強い日差しにアスファルトの表面が溶けて粘ついていた。接地したタイヤが糸を引くような、その糸に絡め捕られるような嫌な感触に、思うように車体が進まない。焦りながらペダルを回す背後から、泥濘のようになったアスファルトにタイヤを取られている自分を、何の苦もなく一人の選手が追い越して行く。
その、黄と赤の配色のサイクルジャージを思わず掴んで、驚いた。
振り返った選手の顔もひどく驚いていて、アイウェアの奥の見開かれた目と、一瞬見つめ合った。目が合った時間など、ほんの僅かだっただろうに、ひどく間延びした時間感覚の中で、取り返しのつかないことをしたことに気がついた。
違う、そんなつもりじゃなかった。やりなおさせてくれ。
焦りもがく気持ちに対し、時間は異常に間延びしているというのに、決して巻き戻らなかった。
破滅的な音が重なり合って二つ。
灼けた地面に肌が焦げる感触と共に、胸の悪くなるようなアスファルトの臭いが濃くなり、そしてそれを圧して鉄の臭いが広がった。
喉を抜けた己の声に驚いて、目が覚めた。
目を開けても閉じていた時と視界はさほど変わらず、暗闇の中、天井を見上げて荒くなった息を整える。
大声を上げたような気がしたが、実際にはほとんど音にもなっていなかったのだろう、耳を澄ませても深夜の寮はしんと寝静まっていて、福富の悲鳴に誰かが起き出してくる気配はない。
一つ息を吐き出して、汗にまみれた顔を手で拭う。
その手も冷たい汗に濡れていて、不快感は拭えなかった。顔を洗って水を飲んでこよう、と身を起こし、部屋を出る。秋も深まってきて、深夜のこの時間帯の廊下はかなり冷え込んでいた。消灯時間はとうに過ぎた時間なので、なるべく物音を立てないように階段を下りて、給湯室に向かう。
棚からコップを取り出して、汗で手を滑らせかけて焦った。
先に手と顔を洗うべきだと判断して、コップを傍らに置いて、流しの蛇口を捻る。冷たい水で汗を洗い流せば、少しだけ身にまとわりつくアスファルトの臭いする悪夢の残滓が失せた。
タオルを持ってくることを忘れたのに気づいたのはその後で、顎から水滴を滴らせながら一瞬悩み、まあいいか、とTシャツの袖で拭おうとしたところに、横からタオルが差し出された。
「こんな夜中に何をしているんだ?」
同時にかけられた声はよく聞き知ったものだった。
入学した頃に比べれば幾分低くなった声。背も伸びたのだろうが、福富も伸びているので目線が下になるのは変わらない。
同じ学校、同じ部活、同じ寮に入って一年と半年、今は自転車競技部の主将と副主将という関係だ。
「東堂……」
呼びかけると少し首を傾げた動作で、少し寝癖のついた黒髪がふわりと揺れた。再度差し出されたタオルを有り難く受け取って、水道水以外の水分も吸い取らせる。
「お前は、こんな時間にどうした?」
タオルに情けなく歪みかけた表情も吸わせて、東堂に向き直った時にはもう、荒北が鉄仮面と悪態を吐く顔になっていたはずだ。
福富とは対照的にくるくると表情を変えるが、時折自分以上に心の内を表情に出していないのではないかという疑惑を覚えさせる東堂は、トレードマークのカチューシャがないために落ち掛かる前髪をかきあげてにこりと笑んだ。
「喉が渇いてな、茶でも煎れようかと」
部屋からわざわざ持ってきたらしい小さな茶筒を振ってみせる。
「フクも何か飲みにきたのか?」
「……ああ」
大きさの割に何を見ているのか判然としない目が一瞬細められて、どきりとするが、その視線は福富の背後の電気ポットに向けられていた。
「じゃあ、フクも飲むか?」
あっけらかんと問われ、特に何を見透かしたわけでもないらしい態度にほっとしてうなずく。分かった、と笑った東堂が消灯時間に電源を抜かれたポットに歩み寄って、蓋を開けると、三分の一程残っていた中身をシンクに空けた。
