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早朝、鍵を開ける音に振り返ると、荒北が戸口から顔を覗かせたところだった。
「オハヨ」
「おはようございま……」
「敬語気持ちワリィ」
言い終わる前に釘を刺され、問答無用で額に手を押し当てられる。
「熱下がったな」
「はい……うん、もう大丈夫」
ぎろりと睨まれて言い直す。荒北は同級生に敬語を使われるのが気持ち悪いらしいが、東堂からすれば三つ年上の相手なので、どうにもやりにくい。
「ってか、また寝てねェのかよ?」
「昨日、ずっと寝てたから」
四時頃に目が覚めて、さすがにもう眠れなくなったので、布団の中でパズル雑誌を解いていたところだ。荒北が起きてくるまで待っていたのだが、まだ六時前だ。
部活をやっている分、早起きなのだろうか、と起き上がって荒北を見上げると、完全に癖になっているのか、伸びてきた手がくしゃくしゃと髪をかき回した。
もはや、髪が乱れると文句を言うのも馬鹿らしい。
昨日は発熱でかなり汗をかいた上に、ずっと布団を被っていたので酷い有様なのは分かっている。
「ヘイヘイ、うるせぇ」
「……何も言ってないです」
「言わなくても分かるからウルセェ。あと敬語」
実に理不尽だ。
「髪が乱れる、元に戻せ、ブラシどこだ、風呂入りたい、着替えたい、っていうか寝てンの飽きた」
言わなくても分かるというのは嘘ではないようで、すらすらと東堂の思うところを述べた荒北が、勝手にクローゼットを開けて中のタンスを漁り始めた。
「何やってるの?」
「着替えと風呂用具。寮の風呂はちょっと無理だけど、シャワーなら部室で使えるし、この時間なら誰もいねェから。あと朝飯は……、それでいいか」
更に増殖していた見舞いの品を見て言う荒北につられて、机の上を眺める。菓子パンやエナジーバー、ゼリー飲料から果物の缶詰まで、いつの間にか山になっていたので、しばらく食べ物の心配はいらなさそうだ。
「クソ、あいつ、どこに何置いてんのか、さっぱり分かンねェ……!」
「……荒北さん」
「さんイラネ」
「じゃあ、荒北、これ」
あまりに堂々としすぎていて、逆に見落としているらしい荒北に、校名と校章の入った袋を指し示す。クローゼットの上から吊るされていた薄い生地のショルダーバッグには、メモ用紙が貼り付けてあって、「荒北へ 日曜日用」と堂々と書かれていた。
「っとに、準備万端で腹立つなアイツは……!」
バッグの中に探していたものが全部納まっていたようで、荒北がメモを握りつぶして低く唸る。
「テメェは全部知ってんだろうけど、オレらは何も分かンねェんだよ、説明してけ!」
東堂自身も、三年後の自分にもう少し説明努力を求めたい。過去の自分に伝えられないまでも、ここまで巻き込んで迷惑をかけるなら、荒北にはもう少し話をしておくべきだと思う。
「お前はそーいう顔しないの」
三年前と三年後を完全に切り離して考えることにしたらしい荒北が、また髪をかき回してくる。
「ってことで、熱下がったンなら今日は出かけんぞ」
「え?」
この部屋にいなくていいのか、と狭い寮の部屋を見回すが、他の奴らが入ってくるからな、と荒北がぼやいた。
確かに、昨日もなんだかんだと友達や後輩らしい人物が自由に出入りしていた。
鍵はあるのだが、基本的に開けっ放しの文化のようで、昨夜は最終的に他人の出入りを警戒した荒北が部屋の鍵を持って出ていった。
だから、今日は一日、この部屋に鍵をかけて閉じこもって過ごすのだと、勝手に思っていたのだが。
「手紙にもあったけど、東堂の親戚って言っとけば誰も疑わねェだろ。昨日は風邪で済んだけど、どうせ今日も夕飯とか点呼出れねェし、もう実家泊まりってことにして、外泊届け出しとけ」
最初からそのつもりだったのだろう、周到に用意されていた用紙を手渡され、机の上のペンを手に取ると、荒北が妙な顔をした。
「お前、左利きだったァ?」
