ビー玉みたいな目をした人が、ビー玉を太陽に翳して見つめていた。
瓶から取り出したガラス玉はまだ濡れていて、眩しそうに目を細めて笑うと、背中のポケットに宝物みたいにそっと落とし込んだ。
好きなんですか、と聞いたら、いつもの長広舌ではなく、深い笑みだけが返ってきた。
学園内の購買でレトロな瓶詰めのラムネを見つけて、その笑顔を思い出した。たった数ヶ月前の出来事だというのに、妙に記憶が遠い気がするのは、真波がその間に大きく変質したのと、その人がもう部を引退してしまったからだ。
これから向かう自転車競技部の部室に、一風変わった物言いの彼のよく通る声が響くことはもうないのだ。
そんなことを考えて、なんとなく普段は飲まない甘い炭酸飲料を買って、クラブ棟に向かった。ガラス瓶を握ったまま、間延びした声で名前を名乗って部室のドアを開けると、引退したはずの三年の先輩の姿があった。
「東堂さん、何でいるんですかー?」
先輩は真波の疑問に直接答えず、年季の入った事務机を挟んで向かい合っていた黒田に目を向けた。
「…………黒田」
「ハイ、指導します」
深々と嘆息してうなずいた黒田が、据わった目を向けてくる。
「真波、お前、仮にも先輩に向かって……」
「……黒田、仮にも、とは?」
何やら説教をしかけた黒田に、東堂がどこかひやりとした声音で口を挟んだ。
「あっ、あの……っ、他意はなく、単純に、もう引退されている的な意味で……!」
「黒田さんって、結構迂闊な発言しますよね」
慌てて東堂に向き直って言い訳する姿に思ったままを告げると、黒田が愕然とした顔をした。
「……まあ、これからの部を作っていくのはお前達だからな。指導の方向は、自分達で決めろ」
「っす……」
クライマーの先輩二人が、何やら沈痛な面持ちでうなずき合うのを首を傾げて見やり、真波は再度問いかけた。
「それで、東堂さんは何でいるんですか?」
「いてはいかんような口振りだな?」
「別に、いてもいいですけど」
真波の台詞に黒田が頭を抱えて突っ伏したが、彼のリアクションはいつも不可解なので真波は気にせず、東堂を見つめた。
「他の先輩は全然来ないのに」
「福富と新開は推薦入試が近いからな、小論文と面接の対策で忙しい。荒北は一般だから完全に受験生にシフトして猛勉強中だ。他の連中も似たり寄ったりだろう」
部引退の区切りである追い出し走行会は先日終わったばかりだが、夏休みが終わってから三年はあまり顔を出さなくなった。泉田が新しく主将に選ばれ、二年が部を牽引するようになってからは、その傾向は更に強まった。
東堂は比較的顔を出していた方だったが、あまり自転車には乗らず、顧問や泉田と話していることの方が多かった。下級生にはあの高いテンションでよく絡んでいたようだったが、その頃、真波は自主練と称して一人で走り詰めていて、むしろ東堂を避けていた。
インターハイでの敗退の後、東堂の顔がまともに見れなくなって、がむしゃらにペダルを漕いでいた。焦ってこんがらがって、どうしようもなくなっていた真波を解きほぐしてくれたのは東堂で、それは引退の走行会だったものだから、ようやく顔が見られるようになったと思ったら、もう彼はいなかった。
今日も部室に行っても東堂はいないのだと思ったから、普段飲みもしないラムネなどを買ってきたというのに、何で当たり前の顔でいるのか分からない。
「副将の仕事の引継だ。試験が終わったら文化祭だからな。人手が足りなければ、三年も手伝わねばならんし」
そういえば東堂も黒田も、副将の役職に就いていた。
「へー、頑張ってください」
「他人事か!」
「一年が主に働くんだよ! 絶対サボんなよ、この不思議坊主!」
二人に揃って叱りつけられて、真波は閉口した。
東堂の説教癖は、黒田にしっかりと引き継がれている気がする。隣の家の幼馴染みも、真波の顔を見ると何かしら口うるさいことを言う癖がついているので、いつものことではあるのだが。
「お前、マジで次のテスト赤点取るんじゃねーぞ!」
「えー? 何の関係があるんですかー?」
部活のことはまだしも、何故テストの点数にまで口を出されなければならないのかと口を尖らせると、東堂に頭を鷲掴まれた。奔放にはねた真波の髪をぐしゃぐしゃにしながらも、東堂は真波に目を向けず、黒田に問いかけた。
「部員が一人でも赤点を取ると、文化祭の出展禁止になると説明しなかったのか?」
「ここのとこ毎日、挨拶時に言ってますよ! 真波には直接、面と向かって、オレと塔一郎二人がかりで口酸っぱくして! 果汁百パーセントのレモン飲料かってくらいに!」
「えー?」
「全く聞いていなかったようだな」
「あああああ、調子が戻ったのはいいけど、そこまで戻らなくていいんだよ……」
上級生の言うことを聞きやしない、と呻きながら黒田が頭を抱える。
「いいか、真波。一学期の期末のような赤点は、絶対に許さん。前回みたいな温情を受けられると思うなよ。連帯責任で部にも迷惑かかると知れ。明日からのテスト期間、部活がないのをいいことに、好き勝手に坂上って走れるとか思っていないだろうな……!?」
「え、明日から部活ないんですか?」
「…………黒田」
「言ってます……!」
沈痛な表情で言い交わしたクライマー二人は、同時に嘆息する。
「これ……、進級できると思うか?」
「一年でインハイ二位入賞した選手が留年……、新入生がどう思いますかね……」
「絶対に回避させろ」
苦々しい顔で厳命した東堂は、掴んだままだった真波の頭を引いて隣のパイプ椅子に強引に座らせた。
「真波、ちゃんとテスト勉強をしているか?」
