期末考査が終わり、私立の箱根学園は赤点を取って補習授業と追試を課せられた者以外は、テスト休みの期間に入る。
そのすぐ後に終業式があり、夏休みに突入するので、実質既に休みに入っているようなものである。一般生徒は遊びやバイトの予定でいっぱいだが、部活動に熱心な生徒達もまた、テスト休みを最大限に利用して練習に打ち込んでいた。
例年通りインターハイ優勝を目指す自転車競技部も、この休みを特別合宿に当てていた。
東京の私立大学の自転車競技部に交流練習を申し込み、大学構内を借りての三日間の強化合宿である。
「あんまし意味ねーと思うンだけどなァ」
「荒北は本当に文句が多いな」
「箱学に十分設備あンだしィ、そもそも今回のインハイ地元なんだから、コース繰り返し練習した方がいーダロ。どうせ合宿行くなら、静岡の方行けばいーのにさァ」
元々インターハイの選抜メンバーは、一人を除いて皆寮生だ。施設に泊まり込みで朝から晩まで練習に打ち込めるといっても、最初からそれに近しい環境なのだ。加えて、今回は地元の箱根がそのままステージとなるのだから、普段の練習コースを更にやりこんだ方がいいに決まっている。
「大学ン中泊めさせてくれるって、寮なら一人部屋なのに雑魚寝だしィ、チャリ置き場遠いしィ、梅雨明けて暑いしィ、蝉うるせェし、何で大学ってこんな無駄に広いわけェ?」
「お前、もう文句言いたいだけだろう?」
横で嘆息する東堂が、起床時間の二時間も前に起きだして、自主練をしたいからと、自転車を保管している倉庫の鍵を預かっていた荒北を叩き起こしてくれたのが不機嫌の最大の理由なのだが。
「実コースの練習は合宿が終わった後でも十分取れるだろう。せっかくの交流練習だ、大学生相手に練習できる機会など滅多にないのだし、積極的に吸収しなくてどうする」
「お利口ちゃんだねェ、遅刻してきたクセに」
いつも通りに正論を振りかざす相手を当て擦ると、他の部員達に一日遅れて、昨日の夜中に合流した東堂が渋い顔をした。
「好きで遅れたわけじゃない」
「好きで遅れたんダロ。お前があの不思議ちゃんの面倒見てやる筋合いはねーンだし、赤点取る授業態度悪いバカなんざ、インハイメンバーから切り捨てちまえば良かったんだヨ」
毒づくと、印象的な瞳が荒北をまっすぐに見据えた。
「一年の一学期のテストが、ほぼ全教科赤点だった元ヤンが、それを言うのか?」
「っせ」
「言っておくが、お前の時の方が大変だったぞ? 勉強は出来ん、態度は悪い、喧嘩っ早い。何度フクと一緒に、先生方に頭を下げに行ったことか……」
「福ちゃんには迷惑かけて悪かったけどォ!」
「オレにも悪いと思え!」
「お前にはその後、散々迷惑かけられてンだよ」
相殺して貸し借りゼロだ、と言うと不本意そうな顔をされた。
「お前、オレに迷惑かけたことねーつもりか?」
「無いな!」
どの口でそれを言うのだと、問答無用で頬を両側から摘まんで引っ張ってやると、痛いと喚く声がそこらの蝉より姦しい。
「少なくとも今回、オレはインハイ出場が問題になるような点取ってねーよ」
クライマーとしてのセンスは抜群だが、とかく自由すぎる一年の問題児をメンバーに決める際にも一悶着あったが、夏休み直前の期末考査でまた問題が発生した。
授業放棄が多く、授業中も寝ていることの多いらしい真波は、もちろん授業外で勉強をすることもなく、大量の赤点を取ったのである。
主将の福富と副主将である東堂が揃って教師陣に頭を下げに行き、交渉の末に一日目の補習参加と帰ってきてからまとめて追試を受けることを条件に、合宿とインターハイ参加を認めてもらう羽目になった。一日目の補習については、目付役として東堂が残って監視し、そのまま首根っこを引きずるようにして昨夜二人で到着した。
「言っとくケド、真波のやつ、合宿来れて嬉しいとか全然思ってねーぞ?」
「知ってる」
坂にしか興味の無いクライマーの一年は、これだけ上級生や学校に迷惑をかけておいて、坂を上れない合宿に参加できたことに、何の感謝もしていない。
「あれでも一応、やれと言えば言うことは聞くからな、今回の合宿も経験させておいて損はない」
「やさしー先輩ネ」
「山神だからな」
「ヘイヘイ」