先日の幼馴染みのように問われて、慌ててボールペンを右手に持ち帰る。そういえば、置き手紙の字は右手で書いたものだった。
左手を使って字を書くという、ささやかすぎる反抗は中学の一時期だけだったということだろうか。そんなことを考えながら丁寧に名前を書いて渡すと、後で提出しておく、と用紙をしまった荒北が、行くぞ、とドアではなく窓を示した。
気づいていなかったが、寮の部屋は1階にあった。地面までは少し高さがあって、入るのには何か台がないと厳しそうだったが、出る分には飛び降りればいいので問題はなさそうだ。
しかし、ここから出ろと言われても困る。
「あ、靴取ってくる」
忘れてた、とスリッパの音を立てながら出て行った荒北に、その問題だけではないと思いながら、押し付けられたバッグを覗いてみると、スポーツウェアや洗面用具、タオルが一式きちんと納まっている。掌サイズの小さな小銭入れを開けてみると、折り畳んだ紙幣と硬貨が数枚、そしてメモ用紙が収まっていた。
『昼飯代、荒北の分含む』
簡潔明瞭かつ、全く気持ちの見えない整った字に、我ながら苛立った。無味乾燥な文面は、申し訳なさのかけらもない。
荒北は三年後の東堂を傍若無人と称したが、これは確かに間違っていない。
じっと小さな紙片を見ていると、二人分の靴を持って戻ってきた荒北が、一目見てメモを握り潰してゴミ箱に放り捨てた。
「今夜、デカい方が戻ってきたら、きちんと話つけとっから」
だからお前は気にするなと、取ってきた二人分の靴を押しつけて空にした手で髪をかきまぜてくる。
いい加減ひどい有様だろうと諦めながら嘆息すると、にやりと笑った荒北が乱したその上から何か被せてきた。
視界の半分が暗くなって、何かと思えば帽子を被せられたのだと気づく。脱いで見ると、黒地に紺色の鍔の野球帽だ。白抜きでPと入ったロゴは、プロ球団の公式のものではない。
「なにこれ?」
「帽子」
それは説明されなくても分かる。
「髪をセットしないで外なんか出れない、地元を出歩いたら三年前の自分を知ってる奴に会うかもしれない」
出かけると言われて懸念した二つの問題を、さらりと突きつけられて黙り込む。
「お前、そういうとこは変わンねーのな」
被っておけ、と再度目深に帽子を被せられる。黒い帽子に視界が塞がれ、東堂はそのままうつむいた。
「どーした?」
「……オレ、今日は一日、どこか一人で隠れてますから」
これ以上迷惑をかけられないと告げると、荒北が大きく顔を歪めた。
「お前をほっとく方が心配なんだよネ」
昨日一日寝込んだせいだろうか、すっかり手のかかる子供と認識されている。
より深くうつむくと、ほぼ視界が塞がって、荒北の足元しか見えない。猫のイラストのスリッパが妙に可愛らしくて、似合っていなかった。
「……昔、スリッパ履いた、変な奴がいてさァ」
彼の趣味で履いているのだろうか、と逸れかけた思考を読み取ったかのように言い出した荒北に思わず顔を上げる。
「オレがガキの頃……ってか、今のお前と同じくらいか。中学のOBだったっぽいんだけど、それまで会ったこともねー変な奴がいきなり出てきて、丸一日好き勝手に引っ張り回されて。そいつ、外なのにスリッパ履いて歩きまわってたんだよネ」
さっぱり要領の掴めない、唐突な話題に目を瞬かせる。
「その頃、オレちょっと色々あって荒れてたから、誰かがなんか言って、しゃしゃり出てきたお節介な奴だと思うんだけど、結局どこの誰だったのか分かんなくて。まあ、別にどーでもいいんだけど」
伸びてきた手が帽子の鍔を摘まんで引き下げたので、また視界が塞がれる。
「そいつが言うに、迷子がいたら面倒見るのが年上の役目だから、悔しかったら、迷惑がられようが嫌がられようが、迷子の子がいたら好きに引っ張り回せばいいだとよ」
そういう着地か、と邪魔な帽子を後ろに向けて顔を上げると、にんまりと荒北が笑っていた。
「ってわけで、オレは今日一日、お前を連れ回すって決めたからァ」
