左手の法則 - 6/7

 一年の途中から自転車部に入って、それ以前に比べれば格段に真面目になったものの、部活動にウエイトを割きすぎて、荒北靖友は学業にさほど熱心ではなかった。
 適当に授業のノートを取って、落書きをしたり、メモに使って破いたりしていたら、二年に進級しても新しくせずに使い続けていた数学のノートのページが無くなった。新しく買うのも面倒で、プリントの裏や適当な紙を使っていたら、口うるさいクライマーがだらしがないと怒って、新品のノートを叩きつけてきた。
 子供の頃から習字を習っていたと常日頃から自慢する字で、荒北の名前が既に書かれていたので、突き返すのも面倒でそのまま使いだした。
 授業と落書き半々の雑な使い方をしていて、ある日ノートを広げたまま授業が終わっても爆睡し、ようやく起きたら見知らぬ文字が増えていた。
 一言、『風邪ひくよ』と、シャープペンシルで書かれた、少し癖のある右下がりの丸い文字。
 その時は、テリトリーを侵された不快感が先立った。
 誰かが寝ている自分に近づいて、ノートに勝手に書き込みをしていったことに苛立ちながら消しゴムをかけて、その痕跡を消した。
 その数日後に、地獄の子守歌の異名をとる数学教師の授業の後に目覚めると、『また寝てる』と同じ字で書き込みがあった。
 それも消しゴムで消し去って、おそらくはクラスメイトと思しき犯人を捜して目を走らせる。元々目つきの悪さには定評がある荒北の不機嫌な顔に、クラスメイト達は慌てて視線を逸らした。気にしないのは同じ部の東堂くらいのもので、人を睨むとは何事だと絡みに来たのでむき出しの額を指で弾いて撃退した。。
 その日はそのままノートを机の上に放置して帰ると、翌日、ノートが膨らんでいた。
 開いてみると、赤いパッケージのウェハースチョコレートが挟まっていて、またノートの枠外に癖のある字が書き込まれていた。
『差し入れ。チャリ部って、みんなよく食べるし寝るよね』
 ノートとチョコレート菓子を手にして、荒北はここで初めて困惑した。
 荒北が一年の頃荒れていたことを同学年ならば誰でも知っているし、今でも荒北が不機嫌にしていれば昨日のように皆、目を合わせようとしない。進んで自分に関わりあいになろうとする物好きなど滅多にいない。
 どうやら、これは珍しい例だ、と気づいて少し悩み、返事を書いた。
『誰?』
 乱雑な字に沿うように、小さな丸っこい文字が書き足されているのに気付いたのは、放課後だった。
『ひみつ』
 そうして、なし崩しに謎の相手との奇妙な文通が始まった。
 どのノートを放置しておいても、相手は数学Ⅱのノートにしか続きの書き込みをしなかった。知らない間に書き足されている一言は、いつも他愛のないことばかりで、一緒にチョコだの飴だのが挟まれた。
 返す荒北の一言は更に短く、素っ気なかったが、気にした様子もなく自転車部のことや、荒北が構っている野良猫の話など、こちらのことはよく知っているらしい話題が振られた。
 正体を突き止めてやろうと思ったこともあったが、数回放課後に見張ってみたものの、全て空振りに終わったのと、見つけてしまえば二度と相手は書き込みをしなくなるだろうという予感に、積極的に見つけ出す気にはなれなかった。
 クラスメイトなのは確かで、丸っこい文字からすると女子だろうか。自転車部の活動をよく見ているところからすると、近くに部室のある運動部員か、よく見学にきている東堂の取り巻きの女子の中に紛れているのかもしれない。
 ノートを置いておけば、必ず書き込みがあるわけでもないので、ゆるやかなペースで続いた文通に変化が生じたのは今年も終わりに近づいた頃のことだった。
『荒北って好きな子いる?』
 踏み込んできたその丸っこい字に、しばらく悩んでから一言を返した。
『何で?』
 普段より小さく書き込んだ短い問いに、答えは更に短かった。
『別に』
 これはよく考えよう、と机の中に普段は置きっぱなしのノートを寮の部屋に持ち帰って、テスト前の部活休止期間に入ったというのに勉強のためでなくノートを開いて、これまでのやりとりを眺めて悩む。
 好意のようなものは、感じる。
 荒北のことをよく見ていて、このゆるいやり取りを途切れさせなかった。
 それを恋愛感情とすぐに結びつけて舞い上がれるほど楽観的な性格ではなく、むしろひねくれ者としては、悪ふざけの可能性をまず考える。ここまで時間をかけて嫌がらせをされるほど恨まれる覚えはないが、気持ちを探るような問いに浮かれた反応を示すと痛い目を見る気がする。