上から目線で大口を叩く東堂の言動は今に始まったことではないので、右から左に聞き流し、目的のプレハブ倉庫が見えてきたので、ジャージのポケットから鍵を引っ張り出す。
五十名近くの合宿参加者のそれぞれのロードバイクは、置くところにも苦労する。大学側の好意で構内の倉庫を貸してもらえたのはいいが、いかんせん遠い。歩きにくいビンディングシューズで来るのではなかったと、そろそろ後悔しかけたところだったので、ほっとしながら最後の距離をクリートを鳴らして進む。
昨夜、遅れて到着した二人の愛車も収納した後に、うっかり鍵を預かったのが敗因で、朝も早くから元気な東堂に叩き起こされて鍵を渡す間に目が覚めてしまった。寝直すと寝坊しかねないし、東堂を野放しにしてするのもリスクが高いので、仕方なく早朝練習に付き合うことになった荒北である。
ロードバイクに出会って二年と数ヶ月、クライマーという生き物は、坂などという苦行を悦ぶ変態で、話の通じない異星人しかいないと独断と偏見に基づいて荒北は主張する。
その筆頭である箱根学園のエースクライマーは、軽い足取りで倉庫の角を曲がりかけて、不意に立ち尽くした。今度は何だと舌打ちしながら棒立ちになった東堂の肩を押しやりかけ、荒北もその場で凍り付く。
倉庫の扉はスライド式で、両側の取っ手に鎖を通して南京錠で施錠されていたが、今その鎖が断ち切られて地面に転がっていた。
二人で顔を見合わせて、互いの目に同じ疑惑と恐怖を見る。
飛びつくようにして両側の戸に手を掛け、左右に大きく開けば、プレハブの倉庫内に朝日が燦々と差し込んだ。がらんとした長方形の空間に、きらきらと埃が反射するのを呆然と見つめていると、不意に腕を強く掴まれた。
「落ち…着け、荒北」
何も取り乱した覚えはなかったし、そう言う東堂の声の方がよほど揺れていたが、指摘することなく奥歯を噛みしめる。
「道を、間違えて、違う倉庫に来たということはないか?」
客観性のない、願望でしかない仮定にのろのろと首を横に振って、二台ほど残されていた部所有の古いロードバイクと、箱根学園の校章の入ったボトルが一つ転がっているのを指し示す。
確かに、昨日この倉庫に部員達の機体を並べて片付けた。遅れて合流したクライマー二人の為にもう一度鍵を開けてやって、二台の白いロードバイクは入口付近に置かれた。しっかりと鎖を巻いて錠をかけたのは荒北自身だ。
早朝の涼気を追いやって、ぐんぐんと上昇しはじめた気温とは裏腹に、背に冷たい汗が滲む。
「……ッ!」
ぐらりとよろめいた東堂が、掴んだままだった荒北の腕を支えに踏みとどまる。力加減に気を配る余裕がないのか、その爪が肌に食い込むのを、ゆっくり一本ずつ指を引き剥がして、冷や汗に冷たくなった手を掴む。
握り返してくる手の存在を頼りに、吐き気のするような混乱をどうにかやり過ごして、すべき行動を必死で考える。
「東堂、携帯、貸せ」
「……ケータイ?」
「福ちゃんと、コーチに連絡しねーと……」
福富の名を出すと、東堂の揺れていた瞳が凪いだ。
「……警察もだ」
ジャージのポケットから携帯を取り出した東堂が、自分で連絡を取り始めるのを見守りながら、再度空になった倉庫に目を向ける。途端、足下が崩れるような感覚を覚えて、先程東堂が転びかけたのはこれかと、どこか悠長なことを考えていると、手の中に冷たい指が滑り込んできた。
コール音を聞きながら強く目を瞑った東堂の横顔を見やって、その手を強く握り込む。
目を開けた東堂は微かに笑むと、繋がった電話に向かって淡々とした声で自転車の盗難について報告を始めた。
「最近、多いんですよ、高級自転車の盗難」
警察官の台詞に、周囲の反応は鈍かった。
「ちょっと前までは自転車泥棒って言ったら、その辺に停めてあったママチャリの鍵を壊して勝手に乗って行って、適当なところで乗り捨てていくものだったんですけどね。スポーツバイクブームって言うんですか、一台何十万もする自転車に乗る人が増えて、転売目的の盗難が急増しているんです。しかも今回の被害、五十台近くを根こそぎですからね。トラックも複数台用意してたとしか思えませんし、組織的な窃盗団の仕業でしょうね」
言いにくいですが、と警官は言い置いて続けた。