どういう理屈だ、という反論も許されず、からりと窓を開けた荒北に、十二月の朝の冷たい空気の中に押し出された。
ごねると抱き上げられて窓の外に放りだされそうな勢いだったので、仕方なく窓枠を乗り越えて地面に降り立つ。冷えたコンクリートに裸足が触れて身震いするが、渡された二足の靴のどちらが自分のものだか分からずに困る。
どちらも同じようなサイズで、明らかに現在の東堂の足よりかなり大きい。
「どーかしたァ?」
窓枠の上で器用にバランスを取って、窓をきちんと閉めてから飛び降りてきた荒北が、黒いスニーカーを当たり前のように履いたので、残った方が三年後の自分の靴ということだろう。
履いてみると、やはり爪先がかなり余る。歩くと不自然にぱたぱたと響く足音に、荒北も気づいたようで、東堂の背を測るように帽子を被った頭の上に手を置いた。
「あー、ビンディングは備品からサイズ探すから、とりあえず部室までそれで行け」
言葉の意味はよく分からなかったが、荒北が説明せずに歩き出したため、慌ててその背中を追う。
「部室って、この時間から開いてるんですか?」
「朝練ある時なら、そろそろ東堂が開けてる時間だけどな。今はテスト休み中だから誰もいねェ」
誰もいないから使うのだという主張は分かる。
三年後の自分は副部長をしていると聞いているから、朝に部室を開けるのがその役職の一つなのだろう。
「……鍵は?」
中学では部に所属しなかったので詳しくないが、部室の鍵というのは職員室で管理されているものではなかっただろうか。
「大丈夫、合い鍵持ってる」
「合い鍵?」
「いや、居残り練習とか個人練習とかしてたら、鍵あった方が便利でさァ。作った」
正規の鍵ではないように聞こえる。
「福ちゃ……部長は知ってる。デカい方の東堂にはナイショな」
怒るから、などと言うが、そもそも今自分に教えたということは、三年後の自分は最初から知っているのではないだろうか。
「つまり、デカい方も黙認してるってことだろ」
「えっと……?」
そういうことになるのだろうか、と思わず悩んだ東堂を気にせず、荒北が着いたぞと指し示した。
いかにも学校の施設らしいL字型のプレハブの建物は、かなり大きい。
強豪というのは知っているが、どのくらいの部員規模なのだろうと聞くと、今は三年が引退したので四十名弱だと応じながら、荒北が合い鍵とやらでドアを開けた。
覗きこんだ自転車競技部の部室は外観通りに広かったが、四十人もの部員が入ったら、また印象が違うだろう。スポーツジムのような筋トレ用の器具や、使用法が分からない用具がたくさん並んでいたが、東堂の目が吸い寄せられたのは頭上だった。
天井に張り巡らされたパイプに引っかけるようにして、数十台の色とりどりの自転車が吊されているのは圧巻だった。
「ロードバイク」
「そりゃ、チャリ部だからなァ」
「全部、部員の?」
「大体はそーだな。寮の奴らのは全部夜はここに保管。自宅組は置いてく奴と乗って帰る奴がいる。あと、部の備品が何台か」
ほら、と退けられて、何かと思えば天井に渡されたバーの上に引っかけられていた自転車を下ろした荒北が、無造作にその白い車体を渡してきた。
「お前の」
「ッ!」
思わず息を呑んで、手渡された自転車をまじまじと眺める。
軽い。
糸川の愛車も軽さに驚いたが、それよりも更に軽い。直線なのだと思っていた車体はよく見れば、生き物のような曲線をところどころで描く。三角形のラインが途中で捻れたように多角形に変形する複雑な形状が、このブランドの特徴なのだと、友人に延々と聞かされた。
その白い車体に、赤く刻まれたロゴは既に見知っている。
「……リドレイ」
これを、自分は手に入れたのか、と半ば信じられない気持ちで眺める。
親の反対を思えば、よく乗ることを許されたものだ。
「これが欲しかったンだろ?」
「うん」
からかう口調に逆らわずにうなずくと、荒北がなんとも珍妙な顔をした。
「……アー、こっち貸せ、調整すっから」