「えーと」
「テスト範囲くらいは把握しているんだろうな?」
そういえば、最近授業で言われた範囲は気が向いたらルーズリーフに書き留めていたはずだったが、その用紙はどこにいっただろう、と首を捻る。
「昨日、宮原さんからメールもらってある。後で転送しておくから、ちゃんと確認しろ」
「……東堂さん、委員長と連絡取り合うのやめてくださいよ」
いつの間にか幼馴染みだけでなく、真波の母親とまでメールを交わしていた東堂のおかげで、家と学校、部での行動が逐一情報共有されているのが面倒だ。
「イインチョ?」
「たまに真波に差し入れを持ってくる子がいるだろう。メガネでお下げの」
「ああ、幼馴染みって言う」
思い当たってうなずいた黒田に、東堂がとんでもないことを言い出した。
「今度彼女を紹介する。連絡手段を交換しておけ」
「東堂さん!?」
思わず声を高めると、うるさそうな顔をされる。
「何で勝手に、東堂さんが黒田さんに紹介なんかするんですか!」
「いつまでもオレが、お前の面倒見ているわけにはいかないからに決まってるだろう。オレは部を引退したんだから、彼女も部の実状が分かる相手と連絡を取れた方がいい。黒田、宮原さんに接する時は気を遣えよ。彼女は男子が苦手なタイプの女の子だ」
平然とした口調で、そんな助言までする東堂に苛立つ。
「分かってるなら……!」
「お前が彼女の手を離れればいい話だな?」
ぴしゃりと言われて、言葉に詰まる。
「お前が授業に出ているか、補習になっていないか、きちんと部に参加しているか、勝手にどこかに行って連絡付かなくなっていないか、そういう連携を彼女と取らないとならない、お前の日頃の行いが問題なんだ。お前が誰の心配も迷惑もかけずに自分自身の面倒を見られるようになれば、オレ達が彼女と連絡を取る必要もなくなるな?」
「……でも」
続く反論のない接続詞を、拗ねた子供のような声音で発した真波に、とどめを刺すように東堂はにっこりと笑った。
「それから真波、付き合っていてもどうかと思うが、恋人でもない女の子が他の男と知り合うからといって、口を出す権利はお前にはないぞ?」
「…………着替えてきます」
どうにも分が悪いと理解して、真波はこの場から撤退を宣言した。立ち上がって、握ったままだったガラス瓶を東堂の前に置くと、不思議そうな顔をする。
「あげます」
部活の始まる前から疲労感の滲む声で告げて、更衣室に向かおうとすると、首根っこを掴まれて引き留められた。
「どうしてだ? 自分で飲むために買ってきたんだろう?」
「別に。東堂さんがいないと思ったから買ってきたけど、いたからあげます」
「…………黒田、通訳」
「無茶言わんでください!」
「しかし、これからお前が真波語に精通しないとならんのだぞ?」
「そういう無茶ぶりをされても困るんすけど……! 何すか、真波語って! 検定でもあるんすか! 何級取ればいいんすか!」
東堂の意識が黒田に向いた隙に、シャツの襟首を掴んでいた指を振り解いて真波は、そそくさとその場を逃げ出した。
「うむ、分からん」
更衣室に消えた後輩の背中を見送って、一言そうぼやいた東堂に、黒田が諦め顔で嘆息する。
「東堂さんが分からないものが、オレらに分かるはずないじゃないすか」
「甘いな、オレは真波の考えてることなど、さっぱり分からんぞ」
「マジですか……」
春に真波が入部して、その自由奔放さで様々な問題を引き起こすのを、主に面倒を見ていたのは副将で同じクライマーである東堂だった。
坂にしか興味のなかった真波が、山神の称号を持つ東堂に惹かれて懐いたのは、見ていれば分かった。
インターハイを通して大きく変質した真波が、本来の持ち味を損なうほど自身を追い詰めていたのを引っ張り戻してきたのも東堂で、追い出し走行会以降、明らかに真波は落ち着いた。
かなり特殊な性格の真波の尊敬を一身に受けている東堂自身も、非常に特異な性格をしているので、変わり者のクライマー同士、通じるところがあるのだと思っていたのだが、あっさりと後輩のことが分からないなどと言う東堂に唖然とする。
「オレは、あれの後始末はできるが、どうしてそんなことをしようと思うのか、全く理解できないが?」
「ああ……」
確かに、東堂は規則を破るようなことはしない。真波のように、どうしてそんな決まり事があるのか理解できないようなこともない。
ただ、規則や慣例が何かの障害になる際に、開いた口がふさがらないようなやり方で、道理を引っ込めさせて突破するだけのことである。
一言で変人と括っても、種類が違うらしい。
未開封のラムネの瓶を矯めつ眇めつしている東堂は、本当にその意図が理解できないのだろう。
おそらく、あのふわふわとした真波の発言を翻訳するなら、東堂の引退が寂しくて、彼を思い起こさせるラムネをつい買い求めた。
それで部室に来てみれば、いるはずのない東堂がいたので、自分が飲むよりも東堂に渡すことが適切だと思った。といったところだろう。
同学年に言語中枢が筋肉にときどき侵される主将と、花畑に住んでいるようなふわふわ言語を喋るエースがいるので鍛えられている黒田だが、これをそのまま伝えると面倒なことになるとも予測できた。
「山神へのお供え物じゃないっすか?」
適当なことを言ってお茶を濁し、話題を変えることにする。
「ところで、幼馴染みちゃんのこと、真波の奴が見たことない反応してましたけど」
「ああ、あれな。時々スイッチ入るから気をつけろ。下手に刺激すると噛みついてくる」
「って、つまり真波も幼馴染みちゃんのこと……」
