閃光花火

 網戸にしっかりとしがみついた蝉の鳴き声に早朝から叩き起こされ、苛立ちながら網戸を叩いたつもりが、老朽化していた網戸をうっかり突き破った。
 おかげで、寮監に朝からこっぴどく叱られた上に、窓を開けられなくなり、夏休み期間の個人部屋冷房禁止令により、早々にサウナも同然となった部屋から脱して、コンビニにアイスでも買いに行こうと寮から一歩踏み出した瞬間に、炎天下に心が挫けた。
 出かけるのも億劫だが、寮にいてもすることはない。
 どうしたものかと、強烈すぎる真夏の陽光に反比例して暗く感じる玄関で悩んでいると、背後から声がかけられた。
「荒北、珍しく早いな、どうした?」
「……東堂ォ」
 振り返れば、うんざりするほど見知ったチームメイトの姿があった。
 自室とはいえ、寮の設備を壊したと知られれば、またうるさいだろうというのが目に見えて、歯切れ悪く意味のなさない声を上げると、東堂がなるほど、とうなずいた。
「暇なんだな」
「っせ」
「何やら身に覚えもあるようだが、叱るのも暑くて面倒だから聞かないぞ」
「うっざ」
 うざくはないな、と切り返してくるのは定型だ。
 二年半、同じ部でチームメイトとして過ごしてきた。友達ではない、と互いに合意を得ているくらいに、寄ると触ると喧嘩をしたが、ある意味気心は知れている。
「ちょうどいい、暇なら付き合え」
「暇じゃねェよ」
 尊大な物言いに反射的に言い返すが、気にした様子なくTシャツの袖を引っ張られて嘆息する。それ以上逆らわずに促されるまま外に出て、陽射しを浴びた瞬間後悔した。
「軟弱か」
「っせ」
 涼しげな表情をしているが、少しでも建物の影に入るコースを取っている辺り、人のことは言えない。指摘すれば、日焼けしたくないなどと言い出しかねないので、黙ってついていく。日陰を辿る回り道で、最初は目的地が不明だったが、すぐに通いなれた道だと気が付いた。
「チャリ部?」
「そうだ」
「何しに?」
 正式な引退はまだだが、最大のイベントであるインターハイが終わって、三年はほとんど練習に参加していない。半数が予備校の夏季講習に参加するという名目で休んでおり、特に寮生は帰省もあって三年は荒北と東堂しか残っていない。
 自転車に乗るつもりなら、寮を出る前からサイクルジャージを着て出ているだろうが、今はTシャツとハーフパンツの私服姿なので、副将として部の引き継ぎをしにいくわけでもなさそうだ。
「備品の片付け。お前もロッカー整理しろ」
 面倒ごとに付き合わされた、とはっきり顔に出すと、逃がすまいとがっちりと腕を掴まれた。暑いのにくっつくなと振り払おうとするが、汗ばんだ腕がより絡められて鬱陶しい。
 揉み合いながらクラブ棟の前に辿り着くと、プレハブの前にいた下級生達が妙な顔をして出迎えた。
 手にしたホースや洗剤の泡の立ったスポンジは、洗車のためだろうが、必要以上に泡だらけな手やずぶ濡れになった様子からして、上級生のいない解放感と夏休み気分で少々ハメを外していたのかもしれない。
「おはようございます、東堂さん、荒北さん!」
「お邪魔しました!」
「ごゆっくりどうぞ!」
 縦社会の運動部なので、しゃちほこばった挨拶はいつものことだが、顔を出して邪魔をしたのはむしろ荒北達だろう。何故謝罪されたのかが解せないが、三年の中で一番怖い人と認識されている荒北は、何をしなくとも謝られることが多いので気にしないことにする。
 下級生達に向かって、何やら一演説打とうとしかけた東堂の頭を小突いて部室内に入らせるが、全開で回る数台の扇風機に掻き回された男臭い汗の臭いに辟易とした。
 東堂も一瞬怯んだ顔をしたが、次の瞬間猛然と更衣室に向かった東堂がロッカーから取り出した制汗スプレーを、殺虫剤のように構えて部員達に噴きつける所業に及んだのを、首根っこを掴んで取り押さえる。
「邪魔して悪ィな」
「番犬気取んなら、ちゃんと東堂さん見張っててほしいんすけど」
