「あ、そーだ、フクちゃん。自転車どーやって返せばイイ?」
荒北のあっさりとした問いに、春めいてきた陽気に緩んでいた空気が凍りついた。
三月に入り、卒業式とその後の退寮日を間近に控えて、私物の片付けに勤しんでいた最中である。
狭い一人部屋だと言うのに、三年間に溜めこんだ物が後から後から出てくる上に、長い共同生活の間に互いの私物が紛れ込んでいたりする。これは集中して一部屋ずつ片付けていかないと埒があかないと意見が一致し、今は新開の部屋を四人で掘り返し、このTシャツは誰のだとか、お前がこの本を持っていたのかなどと、賑やかに騒いでいた声がぴたりと止まった。
東堂と新開が無言で顔を見合わせ、聞き間違いでないことを確認すると、それぞれ荒北と福富に目を向けた。福富は常の無表情を更に硬化させ、片割れが見つからない靴下を握りしめたまま動作を止めているが、対する荒北の表情はごく自然だった。左右非対称な笑みを浮かべて、発掘したシャツを畳みながら続ける。
「実家に送っちゃってダイジョーブ? でも、もう三月中に大学の寮入んだよネ、大学で使うならそっちのがイイ?」
「…………荒北」
ようやく重い口を開いた福富の声は、常よりも更に低く、平坦だった。
「何の話だ?」
「だからァ、ずっと借りっぱなしだったビアンキをどう返せばいいかって」
荒北がこの三年間自転車部で乗り続けてきたロードバイクは、元はと言えば福富のものだ。
それを勝手に持ち出して乗り出した荒北を自転車競技部に誘い、その後しばらく使っていた部共用の古いフレームの代わりに再度ビアンキを貸し与えて、今に至る。
緑がかった独特な青色のバイクは、既に荒北の愛車として周知されており、その貸し借りに纏わるエピソードを知っているのは、今ではもう同学年の人間だけだ。
既に譲渡がなされたものだと東堂と新開は思っていたし、おそらく福富の反応からしてもそのつもりだったのだろうが、荒北の中ではずっと借り物であり、返すつもりでいたのだろう。
「…………新しいバイクを買うのか?」
「いや?」
そんな金銭的な余裕はないとあっさりと返ってくる。
「なら、今後何に乗るんだ?」
「ナニって、別にオレ大学行ってまで自転車やるか決めてないけどォ?」
あっさりとら言い放たれた言葉に、今度こそ完全に空気が凍りついた。
感情が今一つ表れない福富の顔を、口の悪い荒北はよく鉄面皮と呼んでいたが、その硬化は今回全身に及んだ。完全に動作の止まった福富を挟んで、新開と東堂が素早く目を交わし合って互いの役割を無言で采配する。
「荒北、ちょっと顔を貸せ」
凍りついた福富をじっと見据えていた荒北が、東堂に腕を引っ張られて迷惑げな顔をしたが、逆らわずに立ち上がる。
「ナァニ、お説教?」
「いいから来い」
荒北の腕を掴んで廊下に出た東堂は、何も言わずに歩を進め、引っ張られた荒北もその手を振り払おうとはしなかった。
「どこ行くのォ?」
あの場から引き離すことが目的だったと分かっているだろうに、とぼけた声を上げる荒北に、東堂は小さく嘆息し、振り向きざま一際強く掴んでいた手を引っ張った。
細身の身体が傾いだところを、胸倉を掴んで引き寄せる。
「ナニ、随分と乱暴……」
続く台詞は口を塞いで黙らせた。
重ねただけの口づけをすぐに解くと、荒北が目を瞬かせた。
「顔を貸せと言っただろう」
「…………あ、そォ」
そういう意味になるのか、と首を捻った荒北から借りた顔を両手で挟みこんで、東堂は至近距離で嘆息した。
「説教するのも馬鹿馬鹿しい。フクをいじめるな」
「いじめてねーヨ」
「…………荒北」
カチューシャで露わにした額が荒北の額にこつりと押し当てられ、ごく至近距離で炯々と光る双眸に、決まり悪げに荒北は目線を逸らした。
