左手の法則 - 5/7

 散々走り回って夕方五時を過ぎると外は真っ暗で、テスト勉強をしていた部員達の数が減ってから、部室に戻って自転車を戻し、着替えた。
 出たのと同様に、窓から戻るのに荒北に担ぎ上げられたのが業腹だったが、他に戻る方法がないと言われれば仕方ない。本当は寮生がこっそり出入りするのに台なり椅子なり隠してあるのではないかという疑惑が拭えないのだが、下手にごねると余計にからかわれそうな気もした。
 どうにかよじ登って転がり込んだ先は東堂の部屋でなく、隣の荒北の部屋で、玄関から回って戻ってきた荒北の言うには、戻るならなるべく入れ替わる前と同じ状況の方がいいのではないかという、特に根拠はないが否定する論拠もない主張だった。
 書き置きの通りなら、あと数時間で元の時間に戻れるはずなのだが。
「どうしたら戻れるとか、一切情報残してねーからな、東堂のやつ」
 用意周到なのに、必要だと思われることも徹底して伝えないのは意図的なのだろうが。
「そういえば、最初、ベッドの上にいた?」
 殴りつけようとして、東堂の様子が違うことに気づいて思いとどまったような状況だった。荒北は最初、非常に凶悪な顔をしていて、今思えば何かに腹を立てていた。
「……お前は気にしなくていい」
 渋い顔をした荒北が説明を拒んで、三年後の自分と話をつけると言うあたり、どうにもまた自分が何かやらかしている気がする。
 無事元に戻ったとして、本来あまり仲が良くないらしい二人の関係が、どうなるか気になるところだが、今の自分が口を出しても何にもならないだろう。
 どうにも三年後の自分がどういう成長を遂げて、何を考えているのかよく分からないのだが、今回のことを体験している自分が、どうして荒北と友好関係を築けていないのかが謎だ。
 まさか、あえて仲良くならないように仕組んでいたわけではないと思いたいが、とにかく未来の自分が全く理解できない。
「東堂ォ?」
 自分とは、という一種哲学的な命題にはまっていた中学生を不審に思ったらしい荒北が肩を叩いてきて、そのささやかな衝撃に息が詰まる。
「どうし……」
 姿勢を崩した東堂に、ぴんときたらしい荒北が、にんまりと笑んだ。
「身体痛ェんだろ?」
「うにゃっ!」
 背中をわし掴まれて、声がひっくり返った。
 一日中慣れない姿勢で自転車を乗り回していたので、身体の節々が痛い。明日には確実に筋肉痛になっている疲労度だ。
「ストレッチしとけよ。あと、箱学入ったら一年はマッサーやらされっから、覚えとけ」
「ぎゃっ! やっ、いらなっ! やめっ!」
 ベッドの上に転がされて、背中や腰をぐいぐい押されて悲鳴を上げる。
「お前、マッサージ苦手なんだよなァ。下手な一年が担当だとマジ拒否るし、他の奴がやってもガチガチになるから、やる意味なくってさァ」
「知ってんならやるなぁっ!」
 悪趣味、と噛みつくと、口元を手で塞がれた。
「大声出すなっつーの」
 一昨日は彼が何者なのか分からず、思い切りこの手に噛みついたが、今はそういうわけにもいかない。
「んん……っ!」
「大体お前、結局オレ以外受け付けなくて、オレがお前の専属マッサーみたいなことになってんのに、なんでまたガチガチなんだよ?」
 そんな今の自分の預かり知らないことを盾に、ごねられても困る。
 声を出せないので抗議もできずに、蹂躙する手に耐えていると、東堂の様子に気づいたらしい。布団に顔を埋めていた東堂をひっくり返した荒北が、ひどく呆れた顔をした。
「お前なァ、誰がそこまで我慢しろって言ったよ……」
 噛みしめていた唇を指でこじ開けられ、更に荒北の顔が近づいてきて、あれ、と思う。
「アレ?」
 接触寸前で止まった荒北が、東堂の心情と同じ声を上げた。
「何か、違うなァ?」