「いや、微妙だ」
時折部の練習を見学にきては、真波に説教と差し入れをして帰る一年生の女子の好意はあからさまで、微笑ましく見守る層と、どこのギャルゲ設定だと呪う半々に部員の反応は分かれていたが、当の真波の反応はあまりにも鈍かった。
これは脈があるということかと考えた黒田に、きっぱりと東堂が首を振る。
「あれはほとんど、幼稚園児レベルの執着で、大事にはしてるが色恋には至ってない。そっと見守れ」
「それ、副将の仕事っすかね……?」
「オレは結構面倒見たぞ」
女のことは自分に聞けと、常日頃から豪語する東堂である。
実際、ファンクラブまで存在する謎の人気ぶりを知っている部員が、たまに追い詰められて判断力が狂ったのか、真剣に恋愛相談していたのは知っているが。
「東堂さんに相談してもなあ……」
「黒田、お前は本当に迂闊だなあ?」
「スイマセンスイマセンスイマセン!」
机越しにアイアンクローを仕掛けられ、平謝りしていると、集団でやってきた部員達に何をしているのだと笑われる。副将を虐待しているのが前副将であることに気づいて、背筋を伸ばして挨拶した二年達に、東堂がちらりと時計に目をやった。
「そろそろ皆揃う頃だな。文化祭で使う品物の発注量を泉田と決めたら、いつもの業者に見積もりだけは試験前に出しておけ。他に分からないことがあれば、寮ででも声をかけてくれ」
「あ、はい。ありがとうございました!」
練習が始まる前にと立ち上がった東堂に、慌てて頭を下げ、広げていた文化祭用の資料を片付けるが、そのまま立ち去る様子だった東堂が動かないことを不審に思って顔を上げると、まだ困惑気味に押しつけられたラムネの瓶を見つめている。
「あれ、飲まないんですか?」
着替えて出てきた真波が、開封されていない瓶に首を捻った。
「一年に奢られる筋合いがないんだが」
「東堂さん、ラムネ好きでしょ?」
「いや?」
きっぱりと否定されて、きょとんとした真波の顔に、黒田はひやりとしながら東堂に目を向けたが、特に恐れていたような表情はそこにはなかった。思いがけないものを好物と思い込まれていた、という当たり前の不思議そうな顔で、それがむしろ怖い。
「だって東堂さん、ビー玉集めてますよね?」
「いや、別に?」
首を傾げた真波に、それ以上藪をつつくな、と東堂の背中越しに必死で目で訴えるが、空気を読まない後輩は黒田の表情に不思議そうな顔をしただけで、むしろ勘のいい東堂に気づかれた。
「どうした、黒田?」
「いえっ、何でもないです!」
振り返ってくる顔はどこまでも自然で、含意があるのかが分からないことに余計に焦る。
美形主張の過剰な困った先輩だが、実際に整った顔の作りは真顔になると途端に凄みを帯びる。慌てて首を横に振った黒田から関心を逸らし、真波に押しつけられた瓶を受け取らせた東堂は、何とも言えない顔をした真波の頭に手を置いた。
「自分で飲んで、練習に励め。テスト勉強もがんばれ。赤点回避したらこの山神が何か奢ってやろう」
「東堂さん、真波ばっかズルいっすよ!」
「オレらは、オレらは!?」
「赤点回避は必須だ、この馬鹿者ども! 真波は特別にどうしようもないから、特別扱いしとるんだ! 真波は少しは恥じろ!」
奢りと聞いて群がってきた一年を蹴散らした東堂に、びしりと指差された真波は肩をすくめた。
「えー、じゃあ、テストがんばったらジュースはいいから、ご褒美ください」
「……お前のその臆面のない胆力は、非常に得難いものだと思うが、もう少し慎重に使いどころを見極めろ」
いけしゃあしゃあと要望をねじ込んだ真波に東堂が嘆息するが、黒田が知る限り、この辺りの図太さは二人とも似たようなものである。
「どこの坂だ?」
それともレースかと、後輩に甘い東堂が早々に諦めて要望を聞く姿勢になったが、真波は首を振った。
「オレ、寮見てみたいです」
「寮?」
坂馬鹿の真波が思いもよらないことを言い出したことに、東堂が不思議そうな顔をするが、他の部員達も真波の尻馬に乗った。
「あ、オレも一回行ってみたかったです!」
「オレも気になります!」
「は? オレ寮生だけど、別に何もねーぞ?」
全国でも随一の強豪である自転車競技部のために、かなり遠方から入学してくる生徒もいるので、部内には寮生が多いが、もちろん普通に家から通学している部員の方が多い。
そこで生活している寮生にとっては、ただの日常の場でしかないのだが、一般生徒には興味深いものらしく、黒田もクラスの友人から見てみたいとねだられたことがある。
そういえば、夏の大会に選抜されたメンバーの中で、真波だけが自宅からの通学者だ。
どこか浮世離れして他人に関心がなさそうな真波だが、少しはそういったことを気にするのか、と見やるが、真波のふわふわとした笑顔も東堂の無表情と大差なく、何を考えているのか判じがたい。
「わざわざ見学するようなものでもないと思うが……。なるほど、いわゆるスターの邸宅拝見的な意味合いで、この山神東堂の生活ぶりに興味があるという……!」
「あ、もうそーいうことでいいです」
二学年も上の上級生に対するものとは思えない態度で、ばっさりとその発言を断ち切った真波に部室の空気が一瞬凍る。
張り詰めた空気の中で、にこりと東堂が微笑んだ。
「よし、テストが終わったら希望者に寮見学を許可しよう。ただし、一人でも赤点を取ったら連帯責任で一年全員、一日オレに服従だ。思う存分こき使うとしよう」
きっぱりと宣言した東堂に、部室内に悲鳴が満ちる。横暴かつ理不尽なところのある東堂の命令を今から被害妄想して嘆く声と、真波に対する怨嗟が入り乱れて姦しいことこの上ない。
