クライマークライマー

 銅橋正清は苛立っていた。
 正確に言えば、激昂していた。
 白を基調とした青と赤のサイクルジャージに憧れて、寮入りを渋る親を必死で説得して箱根の私立高校に進学した。
 その最大にして唯一の目的であった男子自転車競技部は、最悪だった。
 王者と称される、全国でも随一の強豪校だ。部員数も多く、有力な選手が集まっている。体育会系の部活にありがちな厳しい上下関係くらい、最初から理解していたし、我慢するつもりでいた。
 しかし、想定を超えた理不尽に、我慢はすぐに底を尽きた。
 尊敬できる先輩の命令なら従える。だが、良くも悪くも実力主義の銅橋には、王者の称号の維持に何の貢献もせずにその名の上にあぐらをかいた部員達の、理不尽な命令や嫌がらせを我慢できる余裕を持ち合わせていなかった。
 相手を殴っては退部になり、その度に入部し直すという異例の行動を繰り返し、最近ようやく少し落ち着いたところだったのだが。それは少しだけ、銅橋が受け流す術を覚えただけのことで、周囲の理不尽が収まったわけではなかった。
「オレより遅ぇくせに……!」
 常に腹の内に渦巻くその思いを口にしてしまえば、余計に反感を買う。分かってはいても止められなかった。
 案の定、常にくだらない嫌がらせを仕掛けてきては、怒らせて銅橋から手を出させようと煽ってくるくせに、自分達が侮辱されることには我慢できないらしい二年の部員達は、かっとなって銅橋を突き飛ばした。
 もう一度誰かを殴ったら永久退部、先日書かされた誓約はまだ有効だ。
 それを笠に着て後輩をいびって、反撃されることがないと安心しきったその態度が気に食わない。
 握りこみかけた拳を意思の力で開いて、心の中で一学年上の先輩の名を唱える。
 認めてくれた人がいる。自由に思うがままに走ればいいと言ってくれた。だから、こんなものは何でもない。ただの雑音だ。
「大体泉田もナニサマだよ。銅橋のことは任せろ、構うなとかよ。インハイメンバー選ばれてチョーシ乗ってんじゃねーの、アイツ」
 言い聞かせていた名が相手の口から出た瞬間、箍が外れた。
 相手の胸倉を鷲掴んで、その巨体に相応しい筋力で引きずりあげれば、一学年上の部員は一瞬怯えた顔を見せたが、すぐに虚勢を張った。
「な、殴ってみろよ、今度こそ再入部なんかさせねーからな!」
「知ったことかよ!」
 固めた拳を振りかぶった瞬間、怒声が部室全体を震わせた。
「ナァニやってんだ、てめェら!」
 スライド式のドアが外れそうな勢いで開かれて、跳ね返ってきたドアを慌てて抑えたのは副将の東堂で、怒声を上げたのは彼ではなくその隣に立つ荒北だった。
 三年のオールラウンダーで、エースアシストとして既にインターハイのメンバーに選出されている。
 どちらかというと痩せぎすな体型だが、目つきの悪さと口調の荒さからか、一番怖い三年として部員達には恐れられている。これまで絡んでくるようなことはなかったので、銅橋からすれば顔つきと口調程度で怖がる理由にはならない。
 メンバーに選出されるのだから実力はあるのだろうが、あまり真面目に練習をしている姿を見た覚えがない。悪く言えば、主将の腰巾着、その程度の印象だった。
「あ、荒北さん……!」
 吊るし上げていた二年の部員がたちまち萎縮して、こういう連中ばかりだから、声を荒げて恫喝すれば言うことを聞くとでも思っているのだ。
 誰がこんな連中の勝手な言い分を聞くか、と怒り狂ったまま胸倉を掴んだ腕を振り回せば、二年の身体がおもちゃのように軽々と振り回された。
 その肘が強く掴まれ、顔を大きく歪めた荒北が目を回しかけていた後輩の首根っこを掴んで銅橋の手から引き剥がした。
「銅橋ィッ! テメェの処遇は泉田に一任してンだよ、分かってンのか!?」
 持ち出された名に、完全に頭に血が上った。
「ッザケンナ! 泉田さんは関係ねーだろ!」
「関係あるから言ってンだよ! テメェが馬鹿やらかしゃ、泉田の責任だ。テメェが退部するだけで済まなくなンぞ!」
「んだよ、それはっ!!」
 目の前が真っ赤になる程の怒りに吼えると、荒北が突き刺さるような舌打ちをした。
「荒北、銅橋! 落ち着け、部室で暴れるな!」
 副将の東堂が横で叫ぶのが聞こえたが、言葉の意味など全く理解できない。腕を掴んでいた荒北を突き飛ばし、よろめいたところを殴り倒そうとするが、よろめいたように見えた三年は自分の意思で後退したらしく、その足で踏みこんで逆に距離を詰めてきた。
 弱いくせに学年を振り回して難癖をつけてくる連中とは違った、と頭の片隅で理解するが、もう止まれなかった。
「やめろと言っている」
「バッ! 東堂!」
 激突寸前の二人の間に、唐突に割り込んできた東堂に驚く。荒北は寸前で拳を止めたようだったが、銅橋は止まれなかった。距離が本来の目標だった荒北より近くなったため、拳を打ち付けるというよりは、腕で側頭部を殴りつけたような形になって、細身のクライマーの身体が薙ぎ倒された。
「東堂!」
「東堂さん!?」
 嫌な体勢で倒れこんだ東堂に、恐々と成り行きを見守っていた周囲が焦った声を上げるが、一番焦ったのは荒北だったらしい。慌てて膝をついて恐る恐る引き起した際に、ぐらりと傾いだ首を抱き支える。
「東堂」
 呼びかけに、身動いだ東堂が蒼白になった顔をゆっくりと周囲に巡らせた。
 血の気の失せた顔の中で、左目の周りの色が既に変わり始めて一層凄みの増した目つきで、この場に居合わせた部員の顔を一人一人見据えていく。
 睨まれた瞬間、ぞわりと背筋に寒気が走って、水を浴びせられたように頭が冷えた。
 最後に荒北を見上げた東堂は、無言のまま相手の頬を平手打ちにした。
 派手な音が響いて部員達が身を竦めたが、短気そうな荒北はそれには怒りを見せずに深々と嘆息した。
「病院」
「断る」
「保健室」
「嫌だ」
「乗ンな、ローラーも不可」
「……仕方ない」
 短い応酬の後に、もう一度深々と嘆息した荒北は東堂の腕を引いて立ち上がらせた。
 一瞬、足元が縺れたようだったが、すぐにまっすぐに立った東堂が、先程よりも痣の色がはっきりしてきた顔で再度周囲を睥睨した。
「何をしている、サボってないで各自今日のメニュー消化しろ」
 冷え冷えとした声に、部員達は震え上がると、ひっくり返った声で返事をして慌てて動き出す。
「東、高山、後で話があるから、可及的速やかに今日のメニューを消化させた後、オレの前に出頭」
 顔色を失った二年達を、いい気味だなどと思う余裕はなかった。
 普段、威厳のかけらもなく、女子がどうのと軽薄な言動で騒ぎ立て、外見とその軽いノリが受けているのか、実際に黄色い悲鳴を浴びている三年生、そんな印象しかない副将だった。山神と呼ばれるその実力は聞き知っていたが、登りは苦手な典型的なスプリンターの銅橋にとっては、ほぼ関係ない存在だった。
 その、関係なかったはずの東堂が、今、完全に銅橋の進退を握っていた。
「銅橋」
 名を呼ぶ声に、心臓に冷たい刃を差し込まれたような気がした。
「先程、荒北も言ったが、お前の処遇は泉田に一任している。泉田が来たら、今回の顛末を報告。その後はいつも通り練習。部活終了後、泉田と一緒に出頭」
「…………はい」
 うなだれてうなずくと、それまで不機嫌そうな顔で黙りこんでいた荒北が解散、と声を荒げた。

 クラスの用事で少し遅れてやってきた泉田に、事情を説明すると、尊敬する先輩は短く刈った頭を抱えこんだ。
「東堂さんの制止を聞かずに荒北さんと殴り合いになりかけて、止めに入った東堂さんを殴り倒した……?」
「……スイマセン」
「銅橋の力で、東堂さんを吹っ飛ばした?」
 重ねて問われて、大きな体をせいいっぱい縮めて謝罪する。
「怪我は!?」
「すぐ立ち上がってましたけど……ちょっと足元ふらついてて、顔色悪くて、目の辺り、今はたぶんかなり腫れてると思います。今日は練習出ずに、奥で休んでるみたいっす」
「…………東堂さんの顔に、傷」
 死にそうな顔色になった泉田に、銅橋も死にたい気分になった。
「……分かった。終礼ミーティング後に、僕も一緒に行くから」
「スイマセン」
「あ、いや、今回の件に関しては、東堂さんと荒北さんに任せておけば問題ない。反省はしてもらわないと困るけどね」
 銅橋が地の底まで落ち込んだ気配を察して、泉田が慌ててとりなした。
 ただ、と続けて遠くを見やった泉田の目が昏かった。
「今後、東堂さんから、すごく理不尽な扱いを受けるかもしれないけど、今日暴れた報いだと思って諦めろ」
 それは、これまで年長者というだけで振りかざされてきた理不尽と何か違うのだろうか、と湧いた疑問は、如実に顔に出たらしい。
 泉田が、両肩に手をかけて真顔になった。
「いいか、銅橋。クライマーを、理解しようとするな」

