キャベツと姫君

『金城ちゃん、助けてください』
 四時限目の講義を終え、携帯を確認すると、同じサークルのチームメイトから入っていたメールが不穏だった。
 名字を呼び捨てにすることの多い彼が、名前にちゃん付け、続く一言が目的語が明確でない丁寧語での救助要請ときては、まず身構えたくもなる。
 しかし、同時にそうそう泣きついてくるような性格でない荒北の弱音を無視できず、工学部のゼミ棟に向かい、実験室に顔を出す。
「帰れまセン」
「…………がんばれ」
 既に憔悴した顔の荒北に、他にかける言葉もない。
「三日は帰れると思うなとか、今日いきなり言われてサァ……」
「帰れるなんて思ってたヤスが甘ちゃんなんじゃあ」
「ッセ」
 背後から絡んできた待宮を押しやると、荒北は金城に向かって家の鍵を突きつけてきた。
「オレ、今日自炊するつもりで炊飯器セットしてきちゃってさァ、悪ィんだけど帰るついでにウチ寄って、飯食っていーから片付けてもらえナァイ?」
「なるほど」
 連日熱帯夜の続くこの時期に、炊いた米を三日も放置したらどうなるか、考えるだに恐ろしい。
「ついでに着替えも取ってくるか?」
 何の用意もしていない状態で泊まり込みを強制させられた荒北をそう気遣うと、荒北は一瞬顔を伏してから背中にまとわりつく待宮にやおら噛みついた。
「てめェら、少しは金城の優しさを見習え!」
「ケッ、色ボケにくれてやる優しさなんぞないんじゃ!」
「アァ?」
 執拗に絡む待宮にさすがに苛立ち、きつく睨みつけた荒北だったが、敵は彼だけではなかった。
「自炊しねえ荒北がわざわざ米を炊くなんて、カノジョと約束があったに違いねえ! 誰が帰らすか!」
「俺達を見下しやがって、このリア充が!」
「爆発しろ! 好きな雷管選べ!」
「爆弾作る前提で言うんじゃねェ! つーか、米ぐらいオレだってたまには炊くわ! 約束なんかしてねーヨ!」
 ゼミの仲間達から一斉に、理不尽な敵視と罵詈雑言を一方的に浴びせられた荒北がいきり立つ。
「聞いたか、こいつカノジョの存在は否定しなかったぞ!」
「よし、携帯を奪うんじゃあ! まず写メからチェック、次にメールじゃ!」
「てめェら、まとめて溶接すンぞ! カノジョなんかいねェよ!」
 大変仲の良いことである。
 罵り合う男所帯のゼミに嘆息しながら、金城は荒北の手から鍵を受け取って喧噪を背にした。

 三年次に上がって、契約更新をせずに前のアパートから引っ越した荒北の住居は、金城のアパートに近くなった。以前のアパートの方が大学には近かったのだが、こちらの方がスーパーやコンビニが近くにあって利便性は高い。
 引っ越してきてからは立ち寄る機会も増え、その道筋は既知のものだ。
 以前のアパートに住んでいた頃は、頑なに近寄らせようとしなかったので、てっきり己のテリトリーに入られるのが嫌なのかと思っていたのだが、今では気軽に鍵まで寄越してくるようになった。
 同じ自転車競技部に属して三年目、馴れ合ったのもあるのだろうが、この変わり身は少々解せない。
 同じサークルの待宮はそれを彼女と同棲していたからだと主張して譲らないが、当人はそんなものはいないと歯を剥いて否定する。
 金城としては、チームメイトの恋人の有無にさほど興味はないので、あまりその問題に関わっていないが、待宮をはじめとした悪友の間では格好のからかいの種のようで、よく大声でやりあっている。
 合コンなどに全く参加しようとしないこと、自炊をしない荒北が、時折手の込んだ手作り弁当をこそこそと構内で食べていることなどがその論拠で、工学部の希少種である女子に告白された時には、付き合っている相手がいると断ったらしい。その件については断る方便だと吊し上げられた際に言い訳していたが、怪しいというのが悪友達の弁である。
 元々、己の色恋沙汰を吹聴する性格ではないのだし、本人が言いたがらないなら放っておけば良いだろうに、反応を面白がって周りがつつくのをやめないのが、ここ最近の悩みの種だ。
「いい加減やめさせないと、そろそろ荒北が本気で怒ると思うんだが……」
 ぼやきながら荒北のアパートの前でロードバイクを止め、ぱちんと音を立ててペダルからクリートを外して降りかけた金城の視界の隅で、人影が動いた。
「荒北?」
 すっかり日の落ちた中、ロードバイクでアパートのドアの前まで乗り付けてきた金城を一瞬見間違えたのだろうが、体格の違うシルエットに驚いた様子で後ずさる。
 暗がりに半ば溶け込んだ人影は、肩に届く長さの髪をしていたため、一瞬女と見紛うが、呼びかけてきた声は男のものだった。
「…………金城」
 その声が己の名を呼んだことに、眉をひそめる。
 荒北の部屋の前で、おそらくは家主が帰ってくるのを待っていた人物が、金城の顔を見知っている。
