県境を越えたレースに参加するために朝早くに起き出し、移動中爆睡して、眠い目を擦りながら部のミニバンから降りると、きらきらしいウチワに迎えられた。寝起きで低空飛行だった荒北の機嫌は、その時点で完全に地の底を這った。
「テメェら、ナニしてやがる……」
低く唸ると、出迎えの二人は楽しそうに黄土色の悲鳴を上げる。
「靖友君、今日もコワーイ!」
「ガブガブするやつやってー!」
要望通り、両者の手触りの違う頭に手をそれぞれ置いて、握力を全開にガブガブと力を込めてやると、本物の悲鳴が上がる。
「ナニ、やってンのって、聞いてンだけどォ?」
改めて一言ずつ区切りながら凄むと、新開と東堂は応援にきたと口を揃えた。
「帰れ」
一言の下に切り捨てると、応援グッズを用意したのに、だの、せっかく早起きしたのに、などと不満の声が上がる。
元々開始時間の早いロードレース、準備と下見の時間も含めれば、かなり早くに到着している必要がある。出場予定の福富と荒北、一年からも二人、マネージャー、そして引率兼運転手の顧問に機材も含めると、バンはいっぱいだ。便乗できなかった二人は、わざわざ早起きして電車を乗り継いで応援にきたものらしい。
東堂のファンの女子が持っているようなハート型のウチワに福富と荒北の名を入れ、きらきらした飾りを付けた力作まで作ってきたようだ。ここしばらく、二人で何か夜の寮でコソコソしている気配は嗅ぎつけていたが、関わるのも面倒で放置したのが裏目に出た。
「ここまで来るくらいなら、お前達もレースに参加すればよかっただろう」
己の写真の貼られたウチワの周りを縁取る金色のモールや、蛍光ピンクの発泡スチロールを切り抜いて貼り付けられた「強い」の文字を矯めつ眇めつしていた福富が、表情を変えずに拗ねてみせた。
「一応、今回のレース見学しろってのは、コーチの指示なんだよ」
「エースとアシストの動き把握しとけとな」
女子のようなノリで応援しろとは、絶対に指示していないはずである。
どうせ、せっかく見に行くなら、と悪ノリに悪ノリを重ねてこうなったのだろうが。
全く、と嘆息して、東堂の手からふざけたウチワを取り上げる。「らぶりぃ★荒北」とまた無駄な達筆で書かれた下に、どう考えてもラブリーなどではない、己の顔写真が貼られている。
「しかし、お前、もう少しまともな顔で撮った写真はないのか?」
何に怒っていたのか、大きく歪んだ顔は我ながら酷いと思ったが、カメラを向けると決め顔を作る東堂が言うと非常に癇に障る。
ばしり、と手にしていたウチワでその顔をはたいてやると、東堂が手で顔を覆ってよろめき、その場にしゃがみこんだ。
「東堂?」
ウチワの飾りが目にでも入ったかと、少し焦ってうずくまった東堂に合わせて屈みこむ。
「……荒北の写真と、チューさせられた……」
「死ね」
「待て、荒北! 言葉が汚いっていうか本気っぽかったぞ、今の声! 痛い! 本当に痛い!」
「チューって言えばさあ」
アイアンクローを仕掛ける荒北と、カチューシャが頭皮に刺さって悲鳴を上げる東堂のささやかな地獄絵図を気にせず、新開が待っている間に聞き込んできた情報を告げた。
「このレース、ポディウムガールいるって」
「いつもいるだろう?」
本当に必要不可欠なものなのか今一つ謎だが、入賞者に花をくれる女性は必ずいる。イベント主催で雇われたコンパニオンだったり、その地域のご当地ミスコンの女性が担当するのが通例だが。
「いや、なんか成人の部の方に、海外チーム招待したら、その恋人だか嫁さんで、ツールでポディウムガールやってる人達がついてきたらしくて。せっかくだからってポディウムガール役を依頼したって話。高校生の部でも入賞者に花とチューくれるってさ」
ウインクと指で銃口を作ってみせた新開に対し、出場者する二人の反応は鈍かった。
「それは、困るな」
「オレ、カンケーねぇし」
生真面目に返した福富と、アシストに徹するため、端から入賞を前提としていない荒北の反応の悪さに、新開と東堂が愕然とした。
「いや寿一、そこ困るとこじゃねーよ。綺麗なねーちゃんがほっぺたチューとか役得って思うとこだろ!」
「男の子なんだから、ここはテンション上げてけよ、二人とも!」
むしろその反発の勢いが理解できず、福富と荒北は顔を見合わせた。
「福ちゃん、それってなんか嬉しい?」
「いや、困るだけだが」
反応の鈍い男子高校生に埒があかないとばかりに、東堂が下級生二人に話を振る。
「お前たちなら嬉しいよな!? 金髪美女からの祝福キス!」
「え、あ、いや……、ハイ、うれしいっす!」
「ちょっと恥ずかしいすけど、まあ、役得っつか……」