一度東堂に持たせたロードバイクをまた取り上げて、三角形の金具に後輪をはめ込むようにして固定した荒北は東堂を手招いて、野球帽の上に手を置いた。
「いくつ?」
「十四?」
「身長」
「…………百、六十」
「……ふぅん?」
ちょっとばかり四捨五入した申告を、お見通しとばかりに鼻を鳴らして、頭の上で数度手を弾ませる。
「ま、どーにかなんだろ」
「どうにか?」
「お前の今の身長に合わせて、サイズ調整すんの」
何故、と顔に出たのだろう。帽子の上に置かれたままの手に、少し重みがかかる。
「乗らねーの?」
「乗って、いいの?」
「お前のなんだから、問題ねーだろ」
あっさり言われるが、どうにも三年後の自分のキャラクターが掴めないので、勝手に乗っていいものか悩む。
「特に何も書いてねーけど、サイクリングセット準備万端に用意していったんだから、乗れってことだろ。つーか、自分でサイズ合わせとけよ、めんどくせェ」
荒北の物言いが基本的に尖っていることはもう理解しているが、それでも怯んだ東堂に気付いて、荒北が表情をやわらげた。
「乗りたくねェの?」
「乗りたい、です」
「敬語」
「乗りたい」
言い直すと、よし、と笑う。
最初に会った時から思っているが、彼は子供向けの優しげな笑顔のつもりの表情が壊滅的に駄目だと思う。
「……なんか、ナマイキなこと考えてね?」
その上で、人の表情を読み取るのは鋭いのが厄介だ。
東堂は子供の頃から、何を考えているのか分からないと言われる方だったのだが、荒北は慣れた様子で口にしていないことまで読み取ってくる。。
「とりあえず、とっととシャワー使ってこい。奥が更衣室、ロッカーに名前貼ってあるから自分の使え。シャワー、最初水しか出ねェから三分待て。着替えたら飯、それからチャリサイズ調整」
帽子をはぎとった荒北がまた盛大に髪をかき回してくれたので、ひどい有様になっている頭を何とかするためにも、指示に従うことにした。
なかなか湯にならないシャワーに悲鳴を上げ、着替えとして用意されていたサイクルジャージに一悶着し、昨日差し入れられたパンや菓子を朝食にした。
荒北も黒いジャージに着替えていたので、サイクルジャージの着用はなんとか己のファッションセンスと折り合いを付けたが、本当にこのぴったりとしたレーシングパンツなるものの下に下着を付けないものなのか、非常に疑わしい。
荒北は案外親切だが、隙があればとことんまでからかってくる悪癖がある。
騙されていないか悩む東堂に、部の備品の段ボールを引っかき回してサイズの合う歩きにくいシューズを履かせ、台に固定した自転車に乗せてサドルを下げ、ハンドルを支える棒を外して短いものに付け替えている荒北は何故か非常に楽しそうだ。
警戒は怠らずに、横にしゃがんで作業を眺めていると、不意に入口付近に複数の人がやってきた気配があった。
焦った東堂に、一つ舌打ちした荒北が脇に置いていた帽子を目深に被せた。
ドアの鍵を開けようとして、既に開いていた鍵を逆に閉めてしまったようで、しばらく入口のところでもたついていたが、どうにか開け直して部員達がなだれ込んできた。
「荒北さん!? お、おはようございます!」
「ハヨ……ザイマスッ!」
まず入ってきた一団は下級生の集団だったようで、体育会系特有の発声でしゃちほこばって挨拶をする後ろから、部室の様子を覗き込んだ上級生が荒北の姿に首を捻った。
「あれ、靖友? 来てたのか」
「何しに来たんだよ、お前ら?」
「テスト勉強」
「学習室でやれ」
「ローラー回しながらの方が覚えられるだろ?」
「……ホントお前ら、ノーミソ筋肉でできてンのな」
呆れた荒北に対する、身体を動かした方が覚えられるのだ、といった反論からして、彼らは筋トレをしながら試験勉強をするためにやってきたらしい。
「靖友もやってみれば?」
「ダリィからヤダ」
提案を一蹴した荒北に、そういえば試験勉強は大丈夫なのだろうかと疑問を覚え、あまり秀才とは思えない横顔を見上げる。