 荒北と共通の知り合いということはサークルの関係者か、荒北に親しい誰かのはずだが、声にもその細身のシルエットにも覚えがない。
「久しぶりだな」
 そう告げられて、誰かと問うのは少々ばつが悪い。もう少し明るいところに出てきて名乗ってくれないだろうかと考えていると、言葉にしなかった要望に沿うように、彼は外灯の光が届くところまで進み出てきた。
「東堂?」
 顔が判別できれば、その人物の正体は知れた。
 東堂尽八。荒北と同じ箱根学園の、エースクライマーだった男だ。
 総北で金城のチームメイトだった巻島と関わり深く、ライバルを自称し、あの巻島をしてそれを認めさせていた。
 直接の関わりはほぼなかったものの、その登坂センスと少々風変わりな性格が強烈に印象に残っている。
「久しぶりだな、もしかして三年前のインハイ以来か?」
「そうかもしれないな」
 苦笑混じりの声が応じる。
 高校生活最後のインターハイで、同年代だった四人のうち、荒北は金城と同じ洋南大に、福富と新開は明早大へ進学した。二人とは大会でしばしば顔を合わせて競い合う関係で、レースの後には酒を飲んだりと交流は続いているが、そこで東堂の姿を見たことがない。
 酒の席で彼の進路を聞いたような気もするが、記憶は曖昧だ。
「荒北に会いに来たのか?」
 ここで帰りを待っていたのだから、そうに決まっているのだが、荒北が東堂と仲の良い印象がなかったので、少々意外だった。
 荒北が高校時代のチームメイトについて何か語る際には、圧倒的に福富の話題が多く、食べ物に関してはしばしば新開の名が引き合いに出された。東堂、というと、面倒くさそうにうるさかっただとか、新開と馬鹿ばかりやっていたとだけ、ぼやいていたような気がする。
 荒北の性格を考えれば東堂と性格が合うとは思えず、そこまで親しくなかったのだろうとなんとなく思っていたのだが、どうやら卒業後もこうして訪ねてくる程度の親交は続いていたらしい。
「荒北は?」
「実験に捕まってな、三日は帰れんらしい。頼まれて、家の中を片付けに来たんだ」
「三日……」
 鸚鵡返しに呟いた東堂が、僅かによろめいたようだった。
「携帯に連絡しなかったのか?」
 問うと、ぱちりと大きな目が瞬いた。
 まるで不思議なことを言われたとでも言うような顔をして、それからようやく聞かれた内容を理解したかのように、東堂はサイクルジャージの背中のポケットを押さえた。
「忘れてきた」
 東堂といえば、金城のイメージではいつでも巻島に長文のメールを送り、こまめに電話をかけてくる、携帯を片時も離さないタイプの男だったのだが。
「連絡をしてから来ればよかったな、今日は帰るとしよう。邪魔をしたな!」
 元々、どこか芝居がかったような口調の男だった記憶はある。声と動作が大きく、電話越しの離れたところからでも聞こえてくるマシンガントークに、巻島が辟易とした顔をしていたのをよく見た。
 親しく会話を交わしたことがないので、普段と違うのかどうかは分からない。
 ただ、明るい声が空元気に聞こえた。
「東堂、大丈夫か?」
 何がだ、と振り返る顔は暗がりに沈んでいて、表情はよく分からなかったが声は明るい。
「…………携帯を忘れたなら、オレから荒北に連絡をしよう」
 そう言った時には既にコールしていた携帯を手にした腕が一瞬強く掴まれて、その力に彼自身が驚いたように手を離す。
 不要だとばかりに首を横に振るが、呼び出しを切る前に電話が繋がった。
『何かあったァ?』
 前置きもなく問うてきた荒北に苦笑しながら、ひどく途方にくれたような顔をしている東堂を見下ろす。
「東堂が来ているんだが」
『ハァ?』
 想定外の名前だったのだろう、声のトーンが跳ね上がって、少し間があった。
『…………アイツから、何も連絡とか来てねーんだけどォ?』
「携帯を忘れたそうだ。ドアの前で待ってた」
『ナァニやってんだ、あのバカ』
 舌打ちが聞こえたが、本気で怒っているわけでないのは、この数年の付き合いで理解している。
「東堂」
 繋がったままの電話を差し出すと、両手で受け取った携帯電話を、東堂は少し困った顔で見下ろした。
『出ろ、バァカ!』
 テレビ電話の機能はないのだが、その様子を敏感に察知したらしい荒北の怒声が少し離れた金城の耳にも届く。
 何とも言い難い表情で携帯を耳に近づけた東堂が、一度目を閉ざし息を吸い込むと、不意に明るく笑った。
「スマンな! いきなり行って驚かせようと思ったらタイミングは合わないわ、携帯は忘れるわで散々だ。金城にたまたま会えなかったら、非常に困っていたな! ところで荒北、お前また金城に甘えて迷惑かけているんじゃないだろうな? お前は昔から一度懐くと、自分で思っている以上に相手に甘えるところがあるから……」
 立て板に水と捲し立てる声が、不意に途切れた。
