山滴る

 残暑の厳しさを警戒し、こまめに水分を補給していたら、ボトルの中身が心許なくなった。
 一緒に走っていた上級生にドリンク補充の旨を伝えれば、この後の練習メニューを伝えられ、それをこなした後一人で学校に戻るように指示された。
 はい、と応えて先輩達と進路を違え、東堂は自販機の二つ並んだ空き地に寄る。土日ならば、このスペースに観光客が車を停めて写真を撮っていることもあるが、平日の今はがらんとしていて自販機以外何も無い。
 ロードバイクを脇に立てかけ、背中のポケットに手を回して小銭入れを引っ張り出す。開けて初めて、いつもならば数枚入れてある硬貨が入っていないことに気がついた。
 先日、同様にドリンクを購入した後、補充を忘れていたことを思い出して嘆息する。帰ったら忘れずに入れておこう、と考えながら、普段は手をつけることのない、小さく折りたたんだ千円札を摘み出す。完全に折り目が付いて薄くなっていた紙幣を広げて伸ばし、自販機の差し入れ口に通すが、なかなか読み込まない。何度通しても戻ってきてしまう紙幣に途方にくれる。
 ここでの補給を諦めて、一度学校に戻るのが正しい判断なのだろうが、そうすると上級生に指示されたコースを無視することになる。
 体育会系の常で、上級生の指示は絶対だ。東堂は既に一年の中で実力を認められているし、先輩達にも可愛がられている方だが、それなりに気をつけて立ち回ってのことである。
 こんなことで、不要な反感を買うのは避けたいが、ボトルは既に空だ。
 ひどい暑さに先程から汗が引かない上に、頭痛を覚えはじめている。補給を優先すべきだとは分かっているが、今後の部活動に支障が出るのも避けたい。ここで補給ができればいいだけのことで、現金がなければ諦めもつくのだが、読み込みが悪いだけというのが判断に迷う。
 半ばムキになって投入し続けていて、背後の気配に気づかなかった。
「何やってンの、お前?」
 振り返って、太陽の眩しさと、ひょろりと細長いのに軟弱な印象のない特徴的なシルエットに思わず顔をしかめると、相手も逆光でも判るほどはっきりと顔を歪めてみせた。
「ンだよ、その顔はァ?」
 少し語尾を伸ばす特有の口調は、全く柔らかく聞こえない。刺々しく乱暴で、周囲とすぐに揉めている。誰彼かまわず牙を剥いて唸る野良犬のようなこの男を、東堂はあまり好きではない。
 荒北靖友、少し前まで前時代的なヤンキーファッションで、寮内の問題児として扱われていたが、最近は髪も短く切って自転車競技部の厄介者となっている。
 彼を連れてきた福富が、何故か非常にこの男に執心しているので好きにさせているが、正直なところ、荒北の力任せで配分というものを考えない無駄の多い走りには何の才気も感じない。
 友人の新開は物好きにも、このトラブルメーカーの性格を気に入っているようで、邪険にされながらも積極的に関わっていって、仲が良いとは言い難いが、友人未満の関係には収まったようである。
 福富には傍目から見ていても明確に懐き、新開とは慣れ合ったようだ。ただ、東堂とは徹底的に相性が悪い。
 他の部員ともうまくやっているとは言い難いから、東堂が特別に関係が悪いわけではなく、福富と新開こそが特別なのだろう。
 他の部員は彼になるべく関わらないようにしているが、それは東堂の性に合わない。悪いものは悪い、と憚ることなく言い放ってきたし、荒北もそれに真っ向から噛みついてくる男だったから、毎日のように何かしら衝突する相手だ。
 しかし、今、この暑さの中で相対する気にはなれない。
 苦々しい感情を噛みしめて、エラー音と共にまた吐き出されてきた紙幣を引き抜いて踵を返す。
「自販機を使うのか?」
「……別に」
 これが、荒北以外の部員だったなら、気楽に窮状を笑い話として告げて、この使えない紙幣を両替してもらうなり、一時的に借りるなりできたのだが。どうにも、彼に借りを作る気にはなれなかった。