「ほら見ろ、一欠片も入賞の可能性のない連中が、ここまで鼻の下を伸ばすのが普通というものだぞ!」
「オメーはもうちょっと言葉を選べよ……」
人のことを言える荒北ではないのだが、東堂の無邪気かつ無慈悲な発言にレース前から後輩の士気が挫けるのは望ましくない。
「つーか、お前らはよく知りもしねェ女にキスされて、嬉しいワケ?」
「割と」
「だって、オレは似合うだろう」
きっぱりとうなずいた新開と、堂々と自己肯定する東堂に、なるほど、と納得する。
顔のいい連中というのは、そういった場面に臆する必要がないらしい。先程、美女から祝福のキスなどというシチュエーションに鼻の下を伸ばしてみせた下級生達も、実際にその場面になったら萎縮して動けなくなるのが目に見えている。
荒北の場合は気後れというよりは、好きでもない女にキスをされても何一つ嬉しくないだけの話だが。
「福ちゃんだって、嬉しくねェよな?」
「……困るな」
鉄仮面が実は完全に強張っていることに気付き、入賞がごく現実的な可能性である有望な選手の純情を汲み取った荒北は、新開、東堂と顔を見合わせ。
今日、このレースにおいて、自分達のエースを全力で表彰台に叩き込むことを心に決めた。
「福ちゃん出ろォ!」
オーダー通りの地点でエースを発射した瞬間、背後の挙動が乱れたのを感じた。内心舌打ちしつつ、福富を押す指先に集中して最後まで力を伝播した。それと同時に、避ける方に意識を向けられなかったために、後輪に絡んできた他の選手の車体に吹き飛ばされた。
沿道の枯れた草藪に突っ込んで転がった荒北は、逆さまになった光景の中、落車の気配に一瞬揺れた福富の背に行けと吠えた。
「オレの、エースなら、振り向くんじゃねェ!」
構わずにゴールだけ目指せ、と叱咤すれば、福富は振り向かずペダルを踏み込んで加速した。
たちまち小さくなったその背に、薄く笑む。
やっと、振り向かなくなった。広島のインターハイから失調していたが、ようやく彼の強さである傲慢な王者の走りが戻ってきた。
よし、と拳を握って、それからようやく己の状態に意識をやる。
箱根学園のエースの発射に、他校の選手が焦って挙動を乱して転び、荒北も巻き込んだのだ。道路脇に吹っ飛ばされたが草地に落下したので、酷い怪我にはならなかったようだ。
「荒北!」
ひっくり返ったまま、青い顔で駆けつけてくる東堂の姿を見る。どうやら、切り離しポイントで観戦していたようだ。新開の姿はないから、彼はゴール際だろうか。
「イテ……」
東堂が近づいてきて喚き立てる前に、と身を起こし、豪快に擦った右腕と右脚の傷の痛みに小さく唸る。
自転車は、と探せば横倒しになった水色の車体はすぐ近くに転がっていた。こちらも、盛大に擦り傷ができていて、その瞬間、荒北は沸騰した。
「テメェ、このヘタクソ! あの程度の場面でオタついて人巻き込んでんじゃねェよ、このボケナス!」
「す、すみません! ほんと、すみませんでした!」
横でヨロヨロと立ち上がったばかりの選手が、荒北に胸倉を掴み上げられ、顔をひきつらせながらひたすらに謝罪する。
「他校の選手に絡まない!」
駆けつけてきた勢いそのままヘルメットを平手ではたかれて、荒北はよろめいた。
「テメェ、東堂!」
「レース中に喧嘩する馬鹿がいるか! 連帯責任でフクまで処分下ったらどうする!?」
福富の名を持ち出されて、荒北が怯んだ隙に、東堂は素早く他校の選手を掴み上げていた荒北の手を振り払い、二人の間に入り込んだ。
「だって、コイツのせーでビアンキが……」
「お前がこれまでの練習で転んできた傷の方が多いわ! お前が最初の頃、自転車や備品を蹴ったり投げたりしてたのを、オレは忘れてないぞ!」
痛いところを突かれて荒北が詰まると、つい数秒前まで青い顔で駆けつけてきたのが嘘のような傲然とした態度で横倒しになった車体を指し示した。
「乗れ。完走しろ。副主将命令だ」
「別に今更……」
先頭集団には五名が絡んでいた。この残り七〇〇メートルの地点で福富を発射して、一人は荒北の横でまだおろおろとしているが、この路傍に立っている間に既に何人もの選手に抜かれている。更にもう集団の姿まで見えてきた。
今更レースに戻ったところで何にもならない。
そう呟きかけた途端、再度ヘルメットを上から平手ではたかれた。
「お前の、その、オーダー終えた後のモチベーションの下がりかたが気に食わん! 最後まで走りきれ!」
「アァ?」
頭ごなしに叱りつけられ反発しかけるが、荒北以上の怒気に満ち満ちた目の迫力に気圧された。本人の過剰な自己アピールで印象が軽減しているが、作り物めいて整った顔が一度絶対零度の怒りで凍り付くと、また独特の凄みを帯びる。
「荒北」