 電話の向こうで荒北が吠えているわけでもないようで、少し首を傾げて電話の向こうに耳を傾けた東堂に何を伝えたのかは聞こえなかったが、代わるようにと告げたのだろう。礼を言って返してきた携帯を耳に当てると、低まった声で荒北が呼びかけてきた。
『金城』
「どうした?」
『今すぐそっち行くから、そのバカ逃がすな』
「出られるのか?」
『すぐ行く』
 一方的な宣言と共に電話が切られて、なるほど、と納得する。
 東堂の言うとおり、荒北は一度懐くと無自覚に甘えてくるし、向けられた方もついうっかり甘やかす。
 携帯電話を閉じて東堂に向き直った金城は、一つ嘆息して荒北から預かった鍵を取り出した。
「荒北がすぐに来ると言っている。上がって待っているといい」
「実験は?」
 抜けられるのか、と問われてどうにかするだろう、と気軽に答える。
 きっと今頃ゼミの悪友達に邪魔されて絡みつかれているところだろうが、あの様子なら全部振り切ってすっ飛んでくるだろう。友達思いなことである。
「ロードは部屋の中にスタンドがあるから」
 アパートのドアの鍵を開けながら告げると、東堂は小さく笑ってうなずいた。
 学生向けの安アパートの部屋は、玄関を入ってすぐに二台掛けのバイクスタンドが置いてある。
 本来ならば家主と自転車仲間が立ち寄った際に使うのだが、今回は東堂と金城で占領させてもらう。すぐに荒北もビアンキに乗って帰ってくるだろうが、先着順で片付けて置かないと玄関から出入りができなくなる。
「そんなに散らかっていないな」
「荒北が部屋を汚くしているのを、あまり見たことはないが」
 室内にロードバイクを保管する必要があるので、他のものは極力ものを減らしているのだろう。必要最低限の家具と家電しかない2Kの部屋は、金城が知る限り目も当てられないほど散らかっていたことはない。
 今も取り込んだ洗濯物と思しき服の塊が、畳まれずに部屋に隅に置きっぱなしになってはいるが、待宮のアパートの惨状を知っている身としては、この程度は許容範囲である。
「荒北は掃除させれば、きちんと片付けるんだが、忙しくなると途端に物を詰むんだ」
 寮生同士だった東堂の言葉になるほど、とうなずく。確かに課題とバイトが詰まっていた時などは部屋が荒れていた記憶がある。
 閉めきっていた部屋には昼間の暑熱がこもっていて、金城はミニテーブルの上のリモコンを使って冷房を作動させ、冷蔵庫に向かう。
 ついでに当初の目的であった、タイマーのセットされた炊飯器に目をやると、今まさに炊いている最中で、残りは二十分ほどだった。
 勝手に冷蔵庫を開けると、自炊する予定だったと主張していた割に食材はろくになく、調味料の他は愛飲の炭酸飲料と缶ビール、補給用のゼリー飲料、そして申し訳程度に野菜が転がっているだけだ。
 作ったばかりと思しき麦茶があるのを見つけて、洗い桶から引っ張り出したグラスとマグカップにそれぞれ注いでローテーブルに置くと、一言礼を言った東堂がそれきり黙り込んだ。その向かいに座ってマグカップに口を付けるが、すぐに間がもたなくなって金城は内心焦った。
 いつもの彼と違うと言えるほど、東堂という人物について知るわけではないが、巻島や荒北を通じて思い描いていた人物像とあまりに印象が異なる。
 馴れ馴れしいほどに人懐こく、よく喋る明るい男だと思っていたのだが。
「……巻島とは、今でも連絡を取っているのか?」
「ああ、メールやスカイプはよくしてる。巻ちゃんは不精だから、あまり返事は返ってこないが」
「だろうな」
 巻島らしいと応じて、それきりまた会話が途切れて奇妙な沈黙が落ちる。
 どうしたものかと悩みながら時計を見るが、荒北が辿り着くまではまだ時間がかかりそうである。
 見ないから、とテレビさえ置いていない家主の性格が今だけは恨めしい。
 金城も姿勢が良いと褒められる方だが、東堂のそれは筋金入りで、まっすぐに背筋を伸ばして微動だにしない姿は、何を見ているのか判然としない色素の薄い瞳と相俟ってマネキンでも前にしているかのような居心地の悪さがあった。
 話しかければ返事は返ってくるが、会話は長続きしない。
 共通の話題を探して、レースや自転車の話を振って、そのネタも尽きかけたところで、ようやく玄関のドアが音を立てた。
「ただいまァ」
 ドアを大きく開けて、特徴的なチェレステカラーのロードバイクを、狭い玄関先に逆さまに置いた家主は、まず玄関の二種類の靴に目を向けてから、スタンドにかけられた二台のロードバイクを睨み、最後に部屋の奥の二人を眇め見た。
「荒北」
 声を上げて立ち上がったのは金城だけで、東堂はゆるりと首だけを巡らせて戻ってきた荒北を見据えた。
 汗だくの顔をグローブの甲で拭って、荒北はじろりと昔のチームメイトを睨み据えると、大きく息を吐き出し、背負っていたボディバッグを外しながら大股で部屋を過ぎって東堂の前に立つ。
