狐の嫁入り

 雲の中を往くような気分というのは、非常に不快なものだった。
 少なくとも、箱根の山中をロードバイクという脆弱な乗り物に乗って、身を守るのは転べば破ける薄いサイクルジャージと発砲ポリスチレンのヘルメットのみ。視界の悪い濃霧の中を走行するのは、非常に神経を擦り減らす。
 更に霧雨が容赦なく体温を奪っていく中、練習コースの折り返し地点の駐車場まで坂を下るのは自殺行為に近かった。
 六月半ばとは思えない体感温度に強ばりきった身体をぎくしゃくと動かして、ペダルから足を外して地面に降り立つが、足元がおぼつかない。
「荒北!」
 声に顔を上げると、白いレインジャケットを羽織ったチームメイトが駆け寄ってくるところだった。
「お前一人か。他の連中は? この霧はさすがに危ないだろう、ここまで視界が悪くなったら無理に乗るなとフクも言っているはずだぞ。まさか、いつもの勢いで坂を下ってきたんじゃないだろうな。お前、レインウェアはどうした。雨と山ナメるな。唇が真紫だぞ。それにずぶ濡れじゃないか。お前すぐ風邪引くくせに、なんでそんなに自己管理が甘いんだ」
「……せ」
 近づくと同時に怒濤の小言を浴びて、普段ならば即座に言い返していたところだが、そんな気力もなく短く唸ると、一つ嘆息した東堂が上着を脱いで押しつけるのと引き替えに、水色のロードバイクを引き取って行った。
 反発する体力は残ってなかったので、もそもそと東堂の体温の残ったジャケットを羽織り、小さく水を跳ね上げるタイヤについて行く。
 並んだ自販機の横に立てかけていた白い自転車の横に荒北の自転車も立てかけた東堂が、缶コーヒーを買って差し出してきた。
 受け取った缶は一瞬火傷しそうなほどに熱かったが、冷え切った身体には有り難かった。
「まだ、ホット売ってンの?」
「今日みたいな日があるから需要があるんだろう。ここは六月いっぱいはホットを置いてるぞ」
 地元出身の東堂の台詞に納得して、プルタブを開けて口を付ける。甘ったるいミルクコーヒーが、今は身に染みる。
「西の方が明るくなってるから、もう少ししたら晴れる。少し休憩してから帰るぞ」
 言いながら勝手にヘルメットを外して手拭いで人の髪を拭い出すのも好きにさせて、ひとまず体温復帰に専念する。
「お前、この時期はちゃんとレインウェアを準備しろ」
「へいへい」
 やっと人心地がついて、小言にぞんざいに応じると、東堂はむっとしたような、ほっとしたような複雑な顔をした。
 どうやら、随分と心配をさせていたものらしい。
 ジャケットとコーヒーでどうにか温まった手を伸ばして、ヘルメットの痕がついた湿った髪をかき回してやると、迷惑そうにその手を振り払った東堂が、横を向いて一つくしゃみをした。
「って、お前も寒いンじゃねーか」
 東堂の予報通り、少し周囲が明るくなり雨も弱まってきたが、依然として身に纏いつくような霧雨が降り注いでいる。レインウェアを脱げば荒北と同じ箱根学園のジャージしか着ていない東堂が、今度は顔色が悪くなってきていた。
「まだ着てろ」
 ジャケットを脱ごうとした荒北を、偉そうな物言いで制した東堂が再度くしゃみをする。
「……東堂ォ」
 ジャケットの前を開けて名を呼ぶと、東堂は何故か逆に一歩遠ざかった。
「逃げンな」
 向けられた背を捕まえてそのまま抱き込み、自販機の上に作られている庇の僅かに張り出した下に入って雨を凌ぐ。
 濡れた肌が冷たいと思ったのは一瞬で、細身に見えるクライマーの筋肉しかない身体は、腕の中ですぐにぽかぽかと熱を持った。
「あったけェな、お前」
「隼人が一番体温高いけどな」
「アイツ一番寒がりじゃん」
 体温が高いから外気温の寒さに耐えられないのだろうと指摘する東堂に、冬場は誰彼構わずしがみついてくるチームメイトのことを思い出して渋面になる。
 スキンシップ過剰な新開と東堂は仲が良く、距離感も何やら間違ってるので、冬場はよく抱きつき合っていた。それこそ、相手の上着の中に収まるくらいのことは当たり前のように毎日してたくせに、何を逃げると往生際悪く足掻く男を半ば締め上げるようにしっかりとホールドする。