呼びかける東堂の声がトーンダウンして、代わりに有無を言わさずに頭を掴んだ手に引き寄せられ、ごく至近距離で東堂が嫣然と微笑んだ。
「アシストの仕事は果たした、この後に入賞は狙えない。なるほど、モチベーションが下がるのももっともだ」
く、と弧を描く唇が言葉を紡ぐのを唖然と見つめる。
「今から十位以内に入ってこい。そうしたらオレがキスしてやる」
ふざけるな、と反発する気力すら根こそぎ奪われ、呆然としている間に倒れていたビアンキを起こして簡単に状態を点検した東堂が乗れ、と告げた。
「………………アホか、ザケンナ、何なんだテメェ!」
ようやく喚いたのは、命じられるがままサドルに跨がり、ペダルを回して完全に東堂の姿が見えなくなってからのことで、周りの選手がびくりと反応した。既に足に来ているのか、進みの遅い彼らに苛ついて猛然とペダルを回して三人千切る。
落車と諸々でどれだけロスしたのか、今前に何人いるのかを半ば無意識に計算しかけて、途中で計算を慌てて止める。
これから追うなど、馬鹿馬鹿しい。いつもなら、エースを無事切り離した後は適当に流してゴールする。それがあの口喧しいチームメイトには、気に入らなかったらしいが。
「知ったことかよ……!」
唸るが同時に、一つの事実を確信している。
あの、山神などと呼ばれて調子に乗ったクライマーは、荒北がこのまま手を抜いてゴールをすれば、良かったな、と言う。男にキスされたくないからという言い訳があって、と続く台詞の抑揚までもが、脳内で今からはっきりと再生される。
「ムカつく……!
沸き上がる怒りを推進力に、また二人を抜かす。
手を抜けば逃げたと笑う、しかしここで全力を出せば、そんなにキスをしてほしかったのかなどと戯けたことを抜かす。どちらも心底腹が立つ。
どちらに転んでも、どうしようもないという図式を、物の見事に作り上げてくれたことに、後で締め上げると心に決める。
「あのボケナス……! マジで一回泣かす!」
喚き散らすと、食らいついていた前の一人が焦った顔でこちらを振り向いてきたので、それも抜かす。十位以内まで、あと何人かをまた無意識に計算しかけ、強制終了する。
別に、あれが言うから、十位以内を目指しているわけではない。一刻も早くゴールして、あの馬鹿を締め上げるのだ。決して男からご褒美と称したキスをしてほしいわけではない。
あの、小賢しくいらないことばかり言う口を塞いで黙らせて、生意気な顔をできなくして、あの笑う、口元を。
「マジで、テメェ、ホントに、ウゼェッ……!」
先程の微笑む口元を頭から振り払おうと声を荒げ、その程度のことでびくつく周囲の選手に苛立って、荒北は猛然とペダルを回しはじめた。
「八位、うむ、いい数字だ」
「っせ」
タオル越しでも聞き間違えようのない偉そうな物言いに、荒北は寝転がったまま毒づいた。
これで文句はないだろうとか、東堂が言うから頑張ったわけではないとか、キスなんて発想が出てくるところが気色悪いだとか、そもそもそんなものが何の褒美になるつもりだとか、ゴール前まで言ってやろうと並べ立てていた言葉を口に出すのも面倒なほど疲労困憊して、指先一つ動かしたくない。
「フクはきっちり一位取ったぞ。もうすぐ表彰式だ、見に行かないのか? 新開なんかビデオ持って最前列キープしてるぞ」
そのビデオカメラはレースの様子を撮っておくための部の備品だろう、と突っ込むのも面倒くさい。
「荒北?」
タオル越しにつつかれ、鬱陶しいと唸ろうとするが、それも面倒くさくなって目を閉じた。
「寝るなよ、また風邪引くぞ」
答えずにいると、溜息と共にジャージの上に何か被せられた。まだ、温かな体温が残っているところを見るに、東堂の着ていたウインドブレーカーだろうか。
「荒北」
ヘルメットを被って癖の付いた髪を梳かすように、東堂の指が頭を撫でる。
「寝たのか、荒北?」
横に膝を突いていた東堂が屈み込んでくる気配があった。被っていたタオルの端が、そっと捲られる。
「よしよし、いい子だ、頑張ったな」
犬でも誉めるようにまた頭を撫で回され、さすがに怒鳴りつけてやろうと目を開けると、思っていたより近くにその顔があった。
頬に触れた柔らかな感触は一瞬で、すぐに離れた東堂の顔が、荒北の目が開いていたことに気づいて一変した。
「な……ッ! 起きているなら起きていると……! 悪趣味なっ!」
「いや、寝てるなんて一言も言ってねーよ」
真っ赤になって怒るくらいなら、最初からするな、と思いながら、ぎしぎしと軋む身体を動かして、まだ感触の残る頬に手を当てる。
ポディウムガールの勝利者へのキスなどというものの意義が、今一つ分からなかった荒北だが。
なるほど、これは悪くない。