「おら、一年! くっちゃべってないで準備! 掃除! 今日の部活終了後からテスト勉強! 一人でも赤点取ったら、東堂さんのとは別に、オレからもペナルティ!」
騒いでないで散れ、と黒田が一喝すれば、慌てて一礼した一年達が我先にと部室を飛び出していく。
それを見送った東堂も、自分の鞄を持ち上げた。
「がんばれよ、副将」
「っす……」
肩を軽く叩いて激励して出ていった東堂が、余計な気苦労を増やしてくれている気がするのだが。
「真波、お前はちょっと待て」
他の一年達に続いて出て行こうとしていた真波を呼び止めると、不思議そうに振り返ってくる。
「飲みます?」
「いらねーなら買ってくんな」
差し出してきた瓶を押し退けると、仕方ないとばかりに嘆息した真波が、蓋になっているビー玉を指で落とし込み、口をつけた。
「っていうか、それ、絶対にもうやるなよ?」
これを釘刺すために呼び止めたのだが、自由奔放な一年生は言外に含めた意味を全く察しなかった。
「それってなんですか?」
「東堂さんに、ラムネを渡すな。好きかどうかも絶対聞くな」
どれだけひやひやしたと思っているのだ、と睨むと、人の心の機微に疎い真波が首を傾げる。
「前に東堂さんがラムネ飲んでて、好きなんですかって聞いたら、好きって顔してたんですけど」
「あー、それはなー……」
どう説明して納得させたものか、と悩みながら、文化祭用の資料を揃える。
「あれは、荒北さんにもらったから好きなのかー」
思わず手元が狂って、整えていた資料を机の上に雪崩れさせる。
「お前……っ!?」
まさかこの、のほほんとした顔で気づいていたのか、と愕然とした顔を向けると、なんですか、とへにゃりと笑う。
「なんですかって、真波、お前、知って……?」
東堂が荒北に対して特別な感情を抱いているらしい、ということに気づいているのは、自分と既に引退した三年の新開くらいだと思っていたので、この人の気持ちに興味のなさそうな真波が気がついていたことに、心の底から驚いた。
東堂と荒北と言えば、引退するまでは毎日寄ると触ると、たちまち喧嘩を始めて下級生達を怯えさせていた。二人とも互いに手を出るようなことはほとんどなかったが、その分口論は凄まじかった。
東堂はとにかく口が減らないし、荒北は口が悪い。よくも毎度、揉めるネタがあるものだと呆れるほど喧嘩し続けていたのだから、徹頭徹尾気が合わないのだろう、と思うのは最初のうちで、見ていれば案外と互いを信頼しているのは見えてくるし、ある意味仲がいいのだろうと分かってくる。
要するに喧嘩をするほど仲が良い典型のような二人で、しかも互いにそれを認めることはないという傍迷惑な先輩達だった。
本気で嫌い合っているわけではないが、ことある事に衝突して大騒ぎするので、少し距離を置いてはもらえないだろうかという周囲の願いも虚しく、間に前主将である福富と、エーススプリンターの新開を挟む程度の距離感で常にやりあっている。
その二人の間に、特別な感情があると黒田が気づいたのは、同じクライマーとして目標である東堂と、限界ぎりぎりで突っ込んでいく荒北の走りを尊敬して、技術を吸収しようと熱心に二人を見つめていたからで、二人もそんな黒田をそれぞれのやり方で可愛がってくれたからだった。同じ学年の他の部員の誰よりも、近くにいたから気がついた。
「あー、そうか、真波もあの人達に可愛がられてたもんな」
入部当初の真波は体育会系の部活動というものに全く馴染まず、学校そのものにも不適合を起こしていたようで、東堂が目付役を買って出ていた。
しかし、その東堂自身もあまり一般的な性格をしていないので、無軌道な二人を心配したらしい荒北もよく行動を共にしていた。
「……可愛がる?」
「あれで可愛がってんだよ、あの人達は。ってゆーか、お前は他の部員から刺されてもおかしくないレベルで東堂さんに構われてっからな! もうちょっと自覚しねーと最終回に刺されんぞ!」
異論がありそうな真波を一喝するが、飲みにくそうにガラス玉が瓶の中で転がる炭酸を飲んでいる一年生は恐れ入った様子はない。
「よく分かんないですけど、東堂さんはオレのこと好きですよ?」
「……おい」
真顔でものすごいことを言う後輩に、頭が痛い。
「でも、それって荒北さんのとは違うんだよなーって。っていうか、オレ、東堂さんが荒北さんのことどう思ってんのか、全然分かりません」
「あー」
黒田もなんとなく察しただけで、はっきりと聞いたわけではない。東堂は完全にその感情を秘すると決めているようで、隠しているからこそ、それが友情で収まらないものなのだと理解した。
「お前、ほんとによく気づいたな」
人の気持ちを慮らないことには定評のある真波が、どうしてそんなものに気づけたのかが謎だ。
「一学期に、東堂さんがオレを捕まえにきた時に、いきなり東堂さんに告白してきた人がいて、答え聞くまでは動きませんって」
「……お前がいるのに?」
こくん、とうなずいた真波に、また面倒な女子に絡まれたものだと同情する。東堂のファンは基本的に聞き分けが良く、一定の距離より近づかずに学園アイドルとして東堂を愛でたり崇めたりしている者が多いのだが、たまに一線を越えてくる者もいるらしい。
「東堂さん、その場で今は自転車に専念したいから、って断ったんですけど、その人、それじゃ納得しなくて。好きな人がいるって噂は本当ですかって。いるなら教えてくれなきゃ駄目だって」
「うわ、面倒くさ」
珍しく面倒な相手に絡まれたらしい。