 戸惑ったような、いつもより反応の鈍い荒北の横をすり抜け、自販機の横に立てかけた己の愛車に向かおうとして、その肩を掴まれた。
「おい、お前……」
「何を……っ!?」
 気分の悪さも相俟って、激発しかけた東堂だったが、勢いよく振り返った瞬間、くらりと目眩を感じた。
 傾ぎかけた身体は、肩を掴んだ手が支えた。
「お前、すげー顔色悪ィんだけど」
 真顔で覗き込まれて、一瞬動揺する。
「……大丈夫だ」
「触ンなって? そーいう台詞は、自分で立てる時に言うもんじゃナァイ?」
 小馬鹿にしたような口調と共に、肩を掴んでいた手が離されると、途端に足元が崩れた。
 ずるずるとその場にしゃがみこみ、目眩に耐えていると、嘆息が聞こえ、同様にしゃがみこんできた荒北が東堂の顔を両手で挟み込んで固定した。
「お前さァ、実はめちゃくちゃ意地っ張りダロ? なんだっけ、お前はチャリ部の部員なんだから、ここでぶっ倒れて死んだりしたら、部や学校の責任になるんじゃかったっけェ?」
 呆れ顔で告げられたのは、ペース配分も考えずによくひっくり返っていた初心者の荒北を、仕方なく面倒を見ようとした東堂を拒絶した際に、そういって叱りつけた東堂自身の台詞だった。
 ぐっと言葉に詰まると、頬に当てられていた右手が汗のひかない額に移動する。
「お前、完全に熱中症。自分で自分の面倒見れるゥ?」
 口調は刺々しいが、理は荒北にあった。
「…………すまない、荒北の言う通りだ」
 一つ息を吐いて謝罪すると、苦々しい顔をしていた荒北が更に妙な顔をした。
「……っとにコイツは……!」
 舌打ちと共にぼやいた荒北が、身を起こして東堂の腕を引きずり上げた。
「歩けるゥ?」
「ああ」
 頭痛と目眩はますます悪化していたが、歩けないほどではない。
 しっかりと背筋を伸ばして荒北を見つめ返すと、また舌打ちが返ってきた。
「そーいうトコ、ホントにかわいくねーな、お前」
 意味が分からず、怪訝な顔をするが、コミュニケーション能力に著しく欠陥のある元不良は、東堂の疑問に答えることなく、強引に腕を引いて歩き出す。
「寝てろ」
 木陰に連れていかれて、草むらの上に引き倒される。
 言葉で指示するだけでいいものを、いちいち乱暴な男である。思わず半眼で睨み上げると、それより更に目を細めた荒北が手を突き出してきた。
「金」
「…………荒北、顔で既に損をしているんだから、せめて言葉には気をつけたらどうだ?」
「テメェこそ、そのいらねェ口は、どうやったら減るんだよ……!」
 飲物を買ってくるから、先程東堂が投入しようして失敗していた紙幣を渡してくれ、と告げればいいものを、これ以上にないほど最悪な物言いしかできないことに、ほとほと呆れるが、何故か荒北も呆れ顔で東堂の手から紙幣を引ったくった。
 紙幣を握ったままの手で、サイクルジャージのファスナーを強引に引き下げられて、前を開かれた。汗ばんだ素肌に、木陰で僅かに他より涼しい空気が触れる。同様にヘルメットも剥ぎ取られ、放り出される。
 その手荒な扱いに、ファスナーやヘルメットが壊れたらどうするのだと思う。
「動くな」
 文句を言う前に、そう言い捨てて、自販機の方に早足で向かった背中を見送り、東堂は深々と嘆息した。
 これまで、彼の粗暴な物言いや振る舞いに反発しかなかったのだが、どうやら彼の言動は、最大限に好意的に解釈するのが正解らしい。
 しかし、どう考えても今の一連の行動を傍目から見ていた場合、不良が同じ部の美少年に絡み、物陰に連れ込み押し倒して服を乱れさせ、更に恐喝までした現場である。
 実は熱中症になりかけたチームメイトを心配して手当てをしているとは、到底思えないところが、非常に損な外見と性格である。
「いや、心配しているわけではないか」