湯気がもうもうと立ち上って、まだ十分に湯温はあったのだろう。そのまま沸かし直せば良かっただろうに、普段、周囲に年寄りかとからかわれるくらい、もったいないことをするなと寮生達の水の無駄遣いに小言を言う東堂にしては珍しい。
思わず、どうして、と問えば、水は汲みたての方がいいだろうと平然と返された。
水道水は汲みたてと言うのだろうか、と疑問に思うが、福富は荒北と違って東堂の言動の揚げ足を取ったりしない。正確に言うと、どの足を取ればいいのかよく分からないので、何も言わない。
黙って見守っていると、汲みたての水道水とやらをポットに入れて沸騰させた湯を急須と湯呑みに順繰りに入れているが、まだ茶葉を入れていない。
「……何をしているんだ?」
「湯を冷ましてる」
では何故沸騰させた、と思うが、やはり口には出さない。
しばらく時間をおいて、ようやく急須に葉をいれ、かなり温度が下がったと思しき湯呑みの中身を注ぐ。
また更に時間をおいて供された茶は、時間をかけた割には色が薄く、量も少なかったが、文句は言わない。
ありがとう、と呟いて一口含んで、衝撃を受ける。
予想通り、すっかりぬるくなった茶が口の中で不可解な味わいを広げた。甘いともしょっぱいともつかない、とろりとした液体はどこか磯の香りがする。これは本当に茶なのかと、横で湯呑みを傾けている東堂を振り返ると、不思議そうに目を瞬かせる。
「どうかしたか?」
「……いや」
東堂の表情は平然としたもので、啜っている茶の味に失敗したとは思っていないようだった。もしかすると、ハーブティーとかそういった類のものなのかもしれない。
女子のファンの多い東堂は、よく差し入れにカモミールだのラベンダーといった不思議な臭いのする茶ももらっているから、その中の一つなのだろう。確か、その手のものには、安眠効果などを謳ったものも多かったはずだ。
つまり、この不思議な味の飲み物は、東堂の気遣いなのだろう、と理解する。
先程、何も気づいていないと安堵したが、喉が乾いたからと降りてきたはずの東堂が、タオルを用意していた時点で気づくべきだった。
最初から、東堂は福富が悪夢に魘されたことも、その原因も、ずっと眠れていないことも知っていた。
「…………東堂」
呼びかけの後に続ける言葉を思いつかず、言葉を失した福富に、うん、と笑った東堂が手を伸ばしてきた。
「おかわりいるか?」
「…………もらおう」
やはり実は何も分かってはいないのではないか、と疑いを抱かずにはいられない、あっけらかんとした笑みに、福富は渋い顔で残りの茶を見下ろしてから中身を飲み干すと、その手に空の湯呑みを預ける。
二杯目は、少し熱くなって、茶の味がした。
その後も、真夜中に福富が起き出して階下に降りていくと、決まって東堂が後を追うように茶を煎れにきた。
話題は主将と副主将としてのものから、東堂のお気に入りのライバルの話を一方的に聞かされたり、そこから派生してライバルの所属する自転車部の話を漏れ聞いた。
ぬるい珍妙な味わいの茶を啜りながら、ぽつぽつと喋る福富の五倍を喋る東堂との深夜の茶会は、福富が悪夢に魘されなくなってからも、ふと眠れない夜に給湯室に向かうと、間を置かずに東堂が現れることで続いた。
福富と東堂の部屋は階も違えば近くもなく、よくも分かるものだと毎回不思議に思って、三年になってから一度だけ聞いてみた。
「山神だからな」
既に箱根学園最強のクライマーとしての名声を確固たるものとして、その誇大ともとれる二つ名を堂々と名乗っていた東堂の答えは全く説明にはなっていなかったが、あまりに自信満々で、つい納得した。
東堂尽八とは、そういう男だった。
「あたしぃ、日本茶とか好きでぇ、昔っからみんなに変わってるって言われるけどぉ、別にそんなことなくてぇ」