 そもそも、これまで正体を明かそうとしないのは、結局怖がられているのだろうか。
「……怖がってンのはオレの方か」
 聞かれた問いのような恋愛感情とはっきり言えるような気持ちではないが、怖がられやすい荒北に対して、辛抱強く好意的な目で関わってきたの相手とのやりとりの積み重ねによる、ほのかな好意はある。
 ただ、この感情は非常に崩壊しやすい微妙なバランスで成り立っているもので、下手に恋愛に移行しようものなら途端に崩れる。
 たぶん、それが怖い。
 このままでは駄目なのか、という苛立ちは臆病からくるもので、踏み込んできた相手だって勇気を振り絞ったのだろう。
 答えなくては、と散々に悩んで書いた返事は、我ながら非常に腰抜けだった。
『気になる奴ならいる』
 気にはなるが、恋愛感情と言えるほどのものではない。そもそも正体を知らない。
 逃げ腰極まりない己の字を見下ろして、書き直すか悩んでいると、背後でドアが開く音がした。
「荒北、この前公休取った時の授業、お前ノート写させてもらってないだろう! 持ってきてやったぞ!」
 大変上から目線で、ずかずかと部屋に押し入ってきたのは、同じクラスで同じ自転車部の東堂だ。
 寮の部屋が隣なのもあって、気軽に出入りしてくるのはいつものことだが、今回は心臓に悪かった。
 慌ててノートを閉じて他のプリントの下に隠すと、その挙動不審に東堂がトレードマークになっているカチューシャ頭を傾けた。
「いかがわしい本でも読んでたのか?」
「違ェよ!」
 相当凶悪な表情で噛みついたはずだが、どういう神経をしているのか、さっぱり理解できない自意識過剰のチームメイトは一筋も動じずに、手にしていた日本史のノートを差し出してきた。
「ほら、貸してやるから今すぐ書き写せ」
「……コピーでいーだろ」
「コンビニに行くんじゃない、門限過ぎてるだろうが。オレもテスト勉強に必要なんだ、今書き写せ」
 早くしろ、と急かされて、仕方なく携帯電話を引っ張り出して撮影しようとすると、横着するなと姦しい。
「一字一句丁寧に書き写せ!」
 書き写し終わるまで一歩も動かない姿勢を見せたので、喧嘩をするのも面倒になって、仕方なくノートを受け取った。開けば、相も変わらず国語教師が黒板に書くような字がつらつらと並んでいる。
 読みやすいのはいいが、荒北が書く雑な字にもいちいち口出ししてくるのが鬱陶しい。
 ルーズリーフを一枚引っ張り出して、大会の参加で休んだ分の授業の内容を黙々と写し始めると、騒ぎはしなかったが背後でうろうろと部屋を物色している気配がうるさい。
 おとなしくしていろ、と唸ると、ぽすりとベッドの上に正座して、ベッドの横の勉強机の端に手を置いて荒北の手元を覗き込んでくる。
 実家の犬も、たまにこんな風に家族のすることを眺めていた、と考えて一瞬口元が緩んで、慌てて固く引き結ぶ。
 東堂という男は、同い年の男と思うと鬱陶しいが、犬か猫だと思うと気にならないと言ったのは新開だ。正確にはもう少し気を遣った言葉で、愛玩動物に懐かれたと思うと可愛い、だっただろうか。
 以来、たまにこのチームメイトの行動が、実家の犬に重なって見えて困る。
 この前も無意識のうちに、よく手入れされた長毛種の毛並みのような頭を撫でていて、真っ赤になって怒った東堂に喚かれて非常に面倒だった。
 気にしたら負けだ、と己に言い聞かせて、黙々とノートを書き写していると、飽きたのか勝手に机の上の教科書を手に取って捲り始める。荒北の教材で試験勉強を始めた東堂に、構うと余計無駄な時間を使う、と自身に言い聞かせてなるべくその存在を思考の外に置く。
 そのせいで、対応が遅れた。
「東堂、テメェ何して……!?」
 気が付けば、東堂は勝手に件の数学のノートを開いていた。しかも、最新のやりとりをしていた問題のページだ、と気づいて頭に血が上る。
 有無を言わさずパーカーの胸倉を掴んで引きずりあげると、驚いたようにその左手からシャーペンが転がり落ちた。
「勝手に何してンだ……」
 凄んだところまでは、まだ躾のなっていない犬でも相手にしているような気分が抜けていなかったのかもしれない。ふと、目の端に捉えたノートに違和感を覚えて動きを止め、その理由にすぐ気づく。
 つい先程、この部屋で書いたばかりの荒北の返事に、更にレスが付いている。
 『気になる子って、誰?』と書かれた、丸く癖のある右下がりの小さな字は見慣れたものだが、それが、何故、今ここに突然現れたのか混乱して、単純な消去法で導き出される答えを信じられずにしばらく呆然とノートを見下ろして立ち尽くす。