 今回の件の発端になった二年の二人は、東堂に相当怒られたのか真っ青な顔をして、終礼のミーティングでは部室の隅で小さく目立たないように立っていた。目立っていたのは東堂の目の周りに巻かれたバンド式の冷却材で、部員の怪我を見過ごすわけにもいかないのだろう、顧問がどうした、と声をかけると、東堂は憤然と座っていたスチール椅子から立ち上がった。
 その動作からして、もう殴られた衝撃からは完全に回復したようだ。
「聞いてください、先生!」
 告発の手がまっすぐに銅橋を指し示した。
「荒北の考えなしで粗忽な振る舞いが……!」
「よし、荒北、謝っておけ!」
 解決、と顧問が東堂の口上を強制終了させると、ふざけるな、と銅橋の横に立っていた荒北が怒声を上げる。
「どっちが悪ィかも聞かねェってのは、どーいう了見っすか! なんでもかんでもオレが悪ィのかよ!」
「荒北が悪いとは言ってない! いいから謝っとけ! 面倒だから!」
「…………ゴメンネ」
 大人の意見を容れた荒北が棒読みで謝罪すると、分かればいい、と東堂があっさりと座りなおした。
「ピノ!」
「へいへいへい」
 何の叫びかと思ったが、どうやら市販のアイスの商品名だったらしい。それを献上するなら、怒りを収めるという意思表示に、渋々応じた態度が気に食わなかったか、細い眉が跳ね上がる。
「ハートが出るまでな!」
「一生かよ! フザケンナ!」
「とりあえず要求呑んどいて、適当にのらくら躱しとけ、荒北」
 大人のアドバイスに、それまで騒ぎ立てていた東堂が、不意に真顔になって顧問に向き直った。
「差し出がましいことを言いますが、怒りの理由を理解していないのに謝る。約束を守らず、だらだら引き延ばす。どちらも男女関係の破綻の大きな要因かと」
「先生ェ、嫁さん実はもう離婚準備してねェ?」
「黙れ、このクソガキども! 毎日毎日どうでもいいことでケンカしやがって! いいかげんにしろ!」
 一喝して口の減らない高校生達を黙らせた顧問はこの話題を強制終了させ、次の報告事項に移った。
 それはつまり、東堂の顔にくっきりと刻まれた暴力の痕についての一件が不問になったということで、おそらく、顧問の脳内ではそれは東堂と荒北間の既に解決した、いつも通りのささやかなトラブルと処理されている。
「あ、あの……っ」
 当事者で東堂の傷の加害者である銅橋が狼狽えて声を上げかけると、右腕を強く掴まれると同時に左足を踏まれた。
 左足を素知らぬ顔で踏みつけたのは荒北で、腕を引いたのは泉田だった。
「お二人の判断に従う。邪魔をしない……!」
 小声で泉田に叱りつけられ、口を噤んでいる間にミーティングは終了した。解散を命じられた部員は、いつも通り自宅組が優先して帰る準備にを始め、寮生は更衣室が空くまでの間、しばらくだらだらと飲物を買いに行ったりその辺で駄弁るのが常だ。いつも通りに散ったように見えるが、さりげなさを装って部室に残った部員が多いのは、今回の経緯を知っているからだ。
 椅子に座って部誌に向かう東堂に近づく泉田と銅橋を、周囲の好奇心を隠しきれない目が見守っていた。その注目に気付いているのかいないのか、部誌に教師のような字で細々と書き込んでいた東堂が、そこに座れ、と空いたパイプ椅子を示した。
「泉田、荒北を見なかったか?」
「先程、外に出て行かれたみたいです」
「……勝手な行動ばかりする奴め……、仕方ない、少し待つか。それから、お前らはいつまでもだらだらしてないで片付けて帰れ」
 銅橋が今回の件で副将からどんなお咎めを受けるのか、興味津々な部員達を一瞥した東堂の一言は何気なかったが、どこかひんやりとした響きがあった。
 これまで威厳などかけらもない、賑やかし役の副将だとばかり思っていたが、そんなことはない。正しく彼はムードメーカーで、声の温度一つで場を掌握している。
 並外れた体格の銅橋からすれば二回りも小さい細身のクライマーの体格で、先程は軽々と殴り飛ばせたにも関わらず、一切勝てる気がしない。
 野次馬が散って、残っているのは東堂の振りまいた冷気にも動じなかった面々で、三年の主要メンバーと二年でも役職のついている者ばかりだ。主将の福富も新開と並んで部室の片隅からこちらを眺めていて、今回の采配は完全に副将の東堂に任せているものらしい。
「東と高山の言い分は先程聞いた。泉田、お前からも報告」
 人の移動が落ち着いてから、東堂が泉田を振り返る。
 直立不動で立ち上がった泉田が、先程銅橋が話した内容を簡潔にまとめて報告する。
 要するに毎度のことで、二年の二人が雑用を一年の銅橋に押し付けようとして、銅橋が反発。その態度が生意気だと横滑りした非難の中で銅橋が我慢できずに怒り出し、止めに入った荒北や東堂のいうことも聞かず、荒北に殴りかかろうとして間に入った東堂を打ち倒した。まとめてしまえば、ただの短気な馬鹿そのものの行動だ。
「僕の監督不行き届きです! 申し訳ありませんでした!」
「そうだな。泉田、確かにお前には銅橋の件を任せたが。その後、三年の誰にも、報告も相談もしていないな?」
「お忙しい先輩方を煩わせてはと……」
「その結果が、今日のこれじゃないのか?」
「申し訳ありません……!」
「俺達は、お前に一人で対処しろと言ったか? 同学年の誰かには相談したか? 今日の一件、もし荒北と銅橋が殴り合いになって、二人とも停学処分、部も活動休止、インターハイは出場取りやめ、そんなことになっていたらどうする?」
「考えが足りず、誠に申し訳ありません!」
「そんなの泉田さんのせいじゃ……!」
 自分の所業で泉田が責め立てられている事実に狼狽えた銅橋を、東堂が片目の一睨みで動作を封じた。
 発言も行動も許していない、と言下に示した東堂に、ここで迂闊なことをすれば累は泉田にも及ぶと知って銅橋は黙り込む。
「ちなみに、銅橋はお前にどうして怒ったかまで報告したか?」
「いえ、理不尽な命令に我慢ができなくなった、と」
「一応、銅橋が暴れ出す少し前から様子を見ていたんだが、お前が侮辱されたのが最大の原因だな」
 見ていたなら、何故そこで奴らを黙らせなかった、とカッとなりかけた頭を、また氷水でも湛えたような隻眼に黙らさせられた。
 この目を、あの時点で彼らに向けてくれればよかったものを、と恨む気持ちが湧くが、そんなささやかな不満も口にはできない。
「銅橋の、先輩に対する敬意の在り方には些か偏りがあるな?」
「僕の指導が至らず、申し訳ありません!」
「いや、信奉されるのは悪いことじゃない。崇め奉られて慢心しなければ、それはお前を磨く」
「そう…でしょうか?」
「オレを見ろ、山神と呼ばれ、数多のファンに応援されて、これだけ速く、美しくなったのだぞ!」
「……はぁ、そうですね……」
 曖昧な口調で相槌を打った泉田を気にせず、平然と最上級生は話を戻した。
「ただ、銅橋の場合、お前以外は全員屑だと頭から思い込んでる節がある。そんな態度でいれば、どこでも反感を買うのは当たり前だし、その度に泉田の立場も悪くなるな」
「ッ!」
 指摘されたことに動揺すると、ようやく東堂が黙らせる以外の目的で銅橋を見た。
「荒北が言ったのはそういう意味だが、お前は全く違う意味に取り違えて余計にキレたな?」
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「まあ、荒北も言い方が悪いし、あいつは顔も悪いからな。仕方ない。この件は荒北が戻ったら、改めて荒北と話せ。あいつもお前に言いたいことがあるだろう。オレからお前に言うことは特にない。泉田に一任している」
 そのまま平坦な声で、東堂が銅橋の不始末の監督をする泉田の名を呼ぶ。
「監督不行き届きの罰として週末、寮の風呂掃除。銅橋も割り当てて構わんが、二人とも部の練習時間を割くことは許さない。自分の空き時間を割り当て、寮生に迷惑をかけないスケジュールで終わらせること」
「はい!」
 深く頭を下げた泉田に従って、銅橋も頭を下げたが、上目遣いに自分にだけ罰則を与えてくれればよかったものを、という不満が滲んだのが知れたのだろう、にっこりと口元を笑ませた東堂の目はまだ笑っていなかった。
「ちなみに、東と高山には今週いっぱい部活の時間、雑用を命じておいた。これまで随分自分の当番をさぼっていたようだからな。何か雑務があれば全部任せて構わん。練習がしたければ、あいつらも早起きでもなんでもして自主練するだろうし、そこでしないなら、部の練習に参加させる意味もない」
「は……」
 練習時間を削ることを許されない自分達と、練習などしなくていいと言われたに等しい二年の二人の扱いの差はあからさまだ。
 この副将、心底怖い、と今日初めて理解して震え上がった銅橋に、泉田と背後で様子を眺めていた黒田が揃って嘆息する。