「で、東堂さん、君には関係ないだろうって」
「あの人、割とそこら辺キツいとこあるからな……」
ファンサービスには相当に気を遣っている東堂が、そこまでの対応をせざるをえない行動にでた女子の方に問題があるだろうが。
しかし、その経緯では別に東堂の好きな相手が特定できたとは思えないのだが。
「オレもなんとなく気になったから、東堂さんに好きな人いるんですか、って聞いたら、お前に関係ないだろうって言われて」
「その流れで聞けるお前がスゲーよ」
褒めたつもりは一切なかったが、少し照れたように笑って真波が続けた。
「じゃあ、いるんだなって思って見てたら、荒北さんからラムネもらって好きそうな顔してたから、ああ、好きなんだなーって」
ふわふわとした説明だが、どうやら、そのふわっとした感覚で的確に真実を捉えたものらしい。
「それで、なんか東堂さんに好きな人がいるって噂になって、ちょっとしてから、荒北さんが東堂さんに、好きな奴いるって本当かって聞きに来て」
「おおっ!?」
終わるのかと思った話題が、また予想外の方に続いて思わず声を上げる。
東堂のそれは巧妙に隠されているからこそ、ほんの僅かな綻びから覗く感情が特別なのだと分かるが、対する荒北の気持ちは不明瞭だ。彼が最優先して絶対服従していたのは前主将の福富に対してで、単純に友人として仲が良いのは新開だろう。東堂に対する態度は基本的に喧嘩腰だが、至近だ。やや度を超した感のある近しい距離が、何に起因するのか、今ひとつはかりかねていたのだが。
もしかして両方に脈があるのか、と思わず身を乗り出した黒田に、真波が珍しく難しい顔をして続けた。
「荒北には関係ないって」
「…………それ、東堂さんが荒北さんに言ったのか?」
照れたり、焦ったりしながら、思ってもいないことを言ったのなら、大変ありがちな恋愛漫画の一コマのような場面だが。
「どういう風に?」
「オレとか、告白してきた子に言ったみたいに」
つまり、無遠慮な質問をはねつけるように、ひややかな口調と表情で、きっぱりと拒絶したということである。好きな相手当人に対して。
「スゲえ……! さすが東堂さん、マジでそう思ってそうで、そこに痺れるけど全然憧れねえ……!」
己の恋情は自分一人のものである、という考えは、徹底すると恋愛対象すら無関係と割り切れるものなのだろうか。
「だからオレ、よく分かんないなーって」
「……安心しろ、それは、たぶん他の誰にも理解できねーから」
先程、東堂は真波の情緒の幼さを指摘したが、たとえ成熟しても非常に特異な東堂の心理を理解できるようにはならないだろう。黒田にもさっぱり分からない。
「まあ、なんつーか、ややこしいことになるから、その辺のことは今後一切つつくな、いいな?」
他人が横から手を出すとろくな結果にならない、と言い聞かせると、分かっているのかいないのか、真波は脳天気な顔で空にしたガラス瓶を振る。瓶の中で、からからとビー玉が鳴った。
「ラムネは駄目なんですか?」
「駄目だ」
どうして、と大きな目が問うて、黒田は深々と嘆息した。
「荒北さんは東堂さんがラムネが好きだと思ってるから、機嫌取る時とか喜ばせたい時に買ってくんの。東堂さんは別にラムネが好きなわけじゃねーけど、荒北さんがくれんのは嬉しいの。それですっげー嬉しそうな顔するから、荒北さんはずっと誤解してんだよ。いいから、そっとしとけ」
非常にデリケートな問題なのだと伝えるが、やはり通じているのか分からない真波は、ころころと瓶の中のガラス玉を回していた。
「ラムネって、量少ないし、瓶の形が変で飲みにくいし……」
からん、と瓶を鳴らして真波は独りごちた。
「オレも、好きじゃないや」
中間試験の最終日に、台風が来た。
上陸こそしなかったものの、沖合を抜けていった台風は暴風雨をもたらし、交通機関に大いに影響を及ぼした。そんな中、いつも通り自転車で通学したところ、教師と幼馴染みと先輩に大目玉を食らった。
たっぷりと説教された上に、しっかり試験も受けさせられ、更にもう台風は過ぎ去って青空が広がっているというのに、警報が解除されていないという理由で、部活動は休みになった。
では好き勝手に走ろうと決めて、珍しく山ではなく低い方へと向かった。
まだ強い風が、泥が混じって茶色とも灰色ともつかない色になった海水を巻き上げて、台風一過の強い日差しに随所に小さな丸い虹を生み出していた。台風の直後に海岸に行ったと知れたら、また幼馴染みが怒るだろう、と考えながら、砂より砂利の多い浜を自転車のサドルを押して歩く。
何か珍しいものでも打ち上げられていないかと思ったのだが、めぼしいものはもう拾われてしまったのか、ごみや海草くらいしか転がっていない。
砕けた貝殻をビンディングシューズでつついて、海草を退けながらゆっくり歩いて、ふと足を止めた。
しゃがみ込んで、半分砂に埋もれていたガラスの破片を拾い上げる。
波に洗われて磨りガラス状になった薄黄色のガラス片は、三日月のような形をしていた。
波打ち際で砂を落とせば、濡れている間は透明度を取り戻すシーグラスは、きらきらと午後の日差しに輝いた。
幼馴染みにお土産にしようか、と一瞬考えるが、そうすると海岸に行ったことが知られて怒られる。
ほとぼりがさめるまで待とう、と考えて、真波はそっとガラスの欠片を制服のポケットに落とし込んだ。
いつも、向こうの方から寮生達が朝やってきて、夜帰っていく、とだけ認識していた道を初めて辿っていけば、箱根学園の敷地の奥に男子寮がある。三階建ての四角い建物は特別綺麗でもないが、ぼろぼろというわけでもなく、校舎とアパートの合いの子のような雰囲気だった。