一昨日の夜に自分が彼の前に現れて以来、かなりの時間を勉強以外のことに費やしているはずだ。
語彙がやや少ない気がするのと、漢字変換をしてなさそうな発言からして、成績が良さそうな印象がないが、察しはよい男はちらりと東堂を振り返って、ぐいと帽子の鍔を引き下げた。
「ガキはナマイキなこと考えないの」
口に出してもいないことを、咎めてくるのが困る。
このやりとりで、初めて東堂の存在に気付いた男が、不思議そうな顔をする。
「靖友、その子は? あと、尽八の面倒もう見ねーの? ってゆーか、尽八大丈夫そう? 飯食ってた? 熱は? さっき部屋行ったけど、鍵かかってて返事なくてさ。病院連れてったほうがよくね? ところで何で靖友が尽八の世話してんのか大論争中だから、そろそろコメントをヨロシク。それから、その子誰?」
「聞くことまとめろ!」
ニコニコとニヤニヤの中間の表情で立て続けに問いを重ねた男は、荒北に噛みつくように怒鳴られても飄々と受け流すと、見るからに部外者である東堂に向かって、にっこりと笑いかけてきた。
「こんにちは、見学?」
目深に被った野球帽の下を覗きこんできた男の表情が、ふと変わる。
「尽八?」
びく、と肩を震わせた東堂に、一つ舌打ちした荒北が間に割って入った。
「東堂のイトコ。東堂は風邪で実家戻った。ホントは今日、コイツの見学案内するはずだったんだと」
「へー、ってことは中三? チャリ部入りたいの?」
「中二、です。自転車は、まだ……」
持っていないし、自転車部に入りたいのかもよく分かっていないと続ける前に、人懐こく笑った男が嬉しげに東堂の頭を野球帽の上から撫で回した。
「じゃあ、オレの弟と同い年だ。弟も箱学入りたいって言ってたから、二年後一緒になるかもな」
おそらく、彼の態度からして荒北と同学年だと思われるので、本来なら彼が東堂と同い年になるのだろう。どう反応していいか分からず戸惑うが、相手は気にせず帽子をはぎ取った。
「なあなあ、尽八イトコ、めっちゃ可愛いんだけど!」
「あ、新開!」
荒北が制する前に、他の部員の前に押し出され、途端に周囲がどよめいたことに立ちすくむ。
「うわ、東堂さんミニチュア」
「イトコってゆーか、兄弟レベル?」
「すげえ、美少年だ!」
「東堂って、そういえば自称じゃないんだって、同じ顔見ると気づくよな」
好き勝手なことを言う部員達に囲まれてしまい、高校生達の上背に完全に埋もれてしまって焦る。
「君もチャリ乗るの?」
「やっぱクライマー? 東堂さんと走ったりしてんの?」
「うちの悠人も可愛いぞ、めちゃくちゃ生意気だけど」
口々に問われても、今の自分が未来の彼らに何を応えていいのか分からず、うろたえて荒北を振り返ると、苦々しい顔をした荒北に引っ張り戻されて、乱暴に帽子を目深に被らされた。
「見せ物じゃねェんだよ!」
散れ、と唸った荒北に、ほとんどの部員がそそくさと従ったが、一部は恐れ入った様子なくその場に留まったので、東堂はそのまま荒北の背中に隠れた。
「何でイトコくん、靖友にそんなに懐いてんの?」
「別に懐いてねェよ!」
「っていうか、それ、尽八のリドレーだろ? イトコくん用に調整してやってんの?」
「こいつチビなんだから、しょーがねーだろ」
そんなに小さくない、とむっとするが、残されていた三年後の自分の服や靴からするに、今よりかなり大きくなっているのは確かだ。
幼馴染がロードバイクは体格に厳密にサイズを合わせないとならないと力説していたので、三年間の成長分を調整しないといけないのは分かる。
「東堂の奴、オレに全部丸投げしてったんだよ」
「何でオレじゃなくて靖友?」
「知らねェよ!」
こうして漏れ聞こえる範囲では、やはり荒北と東堂は不仲のようだ。
昨夜も、熱で寝込んだ東堂を荒北が面倒見ているのが、天変地異の前触れのように扱われていた。
「靖友、マジでなんか弱みでも握られた?」