「それで荒北、お前はどこに行ってた?」
「テメェがワガママ抜かすからだろーが!」
 精神的な体感温度が氷点下まで冷え切った部室内の空気を全く察していないのか、乱暴にドアを足で開閉した荒北が、提げたビニール袋をがさつかせながら東堂に歩みより、袋を叩きつけるように机に投げ出した。
 荒北の乱暴な所作はいつものことだが、今はまずいだろうと内心慄いた銅橋だったが、東堂は冷却材を当てていない方の眉をわずかに動かしただけに留まった。隠された半面で、どんな表情の変化があったかは考えたくもない。
 考えたくもないというのに、空気を全く読む気がないらしい荒北は、平然とその顔から冷却材を毟り取った。
「うわ、ヒデェ」
 周囲のざわめきと、はっきり言い切った荒北の声に、恐る恐る目を向けると、無惨な有様になった東堂の顔にいたたまれなくなる。
 当人の主張通り、その顔は本来が整っている分、青黒く腫れて歪んだ目の周りが痛々しい。先程、泉田が東堂の顔を傷つけたと聞いて、絶望的な顔をした理由がよく分かる。
 これは、彼のファンが黙っていない。
「なんか、皿とか数えてそー?」
「突っ込むのも面倒だが、絶対お前、四谷怪談と番町皿屋敷が混ざってるだろう? というか、痛い、触るな!」
 変色した目の周りを指で突かれた東堂が、鬱陶しそうにその手を払う。
「もーちょい冷やしたら、あっためておけよ」
「分かってる」
 冷却材を当てて留め直す荒北に不機嫌そうに応じると、東堂は投げ出されていたビニール袋に手を伸ばした。
「……今買ってきたのか」
「今行かねーと、門閉まンだよ!」
 コンビニの袋から出てきたのは、先程東堂が所望していた市販のアイスの箱で、どうやらこれまで荒北の姿がなかったのは、律儀にそれを買いに出ていたかららしい。
「さすが靖友、尽八の扱いに手馴れてるな!」
「慣れたくねェよ! こいつ、夜までに買ってこなきゃ怒るし、門限後に出たら出たで怒ンだぞ!」
 新開の台詞に噛みついてから、そのままの顔で東堂に向き直る。
「これでチャラだからな!」
「ならんよ。ハートが出るまでと言っただろう!」
「出るか!」
 やりあい始めた二人を唖然と眺めていると、泉田に袖を引っ張られて壁際に下がるように指示された。
「ねえ、ユキ。あれ、荒北さんは東堂さんに一生隷属って意味なのかな?」
「買い続けりゃそのうち出るだろうけど、いつのことだか。お前らは一回の罰で済んでよかったな」
 泉田の問いを受けて、少し皮肉っぽい口調で応じたのは二年の黒田だ。
 クライマーなのであまり銅橋が関わることはないが、インハイ候補に最後まで残った実力者で、泉田とも仲が良いのは知っている。
「まあ、あの二人はなんか理由つけてケンカしたいだけだから、放っとけば……」
 止めるつもりなのか、単にかぶりつきで観戦しているだけなのか、荒北と東堂のすぐ横でやりあいを眺めていた新開が、のんびりとアイスが溶けるよ、と声をかけ、勝手に箱を取り上げて封を切った。
「ユキ、どう思う?」
「新開さんが全部食っちまったら、三年の関係が更にこじれる。何が何でも止めろ、塔一郎」
「……分かった」
 緊張した面持ちの黒田と、悲愴感漂う泉田の決意の表情の意味はさっぱり分からなかったが、紅白の紙箱を開けた新開の動作が、ぴたりと止まったのは気にかかった。
「靖友すげぇ、ハート出た」
 振り返って告げた新開に、どよめきが広がる。
 新開の手元を覗き込んだ福富が本当だ、とうなずき、東堂と荒北も珍妙な顔でそれを確認する。
 先程から東堂が主張している、ハートが出るまで、というのは、このアイス菓子が恒常的に仕掛けているキャンペーンのことだ。通常、箱にはチョコレートコーティングされた円形のアイスが六個並んでいるが、ごく稀にハート型や星形の特別な形のものが封入されている。当たりくじというわけではなく、それで何かもらえるわけではないのだが、そのレア感で喜ばれる代物である。
 銅橋も中学の頃にクラスメイトが引き当てたのを見たことがあるし、何がすごいわけでもないのだが、皆で大騒ぎした覚えがある。狙って出るものでもないので、これが出るまで買えというのは、ずっと買い続けろという意味だったのだろうが。
「さすが靖友。こういう時はきっちり当ててくるよな」
「荒北は、強い」
「ラッキースケベ男め……!」
 それぞれの所感を三年が述べ、東堂の一言に荒北が容赦なく額を指で弾いた。
「意味分かって言ってンのか、この不思議ちゃんクライマー!」
「うるさい、このラッキース……!」
 おそらく、意味合いを間違えて覚えていそうな単語を連呼される前に、荒北が箱に封入されているピンでハートの形のアイスを突き刺すと、問答無用でその口に放り込んだ。
「ひどい! まだ写メってないのに!」
「っせ」
 もう一つ放り込まれて、さすがに口の中がいっぱいになったらしい東堂が黙りこみ、荒北は次のアイスをピンで刺すと、にやにやと笑っている新開に目を向けた。
「お前か?」
「この前、藤原が九割がた嘘で色々教えてた」
「よし、後でシメる」
 餌をちらつかされ、あっさり東堂に余計な言葉を教えた仲間を売った新開の口にアイスを放り込むと、主将にも一つ与え、一つを自分の口に放り込んで、最後の一つをピンで刺すと空になった箱を無造作にごみ箱に投げ込む。
「……さすが荒北さん」
「山神の呪い回避能力パねぇ……!」
「呪いなんすか……!」
 ひそひそと言い合う二年二人に思わず声を上げると、泉田も黒田もなんとも言い難い顔をして互いの顔を見合わせた。
「呪いというか……」
「祟りっつーか、なんかフツーに不幸になるよな」
「ユキ、その言い方はさすがに……」
 そんなことを言い合っている間に、その山神の呪いが効かない男がこちらに向かってきていた。
「泉田ァ、これ、借りンぞ」
「あ、ハイ!」
 物でも貸し借りするかのように扱われても、もう反発する気持ちは起きなかった。諾々と指で呼ぶ三年に従って前に出る。
「口」
「……は?」
「開けろ」
 命じられるがままに口を開けると、冷たいチョコレートの甘さが舌に乗った。後輩で最後のアイスを消費すると、ピンも器用にごみ箱に投げ入れた荒北はちらりと部室内に目を走らせ、外に出るよう銅橋に促した。
 荒北の背についていく銅橋をいくつもの視線が追う。心配そうな泉田の目と、黒田の鋭い目だけが印象に残った。
 部室の外に出ると、梅雨時の湿った冷たい空気が身を包んだ。
 気分的な体感温度は低かったものの、部室内はなんだかんだと人が多くて暑かったのだと今更気づく。大きく息を吐き出すと、痩せた狼のような雰囲気の男が口元を歪めた。凶悪な表情に見えたが、これで笑っているつもりかもしれない。
「東堂に絞られたァ?」
「絞られた、というか……」
 長々と説教されるものと覚悟していたが、話自体はごく短かったし、その間、副将はほとんど銅橋のことを相手にはしなかった。ただ、軽く捻られて、たったそれだけで完膚なきまでに伸された。
 そうか、これは絞られたのか、と気力の全てが奪われて薄っぺらくなった己の状況を理解する。
「ヤだろ、自分のせいで泉田が叱られんの」
「……はい」
 東堂はそれをよく理解した上で、泉田の指導が悪いと銅橋の目の前で叱った。最初から荒北はそれを言っていたのだと、ようやく分かった。
「オレが、お前と同じ立場だったってのは聞いたァ?」
 一瞬言われた意味が分からず、きょとんとしたのが答えになったらしい。一つ嘆息して、言いにくそうに頭を掻く。
「あー、だから、オレ、一年の頃ちょっと荒れてて」
 一年の間で荒北は昔不良だったと、まことしやかに語られる噂をこれまで、少し怖そうな先輩に対する尾ひれのついた噂でしかないと聞き流していたが、当人の口からちょっと、と出てきたということは、相当荒れていたのだろうと予想できた。
「で、まァ、福ちゃ…福富にチャリ部引っ張り込まれて、この部、今も昔も大して変わンねーから、最初の頃スゲェムカつくことしかなくて」
 組織からはみ出す異物を排除しようとする、どこか閉塞的な雰囲気は強豪校としての矜持が悪い方向に働いているのだろう。
「で、オレの場合、暴れたり壊したりすると、頭下げンのが同じ学年の福富なんだよ」
 ああ、と初めて理解する。
 荒北は主将の福富のアシストで、レースだけでなくどんな場面でも彼の補佐に回り、その言動を支持した。それを腰巾着と捉えていたが、そんなことはない。ただ、銅橋にとっての泉田が、荒北にとって福富だったというだけだ。
「暴れたって、本当には黙らせらンねェんだよ。逆にあいつらが正しいことになって、余計調子に乗る。黙らせンなら、実力でやれ。そのうち黙るから」
 東堂が、荒北に話を聞けと言ったのはそういうことか、と知る。何でもかんでも、後から分かることばかりだ。
