ほんの、気の迷いだったのだ。
留学先の情報を調べるためにイギリスの検索サイトにアクセスしている間も、携帯にどうでもいい内容のメールを何通も送ってくる自己主張の激しい自称ライバルの名を、何の気もなしに検索窓に打ち込んで、エンターボタンを押した。
以前、日本語版のサイトで検索した際はうっかりファンサイトがヒットして、非常に驚いた。登録制のSNSだったので中は覗いていないし、今後も見に行くつもりはない。
イギリス版の検索でもそのSNSは一位に引っかかってきたが、それを無視すると後は明らかに関係ない検索結果と共に、動画が大量に上がってきていた。
まさかあのお調子者、プロモーションビデオを自作して世界中に発信してしまってはいないかと、恐々としながら動画のタイトルとキャプションを読む。
「”[HakoneMTB-DH]Nija of Forest”?」
箱根で行われた、マウンテンバイクのダウンヒル大会の映像のようだ。そういえば、大分前に東堂にマウンテンバイクにも乗るのだと聞いた覚えがある。
一緒に大会に参加しないか、と誘われたが、巻島は自分の走行スタイルが全く山中に向いていないことを自覚していたので、あっさりと断り、東堂もそれ以上は食い下がらなかったので、その後ロードバイク以外の話題が出たことは無い。
巻島が知らなかっただけで、東堂は地元のダウンヒル大会にエントリーしていたようで、その中の一つがアップロードされていて、たまたま検索に引っかかったのだろう。
「アイツがMTBねえ……」
アクロバティックで周囲に有り得ないと笑われることも多い巻島とは対照的に、東堂の登坂はその速さ以外は非常に地味で堅実だ。無駄を全て削ぎ落としたシンプルで静かな走り方をする彼が、泥だらけの道でマウンテンバイクを振り回している姿が想像できず、首を捻る。
動画の時間は三分程度で一部の場面だけが上がっているようなので、当人が映っているかは分からないが、一応見てみるかとリンクをクリックした。
スマートフォンで撮影されたと思しき動画だったが、画質はそれなりだった。バイクの動きを追うのではなく、コースの一か所で固定して撮影されている。
山の中の少し窪んだ坂道、天気は良いようだが道はずいぶんとぬかるんでいて、泥と積もった落ち葉の間に木の根が無数に這い回っているのが見える。
最初の自転車が上から走ってきて、泥に滑って転倒するのを見て、ここが難所なのだと理解した。見た印象よりも泥が深い。タイヤ痕から見ると、いくつかある岩盤の上を進むのがベストルートのようだが、既に泥だらけの岩盤とタイヤの状態によっては非常に滑る。
二台目のバイクは、着地した前輪が半ば泥の中に沈んでそのまま前に放り出された。うまくクリアしていくバイクもいたが、半数以上が必ずどこかで転ぶ。
「今の、東堂……? いや、違うか?」
頭部全体を覆うヘルメットを被った競技者が多く、顔の判別がつきにくい。動画も少し引いて撮っているので、バイクの挙動はよく分かるが乗り手の顔まではよく分からない。
まだ半分以上再生時間は残っているが、もういいかと思いかけた頃にそれが山道を駆け下りてきた。
「あ、東堂」
見慣れないバイクとウェアの遠目の姿を、どうやって彼であると判断したのか分からなかったが、確かに東堂だと確信して、その猛スピードに思わず椅子から腰が浮いた。
「オーバースピードっショ!」
過去の録画につい声を上げるが、当然のことながら画面の中のバイクは巻島の声に従ってスピードを緩めることなく、そのまま難所に突っ込んでいった。
どう考えても泥にタイヤを取られて転ぶか、滑って転ぶかの二択しかないと思われたが、するりとその場を抜けてフレームアウトしたバイクに、一瞬思考が止まる。
「…………お前……」
先行車によってぐちゃぐちゃになったルートを東堂は使わなかった。斜めに生えた木の幹を伝い、岩壁を身体をほぼ水平にして走り木の根を蹴ってジャンプすると、泥道の上を三度バウンドして画面からフレームアウトした。
意味が分からない。
「最後の泥の上のジャンプは根っこ足場にしてんのか……?」
数回再生を繰り返し、意味の分からないマウンテンバイクの挙動に説明をつけてみるが、確信はもてない。
「まあ、アイツらしいっちゃらしいのか」
東堂はいつも瞬時に道路の状態を判断して最適なルートとギアを選択するが、その能力はロードバイクよりもマウンテンバイクの自然そのものの道を走破する際に、遺憾なく発揮されるのだろう。
もう一度再生して、感心というよりはむしろ呆れた気持ちで動画ページを下方にスクロールすると、同じような感想を抱いた視聴者が世界中にいたらしく、大量のコメントが寄せられていた。今更ながら気付いたが、再生数もとんでもないことになっている。
コメントは一部のマウンテンバイクの走行を自然破壊と咎める論調を抜かせば、概ね賞賛が各国の言語で綴られていた。
曰く、
・俺の持ってるMTBと違う。
・ちょっとHakone行ってMTB買ってくる。
・重力が仕事してない。
・Hakoneってのは地球上の土地じゃないのか?