 生意気を言う黒田の首根っこも掴んで、筋トレを阻害する。
「あんたが一番邪魔してんだよ!」
「オレの何が邪魔だってェ?」
「聞き捨てならんな、この元ヤンが夏休みに堕落しないように、オレが監督しているんだ。荒北に面倒を見られた覚えはないな?」
「そういうとこだよ、マジでタチ悪いな、この人達! 本当に邪魔しにきたんすか!」
 両側から三年に絡まれた黒田が唸る。
「いや、ロッカーの整理と、備品の片付けとリストアップ。つまり、引き継ぎの準備だ」
 さらりと告げた東堂に、喚いていた黒田が不意に言葉に詰まった。狼狽えた顔を荒北に向けてくるので、肩をすくめてみせると、くしゃりとその顔が歪んだ。
「……ランニング行ってきます!」
 苦しい言い訳をして踵を返した後輩の背中を見送り、東堂に目をやると、じとりと睨まれた。
「また後輩をいじめて」
「オメーだよ!」
 生意気な態度と物言いはとうとう改善されなかったが、黒田は何だかんだと同じクライマーの東堂に懐いていた。その口から引退を仄めかされて、動じるくらいには尊敬もしている。
 分かってやっているのだからたちが悪い、とぼやくと、お前の場合分かっていてもいなくてもたちが悪いとぼやき返された。
「ほら、後輩の練習を邪魔するんじゃない」
 自分のことを完全に棚に上げた言動で、荒北のTシャツを引っ張ってきた東堂に文句を言いながら、更衣室に向かう。ミーティングにも使われる更衣室だが今は誰もおらず、無数のロッカーが並ぶだけだ。
 一年の途中から入った荒北には、扉の立て付けが異常に悪くなったロッカーしか残っておらず、開け閉めする度にトラブルを起こす扉に腹を立てては蹴りつけて歪め、余計に状態を悪くして東堂に叱り飛ばされて喧嘩した。
 その年の三年が引退して空いたロッカーに即座に移動して、普通、上級生が使用するか確認してからだろうとまた東堂に怒られて喧嘩した。
 今もその壊れかけたロッカーを使わされている一年がいるので、なるべく早く三年が空けてやるべきだろう。
 仕方ない、と己の名札が入ったロッカーを開け、適当に放り込んでいた荷物を整理する。東堂が覗き込んできたらまた横からいらないことを言い出しそうだったが、東堂は普段から整理してある個人ロッカーには用がなかったらしい。
 制汗剤を戻すと、さっさと更衣室を出ていった東堂は、部室の備品整理に行ったのだろう。ひとまず持って帰って洗った方がよさそうな衣類を引っ張り出し、夏休み前からうっかり置きっぱなしにしていた教科書を引き上げ、なぜか押し込んであったゴミを捨ててから、部室に向かう。
 東堂は部室のメカニック達が作業するスペースで、後輩達を追い散らして段ボールやプラスチックのケースを広げていた。
「ナニしてンの?」
「備品整理。インハイ前はさすがにチェックしている余裕がなかったからな。引き継ぎ前に全部整理してリストアップしておかんとならんのだが、私物なんだか部の備品なんだか入り混じりすぎて手が付けられん」
 既に辟易とした声に、先程の荒北のロッカーの中身より混沌としている用具入れを覗き込んで、放置してそのまま引き継いでしまえ、と言いかけて荒北は口を噤んだ。
 部全体で機材と備品の管理を長年いい加減に続けたために、発生したトラブルに巻き込まれ、非常に面倒なことになったのは去年の春のことだ。
 当時を知る部員達は東堂のせいで酷い目にあったと思っていることだろうが、実際のところ、東堂のおかげで部が今の形で存続している。
 普段声高らかに自画自賛して騒ぐくせに、肝心なことは何一つ言わないこの男に、散々振り回されてきた。ついつい東堂の言動や表情に注意する癖がついていて、黒田辺りが事あるごとに当てこするようになったが、こんなものを野放しにしておくと、ろくなことにならないのだ。
 今日の言動は、いつも通りの傍若無人だが。
 それ自体が、おかしい。
「荒北、突っ立ってないで手伝え!」
「だから人を指さすなっつーの」