「何の嫌がらせだ!」
「嫌がってんなーと思って」
「いじめっ子か!」
 単純に荒北に対してだけ、距離を取りたがる態度が気に食わないだけである。
 少し前まで、こんなことはなかったはずだ。距離が近く、無意味に偉そうで、小言が多くやかましかった。
「…………距離感以外は変わってねェ」
 ほんの少しだけ、荒北に対して身構えるようになった気がするのだが。何がどう違うのかはっきりとしないのが、もどかしい。
 往生際悪く暴れる東堂ともみ合っていると、目の前を人影が過ぎった。
 公共の駐車場である。他の利用者の存在は不思議ではない。それでも二人が思わず動作を止めたのはその人物の衣装のためだった。
「……お嫁サン?」
「間違ってないが、お前、何で時々選ぶ言葉が無駄に可愛いんだ?」
 余計な感想を洩らす東堂を締め上げると、白無垢姿の花嫁と、ビニール傘を差し掛けたスーツ姿の女性がくすくすと笑う。
 かわいい、などという噴飯もののコメントを残されたのも解せない。
「テメェのせいで笑われてんだろが!」
「良かったじゃないか。ビジュアルに関係なく年若いのがバカやってるだけで微笑ましく思ってもらえるなど、今だけ……痛い痛い痛い!」
 悲鳴も上げられなくなってから、少々やりすぎたかと力を緩めると、ぐったりともたれかかってくるのが重い。
「アレ、結婚式?」
「記念撮影かな。本来なら富士山が背景になるんだろうが、この天気で暗雲立ちこめた写真にならんといいが」
 紋付き袴の男性も横に立って、カメラを複数首から下げた男とスーツの女性に指示された通りにポーズを変えたり位置を移動しているのを見やり、背後を振り返ると晴れ間が広がってきたものの、まだ雲の中に半ば埋もれた日本最高峰がそこにある。
「晴れてきたな」
「まだ降ってっけど」
「狐の嫁入りか」
 天気雨の別称を口にして、あの夫婦、実は狐かもしれないなどと軽口を叩いて笑う東堂こそが、正体は狐なのだと言い出しても荒北は驚かない。
 山の妖怪の一種ではないかとたまに思う、自他称山神である。
 雲の切れ間から明るい陽射しが差し込んできたものの、雨はまだ降り続いている。
 気温は上がってきたので抱き込んでいた身体を離すが、先程までなんとか逃れようと暴れていたくせに、拘束がなくなったことに気づいていないのか、加重が退かない。
 少し傾きかけた太陽光は黄色みを帯びて、降りしきる雨粒を乱反射させていた。
 明るいような、暗いような、渾然としたきらきらとした景色の中で、ぼんやりと新郎新婦を見つめる東堂の顔を仕方なく無言で見やる。細かな水滴が睫毛に付着して光を弾くのに耐えきれず、手を伸ばして強引にその顔を拭うと、急に視界を遮られた東堂が驚いた顔で荒北を振り仰いだ。
「どうした?」
「いや……、なんか、ウザかった?」
「どういう意味だ!」
 クリートの付いたシューズによる向こう臑への凶悪な攻撃に悶絶する隙に憤然として荒北から距離を取った東堂は、また和装の夫婦に目を向けていた。
「そんなに狐の夫婦が気になンの?」
「ああ、やりたいなと思って」
「…………」
 反応に困っていると、誤解を招く言動だと気づいたのか、東堂が言い添えた。
「うちで」
「あー」
 どうやら箱根の老舗旅館の一人息子としての発言だったらしい。
「お前ん家、結婚式やってねェの?」
「プランとしては用意していない。設備的に式場として使い勝手はよくないし、無理してやる必要はないが、ああいう気楽な撮影プランならいいと思うんだ」
 真顔で考え込んでいる東堂に、がっくりと肩を落とす。
「何だ?」
「別にィ」
 この妖怪変化じみた生き物が、恋愛関係で何か悩みでもあるのかと一瞬錯覚した自分が馬鹿だった。
「自分が結婚するなら洋装の方がいいだとか、好きな子の婚礼衣装姿を妄想するだとか、お前が想像したようなことは一切考えていないが?」
「妖怪みたいに人の思考読んでんじゃねェよ」