「だって返さなきゃ、さァ……。今までは、福ちゃんのために走ってたンだから、借りモンだけど、ある意味福ちゃんのだったワケで……」
福富に拾われて、貸し与えられた自転車で、彼の勝利のために尽くしてきた。互いの大学が離れる今、もうそういうわけにはいかないのだ、としどろもどろに訴えた荒北に、東堂が苦笑した。
「お前は、本当にフクが好きだなあ」
くしゃり、と短い黒髪をかき混ぜ、小さな子にするように荒北を扱う東堂に、思わず口端を曲げる。この同い年の男は、普段の言動は子供じみているくせに、時折まるで大人のような顔をする。
「お前は何もフクに返せていないとでも思っているんだろうが、フクはもらいすぎたと思っているはずだぞ?」
相も変わらず、山の妖怪のように勝手に人の気持ちを読む。一つ嘆息して、荒北は至近距離にある顔を押しのけた。
「近ェよ」
「借りた顔だからな」
好きに扱っていいと貸した覚えなどないのだが、どうやら人の頭を玩具とでも思っているようで、両手を使って荒北の髪をぐしゃぐしゃに混ぜて遊ぶのをやめない。
「何がしてーんだ、テメェはよォ?」
「昔のお前が奇天烈な頭をしてたなーと思ってな」
後ろ髪まで前の方に流しているのは、入学当時の髪型を再現しようとしていたらしいと知って、荒北は渋い顔になった。福富に出会って自転車競技部に入るまでの荒んだ時期は、荒北にとって非常に苦々しい過去だ。
「あれはあれで可愛かったんだがな。風呂に入ると誰だか分からなくなるところとか」
「……オレ、お前にあの頃会ってたか?」
「学校でも見かけたし、寮でもたまにすれ違ってたぞ。あの頃のお前は生活態度が悪かったから、ほとんど時間帯が合わなかったが。顔は知っていたが、関わろうとも思わなかったしな」
入寮した当初は、ほとんど誰とも接することなく部屋に閉じこもってばかりいた。寮則の生活時間をろくに守っていなかったが、分かりやすく不良らしい外見をしていた荒北に関わろうとする者はなく、勝手気儘に過ごしていた。
運動部に所属して、朝から夜まで練習に費やしていた東堂とは生活時間そのものが違ったのだろう。東堂と同じ生活を送っていたはずの福富や新開のことも、自転車部に入ってから寮生だと気付いた。
彼らは彼らで、寮生活に馴染まず、悪目立ちしていた荒北のことを見知ってはいただろうが、強豪の運動部に属する彼らが荒北のような人種と関わり合いになろうとするはずはなく、交わるはずのない関係だった。
全く関わりのなかった連中と、気付けば私物が混じり合っているほど馴れ合って、何を間違えたかそのうちの一人と恋仲になったりしているのだから、人生はままならない。
その恋人は飽きもせず人の髪の毛をかきまぜて静電気を発生させており、何がしたいのだと手を振り払ってカチューシャを引き抜き、長めの黒髪をぐしゃぐしゃにしてやると、楽しそうにくすくすと笑う。
その肩に額を押し当てるようにして、荒北は深く息を吐き出した。
福富に出会わなければ、今ここで、こんな風に過ごしてなどいなかった。
「……やっぱさァ、オレ、福ちゃんに何も返せてねーヨ」
「そう思っているのはお前だけだし、そこでビアンキを返そうというのが見当違いなんだがなあ」
しょげた大型犬のような荒北の頭を腕に抱え込んで嘆息した東堂が、震えた携帯をポケットから取り出して開いた。
「新開からだ。フクの言いたいことがまとまったから、イチャイチャしてないで戻ってこいとさ」
「いちゃ……?」
「仕方ない、返却しよう」
借りた顔に手を当てて、東堂は荒北の目元に口づけた。
新開の部屋に戻ると、福富がいつも以上に硬い顔をして姿勢を正していた。その前に無情に荒北を押し出した東堂は、新開の横に腰を下ろして完全に傍観者の顔である。
