「東堂はどこだ?」
「……何でオレに聞くの、福ちゃん?」
昼休みの混み合う食堂で、当たり前のように問われたことに苦々しく問い返すと、福富はその表情に乏しい顔で不思議そうに荒北を見返した。
「荒北は東堂と仲がいいだろう?」
「よくねェよ!」
「そうか?」
噛みつくように怒鳴り散らす荒北の反応に慣れている福富は、気にせず首を捻った。
「東堂がどこかにいると、見つけて連れてくるのは荒北だろう?」
「好きで探してるわけじゃねェよ!」
荒北が行く先々で、勝手に東堂が寝ているだけである。
昼休みや放課後、それほど人と馴れ合うのが好きでない荒北は人がいない場所に行く癖がついているのだが、そういうところで東堂が前後不覚に寝入っているのだ。
放置すると余計なトラブルを起こしそうなので、最近は見つけるとその場で起きるまで見張るか、部室まで回収してくるようになった。
福富の発言はそれを指しているのだろうが、殴ろうが蹴ろうが起きないため、仕方なく、嫌々、義務感で回収しているだけである。
しかも、当人はそれを感謝するどころか、迷惑と公言して憚らない。勝手なことをするなと言うが、持ち運ばれても起きない東堂の危機管理能力の欠如が、部の問題に繋がりかねないため、仕方なくしていることである。
「そうか、荒北も居場所を知らないのか」
「何かアイツに用あンの?」
「ちょっと放課後の練習について、確認しておきたかったんだが。メールをしてみたが、返事がない」
「っの、バァカ。またどっかで寝こけてんな……!」
急ぎではないので問題ないと告げる前に、荒北は毒づきながら席を立っていた。
「見かけたら叩き起こして、ここ来るように言っとく」
そう言い捨てて食堂を後にした荒北の背を見送って、福富は首を傾げた。
「だから、仲がいいんだろう?」
「寿一、靖友と尽八が認めるわけねーって」
荒北が先程まで座っていた隣の席で、定食をたいらげた後にパンを齧っていた新開が肩をすくめてみせる。
「荒北はともかく、東堂までどうして……」
「そりゃあ、尽八の方が靖友より素直じゃないからな」
「そうか?」
東堂のことを、珍しいくらいにはっきりとものを言う男と認識している福富が、新開の評に首を傾げる。
「あれは、なんていうか……、んー、難しいな。素直じゃないっていうより……、鈍い? なんか、色々気づいてないんだよなぁ」
箱根学園には、何匹か猫が住み着いている。
人のいないところで昼をとる癖がついて行く先で、よく猫に遭遇するので、猫缶を常備するようになった。
季節のいい時期は外で昼食をとる生徒も多いので餌に困っていないようだが、こうして寒くなってくると職員や生徒も外に出なくなるのか、腹を空かせた猫が荒北の顔を見ただけで寄ってくるようになった。
荒北も最近は建物内で昼を食べているが、食べ終わった後、敷地内を回って寄ってきた猫には餌を与えるのが日課である。そのついでに東堂を探すのも、福富のためなら仕方ない。
秋も深まってきた箱根の空気は陽射しの中でもひやりと冷たい。そろそろコートが欲しいこの気温で、本当に外で寝ている馬鹿がいるのかと思うが、捜索対象は紛うことなく馬鹿である。
「風邪ひくぞ、バァカ」
毒づきながら歩いていると、ズボンのポケットの中で携帯が震えた。引っ張り出すと、新開からのメールである。
あまりいい予感はしなかったが、一応開いてみると画像付きだ。
『オフィーリアみたいって、女子の間でメール回ってたから回してもらった。さっき撮られたばっからしい』
転送してもらったらしい写真を目にして、荒北は深々と嘆息した。
「…………っとに、あのバァカ!」
いやというほど見慣れた、同じ部の同学年の男の寝顔が、今撮られたものだと言うのなら、この寒空の下、本当に眠りこけているらしい。
背景は朱一色。紅葉の葉の上に広がった黒髪の上にも朱色の葉が散って、いかにもな画像だが、眠っている間にポーズを変えられようが、髪に花を編み込まれようが目を覚まさない男なので、これは撮影者が演出したものだろう。
