「巻ちゃん!」
聞き覚えのありすぎる声が背後からかかって、まさかと振り向けば見知った顔が人混みの中で大きく両手を振っていた。
無視する、諦める、の二択が脳内に浮かんだが、選択する暇もなく自称ライバルがレースに集まった選手達をすり抜けて駆け寄ってきた。
「久しぶりだな、巻ちゃん!」
「そうか?」
二週間前に別のヒルクライムでやり合ったばかりだし、三日と置かずに電話やメールを寄越してくる東堂の人懐こさのせいで、全く久しさを感じない。今年の春先に出会って、何度かレースで競り合って、いつの間にか懐かれた。
「というか、珍しいな、巻ちゃんが平地のレースなんて」
クライマー同士、ヒルクライムに参加する時には互いの都合を確認しあいもするが、平地レースでかち合うことは想定していなかった。特に、坂に特化した巻島は平地を苦手としているので、通常、平地レースに参加することはない。
「まあ、たまにはレースで感覚確認しとかないといけないっショ」
苦手だからと全て避けて回るわけにもいかない。インターハイのコースは総合の三日間だ。己の感覚を調整するために参加を決めた平地レースだったので、誰も誘い合わせてはいない。
「だから、今日は一緒に走ろうとか思わなくていいっショ。オレ、平地は超鈍いから」
東堂もクライマーだが、彼の所属する箱根学園は優勝常連の強豪校だ。巻島のように坂だけに特化してレギュラーに選ばれることはない。彼は平地でも下りでも、今このレースに集まっている高校生達の中で上位に食い込む程度には走る。
そんな東堂が自分を待っても無駄だ、と事実を事実として告げると、東堂もあっさりうなずいた。
「今日はオレの方もこなさねばならんオーダーがあるからな、巻ちゃんとの勝負は次のクライムでしよう」
そう言う東堂は、箱根学園のジャージを纏っているので、これは個人的な出走ではなく部の活動の一環なのだろう。
「オーダー?」
問いかけに返事が返ってくる前に、荒っぽい怒声が人混みを割った。
「おいコラ東堂! 自分のチャリは自分で管理しろ、このボケナス!」
綺麗に人混みが割れた中、ずかずかと歩み寄ってきた選手も、東堂と同じ箱根学園のジャージ姿だ。二台の自転車を押しているが、そのうちの白いリドレーは確かに東堂の愛車だ。
どうやら、巻島の後ろ姿を見つけた東堂は、自分の自転車をその場に放り出してこちらに駆けつけてきたらしい。押し付けられたチームメイトは怒り心頭に達しているようだが、気にした様子もなく東堂は持ってきてもらった愛車を、当たり前のように受け取った。
「ご苦労」
「轢くぞテメェ。大体何を急に……」
叱りつけるような声が、巻島の目立つ緑色の頭に目を留めて、諦め混じりの溜め息に変わった。
「アー、巻チャンね……」
ならばしょうがない、と諦めないでほしいが、巻島自身も東堂から声をかけられた瞬間に諦めるという選択肢が咄嗟に浮かんでいる。
「荒北、巻ちゃんに会ったことあったか?」
「あるわけねェだろ。テメェが毎日毎日巻チャン巻チャン巻チャン騒いで、写真送りつけてくンだろーが! いい加減顔だって覚えるっつーの!」
巻島自身には非が無いはずだが、謝らないといけない気がしてくるのは何故だろう。
「あー、ちょっと東堂、こっち来いっショ」
手招くと、また自転車を仲間に押し付けて駆け寄ってきた東堂の頭にチョップを落とす。
「痛い!?」
何をするのだ、と喚き出す前に、トレードマークのカチューシャごと、その頭を握り潰すように片手で締め上げる。
「お前、何で人の写真を流出させてんショ?」
時々レースの前後に携帯で写真を撮られているのは諦めていたが、その画像が勝手に出回っているとは聞いていない。
どういうつもりだ、と問い詰めると、東堂が頭を締め上げられたまま、きょとんとした顔をする。
「何か問題があったか?」
「お前、プライバシーの侵害って言葉知ってるショ」
巻島の怒気に、東堂は依然として訝しげな顔をしている。もしかすると、彼にプライバシーという概念はないのかもしれないと不安を覚える。