「こんにちはー」
約束の時間の朝九時に、ぞろぞろと連れだって玄関をくぐると、東堂が仁王立ちで待っていた。
「来たな! まず受付で入寮記録に記名しろ!」
先日の試験でどうにか全員赤点を免れたため、約束通り希望者参加の男子寮ツアーが開催されることとなった。
やはり興味がある者が多かったのか、それなりの大所帯で押しかけることになった。今日、土曜日の部活は午後からのため、午前中を使っての寮見学である。
「まず、一階だな! 談話室。テレビとソファがある。チャンネル権は年功序列、話し合いが推奨されるが、最終的に武力解決になるのは世の常だ。自室にテレビがある者もいるが、音量問題はトラブルの元だな。洗濯室。皆、土日にまとめて回そうとするからいつも混む。よく他人の洗濯物が混ざってトラブルになる。寮生の下着に名前が入っていることがあるが、必要処置なので四の五の言わないように。給湯室。一応簡単な調理もできるが、大体の奴がやらない。ポットの湯は使ったら足すように言われているが、これもまず守られない。荒北がよくキレている。冷蔵庫は無記名の食材は自由に使って良し。記名したものが食われた場合は血を見ることになる」
日々の生活にはトラブルしかないのかと思わせる説明を捲し立てながら、東堂が進んでいくのを一年達がぞろぞろとついて歩く。
「風呂は温泉引いてるので、実はいつでも入れるが、自由にしておくとろくなことにならんので夜の九時までとなっている。寮生はほとんどが運動部所属なので、帰寮の時間帯がかちあうことが多い。混み合わないように、一応時間を調整しているが、食事時間の都合もあるから大概被ってトラブる。面倒がって部室のシャワーで済ます奴も多いな。掃除は当番制だ」
「トラブルばっかですね」
「高校男子を集めて生活させれば、喧嘩しないはずがない。生活してるうちに毎日波風立ててられないことに気づいて、適当に流す術も覚えるが、それでも何かしら起きる」
飽きもせず毎日荒北と口論していた東堂の台詞なので、非常に説得力がない。
「食堂は朝と夜だけ。平日の昼は、寮生は学食で日替わり定食なら無料で食える。他のものを食べたければ購入。土日に寮にいる場合は、自分で何か作るか、外に食べに行くかになる。平日は朝六時半から八時、夜七時から九時までが食事時間。土日は朝が九時まで延びるが、それ以降は片付けられるので、寝坊すると食いっぱぐれる」
言いながら勢いよく食堂の扉を開けると、まさに朝食が片付けられている最中で、並んだテーブルで半分寝ぼけた顔をした寮生達がトレイの上の朝食をつついていたが、急に入ってきた余所者達に顔を上げた。
「あれ、何やってんだ、おめさん達?」
新開が東堂に引き連れられた一年生達の集団に首を傾げる。
「寮に興味があるというのでな、見学ツアー中だ」
「そんな面白いもんがあるか?」
三年間暮らしてきた日常の場に見所があるとも思えない、と首を捻った新開に、東堂はうなずいた。
「だから楽しんでもらおうと思って考えたんだが、まず、お前は本棚、どちらかというと写真や動画より小説」
「ん?」
びしり、と指で示されて、リンゴを齧っていた新開が目を瞬かせる。
「フクはベッドの下、素人」
次に指差された福富が、シリアルの中にスプーンを取り落とした。
「黒田、クローゼット。巨乳」
「東堂さんっ!?」
コーヒーを気管に入れて咳き込みながら立ち上がろうとして、黒田がトレイを引っ繰り返しかける。
「泉田は、筋トレセットしかなくて逆に心配だが、実は携帯が怪しい気がしている。葦木場……は、ちょっとここでは言うまい。銅橋、机の引き出し、人妻」
食堂に居合わせた自転車部のメンバーを次々に指差しながら何やら唱えるごとに、皆引きつった顔で動揺する姿に、一年達も内容を察する。
それぞれの夜のおかずの隠し場所と内容である。
聞かされても困るのだが、同時に、しみじみと寮生でなくて良かったと思っていると、一通り暴露し終えた東堂が両手を打ち合わせる。
「というわけで、オレが許す。自転車部員の部屋に限り、家捜しして構わん。行け!」
凄まじい怒声が寮生から上がったが、ノリのいい一年は既に走り出しており、それに対して寮生が全力で追いすがるという阿鼻叫喚の沙汰となった。
「尽八……、後でちょっとよく話し合おうな?」
「うむ、後で聞こう。荒北は部屋か?」
「真面目に勉強してるみたいだから、邪魔すっと怒られるぞ」
「しかし息抜きも大切だな! 残っている一年、ついてこい!」
新開の窘める口調を気にせず、さっさと食堂を出て行った東堂を真波が追うと、残っていた一年も戸惑いつつついてくる。
「邪魔するぞ!」
ゴバンッ、とは東堂が狭い廊下に並んだドアの一つを叩くと同時に、勢いよく開けた音である。
もはや、ノックをした意味があるのか、そもそもノックと呼んでいいのかも分からない所作に呆れつつ、東堂の肩越しに部屋を覗き込むと、机に向かっていたらしい荒北が驚いた顔で振り返ったところだった。
「邪魔すンな!」
東堂の顔を見た瞬間に顔をしかめて言い放ったのは、もはや条件反射としか思えなかったが、東堂の背後に並んだ面々に少し不思議そうな顔をした。
「真波に……、一年坊主達が何してんンの?」
「寮見学ツアー中だ!」
「分かった失せろ」
一年にとって、一番怖い先輩だった荒北の一睨みに東堂と真波以外の全員が身を竦ませたが、東堂は気にせず狭い室内に踏み入った。