「紅葉っつーと、あそこか」
校舎と自転車部の部室の間の木立が、見事に紅葉しているのを朝に見た記憶がある。
見当を付けた場所に赴けば、捜し人は確かにそこにいた。
落葉した紅葉は濡れたような赤から乾いた茶へのグラデーションを描いていたが、樹上の葉はまだ青さが目立った。重なり合う緑と赤の二色の葉を透過する秋の陽射しは暖かく、その下で眠りこけていてもそれほど寒くはないらしい。
太平楽な寝顔に腹立つのは最初から分かっていたので、見つけたら蹴り起こそうと心に決めていたが、果たせなかったのは、その場に他の人間が居合わせたからだった。
同学年らしい女子が携帯電話を握りしめているところを見るに、彼女が先程の写真の撮影者なのだろう。
不可解なことだが、東堂には確かに信奉者がいる。
こんなふざけた男の何がいいのか理解し難いのだが、東堂の勘違いしているとしか思えないパフォーマンスに黄色い悲鳴を上げる女子が一定数いるのは確かだ。
彼が名乗る、スリーピング・ビューティなる恥ずかしい二つ名は、何故かしっかりと学園内に定着しており、この傍迷惑な眠り癖とも結びついている。写真を撮られたくらいでは目を覚ますことはないので、彼の寝顔は女子の間でかなり流通しているようである。当人は全く気にせず、自分が美しいからだと放言する始末だ。
まだしばらく撮影するつもりならば、邪魔をするとファンに睨まれることになる。
一つ舌打ちして、少し離れたところで動向を見守っていると、女生徒は東堂の傍らに膝を突いた。携帯のカメラを向けるのだろうと思っていたのだが、そのどこか緊張した挙動に違和感を覚えて眉をひそめる。
「……おい」
口を出せば面倒なことになるとは分かっていたが、さすがに見過ごせなかった。
本人の意図よりも不機嫌そうに響いた低い声音に、少女が小さく悲鳴を上げ、接触寸前まで寄せていた顔を上げる。
「さすがにそれは、どうかと思うけどォ?」
何をしても起きないのが悪いとは言え、相手の意識がない時にキスを仕掛けて許されるのは、恋人同士の関係にある場合のみだろう。モテることを自慢はするが、東堂は誰か一人と付き合う素振りはない。振り返った彼女の表情からして、隠れて付き合っている関係とも思えなかった。
彼女の頭の中では恋愛小説の一場面か何かのつもりかもしれないが、相手の意志を無視して向ける恋心など、迷惑行為以外のなにものでもない。
顔を赤く染め、荒北の脇をすり抜けて脱兎のごとく逃げ出した女子の背を、据わった目で見送り、紅葉を踏んで東堂の横に立つ。
「起きろアホ」
脇腹を蹴ると、珍しくすぐに目が開いた。
「女子をあまり威嚇するな。だからモテないんだ、お前は」
内容もだが、寝起きとは思えないはっきりとした声に、荒北は顔をしかめた。
「起きてたわけェ?」
「様子が不穏だったからな」
上半身を起こして、ひらひらと身から落ちた紅葉を見下ろした東堂は、乱れた髪を指で梳いて絡んだ葉を払い落とした。
それも、自然に落ちてきたものではなく、寝ている間にいじり回されたのだろうに、平然とした顔である。
東堂のこういうところが、どうにも荒北は気に入らない。
「ナァニ? 邪魔したァ?」
「いや、別に。もう少し近づいたら目を開けるつもりだった」
「それでどーにかなるもん?」
「大概はな」
寝ている隙にキスを仕掛けようとした相手が気づいて起きれば、普通の神経ならば居たたまれずに逃げ出すだろう。理屈は分かるが、そう言って平然としている東堂の態度が気に食わない。
美形だのなんだのと大声で主張して、女子にちやほやされることをよしとするくせに、どこか酷薄な冷たさが滲む。
「目開けたくらいじゃ、止めない奴だったらどーすんのォ?」
「どうもしない。オレには関係ない」
「……それ、どーいう意味?」
ぴしゃりとはねつけるような物言いに、引っかかって問うと、髪に朱色をひとひら貼り付かせたまま、東堂は首を傾げた。
「誰がオレの意志を無視してキスをしたところで、オレには何の関係もないだろう?」