「てねェよ。どっちかーっつーと、こっちが貸し。いい迷惑だよ、こっちは!」
何があって、昨日は看病に徹し、今日は今日で東堂のイトコなる人物の面倒を見ているのかと問われた荒北が、吐き捨てるように応じ、その語気の荒さに一瞬怯んだ東堂に気づいて舌打ちした。
「チビは気にしなくていーの!」
帽子を取ってぐしゃぐしゃとかき混ぜた上で、戻された野球帽を目深に被されて視界を狭められる。
「悪いのは全部、デカい方の東堂だから」
気にするな、と言い聞かされて、狭い視界の中でうなずくと、口元だけが笑って見えた。
「小さい子には優しいんだな、靖友」
「っせ」
「あと、弱った子にも優しいのか。昨日かいがいしく世話してたもんなぁ。尽八、ほんとに大丈夫?」
「知らねェよ」
「あ、イトコくん、大丈夫だよ。靖友、これでも尽八と仲良しだから」
にこやかにフォローをいれてくるチームメイトに、荒北の否定の怒鳴り声が重なるが、いつものことなのだろう。周りは気にする様子なく、筋トレに励みながら教科書や単語帳を捲っていた。
「……箱学自転車部」
こんなところに三年後の自分はいるのか、と不思議な気がした。
何度かサドルにまたがってハンドルを持つように言われ、姿勢を見ては微調整していた荒北がようやくうなずいた。
「靖友、この子初心者だろ? いきなしビンディングなんて大丈夫かね?」
「大丈夫だろ、ほら、乗ってみ?」
促され、固定されたままの自転車にもう一度乗って、言われた通りにペダルに体重をかけると、ばちん、と靴が鳴ってペダルが足裏に固定された。
「え……、コレ?」
両足が固定されたことに焦るが、そういうものだとあっさり言われる。シューズを固定することで、効率的にペダルに力を加えられるのだと説明されれば、理屈は分かるが足が自由にならないことに本能的な恐怖を覚える。
「荒北……!」
ぐらりと上半身が傾いで荒北の肩に縋ると、非常に人の悪い笑みを向けられた。
「これ、どうやって外すんだよ……?」
初心者の東堂が焦ると分かっていて乗せたと知って、じろりと睨むと、くつくつ笑いながら足を捻るのだとようやく教えてくる。
「怖いならやめとくゥ?」
「コレでいい……!」
からかってくる男に反発して意地を張るが、そのこと自体も笑われてふくれながら何度か着脱を試して使い方を覚える。
「じゃ、行くか」
野球帽の代わりにヘルメットを被せてきた荒北が、青緑色の車体を天井のバーから下ろして促してきた。
独特なその色は覚えがある。
「びあんき」
「そー」
「似合わない」
「っせ、ナマイキ」
金具のせいで爪先が浮くので歩きにくい靴に難儀しながら、明るい色のロードバイクを担いですたすたと先に進む男を追いかける。
「さては、かわいいもの好きか」
「そうそう、靖友はニャンコとワンコと可愛い男の子が大好きで……ッ!」
通りすがりに悪ノリしたチームメイトに、かなり本気で蹴りを入れた荒北は部室を出ると、自転車に跨がって東堂を振り返った。
「校内は絶対にスピード出すなよ。曲がり角は特に注意。昔、校内で馬鹿みたいな速度出して、他の生徒と事故って停学食らって、部も連帯責任でしばらく休部させた奴いるらしーから」
やはり、そういった事故は無くならないのか、母親が聞いたら眉を吊り上げて入部に難色を示しそうだ。
どうやって家族を説得したものか、つい気を取られた隙に、ゆるりと走り出した荒北に気がつき、慌ててほとんど漕ぎもせずに明るい水色のロードバイクを走らせる猫背を追いかける。
校門までは少しだけ下り坂になっているのか、自宅の年季の入った自転車と同じつもりでペダルを回すと思った以上にスピードが乗って、たらたらと走る荒北を追い越しそうになる。
「あ、徐行中はビンディングはめないで、足載せとくだけな。急ブレーキの時、すぐ足付けるように」
先に言え、と足を捻って留め具を外す。
ペダルを回してみれば少し慣れたが、この足が固定された状態というのはやはり落ち着かない。