「個人の窃盗なら、ネットオークションや故買屋をしらみつぶしに当たると見つかることもあるんですが、窃盗団となると、独自の販売ルートを確保しているようで、まず、出てこないかと……」
「どうにか、なりませんか……?」
監督の顔も血の気がない。
「この子達は、インターハイを控えていて……」
「可哀相ですが……」
気の毒そうに警官は、空の倉庫の前で呆然と立ち尽くしている少年達に目を向けた。
犯人に対する怒りにまで達している者は僅かで、誰か冗談だと言ってくれないかというような、中途半端な泣き笑いの表情で、意味も無くうろうろと歩き回っている者が大半だ。
主将の福富は黙然と倉庫の前に立ち尽くしたまま微動だにせず、その横から荒北も動かない。べそべそと泣いている葦木場を相手にしていた泉田は、その内しゃがみこんで膝に埋めた顔を上げなくなった。その丸まった背に手を置いて、黒田は不安と焦燥がないまぜになった目を主将達に向けていた。
副将の東堂は、最初下級生達の間を歩いて、吠える銅橋を初めとした怒りを喚き散らしていた一部を宥めていたが、途中で消沈しきった新開に掴まって、その腕に抱き込まれて動けなくなっていた。
「福富、東堂、一度皆を宿泊所に戻らせろ。インハイメンバーは後で別室に集まれ、今後のことを決める」
そう顧問教諭が指示すると、それぞれうなずいた主将と副将が動き出したが、普段福富の代わりに声を上げて指示を伝える東堂の動きが鈍いのは、背に張り付いた大型の荷物のためだ。
「東堂、重くないか?」
「重いし暑いが、隼人だからなあ。荒北、パス」
「寄越すな、邪魔だからァ!」
「…………」
「ヘコむな、ウゼェ!」
文句を言いながらも、東堂から新開を引き剥がし、荒北が嘆息する。
「みんな、ヘコんでんだヨ」
「うん……」
肩に頭を預けてきた新開を振り払いはせず、小さく丸くなっている泉田に歩み寄って、黒田から引き取る。
「スプリンターは何でこう、ヘコみやすいんだよ! オラ立て、泉田。シャキっとしろ、このバァカ!」
「荒北、隼人はともかく、年下はもう少し気遣ってやれ」
「ッセ! ヘコんでて何か解決すンなら地球の裏側まで落ち込め! そうじゃねーなら動け! 東堂、お前の担当の不思議チャンはァ?」
言われて、初めてインハイメンバーもう一人のクライマーの不在に気がついたらしい東堂が、慌てて周囲を見回すが、問題児の一年生の姿はない。
「まさか、アイツ、この事態に気づいてないんじゃ……」
「ありえるな……」
福富の苦々しい同意を裏付けるかのように、宿泊所の方角から少年が一人駆けてきた。ビンディングシューズは両手に持って、靴下で走ってきた真波は近づいてその場の異様な雰囲気に気づいたようで、不審げに足を止めた。
「スミマセン、寝坊しまし……た?」
あまり他人を気にすることのない少年だが、遅刻を責めているにしては重すぎる空気はさすがに読んだようで、謝罪の台詞が中途半端に途切れる。
「ええと、なにかあったんですか?」
「自転車が盗まれた」
端的すぎる言葉で伝えられた状況を今ひとつ理解できなかったようで、真波が首を捻る。
「誰の自転車が?」
「全員のだ」
意味が分からないとばかりに、大きな瞳を瞬かせて真波はぽっかりと開いた空の倉庫に目をやった。
「えっと、オレの自転車は?」
「だから、盗まれた」
福富の言葉が真波の頭に浸透するまでに、少し時間を要した。
「え、ヤダ」
意味を理解した後の反応は、子供じみた現実の否定だった。
「何それ、ヤダ、どうして……? 何でそんな……ヤダ、ヒドい!」
「ヤダヤダ言ってもしょうがねーンだよ!」
後から来て四の五の騒ぐなと噛みつきかけた荒北の隣で、それまで一言も口をきかなかった東堂が不意に動いた。
ごねる真波の胸倉を掴んで引きずり倒すと、そのまま倒れた後輩の身体に馬乗りになり、その顔を見下ろす横顔には表情がない。表情が失せると途端に作り物めく硬質の造形の中で、目だけが爛々とした光を湛えていた。
「東堂さん?」
凄みのある東堂の目に、こくり、と真波の喉が上下した。
「落ち着け、東堂」
「尽八?」
「おい、どうした東堂!」
この事態に対する鬱憤が、勝手なことを騒ぐ一年によって激発したかのようにも見えて、一瞬周囲が焦るが、荒北がその肩に手をかけて引き剥がそうとすると、その肩が大きく震えた。