思わずその真顔をまじまじと見つめると、きょとんとした顔をする。
「何だ?」
「ナニって、お前……」
言いたいことは、分からないでもない。
眠っている間に好き勝手されるなど、誰だって不愉快だろう。キスなど論外で、拒絶が先立つのは当然なのだが。
その反応が、どこかおかしい。
「……今の奴だって、その、お前のこと、好きなんダロ?」
「好意の有無が、何の免罪符になるんだ?」
心底不思議そうに問い返す東堂の言葉は正論だ。
同時に、一片の慈悲もない。
「お前ってさァ、結構冷たいのな」
吐き捨てるように告げると、くっと東堂の唇が弧を描いた。
「よく、言われる」
苛立ちながら教室に戻る途中で、購買でパンを買い足していた新開に遭遇した。
「お、靖友。うちのオフィーリア見つかんなかったのか?」
「おひーりあってナニ?」
出会い頭に意味不明な言葉を投げつけてきた新開に眉をひそめると、買ったばかりのクリームパンをその場で開封しながら説明する言葉を考え込む。
「水死体?」
「……東堂のこと言ってンだよな?」
単語の意味は不明だが、見つけたかどうかを聞かれた以上、その対象は東堂のはずである。
「そう、うちのお姫様」
「それヤメロ、あのバカがますます調子乗っからァ」
「いや、尽八、姫呼びは嫌みたいだよ」
嫌がると知っていて呼んだり、水死体扱いしたりと、彼もなかなか友人の扱いが酷い。
「まーたなんか怒ってるな」
「怒ってねェよ!」
飄々とした新開の態度にも苛立って噛みつくと、口笛一つで流された。
常に大口を叩く東堂と、大らかなのか馬鹿なのか、隣の騒音が気にならないらしい新開はクラスも同じなため、仲が良く、行動も一緒にしていることが多い。
「お前、よくあの冷血野郎とトモダチやってんネ?」
毒づくと、新開がきょとんと目を丸くした。
「尽八と何かあった?」
冷血という言葉と、その名前が新開の中で即座に結びついたことに、荒北は目を眇めた。
「なんもォ?」
刺々しく応じると、食べかけのパンを口元に当てたまま新開が数秒考えこんだ。
「紅葉狩りがてら、その辺で寝てた尽八を撮ってた女子が、ちょっと大胆な行動出かけたところに出くわした。尽八が起きて、女子は逃げて、で、尽八がそれを全く気にしなかったことに腹を立ててる、と?」
見ていたかのように言う新開に愕然とすると、へらりと笑う。
「簡単な推理だよ、ヤストモ君」
「っぜ」
「ウザくはないな、って尽八なら返すだろーけどな。尽八を捜しにいったはずの靖友が怒って帰ってきた。オレが転送した、尽八のファンが盗撮したばっかの写真を元に捜しに行ったなら、まだその子もその場にいた可能性が高い。そして、靖友が今までにない、冷血って言葉を使ったってことは、なんか尽八がキッツいとこ見せたんだろ。ま、例によってチューでもされたけど、虫に刺された程度の反応しかしなかったってとこ?」
「……毎度のことなのかよ?」
簡単に予想できるほど、いつものことなのかと呆れ果てる。
「あれなー、本当に危なっかしいんだよなぁ……」
以前も、新開はそんなことを言っていたが、その時には荒北は東堂のことを傍迷惑な生き物だとしか捉えなかった。
「ある意味徹底してんだけどな。キャーキャー言ってもらえるなら、それに合わせてファンサービスする。人格無視して何かされたら、相手の人格を認めない。まあ、それはいいとして」
「いいのかよ?」
「尽八のは徹底しすぎてんのと、普段とのギャップが激しいだけで、割と普通の反応だろ。まあ、反感は買いそうだけど」
反発する筆頭である荒北を見やり、新開は肩をすくめる。
「まあ、問題はそこじゃなくてさ。尽八がやたらとそういうトラブルに遭いやすいってのと、慣れすぎてて危機感が薄いとこなんだよ」
「ア?」
そんな意味不明なことを力説されても困るのだが、新開の表情は真剣だった。どこか面白がっているような気配がないでもないが。