「弱ェ奴はそれで黙る。何したって黙らねェ奴は……」
 ちらり、と窓から部室の中に走らせた目は、自転車競技部一番のうるさ型である副将の背に向けられたようだった。
「何しても黙らねェから、それは諦めろ」
 真理だろうが、荒北も言われっぱなしでいない気がしないでもない。
「つーかさァ、今回の件、なかったことになったけど、ラッキーとか思ってる?」
 無言で首を横に振る。
 東堂の怪我が顔が少々腫れあがった程度で済んだのは、単純に運が良かっただけだ。もう少し当たり所が悪ければ、インターハイを控えたエースクライマーに、取り返しのつかない怪我をさせることになったかもしれない。
 東堂を殴り倒した瞬間の、ぞっとするような感覚は、いまだにこの腕にまとわりついたまま、消えない。
 それに、東堂が指摘した通り、あのまま東堂が割って入らずに荒北と殴り合いになっていたら、部にも処分が下るような騒ぎになっていた可能性は非常に高い。
 これまでの、殴って何が悪いと居直れる根拠は何一つなかった。
「ならいい。何しても許されるとか調子乗られると困っからな。アホどもから目離して調子乗らせたのは、オレら三年の責任。アホどもがイビんのやめねーって分かってンのに、変に奴らに日和って、ちゃんと同学年抑えねーで、お前にだけガマンさせたのは泉田の責任。ガマンしろって言われてんのに、暴れたのはお前が悪ィ」
「スンマセン……」
「マァ、オレが言えた義理じゃねェんだけどな……」
 説教は柄じゃないと居心地悪そうに頭をかく荒北も、一年の頃には似たような立場にいたのだ。
「オレの場合は、物は壊したけど、人は殴ンなかったからなァ……。あんまし面と向かって言ってくるヤツがいなかったつーか、全部東堂が文句言うから他のヤツが言う隙がなかったつーか、オレと東堂が喧嘩すっから、周りが止めてたっつーか……。なんか途中からオレが同情される側になってたっつーか……」
 面倒くさい、と深々と嘆息した荒北が、据わった目を銅橋に向けた。
「お前も、これからしばらく東堂の祟り受けるだろーし、そこ耐えときゃ、同情されて追い打ちかけてくるヤツはいなくなっから」
「タタリって……、なんすか?」
 先程、泉田と黒田も言っていたが。
 問いに、溜息まじりに荒北が肩をすくめる。
「なんか、アイツ祟ンだよなァ……。意味分かンねーワガママ抜かしたり、ワケ分かンねーこと言い出したり。ピノでハート出せとか」
「あ、あの、アイスの金、オレ、出します……!」
「ア?」
 一瞬、銅橋の申し出が理解できなかったらしい荒北が妙な顔をし、ああ、と苦笑して手を振った。
「それはこっちの問題だから、気にすンな」
「でも……!」
「アイツは、オレがお前と同レベルで喧嘩しかけたの怒ってンの。三年になって、まだ喧嘩なんかすんのかとか、選抜メンバーの自覚持てとか、そこで暴れたら部にどんだけ影響与えるか考えろとか、二年の泉田の立場をもっと考えろとか、そういう感じのことギャンギャン喚いてただろ」
「……オレは聞いてないっす」
「お前あの時いただろ。アイツが殴られてすぐ、起きてオレのことぶん殴って、病院かせめて保健室行けって言うのに、学校側に知られたくないから行かないって言い張る前」
「…………言ってねぇっす」
 病院や保健室の下りは聞いた覚えがあるが、それも文章になったやりとりではなかった気がする。
 病院、保健室と並べた荒北を東堂が拒んで、続いた言葉が今日は練習に参加せずに安静にしていろ、という趣旨の意味だったと知ったのは、その後の東堂の行動を見てからだ。それが学校側に部のトラブルを知られたくないという意思表示を含んでいたとは、今言われるまで気づかなかった。
「……言ってなかったかァ?」
「少なくとも、口には出してねぇっす」
「口に出さなくてもうるせェんだよ、アイツ」
 言い切った荒北が、どうして部内で畏怖されているのか、その一端を理解した。
「マァ、とにかく。東堂はオレにも怒ってっし、今回の言い分はアイツのが正しいから、分かった、オレが悪かった、っていう意味なんだよ、あのアイス。だから、お前が責任感じて払うとか、そういう筋合いのモンじゃねェから」
「…………」
 ハートを出せと言う無茶振りをうっかり一度でクリアしてしまったので、ラムネでも足しておく、と言う意味はさっぱり分からないが。
 三年の以心伝心っぷりに口を挟むのは、おこがましいことだとは理解した。
「……東堂さんのこと、よく分かってんすね」
「クライマーのことなんか分かりたくねェし、一生分かンねェよ。あいつら、本気で意味分かンねェよ」
 心底うんざりした顔で嘆息した荒北が、不意に目を眇めて銅橋の背後に視線を向けた。何事かと振り向けば、すっかり暗くなった道の向こうから、自転車の灯火が近づいてきていた。
 慣性で回るタイヤの音が少し手前で停止し、あれえ、と間延びした声が上がった。
「荒北さんと銅橋? 珍しい」
 何をしてるの、とロードバイクから降りながら首を傾げたのは真波だ。
 そういえば今まで姿を見なかったが、どうやら練習に出たまま終礼まで戻ってきていなかったようだ。
 銅橋とはまた別の位置づけで問題のある異端児で、強豪運動部に所属しているのが不思議なほどふわふわした性格の彼が、荒北と銅橋の組み合わせが珍しいと気づいたことすら驚きだ。
 荒北はと言えば、何も言わずに真波の首根っこを掴み、乗り手を押さえ込んだロードバイクを銅橋に押し付けると、そのままクライマーの細身を引きずって部室の戸口から押し込んだ。
「問題児一号、捕獲」
「真波ぃ! どこ行ってたテメェ!」
「ミーティングには帰ってこいと何度言えば! せめて連絡しろって言ってるだろう!」
「駄目だよ、真波。みんな心配しちゃうから」
 黒田、泉田、葦木場と口々に叱りつけた流れからして、どうやらまだ部室に残っていた面々は銅橋の件の立ち会いと同時に、もう一人の問題児も待ち構えていたらしい。
 真波山岳、一年でインハイのメンバーに異例の抜擢を受けたばかりだが、それに対するやっかみやいやがらせ、彼の不真面目さに対する正当な叱責の諸々も全て気にならないらしい、不思議な精神構造の持ち主だ。
 銅橋のように、他の部員との諍いが目立たないのは、当人がまず何を言われてものほほんとしているからだろうし、彼の自由気儘な行動の責任を取っているのが、三年で副将の東堂だからという理由も大きいだろう。
 当初は、五月の初めに自殺騒ぎを起こしたということで、部内で追い詰め禁止の空気があったように思うが、あれは単純にこの高いところが大好きな変人クライマーが、屋上のフェンスの外側にふらふら出て行っただけのことで、飛び降りようとなど絶対に思っていなかったと銅橋は確信している。
 しかし、その事件以来、東堂は真波の責任下ということになっていて、他の部員があまり口出しできない雰囲気があり、真波の勝手きわまりない行動は治まる気配はない。
 真波のことがあるので、東堂は無責任な副将だという思いがあったのだが。
 今日知った副将の冷厳な一面からすると、彼の指導に恐れ入っていない真波の方に問題がある。
 今も、ミーティングに参加することの意義が全く理解できていないらしい真波は、今日、部で何が起きたかにも関心がないのだろう。いつものふわふわとした笑顔で先輩三人がかりの叱責を聞き流し、振り向かずに部誌に向かっている東堂に小さく首を傾げた。
「東堂さん?」
 その頭の後ろで結ばれたバンドを引っ張って、強引に振り向かせた真波の表情が僅かに変わった。ためらいもせず、最上級生の目から冷却材を毟りとり、ぱちり、と大きな目を瞬かせる。
「東堂さん、変な顔ー」
「この美形を捕まえて、変とはなんだ、変とは!」
 目と耳と口を、二年の三人が日光の猿のようにそれぞれ抑えて、風変わりなクライマー二人のやり取りにリアクションを示す。
 この後に続く東堂の怒声と、その叱責をへらへらと笑って受け流す真波の、果てしない騒音を予想してのことだろうが、銅橋も覚悟したその続きは、今日に限っていつまで経っても勃発しなかった。
「返せ、真波」
 痛々しく変色した東堂の半面から目を離さない真波の手から冷却材を取り返し、視界を遮るようにまた患部に巻きつけながら、平静な声が後輩の名を呼んだ。
「それ……」
「騒ぐな、お前に関係ない。ミーティングにも遅刻するお前にはな」
 取りつく島もなく突き放す物言いに、言いかけた言葉を封じられた真波が、珍しく狼狽えたような表情で周囲を見回したが、東堂が無言で口外無用を強いた空気の中で、懇切丁寧に真波に事の次第を説明する者がいるはずもない。
 真波はとにかく異端で、部に馴染んでいない。今回の顛末を後でこっそり教えてくれるような同期の友人もいないはずだ。いつもならば、あっさりとどうでもいいと気にもしないのだろうが。