 首を動かすと接触しそうだったので、目だけでこくこくとうなずくと、覆い被さるような体勢から身を起こした荒北が、東堂も引き起こすと、両手でわしゃわしゃと東堂の髪をかき混ぜた。
「悪ィ、間違えた」
 何を、誰と、と喚くこともできずに、口をぱくぱくと開閉させていると、ぐしゃぐしゃにかき回された髪をそのまま、野球帽を被せられて、紺色の鍔に視界を塞がれる。
「忘れとけ」
 言い聞かせて、ぱっと身を離した荒北が壁の時計を見た。
「オレ、ちょっと夕飯顔出してくっから。お前、腹減ってる?」
 ふるふると首を横に振ってみせると、すぐに戻ると言いおいて荒北が鍵を手にして出て行った。
 外から施錠する音を聞いて、恐る恐る目深に被せられた帽子を退けて顔を上げると、当然もう荒北の姿は室内にない。
「……え?」
 今のは、何だ。
「ええっ?」

 どんな顔をして戻ってきた荒北に向き合えばいいのか悩んだが、十分もしないうちに戻ってきた部屋の主が、寮の夕食をかき込んできたと開口一番宣ったので、つい、ちゃんと噛んだのかと突っ込んだところ、東堂か、と憎まれ口が返ってきた。
 十四歳だろうが、十七歳だろうが、自分は自分である。
 しばらくくだらない言い合いに徹して、なんとなく三年後の自分と荒北の、あまり友好的でない日常的なやりとりがどんなものかは理解した。
 たぶん、別に仲は悪くない。
 時々、お互いに本気で腹は立てているのだろうが、少なくとも、荒北はあまり引きずらない性格のようだ。
 延々と続きそうな押し問答を唐突に叩き切って、テスト勉強をすると宣言した。
 どうやら、この土日の勉強不足にさすがに不安を覚えたものらしい。
 東堂も、無事に戻れた後に待っているはずの中間試験を思い出して、自分も勉強すると訴えたところ、荒北が隣の部屋から中学の教材一式を持ってきてくれた。
 しばらく、黙々と教科書に向き合っていたが、途中で集中力が切れた。
「荒北、ブラジルの首都ってどこだ?」
「ア? あそこだろ、リオデジャネイロ」
「オレもそう思ったけど、文字数が合わない。五文字」
「アー、なんかサッカーチームあるとこか? サンなんとか」
「サンパウロ?」
「ソレ」
「んー、それだと横のカギと合わない。最後がアになるはず」
「って、お前何遊んでんだよ?」
 そこでようやく質問がおかしいと気づいた荒北が東堂の手元に目をやり、クロスワードの雑誌に顔をしかめる。
「朝からここが埋まらなくてスッキリしないんだ。二文字目がラ、五文字目がアのブラジルの首都」
「知るかよ! 辞書引け辞書!」
 投げつけられた国語辞書で、答えはあっさり判明した。
「荒北、ブラジルの首都はブラジリアだそうだぞ!」
「知らねェよ! っていうか、オレは地理取ってねェから関係ねェ! つーか、遊ぶな、中坊!」
「荒北、迷路が結構奥が深いんだ」
「ンなもん、壁に左手ずっとついて行けってクラピカが言ってただろ」
「クラピカが言ってたのは、右と左の選択肢の場合、左を選ぶ人が多いってやつだったぞ?」
「……お前、マンガとか読むガキだったんだ?」
「友達に借りた。あれ、完結したらちゃんと最初から読みたいけど、もう終わったか?」
「いや、まだやってる」
 出てる巻は全部寮生の誰かが持ってるはずだから、三年後に借りろ、と応じてから、はたと気づいた荒北に睨まれる。
「ベンキョーしろ!」
「電気とか磁力とか、よく分からないから飽きた!」
「電磁誘導のとこ?」
「デンジリョクの意味が分からない。これ、何かの役に立つのか?」
「モーターの原理だろが! 基礎だ基礎!」
 学生のありがちな勉強の愚痴が聞き捨てならなかったのか、怒り出した荒北がベッドの上の東堂に向き直って、開いた理科の教科書に手を叩きつけた。
