シザーハンズ
【弱虫ペダル 荒東】
2016/03/27発行
文庫p58/4Cオンデマ/300円
荒北が割とギザギザハートの子守唄状態。
【弱虫ペダル 荒東】
2016/03/27発行
文庫p58/4Cオンデマ/300円
お前も今日から自転車部員だと言われ、意味が分からず荒北は相手をじろりと眇め見た。
「今日からァ?」
「今日からだ」
きっぱりと言い切ったのは、その自転車部に荒北を導いた福富だ。何の目的もなく高校に進学して、鬱屈した日々を送っていた荒北の前で、エンジン付きの乗り物を使えばいいものをあえて人力で自転車を漕いで汗をかいて、これが自分の打ち込む青春だと見せつけてくるのが無性に癇に障った。
一方的に絡んでいって、あくまでもマイペースな男に調子を狂わされっぱなしで、気がついたら髪を切って自転車部の前に立っていた。
その日から、既に一週間が経っている。
福富の言う通りに走り込み、ハムスターのようにどこにも行けないローラーの上を延々と漕がされ、疲労困憊して気絶するように眠る夜を何度も繰り返したというのに。
「……今日から?」
今日からだ、と先と同じ表情と口調でうなずく福富のことを、なんとなく理解しはじめたが、彼は表情と言葉がかなり足りない。
「オレ、これまで部員じゃなかったわけェ?」
「今日、入部届が受理された」
「……あっそォ」
なるほど、と理解する。
荒北は一週間前まで手のつけられない不良だと目されていたし、今もその評価は何一つ変わっていない。
この全国優勝常連の強豪校だという部は、荒北を今日まで受け入れてはいなかったのだ。部員として認めて、暴力沙汰を起こされては困るということだろう。
今の今まで、荒北の扱いは部外者が勝手に入ってきて、勝手に部の備品を使っていたという状態で、何かトラブルを起こせば即座に停学処分でも食らわせようという腹積もりだったようだ。
素行不良の部外者が何をしでかしても、部は被害者であって、何の責任もない。
「おめでとう」
苛立ちかけた荒北に、しごく真顔で告げた男に気が抜けた。
「…………どーもォ」
一週間荒北の様子を見て、入部届が受理された。そういうことだ。
ここで怒って暴れて台無しにして、また何の目的もなく過ごして、溜まった鬱憤を原付バイクの制限速度を超えて走ることで、どうにか晴らすような生活に戻るのも馬鹿らしい。
「だから、掃除だ」
「なァ、鉄仮面ロボ。お前、国語の成績悪くネ?」
荒北も人のことを言えた国語力ではないが、この男はあまりに酷い。
言っている意味が分からないと顔をしかめると、福富はむ、と唸って考え込んだ。
「正部員になったので、お前も他の一年と一緒に掃除だ」
「あー、ハイハイ」
そういう文脈だったか、とうなずくと、福富が意外そうな顔をした。
「ナニ?」
「いや、もっとゴネるかと」
いっそ清々しいほどに率直かつ、荒北に対して気後れしない男である。
「やんなくていーならやんねェけどォ?」
「やれ」
きっぱりと言い切る口調に、あまり腹は立たなくなっていた。
「当番の班を分けて持ち回りにしているが、まだお前は班分けしていない。途中入部だから、皆に仕事を教わって覚えろ。今日は部室の中で掃除を頼む。オレは外で作業している。分からないことがあったら、今井か東堂に聞け」
「ヘイヘイ」
適当な相槌に乏しい表情が僅かに動いたが、特に注意はなかった。
また後で、と律儀に告げる福富に返事はせず、たらたらとした足取りで部室に向かう。
あえて軽くならないように気をつけた足取りは、少々自意識過剰かもしれないが、ひねた性格故だ。あの鉄仮面に、ちょっとでも浮かれているなどと思われたら憤死する。
今日から部員だなどと認められて、喜んだなどと思われてたまるかという意地は、要するにそれが事実だからだ。
中学時代に肘を壊して、選手として使えなくなった途端にチームメイトと取り返しのつかない決裂をした。もう二度と何かに群れるのも、仲間なんてものを作るのもうんざりだと思ったが、集団からはぐれてみれば、それはそれでただ気が塞ぐだけの毎日だった。
また、ただひたすら肉体を酷使して一つのことだけに集中して、そんな毎日を共有する同世代のグループの一員だと言われて素直に喜ぶのは、元の性格に加えてここ数年で更にひねくれた荒北には難しい。
緩まないようにと、普段以上に苦い顔をして、部室に足を踏み入れた瞬間、それまで掃除用具を片手に談笑していた部員達がぴたりと口を噤んだ。
全くの異物を見る目に、浮ついていた気分は霧散した。一転して急降下した機嫌そのままに、低い声で問う。
「イマイって、どいつ?」
応じた者はいなかったが、周りの目が一斉に一人の少年に向けられたので、それと察した。福富より少しくすんだ色に髪を染めた少年に目をやると、観念したように手を半分上げてくる。