「日本の法律では、表現の自由の方がプライバシーの権利より優先されるが?」
理解していないよりタチが悪かった。
「お前は、オレの写真で何を表現してるっショ!」
「オレの巻ちゃんへの敬愛」
てらいもなく言い放つ東堂は心の底から本気で、問題をはぐらかしている気などさらさらないのだろう。思わず絶句した巻島は、元々口の回る方ではない。狼狽えて目が泳いだ先に、東堂のチームメイトが苦々しい顔をしていた。
「東堂、テメェは黙れ。巻チャン嫌がってんだから、人の写メを他人に送りつけンのもやめろ。つーか何度も言ってるけどオレらもメーワク。ごめんネ、巻チャン。コイツ、自分の写真出回ってんの喜ぶ馬鹿だから、感覚おかしーんだわ。後でちゃんと叱っとくからァ」
「……お願いするショ」
さすがチームメイトだけあって、この突拍子もない男の扱いも手慣れた感のある対応にほっと息を吐く。同時に、特徴のある口調が耳に引っかかった。
「……アラキタ」
突然名を呼び捨てられて、東堂と何やら言い合っていた荒北が巻島を振り返った。
「ナァニ、巻チャン?」
「巻ちゃんって呼ぶなショ」
「あー、ゴメンゴメン、うちのバカがいつも呼んでるからァ。で、何、巻島チャン?」
ちゃん付けは消えないらしい。
「いや、いつもは電話越しで声聞いてっから、つい」
寮生活を送っている東堂の電話の背後でよく聞く声だ。
うるさい、いい加減にしろ、今何時だと思っている、という巻島が主張を諦めたことを言ってくれるのは有難いのだが、東堂が電話を握ったまま口論を始めるので、余計うるさくなる。時々、電話の奪い合いにもなっているようで、首尾よく奪取すると先程と同じ口調で、「ゴメンネ、巻チャン」の一言で通話が一方的に切られることもある。
東堂の呼びかけで、その人物が荒北という名前なのは知っていたし、その名前はしばしば東堂の話の中にも出てきたので、一度も会ったことがないのに妙に馴染みがあった。
同学年のオールラウンダー、二年でインターハイメンバーに選ばれた実力者である福富の言うことしか聞かない捻くれ者、口やかましくてすぐに暴力に訴えてくる乱暴者と、東堂にしては珍しく悪口が並ぶので印象に残っていた。
実物を前にした印象はと言えば、聞いていたイメージと大差ない。
少し猫背気味の細長い身体をだるそうに動かして、目つきの悪さと歪めた口元が不機嫌そうに見える。声の張り上げ方も、その口調も柄が悪く、言ってしまえばチンピラだ。
東堂が元ヤンだ、と説明していたが、その前情報がなくとも同じ印象を覚えていただろう。
なるほど、と巻島が思うのとほぼ同時に、荒北もふうん、と声を上げた。
「ハジメマシテ、巻島チャン。うちの東堂がいつもゴメンネ」
「いや、いつもすまないショ」
東堂尽八という特異な人物を通して妙な繋がりを得て、初対面の挨拶を交わすが、途端に大きく表情を歪めた荒北に、何か怒らせたかと戸惑う。
「荒北、顔が悪い!」
相手の機嫌など気にせず、東堂がその顔に正面から指を突き付け、どうなるかとひやひやするが、気の短そうな荒北は怒りだすことなく、逆に深々と息を吐き出した。
「いや、昔、新開の奴が『うちの東堂』って言ったな、って」
新開といえば、東堂の話の中によく出てくるスプリンターだ。仲が良いらしいとは知っているが、その程度の知識では荒北が急に不機嫌になった理由は推し量れない。
しかし、東堂にはその一言だけで通じたようで、ひどく嬉しそうに笑んだ。
「うちの」
「っせ」
「そうか、うちのか」
「ッセェ!」
「照れずともいいだろうに。ようやくお前にも箱学メンバーとしての自覚が芽生えたのだ、お前のヤンチャには手を焼かされたが、それも報われたというものだ。フクと隼人に伝えて今夜は赤飯を……」
「ウゼェ! 何様だ、テメェは! つーか今現在オレがお前の奇行に手焼いてんだよ、このボケナス!」
「何をする、この乱暴者!」