 どうやら、真波なりに東堂には懐いているのか、珍しい表情をしているのを眺めていると、不意に真波が銅橋を振り返った。
 普段、頭の中には花の咲いた山道のことしかないのではないかと思われる言動と、あどけない表情と女子が可愛いと騒ぐ外見が相俟って、幼稚園児か小学生のように思っていた真波の目が、これほど鋭くなったのを初めて見た。
 野獣だの猛獣だのと好き勝手に呼ばれている銅橋だが、真波も大差なかったと今初めて知った。
 見つけた、とぎらりと光った目が告げて、思わずたじろぐが、東堂が一言名前を呼ぶと、膨れ上がっていた怒気が強制的に霧散した。
「お前には関係ないと言ったな?」
「…………はぁい」
 不承不承、獣が主人に返事した。

 たとえば、部室に入って、泉田が顔に明らかに殴られた痕を残していたとしたら。
 まず、間違いなく銅橋は怒り狂って犯人を殴りにいく。尊敬する先輩当人に、絶対にそんなことをするな、と厳命されれば仕方なく拳を下ろしはするが、怒りは収まらない。
 犯人がのうのうと歩いていれば睨み付けるし、二度と泉田に手が出せる距離に近づけさせもしない。
 つまり、そういうことなのだ。
 首筋に感じる視線を非常に居心地悪く感じながら、銅橋は自業自得、と言い聞かせた。
 あの一件以来、真波が自分から目を離さない。
 睨まれたのはあの晩だけだ。今は、ただじっと一挙一投足を監視されている。朝練から昼休みの食堂、放課後は部室に向かおうとすると、どこからか現れて背後からついてくる。クラスが違うのと真波が寮生でなくて良かったと、心底思う。
 これで完全に四六時中監視されていたら、精神がやられる。
 消耗している銅橋に気づいているのかいないのか、他の部員達はここしばらく時間通りに真波が部に参加していると喜んでいるが、単純に銅橋の行動をマークしているだけのことである。
 銅橋のように怒りの感情が露骨でない分、得体のしれない獣にひたりと狙われている気分で非常に落ち着かない。
 そんなに懐いているなら最初からそういう顔をしていればいいものを、と思うが、表面上からは分かりにくいのがクライマーの特性なのだろうか。
 昼休み、無駄な努力で人気のない校舎の裏に逃げてみたものの、いつの間にか少し離れたベンチで弁当を広げていた真波に諦めて手招いた。監視されているよりは面と向かっていた方がマシである。
 複雑怪奇な思考をした真波は、敵と昼など食べられないという考えはないようで、のほほんとした顔で隣にやってきて座った。
 とはいっても、特に話すこともないので、銅橋は無言でパンを齧っていたが、真波はあちこちに話題を飛ばしながら勝手に喋っていた。
 意外と話好きなのかと思うが、ここにいるのが銅橋でなく、野良猫や地蔵像でも同じように喋っているのではないかという疑念が拭えない。それでも、多少返事をすれば会話自体は続いたので、おにぎりの具の何が好きだとか、そんなどうでもいい話をしながら昼休みの時間が過ぎていく。
「あ、荒北さんが告白されてる」
 そして、おにぎりの話をしていたのと同じふわふわとした口調で、とんでもないことを口走るので、銅橋は飲みかけの牛乳を気管に入れて盛大に咳き込んだ。
 ほら、と平然と指し示す方向を振り返れば、ひょろりと細長く猫背気味のシルエットは確かに荒北のものだ。その前には一年と思われる女子の姿が三人。告白の場面としては人数が合わないように思えたが、真ん中の一人が意を決したように手紙を差し出したところを見ると、残りの二人は付き添いかもしれない。
 荒北が困ったように手紙を受け取ると、三人は揃って頭を下げると、その後脱兎のごとく逃げ出した。どう見ても、少し怖い憧れの先輩に友達に背中を押してもらってラブレターを渡した図である。
 目撃したのはまずかったのでは、と気が付いて、荒北に気づかれないうちに物陰に隠れられるかを算段するが、空気を読まないクライマーが大きく手を振った。
「荒北さーん!」
「呼ぶなっ!」
 思わず拳骨を落とすが、遅かった。
 こちらに気づいた荒北が大きく顔を歪めるのが遠目にもよく分かり、銅橋は絶望した。
「ナニ、その珍しい組み合わせ?」
 二人が昼を一緒に食べている絵面がまず不可解だったのだろう。開口一番問われて、銅橋は口ごもった。
「あー、山神の祟りの新バージョンか」
 答えられなかった銅橋と、にこにこしている真波の顔を見比べて、大体のところを察したものらしい。告げられた言葉に先日の先輩達の台詞を思い出して、これが山神の呪いか、と衝撃を受ける。
「山神のタタリってなんですかー?」
「東堂怒らせると、周りに広がる上に後に引くっていう話」
「旧バージョンがあるんですかー?」
 新版と言われた、全く怒気の見えない怒れる獣がのほほんと問う。
「こっちが旧バージョン」
 言って差し出してきたのは、先程手渡されていた封筒だ。薄い空色のシンプルながら女の子らしい封筒である。
「ラブレターじゃないんですかー?」
 怖いもの知らずの真波にびくびくするが、その疑問はそのまま銅橋のものでもある。
「って思ってンだろーと思って見せにきたんだよ。開けてみろ」
 突き出されたそれを、勝手に見てしまっていいものか一瞬悩むが、当人が言っているのだし、悩んでいる間に真波が受け取った。
「……ちょくそ」
「そこはジキソって読め」
 封筒を裏返して、首を捻って呟いた真波の額を荒北が弾く。
 なんだか、ラブレターとは思えない単語が聞こえたのは気のせいか、と思う銅橋に、改めて荒北が封筒を差し出した。
「お前の方が漢字読めそうな気がする」
 受け取って、封筒を改めて見ると、「直訴」の文字が小さな丸い字で並んでいた。
 荒北の表情を窺うと、うんざりとした顔でうなずかれたので、封筒を開けて中から同色の便箋を取り出した。何枚かに重なった便箋は随分と厚みがある。
『荒北先輩 東堂様のお顔を、傷つけないでください。 一年女子一同』
 簡潔極まりない要望が丸い字で記された一枚目の後は、全て字体の違う署名がびっしりと並んでいた。
「あの、荒北さん……これは……?」
「東堂の顔の傷に対する抗議活動」
 当たり前のように言われたが、全く何を言われているのか分からない。
「あの怪我、オレのせいって東堂が言ってるからな。ファンクラブの連中がそれぞれ抗議にくンだよ。ファンクラブ会長は三年だから、直々に、テメェ毎度いい加減にしねーとその面の皮剥ぐぞって脅してくっけど、一年、二年はそれぞれ署名募ってくるんだよねェ」
 二年の分は朝下駄箱に入ってた、と胸ポケットからもう一通分厚い封筒を出してくる荒北は平然としているが、真犯人である銅橋は身の置き所がない。
「あ、あの荒北さん、オレ、今からでも東堂さん殴ったのオレだって……!」
「やめとけ。オレは慣れてっからいーけど、お前、全校の女子に、情け容赦ねえ罵詈雑言浴びたら耐えられねェだろ。毎回、その山神の祟りで、どいつもこいつも死にそうな顔になるからなァ。別に、あいつのファンなんて特殊な生き物が何騒いだって、気にしなきゃいいだけなのにな」
 山神の呪いが効かない男は、身代わりになっても平然としたものである。
 この男が怖がられつつ、何だかんだと尊敬されている理由の一端をまた一つ理解して、銅橋は深々と嘆息した。三年生達は、分かりにくい。
「でェ、この不思議ちゃんは何の抗議運動なのかなァ?」
 真波の頭に手を伸ばして、わしゃわしゃと癖のある髪をかき混ぜて荒北が凄むが、本気で凄んでいるわけではないので、へにゃへにゃと真波が笑う。
「銅橋は怒りっぽいから」
 やっと、ここ数日の行動の真意が聞けるのかと思ったが、いくら待っても台詞の続きがない。
「続けろ!」
 遠慮なく下級生の頭をはたき倒す荒北に、痛い、と呟いた真波がそのまま考え込んだ。今、考え込んだということは、何も考えていなかったらしい。
「だから、また暴れるかもしれないから、暴れないように?」
「お前が止めるってェ?」
 こくん、とうなずいた真波に、荒北と銅橋が一瞬顔を見合わせた。
 もちろんインターハイのメンバーに選ばれただけあって、真波の身体は鍛えられている。三日間の過酷なレースに耐えるだけの体力もあると判断されたはずだ。
 それでも、まだ成長途中のアンバランスさのある少年らしい骨格と、クライマーとして軽量な体型は、貧弱とは言わないが、かなり細身だ。同学年ながら、既に最上級生と並んでも引けを取らない銅橋とは全く体の作りが異なる。
 問題児ではあるが、誰かと喧嘩をするようなこともないので、真波が暴力沙汰を起こしたことはない。
 彼が喧嘩に強いなどという噂の片鱗すら聞いたことはないが、この体格差で平然と暴れる銅橋を止めると言い切れる根拠が謎だ。