「だから、磁石がこーあれば、電流が流れた時に力が発生すんだよ。それを覚える時の手の形が左手の法則。親指から電、磁、力。って、なんで右手使うンだっつーの!」
「あれ?」
「右手こっち、左手がこっち。ワカル?」
 両手をそれぞれ持たれて、幼児のように言い聞かされて、はて、と首を捻る。
 時々、無意識に右手を使って法則の指の形を作っていたせいで、回答を間違えていたことに今気がついた。
「お箸持つ方が右、お茶碗持つ方が左」
「……どっちで持ってたか、分からない」
 子供の頃からそう言われては、よく混乱していた左右が、ここでまた見失った。
 生来の癖で持とうとすれば左手を使おうとするが、物心ついた頃から矯正されているので、左右が混乱することが小さい頃はよくあった。
 最近では、文字を書く方を右と捉えていて、それで空いている手をこの理科の法則に使っていた。
 ここしばらく左手で字を書くようになって、それでつい左右が混乱したのだろう。
「……お前、本当は左利きなわけ?」
「両方使えるって意味では、両利きなのかも」
「ンなもん、直さなくていいのになァ。有利じゃん、左利き」
 両手を掴んだまま、あっさりと言い放った荒北に、ぽかんとする。
「左利きが、有利?」
「ピッチャーとかバッティングとか」
「野球?」
 長めの前髪が勉強の邪魔だったので、借りたまま逆さまに被っていた帽子に思い至る。
「荒北、中学は野球やってたのか?」
「……そう、やめたけど」
「何で?」
「肘壊したから、もうできなくなったの。オレは右利きだったけど、やっぱ左打者は投げにくかったなァ。左投手でスゴいのには当たったこと無ェけど、やりにくかったし、あれで一流レベルなら厄介だったろうなァ。だから左利きってだけで、イロイロ重宝されんじゃん、有利だろ」
「……それは、野球の場合だけだろ」
「大概のスポーツで有利じゃね? テニスとかバレーとかバスケとか。右利きの方が多いんだから、右利きの対応に慣れてるところに、逆で切り込めるのは有利だろ。お前、何かやってなかったの?」
「サッカー」
「利き足も左?」
 言われて、改めてボールを蹴るときの足を認識する。
「両方使ってたけど、たぶん、左?」
 そういえば、試合で対戦した相手は口を揃えて、何故か東堂はやりにくいと言っていた気がするが、これは利き足の問題だったのだろうか。
「もったいねェ、ちゃんと伸ばしとけよ、そこ」
 荒北にとっては、左利きというのはスポーツにおいて相手にアドバンテージをとれる長所でしかないようだ。
「ロードで、左利きって何か有利になるか?」
「……たぶんそれはねーなァ」
 それならいい、とうなずいた東堂に、荒北が妙な顔をする。
「右とか左とか、悩まなくて済む方がいい」
 そう言い切ると、帽子の上からわしわしとかき混ぜてくる手は左手だった。荒北も、右手より左手を使うことが多い気がする。
 それを問うと、荒北がなんともいえない表情で己の右手を見下ろした。
「オレのは、左利きじゃなくて、ただの癖だなァ」
「癖?」
「怪我しないようにっつーか、庇ってるっつーか」
 先程、故障したと言った。口振りからして、投手だったのだろう。
 今でも、なるべく右手を使わないようにするほどの、怪我を抱えているのだろうか。
「癖だっつってンだろ」
 顔に出しているつもりはないのに、非常に細やかに東堂の思考を読みとってくる男が、また左手でわしゃわしゃと頭を撫で回した。
「現役の頃は、いらんことで右手怪我しないように、左手使う癖がついてたの。あと、肘やって手術して、しばらく庇ってたせいで余計。今は別に関係ねェんだけど、もう完全に癖だなァ」
「ロード乗るのには問題ない?」
「ない」
 きっぱりと断言されて、少しほっとすると、また頭の上で弾んだ左手が、野球帽を正位置に戻して深く鍔を下げてきた。
