いだ!」
 開けろ開けろとうるさいので、仕方なく細長い段ボールを先に開封すると、これも組み立て式らしく、長い金属の支柱らしきものと、いくつかのパーツが出てくる。
「バイクスタンドだ。賃貸だと壁に取り付けるタイプは駄目だろうから、自立式だ!」
「そりゃドーモ」
 素っ気ない礼に腹を立てたのか、一瞬眉を跳ね上げて怒り出しそうな素振りを見せた東堂だったが、不意に表情を変えてにんまりと微笑んだ。
「素直に嬉しいと言っていいんだぞ? これから室内保管するのに必須だろう?」
 組み立てるために説明書とパーツの数を確認している荒北を下から覗き込んでくるのが邪魔だったので、片手で頬を挟み込んで押し退けた。
「二台用だネ?」
 自分も使うつもりだろう、と指摘してやると、一瞬言葉に詰まった東堂が、へにゃりと照れ笑った。
「使ってもいいだろ?」
 怒らせるつもりだったのに、甘えるようにねだられて、荒北は額を押さえて顔を伏した。
「荒北?」
「……好きにすればァ?」
 突き放すように告げて、ジャケットのポケットから取り出した金属片をその手に押しつける。
 荒北の態度に一瞬苦い顔をした東堂が手の上に乗せられたものを見て、なんとも複雑な表情になった。
「……何だこれ?」
「鍵」
 見れば分かることをわざわざ聞いてきた東堂に、殊更に素っ気なく応じる。
 このアパートの合鍵だ。
「タイミングがおかしくないか?」
「っせ」
 荒北だって、もう少しさりげなく渡すつもりだったのだ。
 ドアを開ける前はくだらないやりとりに終始してしまったので、後で適当に買い出しに出るときにでも持たせて、そのまま預けてしまうのが一番良かったのだが。
 たかだか二台置きのバイクスタンドを置く程度のことで、こんな顔をするのが悪い。
「持ってろ」
 掌の上の合鍵を、目を皿のようにしてまじまじと見下ろす東堂は動かない。
「いらねェならいーけど」
 言うと、慌てて手の中に鍵を握り込む。
「いる! いるからな!」
 返さない、と固く拳を握りこんだ東堂に、そんなに必死にならなくても取り返したりなどしない、と苦笑する。
 そう言ってやると、少し安心した顔で手を開いて、合鍵を矯めつ眇めつしては、ふにゃりと笑う。
 そこまで手放しで喜ばれると、なんだか面映ゆい。
「なぁ、荒北。この部屋の契約は二年か?」
「一応ネ」
 微妙な物言いになったのは、想定外のガラス張りの浴室の存在である。
 これを理由に、今更別の部屋を借り直すことなどできないので、このまま荷解きして住むし、住んでるうちに慣れてしまう気はするが。
 二年後に契約を切って引っ越すかどうかは、またその時の判断だ。
「そうか、二年は使えるんだな」
 二年間よろしく、と床に置いた鍵に向かって手を突いた東堂の思考回路は相変わらずよく分からない。
 物を大事にすると言えば聞こえはよいが、部の備品の価値が下級生の人権より優先されることもしばしばあった。思い返してみると、入部当初の荒北は東堂の中で扱いが確実にローラー以下だった。
 ローラ以下から恋人にまでよくも出世したものだと思うが、このアパートの部屋というカテゴリの中で、合鍵以下に荒北が位置していたとしても、全く不思議ではないのが、東堂という男の謎の価値観である。
 深く考えると頭が痛くなってきそうだったので、荒北は手にしていたスタンドの説明書を床に置くと、東堂に組立を手伝えと声を上げた。