語尾に母音の多い発音は、高校の三年間で立派なエースアシストに成長したかつてのチームメイトを彷彿とさせたが、自己紹介の内容自体はもう一人のチームメイトを想起させた。
曰く、北陸の老舗の呉服屋が実家で、厳しく躾られたせいで、周囲から変わっていると言われることが多いが、自分は至って普通で、お嬢様などでもなく云々。
「寿一、それは比べちゃダメなやつだ」
ついに中学から大学まで同じ進路を歩むことになった新開が、隣の席から正確に福富の思うところを察知して釘を刺す。
「……駄目か」
「気持ちは分かるけどな」
福富の考えが分かっている時点で、新開も彼女の言動に同じ人物を重ね合わせたはずだ。
高校と同じく、大学も自転車部の強さが進学理由となった。高校時代と同様に大所帯の自転車部の歓迎会で、自己紹介が始まったところである。
マネージャー志望らしい女子の、頭に乗せたカチューシャで既に似ていると思っていた上に、自己紹介の説明が妙に元チームメイトと被るが、同時に全く合致せず、思わず頭の中で比較していたところを、新開に窘められたところである。
「……東堂は、自分を変わってるなんて思ったことはないだろうな」
「ないね」
思い起こすに、高校のチームメイトは実に非常に特異な性格をしていた。
「えー二人とも何の話ぃ?」
ぼそぼそと共通の友人についての所感を語り合っていると、件の女子が話しかけてきて対処に困る。新開に目を向けるが親指を立ててくる彼がこういった際に助けになったことはない。
話題に困って少し考えこんで、先程小耳に挟んだ彼女の自己紹介を思い出す。
「茶に、詳しいのか?」
「えー? まぁ、それなりにぃ?」
東堂ならば、何でも聞けと反っくり返っていたところだろうと、やるなと言われた比較をうっかりしがら、福富はかねてからの疑問を口にした。
「緑色で、甘い茶というのはあるか? ハーブティーだと思うんだが」
高校を卒業してしばらく口にしていない、あの真夜中の茶会で供された茶の味を思い起こしながら問う。あの茶を美味しいと思ったことはないが、最後には飲み慣れた。茶の種類が分かれば、自分でも煎れられるだろうかと、訊ねてみるが、彼女の回答は的外れだった。
「えー、抹茶ミルクとか好きなの、福富くん、かわいー」
求めていたのとは絶対に異なる答えに、福富は首を捻った。
「あ、悪い福富、ちょっと土産買いに寄っていいか?」
関西のレースに遠征に出た帰りに、部の先輩がそんなことを言い出した。
特に予定もなかったので、その買い物に付き合うと、ガイドマップを片手に京都の街を迷いながら辿り着いた先は歴史のありそうな老舗の茶の専門店だった。
そういえば、この先輩は茶が好きだという件の女子と付き合っているのだった、と思い出すと、羨ましいか、と威張られた。
基本的に表情に出している覚えはないのだが、皆慣れてくると福富の無表情を勝手に読んで会話を成立させてくれるようになる。
彼女への土産を真剣に悩みはじめた先輩を黙って待っていると、店員がよかったら、と上品な物腰で試飲の茶を差し出してきた。
礼を言って、薄い緑色の茶を口に含み、驚いた。
「うわっ、えっ、これ、なんすか? 出汁?」
同じく、差し出された茶碗に口を付けた先輩が声を上げるのに、ああ、と納得する。ずっとしょっぱいと思っていたが、これはむしろ出汁の味わいだ。
「玉露です」
京訛りでおっとりと応じた店員に、え、と福富も声を上げた。
「これが、玉露?」
そうですよ、とうなずく年配の女性は、茶を飲み慣れていない若者達に鷹揚だった。
「何度か、玉露だと言われて飲んだのは、こんな味では……」
「それは苦くてえぐみがあったんと違います?」
全くその通りの渋くて苦い味わいで、ちなみに隣にいる先輩の彼女が煎れてくれたものだった。
「それは、湯が熱すぎたんです。玉露は、ぬるいくらいの湯で、じっくりしっかり旨味を出さないと。丁寧にちゃんと煎れられたら、甘味と旨味が出るんです」