 顔を大きく歪めて人を睨む癖のある荒北は、本人が意識しているよりもかなり凶悪な顔をする。
 大丈夫だろうか、と一向に動こうとしない東堂と、その前に仁王立ちになった荒北の動向を窺っていると、手にしたボディバッグのジッパーに苦戦していた荒北が、ようやく中身を詰め込みすぎて変形していたバッグを開けて中に手を突っ込んだ。
 随分と大きいらしい中身をどうにか引きずりだして、不機嫌な顔で座り込んだまま荒北を見上げている東堂の頭の上に乗せる。
 薄い緑色の、少し平たく潰した球形の物体だった。東堂の頭と同じくらいの大きさで、重量もそれなりにあるのだろう。荒北が片手を乗せていなければ転がり落ちそうなそれを、両手で支えた東堂が、頭上のそれをどうにか視界に納めたようだった。
「キャベツ」
 紛うこと無く、キャベツである。
 立派な大きさの丸ごと一玉だ。大学構内で手に入るようなものではないから、きっと大学を出てからどこかのスーパーにでも寄って購入してきたに違いない。荷台などないロードバイクで、このサイズのキャベツをビニール袋でぶら下げて走るのも邪魔だと、ボディバッグに無理矢理詰め込んだのだろう。
 それは理解できるのだが。
「何故、キャベツ……?」
 思わず口に出して呟くが、箱根学園の元エース達は金城の疑問の声に気づかなかったようで、キャベツを頭の上に載せたまま真剣な顔で見つめ合った。
 何ともシュールな絵面である。
「全部使っていいのか?」
「他にどーすンの?」
 仕方ないとばかりに荒北が溜息を吐く。金城にはさっぱり状況が理解できないが、それを許可と理解したらしい東堂がぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう、荒北!」
 それまで、どこか欠落したような笑顔だったのが、瞬間的に満ち足りた。
 大玉のキャベツを頭の上に載せたまま立ち上がって、軽い足取りで部屋の外に向かう。
 そのまま帰るつもりなのかと一瞬考えるが、向かった先は玄関脇の小さなキッチンスペースだった。
 一度流しに野菜を置いて手を洗うと、慣れた様子で包丁とまな板、ざるを取り出して外側の葉を剥き、小気味よい音を立てて真っ二つに両断すると、芯を切り取り更に半分にする。
 四分の一になったキャベツの向きを変え、端に包丁を当てた東堂の横顔から、また笑みが消えた。
 この顔は知っている。
 幾度か顔を合わせたレースの中で何度か目にした、一点に集中した際の表情だ。金城のチームメイトとは対照的な静謐な走りをよく覚えている。
 記憶に鮮明に残った横顔が、この状況で合致しても困るのだが。
 とん、と一度包丁の刃がまな板に当たった音が聞こえたかと思うと、音はそのまま連続した。
「荒北」
「ナァニ?」
「東堂は、キャベツに親でも殺されたのか?」
「ずいぶんシュールな殺人事件ダネ」
 親の仇のごとく、一心不乱にキャベツを細かく刻む東堂の姿を眺めながら、荒北が汗に湿った髪をかきまぜながら嘆息し、ろくに口を付けていなかった麦茶のグラスを取り上げて一気に呷る。
「東堂って、実家が旅館なんだけどさァ。ガキの頃からそこの厨房出入りして、野菜の皮剥いたりする手伝いしてたらしくて? なんか、好きみたいなんだよネ、野菜刻んだりすんの」
「……ストレス解消なのか」
 半信半疑の言葉に、荒北が渋い顔でうなずいた。
「寮でもよく厨房のおばちゃん手伝って喜ばれてた」
 随分と人の役に立つストレス解消法もあったものである。
「つっても、部活終わる時間からだと手伝えることもなかったりして、新開の飼ってたうさぎの餌のキャベツを糸みたいな細さで刻んだりしてた。ぶっちゃけ、夜中に包丁取り出してスゲェ真剣な顔で野菜切り刻む男子高校生、スゲェ怖かったケド」
「……そうか」
「包丁研ぎ出したりすっし」
 何とも言い難い恐怖体験である。
 反射的に、同じクライマーだった巻島が特徴的な緑の髪を乱しながら黙々と真夜中に包丁を研ぐ姿を連想して、金城は無言で首を振って、埒もない妄想を振り払った。
「それで、東堂のためにキャベツを買ってきたのか?」
「……あれで機嫌直るんだから、チョロいンだよ」
 そっぽを向いた荒北に失敗したかと思うが、そこまで機嫌を損ねたようでもない。ただ、既に半分のキャベツを刻み終えた東堂の背中を、苦々しく見つめていただけだった。
「少し、東堂の様子がおかしい気がしたんだが、何かあったのか?」
「知らネ」
 先程携帯を貸した際もろくに会話をしていた様子はなかったし、実際事情は全く把握していないのだろう。先程から目線を東堂の背から離さないのは、どうやら金城から目を逸らしているのではなく、以前のチームメイトのことが心配でしょうがないらしい。
 相変わらず、なんだかんだと面倒見のいい男だ。
 それを知っているからこそ、東堂も荒北を頼って訪ねてきたのだろう。