「お前の顔が分かりやすいだけだ」
 失礼極まりない暴言を吐いた東堂の顔が、一瞬歪んだ気がした。
「どうせ、好きな相手と結婚なんて、一生できない」
 ぽつりと零された言葉に振り返ると、雨が止んだ、と湿った髪をかきあげて笑う顔に曇りはない。
「お、他の奴らもやっと来たな」
 濃霧で動くのを控えていた部員達が、ようやく集合地点に到達したものらしい。遅いぞ、と声を張り上げる東堂に、後輩達が泣き言を返す様子はいつも通りで、荒北は目を瞬かせた。
 薄明るい、きらきらした雨の中で見せた顔はもうどこにもない。
 狐につままれたような気分というのは、こういうことを言うのだろう、と思った。

 ゴールラインを超えた瞬間、全気力を霧散させた男の冷え切った身体を抱き留めて、自転車から引きずりおろしてチームのジャケットで包み込んだ。
「生きてっか、東堂ォ?」
「……死ぬ」
「ヘイヘイ、表彰台上るまで死んでていーから」
 ロードバイクはチームの同僚に預け、高校の頃よりも体重は増えたはずなのに、引き絞りすぎて痩せた感のあるクライマーの身体を運搬することに専念する。
 チームの大事なクライマーを、少しの間独占してよい程度の権利は有している。
「下り、滅びろ……」
 ヘルメットを剥いで、濡れているというより半ば氷結している髪をかき回してやると、真紫の唇が弱々しく呪詛の言葉を吐いた。
「あの坂、あのスピードとか、頭、おかしいだろ。ずっと、登りなら、いいのに」
「それ、スプリンター連中が聞いたら、頭おかしいのはお前だって言うかンな」
 日本語の会話なので、周囲は聞いていても理解はできないだろうが。
「あと、お前もその頭おかしいスピードで下ってきたって分かってるか?」
 今日の山岳を取った後、そのままチームの指示でトップ集団に混じって、六月だというのに氷雨の降りしきる中下ってきた東堂を、体温を移すように抱き込んでやりながら指摘する。
 濃霧と氷片混じりの雨という最悪のコンディションでも、ぶれない登坂と正確なライン取りで高順位につく東堂も人間とは思えないが、そんな東堂でも今日のステージは相当消耗したのだろう。珍しく延々と怨嗟を呟き続ける東堂に、まず温かいものを飲ませようと判断する。
「雨、滅しろ……」
「ほら、日出てきたからァ」
「まだ降ってる、止ませろ」
 天気雨にまで文句をつけて無茶を言ってくる山神と違い、荒北は一介のメカニックである。天候は左右できないが、長年の付き合いでこの山神の機嫌を左右させることはできる。
「ほら、茶」
 チームカーまで運んで座らせ、用意しておいたステンレスボトルを差し出し、靴を脱がせ、乾いたタオルで髪を拭う。
「なんか欲しいモンは?」
「ジャパニーズ温泉」
「それは日本に帰ってから入りにいけ」
「せめてバスタブ」
「……今日のホテル確認して、バスタブ付き確保してやるから」
 欧州の風呂事情にやさぐれている東堂をなだめ、他には、と問うと、少し顔色がましになった東堂が深く息を吐き出した。
「何かオレの気分が良くなることを言え」
「ナニサマだ」
 チームの功労者をケアしているだけだというのに、どこまでも図に乗る男の鼻を摘んで黙らせ、おもむろに着せかけていたジャケットから取り出した小箱を、まだ湿った頭の上に載せる。
 レースが全て終わってからにしようかと思っていたが、終盤になって疲労が溜まって珍しく心が弱っているようだし、天気もちょうどよい。
「オレトケッコンシテクダサイ」
 さて、これで気分はよくなるだろうかと眺めていると、地元箱根の一地域から世界にファン層を広げて、常に黄色い声を浴びている自称美形の顔がくしゃりと歪む。
 十年ほど前、こんな天気の日に、こんな顔で、これは結婚など一生できないなどと宣ったものだが。
 生憎と、彼は片思いを実らせたし、自分達はパートナーとして職場であるチーム内で認められているし、母国の法も同性婚について改正された。
 ザマアミロと笑って、荒北は泣き笑う狐のような恋人を抱き込んだ。