ぺらぺらと喋りだした東堂を荒北が拳骨を振り下ろして黙らせようとしたが、むしろ声量が高まった。噛みつき返す荒北の怒鳴り声も耳に痛い。電話回線越しに何度も体験した口論だが、納まるまで携帯電話を遠ざけていればよい通話と異なり、目の前で繰り広げられる口論に頭が痛い。
「なあ、お前ら今日二人だけかよ?」
主にその喧嘩を仲裁する意味合いで、誰か監督する人間はいないのか、と問うたのだが、東堂は快活な声で、経験を積ませるために一年を連れてきたと応じた。二人が引率らしい。
箱根学園は巻島の所属する総北高校とは桁違いの規模の部員数だと言うが、上にこんなアクの強い先輩が二人もいたら大変だろうと、自分のアクの強さは棚に上げて考える。
その苦労していると思しき一年生が、他のメンバーの準備もできたと、恐る恐る呼びに来る。
「オレはもうしばらく巻ちゃんと話してる! 荒北、一年の面倒は頼んだ!」
「テメッ、勝手なこと……!」
「ん? お前も巻ちゃんと親睦を深めたいのか?」
荒北の怒りに対し、故意なのか天然なのか、斜め上の解釈で返した東堂に、思わず荒北と巻島は視線を交わし合った。巻島はあまり人付き合いが得意な方ではないし、これまでの態度を見る限り、荒北もまた巻島とは別のタイプで誤解を受けやすそうな男だ。しかし、東堂尽八という非常に特殊な共通の知り合いを持つことで、確かに今分かり合えたような気がした。
「……巻島ちゃん、ゴメンねェ。ほんっとにウザかったら殴ってくれていーからァ」
「あー、ダイジョーブ。こいつ殴んの、ためらったことないショ」
ひらひらと手を振って、一年の面倒を見に行ってやれ、と示すが、一瞬険しい顔をして踵を返した荒北の反応が理解できず戸惑う。
「どうした、巻ちゃん。ああいう粗野な男は珍しいか?」
「いや、何か、今睨まれたような?」
チームメイトである荒北が、このお調子者を粗雑に扱っていいとお墨付きをくれ、それにいつものことだ、と返しただけのやりとりのどこに、気に障ることがあったのかと狼狽えるが、東堂は意に介さなかった。
「アレは目つきが悪いだけだ、気に障ったならスマン」
「いや、オレじゃなくて、あいつが……」
あの一瞬膨れ上がったプレッシャーをどう説明すればいいのか分からず、しどろもどろに訴えようとするが、東堂はカチューシャで髪を留めた頭を振ってみせた。
「うちの荒北はまあ、野良犬のようなものでな。あれでも大分フクに飼い慣らされたんだが、まだ他所の人間には唸ったりするが、本当に噛みつくことはないから安心しろ」
自信たっぷりに言う割に、どうにも分かってなさそうな東堂に、そこはかとない不安を覚えるが、一年に何か大声で指示している荒北を見やる東堂の顔が妙に嬉しげだった。
「……何ショ?」
「ああ、すまん。荒北が、『うちの』って言ったんだ」
同じ学校のチームメイトをそう呼ぶことに不思議はないと思うのだが、先の二人のやりとりからすると、特別なことのようである。
「あれは、外から来たからな。なかなか箱学を『うち』だとは思わなかったんだが、ようやくオレも、あれの『うち』にカウントされたらしいな」
そう言って嬉しそうに笑う東堂に、事情はさっぱり分からないが、一つだけ理解する。
「東堂、お前、アイツのこと好きショ?」
あれだけ派手にやりあっていた割に、そんなささやかなことを無邪気に喜ぶ姿に、結局のところ仲が良いのだ、と理解したのだが、振り返った東堂の顔は全く見知らぬものだった。
虚を突かれたような素の顔が、次の一瞬で凍り付いたように表情を無くし、その虚ろな顔に固まっていると、東堂がふと柔らかく笑んだ。
「さすが巻ちゃん、分かるか」
その時、ちょうど出走の準備に入るようアナウンスが入り、さすがの東堂も部に合流しなくてはならないのだろう、口早に巻島に激励の言葉を告げて青と白のジャージの集団に合流するために立ち去った。
「…………………え?」
呆然と立ち尽くしたまま、その一声を発したのは東堂が立ち去って大分経ってからで、ただでさえ苦手な平坦のレースで、その日の巻島の成績は最悪になった。