「今日はゼミ戻らなくて大丈夫なのか?」
「あー、待宮がなんか喚いてたけど知らネ。明日の朝行く」
 それはまた、散々にやりあった末に、帰宅を邪魔する現チームメイトを蹴り散らしてきた様子が目に浮かぶ。
「じゃあ、オレは帰る」
 家主も戻ってきたことだし、もう東堂の相手をする必要も、当初の目的の炊飯器の面倒を見る必要もなくなった。キャベツの千切りで解消される程度のストレスを抱えていた東堂が、何か相談するなり愚痴を吐くにしても、金城が居合わせない方がいいだろう。
 腰を上げかけた金城のシャツの裾をはっしと掴んだのは、荒北の手だった。
「何だ?」
「……金城ちゃん」
 その、困ったような顔と呼びかけに、非常に嫌な予感を覚える。
「キャベツ、好き?」
「普通だ。荒北も別に嫌いじゃないだろう?」
「食えないほど嫌いじゃねェけど、あの量は二人じゃちょっとムリ」
 ざるの中に山になっている千切りを見やり、金城はその主張を認めた。学生向けの定食屋で山盛りを謳っているトンカツの付け合わせより、遙かに多い。
「何でキャベツにしたんだ?」
「大根にしたら、あいつ全部ぐるぐる薄く剥いて、刺身のアレにすんだぞ!」
「ツマだ」
 キャベツの千切りよりも更に、大量生産されても消費に困る代物ではある。
「今、新開もうさ吉もいねェし」
「ウサキチって誰だ?」
「新開が飼ってたウサギ」
 今、キャベツの処理係として、飼い主とペットを同列に並べた気がしたが、それは追求しないでおく。
 ここは付き合うしかないのだろうが。
 さすがに、キャベツの千切りだけをおかずに米を食べろと言われるのは困る、と思ったところで、切り終えたキャベツを水に晒した東堂が振り返った。
「荒北、他に何か買ってきたのか?」
「豚肉買ってきた」
 無理矢理詰め込んだせいで、トレイが少々ひしゃげた肉を取り出した荒北に、ふむ、と考え込む。
「生姜焼きにしたいところだが、生姜は?」
「この前買ってきたチューブのやつが、まだあんだろ」
「ちゃんとすり下ろした方が美味いんだがなあ」
 冷蔵庫を覗き込みながら食材の確認を始めた二人に、どうやらキャベツだけをおかずにしないで済みそうだと知る。
「じゃがいもが一袋に、胡瓜、人参が一本ずつ? ポテトサラダでも作るか?」
「時間かかンだろ、野菜はスティックでいいって」
「なら、じゃがいもは揚げるか」
 手早く夕食のメニューを決めていく様子は随分ともの慣れていて、ここに訪ねてきたのも、料理を作っていくのも一度や二度ではないのだろう。
 めったに自炊をしない上に、作るときはカレーを数日分だとか、野菜炒めなどを大皿に一つ作るだけという、一人暮らしの男子にありがちな料理スキルの荒北の部屋に、なぜ調理器具がしっかりと揃っているのかを常々疑問に思っていたが、この我が物顔の態度からして、東堂が揃えた気がしてきた。
 待宮などは、この調理器具の充実についても、荒北の彼女保有説を裏付けるものとしていたが。
「金城も食べてくカラァ」
 まだ金城が了承していないことを、さらりとねじ込んだ荒北をちらりと見やって、振り返った東堂は呆れ顔をしていた。
「金城、荒北があまりワガママ言うようなら、怒っていいんだぞ?」
「何でテメェにワガママとか言われなきゃいけねーんだよ!」
「自覚がないのは困ったものだな」
「っとにテメェは……!」
 嘆息一つで諦めた荒北が、東堂の頭に手を置いて、乱暴にかき回しただけで解放する。
 何をする、と騒いだ東堂も本気で怒ったわけではないようで、ずれたカチューシャを留め直すと、キッチンスペースに向かい直った。

 炊飯器が炊けたことを知らせる頃には、東堂は手際よく料理を終わらせていた。
 山盛りのキャベツと豚の生姜焼き、付け合わせにフライドポテト。人参と胡瓜はスティックにしてある。更に味噌汁と白米もあるのだから、金城からしても十分立派な献立だと思うのだが、東堂はまだ品数に満足していないようだった。
 味噌汁がインスタントな上に、ポリ容器をそのまま使うのも感心しない点らしかったが、適当に荒北があしらっているところを見ると、いつものことなのだろう。
 コンビニの割り箸を渡され、ここまでお膳立てされれば有り難くいただくしかない。
「いただきます」
 手を合わせて挨拶すると、ローテーブルの横に座った東堂も姿勢良く手を合わせた。その向かいで猫背気味に座って水色の箸を手にした荒北が、二人の様子をちらりと見やって渋い顔をした。
「……マス」
 省略した挨拶を少し気にしたようだったが、何も言わずに東堂が済ませてくれたので、ほっと息を吐き出す。
 なんとなく察してきたが、この二人、放っておくといつまでも些細なことでいちいち喧嘩をする。