「どの部屋も基本的にこのサイズだ。全員一人部屋、ベッドと机、椅子、本棚、チェストは備え付け。配置もこれ以上ほとんどいじれないから、どこの部屋もそう変わらないな。壁は薄いので、基本的に物音は筒抜けだ。鍵はあるが、在室中は開けておくのが通例だ。これは寮生同士の互いの信頼関係を築くためで、相手を閉め出すような真似はしてはいけないということだ」
両手を振り回して説明する東堂に、目を細めた荒北が手にしていたシャーペンを机に置いた。
「ちなみに荒北はマットレスの下……」
「東堂ォ」
低く唸るようにその名を呼ぶと同時に、椅子から立ち上がった荒北の手が東堂の身体をベッドの上に放り捨てていた。
「土曜の朝っぱらから、何絶好調にしでかしてくれてンのかなァ?」
「女子高生もの……」
腹の上に片膝を突かれても気にせず続けた東堂を、体重をかけて縫い止めると、荒北はてきぱきと毛布でクライマーの身体を巻き込み、手近にあったタオルで二カ所を縛って細長い包みを作った。
蠢く包みを無造作に抱え上げて廊下に転がし、部屋の中できょろきょろとしていた真波の首根っこを掴んで摘み出す。
ぱたん、とドアの閉まる音の後に、ガチャリ、と鍵の落とされる音がする。
「荒北! 信頼関係は!?」
「ねェよ!」
ドア越しに怒鳴り合う毛布でできた芋虫の姿に、先輩としての威厳は欠片もなかったが、日常なのか、通りすがりの寮生は面倒そうに東堂をまたいで越えて行った。
「布団干しといてネ」
「都合良く使うな!」
全く、と文句を言いながら、毛布の中から這いだした東堂は乱れた髪にカチューシャを付け直すと、毛布を広げて一度丁寧に畳んだ。
「後は好きに見て回っていいぞ。昼前に食堂集合。昼飯作っておくから、食べてから部室に行け」
解散、と言われて、いいのだろうか、という顔をしながら、同じ一年の寮生の部屋を訪ねることにして思い思いに散っていく中、真波が動かずにいると東堂が毛布を片手に振り返った。
「どうした?」
「東堂さんの部屋って、どこですか?」
「ん? オレは三階だな。隣が黒田だ」
見たい、と言えば、特に拒絶はなかった。
少し年季の入った軋む階段を、東堂の背を追って登って、一階と同じように並ぶドアの一つの前に立つ。
「別に、何もないぞ」
ノックもする必要がないので、無造作に開かれたドアの向こうは、確かに何も無かった。
先程覗いた荒北の部屋も、それほど物が多いわけではなかったが、プリントや着替えが散らばっていたので雑然とした印象があった。比べて、東堂の部屋は整頓されすぎていて、ホテルの一室のように見えた。その最大の理由は、皺一つ無く整えられたベッドで、このせいで生活臭が非常に薄い。
「東堂さんって、生きてる感じしないですよね」
「……どういう意味だ」
見たままの印象である。先程まで騒いでいた姿はともかく、この整いすぎた部屋で背筋を伸ばしている東堂は、まるでモデルルームのマネキンのようだ。
そう説明するとまた何やら訳の分からないことを喚きそうな気がして、肩をすくめてポケットに手を突っ込むと指先に何か固い物が当たった。
何か入れていただろうか、と引っ張り出すと、黄色いガラスの欠片が出てくる。そういえば入れっぱなしだったと思い出して、そのまま東堂に差し出した。
「あげます」
「……今度は何だ?」
「シーグラスです。割れた瓶とかのガラスが、海の中で色んな物にぶつかって角がとれてこんな風になるんです」
掌の上にころりと転がったガラスを不思議そうに見下ろす東堂に、海辺で拾えるのだと説明する。
「綺麗なものだな」
三日月の形をした天然の磨りガラスをそう評して、まあいいか、と呟いた東堂が机の上にガラスを置いた。
「オレはちょっと毛布を干して、他を見回ってくる。家捜ししても構わんが、何も出んぞ」
しっかり自分の部屋は片付けておいたものと思われる。
机の上に詰まれたアルバムは、むしろ見せる気満々なのだろう。思惑に乗って見せてほしいなどと言うと、また自慢を始めるのが目に見えていたので、何も言わずに勝手に手に取って、一分の隙もなく整えられたベッドの上に寝転がる。
「どれだけ自由だ、お前は?」
「結構、不自由ですよ」
「そうは思えんのだが……」
「ままならないです」
アルバムを抱えたまま言うと、少し真顔になった東堂が真波を覗き込んできた。
「何かあったか?」
甘やかしてくる手に懐いて、目を閉じる。
「東堂さん、今度一緒に自転車乗ってください」
「どこの山だ?」
ねだれば、苦笑する気配と共にどこまでも甘やかしてくる。
「海がいいです」
「海?」
海抜ゼロメートルだぞ、と不審げに言う声に、そうですね、と返す。
「もう泳ぐ季節じゃないぞ?」
「泳ぎませんよ」
「ナンパでもしたいのか?」
「人、いませんよ」
「海で何がしたいんだ?」
片目を開けみると、ひたすらに困惑した顔があった。
「じゃあ、それ、拾いにいきましょう」
机の上に置かれたガラスを指し示すと、まあいいが、とあっさり折れる。言質をとったので、真波は改めて両目を閉ざした。
「寝ます」
「自由か!」
額を弾かれたが、気にせず目を閉じていると諦めた気配があった。
くしゃくしゃと髪をかき混ぜられた後に、東堂の気配が離れて、ドアが開閉する音が聞こえた。
「あ、東堂さん、ちっちゃい」
目を開けて、抱えていたアルバムを開けば、今よりも幼い顔と体つきの先輩達の写真が貼られていた。日付のメモから、二年半前の写真と知れる。今、最上級生の彼らに一年の頃があったというのは当たり前なのだが、同時にひどく新鮮だった。
ぱらぱらと捲っていって、見終わったアルバムを閉じてベッドを降りる。新しいアルバムを手に取ろうとして、机の端に置かれたガラスが目に入った。