 何やら腹を立てているようだが、彼は常に何かしら怒っているので、もはや常態である。
「確か、ああいうのを示す今時の言葉があったはずだが……」
 なかなか読み込まない紙幣に腹を立てて、今にも自販機を蹴りつけそうな後ろ姿を眺めながら考え込む。
「……つんでれだ」
「意識が混濁してるみたいですケド、救急車呼ぶゥ?」
 思い出した俗語を呟くと、戻ってきた荒北にペットボトルを投げつけられた。どうにか紙幣を読み込ませることに、成功したらしい。
 普段の東堂ならば、簡単に受け止められたのだろうが、どうにも反射神経が鈍っていた。がつん、とこめかみに当たったペットボトルが転がる。
 中身の詰まったボトルの重量はそれなりの衝撃で、頭痛を抱えた身には厳しかった。
 小さく呻いて、目眩が収まるのを待つが、その間動かなくなったことに、荒北が焦ったようだった。
「おい……?」
 ボトルが当たった場所に、そっと手を当ててきた荒北が、珍しく殊勝な顔をしていた。止まらない汗でじっとりと濡れた髪に触れて、その顔がまた歪む。
「飲めヨ」
 転がっていたボトルを手に押しつけられるが、どうにも動作が鈍く、蓋の開封に手間取っていると舌打ちと共にペットボトルを引ったくられた。
「少し起きろ」
 上半身を引き起こされて、逆らう気力もなく身を起こすと、顎の先から汗がぽたぽたと伝い落ちる。
「……飲めるか?」
 口元に開封した飲み口を寄せられ、ボトルを掴むが、荒北はボトルを支えたまま離そうとしなかった。どうやら、離した途端、東堂がボトルを取り落とすもの決めつけているらしい。非常に不本意だが、文句を言うのも面倒で、素直に口を開けるとスポーツドリンクが流し込まれた。甘く冷たい液体が身体に染みて、頭痛が僅かに和らぐ。
「東堂、平気か?」
 刺々しさのない声で、名を呼びかけられるのは珍しい。
 いつもより低めの声音は、案外耳に心地よかった。
「東堂? おい、学校に連絡するか?」
「いや、大丈夫だ」
 そこまでではない、と目を開けてきっぱりと返すと、荒北が目を瞬かせた。たちまち怒りの色に染まった形相に、つくづく残念だと思う。
 数秒前の表情と声音を維持することができれば、もう少し周囲と友好的な関係が築けると思うのだが。
「テッメ……! なんか全然喋ンなくなるし、グッタリしてっから、ヤベェのかと思って人が……!」
「心配したのか?」
 途中で詰まった台詞の続きを予想して言ってみると、更に怒らせたらしい。
「誰が……ッ!」
「お前、面倒くさいな?」
「お前が面倒くせェよ……!」
 至近距離で怒鳴り散らされ、また頭痛が再発して顔をしかめると、荒北の怒気が薄らいだ。
「……具合は悪ィんだな?」
「大丈夫だ」
「……お前さァ」
「大丈夫だと言っている。水分を摂って少し休めば治る」
 しつこさに苛立つと、荒北はまた顔を歪めて舌打ちした。
「あっそ」
 肩をすくめて踵を返した相手に、ほっと息を吐く。ロードバイクを立てかけてある自販機に向かう姿を見送って、安堵したのも束の間、新しく買ったペットボトルを二本手にして戻ってきた荒北に思わず苦い顔をする。
「お前、何か言う前に、自分がオレに何したか思い出してから言えよ」
 文句を言う前に、先手を打たれた。
 初心者の彼がオーバーワークで倒れているのを見つけ、近づくなと歯を向く野良犬のような反応をきっぱりと無視して世話を焼いたのは、それほど前のことではない。
「……オレはお前と違って、自分の体調は自分で管理できる」
「へェ?」
 ミネラルウォーターのボトルの蓋を開けながら、馬鹿にした声を上げた荒北は、そのままボトルを傾けて水を東堂の頭の上に注いだ。
「冷たい」
「良かったネ」
 熱中症の応急処置として、体温をこうして下げるのは間違っていないのだが、どうにも外見と態度のせいで無体をはたらかれているようにしか思えない。