 どうやら今日は随分荒北が心広く東堂に接しているようで、野菜を摂れだの規則正しい生活をしろだのといった小言も聞き流しているが、大学生活で知るいつもの荒北ならば既に手が出ているところである。
 優しいことだ、と小さく笑いながら料理に箸をつける。
「美味い」
 手際の良さからそれほど不安は抱いていなかったが、生姜焼きも糸のように細いキャベツも店で出されても遜色ない味で、ごく自然に口をついて出た感想に東堂が破顔した。
「見ろ、荒北! 箸をつける前にちゃんと挨拶して、出された料理に感想を言う! これがイケメンだ!」
「ヘイヘイ」
「ヘイは一回! そんなだからお前はモテんのだと、何度言ったら分かるんだ」
「っせェ。お前こそ、人を箸で指すなっていつも言ってんだろが!」
 白い塗り箸を握った手を捻り上げられ、自分の皿に向かわされた東堂が、行儀が悪いと指摘されたことに、しばらく神妙に箸を動かした。
「……それでだな!」
「黙って食え!」
 何か言いかけた瞬間、すかさず黙らせる間合いが手慣れている。
 同じ寮生だったというから、高校三年間の積み重ねがあるのだろう。荒北が戻ってくる前の居心地の悪い空気は消え失せて、和やかとは到底言い難いが、馴れ合った自然な空気がある。
 元気に騒ぐ東堂はキャベツを思う存分切り刻んだことで気が晴れたのか、表情も明るかった。対する荒北の表情は苦々しいが、普段から常にこんな顔をしているのでこちらも特に問題はない。
 山盛りのキャベツをどうにか三人で片付け、賑やかな食事を終えて金城が立ち上がると、今度は引きとめられなかった。
「東堂は?」
「あー、オレも帰……」
「危ねェよ、このバァカ!」
 代わりに今度は東堂が襟首を掴まれて引き戻された。
「オレ、明日の朝イチで出っかラ、そん時出てけ、このボケナス」
「なっ……!」
「荒北」
「ナニ、金城?」
 反駁しようとした東堂の口元を掌で塞いで物理的に黙らせながら、こちらを見ずに応じた荒北に素朴な疑問を投げかける。
「どうして、これから自転車長距離帰るのは暗くて危険で心配だから、今日は泊まっていけと言うだけのことが、そんなに難しい言い回しになるんだ?」
「金城ちゃんは、とっととお帰りクダサイ!」
 アパートまで自転車で五分程度の距離では心配を向けてもらえないらしく、こちらは蹴り出される。スタンドから愛車を下ろし、荒北のものと入れ替える間は待ってもらえたが、玄関先に仁王立ちになった剣呑な表情の家主が、今すぐに出て行けと無言で主張しているので速やかに退出するためにドアノブに手をかけ、金城は振り返った。
「荒北」
「ハイ、今度はナニ!」
「こら荒北! 態度が悪い!」
「ッセ」
 元チームメイトの友人に対する態度の悪さに、苦言を述べかけた東堂の頭を強引に押しやって、また一悶着するのを眺め、落ち着くのを見計らっておもむろに口を開く。
「ごちそうさま」
「…………ドーモ」
 苦々しい顔の友人に背を向けてから口元を緩め、金城はドアを押し開けた。

 荒北のアパートを出て、ロードバイクに跨る前にメッセンジャーバッグに入れっぱなしだった携帯をチェックすると、大量のメール着信があって目を丸くする。
 表示されている履歴は全て同じ人物からのもので、一時期の巻島の携帯の履歴を思い出したが、送信者はもちろん東堂ではない。
「……待宮?」
 同じサークルに所属しているのだから、それなりに連絡を取り合うことはあるが、普段はちょっとした連絡事項や飲み会の誘いなどが来る程度だ。十件もメールを送ってくるようなことはない。
 何事だ、とメール画面を開くと、短い一文がずらずらと連なっていた。
 使われている単語が乱暴なため、ヤクザの恐喝メールのようだったが、基本的に金城の所在の確認と連絡の要請だったので、首を傾げつつ返信メールを作成する。
【スマン、鞄に入れていて気づくのが遅れた。荒北のアパートを出たところだ。何かあったか?】
 返信次第では大学に戻る必要があるかと思いながら、携帯を手にしたまま自転車のサドルを押して歩き出したところで、携帯が震えた。メールではなく、直接電話をしてきたことによほどの緊急事態かと身構えながら電話を取る。
『荒北に会うたか!?』
「今、別れてきたところだが」
 荒北に緊急の連絡だろうか、と離れかけたアパートを振り返る。
『ヤツのオンナが来とるんじゃ!』
「…………来てないぞ」
 どうしてその件にそこまで熱心に食いつくのかが、金城には全く理解できない。
『あの裏切り者、急にカノジョから電話来て、勝手に帰りよったんじゃ!』
「いや、その電話はオレだ」
 冷静に指摘すると、一瞬電話の向こうが沈黙した。
『金城、お前、荒北のオンナじゃったのか?』
「いや?」
 冷ややかになった金城の声音に、少々危機感を覚えたのだろう、一つ咳払いをして待宮が体勢を整え直した。
『荒北のヤツ、電話の後血相変えて出て行きよったし』