「……友人が煎れてくれたのは、いつも一杯目はこの味で」
上手く説明できずに途切れた言葉に、店員が笑って茶器を扱って、二杯目を茶碗に注いでくれる。
「二煎目はこの味?」
「……はい」
一杯目より短時間で煎れられた茶は、少し温度が上がる。
湯呑みを両手に包み込むようにして、真夜中に途切れ途切れの会話をした。
「その方、あなたのこと思って、大事に丁寧に煎れてくれはったんでしょうねえ」
「…………はい」
妙に口うるさい母親のようなところのあった東堂は、大きな茶缶を給湯室に常備させていて、ジュースを飲むくらいなら茶を飲めと、主に炭酸飲料を愛飲していた荒北に絡んではくだらない喧嘩をしていた。普段使いはその茶葉で、ごく普通の緑茶の味だったように思う。
真夜中に二人で飲むとき、そう言えば東堂は必ず自室から小さな茶缶を持参していた。
ハーブティーなのだと思い込んでいたそれの正体をようやく知って、福富は片手で顔を覆った。
「俺のことを、大事にしてくれてました」
知ってはいたが、改めて思い知らされて頭を抱える。
夜中にいつも気配に気付いて起き出して、とっておきの茶を黙って振る舞ってくれていた。何も聞かず、責めず、ただ寄り添ってくれていた。あの真夜中の茶の時間がなければ、たぶん自分はどこかで潰れていた。
自分は、その厚意に値する主将だっただろうか。
やりきれない気持ちを持て余して、握りこんだ茶碗の中に残った薄緑色の液体が細波立つのを見つめていると、店員はおっとりと笑んだ。
「なら、今度はあなたが煎れてあげはったら? きっと、喜ばれはりますよ」
言われて、淡い緑色の茶を改めて見下ろす。
喜ぶだろうか、と考えれば、嬉しそうな顔は容易に浮かんだ。ついでに、下手な煎れ方をしたならば、いいお茶が台無しだと説教を食らうであろうことも容易に想像がつく。
微苦笑して、福富は茶碗を盆に返してうなずいた。
「はい、煎れ方を教えてもらえますか?」
大学の寮に戻って、旅装を解く。
旅装と言っても大した荷物ではない。サイクルジャージと一泊分の着替えに洗面具だけだ。翌日洗濯するものをランドリーバッグに放り込み、洗面具などを所定の位置に戻し、いつもならそれで終わるはずが、今日は紙袋が一つ残った。
小さな紙袋は軽いものだったが、妙に存在感があって、机の上に鎮座したそれをじっと見つめ、やがて深々と息を吐き出した福富は携帯電話を取り出した。登録した番号を呼び出すとまたしばらく小さな液晶画面を黙って見下ろし、おもむろに発信した。
コールは数回。
『フクか?』
名乗る前に呼ばれてしまって、続く言葉を失した。
黙ってしまった福富に、電話の向こうで笑う気配があった。
『どうした、悩み事か? 新開に言えないということは色恋沙汰だな! よし、女のことならオレに任せろ! まずは彼女のスペックからだ。職業、年齢、グループカテゴリ、分かる範囲で言ってみろ!』
そういえば、彼はこういう男だった、と思い出す。
美しく気高く強く、そして美化した端から全てを蹴散らして邁進するような男だった。一学年下の黒田が、尊敬したいけど尊敬しきれないのに凄いのが困るなどと、複雑な心情をぼやいていたが、そういう人物である。
「茶を、飲まないか?」
一通り言いたいことを言わせて、息をついたところで、それまでに組み立てた台詞を告げる。
『ナンパか?』
「違う」
『では、その発言に至るまでの経緯を説明に付け加えるべきだな。オレと話がしたいので会いたい。まだ未成年なので飲酒は不可、故に喫茶店で待ち合わせよう、ということか?』
「いや、お前と茶が飲みたい」
ふむ、と考え込む気配があった。