 開封した水のボトルともう一つのボトルを地面に置いて、また背を向けた荒北と、未開封の炭酸飲料を見比べる。いつも彼が飲んでいるパッケージだから、自分のために買ってきたのだろうが、それを置いてどこへ行くのだろうと眺めていると、自転車二台を引いて戻ってきた。
 他に人もいないので、そのままでも大丈夫だろうが、鍵をかけずに放置しているのが落ち着かないのだろう。立てかけるところもないので、そのまま草の上に倒す動作が、いつもの乱暴な所作とは打って変わって丁寧で、ロードレーサーらしくなってきたものだ、と眺めていると、じろりと睨まれた。
「なァに?」
「いや、見た目より丁寧に自転車を扱うものだと思ってな」
「お前はホントに余計なコト言わなきゃ、話ができねェのかよ……」
 舌打ちしながら置いていた炭酸飲料に手を伸ばし、その場に座り込んだ様子からするに、ここに居座るつもりらしい。
「……福ちゃんのだかんな」
 半ば独り言のような一言は、明るい青色のビアンキに向けて発せられた。
 ブランドのイメージカラーともなっているその独特な爽やかなブルーグリーンの車体は、福富から借り受けたものだ。入部してからしばらくは、部の所有している古いフレームを使っていたが、今はもっぱらこのビアンキに乗っている。
 福富がわざわざ荒北に合わせて調整したことを、知っているかどうかは知らないが、大事に扱っているようなので良しとする。
 メンテナンスもきちんとしているようで、その点、少し評価が不当だったようだと認識を改める。
「寝てろ」
「冷たい冷たい冷たい!」
 ばしゃばしゃと身体に水が振りかけられ、思わず声を上げると、うるさいと顔を掴まれて引き倒された。
「お前、自転車に向ける優しさを、もう少し人間に向けてもいいと思わないか?」
「優しいだろォ? 飲み物だって買ってきてやったしィ?」
 バラバラと釣り銭を人の腹の上に落とす所作のどこに、優しさがあるのか分かりかねたが、もしかすると彼の場合、投げつけないのが精一杯の優しさなのかもしれない。
「大分口が回るようになったネ」
「だから最初から、水分を摂れば平気だと……」
「寝てろ」
 身を起こそうとすると、筋張った男の手で地面に縫い止められるので、諦めて横たわって力を抜く。濃厚な緑の中で降りしきる蝉時雨は暦を疑うほどの騒々しさだったが、時折吹き抜ける風は僅かに秋の気配を含んで涼をもたらした。
 心地よく寝ころぶには、少々体調が思わしくない上に、仏頂面でペットボトルを呷る荒北の横顔が無粋だが。
「……オレさァ、そこの自販機で福ちゃんに会ったんだよネ」
 蝉の声だけが空間を占めるのに飽きたのか、突然言い出した荒北に、少し首を傾ける。
「フクも自販機に閉め出されていたのか?」
「そんなアホはテメェだけだヨ」
 非友好的な返答にむっとするが、珍しく荒北から話し出した上に、気になっていた彼の入部に関わる話題のようだったので、黙って続きを待つ。
 なんせ、荒北は誰にでも噛みついて回るような性格で、入部理由を和やかに語るような男ではなかったし、連れてきた福富はと言えば、言葉と表情筋が決定的に乏しく、何を聞いても、大丈夫だ、の一言で終わるため、これまで諸々が謎だったのである。
「……オレが一方的に絡んだンだよ」
 荒んでいた時の彼の姿は知っている。
 目が合ったというだけで因縁をつけてきそうな典型的な不良で、髪を目立つ金色に染めた福富がその標的になったと聞いても、さほど新鮮味はないが、荒北は妙に言いにくそうな顔をしていた。
「で、まァ、カッコがダセェとか絡んだら、あの鉄仮面でサイクルジャージについて懇切丁寧に解説してくれて」
 その情景が目に見えるようで、東堂は苦笑しかけた。
「で、オレ、ブチギレて、そのビアンキ叩き倒したんだよ」