ほとんど漕がなくても加速していく感覚にもなんとか慣れて、周囲に目を向ける余裕ができた。地元の高校だし、姉も通っているので元々馴染みがあるが、校内の様子を見るのは初めてだ。
試験前の部活停止中の日曜日だから、生徒の姿は全くない。
無人のテニスコートやグラウンドの横を通り過ぎ、校舎を横目に緩やかな坂を下って校門に着く。
平日の登下校時は全開にされているのだろうが、今はぴったりと閉まった門の横の通用口を開けて、自転車二台を通す。その後、荒北がばちん、と音を立てて靴の金具をペダルに装着してから東堂を振り返った。
「お前はゆっくり降りてこいよ」
「え?」
にやりと笑って、漕ぎ出した荒北の背が、ぐん、と遠ざかった。
慌ててペダルを靴の金具に嵌めて荒北を追いかけようとして、坂を転がりだしたタイヤに焦った。
先程まで、校内の坂とも言えないような道でも、タイヤが回り出せばスピードが乗った。本当の坂ならどうなるのかと思えば、これだ。
漕がなくてもどんどん速度が増して、慌ててブレーキを握ってスピードを落とすと、荒北の背があっというまに小さくなった。
車と同じくらいの速度を出していそうな勢いに、先程までのだるそうな雰囲気は何だったのだと、ほとほと呆れる。
鈍重な印象はないが、どちらかというと怠惰な態度ばかりが目に付いた。校内を流していた時も、ちんたらという形容詞しか浮かばない動作だった。
走り出した途端、雰囲気が変わった。
頭のねじが数本外れたような加速に唖然としているうちに、荒北の姿が完全に見えなくなった。
置いて行かれる、とブレーキを緩めると、またスピードが乗った。
坂の多いこの箱根で育って、ママチャリでもこのくらいの速度は出したことがあるはずだが、この不安感はサドルの高さからくる前傾姿勢によるものだろう。足が固定されているのも、それに拍車をかける。
この速度は危険だ、とブレーキを握った瞬間、タイヤがずるりと滑った。
「うわっ!?」
身体が斜めになって焦り、足を着こうにも咄嗟にペダルから靴を外せなかった。横倒しに倒れ込んで、左半身を盛大に擦ってようやく止まる。
「東堂ッ!」
少し下で足を止めて待っていた荒北が慌てたように戻ってきて、ビアンキから飛び降りて屈み込んできた。
「大丈夫か!」
痛い、というよりは、びっくりしたのが大きかった。
自転車で転んだのなど、補助輪を外して自転車に乗る練習をした小学校低学年以来ではないだろうか。もう少し大きくなって、マウンテンバイクに乗るようになった友人達と、段差をジャンプしたり階段を上り下りした時も、基本的に器用で運動神経の良かった東堂は、普通の子供用自転車で転びもせずに一緒に遊んでいた。
ひっくり返ったまま、冬の空をバックにした荒北の焦った顔を見上げながら、これまでの自転車で転んだ経験を幼児期まで遡り、十四年の人生最大に転けたと結論づける。
「おい、東堂?」
「リドレイ!」
壊れたかもしれない、と思い至って、がばりと身を起こす。
転ぶ直前まで、どうしても外れなかったペダルはいつの間にか外れていて、少し離れたところに横倒しになっていた車体に手を伸ばすと、ヘルメットの上から頭を叩かれた。
「チャリの前にテメェの怪我!」
叱りつけられ、ジャージの襟首を掴まれて引き起こされた。
「あいた……」
改めて己の身体に意識を向けると、左の膝と腕が痛んだ。身体を捻って確認すると、袖が破けて擦り傷から血が滲んでいた。足の方は打ち身だろう。
「服が破けた……!?」
「そりゃ、あんだけ派手にコケりゃ、破れンだろ。長袖でヨカッタネ」
確かに、肌が露出していたら、もっと酷いことになっていただろう。
「服……」
「気にすんな、どうせこの後は着れねェんだし」
三年後の自分が周到に用意していた、昔着ていたと思しきサイズのジャージは、東堂が元に戻ったらもう捨てるしかないのだろうが。
「そう言う問題じゃない! みっともないじゃないか!」
「知らねェよ! じゃあコケんじゃねェよ、東堂のクセに!」