「東堂が来ていてな、少し様子がおかしかったからオレから荒北に連絡したんだが」
『オンナか!』
 だから何故、そこまで躍起になるのかが理解しかねる。
「男だ。覚えていないか、箱学の東堂。山神と言われていたクライマーだ」
『アー、キレーな顔して、人んことぶち見下した目しとったヤツ』
「…………誰だ?」
『東堂じゃろ? 下賤の連中なんぞとは口もきけんって、スマした顔した箱学のエリートクライマー様』
 随分とその印象が悪いようで、一瞬不可解に思うが、三年前のインターハイを思い出して得心する。
 インターハイ三日目の待宮は、出走前から総北と箱学に対して揺さぶりをかけてきて、口八丁で仮初めの集団を形成し、一度は先頭集団に食らいついたのだ。あえてその戦略に乗って待宮と直接対決した荒北は、わだかまりをその後に引きずらなかったが、大学に入って再会した金城は一瞬複雑な気持ちになったものだ。
 待宮と東堂はインターハイ以降顔を合わせていないのだろうから、その印象は三年前のものだ。
 つまり、東堂の待宮に対する心証は間違いなく最悪だ。あの独特な雰囲気を持つ男が、人懐こい笑みも見せず一言も口をきかずに、あの時の待宮の振る舞いを冷ややかに見つめたのなら、待宮の印象は分からないでもない。
「東堂は、お前以外には明るくて人懐こいはずだが」
『何でじゃ!?』
「わざわざ軽蔑されるような煽り方をしたからだろう。普通、東堂はちょっと変わっているがいい奴だし、荒北にとっては大事な友達なんだ」
『それじゃ! あの野郎、紛らわしいんじゃ!』
 電話口で叫ばれて、閉口しながら何がだ、と問う。
『急に帰るなんぞ言いよるから、逃がさんって皆で囲んだら荒北のヤツ、マジギレしおってのう』
 予想通り、馬鹿馬鹿しい攻防を繰り広げての帰還だったらしい。
『大事なヤツが待っとるとか、ほっとけんとか脳みそ湧いたこと抜かしおったんじゃ! 普通、そこまで言うたらオンナじゃろ! こりゃ、現場押さえんといけんが、ゼミからこれ以上人抜けられんけん、金城に連絡とったんじゃ。なのに、男じゃと!? あのアホ、何考えとんのじゃ!』
「……オレには、何故お前達がそこまで荒北の交際事情を知りたいのか、さっぱり理解できないんだが」
『嫌がるからじゃ!』
 清々しいほどに迷惑な話である。
 ちなみに、荒北の性格からすると、元々吹聴するタイプではないのもあるが、ここまで徹底して口を噤んでいるのは周囲が面白がってからかうからだ。
「というか、本当に彼女なんかいないんじゃないか?」
 あの荒北があれだけきっぱりと彼女はいないと言い切っているのだから、疑う必要はないはずだ。ただの照れ隠しの言い逃れならば、もう少し違う言い方をするはずだと金城は思うのだが、待宮を筆頭に悪友達は別意見である。
『荒北の部屋見りゃ分かるじゃろ!』
「普通だろう」
 高校からの寮生活で慣れているのか、私物が少なめの部屋は基本的に片付いているが、課題の進行状況次第で時折荒れる、ごく普通の大学生の部屋である。
『グラビアが貼ってないんじゃ!』
 彼女が嫌がるからに違いない、という高らかな主張に首を捻る。
「オレも貼ってないが?」
『お前はエエんじゃ!』
 二十歳前後の男子学生が必ず部屋の壁にグラビアポスターを貼るものだという偏見もどうかと思うが、そこから一方的に除外されるのも大変に遺憾だ。
『それに、皿じゃ!』
「皿?」
『ほとんどペアで揃えとるんじゃ。茶碗もコップも湯飲みも』
「…………意外と細かいことに気づくな、待宮は」
 何人かで荒北の部屋に押しかけても、自炊をしようという流れにはならないので、コンビニなどで弁当や酒を仕入れて持ち込むのが常である。皿を出される機会はまずないはずだが、上がり込んだ時に日用の食器が二組ずつで揃っていることに、目敏く気づいていたらしい。
『オンナじゃ! 上がり込んで甲斐甲斐しく料理作るオンナがおるんじゃ!』
「さっき、東堂が料理していたが?」
『オトコはエエんじゃ!』
「そうか?」
 除外しろと唸る待宮に首を捻ると、電話の向こうで溜息が聞こえた。
『金城と話してると、話が進まんのう。エエか、ヤツは前のアパートでオンナと同棲しとったんじゃ。カノジョは短大生かなんかで、就職でもして春にここを離れたんじゃろ。今は遠距離で、時々オンナを今のアパートに連れこんどるんじゃ。今日は、絶対オンナが職場でなんかあって突然来よったんじゃ!』
 妄想と僻みだけで、随分と細かく捏造したものである。
「だから、今荒北の部屋にいるのは東堂だぞ?」
 冷静に事実を指摘すると、電話の向こうが一瞬黙り込んだ。
『…………クソ、荒北のくせにシッポ掴ませんとは生意気なんじゃ!』
 そうだそうだ、と背後で賛同する男達の野太い声が上がるのが聞こえてくる。
 否定し続けているにも関わらず、勝手な疑いをかけられて荒北も難儀なことである。