家捜しをしても構わない、と部屋の主が言っていたので、遠慮無く机の引き出しに手をかける。
普段はもう少し隙があるのかもしれないが、今日の見学を前にぬかりなく片付けられた机の中身は、筆記具や小物が用途に合わせて整列していた。その中に収まったガラス瓶を取り出して、元はキャンディか何かが入っていたらしい瓶に詰まったガラス玉を眺める。
「……オレには分かんないって思ったのかなぁ?」
東堂には、必要以上に真波を子供扱いする癖がある。
無造作に瓶の蓋を開けて、透明な緑色のビー玉の中に、バナナの形をしたシーグラスを落とし込み、また蓋をする。
誰に言われるまでもなく、東堂が特別に真波を甘やかしていることくらい知っている。
ただ、同時に真波が東堂に何を押しつけてみても、こんな風に想いを集めるようにはしてくれないことも知っていた。
「ままならないなあ……」
約束はなかなか日程が合わず、ようやく二人で出かけたのは十一月の半ばだった。
止めた方がいいと言ったのに、ビンディングシューズに脱いだ靴下を突っ込んで、素足で波打ち際を歩いた東堂が、海水の冷たさに悲鳴を上げる。
先日の台風の後とは打って変わって海は穏やかで、小春日和の日差しは暖かだったので、判断を誤ったものらしい。
「だからやめたほうがいいって……」
「せっかく海に来たんだぞ! せめて足元くらい入るのが礼儀だろう!」
何に対する礼節なのかさっぱり分からなかったが、反論するだけ無駄なのも知っていたので、真波も裸足になって靴を両手に持って歩き出す。冷たい海水を跳ねかしながら歩いて、踝を濡らしながら進む東堂についていった。
時折振り返って、コンクリートの護岸に二台チェーンで繋いで立てかけたロードバイクを確認する。
「東堂さん、どこまで行くんですかー?」
「お前がガラスを拾うと言ったんだろう、どこに落ちてるんだ?」
「それなら、波打ち際ではあんまり見つからないですよ」
「何だと?」
波が打ち寄せているところでは、そのまま波にさらわれていってしまうのだと教えれば、それもそうかと納得する。
「こういう、ちょっと離れたとこの貝とかゴミとか溜まってるところ探せばありますよ」
指し示した方にそのまま行こうとした東堂を押しとどめ、靴を履かないと危ない、と貝殻やガラスの破片の吹き溜まりに裸足で踏み込もうとするのを止める。
濡れた足には砂や貝殻の破片がこびりついていて、片足で立ってもう片方の足をタオルで拭おうとするのを、ひょいと押して転ばせた。
「真波!」
「やってあげます」
「いらんわ!」
抗議を笑いながら無視してタオルを奪うと、丁寧に足の先まで拭っていく。
「あのな、真波。こういうことは彼女ができたら、やるといいと思うんだが」
「いないから東堂さんでいーです。はい、そっちの足も」
「お前、もしかして王子様キャラで売っていけるのか……?」
「どこに売り飛ばす気ですか」
噛み合っているようないないような会話を交わして、拭った足の甲に口づけると、シューズを履いた方の足で踵落としを食らった。
「痛い……」
「痛くしたからな」
思わず膝を突いた真波を難なく引っ繰り返し、手際よく足を拭った東堂が靴を履け、と命じて踵を返す。
一つ嘆息して、シューズを履き直して真波が立ち上がると、先輩は少し先の吹き溜まりでしゃがみ込んでいた。
「真波、これか?」
「それですけど……、ちょっとまだ角とれてなくて危ないです」
東堂が拾い上げたものはまだ研磨が浅く、まだ透明なガラスの破片はところどころに鋭利な断面が残っている。
「こういうのは海にリリースで」
ひょい、と海に向かってガラスを投げ込むと、妙に楽しそうに笑った東堂は、次に白地に青い文様が入った石のようなものを摘み上げた。
「これは?」
「ガラスじゃなくて、陶器の欠片ですね。柄が残ってる」
「これ、マイセンのイヤープレートの一部だと思うんだが……」
「何ですか、それ?」
「単刀直入に言うと、高い皿だ。何があって、こんなところに流れ着いたんだ……?」
「っていうことを考えながら拾うと楽しいって、うちの親が言ってました」
なるほど、とうなずいて砂と砕けた貝殻の間を探した東堂が、白く曇ったガラス片をまた拾い上げた。
「これならいいか? 角もないし、完全に磨りガラスになっている」
「いいんじゃないですか?」
「洗ってくる」
波打ち際で、泥に塗れたガラスを洗った東堂が、真波を振り返る。
「透明になったぞ?」
「濡れるとガラスの表面の傷の中に水が入って、光がまっすぐ通るようになるんだそうです。乾いたらまた白くなりますよ」
「そうか」
拾ったシーグラスを陽に翳していた東堂が、真波を手招いた。今度は何かと近寄ると、後ろを向かされて肩胛骨に濡れたガラスを押し当てられる。
「これ、羽みたいな形だろう?」
背に当てられたものが見えるはずはないのだが、逆らわずにそうですね、と告げれば、普段、真波にもったいぶった顔を見せたがる東堂が、少し子供じみた顔で笑った。
「持って帰ります?」
「そうだな」
持ち帰ったシーグラスを、彼がどう扱うのかを少し悩む。
あの瓶に入れられることだけはないだろう。たぶん、新しい箱が用意されて、渡した分だけ中身が増えていく。
「……じゃあ、これもあげます」
ざらざらと拾った色とりどりのガラスをその手の中に落とし込むと、呆れた顔を向けられる。
「お前は本当に何を考えているんだかなあ……」
髪をかき混ぜる手を甘んじて受けて、真波は一つ嘆息した。
「ままならないんです」