「な、何だい、荒北くん?」
引きつった笑みを向けられ、荒北は肩をすくめた。
「鉄面……フクトミに、なんか掃除手伝えって言われたんだけどォ?」
えっ、と上がった声音には困惑しかなく、怯えた表情には関わりたくないと書いてある。
「いや、大丈夫ですから! 俺達で掃除しとくから、荒北くんは休んでてください!」
何で敬語になった、と突っ込むのも面倒で、ただ一つ舌打ちすれば、一年の部員達はびくりと肩を揺らした。
くるりと背を向けると、あからさまにほっとした息を吐いて、ひそひそと囁き合うのが聞こえる。
アイツ何なんだよ、本気で部に入るつもりかよ、まさか、すぐ辞めるだろ、迷惑だよな、ホント。
彼らが思っているほど声をひそめられていないので、被害妄想というわけでもない。振り返って睨みつければ震え上がるのだろうが、やるだけ気分が悪くなるだけだ。
とりあえず、何もしなくていいと言われたので暇だ。しかし、福富にそれを言いに行くのも癪だ。
勝手に練習でも始めてやろうかと考えながら、戸口を睨みつけていると、スライド式の扉のガラス越しに人影が見えた。
肩より少し短い髪に、花飾りの付いたピンクのカチューシャをしているのがまず目に入った。何か荷物を抱えているのか、うつむき気味にドアを開けようとしていた相手は、ふと顔を上げて荒北に気が付いた。
ぱくぱくと開閉した口の動きは分かりやすい。開けて、という訴えに応じて開けてやると、両手にそれぞれ十リットル以上の容量と思われるウォータージャグを抱えている上に、更にもう一台小さ目のジャグを地面に置いて、それまで持ち上げようとしていた。これでは、ドアを開けるにも難儀するだろう。
マネージャーがいたのか、と特にこれまで興味のなかった部の構成に新しく情報を付け加えて、その両手から中身の入ったジャグを取り上げる。
空になった手をきょとんと見てから、地面に置いていた半分のサイズのジャグを持ち上げたマネージャーが、にこりと笑いかけてきた。
「ありがとう」
男子でもビクつく荒北を前に、怯むどころか当たり前に礼を言ってきた相手に、むしろ荒北が一瞬怯んだ。
「……ドコ置くの?」
いつも以上に不愛想になった荒北の口調にも臆せず、空のボトルの並んだ机を示す。
どうやって体重の半分以上の荷物を運んできたのかと思うような見た目に見合わず、他の一年の男子よりよほど豪胆な性格をしているようだ。
新入生なのだろう、まだ真新しく、成長を見込んだのかワンサイズ大きい学校の白い指定ジャージの胸元に、「東堂」の縫い取りを見る。
「トウドウ?」
先程福富が言った、もう一人の名前だと気づく。どちらも男子部員かと思っていたが、片方はマネージャーだったらしい。
「福富が、仕事教われって」
「ああ……」
また笑ったマネージャーは、ちらりと部室の反対側に溜まっている部員に目をやり、細い眉を吊り上げた。
「そこ、掃除サボるな!」
「やってんだろ!」
口以外に動いていたように見えなかった今井が、東堂の叱責に怒鳴り返したことを意外に思う。
マネージャーが重い荷物を持っていたら、頼まれなくとも鼻の下を伸ばして手伝いにきそうなタイプだと思ったが、荒北が傍にいるせいなのか、元々東堂との関係があまり良好でないのかはよく分からない。
「荒北、ボトル詰めるから手伝え」
雑な口調だが、体育会系の部のマネージャーなら珍しくもない。
部員が揃う前に薄めたポカリを作って全部ボトルに詰めるのだと説明されて、分かったとうなずく。五十名近くの部員分を用意すると、満タンだった三台のジャグは全て空っぽになった。
「これで、もう一回容器全部にポカリ作って置いておく。当番の時は残量いつも気にして。その日の暑さによっては何回か補充」
空のジャグを三台とも抱えて、もう一度水場に向かおうとする東堂に、だからなぜその体格で一度に運ぼうとするのかと嘆息しながら、二台を強奪して水場はどこだと問う。
ひたりと見据えてくる大きな目に思わずたじろぐと、また不意に人懐こい顔で笑う。
「荒北、自転車楽しいか?」
「……今ンとこ、全然」
反感を買うのを承知で、何が楽しいのかさっぱり分からないと告げるが、東堂は筋トレとローラーばっかだもんな、とまた笑って、ジャグを片手に歩き出す。
そんなことを言いながら、こんな雑用さえ楽しいと言わんばかりに軽い足取りの東堂がさっぱり理解できない。
荒北はそもそも、運動部のマネージャーになりたいという人間の精神構造が今一つ理解できない。
競技に参加もせずに、毎日部の雑用をするだけの役割を進んでやりたがる理由が分からない。