「ベンキョーしろ、中坊」
 この、いちいち視界を遮ってくるのはなんなのだろう、と思いながら、帽子をまた逆に回して時計を見る。
 八時半、非常に曖昧な九時頃に戻れるという書き置きを信じるなら、あと三十分程で三年前に帰れるはずだ。それまでに色々と聞いてみたいことはあるが、三年後の自分が残した、それは不正だという警告が頭を過ぎった。
 そう思えば、疑問をこれ以上口にすることもできず、テスト勉強も身が入らず、黙って机に向かう荒北の横から、ベッドに腰掛けたままその手元を覗きこんだ。高校生のテスト勉強など、さっぱり分からないが、微苦笑した荒北が空いた左手で頭を撫でてきた。
「猫じゃないぞ」
「いや、どっちかっつーと実家の犬。人がなんかしてると、テーブルに頭乗っけて覗いてくんの」
「犬」
「むっとしない」
 額を指で弾かれて、ますますむっとする。
「犬、かわいい?」
「かわいい、あと美人」
「だったらいい」
 譲歩したのに、荒北が呆れた顔をした。
「お前、なんか東堂に似てきたネ」
「オレは、最初から東堂だぞ」
 荒北は三年前と三年後を切り離して考えているが、そもそも同一人物である。
「お前、大きくなると、あのよく分かんないイキモノになんのか……」
 慨嘆されても困る。
「今のまんまなら、可愛いンだけどなァ」
 頭の上に置かれた手に力が込められて、どうもサイズを押さえておけないかという意図のようだったので、引きはがして手をノートの上に戻して勉強に集中しろと促す。
「荒北、字、汚い」
「ッセ、東堂か」
「だから、東堂だって言ってるだろう」
 ルーズリーフに書き殴られた字の汚さを指摘すると、理不尽な悪態が返ってきたので、腹を立てて横に置かれていた数学のノートを指し示す。
「ノートの名前はちゃんと書いてるのに」
「それ、お前が勝手に書いたの」
 前のノートを使い終わった後、しばらくノートなしで過ごしていたら、だらしないと怒った三年後の自分が、荒北の名前を書いた新しいノートを押しつけてきたのだと言う。
 言われてみれば、お手本のような字は、どう考えても荒北の手に寄るものではない。
「触ンな」
 さりげなく手から数学のノートを取り上げられて、机の反対側の手の届かない位置に置かれ、その装われた何気なさにぴんときた。
 しばらく黙って、日本史の年表を書き殴っている荒北の手元を眺め、静かに身を引いて後ろ側から回り込み、そっと手を伸ばしてノートを取る。
 開いたノートには、筆圧の強い癖字で数式と落書きが半々に書かれていて、たまに眠気に負けたと思しき、途中であらぬ方向に線が行った数字に、ちゃんと授業を聞いているのか不安になる。
 ノートをぱらぱらと捲っていって、数ページ目で予想していたものに類するものを見つけた。
 好きな女子の名前でもうっかり書いてあるのかと思っていたが、もうちょっと興味深かった。
 荒北の大雑把な字とは異なる、小さな丸っこい字が、ノートの端に書き込まれていて、それに雑な字がほぼ単語だけで応じている。
 ノート上の筆談だ。隣の席の女子とでもやりとりしているのだろうか、色々な話題を振る小さな字に、面倒そうな一言だけのくせに律儀に返事をしているのが、いかにも荒北らしい。
 彼女がいるのか、と少し驚きながら、ノートをぱらぱらと捲って、一番新しいページを開く。
「あ、テメッ!」
 ようやく東堂の所行に気がついた荒北が、焦ったように立ち上がった。
「何してやがる!」
「荒北、この子と付き合うのか?」
 既に付き合っている関係の相手かと思ったのだが、最新のやりとりと思われる部分で、そうではなかったことが判明した。
『荒北って、好きな子いる?』
 小さな丸文字の爆弾が投下されていて、それに、素っ気ない雑な字が、『何で?』と質問に質問を返していた。