 東堂が、書いたのだ。
 最初の書き込みがあって、半年近い。これだけの時間をかけて、馬鹿にされて嵌められた。怒りと羞恥が綯い交ぜになって、一気に頭に血が上る。
「テッメェ……!」
 胸倉を掴んだ手を強く引いて、額がぶつかる距離で睨みつけるが、東堂の反応はひどく鈍かった。
 時折見せる、なんと形容すれば良いのか分からない深い眼差しで見返して、不意に視線を逸らして壁の時計を見た。
 その仕草に、激発した。
「ンだよ、その面はァッ!?」
 何かを待っているような、顔をした。
 時間を示し合わせて、仲間内で馬鹿にでもしにくる気かと、血の上った頭で考えながらクライマーの細身を突き飛ばす。寮の狭いシングルベッドの上に転がった東堂の小さな身体に乗り上げるようにして、胸倉を掴んで拳を振るおうとして。
 押さえつけた身体の小ささに、少しだけ違和感を覚えた。
 見上げてくる怯えた顔を潰す寸前に、どうにか的を逸らして代わりにマットレスを殴りつけた。
「…………誰だ、テメェ?」
 ふつふつと煮え立つ怒りに満ちた声で問うと、東堂によく似た少年がびくりと怯えた目を瞬かせた。

 以上が、三年前から十四歳の東堂がやってくるまでの経緯である。
 あの瞬間、何も知らない中学生の東堂を殴りつけずに済んだのは、ただの幸運だ。サイズの違いで拳がずれたのもあるかもしれない。
 怒り狂って殴りつけようとしていた相手が別人に入れ替わっていて混乱したが、更にその人物が別人ではなく三年前の当人だったのだから、混乱はいや増した。
 十四歳の東堂自身が混乱しきっていたので、年上の荒北が落ち着かせてやるしかなく、三年後の世界に突然放り出されて途方にくれていた少年の面倒を見てやった。
 三つ年下の東堂は、荒北が知る自由すぎるクライマーとは異なって、妙に窮屈そうで生きにくそうだった。知らない世界にたった一人でいる不安からかと最初は思ったが、それだけでなく、どこか鬱屈した雰囲気が気になって、するべきではなかったかもしれないが、強引に外に連れ回した。
 まだロードバイクに乗り慣れていない様子は新鮮で、山を登らせれば嬉しそうにはしゃぐ姿は可愛らしかった。少々、妙な気を起こしかけて、慌ててごまかすくらいには可愛かった。
 唐突にやってきた迷子は、少し荒北の知る東堂に似た顔をするようになって、笑って、唐突にいなくなった。
 代わりに今目の前に黙って座りこんでいるのは、三日前に見たままの服装の東堂で、不在の間に何があったのか、すっかり汚れたスリッパを見下ろして何も言わない。
「……おい、東堂ォ」
 十四歳の東堂と入れ替わるように戻ってきてすぐに、カレンダーと時計に目を走らせたのは見た。この東堂がいつの、どのくらいの期間を体験してきたかは分からないが、少なくとも三日前、荒北が東堂を殴りつけかけた瞬間からそのまま飛んできたのではない。
 仕切り直して喧嘩を再開するわけにもいかず、しばらく黙って相手が何を言うか待っていたが、普段無駄に動く口は今回に限って非常に重かった。
「お前は今までどうなってたワケ?」
「……三年前の過去にいた」
 なるほど、ちょうど互いに入れ替わってこの三日間を過ごしたらしい。その口ぶりからして、東堂はこの奇妙に捻じれた時間について、三年前の彼とは違ってきちんと理解していた。
「……なぁ、お前、三年前からこのこと知ってたんだよな?」
 あの置き手紙は、肝心なことはほとんど何も説明されていなかったが、状況をきちんと把握して残されていた。
 つまり、ここにいる十七歳の東堂はあの十四歳の東堂の延長線上にいて、三年前から今日のことを知っていたことになる。
 そんな素振りをこれまで東堂が見せたことはなかったが、あっさり首肯された。
「お前……」
 何から問えばいいのか言葉に迷っていると、東堂が室内をぐるりと見回した。
「数Ⅱのノート、どうした?」
「……ア?」
 何のことだ、と怪訝に思い、それが彼がいなくなる直前に自分を激昂させた原因だと思い出す。
 十四歳の東堂も、問題のノートを見つけて、そのやりとりを自分が書いたとも知らずに勝手なことを言ってからかってきた。
 反応に困っていたら、状況が分からないなりに何かを察して、ノートを握ったまま一生懸命フォローをしてきて、それから笑って、消えた。
「あ……!?」
 小さい東堂は、ノートを持ったまま消えはしなかったか、と今更気づいて、周囲を慌てて見回すが、学園の購買で売っている平凡な大学ノートはどこにもない。
「そうか、オレが持って行ったか」