「荒北はそういう嘘を吐く男じゃないし、彼女はいないと言っているんだから、実際いないんだろう」
『金城には分からんじゃろうが、どう考えてもオンナの影があるんじゃ!』
 朴念仁と言われたも同然で、携帯を肩に挟んでロードバイクを押しながら金城は器用に肩をすくめる。
「彼女はいないと思うぞ。ともかく、明日あんまり荒北を弄るな」
 止めるだけ無駄だろうが、周囲のからかいで荒北が機嫌を損ねても面倒なので一応忠告し、なおも荒北の彼女保有説を唱え続けようとする待宮に、淡々と切るぞと告げて通話を断ち切る。
「彼女はいないんだろうが」
 ようやく沈黙した携帯を畳みながら、金城は独りごちた。
「恋人がいないとは、荒北は一言も言ってないだろう」

 ドアが閉まって、かつてのライバル校の主将の背がその向こうに消えると、急に沈黙が落ちた。どちらかと言えば寡黙な金城だが、いるだけで場を取り持ってくれていたのだと分かる。
 場を繋ぐのをやめた東堂が何も言わずに使った皿をまとめて流しに持って行くのを、無言で手伝い、一度テーブルまで戻った荒北は空調のリモコンを手にすると、設定温度を更に二度下げる。
「東堂ォ」
 呼びかけると、三人分の使用済みの皿でいっぱいになった小さなシンクに向かっていた東堂が、肩越しに振り返った。
「皿、ほっといていーから、コッチ来い」
 しかめっ面をして手招く荒北に、一瞬汚れた皿を気にしたが、素直に濡れた手を拭って歩み寄る。
「何……」
「ン」
 軽く広げられた両手に戸惑った顔をした東堂だったが、何も言わずにその肩口に頭を預けた。
 その背を抱えて引き込めば、もう少し肩にかかる加重が増えた。
 そのまま三分待って、一向に口を開く気配のない東堂に嘆息する。
「で?」
 痺れを切らして問うと、僅かに身動ぐが、肩に預けた頭の角度が少し変わっただけだった。背からその頭に手を置き換えて、もう一度呼びかける。
「それで、ナニがあったわけ?」
「………………」
「東堂ォ?」
「黙秘権」
「ザケンナ、この野郎」
 頭の上に置いた手に力を込めてやると、痛いと抗議の声が上がったがなおも口を割る気配はない。
「またかよ……!」
「守秘義務」
 その一言で、絶対に口を割ることがないと理解し、荒北は深々と嘆息した。
 昔から、このお調子者はいらないところでうるさいくせに、一度そうと決めたら何が何でも黙秘する。頑固かつ無駄に行動力のある東堂が抱え込んだトラブルに、高校時代も散々に振り回されたが、結局今も全くその性格は変わっていない。
「っとにテメェは……!」
 何かあったことを隠さなくなっただけでも進歩と言えるのかもしれないが、目に見える分、たちが悪い。
「外で待ってたってのはナニ? 鍵は?」
 春に引っ越した際に、合い鍵は渡している。
「忘れた」
「携帯も忘れたんだよなァ?」
「財布もない」
「……お前、ホント何やってンの?」
 肩に預けられていた重みがずるりと落ちて、胸元まで沈んだ。
「来るつもりなんか、なかった」
 そのままずるずると沈みかけるのを抱きとめて、くぐもった声に耳を傾ける。
「ちょっと山登ろうと思って、携帯も財布も置いて出て、登ってもなんか全然足りなくて、山越えれば静岡だなって思ったら、何か、来てた」
 ぼそぼそと聞き取りづらい上に、説明自体もあやふやで分かりにくかったが、この厄介で度し難い恋人が自分を頼りにきたことだけは理解できた。
「東堂、コッチ見ろ」
 なかなか顔を上げようとしない東堂に、再三呼びかけてどうにかこちらを見たところを頤を捕まえて、唇を重ねるだけのキスをする。
「してほしーこと、言え」
「…………荒北?」
「どーせ理由はダンマリだろ。なら、オレにしてほしいことくらい、ちゃんと言え。黙ってて分かるか、このボケナス」
「……どうして、お前はもう少し素直な物言いができないんだろうなあ?」
 しみじみと言うな、と渋い顔をすると、小さく笑った東堂が首に両腕を絡めてきた。
「何も言わなくても、オレの恋人はちゃんと、キャベツを買ってきてくれるからな」
「とりあえずキャベツ刻ませときゃ、機嫌良くなっからだよ」
「お前、そんなに生のキャベツ好きじゃないのにな」
 知っているなら千切りを量産するなと言いたい。
「しかし、金城を巻き込むのはどうかと思うが。金城は新開でもうさ吉でもないんだぞ、甘えすぎだ」
「甘えてねェよ」
「自覚なしか」
 困ったものだという顔で首を振るが、それを言う男に現在進行形で困らされている荒北である。
「で?」
 埒が明かないので要求を言葉にしろと再度促すと、首に回った腕に力が籠もる。
「まず、甘やかせ」
「へい」
「それから、甘やかせ」
「へいへい」
「最後に、めちゃくちゃ甘やかせ」
「へいへいへい」
「へいは一回!」
「へい、オヒメサマ」