 それに続く『別に』の一言は非常に小さく、釣られたように荒北の字も小さくなった。
『気になる奴ならいる』
『気になる子って、誰?』
 恋の駆け引きらしきものはそこで途切れていて、続きがない。
 ここから口を使った告白に移ったのか、この後に返事を書くつもりなのか、どちらだろう、と野次馬根性を出して問えば、照れ隠しに怒鳴られると思っていたのに、荒北の反応はひどく鈍かった。
「…………ねェよ」
 苦い表情に、地雷を踏んだことに気がついた。
「荒北?」
「馬鹿にされてただけだよ、放っとけ」
 数学のノートを東堂の手から取り上げて、ぱたりと閉じた荒北の表情はひたすらに苦かった。
「馬鹿にって……」
「気のある素振り見せて、こっちが浮かれて食いついたら馬鹿にするってやつ」
 その口振りで、何が言いたいかは分かる。
 からかって気を持たせて、本気で告白したら冗談だったと馬鹿にする、人の心を傷つける残酷ないじめだ。荒北の顔も声も、ただ苦々しく、照れ隠しにごまかしているようには見えなかったが。
「オレのこと好きになるよーな奇特な奴なんかいねェの」
「そんな、はずない」
 荒北の手から奪い取ったノートで、石頭を張り飛ばす。
「おまっ……!」
「この子、絶対荒北のこと好きだぞ! 見れば分かるだろ、そんなの!」
 健気なくらい、荒北に相手にされようと必死なのも読みとれないのか、と声を高めると、荒北がくしゃりと顔を歪めた。
「そうかなァ……?」
「……何があったか、知らないけど、誤解だと、思う」
 余計な口出しをした、と気づいて、声を尻すぼみにしてうつむいた東堂の頭の上に、すっかり慣れた荒北の左手が置かれた。
「あいつが何考えてたのか、全然分かンねーけど……、お前がそーいうなら、しょーがねェな」
 微苦笑して、もう一度話してみると告げた荒北に、笑い返す。
「荒北は、顔怖いし声怖いし態度悪いし言い方悪いけど……、で…も……?」
 好意を持てそうなところを続けようとした声が、対象を失って虚ろに響いた。
「荒、北?」
 忽然と目の前から消えた未来のチームメイトの名を呼ぶ声が、自分以外誰もいない部屋に反響する。
「え?」
 見慣れた自宅の己の部屋に一人で立っていることに気づいて、目を瞬かせる。
「戻っ……ええっ!?」
 この中途半端なタイミングで、何故、と焦る。
 部屋の時計を見上げれば九時過ぎを指していて、窓の外は真っ暗だ。煌々とライトの照った机の上には、テスト勉強の途中の教科書やノートを広げたままだ。
 向こうでは、夜の九時を過ぎた頃だったろうか。確信は全くない。
 置き手紙に記されていた、戻れる時間の指定が曖昧だったわけである。未来の自分も、正確には知らなかったのだ。
 むしろ、単に夢でも見ていたのではないか、と両手を見下ろして、手にしていたノートにぎょっとする。
 何の変哲もない大学ノートに「数Ⅱ」の科目名と、本来知るはずのない男の名前が、丁寧に書いた己の字で記されている。
「……持ってきちゃったのか」
 ふと気づいて、頭の上に手をやれば、少しくたびれた野球帽が手に触れた。
「返さなきゃ……」
 帽子はともかく、このノートは大変大事なもののはずだ。あの、お人好しで優しいくせに、外見と態度と言葉遣いで多大な損をしていそうな、三歳年上の同い年の男の恋を応援してやらないといけない。
 そのためには。
 帽子を脱いでノートと一緒に机の上に置き、深く息を吐き出すと、伸びた前髪が視界を遮った。
 邪魔だ、とかきあげた髪を、ペン立てに差していたカチューシャで留めれば、視界は鮮明になった。
 目的は、はっきりしている。
「リドレイ、それから、箱学入学」
 あの、口が悪くて笑うのが下手で、優しい男に会いに行く。