 笑みが引き攣ったのが自分でも分かったが、その表情の変化を注視していた荒北も反応は予想していたようだった。
「それは……お前……」
「少し驚いた顔はしてたけど、すぐあの鉄仮面でスゲー偉そうにご高説垂れてくれて、オレ頭きて全然気づかなかったンだけど……」
 手にしたペットボトルにぼそぼそと呟いていた荒北が、深々と嘆息する。
「あれ、福ちゃん、メチャクチャ怒ってたんだよな……」
「……だろうな」
 福富は表情の分かりにくい男だが、少し付き合えばただの自転車馬鹿だと知れる。荒みきっていた荒北が、この華やかなカラーリングのロードバイクにどんな無体をはたらいたか、容易に想像がつくし、それにどれだけ福富が激昂したかも想像に難くないが。
 それが何をどうして、この男を部に引きずり込むことになったのかが不明である。
 不協和音と共に荒北が自転車部に入ってきた時、彼は福富に猛反発しては噛みつき、怒鳴り散らしていたが、裏を返せば福富のことしか見ていなかったし、認めていなかった。
 今は完全に福富にだけ懐いたようで、そこで改めて出会いを思い起こすに、最初に主と認めた相手の不興を買っていたことに今更気づいたものらしい。
 どこかしょんぼりとした風情の荒北を見上げ、東堂はなるほど、と納得した。
 あの福富がこのトラブルメーカーの何を気に入ったか、常々不思議に思っていたが、これだけまっすぐに懐かれれば可愛かろう。
「そのチャリを貸してくるって、その、えーと、どーいうアレかってゆー……」
 がしがしと髪をかき混ぜながら、聞きづらそうに問いかけてくる台詞の後半は、ほとんど言葉として意味を成していない。
 語彙は足りないが、言いたいことは汲み取れた。
「つまり、フクが何よりも大事にしている自転車を、初対面で馬鹿にして乱暴をはたらいて怒らせた。その後、その馬鹿にした自転車競技をやってみろとフクに引きずり込まれ、真剣にやってみて、やっと自分がしでかしたことの重大さに気がついた。しかし、当人は変わらずの鉄面皮で、何を考えているか分からない。どういうことだと思うか、と聞いているのか?」
「あー、ソレ」
「お前、国語の成績悪いだろう?」
「っせ」
 毒づく態度は相変わらずだが、困ったことに、かわいげがあるように思えてきた。
「新開の方が、フクとは中学からの付き合いだから、オレより詳しいと思うが?」
 そもそも、東堂と荒北の関係を考えるに、新開との方がこういった話題を振りやすいはずだろうと問えば、荒北は渋い顔をした。
「あのニヤケ野郎の言ってることは、意味が分かンねーんだヨ」
 どうやら、既に聞いてみたものらしい。
「何だって?」
「ラブとドリームがどーとか」
 どこか掴みどころのない友人の口振りがなんとなく脳内で再生され、おそらくは彼も東堂と同じ結論に至っていることを予想する。
 要するに、福富寿一は荒北靖友という男の何かに惚れ込んで、夢を抱いた。今はその実現のためにこの野良犬のような男を育てている最中で、予想以上に懐かれて可愛くなってきたところだろう。
 端から眺めていて分かることだが、それをそのまま荒北に伝えても、猛反発するのが目に見えているので、どうしたものかと悩む。
「フクの考えていることが気になるなら、直接聞くのが一番だと思うぞ。オレや新開が何を言っても、憶測でしかないからな。自分のしでかしたことが気になっているなら、改めて謝罪すればいい」
「そりゃそーだろーけどヨ」
 結局正論を告げた東堂に、荒北が渋い顔をする。
 その言葉が正しいと頭で理解できても、実行に移すには抵抗が多いらしい。
「ツンデレか」
「どういう意味で言ってンのかなァ、この不思議チャンは?」
「ふしぎちゃん?」
「テメェのことだよ、このバァカ!」
 掴みかかってきた腕をひょいと避けて、起きあがる。
「おい……」