 びしりと向けてきた指を逸らして、荒北は深々と嘆息しながら東堂の手から備品リストを受け取った。

 午前中いっぱいかかって、備品をあるべき場所に戻し、明らかなゴミを捨て、私物らしきパーツや部に関係ないものはひとまとめにして、東堂の堂々とした筆致で、月末までに片付けなければ廃棄と張り紙を貼って、ようやく副将は満足した。
「昼どーするゥ?」
 寮では昼食は出ない。夏休みのこの時期、学食も閉まっているので、自炊をするか、外で食べるか、買ってくるかである。
「冷やし中華」
 端的に食べたいメニューを告げることで、校門を出て坂を下ったところにある箱学生ご用達の近所の中華料理屋がいいと主張され、特に他に要望もないので、荒北もそこでいいとうなずいた。
「チャリどうするゥ?」
「階段から行くぞ」
 自転車に乗っていってもいいのだが、気軽に外に止めて置くには防犯上不安なのがロードバイクである。学園の裏側から階段を使えば近いので、歩いていっても時間も労力も大差ない。
 鬱蒼と重なり合う樹木の葉が作り出す影は有り難かったが、もはや暴力的なまでの蝉の声が暑苦しい。伸びすぎて頭や肩に触れる枝に加えて、大音量の鳴き声に圧迫感を覚える裏道を通っていって、夏休み中のため鍵のかかっていた裏門の鉄柵を乗り越える。
 年期の入った中華料理店の引き戸を開けると、振り返った店員のおばちゃんの表情が華やいだ。
「あらー東堂君、いらっしゃーい!」
「こんにちは」
 愛想良く応じる東堂の横で、毎度よくやると呆れる。
 学園内にファンクラブを持つ東堂は、その旺盛なサービス精神によって近隣の主婦層にも人気である。地元のアイドルの特典は、ちょっと大盛りにしてもらったり裏メニューを出してもらえる程度のものだが、当人は満足しているようだし、愛想を振りまくのはもはや習性らしい。
「この前の大会応援してたのよー! 一位取ってたでしょ!」
 あれは山岳リザルトで、とにこやかに説明しているのを横目に、さっさと空いているテーブルにつく。
 ご当地アイドルはしばらく愛嬌を振りまいた後、何やら細長い小さな包みをもらって、ようやくテーブルに着いた。
「今度は何もらったの?」
「町内会のイベントで配った花火の余り」
 いかにも、町内会が考える子供向けの絵柄といった風情の包み紙は小さく薄く、花火といっても派手なものではないだろう。線香花火が十本ほどまとめて入っている予想で間違っていないはずだ。
「帰りにやってくか」
「真昼間だっつーの」
「夜にやったら侘しいだろ、どう考えても」
「あー」
 派手な花火を部員総出で騒ぎながらやるならともかく、数本の線香花火では確かに絵面が物悲しい。
「昼間にやって見えるかァ?」
「何事も実験だ!」
「ヘイヘイ」
 言い出したら聞かないモードに入ったのを察して、逆らわずに受け流す。
 三年間の付き合いで、東堂が急に妙な我儘を振り回しだすのには慣れている。黒田などは無駄に逆らって痛い目を見ることが多い。後から、好きなようにやらせた方が被害が少ないと助言したところ、何故かキレられた。
「黒田って、あんなにキレやすくて、副将やれんのかね?」
 同じクライマーで副将を勤め上げた東堂が、後輩の感情の乱高下っぷりをどう判断しているのか聞いてみたところ、なんとも言い難い一瞥を食らった。
「お前のその無自覚っぷりには、オレも散々振り回されたな……」
「オレの台詞だよ、それは……!」
 東堂の一見ただの馬鹿としか思えない目立ちたがりの言動と、意外に冷静で頭の回転が早く、どこか排他的なところのある性格に、どこに本音があるのか分からず、翻弄されてきた。さすがに近頃は、本音を探ろうと考えること自体が無駄だと諦めの領域に入った。
 東堂が何かしたいと言い出したら、被害影響を試算して、止めるか好きにやらせるか付き合うかをその場で決断するのが、最近の荒北の方針である。
 今回は付き合ってやるのが、たぶん一番被害が少ない。