 実は格闘技でもやっているのだろうかと銅橋は悩んだが、荒北はもう一度真波の顔を覗き込んで、非常に渋い顔をした。
「銅橋、オーダー」
「はい!」
「ちょっと東堂から言って聞かせるようにすっから、片付くまで絶対誰とも喧嘩すンな」
「はい」
 元々、これ以上暴れたら退部の誓約は有効なのだ。わざわざ命じられなくても、揉め事を起こす気はない。分かっていても我慢がきかないところを懸念されているのだろうが、真波の言動がオーダーのきっかけらしいのがどうにも納得がいかない。
 喧嘩慣れしていそうな荒北ならまだしも、この細っこいクライマーが殴りかかってきたところで、それほど脅威になるとは思えないのだが。
 複雑な銅橋の表情を読み取ったのだろう、深々と嘆息した荒北が銅橋の肩に手を置いた。
 先日、泉田が自分に言い聞かせた時と同じ体勢だ、と気づいて背筋を伸ばす。
「あのな、ケンカって、力はあっても性格的に弱ェ奴とか、力はそんななくても駆け引きとかが上手い奴がいんダロ?」
「はぁ……」
 恵まれた体格に付随した怪力を振り回せば、大概周りを黙らせられる銅橋は、そういう意味では喧嘩が上手い方ではない。
 ただ、根本的な問題として、銅橋は本来スポーツマンであって不良ではないので、喧嘩の技術を向上させようなどと思ったことがない。非常に的外れに思える荒北の言い聞かせる口調に目を瞬かせる。
「で、強い以外に、ヤバい奴がいるのって分かるか?」
 銅橋は高校に入学してからしばらく、少々荒れ気味ではあったが、あくまでも部活動に参加する範囲でやや問題のある荒れ具合であって、そのままグレてしまおうなどとは思っていない。
 不良の世界というのは、ほとんどファンタジーに近い漫画やテレビの中の話であって、しばらくそちら側に足を突っ込んでいたらしい荒北の台詞は、なんとなく想像がつく程度のものだ。
 強いのではなく、ヤバい奴というのは、おそらく、キレると手が付けられないとか、明らかにやり過ぎなほどに相手を痛めつけたり、また目的のために手段を選ばないような人物を指すのだろう。
 そう考えてから、ここ数日まとわりつく風変わりなクライマーの視線に感じていた何とも言い難い居心地の悪い感覚を表す言葉を唐突に理解する。
 ヤバい。
 危ないと言えばいいのか、危ういと言えばいいのか、ふわふわと掴みどころなく笑っているくせに、時折閃く獰猛な気配にここ数日消耗させられていた。
 ぞわり、と腕に寒気が走って、その反応に自分の言葉の意味を銅橋が理解したことを察した荒北が、真剣な表情で言葉を重ねる。
「あのな、クライマーどもはみんなマゾの変態だ。登りが楽しいとか正気じゃねェ。ただ、こいつらは基本的に自分一人で満足してて、たまに仲間見つけるとやたらと懐く。ウゼェけど害はねェ」
 ただ、時々手がつけられない、と言う顔に実感がこもっていた。
「オレが知る限り、クライマーは全員ヤバい。目的決めたら、手段は一切選ばねェ」
 今、真波が定めている目的とは、もし銅橋が暴れるようなことがあれば、止めることだ。
「東堂に話させるから、それまで絶対暴れンな」
 重ねて厳命されて、銅橋はこくこくとうなずいた。

 放課後、ふらふらと銅橋についてくる真波を追ってきた委員長とやらが、掃除当番を果たすように叱りつけた。しかし銅橋から目を離したくないというあやふやな真波語を理解した彼女に頼み込まれ、何故か他クラスの掃除を手伝わされてから部室に向かった。
 他クラスを手伝ってきて、部室に来るのが少し遅くなったという言い分が通じるだろうか、と悩みながら名前を告げて部室に入ると、下級生が自分達より遅くきたことを叱責しそうな上級生は全員撃沈していた。
 銅橋の挨拶に何の反応も示さず、死んだような目をしている二年生達の異様な雰囲気に、何事かと思いつつ部室に入って、見知らぬ女子生徒の姿に足を止める。
 えらい派手な美人がいる、というのが第一印象だった。
 この学校の制服を着ているのだから在校生なのだろうが、一度見たらまず忘れなさそうな派手な顔の背の高い美人だ。どちらかと言うと校則はかなり緩い私立校だが、さすがに指導が入りそうなほど化粧が濃い。背中ほどまである巻いた明るい茶髪も、派手な印象を強めた。
 堂々と部室にいるのだから、自転車部の関係者だろうかと考えるが、楽しそうに新開と話しているところを見るに、エーススプリンターの彼女が部室にまで押しかけてきているという可能性も有り得る。
 二年の何とも言えない表情は、堂々と部室に彼女を連れ込んだ新開に物申せないことにあるのだろうかとも思うが、それにしてはあまりに表情が悲愴だ。
 新開以外の三年の表情も似たり寄ったりで、一年達は訳が分からないといった顔で部室の隅に固まっていた。
 妙に重い空気と、異常に華やかな見知らぬ女子の姿に、居心地の悪さを感じていると、この異様な雰囲気を何とも思わないのか、とことこと銅橋を追い越して新開と女子生徒の前に立った真波が首を傾げた。
「何やってるんですか、東堂さん」
 ぼとり、と銅橋の肩にかけていた鞄が落ちたが、その音は他の一年の衝撃の悲鳴と、二年、三年の苦悶の声に掻き消された。
 慌ててけばけばしい女子生徒の顔を見れば、足されたラクダのような睫毛と、目の形が変わって見える化粧、ウィッグだろうか、髪質の異なる茶髪で普段と全く雰囲気が違うが、確かに副将の顔の名残がある。
 言われてみれば、背の高さはともかく、少々肩幅がありすぎるし、スカートから伸びる足もごつごつとしていた。
「な…にを、してんすか……?」
 膝が砕けそうになりながら、真波と同じ問いを重ねると、副将はさらりと長い茶髪をかきあげた。
「大分直ってきたんだが、痣が残っているのを見ると、ファンが悲しむのでな」
 体格に目を瞑って、顔だけを見れば派手なギャルとしか思えない人物の口から、少々時代がかった台詞が男の声で発せられる衝撃に、話が頭に入ってこない。
「どうにかごまかせないかと聞いたら、コンシーラーとパウダーで隠せるというので、やってもらったんだが。結構日焼けしているから、目元だけ塗るとそこだけ浮くので、全体も塗ってな? そうすると今度は顔色が悪く見えてしまって、チークとリップも足して、それならアイメイクもした方がいいと、どんどん盛られて。ウィッグまで被ってみたら、全く男子制服が似合わなくなったので、女子の制服を借りてみた」
 細かく説明してくれたが、言っていることもやっていることも考えていることも全てが理解できず、耳を素通りした。
 要するに、痣を隠そうとして化粧しているうちに女装になったらしいが、まず化粧を提案されて受け入れる思考回路が理解できない。
 昼間、クライマーは目的のために手段を選ばないと荒北が言っていたが、まさかこれもその一端だろうかと、二年の先輩達の虚ろな目の理由を理解して、銅橋も同じように虚空を見つめる。
 尊敬しかけた端から、全てを台無しにしていく副将に頭が痛い。
「……レーパン」
「めくるな」
 物怖じしない後輩がスカートの裾を摘まんで持ち上げるのに、東堂が拳骨を落とす。
「気になるじゃないですかぁ」
「気になってもめくっていいのは、合意の関係の時だけだ」
 正論のような気がするが、スカート姿で仁王立ちになった男が言っているという事実で正当性が崩壊している。
 しかし、そういった齟齬が特に気にならないらしい真波は、言われた通り素直に手を挙げて発言した。
「めくっていいですか?」
「駄目だ」
 同意を得られなかったことに不満そうな顔をする真波の精神構造がどうなっているのか、全く理解できないが、理解したくもない。
 クライマーというのは皆こうなのか、と頭を抱えたその時、部室の入り口でどさどさと物が崩れるような音がした。
 振り返ると、ちょうど今来たところだったらしい泉田達が鞄を床に落として、自身も崩れ落ちたところだった。ほぼ同時にへたりこんだらしい泉田と黒田の後ろで、長身の葦木場が一人状況が分からないようで、見慣れない女子生徒の姿に目を丸くしている。
「東堂さん……」
 泣き伏すように手で顔を覆った泉田の呻きに、ようやく部室の真ん中で仁王立ちしている派手な女子が副将だと気づいた葦木場も口元を手で覆った。
「えっ、東堂さん、かわいい!」
「そうだろう!」
 また一人、想定外の反応をしたために、副将が調子に乗った。
「今度はどうしたんですか? 今年も山で一年生ちぎるんですか?」
「ッシキバァ!」
 血を吐くような叫びで葦木場を黙らせた黒田がゆらりと立ち上がって、東堂を見据え、そしてすぐさま視線を逸らした。
「世の中には、やっていいことといけないことがあるって、前も言いましたよね……?」
 目を背けつつも、地を這うような怨念のこもった声に、東堂は一筋も動じずに一歩進んで後輩の逸らした目の前に立ち、にっこりと微笑んだ。