・↑Hakoneは日本のTokyoに近い山岳地帯だよ。近代に入ってから外国人達によって保養地として開発された。それ以前から温泉の湧く地として知られながらも、天下の険と呼ばれるその険しさと湧き出す硫化ガスによって人を寄せ付けなかった土地さ。そんなところだから、ここはNinjaの里だったんだよ。重力は正常だ。つまり、おかしいのは……分かるだろう?
・レベル:アジア人。
・このくらい、トライアルやってる奴なら誰でもできる。
・動きだけなら確かにもっと上手い奴はたくさんいると思うが、音がしない理由を教えてくれ。
・日本、山、無音の壁走り。ただのNinjaだ、どこにでもいる。
・その通り、Ninjaはどこにでも潜んでいる。
時々不思議に思うが、どうして諸外国の人々はこれ程にも忍者が好きなのだろうか。
「箱根が完全に不思議忍者ワールド扱いされてっショ……」
森の忍者なる動画タイトルはそういうことか、と嘆息する。
コメントの中に、日本からの英語書き込みで箱根学園の生徒と思われる人物から、東堂の名前と彼が山神やスリービングビューティと呼ばれていることを説明した一文もあって、これが検索に引っかかったのだと思われるが、このコメントは重要視されなかったようで、全体的な傾向は日本の忍者はすごい、ということでまとまっている。
この動画のことを本人は知っているのだろうか、と首を傾げながら巻島はパソコンを閉じた。
「ところで巻ちゃん、一体誰がオレのことを森の忍者と呼んでいるのだろうか?」
インターハイ一日目のゴール後、わざわざ小野田を労いにやってきた東堂が、その用を終えると巻島を振り返って問うた。箱根を登り始めた時に告げたその二つ名が気になっていたらしい。
「…………みんな?」
「みんなって誰だっ!? 何だそのダサいあだ名、この全てに恵まれたオレに対する嫉妬なのか!?」
「オレとしては、山神とか眠れる森の美形って名乗る方がキッツいと思うショ」
やはり当人は動画が上がっていることを知らないらしく、嫌だと喚いているが、むしろ技術を絶賛された上での称号である。
件の動画をその後も何度か見たが、もしかするとこの押しかけライバルは、マウンテンバイク競技の方が、より向いているのかもしれないとさえ思う。
「なあ、ニンジャ」
「忍者って呼ぶな!」
「お前、MTB好き?」
インターハイロードレースがまだ続くという状況下での突然の問いに、東堂は一瞬きょとんとした顔をした。
「好きだが?」
「ロードとどっちが好き?」
重ねて問うと、問われた事自体が不可解だったようで、不思議そうに首を捻りながら素直に応じる。
「どちらも好きだし、楽しみ方が違うから同列で比べるようなものではないが、あえて言うなら上るならロードで、下るならMTBか。ロードは人と競いながら登るのが楽しいし、MTBは自分と山との闘いだな」
きっぱりとした答えに東堂らしいと納得する。
「お前、ほんと山の子だなあ」
「そこは山神と呼んでもらいたいな、巻ちゃん」
「それでな、山ん子」
「新しい呼び名を作らんでくれ、巻ちゃん! しかも何か泥臭いぞ!」
「泥ん子?」
「真波! 巻ちゃんがいじめる!」
「日頃の行いじゃないですか?」
「お前もいい加減、その言動を悔い改めろ!」
一年に振った上に、あっさり反撃されてムキになって騒いでいる様子を横目に見て、巻島は嘆息した。
この姦しい生き物が、ネット上で無音の忍者と称賛されている事実が、今一つ受け入れがたい。
「おい、ビューティ東堂」
「巻ちゃん、さっきから呼び方に悪意を感じるんだが、気のせいだろうか?」
「気のせいショ、カチューシャ」
「まるで出会った頃に戻ったようだが、むしろ心の距離を感じるぞ。さっきからどうしたんだ、巻ちゃん!?」
「……悪かったっショ」
忍者の称号を本人が知らないのが確認できれば良かっただけなのに、少々くだらないことで絡みすぎたと反省する。
天が彼に何物も与えたとは彼自身の決まり文句だが、実際多くの才を与えられている東堂に対し、巻島は登ることただ一つしか与えられていない。
「ほら、忍者なんかに負けらんないショ」
下り競技にライバルを持って行かれたくはないという、伝えるつもりのない回りくどい告白は当然のごとく理解されず、首を捻る東堂にそれでいいと巻島は笑った。