「大丈夫だと最初から言っているだろう」
 水分を摂って、しばらく休憩したので体調はとっくに回復していた。
 大丈夫だ、と重ねて繰り返すが、人の話を聞かない荒北に顎を捉えられた。覗きこんでくる目は真剣で、少し居心地が悪い。
「あらき……」
 先程注がれた水で濡れていた髪が額に張り付いて、そこから伝った滴が頬を伝い落ちるのを、ざらりとした指の感触がその濡れた軌跡を拭い去った。
「お前、ちょっとスタミナ足ンねェんだよなァ……。チビの割にはついていってるけど、新体制の練習メニュー、お前に合ってねェだろ? つーか、ついていける奴はいても、合う奴いねーだろ、あれ」
「…………」
 正式な引退となる追い出し走行会までは少し間があるが、三年は既に部に口を出さない。新しく任命された主将の率いる新体制の方針は、前の代と比べて、少々無駄に厳しいところがある。
 これから部を牽引していくであろう、主要メンバーがパワータイプに偏っているためか、自分達の体質に合った練習法を全体に課すようになったのである。
 あまりに無茶な練習メニューは監督が指導しているようだが、彼らの目の届かない路上では、上級生の無茶苦茶なオーダーが罷り通る。
「一年の間でかなり不満溜まってるみたいだし、マジでボロボロになってる奴もいるしィ? お前までぶっ倒れるくらいなら、そろそろ何とかしたらァ? ま、オレは関係ないけどォ」
 部に全く馴染んでいない荒北は、福富の決めた練習メニューにのみ従っているので、部の方針の転向も全く関係ない。むしろ、周囲の状況に気づいていたことに驚いた。
「……分かった、少し皆と話し合う。ありがとう」
 その荒北までもが口を出してくるということは、今の状況はかなり異常だということだろう。場合によっては三年を引っ張り出してでも、話し合いをする必要がある、と算段を巡らせて腹を決める。
 決断のきっかけを与えてくれたことに礼を言うと、何故か部内の部外者は大きく顔をしかめた。
「お前、そーいうのは素直に礼を言うのな」
「オレはいつだって素直だろう」
 難儀な性格をしているらしい荒北と違って、東堂は礼や謝罪が必要と思えば、その場で口にする。
「……何こいつ、ホント面倒くせェ」
 ぼやく荒北は放置して、己の自転車に近づくとケージからボトルを引き抜き、ペットボトルに少し残っていた中身を移す。
「こっちも持ってけ」
 放られた水のペットボトルはまだ半分以上残っていた上に、大きめの一リットルボトルだったので、ボトルに満杯にしてもまだ余った。
 どうしたものかと、ペットボトルを持て余していると、無造作にボトルを取り上げられた。見上げると、容赦なく残りを頭の上から注がれて閉口した。
「荒北……!」
「お前、水冷式なんだから、かぶっとけ」 
「水冷式?」
「人より汗かいてんだろ。その分、ボトルの消費早い」
 自覚はあるが、それに荒北が気づいているとは思わなかったので、少し驚いた。
「……ンだよ?」
「いや……、お前、結構オレのこと見てるんだな?」
 首を捻ると、びしょ濡れの髪から水滴が滴る。
 疑問をそのまま口にしただけだったが、荒北は何故かひどく動揺した。
「別に……、誰もテメェのことなんか見てねェよ! 自意識過剰のバカチューシャ!」
 突然の罵倒と、投げつけられた空のペットボトルに唖然としていると、肩をいからせた荒北が背を向けてビアンキを引き起こし、猛然と漕いで走り去っていった。
「……今のは、どう解釈すれば?」
 ここ最近、多少のコミュニケーションが成立するようになって、荒北の言動は最大限善意に解釈していいらしいとは分かってきたが、いまだに理解しがたいことが多い。
 放り出されたペットボトルを拾い上げ、全てゴミ箱に捨ててからもう一度首を捻ると、その仕草で水滴が滴った。
「なんというか、アレは……うっかり可愛くなってきたな」