 赤く塗られた唇で笑われて、黒田が完全に気圧されて上半身を泳がす。
「もちろん、ボーダーラインはあるな。たとえば、そこの銅橋がこの格好をしたら、さすがに視界の暴力だと思うぞ」
「あんたがやっても、精神的な暴力なんすよ!」
 クライマーにしては至極まっとうな常識を持ち合わせた黒田を、居合わせた一同が心から応援するが、常識は非常識に敵わなかった。
「こんなに美しいオレを捕まえて、何が暴力だ。伏して拝んで崇めろ。何なら、また口説いてもいいんだぞ? く、ろ、だ、くん?」
 作り声で甘ったるく名前を呼ばれた瞬間に、黒田が折れた。
 再起不能な態の黒田を慌てて他の二年が回収して、しっかりしろ、と励ますが、どう見ても心の傷は深そうだ。
「黒田、がんばった、お前はがんばった!」
「今、荒北さん呼んだから!」
 事態の収拾役として召喚された男の名を聞いて、東堂が首を傾げる。
「何で荒北が出てくるんだ?」
 あんたのせいだ、と居合わせた部員達の心が一つになったが、誰一人として口にはできなかったので、当人には伝わらなかった。
 案外、分かっているのかもしれないが。
「荒北と言えば、銅橋」
「はいっ!?」
 唐突に矛先が向いて、銅橋は直立不動のまま凍り付いた。
「荒北から、真波の呪いを解けと言われたが、何のことだ?」
「それは……」
 本当に荒北が話を通しておいてくれたようだが、あまり伝わっていなかったようで、説明に困る。
 状況としては真波が東堂に心酔するあまり、彼に怪我を負わせた銅橋を許さず、虎視眈々と見張り続けている、ということになるのだろうが。
 東堂の奇行にも全く動じず、飄々としている真波が本当に東堂を尊敬しているのかすら怪しく思えてくる。
 しかし、あの荒北が、ヤバいと評した以上、間違っているとも思えない。
 困り果てながら、ちらりと真波に目を向けると、にこにこと笑い返されるが、一瞬その双眸が凄味を帯びた。
「なるほど」
 猫を被った後輩が一瞬垣間見せた本性を、見逃さなかったらしい東堂が一つうなずいて、後輩の頭に手を置き、奔放に跳ねた髪をかきまぜた。
「どうしたものかな……」
「なんですかぁ?」
「一応言っておくが、可愛い顔してみせても、お前が凶暴なことくらい、最初からお見通しだからな」
「えー?」
 ふにゃふにゃと笑う真波の耳を摘み上げて、東堂が嘆息する。
 端から見ると、派手なギャルが年下の美少年に絡んでいる図なのだが、当人達は気付いていないようである。
「しょうがない……、銅橋!」
「はいっ!」
「先日、お前は部室で暴れたな?」
「はいっ」
「その結果がこれだ、反省したか?」
「はいっ!」
 真波のストーキングも、東堂のこの女装騒ぎも全部己の短慮が原因と思えば、心底後悔している。荒北には、もう完全に頭が上がらないレベルで迷惑をかけている。
「お前は二度と、このオレを傷つけないな?」
「はいっ」
 傷の一つでも付けた日には、全校のファンから恨まれる上に、当人の女装までついてくるとなれば、恐ろしすぎる。遅ればせながら、何故、泉田が東堂の顔に怪我をさせたと聞いた時に絶望したのかを完全に理解した。
「復唱!」
 よく通る声に命じられて、もはや反射的に背筋が伸びた。
「私、銅橋正清は」
「私、銅橋正清は!」
「今後、副将の言葉に一切逆らわず、その要望に添い、従属することを誓います」
「コンゴ、フクショウノコトバニイッサイサカラワズ、ソノヨウボウニソイ、ジュウゾクスルコトヲチカイマス!」
 音をそのまま復唱した後に、背中を冷や汗が流れ落ちた。
 今、自分はスカートを穿いた男に、何を誓わされたのだろう。
「と、いうことでいいな、真波?」
「いや、何言ってるのか全然分かんないです」
 言わされた意味が、全くなかったらしい状況に頭が痛い。
「つまり、今後銅橋はオレが何を命令しても逆らわない」
「は……?」
「逆らうのか?」
 濃くアイシャドウの載った目にひたりと見据えられ、慌てて首を横に振る。
「サカライマセン」
 むしろ逆らえる気がしない。
「よし、それでは……」
 何か理不尽な命令が発せられそうな流れだったが、不意に東堂が口を噤んだ。
 入口に目を向けた東堂に釣られて振り返ると、戸口にわだかまった指定鞄に躓きかけて怪訝な顔をしていた荒北が、部室に君臨するように立つ東堂の姿を一目見て、全てを察したようだった。
「待て待て待て! 荒北! これ、借り物だから汚したり破いたりするな!」
 もはや何も言わずに、ずかずかと近づいてきた荒北が女子の制服に掴みかかる前に東堂が慌てて制する。
 女子から借りた服に配慮するという良識を持ち合わせているのに、どうして後輩達の心を踏みにじることに躊躇がないのだろうと、居合わせた部員達が泣き伏すが、荒北も湿っぽい空気を一切気にしなかった。
「新開」
「オレはなんもしてねーから!」
「新開」
「いや、今回は本当に……」
「新開」
「……尽八を止めなくてゴメンナサイ」
 一人、にやにやと状況を楽しんでいた新開からまず謝罪の言葉を引き出してから、荒北はじろりと東堂を見下ろした。
「脱げ」
「やだぁ、荒北、えっち……」
「東堂ォ」
 茶化そうと声色を作った東堂を黙らせるほどの、地の底を這うような声音に、肩をすくめた東堂がブラウスのボタンを外しかけて、ふと笑んだ。
「脱がせて?」
 今にも爆発しそうな怒気を背負った荒北を、なおも弄りにいく東堂に周囲が震え上がるが、一つ舌打ちした荒北は東堂の顎を捉えて捻った。
「っ痛………」
 化粧で隠された痣を眇め見て、そのままウィッグを剥ぎ取り、ブラウスのボタンを全て外し、スカートのホックを外して床に落とすと新開を振り返る。
「返しとけ」
「分かったよ、靖友」
 怒り狂った荒北に逆らわずうなずいた新開に、それ以上構わず女装を剥ぎ取った東堂の首根っこを引っ掴む。
「痛い痛い痛い!」
「テメェのカッコの方が痛ェよ!」
 元々カチューシャで留めないと邪魔になる長さの髪ではあるのだが、それでも、背中までの長さの茶髪と女子制服の威力は大きかったのだと知る。
 平坦な胸がしっかりと分かるTシャツとレーパン姿になった濃い化粧の人物の性別を、はっきりと思い知らされた部員達が更にダメージを受ける様を全く気にせず、荒北は素っ頓狂なクライマーを引きずってシャワー室に蹴り込んだ。
 そのまま後ろ手にシャワー室のドアが閉ざされたため、中の様子は窺い知れないが、水音と冷たいと叫ぶ声、それに対する荒北の悪態と東堂が口でも塞がれたか、途中で喚く声が途絶えて水音と暴れる気配だけになるという、恐怖心がかき立てられる物音だけが聞こえてくる。
 恐々と聞き耳を立てていると、突然そのドアが開いて不機嫌そうな荒北の顔が覗く。
「新開ィ! なんかベトベトして全然取れねェんだけどォ!」
 口紅と思われる赤い汚れが付いた掌を突き出して唸った荒北に、オレに言われても、と新開が肩をすくめる。
「相当塗られてたからなぁ、専用のオイルとかシート? みたいなのじゃないと、落ちねーかも?」
「お前か東堂のファンの女から、それもらってこい!」
「いやぁ、みんな持ってっかなあ? 生徒指導室とかの方があるんじゃね?」
 何でもいいから取ってこいと唸り声を上げる荒北の後ろから、東堂のくぐもった声が上がる。
「隼人、オレのロッカーから洗顔フォームとタオル取ってきてくれ」
「それで落ちるかぁ?」
「スクラブ入りだし、水で擦られるよりはマシだ」
 荒北の背に顔を伏したまま答える東堂に、どうした、と新開が問うと、顔を上げずに東堂が泣き真似をした。
「荒北のせいで、中途半端に化粧崩れてブスな顔に……!」
「元々だろ」
「この美形を捕まえて何を言う……!」
「あっ、テメッ、人の服に顔こすりつけんな、汚れる!」
「オーケー、一年、尽八のロッカーから洗顔フォーム取ってきて渡して、二人を隔離」
 新開の指示に慌てて一年が更衣室に駆けていき、取ってきた洗顔料を恐る恐る差し出すと、無言で受け取った荒北が口紅で汚れた手で、ぱたり、とドアを閉めた。
 薄いドア一枚で隔てられた室内で、また口論と悲鳴と水音が入り乱れたが、皆聞こえない振りをしてシャワー室から一歩ずつ遠ざかる。
「……荒北さん、マジですげぇ」
「新開さんは止めてくれねーし、福富さんは自分が気にしないからって、俺達が何泣いてんのか理解してくれねーもんな……」
 ぼそぼそと言い合う二年は、少々ダメージを受けすぎな気がしないでもないのだが。
 床に落とされていた女子の制服を拾って埃を払い、畳もうとしていた新開を手伝いに泉田がすっ飛んでいったので、銅橋もおろおろと手伝いに行って、手渡されたウィッグの扱いに困惑する。
「この丸めた紙を中に詰めて、絡んでる部分はブラシで梳かして、形を崩さないようにネットを被せてこの箱にしまって」
