投げキッスのお作法

 悲鳴が、聞こえた。
 が、エンデヴァーが動かなかったので、部下達は挙動に一瞬迷った。
「……騒がしいな」
 女性の悲鳴が複数上がっているようだが、駆けつけるべき緊急事態だと認識していないらしい上司に代わって、状況を確認しに通りの向こうに駆けていったサイドキックの一人からすぐに無線が入った。
『事故が起こりかけたところ、通りすがりのヒーローが未然に収束させたそうです。ただ、そのヒーローに人気があり過ぎて、ファンが集まってきてしまったようです』
 人気商売のヒーロー業では、往々に起きる野次馬による一帯の混乱である。少し前まで人気が今一つだったエンデヴァーも、最近は事件後の野次馬を整理する仕事がサイドキックの業務として増えてきている。
「誰だ?」
 この周辺をパトロール区域とするヒーローの中に、そこまで人気のあるヒーローがいたか、と上司が問うと、報告の声が一瞬言い淀んだ。
『……ホークスです』
「あの馬鹿者が!」
 浮ついた悲鳴では動こうとしなかった上司が、その名を聞いた途端にのしのしと歩き出して、慌てて部下達が追う。
「あ、エンデヴァーさん!」
 通りの向こうから燃え上がるフレイムヒーローを認めて、深紅の翼をはばたかせてウイングヒーローが飛来してきた。同時に上がった女性ファン達の落胆の声が怒号に近い。
「おつかれさまでーす」
 へらりと軽薄な笑みを浮かべて降り立ったホークスを、エンデヴァーがじろりと睨みつけた。
「何があった?」
「工事現場で鉄骨が落下しかけてたんで、対応しました」
 自在に操れるその羽で未然に事故を防ぎ、気づいたファンに愛想良くサービスをしているうちに人が集まりすぎてしまった、という流れらしい。
 この人気若手ヒーローの十分の一でも上司にサービス精神があれば、フレイムヒーローの評価は全く異なったものになっていただろうが、ないものねだりである。
「いやあ、エンデヴァーさんが来てくれて助かりました。どうやって切り上げようかと思ってたんで」
 強面のフレイムヒーローの迫力に圧されて一定距離から近づいてこないファンを軽く指し示しただけで、また盛大な悲鳴が上がる。
 あまり黄色い声を浴びる機会のないエンデヴァー事務所の面々がたじろぐほどの音量に加えて、その内容である。
「ホークスー! キスしてー!」
「…………どういうファンサービスをしているんだ、貴様は?」
「こーいうのです」
 グローブをはめた手を口元に当て、少々通行の妨げになっている集団に向かって送るように広げてみせるジェスチャーで、また凄まじい悲鳴が上がる。
 いわゆる、投げキッスである。
 アイドルヒーローならば珍しいファンサービスではないのかもしれないが、あいにくエンデヴァー事務所の場合は所長以下、全くの異文化である。
「最近、リップクリームのCMに出てて、何パターンかやったら、すっかりファンサに定着しまして。結構便利なんですよ。遠距離でもサービスできるし、同時に複数対応できるし、握手みたいに接触しないから個性事故確率も減らせます。どうですか、エンデヴァーさんもご一緒に」
 とんでもないことを誘ってくる剛胆さが、この若さでトップヒーローの躍進した一つの要因だろうが、怖いもの知らずにも程がある。
「俺のオリジナルだと両掌にキスするときに雑魚羽載せておいて、飛ばすときに息をふきかけてふわっと羽を浮かして散らすんですけど、エンデヴァーさんなら炎でやれば綺麗だと思うんですよ。はい、こう……」
 レクチャーしないでほしい。
「やらん!」
 上司が一蹴してくれたことに安堵するが、時折他事務所の所長のプロデュースに口出ししてくることのある若造は諦めていない顔をしていた。
「また今度、正式にお作法教えますね。今日はちょっと急ぐんで、それじゃ!」
 少し距離を詰めてきかけていたファン集団にちらりと目をやって、ウイングヒーローが浮き上がる。
 近日中に、投げキッスの作法とやらを伝授しにやってきそうな若者を、遠い目で見送っていると、有翼の青年が上空で振り返ってピースサインを向けてきた。
「エンデヴァーさーん」
 親子程も年の離れた同性のベテランヒーローの名を指名の上、ピースサインを作っていた二本指を口元に当て、腕を大きく振ってキスを投げてくる精神構造がよく分からない。
 なんとなく辺りを漂っていそうな概念上のキスを避けて身を引いた部下達と違って、逃げなかった上司がひょい、と手を上げて概念をキャッチした時点で理解が及ばなかったが、摘んだそれを口元に持っていった時点で思考が停止した。
 ぽてり、と重力に負けて近くのビルの屋上に落下したウイングヒーローの姿を目にし、首を軋ませながらゆっくりと周囲を見回して同僚達と顔を合わせ、今見たものが幻覚でないことを確認し、改めて上司に目を向ける。
「……エンデヴァー、今のは?」
「投げキッスを受ける側は、捕獲してキスを返す、と昔教わったが、今は違うのか?」
 上司は完全に真顔で、ふざけたわけでも若手をからかったわけでもないようだ。
「……誰がそんなことを?」
「学生時代にリカバリーガールに」
 キスの大家とも言えるヒーローである。わざわざ若造が口を出さなくとも、上司は作法を既に修得していたものらしい。
 うちのボスにファンサービスをさせてはいけない、という共通認識をサイドキック間で更に強固にし、首を横に張ってみせる。
「……エンデヴァーの場合は、捕まえた後、燃やすくらいがご褒美かと」