どういう言いがかりだ、と理不尽さにむっとするが、そんな東堂の様子に深刻な怪我はないと判断したようで、荒北は自転車に意識を向けた。
引き起こされた白い車体に、はたと気づいて走り寄る。
「ちょっと擦ったなァ。戻ったら自分でどーにかすンだろ。派手にコケた割に、曲がったりはしてねーな」
荒北の台詞に一瞬ほっとするが、白い車体からだらりと垂れたチェーンに気づく。
「荒北! チェーンが外れてる!」
「そりゃ外れんだろ」
当たり前のように応じて、荒北が奇妙な顔で東堂を見やった。
「お前、今までチェーン外れたことねーの?」
「ない」
実家のママチャリは大変丈夫だったし、転んだこともないので、何かトラブルが起きた記憶がない。
「……チャリがパンクしたらどーする?」
「自転車屋さんに持っていく」
きっぱりと応じると、荒北が肩を落とした。
「本当に初心者かよ」
「一回乗ったことがある」
「それを初心者っつーンだよ! ったく、ギアの変え方は知ってるか?」
「それは最初に乗った時に修作に聞いた」
「シューサクくんは、マンホールの上でブレーキかけたり速度変えたらタイヤが滑るってのは、教えてくれなかったワケェ? 特に下り」
なるほど、それでスリップしたのか、と先程転んだ理由をようやく理解する。
「オレが乗ったのは、登りのレースの時だったからな」
「初めて乗ってレースかよ、しかも登り」
ゴールできたのか、と問われて、できないものなのか、と首を捻る。確かに幼馴染みは足を痛めて途中でリタイアしていた。
「足切り食らわずに?」
「足切りって何?」
「制限時間内にゴールできねーこと」
「一位でそんなことになったら、そのレース自体が成立しなくないか?」
「……一位?」
「だって、一番早くゴールして制限時間内じゃなかったら、他のみんなも失格ということになるだろう?」
「いや、そーじゃなくて、初めてレース出て、初めてロードバイク乗って、ヒルクライムで、優勝したの、お前?」
「すごいだろ」
「……お前、本当に東堂だネ」
賞賛というよりは呆れたような反応なのが解せない。
「まァいいや、とりあえず初心者、ちょっと後で乗り方の基本教えっけど、まずチェーンの戻し方覚えろ。後、マンホールとか白線の上ではブレーキかけんな。つーか、回避できる時は避けとけ。どうしても通る場合はスピード変えない、ハンドルも切らない、とにかく通り過ぎろ。ロードのタイヤってのはそういうもんなんだと思え」
「そういうもの」
「そういうモンなの! 細いからしょーがねェの! 摩擦係数足りねェの! マウンテンバイクとは違ェの!」
「そもそも、ロードバイクとマウンテンバイクって何が違うんだ?」
「そこからかよ!?」
幼馴染みもそういう傾向があるが、彼らの中での常識は、そこまで一般的な常識でないことが多々あることを理解して欲しい。
「荒北は、ずっとロードに乗ってるのか?」
「……いや、そーでもねェけど」
高校に入ってからだ、と言うので、まだ二年も乗っていないことになる。知識も技術も、これからで間に合うということだろう。
「じゃあ、オレも今から乗ったら、高二の頃には荒北と同じくらいになるのか?」
「……アー、まあ、タイプ違ェけどな。お前クライマーだし」
「くらいまー」
「登るヒト」
雑な説明だったが、なんとなく納得した。
「じゃあ、荒北は下る人なのか?」
「アー、オレのはオールラウンダーっていう、何でもこなす方かなァ。下りは得意だけど」
「さっきの、すごかった。頭おかしい」
「誉めてねェ!」
「誉めてる!」
この賞賛が何故伝わらない、と声を高めると、珍妙な顔をした荒北がヘルメットの上から頭に手を乗せた。
「お前、チャリ乗ったら、めちゃくちゃ東堂になったネ……」
ここで言う東堂とは、荒北が知る三年後の自分なのだろう。
優しい苦笑いなどという、不思議な表情で笑った荒北がまっすぐに東堂を見た。
「お前、絶対チャリ乗った方がいいわ」