「真波、真波、真波!」
弾けた笑声と共に、後輩の名を連呼して、寝癖のついた頭を抱き込んだ東堂に呆気に取られる。
「遅刻魔、サボり魔、坂馬鹿の問題児、学校不適合者、オレの糸の切れた風船! 今日だけはそのろくでもないお前の生活態度に感謝する! キスしてやろう!」
「は? え? や、ちょっと、どうしたんですか! 何、東堂さん! 東堂さんがいつもよりおかしい! って、ホント、やめっ!」
「何やってんだ、テメェは!」
宣言通りに後輩の口に唇を寄せかけた東堂の頭を思い切り張り倒した荒北が、その身体を引きずり戻すと、自由を取り戻した真波は跳ね起きて距離を取り、福富の後ろに回って異様なハイテンションで笑い続ける東堂を恐る恐る見やった。
「東堂さん、自転車盗まれて壊れちゃったんですか?」
「いや、さっきまで落ち着いていたんだが……」
荒北と新開に取り押さえられた東堂が、ようやく笑いの衝動を納めた。
「どうした、尽八?」
「馬鹿だった、頭全然動いてなかった、ああもう、時間を無駄に使った!」
「落ち着け、このバァカ!」
取り出した携帯電話を振り回して騒ぐ東堂の頭を荒北が張り飛ばすと、ぽんぽん叩くなと文句をつけてから、開いた携帯電話で真波を指し示す。
「真波のバイクに、GPSを取り付けてある」
きっぱりとしたその言葉は、誰もが一瞬理解できなかった。
「じーぴーえす?」
「GPS」
平たい声で思わず問い返した荒北を、東堂が真面目な顔で鸚鵡返しに肯定する。
「GPSって、アレだろ。速度とか走ったコース記録する……普通のサイコン?」
速度や距離、ケイデンス数はGPSを連動させなくとも計測できるので、GPSを搭載したサイクルコンピューターを利用している者は部内にはあまりいないはずだが、それほど特別なものではない。
「なあ、東堂。なんか勘違いしてっかもしれねーけど、サイコンのGPSってのは居場所が分かるわけじゃネーぞ?」
それができるならば、盗まれた自転車がどこにあるか分かるのは確かだが。
一般的なサイクルコンピューターのGPSは走行ルートを記録するだけであって、現在位置を発信する機能はない。
「居場所が分かる方のGPSだ。子供や老人に持たせる、みまもりケータイというやつだな。今、その端末がどこにあるか、地図アプリ上でリアルタイムに確認できる」
「…………それを、真波のチャリに付けてンの?」
「そうだ」
「何で?」
「勝手にどこかに行くからだ」
何一つ恥じることはないと言わんばかりの堂々とした態度に、周囲の面々が一様に額を押さえた。
確かに、自由にすぎる真波はしばしば登校時に通学路を外れて坂を上りに行くし、授業を抜け出して自転車に乗って出てしまうし、部でも練習コースを無視して走りたい道を走りに行ってしまうのだが。
唖然としている真波の顔を見るに、当人の了承は一切取っていないものと思われる。
「な…んで、東堂さんがそんなことするんですか!? 何の相談もなく!」
「相談ならしたぞ?」
「誰と!」
「宮原さんと真波のお母さん」
珍しく逆上しかけた真波に、東堂は全く悪びれない。
「お前ときたら、勝手にどこかに行く、連絡をしない、帰ってこない。ご家庭と同級生の女の子と部活の先輩がそれぞれ、お前の居場所が分からなくて困るという問題で一致したんだ。高校生にもなって、小学生のような対処が必要と判断されたことを恥じろ」
きっぱりと言い渡して、なおも納得いかない顔の真波の頭に手を置く。
「それはともかく、これを使えば、今、お前の自転車がどこにあるか分かるぞ」
「っ!」
プライバシー侵害の問題をあっさり棚上げした東堂の言葉に、真波が息を呑んだ。
「窃盗団に見つかっている可能性はないか?」
「邪魔にならないように、サドルの裏に取り付けてあるからな、まず分からないと思うが、急いだ方がいいな。先生と警察の人に話をしてくる」
言って立ち上がりかけた東堂の手首を、新開が掴んだ。
「隼人?」
「真波のルックの周りに、みんなの自転車もあるよな?」
「おそらく」
うなずいた東堂の手を引いて、新開は深々と嘆息した。
「おめさんの人を人とも思わねえ性格に、こんなに感謝することになるとは思わなかったなあ……」