東堂はその賑やかな言動から空気を読まないと判断されることが多かったが、実際には心を読まれているのではないかと思うほど察しがよかった。言葉の足りない福富を補佐して、少々過剰なほどに言葉を尽くして部を取り仕切るのを手伝ってくれた。
頭の回転が速すぎるのか、見当違いの方向に着地することもよくあったが。
今回は情報が足りないので、確実に素っ頓狂な結論に至ろうとしているだろうと察して、説明を足す。
「関西のレースに参加してきて」
『琵琶湖のだな、勝ったか?』
「ああ、チームのエースは表彰台に上げた。それで帰りに京都に寄って」
『京都か、どこかお参りに行ったか?』
「いや……」
高校時代なら、そろそろ荒北が怒り出して、福富が喋り終わるまで待て、と東堂に噛みついていた間合いだが、彼は静岡の大学に通っているので助けてはくれない。
「玉露を買ったんだ」
どうにかその一言をねじこむと、電話の向こうが一瞬黙った。
『煎れに行こうか?』
笑った声に、いや、と首を振る。
「オレが煎れる」
次の沈黙は先程より長く、その後の笑い声もより深くなった。
『分かった、茶に呼ばれるとしよう』
嬉しそうな声音に、喜んだ、とほっとする。
『フク、玉露苦手だったのになぁ』
「…………東堂」
しみじみと言われて、分かっていたのかと嘆息する。
ハーブティーだと思い込んでいたので、半ば薬だと思って飲んでいたが、甘いともしょっぱいともつかない不可解な味わいのぬるい茶を、美味いと思ったことはない。
「ドクダミ茶とかいうものがあるだろう」
『あるな』
「ああいうものの一種だと思っていた」
なるほど、と笑う声。
その声音からして、それ以外のこともお見通しなのだろう。
『買いかぶりだな!』
「……何も言っていない」
『オレが何でも分かっていると思っただろう?』
だから、そういうところを言っている。
ああいう山の妖怪いたよな、と昔ボヤいたのは荒北だったろうか。調べてみて、サトリという妖怪の名を覚えた。
「茶を……」
うん、と笑い声が相槌を打った。
「いつも煎れにきただろう。お前の部屋はオレの部屋から遠かったのに」
『ああ、不思議がっていたな。もちろん、種も仕掛けもあるぞ』
「……そうなのか」
『当時はもう、隼人も荒北もお前のことを過保護なくらい心配していてな。お前がうなされてるとか、夜中に給湯室に向かったとか、逐一メールで報告してくるんだ』
新開は二階の福富の隣室で、荒北の部屋は一階にあって、階段から給湯室に行く際は必ず前を通った。寮の壁は薄かったから、気を張っていれば福富の行動は筒抜けだっただろう。
『その上でどうしていいか分からんと情けないことを泣きついてくるから、オレが起きて茶を煎れに行ってたんだ』
「……そうか」
『がっかりしたか?』
神様でなくて、とからかう声に、見えないと分かっていても首を横に振った。
敏い副将は、電話越しでもそのくらいは見通すだろう。
「それは、最初の話だろう?」
『……ああ。数ヶ月したらお前もそれなりに落ち着いたし、あいつらもいつまでも神経尖らせてられないからな。代わりにオレが慣れて、そろそろかと見に行くとお前が給湯室で待っていた』
話し合いたいことがある時ばかりだったろう、と言われて思い返せば、後半は部内の人間関係や練習メニューの変更、インターハイの選抜といった課題があって、眠れない時のことだった。あの真夜中のミーティングで決まった方針も多い。
『フクも途中から慣れて、オレが話したいことがある時、気が付いて給湯室で待ってただろう?』
「……そう、だったか?」
そうだ、と笑う声が深い。
『あの時間に、オレがどれだけ救われたか、お前は分かっていない』
それはこっちの台詞だ、と言おうにも喉が詰まった。
いつの間にか握りこんでいた茶の紙袋に気づいて、一つ息を吐き出す。
「やっぱり、オレがそっちに茶を煎れにいく」
今度は、自分が彼に話しかけて、ぬるい茶を煎れるのだ。