「荒北、座れ」
「ン……」
神妙な顔で福富の前に座った荒北に、福富が深く息を吐き出した。
「自転車を辞めるのか?」
「……決めてねーケド」
「洋南の自転車部は強い」
「……ソーネ」
志望校を決める一つの要因ではあった。
「辞めるのか?」
「……辞めるっつーか、続けられるか分かんねーってゆーか」
この歳になれば、自身の捻くれた性格もいい加減把握している。大学の部の体質によっては馴染むことはできないだろうし、我慢しようにも進学先には福富がいない。
「続けるつもりが少しでもあるなら、あのビアンキをもうしばらく持っていてくれないか?」
「…………だけどさァ」
「頼む」
金色に染めた頭が深々と下げられて、荒北が思わず後ずさる。
「オレは、これからもお前と自転車で繋がっていたい」
真っ直ぐな言葉に、目を泳がせた荒北は傍観している東堂と新開に目を向けたが、二人ともニヤニヤと笑っているだけで助けてくれる気配はない。
「借りていてくれないか?」
「…………あー、うん、じゃァ、もうちょっと、借りとく」
がしがしと髪をかき混ぜながら、そっぽを向いてうなずくと、ほっとしたように福富が笑い、無責任な観客は大団円とばかりに拍手を送ってきた。
「良かった良かった。靖友が突っぱねたら寿一がヘコんで手付けられないからな」
「全く、手のかかる野獣だ」
「ッセェ!」
歯茎を剥いて怒鳴り散らすが、二人が全く恐れ入った様子はない。これ以上何を言っても、藪蛇になる可能性が高いので、先程部屋に放置していったペットボトルを拾い上げた荒北は、それを飲み干すことに集中した。
その意図的にシャットアウトした意識の外で、福富が東堂に顔を向けた。
「東堂もいいか?」
「オレもか?」
向いた矛先に笑った東堂が、膝立ちで福富の側に寄った。
「迷惑でなければ、お前にも何か貸したいんだが」
「何を?」
「オレの持っているものなら何でもいい」
繋がっていたいのだ、と不器用に示す福富に、東堂は少し考え込んでから顔を上げた。
「じゃあ、荒北を貸してくれ」
あっけらかんとした一言に、含んでいた炭酸飲料を気管に入れてむせかえった荒北へ一度目を向けてから、福富が困惑の顔を東堂に向ける。
「荒北は、オレの持ち物じゃないと思うが?」
「三年間、自分のアシストだと思い続けてきたくせに何を今更。荒北を拾ってきたのはフクだろう。つまりフクは拾得者として荒北から人生一割程度は請求できるし、今までそれを行使してきたじゃないか」
「……そういうつもりは」
「人生八十年として、一割分請求で八年。内三年はもう経ったから残り五年分か。一年分ほど借りていいか?」
福富の否定を聞かず、勝手に試算して打診する東堂の表情は晴れやかだ。
貸借対象の荒北は、まだ咳き込んでいて反論する余力がない。
「…………四年でどうだ?」
「福…ちゃ……ッ!?」
嗄れた声で驚愕する荒北を置き去りに、東堂はにこりと笑った。
「無利息なら」
「いや、取らんが」
「では決まりだな!」
高らかに宣言した東堂に、少し戸惑いながらも福富がうなずいた。
「東堂が持っていてくれるなら、安心な気がする」
完全に気のせいだし、全くもって不安しかない、と声もなく叫ぶ荒北の隣で、新開がやはり声も出せずに爆笑している。
「というわけで、荒北、お前のことはオレが四年間借りたからな!」
先程、荒北の頭を好き勝手に弄っていた時と同じ顔で屈託無く笑った東堂に、本人の意向を一切聞かずに貸与された荒北はゆらりと立ち上がり、そのカチューシャをした頭を鷲掴んだ。
「………………新開、ちょっと、このバカ、借りてくわ」
地の底を這うような声音の宣言に、新開は指先で銃口を作ると片目を閉じてみせた。
「尽八はオレのじゃないけど、いーよ?」