「含むところを感じんでもないが、存分にオレを賛美することを許そう」
「ん、チューしてい?」
「…………まあ、いいが」
「よくねーヨ! アホやってねーで、東堂はとっとと警察に話してこい! 新開は邪魔してんじゃねえ! つーかお前らの感情表現、明らかに日本人としてオカシーから!」
馬鹿なことで時間を無駄にするな、と荒北が二人を蹴倒して一喝すると、周囲の部員達から何故か拍手が上がった。
警察からGPSから特定された場所にて盗難にあった自転車の発見、及び容疑者の一斉摘発の成功の連絡があったのは、昼を回った頃だった。
トラック二台に乗せられていた自転車の全ての防犯登録番号が一致し、見つかったと聞いた瞬間の部員達の歓声は凄まじく、借りていた宿泊施設を揺るがした。
大人達が声を枯らしてようやく黙らせた時には、部員達は綺麗にインターハイメンバーとそれ以外に二分されており、真波と東堂を背後のテーブルの上に待避させて立ちはだかった荒北が無造作に部員達を蹴倒していた。
「……荒北」
「インハイ前にクライマー怪我させられちゃ、たまんないんで」
感極まった部員達に今回の功労者であるところの二人が、もみくちゃにされる前に回収していた荒北に、少し考えこんでから顧問教諭は口を開いた。
「お前も大変だな」
「ドーモ」
面白くもなさそうな顔で、部員達の間から一通り狂乱が去ったのを確認してから、テーブルの前から退く。
すると、ボディーランゲージではなく、言語を用いるという文化活動を思い出したらしい部員達が、神妙な顔でクライマー達の前に列をなした。
「真波、いつも俺らの言うこと一言も聞かなくてありがとうな!」
「学校も部活も平気でサボりやがって、マジで部ヤメロって思ってたけど、残っててくれて有り難う!」
「家が隣のいつも面倒見てくれる幼馴染みの女の子とか、どんなギャルゲって思ってたけど、心配性の彼女がいてくれてホントよかった!」
「一学期の間、東堂さん独占しやがって問題児ふざけんな、滅べって思ってたけど、今となってはもう、東堂さんのあのワケ分かんねえ加護だか過保護だかの人身御供になってくれてありがとう!」
「東堂さん、まじパないっす。後輩のプライバシー踏みにじって、全く気にしないその精神力、オレも見習いたいです」
「オレ、リアルで人に発信器取り付ける人、初めて見ましたー!」
「褒められている気がしないな」
「オレもですー」
結果的に通常ならば泣き寝入りするしかないところを、無事盗まれたものが発見に至ったことに関して、心から感謝してはいるが、前提としての不真面目な態度は褒められたことではないし、東堂の対処も何事も無ければ絶対に被りたくないのが真情である。
「もっと山神を崇め奉っていいんだぞ?」
「尊敬してなくはないんですけど、東堂さん、御利益より祟りの方が多そうなんですよねー」
クライマー達と部員達の珍妙な交流を横目に、教師は主将の福富を手招いた。
「状況を考慮して、自転車は今日中には返してくれるそうだ。あと、今回の件で警察から感謝状が出ることになりそうなんだが、代表で受け取ってくれるか?」
「それは、東堂と真波が受け取るべきでは?」
「遅刻とサボり癖の酷い部員と、だからといって本人に了解取らずにGPS仕込んだりする人間を表彰すべきだと思うか?」
「…………分かりました」
あっさりと折れた福富が、テーブルに近寄って、クライマー二人を引き降ろした。
「真波、いいか、オレは絶対に褒めていない。遅刻をするな、寝坊するな、寄り道をするな、ルートを勝手に変えるな、練習からちゃんと戻ってこい。授業をちゃんと受けろ、テストで赤点を取るな」
「褒めてないどころか、超説教タイム!?」
「東堂もその、もう少し目的のために手段をあまり気にしない性格は控えた方が良いと思うが」
「オレもか?」
どうして苦言を呈されているのか、あまり分かっていない真波と東堂を前に、福富は再度嘆息した。
「いいな、これは全く褒めていないからな」
再度念を押した上で、ありがとう、と渾身の力を込めて一緒くたに抱き込まれたクライマー二人は、顔を見合わせて笑った。
結局、自転車が所有者のところまで戻ってきたのは、夕方になってからのことだった。