これまで見た中で、一番分かりやすかったのは、男子部員の中で希少な女子として存在することで持てはやされることを楽しむタイプの女子で、大体そのタイプは部の主将かエースの彼女に納まっていた。
先程の同学年とのやりとりや距離感を見るに、不思議なことにこのマネージャーはあまりちやほやされていないらしい。
とすると、このマネージャーは男子部員にもて囃されたいわけではなく、ただ、この部に関わりたくてマネージャーとして所属しているタイプの人種だ。
荒北が知る限り、彼女達は判を押したように、その競技が好きで、選手としてではなくとも携わりたいからと口にするのだが。
「なァ、そんなに自転車好き?」
ひねくれた荒北の問いかけに、含む部分に全く気づいていないのか、東堂はこれまで向けてきた笑顔とは比較にならない満面の笑みで応じた。
「好きだよ」
皮肉など正面から粉砕する真っ直ぐな答えに、荒北は何故その目がどうにも苦手なのかを理解した。
これは、綺麗で真っ直ぐだ。
捻れて歪んだ自分が余計に惨めになるくらいに。
「荒北?」
息と言葉に詰まって立ち尽くした荒北に、不審そうな顔をして東堂が首を傾げた。その仕草にカチューシャで留めた肩より少し短い髪がさらりと揺れる。
「どうした?」
問われたところで、答えられるはずがない。
迷うことなく真っ直ぐに好きなものを好きだと笑える綺麗さに、泣きそうなほど打ちのめされたなんて、情けないほど惨めだ。
心臓を握りこまれるような息苦しさを覚えているのは荒北だけだったが、何かしら東堂にも伝わったようで、妙に気まずい沈黙が落ちる。
「あ、尽八ー、荒北君も。何してんのー?」
息苦しい空気を破ったのは、のんびりとした少年の声で、振り返れば箒を振って笑う新開の姿がある。
あの福富と中学から一緒だったという新開は、福富とは対照的に常に表情を笑顔に保って、荒北に対しても距離を気軽に詰めてくるので、荒北もすぐに顔と名前を覚えた。
人好きのする笑顔というだけで、荒北にとっては警戒対象だが、加えてどうにも人の悪いところがその笑みに含まれている気がする。
「荒北にポカリ係教えてる。というか隼人、掃除は?」
「やってるやってる」
名を呼ばれて、へらへらと笑って箒を振り回す新開を眺め、この二人は仲が良いらしいと考え、何か引っかかるものを感じる。
入学して二か月、中学から一緒の関係でないなら、名前呼びというのはかなり親密な距離感だ。
なるほど、この二人は付き合っているのかと判断して、それなら関係ないと流そうとするが、やはり引っかかる。別に、部員とマネージャーの恋愛事情など、部内でトラブルを起こさなければどうでもいいはずなのだが。
「あ、尽八、さっき本田先輩が、昨日の洗濯係誰だってキレてたけど何か知ってる?」
「昨日はオレじゃないが、盛大に色移りさせた馬鹿がいたみたいだな、さっき他でも騒ぎになってた」
「あー」
やらかしたなー、とのんびり駄弁る会話に違和感が募る。
「オレ……?」
一人称がオレだのボクだのと言う女子もいないではないが。
「ジンパチ?」
ぼそりと呟いたのが聞こえたのか、振り返った東堂がぱかりと大口を開けて笑った。
「ああ、自己紹介がまだだったな! 東堂尽八、クライマーだ。以後宜しく頼む!」
妙に時代がかった口調と名前だと思う。
握手を求めて伸ばされた手は、案外と大きい。身長は低いし、かなりの細身だが、山を登るクライマーというのは体重がある程度軽い方が向いているとは、付け焼き刃の知識で知っていた。
つまり、男子部員だ。
表情も態度も言葉づかいも、どこから見ても男でしかないのに、つい性別を見誤ったのは小柄な印象が強いせいだろう。
やたらと大きな目と中性的な顔立ちに加えて、その髪の長さだ。運動部に所属するなら短くしておけばいいものを、結局邪魔なのか、髪を留めているカチューシャが曲者だ。どこからどう見ても、男が頭に付けるような代物ではない。いかにも対外的な、上辺だけの笑顔で差し出された手にも苛立った。
「ダッセェ」
「……は?」
「馬鹿みてェな頭してんじゃねェよ、アホか」
「なーっ!?」
毒づくと、何やら喚きだした東堂に背を向ける。
「隼人何なんだ、アイツは! 失礼な!」
荒北がすぐにその場を離れたためか、喚き訴える声は、横にいた新開に向かったようだった。
「……あー、尽八、そのカチューシャ、かわいいね?」
「そうだろう、中学卒業の際に下級生達がくれたんだ。それを、あの審美眼のない不細工が……!」
うるさく騒ぐ金切声に背を向けて舌打ちする。
あんな鬱陶しい女みたいな男を相手に、一瞬ひどく情けない弱さを晒したことが腹立たしい。自転車のことであんな顔で笑えるくせに、薄っぺらい笑顔で手を差し出してきたことにも苛立つ。
「……ッゼ」