 ウィッグは部の備品だと言われて、何でそんなものがあるのか首を捻ってから、ふと思い出す。
「これって、春に泉田さんが……」
「それ以上口にしたら、沈めるぞ銅橋」
 氷点下の怒気を正面から浴びて、銅橋は凍り付いた。
 春の仮入部期間に、内気であまり一年に接しないマネージャーがいたのだが、仮入部最後のレースで彼女もレースに参加したかと思えば、得意の平坦でぶっちぎられて驚いた。
 その正体は泉田で、二年が女子マネージャーに扮して、仮入部期間最後のレースで一年をちぎるのが箱根学園自転車競技部の伝統となっているのだと聞かされた。
 おとなしい二年の女子と信じて、からかっていた一部の新入生が、すごすごと退部した一幕もあったらしいが、銅橋は二年のマネージャーに興味がなかったので、認識したのはレースで長い髪をなびかせた女子にちぎられた瞬間だった。
 きちんと顔を見たのは、ウィッグを取ってジャージを着た姿のみなので、妙な伝統があるものだとしか思っていなかったが、当人にとっては先輩命令で強制された黒歴史でしかないらしい。
「いいか、銅橋。あれは、僕が次年にマネジ役を指名できるんだ。ミニスカート穿いてマネジやりたくなければ、口を噤め。いいな?」
 非常に恐ろしい脅迫を受け、銅橋は何度もうなずいて二度と口にしないと誓う。
「……ちなみに、去年は東堂さんがマネジ役でね……」
「ああ……」
「その時は今日みたいな化粧はしてなくて、それはもう美しくて、所作が一つ一つ綺麗で、下級生には優しい仕事熱心なマネジで、仮入部が終わる頃にはかなりファンがついてただけに、本当はああいう人だと知った時の衝撃がね……」
 二年のダメージの深さは古傷を抉られてのものだと知って、しみじみと去年の新入生でなくてよかったと思う。
 問題は、その東堂に、今後どんな命令にも逆らうなと誓約させられたことだが。
「ああ、大丈夫。どうせ、うちの部で東堂さんに逆らえる下級生なんていないから」
 あっさりと泉田に言われて、それもそうだと納得しかけ、例外であろう真波にちらりと目を向ける。
「クライマーは除く」
「うす」
 付け加えた泉田に、実感を込めて銅橋はうなずいた。

「バッシー、東堂さんが呼んでるよー」
「バッシーって呼ぶな」
 のほほんと呼びにきた真波に一言抗議するが、おそらく改まることはない。独特のリズムで生きている真波に構っていられないので、銅橋は立ち上がると副将のところに出頭した。後からのんびりと真波がついてくるが、数日前までの剣呑な気配はない。
 東堂に逆らわないという宣誓がどれだけ効いたのか不明なのだが、どうやらこの不思議なクライマーには効果があったようで、隙を見せたら急所に食らいついてきそうな凶暴さは鳴りをひそめた。
 代わりに、微妙に懐かれたというか、慣れられたような気がする。
 これまで、上級生に構われている時以外は一人でぽつんと立っていた真波が、気付くと近くに立っていることが増えた。相変わらず人の話は聞いていないので、近くで聞いていた銅橋がつい集合時間や言いつけられた用事に口出ししているうちに、何故か周りが真波への伝言をまず銅橋に伝えてくるようになったのが解せない。
 逆はほとんどなく、真波に銅橋を呼びにいかせるのは東堂くらいのものである。
「一年銅橋、入ります!」
 名乗って入室すると、手を挙げて銅橋を手招いた東堂が、その手を大分上背のある後輩の頭の上に置いて染めた髪をかき混ぜた。
「よしよし、すぐ来たな」
 ほとんど犬を褒める態で頭を撫でられるが、悪気はないのだろう。真波や黒田、たまに荒北にもしているのを見かける。同学年の荒北だけは黙って耐えずに、その手を叩き落としているが。
「お前、午後の練習、クライマーに混ざって登れ」
「げっ……って、痛ぇ!」
 呻いた瞬間、頭の上にあった手が耳に移動して引っ張った。
「何か不満でもあるか?」
「……山苦手なんすよ」
「だ、か、ら、だ」
 一音ずつ区切って、東堂が手にしていた紙をひらつかせて示したのは、銅橋のタイムをまとめた一覧だった。
「お前がスプリンターなのは分かっているし、その筋肉の質と体重で山が辛いのも分からんではないが、一芸だけで芽が出るほど箱学は甘くない。せめて山で体力を削らない登り方を練習しろ」
「……うす」
「この山神が直々に登りを教えてやろうと言うんだ。有り難く思え」
「あざっす!」
 強制されての礼になってしまったが、目をかけてもらっているのは身に染みて分かっている。
 一連の東堂にまつわる事件の後、銅橋の周囲の空気が激変した。
 依然、体育会系の理不尽さを含んだ上下関係は変わりないが、言いがかりをつけて銅橋を怒らせて退部に追い込もうとするようなことはなくなった。
 特に東堂が何か下級生に対して口出しをするわけではないのだが、先日の一件で一、二年の間で副将には絶対に逆らわないという不文律が強化されたようで、彼の姿がある間は借りてきた猫のように皆おとなしい。
 もちろん、銅橋はそれに輪をかけて東堂に頭が上がらないので、彼の不可解な言動に毎日振り回されている。
 似合うカチューシャを選ばされたり、会ったこともない千葉の高校のクライマーのファッションセンスについて意見を求められたりと、正直どうしていいのかさっぱり分からないが、荒北に聞き流せとアドバイスを受け、新開からいてくれて助かると肩を叩かれ、福富に頑張れと励まされた。
 最近、部内の風当たりが弱くなったのは、東堂と真波の被害者だと同情されている節もあると気がついた銅橋である。
 東堂のそれが、そこまで計算してのものなのか、好き放題に生きているだけなのか、全く判断がつかないところが空恐ろしい。
 当人の意図がどこにあれ、感謝すべきだと思ったならしろ、というのが泉田の意見で、全面的にそれを受け入れていることにした。少なくとも、今回の登りの練習に関しては、選手として目をかけてもらっているのに間違いはない。
 やや気になるのが、黒田の存在である。
 真波の時とはやや異なるが、こうやって東堂をはじめとした三年に構われている際に視線を感じる。元々目つきが鋭いので、悪意があるというわけではないのだが、やはりクライマーでもない銅橋が、東堂に目をかけられているのは面白くないのではないだろうかと思う。
 これもこじれる前に、一度彼と仲の良い泉田に相談すべきだろう。
「あ、荒北! お前も午後、真波と登れよ」
 朝練を終えて汗を滴らせながら部室に入ってきた荒北に東堂が声をかけると、被ったタオルの下から嫌そうな顔をする。
「ンでだよ、面倒くせェ」
「インハイに向けた練習に決まってるだろうが! オレが巻ちゃんと勝負してる間、真波がお前ら連れて登るんだぞ。チームの走り方教えとけ! 言っとくが、フクからのオーダーだからな!」
「ヘイヘイ」
 主将からの指示と聞いて荒北はそれ以上逆らわず、全く、と憤然としつつ東堂も他のメンバーに対するメニューの割り振り作業に戻ったので、今回は喧嘩にならなかったようである。
 ほっとしつつ、色々と忙しそうな東堂に一礼して、荒北に近寄る。
「あの、スンマセン。オレも、今日山登れって言われてンすけど……」
 東堂のお守りで大変だね、と炭酸のボトルを傾けながら皮肉っぽく応じた荒北に、一瞬迷ってから頭を下げる。
「登った後、下り教えてください!」
 意表を突かれたのか、少し驚いた顔をした荒北が頭をかいた。
「別にいいけどォ」
「あざっす!」
 先日の一件の後、初めてレースで本気で走る荒北を見た。
 あの、ぞっとするような切れ味のコーナリングが忘れられない。練習ではあまり本気を見せないことが多いようだが、後ろを走らせてもらうだけで、いい勉強になる。
 了承の返事をもらえたことで浮かれかけた銅橋に、それまで他の三年と話をしていた東堂が、ここしばらく聞いていなかったひんやりした声を投げかけた。
「荒北」
 正確には、呼びかけは荒北に向けられ、指向性を持ったその声に荒北が面倒そうに、東堂ではなくその少し後ろを振り返って黒田を見た。釣られて振り返った銅橋は、これまでで一番目つきの険しくなった黒田に思わずたじろぐ。
「黒田ァ」
「はいっ」
 だるそうな声に呼ばれた黒田が、背筋を伸ばす。
「下り、お前もついてくるゥ?」
「はいっ!」
「…………」
 荒北の誘いに嬉しげに黒田がうなずいた瞬間、ここしばらく彼から感じていた圧力が霧散したことに呆気にとられる。
 これが、東堂に絡んでのことなら、理解できなくもないのだが。
 何故、クライマーの黒田が下りの練習に執着するのかがさっぱり理解できない。
 そんな銅橋の横で、荒北がこっそり嘆息した。
「な、面倒くせェだろ、クライマー」
「…………なんかオレ、一生クライマーのこと分かる気がしねえっす」