特徴的な青緑色の自転車を受け取った荒北が、戻ってきたことに喜びを示す前にその場で機体の点検を始め、その様子を見た他の部員も慌てて愛車の点検を始めた。
ものも言わずに真剣な顔で自転車を精査していた荒北が、ようやく問題がないと納得し、壁に立てかけると、その場に頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「大事なビアンキ、無事だったか?」
今の今まで、気が気ではなかった荒北の周りから、ようやく険が消えたのを確認してから声をかけてきた東堂を、じろりと睨み上げる。
「何で睨むんだ! フクみたいに笑ってハグくらいしてもバチは当たらんぞ。隼人みたいに親愛と感謝を行動で示しても構わんし、泉田のように泣いて一生恩に着てくれてもいいというのに!」
「っぜ」
「うざくはな……」
言い返してくる前に、その腕を掴んで引き寄せて、力いっぱい抱き込むついでに耳元に口を寄せる。
「っ!」
反応は顕著で、大きく跳ねるようにして荒北の身体を突き飛ばし、距離を取った東堂の顔が真っ赤に染まった。
「お、ま……えはぁぁっ!」
「ナニ?」
「ナニじゃない! 何でこう……!」
「お前がしろっつったんだろーが、親愛と感謝を行動で表せって」
言われた通り、ハグをして、ありがとうの一言を珍しくまっすぐ告げて、ついでにリップ音までサービスしてやったというのに、文句を言われる筋合いはない。
「これだから荒北は嫌なんだ……。真波! 真波!」
「何ですかー?」
後輩を犬か何かのように呼んで盾にした東堂と、もうこれ以上何もする気のない荒北を見比べ、真波は小さく首を捻るが、特に三年生間の諍いに興味がなかったらしく、話題を変える。
「あのね、東堂さん。オレ、結構今回ゲンメツしたんです」
「幻滅?」
「東堂さん、いつもオレのこと見つけるからすごいなーって思ってたんですけど、発信器付けてたんだなーって」
点検ついでに見つけた、サドルの下に取り付けられていた子供用携帯を握りしめながら、口元を尖らせた後輩に、東堂が苦笑した。この小さな機体を後輩の幼馴染が作った巾着に入れて、お守りと称して常につけているようにと取り付けさせたのは東堂である。
「外は広いんだ、何の手がかりもなく見つけられるはずがないだろう」
「そうですけどー。学校の中でも、委員長が見つけられなくても東堂さん来るから凄いって思ってたのに」
「GPSは自転車にしか付けてないぞ?」
「え?」
「生身の方には何も仕掛けてない」
「あれ?」
そういえばそうだ、と気づいたようで真波は首を捻った。
「じゃあ、どうやって?」
「山神だからな!」
自信満々の物言いだが、これにも実は仕掛けがあって、東堂尽八という男は箱根学園において一種の学園アイドルの地位を確立している。
ファンや信者は、東堂が面倒を見ている真波という一年生の存在を気に掛けていて、その行方を必要に応じて逐一報告するのである。また、ファンとまでいかなくとも、端から見ている分には楽しく、明るく親しみやすい面白い男という評価を全校的に得ており、箱根学園の生徒過半数以上が彼の味方といって差し支えない。
少なくとも人捜しの手伝いに不自由はなく、東堂が真波を校内で見つけてくるのは人海戦術であり、どちらかというと荒北の方が勘で真波を見つけ出しているのだが、誤解させておきたいようなので、口を噤んでおく。
要するに、東堂は真波の神様でいたいのだ。
「そっか……じゃあいいや」
へらり、と笑った真波が、東堂の手を掴んだ。
「やっぱさっきのしてください」
「さっきの?」
「キスしてくれるって」
一瞬目を瞠った東堂が考え込む。
「さっきのはノリだからな。あの時のテンションがないと難しいが」
「えー」
「まあ、別にしてもいい……」
「ワケねーだろが! アホな真似ばっかしてんじゃねえ!」
どこまでもこの後輩に甘く、馬鹿な方向に突き進む素っ頓狂なチームメイトを後ろから張り倒す。
「さっきからポンポンと痛いだろうが!」
「テメェらは本当に常識を弁えろ!」
真波も真波だ、と睨み据えると、後輩は何故か嘆息して唇を尖らせた。
「荒北さんって、何で自転車は防犯できないんですか?」
「アァ?」