「普通、寝てる間に恋人でもない他人にキスされるとか、身体まさぐられるって人生にそうあることじゃないだろ。尽八、日常だと思ってんだぞ……! だからいちいち気にしないし、オレが可愛いから仕方ないって……可愛い自覚あんなら、ちょっとは自衛しろって思わねーか!?」
「いや、お前が何を言ってんのか分かンねェ」
きっぱりと言い返すと、新開の目が据わった。
「だったら何で最近、尽八が寝てると横で見張ったり、回収してくんの?」
「何でって……」
最初は、あの死んでいるかのような昏睡に驚いた。
その後は関わるまいと思ったが、寝ている間に好き勝手に弄られている姿に苛立って、番犬よろしく傍らに居座るようになった。入学当初に荒んでいた荒北は、東堂とは別の意味でよく知られていたから、人を遠ざけるのに効果はあったが、そもそも東堂がその辺で前後不覚になっているのが悪いのだと、回収して部室や寮に捨てていくようになったのがこれまでの経緯である。
「なんかトラブりそーだから?」
「どーいうトラブルだい?」
「…………近ェよ」
据わった目が近い、と押しのけると、新開はへらりと笑って見せた。
「いやぁ、靖友が話通じてよかった。尽八は分かってねーし、寿一は『東堂は強いから大丈夫だ』の一点張りでさぁ。靖友、どーにかして」
「知らねェよ、意味分かンねーし、そもそも本人が気にしてねェんだろ。誰が何しよーが、関係ねェって」
そう断じた時の、冷ややかな目を思い出せば無性に苛立つ。
「だって、尽八がここ最近、時間があれば寝てんの、靖友のせいだろ」
「ハァ?」
先程から真面目な顔で世迷い言を言う新開に、思わず半眼になる。
「靖友が構うから寝てんだよ、あれ。構うのやめるか、責任とるか、どっちかにしねーと、いつまでもこのままだぜ?」
「何の責任だよ……!」
ひどい言いがかりである。
「靖友なら、オレの尽八をやってもいいかなって」
同学年の同性の友人に所有格を付けて大真面目な顔をしている新開に、なるほど、と荒北は納得した。
「テメェ、あのアホの世話、オレに押しつける気か?」
「はははっ」
笑ってごまかした新開は、荒北の両肩に手をおいて片目を閉じてみせた。
「うちの眠り姫の王子様役、ヨロシク!」
もはや言い返す気にもなれず、荒北は無言でその脛を蹴りつけた。
「だから、その辺で寝るなって言ってンだよ……!」
綺麗に色づいた紅葉が気に入っているのか、日当たりの良さのためか、昨日に引き続き同じ木の下で太々しく寝ている東堂に舌打ちする。
部室棟の途中の道なので、部活に向かう途中の生徒がたまに立ち止まっては携帯のカメラを向けて行く反応が、どちらかというと、通りすがりに眠っている猫を見つけたような反応である。
蹴り起こして部室に向かわせようかとも考えるが、昨日の新開の台詞が頭を過ぎった。
ろくなことを言っていなかったが、東堂がこうして場所を問わずに寝ているのは荒北が構うからだと言っていたのが気にかかる。ここで構わなければいいのなら、あえて放置しようと決めて、どこかの運動部の男子がしゃがみ込んで携帯を突きつけている横を通り過ぎる。
東堂に黄色い悲鳴を上げる女子達の存在も謎だが、男は輪を掛けて謎だ。その写真をどうするつもりなのか、問いただしたい気もするが、同時に全く聞きたくない。
無心でその横を通りすぎで、角を曲がる前につい振り返ってしまったことを、荒北は心底後悔した。
男の手が、上着の下に潜り込んでいた。
性別を考えれば、窃盗目的を疑うのが一般的だろうが。前々から新開がもったいぶった言い回しで示唆してくれていたためか、痴漢行為にしか見えない。
「…………起きろよ!」
何故あれだけ身体を好き勝手にまさぐられて、目を覚まさないのかと舌打ちして踵を返す。枯れ葉を踏みしだいて近寄り、上級生らしい男の肩をがつりと掴む。
「それ、チャリ部のなんでェ。回収させてもらってイイっすか?」
半眼で見下ろして告げれば、後ろめたそうな顔で手を引く。良からぬ真似をしていたという自覚はあるらしい。
投げ出されていた東堂の手首を掴んで引き起こし、乱れていたシャツの裾を引っ張って直すと、そのまま肩に担ぎ上げた。