 店でマッチをもらって、また鬱蒼とした裏門の階段を通って、ぎらぎらと夏の陽光が照りつける学校の敷地内に戻る。
 校内で火遊びが教師に見つかると面倒なので、校舎から離れて体育館の裏手に回る。
 ちょうど水道があったので、ここでよいと東堂が宣言したが、全く日陰の存在しない空間にさすがに閉口する。
「あっちィよ……」
 強烈すぎる陽射しに、視界の半分が白とびしているというのに、そこで線香花火をしようなどという酔狂な山神に愚痴るが、汗に濡れた髪の先から雫が滴らせながら、東堂は花火を取り出した。
「一人五本ずつな」
 完全に頭数と数えられているので、諦めて受け取る。
 マッチを擦ると、どこか懐かしいような特有の臭いが鼻を突き、真っ白な陽光に対抗するようにオレンジ色の炎が軸の先に点った。
 花火の先を火に寄せると、一拍置いてぱちぱちと音を立てて小さな手持ち花火から火花が散り出した。
「お、見えるな」
「見えりゃいいってもんじゃねェ」
 思っていたよりは、真昼でも火花が散る様子が見えるが、やはり花火は夜やるものだ。
 突き刺さるような夏の日に、じりじりと指を炙られながら火花を散らしきってぼとりと落ちる様を眺めるようなものではない。
「……楽しいか、コレ?」
「割と」
「あっそ」
 風はあるが、ただの熱風だ。息苦しいくらいの暑熱に、脳がふつふつと煮えたぎる音が聞こえるようだ。
 何で、こんな酔狂に付き合っているのだろうと真剣に悩みながら、日陰や屋内に移動しようともしない辺りが、我ながら手遅れだ。
 グローブの形に日焼けした指で挟んだ線香花火がぱちぱちと火花を爆ぜさせ、白い光が瞬きしても残像として残った。火薬の燃える匂いが、熱に熔けかけた頭を僅かに刺激する。
「……東堂、なんか、言いたいことねェの?」
 暑さにぼうっとして、口にするつもりのなかった言葉をつい洩らした。
 しゃがみこんで、火花を眺めていた東堂が荒北を振り仰いで、笑った。
「何を?」
 東堂は、荒北と違って、暑さくらいでうっかり言葉を洩らすことはないらしい。
「…………別に」
 舌打ちして、目を灼く火花から目を逸らす。
 インターハイで、敗北した。
 高校最後の夏だった。それだけのことだ。
 みんな泣いて、悔しがって、それから一応立ち上がって、夏季講習だとかそういった現実に向かい始めた。荒北が少々出遅れたのは、これまで部活のこと以外何も考えずにいたからで、切り替えがまだうまくいっていない。
 だから、いつもなら無駄に切り替えの早い東堂が、地元の箱根に実家があるというのにいつまでも寮に燻っているのが、らしくない。
 何か言いたいことがあるんじゃないのかと、こちらから口に出してやるつもりはなかった。
 進路の話だとか、無意味に部室に乗り込んでみたのに姿のない一年生のクライマーのことだとか、名前を一言も口にしなくなったライバルと何かあったのかだとか、結局荒北のことをどう思っているのかなど、聞いてやるつもりはさらさら無い。
 じりじりとオレンジ色の丸い塊を大きくしていた最後の花火が、手にしていた荒北が額の汗を拳で乱暴に拭った拍子にぽとりと落ちた。
「あっ」
 惜しむように、とっさに両手を丸めて受け止めるような仕草を仕掛けた東堂に、蛍じゃない、とそのカチューシャ頭を張り飛ばす。
 その衝撃にぐらりと傾いだ東堂が、灼けたコンクリートに膝をついて熱いと悲鳴を上げた。
「立てっつーの」
 熱い、痛いとしゃがみ込んで泣き言を言う東堂の腕を掴んで引きずり上げ、顔を上げた東堂と正面から目が合って。
 キスをした。
 暑さに頭が沸いていたのだろう、とその場で結論づけて、身を離すと、東堂が一瞬何か言いかけた気がした。
 肌の灼ける音まで聞こえそうだというのに、蝉時雨の中、結局東堂は何も零さなかった。
「戻ろう、暑い」
「早くその結論に至れよ」
 黙々と花火の残り滓を始末すると、寮に向かって歩き出す。話題は帰省している仲間の帰寮予定日についてで、荒北は内心舌打ちした。
「……言えよ」