 荒北の反応に、静かな声で納得した東堂が、繋がったと呟くとすくりと立ち上がった。そのまま出て行こうとしかけて、汚れたスリッパを気にして脱いだそれを手に持つ。靴下で歩くと音もない。自転車に乗っている時のように無音で立ち去る背中を唖然と見送って、ドアの閉まる音にはたと我に返る。
「って、東堂、説明しろよ!」
 この三日間の苦労や面倒を考えれば、そのくらいの権利はあるはずだ、と隣の部屋に押し込もうと立ち上がって、憤然とドアに向かうと、ノブに触れる前に開いて隣人がそこに立っていた。
「返す。長いこと借りていて悪かった」
「……コレって……」
「三年前に間違って持って帰ってしまって、これがあったから、夢でも妄想でもないんだと分かった。お前に会ったら返そうと思ってたんだが、タイミングを考えたら今かと」
 突きつけられた大学ノートの表紙には、修正テープを引いた後に、東堂の名前が記されている。
「……ああ、悪い。お前の名前のノートを持っているのも変だから、勝手にオレの名前に書き直してた」
 淡々とした声音で謝罪され、押し付けられたノートをつい受け取ると、その上に野球帽も重ねられた。
 じゃあ、返したから、と抑揚なく呟く東堂の表情がない。こういう顔をすると、気持ちを押し込めたように鬱屈していた三年前の彼と雰囲気がよく似る。
 つい、年下の少年を扱うような感覚でうっかり伸ばした手が空を切った。故意なのか偶然なのか判断に困る絶妙なタイミングで踵を返した東堂が、足音を立てずに廊下を過って自室のドアの向こうに消えた。
「……長い間って」
 東堂にとっては三年なのだろうが、荒北にとっては、ないと気づいた数分後に手元に戻ってきたことになる。
 帽子もノートも少しくたびれた感じはするが、元々荒北が雑に扱っていたので、折れや汚れはほとんど前からあったはずだ。大きな違いは、書かれた名前で、それも照明の下で光に透かせば確かに修正テープの下に荒北の名らしきものがあるのが分かる。
「……返されても」
 改めてこのノートの中の文通の件を東堂に問いただすべきなのだろうが、三日前の怒りが持続しているはずもなく、その間の出来事が衝撃的すぎた。この三日間の出来事を、東堂が三年前から知っていたというのなら、あれもただの嫌がらせや悪ふざけでなかった可能性も出てきた。
 問い詰める前に聞くことをまとめよう、と混乱した頭を押さえて、ぐしゃぐしゃと髪をかきまわしながら、左手に持ったノートに目を落とす。
 荒北が持っていた先程までより、三年分の年季を経たノートは少し膨らんでいた。
「……アレ?」
 何が挟まっているのかとノートを開いてみると、まずびっしりと書き込まれた逆さまの文字が飛び込んできた。
 一度首を傾けてから、ノートを回転させた方が早いことに気づく。どうやら、ノートをひっくり返して反対から一ページ使ったものらしい。
 ノートを裏返して、裏表紙から開くと、癖のある右下がりの丸っこい文字がびっしりと並んでいた。
「……小さい方の東堂の字」
 荒北がこれまで知っていたのは、とめやはらいを正確に書く国語の教師のような字だったが、十四歳の東堂は左手にペンを持って、丸い癖字を書いた。左利きだなどと初めて知ったと告げると、ひどく後ろめたそうな顔をして右手に持ち替えた。
 矯正されて右手でお手本のような字を書くようになったのだろうが、本来ならこれが東堂の字だったのだろう。
 それでも荒北の字に比べれば丁寧で綺麗なものだが、子供っぽい右下がりの癖字をたどって、三年前の日付を読む。
 おそらく、三年前に戻った直後に書き留めたのだろう。夢ではなかったのかと訝しみながら、手元にある荒北のノートと帽子が動かぬ証拠だと結論づけて、備忘録のようにこの三日間のことが記されていた。
 その内容に、荒北の記憶と齟齬はなく、確かにあの十四歳の少年は三年前の東堂だったのだと知る。
 ページの終わりでは、このノートを荒北に返すために、箱根学園に進学しないとならないと結ばれていて、「それから、リドレイ入手」と付け足された一文に思わず笑う。
 あの子供は、ここで過ごしたことで、高校の進路とロードバイクに乗ることを決めたらしい。
 ノートが膨らんでいたのは、挟まれていたルーズリーフの束のためだった。ノート一冊分ほどの枚数で、かなり厚みがある。
「……日記?」
 日付と、数行ずつの端的な記録だ。日付からすると、戻った直後から書き綴られたようだから、これが説明代わりということだろう。
 ひとまず、三年前からこのことを知っていた東堂が、何を考えていたのか見てみようと、荒北はルーズリーフを手に取った。