クライマーの彼は部員の中では小柄な方だが、軽いわけではない。毎日の厳しい練習でしっかりとついた筋肉は相応の重量があったが顔には出さず、東堂を担いだまま、中途半端な中腰の姿勢でこちらを見上げてくる上級生を睨み付ける。
「何か東堂に用でも?」
「いや、別に、その、全然起きないから心配して……」
「ご心配ドーモ。連れてくんで」
だから失せろ、と睨んだ顔が相当に凶悪だったのか、しどろもどろに弁解していた男は即座に背を向けた。
その背中が木立の向こうに消えるまで睨んでから、肩の上の重量に意識を向ける。
これを、また部室まで運べばいつも通りになるが。
「荒北、下ろせ」
いつもと違うことに、東堂が起きていた。
一つ舌打ちして東堂を地面に放り出すと、体勢を立て直す余地なく背中から落下した東堂が小さく呻く。
「……本当にお前は乱暴だな」
「起きてたなら、テメェで対応しろよ、あんな変態野郎」
「放っておけば勝手に満足するだろうに」
身を起こして、上着についた葉を払いながら嘆息する東堂に、憤然と立ち去りかけていた荒北はぴたりと足を止めた。
「ア?」
「やりたいようにやらせていれば、そのうち満足してやめるだろう? 反応する方が面倒なことになる」
「……ちょっと待て、お前」
聞き捨てならず向き直ると、転がっていたカチューシャを留めて顔を晒した東堂が、怪訝そうな顔をした。
「お前、分かってて、やらせてンのか?」
「気づいているのか、という意味なら、触られているのはさすがに分かる。誰かまでは気にしていないが」
「じゃあ起きろよ!」
「何のために? 写真を撮ろうが撫で回そうが、勝手にすればいいだろう。オレには関係ない」
昨日、この言い様の冷酷さに苛立ったが。今日は、新開の言う心配が理解できてしまって、荒北は額を抑えた。
これは、確かに危うい。
「……お前さ、こういうこと、よくあんの?」
「こういうこと?」
「寝てる間に、キスされそうになったり、身体触られたりってゆーの」
「あるだろう?」
「ねェよ!」
当然のように返されて頭を抱えたくなる。ぺらぺらと好き勝手なことを言っていた新開の言葉が今更染みてくる。
「まあ、お前はないだろうが、オレはこの見た目だからなあ。特にスリーピング・ビューティの二つ名が定着してからは、キスが増えたのが困りものだな。顔や髪を撫でられるのはよくある。身体を触られるのはあまりないが」
皆無ではないらしい。
「……お前、それ全部シカトして、寝たフリしてんのかよ?」
「フリじゃない、寝てる。ちゃんと」
頭が痛い。
周囲の人間が、これをどこかの坊々だと言っていた覚えがあるが、何をどう培養したらこんなものが育つのか、親の顔が見たい。
「未遂で済まなかったらどうするわけェ?」
「別に、何も気にしない。オレの意志じゃないものはカウントしない。」
だから、と荒北を見上げてくる目はまっすぐだった。
「オレ、ファーストキスまだだぞ?」
「そこじゃねェよ……!」
完全に頭を抱えて唸った荒北に、東堂が胡乱げな顔をする。
「お前さァ、さっきの痴漢野郎、何だと思ってんの?」
「脇腹を撫でてくる程度は、別に痴漢とは言わないだろう?」
なんとなく分かってきたが、この珍妙な生き物は物事の線引きが非常に厳密で、一線を越えるか越えないかで対応の温度差が異常に激しい。更に、そのボーダーラインの置き方が、普通の感覚とかけ離れている。
「お前……、ちょっと本当にその辺で寝るの、ヤメロ……」
「どうしてそんなことを、荒北に言われなくちゃならないんだ?」
「テメェが何も分かってねェからだよ」
「さっきから何が言いたいんだ、お前は? オレに対して誰が何をしようと、オレの意志が伴っていない限り、オレには一切関係ないし、認める気はない」
東堂の尊大な物言いはいつものことだが、妙にかちんときて、ネクタイを引き掴むと顔を寄せて睨み下ろせば、怯むことなく睨み返された。
「なァ、お前、それってオレがナニしても、気にしねェって言ってんだよなァ?」
「不愉快だが、気には留めない。何だ、キスでもする気か?」
できるものならやってみろ、とでも言わんばかりの冷ややかな声音に無性に苛立って、その頭を鷲掴むようにして引き寄せた。
歯が当たらなかったのが僥倖と言える勢いで合わせた唇を離すと、僅かに驚いていた顔が瞬時に冷えた。
「それで?」
だからどうした、と言いかけた舌に食らいつく。
「っ!?」
抗議を封じて深く口づけ、逃げかける身体を地面に縫い止めれば、緋色の葉が乾いた音を立てて舞い散った。
口内を蹂躙し、逃げる舌を絡め取ろうとして、がり、と噛みつかれる。
「って……」
鋭い痛みと共に血の味が広がって、身を離すと、歯を立てた当人がその感触に焦った顔をしていた。
身を捻った拍子にカチューシャが外れて、ばらりと留めていた髪が散らばる。紅葉の上で長めの黒髪が広がって、血の気の失せた顔の中で、血の付着した唇だけが赤い。半ば呆然と、信じられないものでも見るように見上げてくる目に、ざわりと凶暴な感情が身の内で蠢いた。
「あ、らき……っ!」
「っせ」
無防備に眠る姿に、トラブルを起こしそうだと警戒していた。
何のことはない、これを獲物だと認識していたのは荒北だ。ネクタイを引き掴んで緩めた首元を大きく暴いて、食らいついてやりたいと思っていた喉元に歯を当てた瞬間、組み敷いた身体がびくりと大きく跳ねた。
「いや……だっ! 荒北ぁ……」
泣きそうな声に、冷水を浴びせられたように、身体を突き動かしていた凶暴な感情が急速に萎んだ。
「……あー、東堂ォ?」
手を離して身を起こすと、のろのろと起き上がった東堂は、そのまま膝を抱えて丸まった。膝に顔を伏して小さくなった東堂に、どうしたものかと悩んで、仕方なくその正面にしゃがみ込む。
「もォ、しねェから」
「…………」
「なァ?」
肩に手をかけると、びくりと大きく震えて、慌てて手を離す。
「……悪かった。やり過ぎた。ごめんな?」
一言も答えない東堂に、ほとほと手を焼きながら、かける言葉を探す。
「なかったことにしていーからァ」
乱れきった前髪の隙間から、僅かに瞳が覗いた。
「ノーカンな?」
「…………」
ようやく膝から離れた顔を恐る恐る覗き込むが、幸い泣いてはいなかった。
唇に手を伸ばして、付いた血を指で拭うと、一瞬肩が揺れたが逃げはしなかった。喉元も同様に拭って、襟元を合わせてネクタイを強引に絞って戻しても抗わない。
「東堂ォ?」
答えはなかったが、独特の風合いの瞳がはっきりと荒北を見返した。
「怖かったァ?」
こくりと首が縦に動く。
「押さえ込まれたら抵抗できねェし、関係ないとか言ってらんねェだろ?」
また首が縦に動いた。
その頭も落ち葉だらけで、そっと手を伸ばして見ると、一瞬びくりと揺れたが、逃げる気配はなかったので、慎重に髪に絡んだ紅葉を取っていく。
「もう、その辺で寝るの、やめるか?」
問うと、視線を上げた東堂が、荒北ではなくその肩越しに何かを見た。何だ、と振り返った横を、急に立ち上がった東堂が駆けだした。
「お、靖友、尽八、何やって……」
「東堂?」
福富と連れだってやってきた新開が陽気に呼びかける横を通り過ぎて、迷わず福富に飛びついた東堂に、新開が目を瞬かせた。唐突に抱きつかれた福富も、いつもより瞬きの回数を増やして、落ち葉まみれのチームメイトを見下ろした。
「……喧嘩か?」
「いや……」
東堂と荒北、いつもより乱れた東堂の着衣を見て取って、ごく常識的な連想をした福富に荒北は言葉を濁す。
「尽八、どうした? 靖友にいじめられたか?」
笑いながら東堂の顔を覗き込もうとした新開だったが、福富の身体を盾にするように逃げた友人の反応に、少し戸惑った顔をしてから、おもむろに荒北を振り返った。
「靖友?」
「いや、別に……」
「なんか、尽八がオレまで警戒するようになってんだけど?」
何をした、と半眼を向けられて、目を逸らす。
「どーにかしろって言ったの、テメェだろ?」
「……なあ、靖友、やっぱオレの尽八返して?」
「テメェのでもオレのでもねぇよ……!」
